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由衣の冒険5  作者: 和瀬井藤
バニラ・スカイ 前編
34/43

 由衣は宣子と善彦を連れて、再び病院に向かった。

「善彦。あんたはこれと、それから……これと、これを持って行きなさい」

 由衣は、善彦に入院用の荷物を入れたバッグや紙袋をもたせた。善彦は黙ってそれを受け取った。

「行くよ」

 由衣は母と弟を連れて病院に入っていった。


「お父さん、気分はどう?」

 宣子は、光男の病室に入るなりすぐさまベッドに駆け寄った。病室は四人部屋で、光男は入ってすぐ左側のベッドである。

「おお、みんな来たのか」

 あまり表情が変わらない父だが、どこか嬉しそうな表情の様な気がした。

 少し雑談をしていると、そろそろ予定の時間が近くなって来たので、あらかじめ聞いていた診察室に向かった。


「——今のところ、問題はありません。検査結果が出るまでは断言できませんが、まずはひと安心ですね」

 医師の言葉に宣子は、笑みがこぼれた。

「よかったわあ、お父さん、大丈夫だって!」

「いや、大丈夫とまではいってないでしょ。今の所は問題ないっていってるだけで」

 もう完治したかのごとく言う宣子に、由衣がつっこんだ。

「お医者様が言っているのよ。もう大丈夫よ」

「いや、だから、大丈夫なんて言ってないって……」

 相変わらず話を聞かない母親に、由衣は少し呆れた。が、同時に母の嬉しそうな顔に少し安心もした。


 それから一週間が経った。今日、光男の検査結果が出てくる。それを聞きに、母と弟を連れて病院にやってきた。

 一昨日に病院に行った時は、光男はあまり病人っぽくないため、宣子は安心している様子だ。完治するのは、もう時間の問題だろうと思っている。

「どうも、早川さん。こちらにお掛けになってください」

 担当の医師はそう言って、自分も椅子に座った。

「ここ数日、とても良い状態で、我々も楽観視していましたが……場合によっては、あまりよくない症状があります……」

「……え?」

 宣子は医師の言葉に、目を見開いて言葉を失った。

 医師が言うには、光男の癌は、近年注目されつつある症状ではないかと言う。がん細胞が急激に活性化したと思ったら、すぐに沈静化するなど、不気味な発症をする。二年ほど前、イギリスで確認され、その後世界中で発症の報告が出てきた。

 この新種の癌は、悪化すると激痛がはしり昏倒するほどだが、沈静化すると苦痛はほとんど感じられないと言う。これらには波があり、悪化の際は厳しい状態になる事がある。特に他の病気を併発して死に至る患者が、海外ではいると言う。

 しかし、病状はそういうものであるものの、なぜか転移しにくく、そのため比較的治療しやすいと言われている。

「よくない症状ではありますが、通常の癌に比べて、むしろ完治の可能性がより高まっていると言えます。みなさん、安心してください」

 医師は笑顔を作り、治療に自信を見せた。

「よかった、そこまで深刻じゃなさそうだね」

 由衣は、隣に座っている宣子に向かって言った。しかし、宣子はあまり嬉しそうな顔をしていなかった。


「そんなに心配する事ないって」

 由衣は、病院からの帰宅途中の車の中で、宣子に言った。しかし、浮かない表情の宣子は、ふいにうつむくと、誰に言うでもなくつぶやいた。

「お父さん、大変な癌になっているって……」

「お母さん……」

「死んじゃうかもしれないって……」

「誰もそんな事は言ってないでしょ」

 むしろ治しやすい癌だと言うのに、全然話を聞いていないのか、と少し呆れる由衣。

「お父さん死んじゃったら……私どうしたら……」

 だんだんと涙ぐみ、オロオロし始める宣子。由衣は慌てた。

「大丈夫、大丈夫だって。絶対良くなるから!」

「……」

 由衣の声も、宣子にはあまり届いていない風だった。


 実家に到着すると、母を車から降ろした。善彦に命じて、意気消沈した母を介助させた。

「善彦、お母さんを部屋まで運びなさい」

「……」

 善彦は、のろのろと母の肩を支えて、玄関に向かった。由衣は、母のバッグから実家の鍵を取り出して、玄関を開けた。

 宣子を部屋のベッドに寝かせると、近くにあった椅子に座ってひと息ついた。

「由衣ちゃん」

「うん? どうしたの」

「……ごめんねえ。私、迷惑ばっかりで」

「しょうがないよ。でもお父さんは大丈夫だろうから、心配しなくてもいいよ」

「そうかしら……」

「そうだよ」

 それから、しばらく会話が途切れた。


「由衣ちゃん」

「――何か欲しいものがある?」

 由衣は言った。

「ううん、それはいいの」

「どうしたの?」

「あのね、由衣ちゃん」

 宣子は、言うべきか、言わないべきか、少し迷っている風だ。

「何かはわからないけど、とりあえず言ってみたら。どうしたの?」

「……もしよかったら、お願いがあるの」

 宣子は由衣の顔を見た。そしてすぐに顔を伏せた。

 由衣は訊いた。

「お母さん……じゃあ、何がしたいの?」

 しかし、宣子は何も答えない。顔を伏せたまま、じっとしている。どのくらいの時間が経っただろうか。ようやく宣子は、ゆっくりと口を開いた。

「由衣ちゃん……由衣ちゃんと一緒に暮らしいたい」

「え?」


「由衣ちゃんに、そばにいてほしい……一緒に暮らしたい」

 宣子の希望はこれだった。

 息子が苦しみの果てに、どうにか生きてくれた。順調に回復してくれた。可愛い少女になってしまったが、この子と一緒に老後を暮らせたらと、楽しい希望に胸を膨らませたが……一年も経たずに由衣は実家を出て行った。

 いつかはそうなるんだろう、そういう事も考えていた。しかし、こんなに早くそれが来ようとは。それでも、由衣がそれを望むなら、と諦めてきた。

 しかし、次男の善彦は、相変わらず仕事もせずに引きこもっている。それに今回の、夫である光男の入院が、宣子の心を折った。

 とにかく、何かにすがりたい、何かを心の拠り所にしたい、そう思っているのだろう。

 由衣は、それに対して返事する事ができず、ただ平静を装って母を家まで送るのが精一杯だった。


 由衣はマンションに戻ってきた。

「ただいま」

 由衣が靴を脱いでいると、奥から早紀がやってきた。

「お帰りなさい。お父様どうだった?」

「うぅん、まあ見た目は元気だね。あんまり癌っていう感じには見えないよ」

「そう、あまり悪くなってないといいわね」

 早紀の表情が明るくなった。

「そうだね」

 由衣は、そう答えて早紀と一緒にリビングに向かった。


 リビングのソファに腰を下ろすと、ふぅ……とひと息ついて、「早紀、何か飲みたい」と言った。

「はい、コーヒーを淹れておいたわ」

 早紀はすぐにコーヒーを持ってきた。それを由衣の目の前のテーブルに置いた。

 由衣はそれを手にとって、ひと口飲むと、再び「ふぅ……」と言った。早紀もソファに座ると、由衣を見て言った。

「お母様はどうなの? 昨日は取り乱していた様子だったけど」

「かなり深刻だね……なんていうか、情緒不安定という感じ」

「そう。辛いのでしょうね。何かできる事はないのかしら……」

 早紀は表情を曇らせた。それを見た由衣は、どうしようか、と思っている事を考えた。

 ――もう言うべきか。どうしよう。

 うつむいて、押し黙っている由衣に気がついて、早紀が訊ねた。

「由衣、どうしたの?」

「……いや、まあ……その。どうしたものかなって……」

「何かあったの?」

「……うん。ちょっと」

 由衣は、早紀の顔をみた。そしてゆっくり口を開く。

「――お母さんが……一緒に暮らしたいって、言っているんだ」

「一緒に?」

「……うん」

 早紀はじっと、俯く由衣を見た。その表情には、なんとも言えぬ難しい表情をしていた。早紀は、しばらく言葉を出せなかった。静かな部屋に重い空気が漂う。

 早紀は言った。

「お母様と一緒に暮らした方がいいわ」

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