◇/淫らなまゆらの隠し味
〈 ◇ 〉
土曜の昼。
二階の自室から一階へ下りると、トマトの香りが鼻をくすぐった。どうやらニゴ姉が昼食を作ってくれているらしい。
台所の横を通り過ぎ、リビングに足を踏み入れようとして、
「ん?」
違和感を覚えたので台所を覗き込む。
ラジオにクラシックを演奏させ、ブルーの生地にホワイトの縦線を入れたスマートで可愛らしいエプロンを身につけ、紫色の長髪を後ろで縛って包丁をリズミカルに鳴らしているのは……
「おや、宗くん。今日の昼食はヴォンゴレ・ロッソだよ」
「ニゴ姉がでかくなった」
「フフ、意外かな? まゆらお姉さんがこうして料理をしていることが」
ゆら姉は優雅に微笑んで、「もうしばらくかかるからソファで休んでいるといい」と言ってくれる。けど俺は立ち止まってなんとなく姉さんを眺めていた。
エプロン姿のゆら姉はいつもより家庭的なのに、良家の令嬢然とした雰囲気を一切崩していない。すらりとした姿勢、淀みのない手つき、しっとりとした眼差し。俺が執事なら「お嬢様……自らお料理をするほどご立派になって……」とホロリ涙を流すところだ。
「宗くん、私の身体がそんなに気になるかい? やはり裸エプロンにするべきだったろうか……」
「執事が別の意味で泣くよ!」
なんとかエプロンと聞いて、エプロンの下から過剰に自己主張するゆら姉の胸のことが気になりだしてしまい、それを振り払うようにさっさと離れてソファに座る。
適当に謎のイカがペンキを塗りたくりあうテレビゲームでもやって待つことにした。
〈 ◇ 〉
ゆら姉の作ったアサリとかトマトとかのパスタの美味しさに感動した後、俺は自室で考えていた。
あの姉さんにはできないことはないのだろうか。
もちろん、運動ができないことは知っている。シャロ姉のように凄い機械の開発をすることや、秘姉のような影分身の術ができないことも知っている。
けれど、ゆら姉は天才だ。学問、芸術、歌唱、ゲーム、雑学と、他人より遥かに秀でている点は枚挙に暇がない。その上、作る料理も絶品だと判明した。異次元級の美貌や恵まれた体つきといい、一体ゆら姉は何者なのか。
そう思いながらぼーっとしていると、ゆら姉が自分の部屋に入るかのように俺の部屋へ入ってきた。
「宗くん、借りていた漫画を返しに来たよ」
「ゆら姉さ」
「なにかな?」
「なんかできないこととかないの?」
ゆら姉は小さなあごに人差し指を当てて考える。
「ふむ……。毎日しているけれど、一日に二回以上はできないことならある」
「それって?」
「宗くんが休日にはたまに二回やったりすることだよ」
俺はそれが何かを考えた。それを言うのがゆら姉であることをヒントに結論へ辿りつく。
「待って。この話はやめようっていうかなんでゆら姉俺のこと知ってるんだよおかしいだろ」
「大丈夫だよ。私がする場合は宗くんのことしか考えていないから」
「話逸らすなよ……」 「ん? 私が宗くんの部屋をときどき扉の隙間から密かに覗いていることがどうかしたかな?」 「話を逸らせ!」
ゆら姉はクスッと笑って俺のベッドに腰掛ける。机の椅子に座っている俺はため息をついた。
「……なんかさ、別に欠点探したいわけじゃないんだけどさ。ゆら姉って何でもできるから、逆にできないことを知りたいって思ったんだ。運動以外で」
ふむ、と上品な仕草で思考を巡らす姉さん。
すぐに思いついたのか、こちらを見て口角を上げる。
「できないことならたくさんあるけれど……。そうだね、私は」
姉さんはやや目を伏せる。
「何かを好きになることができなかったんだ」
ゆら姉は天才であると同時にオタクだ。アニメや漫画やライトノベルのグッズをよく集めていて、好きな作品は百にも上るらしい。
「……そうは思えないけど」
「本当さ。私は何か一つのことに情熱を注ぐことができなかった。幼い頃から大抵のことはできたという理由もあるかもしれないけれど、それ以前に、私はいつもクールでいさせられたんだ。オタク趣味に対しても、自分で『私はこれが本当に好きなのだ』と納得できるほどの愛情は持てていない」
「ゆら姉」
「でもね、宗くん」
姉さんはベッドにあった俺の枕を胸に抱いた。
「そこに宗くんが現れたんだ」
「枕の匂い嗅がないでくれる」
「宗くんが現れて、私は初めて好きなものができた。実はね、宗くんが私を知らない頃からずっと、私は宗くんのことを知っていたんだよ」
「そうなの?」
「そう。そして宗くんのことが段々好きになっていった。だから宗くんは、私に情熱と愛情を教えてくれた最初の人なんだよ」
ゆら姉は優しく微笑んだ。優しく微笑みながら枕に顔をうずめて深呼吸をした。台無しだったけど、照れ隠しなのかなと思うと少し愛おしくなる。
俺は「そういえば」と話を変えた。
「ゆら姉の作ってくれたパスタ」
「うん?」
「めちゃくちゃ美味しかったから、また作ってよ」
その言葉にハッとした姉さんは俺の枕を抱いたままベッドにうつ伏せになり、「んー!」と唸りながら体を激しくバタバタとさせる。それから何事もなかったかのように元の体勢に戻ると、ミステリアスに含み笑いをした。
「フフ……隠し味に混ぜた私のアレが効いたようだね」
「ゆら姉はマジでなんか入れそうだからやめて」
いつもの会話をする俺たちに、窓から陽が差し込んでくる。そろそろ昼寝をしてもいい。




