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☆/蝉も寝静まる深い夜、姉弟、ふたりきり

〈 ☆ 〉



 蝉の鳴き声が聞こえる夕方。


「暑い……」


 俺は自分の部屋から一階へ下りてきて、台所に来ていた。お目当てはアイス。確かまだソーダ味のやつがあったはずだ。

 冷凍庫を開ける。


「……ないじゃん」


 体感温度が1℃くらい上がる。まあいいや、サイダーを飲もう。サイダーもなかった。1℃上がる。


「誰だよ大量消費してるのは……」


 そんなことを呟きながらリビングをのぞくと、案の定、アネキがそこにいた。床に寝転がっている。ひんやりしたフローリングの床が気持ちいいのかな。


 近づいて、「そんなとこで寝てると風邪ひくぞ」と声をかける。

 しかし、疲れていたのか、眠ったまま起きない。


 くすぐって日頃の鬱憤を晴らしてやろうか、とも思うけれど、そのときの俺はなんとなくそうする気にはなれなかった。

 あることを思い出したからかもしれない。


 それは一年前のことだった。






〈 ☆ 〉






 母さんまでもが死んだ後、俺はなかなか寝付けない日々を続けていた。

 法事やら何やらで疲れは溜まっていたはずなのに、布団に入っても目が充血する。毎日の睡眠時間は三時間以下になり、中学校も休みがちだった。


 姉貴はというと、いつもの調子で俺をからかったり、ずぼらに振る舞ったりしていた。かと思えば、父さんが死んでからは俺がやっていた料理を手伝ってくれるようになったりもした。


 姉貴は疲れを見せなかった。いや、高校から帰ってきて「つかれたー」「だりー」みたいなこと言ってソファに寝転がることは変わらずあったけれど、両親が二人ともいなくなったことによる重大な心労はこれっぽっちも見受けられなかった。


 俺はそんな姉貴を見て安心していた。

 姉貴はいつものようにでいてくれる。

 姉貴はどんな時だって俺を助けてくれるんだ。


 父さんと母さんがいないのは寂しいけれど、きっと天国で見守ってくれてるし、何より俺には姉貴がいる。






 そう言い聞かせて、その日の夜も自室で眠ろうとしていた俺だったが、結局は発作的な寂しさというか恐怖感に襲われた。

 思い出すのは、隣の部屋にいる姉貴のこと。


 昔はよく姉貴と一緒に寝ていた。のしかかられてよだれをかけられた日は姉貴のことが嫌いになったし、脇腹を蹴られてベッドから落ちて起きた夜は、姉貴の幸せそうな寝顔を憎たらしく思ったこともあった。寝言で「そーいちの意気地なし……」と侮辱されたこともある。


 それでもその時の俺には姉貴の温もりが必要だった。

 俺はベッドから立ち上がり、自室を出た。


 廊下。

 ちょうど隣の部屋から姉貴が出てきたところだった。


「……姉貴」

「宗一……?」


 しばらく見つめ合う。

 赤いストライプのパジャマ姿の姉貴は、ちっとも眠そうにしていなかった。


 あのさ、という声が重なる。俺は口をつぐんだ。こういう時は必ず姉貴に先を譲っている。姉貴はためらいがちに口を開いた。


「……一緒に寝ようぜ」






 姉貴の部屋に入るのは久しぶりではなかったけれど、夜、ライトスタンドのぼんやりとした光しかないその部屋は小学生以来だった。姉貴はさっさとベッドに横たわり、無言のまま体ごと動いて壁側を見つめる。


 俺はそっとベッドに座り、掛け布団の下に体を滑り込ませた。


 姉貴の匂いがする。いい匂いと言うのは気恥ずかしいけれど、でも不快ではなかった。


「宗一」

 向こうを向いたままの姉貴が小さく呼ぶ。


「なに?」

「実の姉のベッドに入ってくるとか変態かよ」

「帰る」

「ははっ、嘘だよ、じょうだん」

「……わかってるよ」

「そうか」

「……」


「で」


「?」


「最近どうだ?」

 静かな夜だから、姉貴も声をひそめている。


「どうって」

「立ち直れそうか?」

「…………」


 もぞもぞと布団が動き、姉貴が寝返りを打ってこちらに顔を向けた。

 強気そうなツリ目がぴたりと俺の目を見る。


「おれはさ。おまえよりお姉さんだから、いろんなことに耐えられるんだ。けど、おまえはまだ中学生だからな。つらいだろ」

「…………」

「大丈夫だ、きっと乗り越えられる日が来る。おれが乗り越えさせてやる。で、一緒に同じ高校に行こうぜ。大学とか就職先は違うだろうけど、これからも二人一緒だ」

「…………」

「心配しなくても、おれはいなくなったりしねえからな。おまえより先に死んだりしない。おれが老衰で死ぬ前に、寿命でちゃちゃっと死んじまえ。見守っててやるからさ」

「……姉貴」

「だからな、おれは……宗一?」


 俺は小さい頃に姉貴と一緒に寝て、いろいろ迷惑をかけられた。

 それでもその頃の俺は自分から姉貴の隣で寝たがっていて――それはきっと、姉貴のことが大好きだったからだと思う。


 凛々しくて、いつも心に太陽みたいなあたたかさをくれる姉貴のことがその時も大好きだったし、今も……そうだ。


 俺の顔を見てしばらくきょとんとしていた姉貴は、くくっと笑った。

「バーカ、泣いてんじゃねえよ。男だろ? あーもう、よしよし。今夜はお姉さまが傍にいてあげまちゅからねー」


 うるさい、と蚊の泣くような声で呟き、姉貴に優しくされるがままの俺。

 姉貴は俺の額に額を合わせ、俺の頭の後ろをさするように片腕を回した。


 蝉も寝静まる深い夜に、ふたりっきりだった。






〈 ☆ 〉






 あれから一年後。夕方のオレンジと、哀愁を呼ぶ午後五時のチャイム。

 俺はフローリングの床によだれを垂らして幸せそうに眠る姉貴を、しばらく眺めていた。


 ……きっとあの夜があったから、挫けても立ち上がれたんだと俺は確信している。

 そして、廊下で会った時の、珍しく寂しそうな表情をしていた姉貴のことを勇気づけられていたらな、とも思っている。

 姉貴もきっと、あの頃は、つらかったんだろう。


「宗一の意気地なし……」


 寝言が聞こえた。はっとして姉貴を見ると、姉貴の顔は夢の中で俺をいじめている顔だった。


 呆れて、はあ、とため息をつくと、俺は姉貴を持ち上げてすぐ脇のソファに寝かせた。いつぞや誰かが使ったタオルケットがあったので、それをかぶせる。

 なんとなく、ありがとうと言ってみる。






 直後、「あづい~!」と唸りながら姉貴はタオルケットを吹き飛ばした。そしてまた静かに寝息を立て始める。イラっとした俺はそんな姉貴の細い脇腹をくすぐった。これ以上ないほどくすぐってから、逃げた。やってやったぜ。これで今までの分はチャラにしてやんぜ! すぐ捕まって逆襲の逆襲されたけど! 姉貴は寝ぼけながらも、楽しげに笑っていた。

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