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☆/胸、張れよ ~後編~

〈 ☆ 〉



 次の日、朝七時。

 俺とアネキは川沿いの土手に上がって、準備体操をしていた。


 朝日はそれなりの位置に昇り、俺たちを照らす。風が気持ちよかった。夏の暑さを吹き飛ばしてくれる。


「んじゃ、勝ったほうはモンハンの新作、自腹な」

「はあ!? いや予想はしてたけどさ!! 少しは手加減してくれるんだろうな!?」

「するわけねーだろ、ばーか。おれはいつでも本気で屠るぜ」


 姉貴の邪悪な笑顔。短距離走対決なんて受けなきゃよかった。


 俺は学校支給の体育用Tシャツに半パンだ。一方、姉貴は赤色ランニングシャツに灰色のランニングショートパンツで、どちらも自前というところに、なんというか格の違いを見せつけられた気がする。ランニングショーパンは両横にほんの少しスリットが入っていて、通気性が良さそうだった。

 すらりとした小麦色の肌が朝日に映えている。


「よっし、そろそろ始めるか」

 姉貴が体を軽く縦に揺する。


「向こうの看板まででいいんだよな?」

「ああ。あそこまででだいたい100mだろ。……言っとくが、ガチで手加減しない」

「はあ……。わかった。俺も一応、数ヶ月のキャリアがあるんでね」

「じゃ、コインが落ちたらスタートな」

「うん」


 姉貴がコイントスをした。


 正直、勝てるわけないと思う。姉貴はその細身に似合わず、運動神経の化け物だ。いくら俺が男で、高校から陸上をやってるからって、追いつけるわけがない。


 コインがアスファルトに跳ね返った。


 走る。


 コンディションは悪くなかった。フォームも先輩方に教わったものに近づけられている。それでも姉貴は速い。


 姉貴は速い。


 はずだった。






 対決を終えて息を整えていると、姉貴が清々しい笑顔でシャツをパタパタした。

「けっこう、差ぁ、つけられちまったな」


「…………」

「モンハンの新作だったか? 仕方ねえな、買うか。けど給料日までは待てよ?」

「…………」

「ったく、ラッドのスコアも欲しかったのに、あれはまた今度かな。金欠生活はつらいぜ」

「……姉貴、」

「なあ、宗一」

「え?」

「おまえ、弟だからって甘えてたろ」


 俺は目をしばたたかせる。

「え……」


「弟だから、姉ちゃんより弱い。そんなもんだと思ってて、しかも、それで全然かまわないって思ってたろ。違うぞ」


 姉貴の真剣味を帯びた視線は、俺に目を逸らすことを許さない。


「おまえは優高に入学して、三ヶ月間部活を頑張った。だからおれに勝ったんだ。これからおまえはもっと男らしく筋肉がついて、身長も伸びてくだろうな。そうなんだよ。おまえがおれよりすごいところなんてたくさんある。おまえはいろんなところでおれを追い越していくんだ」

「姉貴……」

「おまえは強い。強くなる。自信を持て。どうせ走る前はおれに勝てるなんて思ってなかったんだろうが、そんな弱気はテキトーなとこに捨ててけよ。ま、確かにおれはけっこういろんなレベルが高いが? そして美少女だが?」


 おちゃらけた態度で笑ってみせる姉貴。

 けれど、思慮深く澄んだ瞳は変わらない。


「そんな姉ちゃんを下してもぎ取った今日の勝利は、おまえの実力だ」


 そして拳を突き出し、俺に向けた。


「胸、張れよ」






 俺は握った拳を、姉貴の拳に近づけようとする。


 しかし。


 俺は。


 姉貴にこんなに励まされたにもかかわらず、弱気なままだった。


 むしろ、姉貴に自分の心を言い当てられて、揺さぶるような激励を受けたからこそ、気づいてしまった。

 俺はやっぱり、姉貴に遠く及ばない。

 例えば俺に弟がいたとして、あんな格好いいことを言えただろうか。尊敬できる兄でいられただろうか。俺は今日、走りで姉貴に差を付けた。けれど、追いかけられる側になった気は一切しない。


 目の前の姉貴が小首を傾げる。

 俺は拳を解くと、姉貴から目を逸らした。


「……帰ろう、姉貴」

「宗一……?」


 姉貴を無視して、歩き出す。

 後ろめたい気持ちと、それと……この気持ちはなんだろう。胸でなにかがつかえるような。嫌な気持ちだ。


 土手を下り始めたところで「宗一!」と声をかけられる。


「いいのかよ、それで! おまえはすごい姉たちに囲まれて、諦めるような気持ちになってるかもしれねえ。けど! それに負けてていいのかよ!」


 俺は歩き続ける。


「奮い立てよ! 宗一!」


 俺は歩き続ける。


「なあ!」


 俺は。


「宗一っ!」


 歩き続けた。




 ――――俺はそのまま家に帰り、自分の部屋でベッドに倒れ込んだ。二度寝は、できなかった。






〈 ♡ 〉






 部屋の外から、蝉の鳴き声が聞こえてきている。

 ガラス窓を開けて風を取り込み、網戸を閉めて虫を締め出す。日射しは入ってこないが、少し暑かった。扇風機をつけるべきか、と思いながらも、ベッドに寝たまま動かずぼーっとする。


 こんこん、と窓が叩かれる音がした。

 俺は外のほうを見た。


「弟くん、入るよ?」

「うん」


 愛姉が網戸を開けて、俺の部屋に降り立った。そのまま俺の机の回転椅子に座り、くるんと回る。

 俺は起き上がり、ベッドの上にあぐらをかいた。


「なにか用?」


 言ってから、少し後悔した。とげとげしい感じになってしまったかもしれない。やっぱり気が立ってるのか。


 しかし愛姉は優しく微笑んで、茶色がかったセミロングの髪を手で梳いた。

「そろそろ、あの日でしょ?」


「あの日?」

「あの日。八月一日といえば?」

「ああ……」


 姉貴の誕生日だ。


「うん……。それで?」

「それでね、今年は弟くんと一緒に響へのお誕生日プレゼントを用意しようと思って。どう?」

「いいけど、なんで俺と一緒に?」


 愛姉は視線を外して「うーん」と考えてから、ふふっと笑って俺の目を見た。


「まだ内緒!」





 そうして俺は、愛姉と一緒にプレゼントを買いに行くことになった。

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