□/コンピューターウイルス性風邪症候群
〈 □ 〉
シャックシャック。
自室で床にあぐらをかき、俺はカキ氷を食べていた。時刻は午後六時。風呂上りなのでちょっと寒くなってくる。夏風邪を引いてはたまらないので服を着た。
と、部屋の扉が突然開く。
「そぉいちさぁん」
誰かと思った。
気の抜けた声を発して入ってきたその何者かの姿は、幼稚園児並の背丈、おかっぱの銀髪、メイド服。
「ほぇぇ……ばんぐらでしゅ……」
たぶん、ニゴ姉の偽物だ。
「……どうしたの、量産型ニゴ姉」
「ふにゃぅ……そぉいちぁぁん……」
ポンコツと化したニゴ姉はよろよろと歩いてきて、床に座っていた俺のところへ倒れこむ。何が起きているのか全くわからないけど、とにかく俺はその小さな体を受け止めた。
「んにゃぁ……」
胸に頬をすりすりしてきて、どうしたらいいのかわからなくなる。
「ニゴ姉、本当にどうしたの? おかしいよ」
「ふぇぇ……」
「ていうか本物? きみ、名前は?」
「たまりじょうゆ……」
「……誕生日は?」
「ごりら……」
「お気に入りの作家は?」
「はげてる……」
作家もいろいろ大変だろうし、禿げても仕方ないな、とは思った。
俺はまだ勤務中のシャロ姉に電話をかける。笑い話で済めばいいけど、取り返しの付かないことになったりしたらと心配だ。
シャロ姉が出るのを待ちながら、体重を預けてきたままのニゴ姉へ再度声をかける。
「じゃあ俺のフルネーム、わかる?」
姉さんは顔を上げ、焦点の定まらない目で、しかし微笑みかけてくれた。
「ひととき……そぉいち……」
「それはわかるのか……あ、もしもし」
『もしもし、宗ちゃん? どうしたの?』
「仕事中にごめん。ちょっとニゴ姉がおかしくてさ」
『ニゴちゃんが?』
ニゴ姉は俺から離れ、歩けるようになったばかりの赤ん坊かあるいはゾンビのような足取りで部屋を動き回り始める。
俺はそれを眺めながらシャロ姉に説明した。
「っていう感じなんだけど」
『ふぅん……たぶん、風邪を引いちゃったんじゃないかしら』
「風邪?」
電話の向こうの姉さんはいつもの柔らかな声色だ。
『ニゴちゃんね、うちに繋いでるインターネットにおかしなところがあると自動的にそれを解消してくれてるの。うちのどこかのパソコンにコンピュータウィルスが感染しようとしてきたら、それを取り込んで壊してくれるのよ』
「つまりコンピュータウィルスを取り込みすぎて体調を崩したってこと?」
『そう。自己修復機能が正常に働けば三分もあれば治るけど、お姉ちゃん念のため仕事早く切り上げるね?』
「うん。ありがとう。それじゃ」
電話を切ってニゴ姉を見ると、アザラシの子供か何かみたいに床をころころと転がっていた。背中のゼンマイが邪魔そうだ。可愛い。
でも、どうしようか。このまま待てば治るらしいけれど、なんだか逆に治ってしまうのがもったいないような気がしてきた。
思いついて、スマホのカメラを起動する。
半開きの口からよだれを垂らしながらキョンシーのように歩き回ったり、とろんとした目で何もない空間をじっと見つめたりするニゴ姉をパシャパシャ撮っていると、姉さんはこちらに近寄ってきた。
「あそぶ……」
「え? 遊びたいの?」
ぽやーっとした姉さんは、あぐらをかいた俺の脚に座った。小さな体がすっぽりはまる。
「ニゴ姉?」
「ん」
「……?」
「んー!」
唸りながら膝をぺちぺち叩いてくる。何かして欲しいのだろうとはわかったけど、何をして欲しいのかわからない。戸惑っていると、ニゴ姉は座ったまま跳ね始めた。痛い。
「んーんーんー!」
「なんなんだ……ああもう、ストップ!」
痛みに耐えかねて後ろから姉さんの肩を掴むと、唸りと動きが止まった。「わへー」とか幸せそうな声を出している。これが正解らしい。
「そぉいちひゃん」
「なに?」
「だいすきごっこ」
この行為はんーんー語で“だいすきごっこ”というらしい。よくわからない。
ニゴ姉はメトロノームのようにゆっくりと揺れ始めた。俺も手を姉さんに合わせて動かす。華奢な肩は手のひらにすっぽり収まっている。やがて姉さんは調子の外れた歌をうたい始めた。
なんだか幼稚園児と遊んでいる気分になってきたが、そうこうしているうちに三分が経った。
姉さんが突然すっくと立ち上がる(立ち上がったところであまり高さは変わらない)。
「宗一さん」
「お、戻った」
「よく聞いてください」
「うん」
「今ニゴがしていたことはつまりこうです」
ニゴ姉は背を向けたまま言う。
「左右に揺れることでカオス的現象における初期値敏感性すなわち初期値のずれが結果に及ぼす量子力学的効果の――」
「可愛い歌だったよ」
「……っ! ……宗一さん」
「うん」
ニゴ姉は涙を散らすようにして振り返り、俺をきっと睨んだ。
「今ニゴがやっていたことを他の誰かに言ったら、ニゴはその瞬間から宗一さんを弟と認識してあげませんからね……!」
それはとても嫌なので俺はひたすら謝り、誰にも言わないと誓った。ニゴ姉はそれをすぐに信じてくれた。姉さんが去った後、思い出してスマホの中の写真を見る。とても可愛いちびメイドロボお姉さんが映っていた。俺は新しく“宝物”というフォルダを作ってそこに入れる。




