第四章 月光菩薩が求めるものと鍛之介の決断(三)
昼、表向きは弁事として、月浄は寺を出た。冷たい風が月浄の頬を撫でた、十三湊は相変わらず、五月中旬を過ぎても中々温かくならなかった。
町屋を通ると、小菊に会った。小菊は海女の格好をしていたが、海から上がっているので、上に木綿の上着を着ていた。
服は完全に乾いているので。これから仕事なのだろう。
「あれ、月浄じゃないか。寺のお使いかい。月明は元気にしているかい」
「ええ、まあ」としか答えられなかった。
小菊が月浄を励ますように声を掛けた。
「どうした、元気ないな。何かあったのか、飯をちゃんと喰っているのか?」
月浄はとても人と話す気分ではなかったので、すぐに立ち去ろうとした。
小菊が何かを理解したのか、声を落として聞いてきた。
「ひょっとして、お前……。今のお役目なのか」
月浄が何も答えられないと、小菊が同情したような顔になり、小声で伝えた。
「お役目を告げるほうも辛いかもしれないが、伝えられる側は、もっと辛いんだぞ。でも、月明様は家に来た時、そんな顔をしていなかった。うまく言えないけど、月浄は月浄かもしれないけど、月明様にならなきゃダメだよ」
月明の偉大さがわかった。おそらく月浄自身、辛い顔をしないと、ついさっき心に決めたばかりなのに、他人から見れば、今とても辛い顔をしているのだろう。
でも、小菊の話を聞く限り、やはり月明は苦しくても、相手をできるだけ不安にさせないように、顔には出してはいなかった。
(拙僧には、できない真似だ)
月浄は合掌して、小菊と別れた。
月浄は鍛之介に以前、月光送について聞いた時、否定的な見解を持っていた。なので、鍛之介に番が周って来たとなれば、断ると思った。
明確に断らなくてもいい。暗に仄めかしてくれれば、強引に断りを取り付け、月読会で月光送の中止を、どうにか纏めるつもりだった。
月浄は心の中で決意を持っていた。
(師の最後の教え。それは、悲劇を繰り返すなという教えだ。月光送を拙僧の番で終わりにする勇気を持ってくれと、師は仰りたかったのだ)
月浄が鍛之介の家を訪ねると、鍛之介が出迎えてくれた。だが、月明が生きていて頃のような元気はなかった。月明が目の前でいなくなり、気落ちしているのだと思った。
胡蝶も台所の隅で魂が抜けたように座っていた。ただ、月浄を見る眼が、どこかしら恨めしそうに見ている気がした。
鍛之介は月浄を奥の仏間に上げると、鍛之介が熱い甘酒を持ってきてくれた。月浄が用件を切り出す前に。鍛之介は、喜びも悲しみもない表情で口を開いた。
「月浄。胡蝶の腹に、俺の子がおるらしい」
月浄は素直に喜んだ。
「それは、おめでとうございます。やっと念願の子ができたのですね」
鍛之介夫妻がなにより子供を欲しがっていたのを月浄は知っていたので、喜んだ。喜んだのだが、鍛之介は少しも嬉しくないようだった。
月浄は異変に気が付いた。胡蝶が顔を見せない。甘酒を持って来たくれたのも、胡蝶ではなく、鍛之介だった。
月浄がどうしたのだろうと思っていると、鍛之介が袖を大きく捲った。袖の下には三日月の御印があった。
「なあ、月浄。これが御印ってやつだろう。次の月光送は、俺なんだろう」
鍛之介に元気がなく、胡蝶が顔を見せない理由がわかった。せっかく子供を授かったのに、鍛之介が月光送になると知ったからだ。
月浄は、すぐに意見を述べた。
「鍛之介さん。月光送は、止められるのです。拙僧がどうにか止めて見せますので、気を落さないように。いえ、絶対に鍛之介さんを月光送にはさせません」
月光送が止められると聞いて、鍛之介が喜ぶと思ったが、鍛之介の顔は暗かった。
「いや、いいんだ。月浄、俺は月へ行く」
信じられない言葉だった。月浄はすぐに鍛之介を説得に懸かった。
「そんな、鍛之介さん。子供が生まれてくるんですよ。月へ行かなくて済む方法があるなら、行かなければいいじゃないですか。親子三人で暮らせばいいじゃないですか」
鍛之介は首を縦に振らなかった。鍛之介は陰りのある表情で、重く口を開いた。
「最初に月光送の扉を潜らなかったのは、俺の親父だった。親父は俺たち兄弟の前で灰になった。次は月明が、月への扉を潜らなかった。月明もまた、灰になった。俺まで月への扉を潜らなければ、今度は俺の息子、娘になるかもしれないが、俺の子が月光送に選ばれる気がするんだ」
月浄は鍛之介の言葉を聞いて、すぐに反論した。
「何を言っているんですか。月光送を止めれば、もう誰も月光送にならないんです」
鍛之介は険しい顔で反論した。
「甘いな、月浄。今まで月光送を止めようとした人間が、いなかったと思うのか。きっと、いた。でも、止められなかった。月光送は、そう簡単に止められる儀式じゃないんだ」
鍛之介に指摘され、月光送の止め方がどんなものか知らない事態に、月浄は初めて気が付いた。もしかしたら、月光送を止めるには、大きな犠牲が要るのかもしれない。
けれども、月浄の心は怯まなかった。どんな犠牲が必要とされようとも、月浄は月浄自身で払おうと思った。月光送が続けば永遠に犠牲者は出続けるのだ。月浄自身が人身御供になって済むなら、本望だ。
「鍛之介さん、弱気にならないで。月光送は、きっと止められます。いえ、拙僧が止めますから」
鍛之介は、どこか疲れたように口を開いた。
「月光送は結局は昔の誰かが始めた儀式だ。なら、いったん止めても、誰かがまた、始める。儀式が始まったとき、俺が月光送になっていなければ、きっと俺の子が選ばれる。月に呼ばれる人間は、血統で呼ばれるんだ」
月浄は、すぐに鍛之介に食って懸かった。
「そんなの、偶然ですよ。月に呼ばれる人間に血筋が関係しているなんて、そんな馬鹿な」
鍛之介が怖い顔をして、即座に言い返した。
「いや、わかる。俺は月明が灰に成った晩、次は俺じゃないかと予感があった。月明にしたって、きっと御印が出るのが予めわかっていたはずだ。月光の呼掛けに遭う人間には、わかるんだよ。いつぐらいに呼ばれるか。月に行かなければ、いつ灰になるか、虫の知らせがあるんだ。だから、俺が月に行かなければ、きっと俺の子供に、いつか番が回ってくる」
月浄は言葉を失った。
確かに月明の行動を振り返れば、次に月明が月光の呼掛けに遭うのを知っていたような節がある。
それに、今から振り返れば、灰になる正確な時間はわからなくても、大体の日時を知っていたように思えた。
月浄は「そんな、ばかな」と短く掃き捨てるように呟くのが、やっとだった。
鍛之介は、キッパリと宣言した。
「俺は、月へ行く。行って、月光菩薩様に頼んで、俺の子供に天寿を全うさせてくれるように頼む」
月浄は鍛之介を説得しようとしたが、鍛之介に先に頼まれた。
「もう、今日のところは帰ってくれないか。潮兵庫様から頼まれた鏃の注文が、大量に入っているんだ。俺が月へ行けば、収入が途絶える。俺は胡蝶のためにも子供のためにも、今はできるだけ銭を残さなければいかん」
鏃の注文が入っているのは本当だろうが、潮兵庫の注文は言い訳だと思った。
鍛之介は本心では月へなぞ行きたくないのだと思った。家族三人で鍛冶師を続けたいのだ。でも、月光の呼掛けに当ってしまった。
月浄は台所で見た、胡蝶の恨めしそうな視線を思い出した。
月光菩薩を恨もうにも、月光菩薩は近くにいない。近くにいるのは、月光送になった事態を知らせに来た月読の守人だけだ。
子供のように可愛がってもらった胡蝶から恨まれるのが、とても悲しかった。
月浄は鍛之介の家にいることで、鍛之介夫婦を苦しめると思った。
月浄は立ち上がって、涙を堪えて、月明に教えてもらった口上を鍛之介に伝えた。
「貴方様は月に赴く人間として、月光菩薩様に選ばれました」
そこまで喋ってだけで涙が出そうになって涙声になった。それでも、月浄は口上を続けた。
「次の十五日の満月の晩に、月へお迎えに上がります。日が暮れて、一刻ほど経つ頃に塔頭の前までお越しください」
最後まで言い終わると、月浄は泣きながら、鍛之介の家を走り出た。悲しかった、辛かった。月浄は月浄自身の手で鍛之介夫婦の幸せを壊したと思えてならなかった。
月浄は檀林寺とは逆方向に走っていった。途中、泣きながら走る月浄を振り返り見る者もいたが、気にしていられなかった。
土塁を超え港湾地区まで行って他人目に付かないところで、月浄は人に声を聞かれないように声を殺して泣いた。辛く苦しいが、もう慰めてくれる月明はいない。
月浄はひとしきり泣き終わって、檀林寺に戻ろうと、港湾地区を出ようとした。港湾地区を出ようとしたところで、着古された小袖を着た小菊とばったりと出くわした。
小菊が心配そうな顔をして、月浄に声を掛けてきた。
「月浄、お前、泣いていたのか? 眼が赤いぞ、先輩坊主にでも懲らしめられたのか」
月浄はできるだけ気丈に振舞おうと心がけて返事をした。
「いえ、十三湖を渡ったところにある檀家からの法要の帰りに突風が吹いたのです。その時に小さな砂が目に入ってしまい、中々取れず、ずっと涙が止まらなかったのです」
小菊が「どれどれ」と顔を近づけて、人差指と親指で月浄の瞼を押し上げた。小菊が目を細めて、月浄の瞳を覗き込んだ。
月浄は真相を悟られたくなかったので、黙って小菊の行為に身を委ねた。
小菊の顔は雀斑だらけだが、こうして間近で見ると、均整の取れた、好い顔立ちに見えたので、少しどきりとした。
小菊が月浄の瞼から指を離して、元気よく答えた。
「どうやら、砂は涙でちゃんと流れたようだね。小さな砂が目に張り付くと、本当に痛いからな。最悪、人に取ってもらわないと、中々落ちないし」
小菊はそこで寂しそうな顔をして付け加えた。
「そういえば、砂が中々とれなくて、おっとうに取ってもらったことがあったけ、おっとうは本当に目に入った砂を取るのが上手だったな」
月浄は月光送になった人間の話を聞いて鍛之介の身の上を思い出しまた、涙が出そうになったので、話題を変えた。
「小菊さんは、なんでまた港湾地区に? もう夕刻が近いですが、十三湖の向こう側に何か用があるのですか。でしたら早く用件を済ませたほうがいいですよ」
小菊は、あっけらかんと答えた。
「親戚のところに泊まるから大丈夫よ。親戚は猟師をやっているんだ。猟師の親戚が鍛治町に修理に出していた鉈が戻ってきたから、遊びに行くついでに、鉈を届けに行くところ。うまくいけば、猪鍋とか喰わせてくれるんだよ。猪の肉って、とっても美味いんだぞ」
小菊はそこまで言うと、ふっと視線を外し、意地悪っぽく、声を少し落として付け加えた。
「とはいっても、月浄には縁がない話か」
月浄はにっこりと微笑んで言葉を返した。
「そんなことはないですよ。拙僧だって生まれた時から僧侶だったわけではないですから。父上が武士として生きていた頃、最後に食べさせてくれた猪の味は、未だに忘れられません」
月浄の言葉を聞くと小菊はしんみりとした顔になった。
「そうか、月浄は両親を亡くした寺に預けられたのか」
小菊の言葉を聞くと、今度は月浄が鍛之介の子供の行く末を思い出し、月浄自身と重なり合って悲しくなった。
小菊とこれ以上ここで話しても、今の心理状態では互いの古傷を再び拡げるだけのような気がした。月浄は「あまり遅くなるといけませんので」と話を切り上げて寺に足早に帰った。
寺に帰ると、御住職の部屋に上がって、鍛之介が月の扉を潜ると申し出たとだけ伝えた。




