♡/ふたりっきりの保健室
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今年の夏は男だけ上半身裸で過ごすスーパークールビズを実践するべきなのではないか、とすら思える暑さだ。まだ初夏のはずだが、カレンダーが嘘をついているのかもしれない。
球技大会前日。俺はグラウンドの隣にあるバレーボールのコートに足を運んでいた。俺と同じ実行委員である女子の先輩に連絡事項があるためだ。
そこでは何人かの女子の先輩がバレーの練習をしていた。
この高校の球技大会は良い意味でも悪い意味でも運営などが雑で、委員会だけでなく生徒にもさほど意気込みというものがない。それに加えて今日は初夏の割に暑いため、どうやら一つのクラスしか練習していないようだった。
秋の文化祭や体育祭は盛り上がるらしいのになと不思議に思いつつ先輩のところへ行く。二人で競技の人数の割り振りなどを確認し終わると、さっさと日陰に避難しようとその場を立ち去ろうとする。そこで呼び止められた。
「弟くん、今日暑いねー」
愛姉だ。首にかけたタオルで頬の汗をぬぐっている。
「なんか今までバレーの練習してなかったのに、前日になってみんなちょっと焦り始めたみたいでさ」
「うん」
「あ、ごめんね、今大丈夫?」
「忙しくはない」
「じゃあ、日陰に行こっか」
コートの外にはすぐ木陰がある。そこのベンチに愛姉は座った。
俺は立ったまま、手に持った資料入りのクリアファイルで愛姉をあおいでやる。
「はー、熱風だー」と言いつつも目を細める姉さん。体操服が汗でぺったりと肌に張り付き下着が透けていることに俺はやや動揺する。
三年前とは違い、響などと比べて遥かに大きく成長した胸の形や、つやつやと濡れた髪の毛に、どぎまぎしてしまう。
「ほら、わたし、運動がそんなに得意じゃなかったじゃない?」
「姉貴と比べるから得意じゃないような気がするだけだと思う」
「そうかな? 響はスポーツの天才だからね。あの子怪我もしょっちゅうしてたなあ。そのたびにわたしが応急処置してあげて」
「愛姉が沖縄行ったせいでその役は俺になっちゃったよ。面倒くさかった」
「こら、そんなこと言わないの」
愛姉が立ち上がる。
「よーし、練習しな、きゃ……あれ」
ふらついた愛姉の体をとっさに支えた。
直接触れて改めて感じたが、汗をかきすぎている。熱中症の初期段階だろうか。
愛姉の状態を見た三年生たちが寄ってきて、心配そうに声をかけてくる。「俺、この人の幼馴染なんで」と、宗一は愛姉を保健室まで連れて行くことにした。
三年生の女子たちはゆっくりと歩く俺と愛姉を追いかけてくる。どうやら練習は終わりにするらしい。口々に気遣いの言葉を投げかける先輩たちと、それに応える愛姉。姉さんがクラスに馴染めているらしいことには安心しつつ、保健室へ急ぐ。
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「ごめんね、弟くん。突然よろけたりして」
「いや」
愛姉が横たわる保健室のベッドの隣に椅子があるので、座る。
さっき、女性の養護教諭が愛姉の手当てをした。安静にしていれば治るそうだ。
そしてなぜか一緒にいた生徒指導の宵ノ口先生に「あなた、この子の彼氏?」と訊かれた俺は、気が動転して意味もなく三回ほど立ったり座ったりを繰り返した。宵ノ口先生は悪戯心が芽生えたような含みのある微笑を向けてきて、どうしたことか養護教諭と一緒に保健室を去っていってしまった。意味がわからない。
本当に意味がわからない。
「でも、大丈夫だよ」
若干疲れたように、それでもにこりと笑う愛姉。
「ちょっと目まいがしただけだから」
「まあそうかなとは思ったけど、暇だし、ここクーラー効いてるし。もう少しいるよ」
「あはは……ありがと。先生は職員室行っちゃったし、二人っきりだね」
二人っきりか。
二人っきり。
目を泳がす。ぴくっと手先が震える。口の中の乾きを感じながらも、感情を込めずに言った。
「そうだね」
「それにしても、けっこう、弟くんも成長してるんだね」
「成長?」
「体つきが。男の子、の『子』を外して呼んだほうがいいかも」
愛姉は少しぼんやりとしたまま俺を見上げる。
「さすが陸上部、筋肉質だったな。ちょっとドキっとしちゃった」
「それを言ったら愛姉だって……」
「ん?」
「なんでもない」
「ん、顔がちょっと赤いよ? 弟くんも水分補給しなきゃ」
「そうしようかな」
愛姉の隣から離れ、紙コップに水を汲んで飲み干した。
どうやら成長したのは体だけではないことを、愛姉は知らないようだ。姉さんが持つ俺のイメージは、離ればなれになる前から変わっていない。未だに俺のことを子ども扱いしている節があるのだ。
もう少し精神的に頼りにされるようになろう、と決意をするが、どうも昔からの愛姉像が大きすぎて、なにをしても「ほら、そんなんじゃ一人前になれないよ?」と指で突かれたりするような未来しか見えない。
ぼうっと自分の手を見つめて、愛姉の体柔らかかったな、と考えていると、愛姉像が「もう、年頃の男の子でも、あんまりそんなことばっかり考えてちゃだめだよ!」とデコピンしてくるので、それを振り払うかのように勢いよくもう一杯水を飲み干し、むせた。
「弟くん? だいじょうぶ?」
「ん、ああ、大丈夫。どう、楽になった?」
ベッドに近づき椅子に座ると、愛姉が微笑んだ。
「えへ、嬉しいな。こうやって弟くんがわたしを気遣ってくれると、すごく安心する」
「俺も、愛姉が俺に気遣われてくれてると、逆襲って感じがして気分がいい」
「えー、なにそれ。そっか、昔は弟くんが風邪になったとき看病するのはわたしの役目だったもんね」
「今はニゴ姉がそういう面では俺たちの支柱だな」 「ニゴお姉ちゃんってなんで背中にゼンマイ付いてるの?」 「それはシャロ姉の趣味が……」 雑談を続ける。セミの声が涼しい保健室にも届いている。




