焼鳥屋ですが、なにか?
「ああ。
いいんじゃないか」
千種に相談できたのは、翌朝の朝食時だった。
「ハードランディングよりもソフトランディングを目指すってわけね。
無難というか、現実的な選択だと思う」
「そうなのか?」
完爾は、軽く首を傾げる。
「今の情況だと、こっちが頑なに情報非公開の立場を保持しようとすればするほど敵を増やす構図だろう。
時間を稼ぎつつ、無害な魔法情報から順々に手渡していくってのは、一番難がないやり方だと思うが。
義妹ちゃんもいった通り、あまり表沙汰にはなっていないものの、四十年前から魔法を使っている連中が跋扈しているんだから、今さらそのすべてをなかったことにはできないだろうしな。
覆水盆に返らないし、落とした玉子は元には戻らないし、時計の針も逆向きには回らない。
なるべく穏やかに事態を収拾しようとしたら、やはりそんなところなんじゃないのか?」
それから完爾は、仕事の合間にメールや電話などで事情を知っている幾人かの知人に事情を説明し、「こういうことを考えているのだが」と添えて昨夜、ユエミュレム姫から聞かされた案を開示して意見を求めてみる。
その大半が、魔法に関する情報の開示を求めていた側の人間だったこともあって、おおむね良好……というよりは、「なぜもっと早くその結論を出さなかったのか」的な反応が帰ってきた。
クシナダグループの橋田管理部長などは、
「そういうことでしたら各部署への工作はこちらに任せてくだされば、よりスムーズにそちらの意向を実現できます」
とまでいってくれる。
「まずは、そちらの言語を研修できる体制を整えるところからですね。
いやなに。
どちらさんも歓迎するでしょうから、必要な予算や設備などはどこからでも調達できます。
むしろ、最初のうちは受講希望者をかなり制限する必要があるかと。その選定などに……」
と続けてくるから、完爾は慌てて、
「いえ、あの。
まだ、やると決まったわけではありませんので」
と制止しなければならなかった。
是枝氏は、
「その意向を支持します。
なにか協力できることがあったらいってください」
的な事務的なメールが帰ってきただけであった。
その他に、辰巳先生から、
「詳しいことが聞きたいから一度機会を作って飲みに行きましょう」
と返信が来ていて、これには、
「時間が空いたら連絡を入れます」
と返しておいた。
辰巳先生とはあれから何度か日を置いて個人的に講義をしていただいている。
中学を卒業して以来、知的な現場から遠ざかっている完爾にとってはそれなりに貴重な情報源になっている面もあるのだが、辰巳先生にとっては晩酌の相手をする者がいれば相手は誰でも良いという気配もあり、完爾としては「あまり深入りしないことにしよう」というスタンスでおつき合いをさせていただいていた。
靱野からは、例によって忙しいのか、すぐに返信は来なかった。
それなりに多忙な本業や委員会関係の雑事をうまく調整して、辰巳先生と飲みにいく時間を作れたのはそれから数日後のことだった。
本業をいつもより早めに切り上げて都内にある指定された店へとむかう。
その夜は、焼鳥屋だそうだ。
駅についてから電話すると、
「いいから早く来なさい」
と催促をされた。
声の調子からいって、辰巳先生はもういい加減にできあがっているものらしかった。
不案内な土地で住所を頼りになんとかその店に到着し、出迎えて来た店員に、
「連れの者が先に来ているはずなのですが……」
といいかけたところで、
「おお、来た来た!
こっちだよ、門脇くんっ!」
と奥の座敷席から顔を出した辰巳先生に声をかけられる。
そちらに移動してから靴を脱いであがり、コートをハンガーにかけてから席に着こうとしたところで、どこかで見たような顔をした女性が座っていることに気づいた。
「ああ、どうも。
奥様にはいつもお世話になっております」
目が合うと、完爾とそう変わらない年格好の女性はそういって軽く会釈してくれた。
反射的に名刺入れを取り出した完爾に、その女性は、
「こうして顔を合わせるのははじめてのことになりますね。
奥様とも、厳密にいえば直にお会いしたことはありませんし。
城南大学の、牧村と申します」
と、挨拶をしてくれた。
「いや、もともと、言語への興味というものはそれなりにあってね。
牧村くんが例の言語に関する資料を公開したときから、一通り目は通していたのだよ」
「辰巳先生、ご謙遜を。
先生の度重なるご指摘によって、翻訳の精度もより正確なものになった経緯がありますし……」
よくよくはなしを聞いてみると、この辰巳先生は二十カ国語くらいを平気で読み書きできるそうだ。
日常会話程度に限定したら、普通にやり取りをできる言語は、その二倍から三倍程度に増えるそうだが。
「……本当ですか?」
完爾は、胡乱な目つきで辰巳先生の顔を見返した。
「なに。
会話くらいできなくては、まともなフィールドワークなぞできようはずもない」
完爾の疑念に満ちた眼差しには気づいた風でもなく、辰巳先生は平静な表情でそういい放つ。
「それに、二十カ国語とかいうけどね。
ヨーロッパの言語なんかはだいたい親戚みたいなもんだから。
九州弁と東北弁をローマ字表記すれば、まったく別の言語のように見えるだろ?
それと同じで、基本的な原理さえ体得してしまえば、あとは例外をおぼえるだけでなんとかなる。
その基本ルールというののひとつがラテン語になるわけだが、例えば英語などはこれにアングロサクソンとかケルトの影響が入り交じって、綴りも発音も文法も、例外だらけで大変なことになっておるわけだな」
「つまり、先生は、言語オタクであるわけですね?」
先生のいうことがどこまで正しいのか判断できない完爾は、話題を逸らすことにした。
「言語オタクでもある、だな。
専門は別にあるし。
君の奥方の郷里の言語も、なかなかに興味深い」
「……そうですか?」
「まず、音韻についてだが、子音よりも母音の使用頻度が多く……」
以下、完爾には理解できないような専門的な説明が数分間続く。
その間に完爾は、もう一人の相手との会話にいそしむことにした。
「どうも。
うちのがいつもお世話になっています」
「いえいえ。
こちらこそ、大変に重要な研究対象を提供いただきまして」
すでにいくらか飲んでいるのか、牧村女史の頬は若干、赤みをさしている。
店員が、完爾の分の猪口を持ってきた。
「今夜は、熱燗ですか?」
「ここ数日、冷えてきましたから。
さ、どうぞ」
「あ。これはどうも」
牧村女史が徳利を持ったので、それに合わせて完爾も猪口を持ちあげる。
「牧村さんがいらっしゃると知っていたら、ユエも呼んでおいたのですが」
「急に決まりましたからね。
辰巳先生がおやりになることは、いつもこんな調子です。
わたしも奥様とは一度、直にお会いしたいと思っておりましたが」
「……そこ。
わかっているかね?」
辰巳先生が、少し声を大きくする。
「なんのはなしですか? 先生」
「予算。
特別予算がつくそうではないか。来期から」
「……なんの予算ですか?」
「君の奥方の母国語を研究するための予算だよ。
文科省の肝いりだ。
いいかね、これは、研究費削減が猖獗を極めた昨今、実に慶賀すべきことなのだ。
そこのところ、わかっておるのかね?」
「……そうなんですか?」
完爾は、傍らの牧村女史に顔をむけて確認した。
「ええ、まあ。
まだ、内々の通達がきたばかりで、本決まりというわけでもないのですが……」
「本邦における文系研究の軽視は今にはじまったことではないのだが……」
うんぬん。
辰巳先生は独演会を開始してしまっていた。
「予算も、ですが。
専門の研究所を設立するようなはなしも出ておりまして……。
それが実現すれば、うちの卒業生たちも何人かそちらに片づけることが可能になりますね。
そのためにも、今編纂中の本をはやいところ校了まで持って行かないといけませんが。
なにしろ、今は教材らしい教材もない状態ですから」




