▽/姉弟あるいはバカップル
〈 ▽ 〉
朝。
県立優丘高校、1-B教室。
少し早めに登校してきた俺は、窓際の席でぼーっと外を眺めていた。
同じ係でペアになったクラスメイトが休むと聞き、普段はそのクラスメイトに任せている仕事をするために早く来たのだが、仕事を終えると暇になった。よく話し相手になる友人たちはまだ部活をしているらしい。
俺もたまには陸上部の朝練に顔出そうかな、などと思っていると、窓の外の花壇に見慣れた人影が見えるのに気づく。
ここは三階。花壇は斜め下に見える。遠い感じはするが、声をかければ意思疎通が取り合える距離だ。
そしてそこにいたのは、制服姿の華奢な少女。
秘姉だ。
ポニーテールの黒髪をぴょこぴょこさせながら、じょうろで花壇に水をやっている。
そういえば、秘姉はときどき我が家の庭の手入れをしていた。そのときに、学校の花壇のお世話もしてるんだ、と言っていたような気がする。用務員の人の仕事を取ってしまっていいのだろうか。
蝶にかからないようにと気を遣いながら水やりする小柄な姉さんを見つめていると、クラスの女子の会話が耳に飛び込んでくる。
「ねえねえ知ってる? この学校、くノ一がいるらしいよ!」
「まさか、マンガじゃないんだから」
「それが本当なんだって! 気配を絶ったり、目の前から忽然と姿を消したり、職員室に入る前に手のひらに何か文字を書いて忍術を使ったり!」
「それ、職員室入るの緊張して手に『人』の字を書いてるだけの、地味でシャイな人なんじゃないの?」
(言われてるぞ秘姉……)
確かに秘姉は目立たない。ちょっと臆病なところもある。
けれど、地味でシャイだからこそ弱いものの気持ちがわかるんだ。それに本当は勇敢だ。コンビニで買い物するだけでびくびくしたり、職員室に入る勇気もないかもしれないが、人への気遣いはできる。それは、他人の領域に踏み込む勇気が要ることだ。
今、聞こえてくる噂話では秘姉が良く言われていないような気がして、少し気に入らない。
花壇の秘姉は、動物と会話する忍術で蝶に優しく語りかけている。周りを蝶がひらひらと舞い、その中の一匹が小さな鼻にちょこんととまった。はにかんではいるが楽しそうだ。
「でもさー」 「うん?」
女子の会話は続く。
「くノ一が本当にいるとして、何のために登校してんの? まさか誰かを暗殺してたりしてね」
「まさか、マンガじゃないんだから!」
「それさっきわたしが言った言葉」
「でも! 確かに忍者だから物騒なことしてそう! 授業中、前の席の人へ消しゴムのカスの代わりに手裏剣投げたり!」
(おまえたち、窓の外を見てみろ……そんな考え頭から吹っ飛ぶから……)
確かに忍者は冷酷無慈悲。実は秘姉の他にくノ一の知り合いがいるからわかるが、仕事のためならどんなひどいこともやるという人々だ。
けれど秘姉は違う。他人の痛みがわかるから、人を傷つける任務はできない。忍者の里から抜け出してきたのも優しすぎるからだ。腰抜けとか言われてきたらしいが、人を傷つけるための勇気なんか秘姉には無くていいと思う。
花壇の秘姉の肩には小鳥が乗って、しきりにちゅんちゅんと鳴いている。秘姉は制服のポケットからなにかを取り出して食べさせ始めた。もしかすると動物の友達のほうが多いのかもしれない。
「あとさー!」 「うん」
「くノ一って際どい衣装だったりするよね! もしかしてそのくノ一も仕事のときはえっちな感じなのかな?」
「体を使って殿様的な人に取り入ったりするしね。骨抜きにしたところをザクッと」
「木嶋! 新田!」
「はいっ!?」 「な、何」
思わず噂話にふける女子二人を怒鳴りつけてしまった。
一瞬のうちに後悔する。
「あ、いや、えーと」
「そうだ、そのくノ一の人、苗字が碑戸々木らしいよ! もしかして碑戸々木くんのお姉ちゃん?」
「あー、よくわかったね」
「碑戸々木の家族ってことは、噂の美少女三姉妹のことか。ごめんね碑戸々木、お姉ちゃんの変な噂して」
「いや、別にいいんだ」
俺はごまかすように手をふらつかせる。
「ただ、秘姉は目立たなくて怖がり屋だけど、ちゃんと強い芯を持ってる姉さんなんだ。人の心の機微に触れることが誰よりも得意で優しいんだよ。そのせいで自分を苦しめてしまうこともしばしばだけど、そんな秘姉は愛らしいし、だからあんまり悪く言わないで欲しいっていうのはある」
と、言ってから気づいた。
秘姉が教室の入り口に立って、俺を見つめながら顔を真っ赤にしている。
忍者だから、数秒前いた場所とはかなり離れたところに現れるくらいはするだろう。秘姉と俺の教室は別々で隣り合っているが、秘姉が1-A教室に帰るとき、俺の話が聞こえたらしい。忍者は耳もいいのだ。
「そ……そうちゃん……あ、あのっ……優しい、とか……あ、あ、愛らしいって……」
「ひ、秘姉、いや今のはなんというか、まあ」
うつむき気味の秘姉は自然と上目遣いになり、前髪の間から潤った瞳で見つめる。
「でもね、……その、そうちゃんも……っ……た、たくましいし……かっこいい、よ……?」
「あ、えっと、それほどでも……」 「そ、それにね……そうちゃんだって、ぼくのこと気遣ってくれる、でしょ……?」 「ま、まだ続くの?」 「ぼくね、そうちゃんに数学をおしえてもらったとき……そうちゃん、頭いいなあ……頼りになるなあ、って思って……勉強中に寝ちゃったときも、お布団持ってきてくれて……こんな優しいおとうとがいて、ぼくは幸せだなって……」 「そっか、いや、あはは」 「だ、だからねそうちゃん、ぼくも、そうちゃんにとって頼れるおねえちゃんになる……! そうちゃんに、恩返しする、から……だから、その……が、頑張るね!」
俺は恥ずかしさに頭に手をやる。秘姉も、暴走したことに気づいて顔から火を出す。
クラス中の視線が集まってくるのを感じながら、秘姉ってやらかすときは派手にやらかすよなあ……と思った。
この日から、恐らくは主に木嶋と新田により、『碑戸々木宗一と碑戸々木秘代は相思相愛』『宗一は超絶シスコン』『秘代は職員室に入る前に手のひらに「弟」の字を書いて緊張をほぐしている』という噂が流れ始めるのだった。




