酒宴ですが、なにか?
「それは、苦労しそうですね」
門外漢の完爾としては、そんな無難な返答しかできなかった。
「うちの卒業生たちための職を作るためと思えば、苦労のし甲斐もありますけどね」
猪口を一口に呷りながら、牧村女史は、そういう。
「そんなにないんですか? 仕事」
一時はその手の事でかなり悩んだ完爾にとっても、他人事とは思えなかった。
「四大卒なら、なんとかなりそうな気がしますが」
「今は、全般的に経済が不調な時期ですし、それを外して考えても、文系の研究職というのは不人気でして……」
「他の大学の研究室とか、講師とかは?」
「ポストよりも志望者の方が多く、競争率が大変に高い状態です」
いろいろ甘くはないのだなあ、と、完爾は妙なところで感心した。
「それで、ですね。
実際に予算がつくのは来年からなのですが、その前、今のうちにうちの学生たちを使って資料の整理などを行いたいな、と思いまして……」
牧村女史は、続ける。
「ああ、それはいいことですね」
何気なく、完爾は頷いた。
「整理するほど豊富な資料があるのかどうか、正直疑問に思いますが」
ユエミュレム姫の母国語の使用者は、現在、この世界には、ユエミュレム姫自身一人しかない。
これででは、豊富な資料を短期間のうちに揃える、という方が無理だった。
「量的な不足については、奥様がこれまでにしゃべった映像資料などを聞き書きしたりして、なんとか補います。
むこうの言葉に必要なフォントも、うちの学生の手で新たに作成したんですよ」
フォント……というのは、パソコンなどで使用する文字のことだろうか?
「へぇ、それは凄い」
完爾は、素直に感心した。
「牧村さん。
こちらのご仁には、もっと直截的な物言いをしないと伝わりませんよ」
辰巳先生が、小声で注進してきた。
「なんのはなしです?」
完爾は、首を傾げる。
「ええっと、ですね……」
牧村女史は、一度露骨に視線を逸らしてから、いいにくそうに伝えてきた。
「……しばらく、研究費を幾分かなりとも用立てていただきたいかなあ、って……」
予想外の申し出だったので、完爾は、数秒動作を停めて考え込んでしまった。
「………ええっと……」
しばらくして、完爾は、ようやく口を開く。
「牧村さんのところへは、例のクシナダグループからも補助金がでていたように記憶しているのですが……」
「年度内に使い切る程度の金額しか頂いておりません」
牧村女史は、即答する。
「そもそも、奥様のお国の言葉に関する研究は、うちの研究室でやる予定ではなかったもので、完全にイレギュラーな事業になります。
これまでは、有志を募ってなんとか対応してきましたが、作業量的にも、そろそろきつくなってきたかなー、って……」
「大学とか、その上の文科省とかへの申請はできないんですか?」
完爾が、当然の疑問を口にする。
「いろいろなはなしを聞いているかぎり、将来を有望視されている分野のように思えますが……」
「大学の予算というのは、基本的に年度で区切られますから……」
「……ふむ」
完爾は、冷静に頭を働かせはじめる。
会社のお金をこちらにつぎ込むような公私混同は例外にしても、例の委員会がらみの収入などはほとんど完爾個人の収入といってもよく、以前より、
「適当に節税対策しておかないと、あとでがばっと累進課税とか取られるぞ」
と、姉の千種に警告されていたことを思い出す。
基本的に、生活費以外の出費はほとんどない状態だったし、加えて、現在の完爾はそれなりに多忙であり、使い暇もなかった。
「あんまり額が大きいと、こちらでも対応できませんが……おれのポケットマネーでなんとかなる範囲の金額でしたら、相談に乗りましょう……」
しばらく考えた末、完爾はそう口を開く。
妻であるユエミュレム姫の生まれ故郷の文化をこちらに根づかせるため、と考えれば、さほど無駄な出費にも思えなかった。
そして、実際に牧村女史が口にした「必要金額」は、完爾が予想した金額とは桁がひとつふたつ違っていた。
「……そんなんでいいんですか?
もっとかかると思いましたが」
拍子抜けした完爾は、そう呟く。
「基本、実費だけですし、人件費は含んでいませんから」
牧村女史は、真面目な顔をして頷く。
「もちろん、すべての領収書を整理してお渡しし、用途不明金を出さないようにします」
「それはいいですけど……」
完爾は、いわなくてもいいようなことを口にした。
「その程度の金額もどうにかできないなんて……研究費って割と少額なんですか?」
「いわないでください!」
牧村女史が、いやいやをするように首を振る。
「本当、少額ですしいつもカツカツなんです!」
「いや、その件については、前向きに検討します。
正式な返答は、帰ってからユエとかと相談してからになりますが……今の時点での個人的な心証としては、提供しても問題はないかと」
完爾のポケットマネーとはいっても、実質的には家計から出るわけであり、ユエミュレム姫になんの断りもなく承諾することは、完爾にはできなかった。
それに、税金対策うんぬんについても、事前に千種と相談しておきたい。
「ええ、ええ。
それはもう、当然でして」
牧村女史は、傍目にわかるくらい安堵した表情をしていた。
「でも……完爾さん、奥様のこと、普段はユエさんとお呼びになっているんですね?」
「ああ……まあ。
芸のない略し方になりますが」
「大変にお美しい方ですよね、奥様」
「うーん。
まあ、不美人ではありませんけど……あれで、録画したアニメを観て狸のお父さんに感情移入してマジ泣きするようなところがありますし、容姿よりもそういうところの方の印象が強いです」
「……狸のお父さん、ですか?」
「ええ。
この前終わったようですが……あったんですよ、そういうアニメが」
ユエミュレム姫が千種の影響で深夜アニメを鑑賞することがあるのは前述した通り。
さらにいえば、ユエミュレム姫の今期のお気に入りは女の子たちの田舎暮らしを描く作品とオタク少年が競技自転車にめざめる作品だった。
「なんというか、それは……ギャップがありますね」
「そうですか?
甘いものが好きで毎日のように買い食いしているようですし……」
「……太らないんでしょうか?」
「太りにくい体質のようですね」
「それは……羨ましい……」
「もちろん、情報は独占するよりは公開した方がよろしい」
例の懸念事項に対する辰巳先生の意見は、実に明瞭だった。
「それが別の世界のものであろうが、刺激が強い魔法に関するものであろうが、すべて、だ」
「でも……それで、こちらの世界が大きく混乱する可能性もあるわけですが」
砂肝の串を取りながら、完爾は指摘をする。
「そうだな。
当然、多少の摩擦は起こるだろう。
だが、それをいうのならばこちらの世界でも、異文化同士が接触するたびに混乱は起こり、場合によっては多くの悲劇が生まれさえした。
しかし、今現在のこの世の有様を見たまえ。
時に行き過ぎがあったとしても、あとで必ずそれを修正する動きが出てくる。
われわれは愚考を繰り返してきているが、別に完全に学習能力がないわけでもない。
過去の経験からなにかしらを学び、現在と未来がある。
二十世紀以前と同じような過ちを再び犯すことはないだろう」
「……実用的な魔法の有無と過去の文化接触とは、根本的に違う要素があると思うのですが……」
完爾は、難しい表情になった。
「今、無防備に魔法を公開してしまったら……きっと取り返しがつかいほどに、こちらの世界の姿を変えてしまうと思うのです」
「悲観的だなあ、君は」
辰巳先生は、そういってからからと笑い声をあげた。
「一個人や少人数の識者が、その他大勢の凡俗どもを善導できるものか?
これは、歴史が証明している。
たとえ一時的にうまくいくときがあったとしても、長い目でいえば大衆の欲望に押し流されてしまう。
そして、傷つけあい、揉みくちゃになりながらも、最終的には落ち着くべきところに落ち着く。
人類の歴史というのは、結局のところ、その繰り返しだよ」




