白い女性ですが、なにか?
「あら、かわいい赤ちゃん」
公園でその女性に声をかけられたとき、ユエミュレム姫はかすかな違和感をおぼえた。
どうしてだろう? と自問し、すぐに、ごくわずか、イントネーションに不自然さを感じたことを悟る。
「今、何ヶ月ですか?」
ベンチに座っていたユエミュレム姫は、顔をあげて声の主をまともに見返した。
「四ヶ月過ぎ……そろそろ五ヶ月になります」
「まあ。
まだまだ、手がかかる頃ですね」
その女性は白いワンピース姿で、やはり白い日傘をさしていた。
服装こそ若々しく、肌の色艶や張りから判断しても、せいぜい二十歳になるかならずやに、みえるのだが……かといって、脳裏でこの目前の女性に「若い」と形容しかけるともの凄い違和感を感じる。
「若い」というのには……この目の前の存在は、あまりにも「完成」されすぎてはいないだろうか?
表面的な造形はともかく……その存在感からして、なにか、普通の日本人とはとうてい相容れない「異質さ」を、ユエミュレム姫は感じ取ってしまった。
もともとユエミュレム姫は、異人種である日本人の年齢を予想することはあまり得意ではないのだが……それ以上に、そう……その女性は、あまりにも、完成されすぎていた。
「ユエミュレム・エリリスタルといいます」
ユエミュレム姫は、若干、緊張したおももちでその女性に告げた。
「これは、ご丁寧に」
その女性は、ゆっくりと会釈する。
「わたしは……そうですね。
確かこの国では、緑川と名乗ることが多かった気がします。
古いお友だちからは、博士と呼ばれることが多いのですけれども……こちらは、ニックネームみたいなものですね」
奇妙な自己紹介だっった。
「ミドリカワ、さん。
……というのは、本名ではないのですか?」
用心深く、ユエミュレム姫は確認する。
「その名前で戸籍も持っていますから、本名であるともいえます。
生まれたときにつけられた名は、わたし自身もおぼえていません。
なにしろ、ずいぶんと昔のことになりますもので……。
そうですね。
ちょうとあなたのお友だちが、この国では靱野九朗と名乗っているようなものだと思ってください」
そういってその女性は、なにがおかしいのか、低い笑い声をたてた。
「シナキさんを、ご存じなのですか?」
先ほどから、ユエミュレム姫の頭の中で、警鐘が鳴り響いている。
この女性は……かなり、「危ない」。
ユエミュレム姫の本能が、先ほどからそう告げているのだが……逃げ出そうとしても、いっこうに体の方がいうことを聞いてくれなかった。
こういった状況に相応しい、日本の慣用句は……なんといいましっけ?
といった呑気な自問をユエミュレム姫は頭の中でしかけて、すぐに解答に思い当たる。
そうそう。
確か……「ヘビに睨まれたカエル」。
今のユエミュレム姫は、まさしく、その、「ヘビに睨まれたカエル」だった。
「そんなに怖いお顔をしないでくださいな、ユエミュレム・エリリスタルさん」
緑川、あるいは、「博士」と名乗った女性は、そういって微笑む。
「わたしは、今日は、ただ、あなたとおはなしに来ただけなのですから」
「わたくしに、なにかご用がおありなのですか?」
「ええ。
実は、そうなんです」
「博士」は、やはり微笑みを崩さなかった。
「あなた方が今調べている剣……というよりは、その効用である、別世界へと続く扉を開ける鍵を、わたしたちは求めています」
「わたしたち……ということは、あなたの背後にはなんらかの団体が関わっているのですか?」
「背後に、というよりは、わたしのお友だちは大勢います。
そのお友だちは、あちこちで大小様々な団体を組織しており、彼らのうちの少なくはない人々が
別世界へいく方法について強い興味を持っております。
実をいえば、わたしは、彼らを代表してあなたに会いに来ましたの」
もし可能であるのならば……交渉をするために、と、「博士」は続ける。
「靱野九朗が所持している膨大な異界の魔術知識も大変に魅力的ではあるんですけど、どうにも彼は守りが堅すぎて、わたしどものこれまでのアプローチをすべて跳ね返してしまっているのです。
ユエミュレム・エリリスタルさん。
あなたも、あなた方も、やはり彼のように、わたしどもが差しのべる手を払いのけますか?」
「あなた方がどのような存在であるのか、わたくしは知りません。
しかし、わたくしの夫は無用な知識を広めてこの世界に混乱をもたらすことを望んでおりません。
わたくしも、その意志に賛同しております」
ユエミュレム姫は、確固とした意志を持って、そのようにいい切る。
「それとも……あなた方の差しだした手を払いのけたら……あなたは、あなた方は、わたくしたちに危害を加えようとしますか?」
「まさか」
「博士」は、柔らかい笑みを崩さずにゆっくりと首を振る。
「わたくしどもの大半は、怒り狂った英雄がどれほど危険な存在であるのかを熟知しています。
だって……グラスホッパーひとりに四十年以上も悩まされているくらいなのですよ?」
そういって、「博士」は、なにがおかしいのかしばらく低い笑い声をたてはじめた。
「あえて火中の栗を拾おうとする者は、そう多くは居ません」
「それは……少数ならば、居る……という意味なのでしょうか?」
すかさず、ユエミュレム姫が反駁する。
大事なことだから、確認する必要があると判断したためだ。
「そうですね。
あるいは、「大佐」なら……あなたのご主人の存在を知ったら、かえって戦いたがるかも知れません。
それに、なにかというと裏から手を回すのが好きな「大使」が、どこまで黙っていてくれるのか……。
誤解なさらないでくださいね。
決してあなた方を脅したいわけではないのですが……わたくしどもの世界も、決して一枚岩ではありません。
わたしどもの友人たちが今後どのように動くのか、誰にも予想ができません」
「その……「大佐」とか「大使」とかいう人たちには、要注意というわけですか?」
「そうなりますね。
彼らは……わたしとは違って比較的世俗的な価値観で動いておりますから」
「あなたは……「博士」は、別の価値観で動いているというわけですか?」
「その通りです。
わたしは、常に貪欲に未知の知識を求めています」
「博士」は、大きく頷く。
「本当に……ただそれだけなんですよ。
あなた方の剣に対しても、わたしどもが協力するなら、もっと迅速かつ正確な調査が可能になります」
「……もうひとつ、質問があります」
ユエミュレム姫は、落ち着いて「博士」に訊ねてみた。
「あなたが、ただ知識を求めるだけの人だというのなら……なぜ今、あなたはシナノさんと協力しあっていないのですか?」
その質問を受けて、「博士」の動きが、一瞬止まった。
それから、「博士」は、それまでの低い笑い声ではなく、今度は喉をのけぞらせてしばらく、はっきりと笑い声をたてる。
「……あー、おかしい。
そうね。そうよね。
そんなに簡単にこちらの思惑通りに動いてくれるはずがないわよね。
ええ。ええ。
わかりました。たった今、理解できました。
確かにあなた方は……わたくしどもよりはグラスホッパーの側に近しい存在です。
わたしにとっては、とても残念な結果ですが……」
「……やはり、あなたは……」
ユエミュレム姫は、「博士」に対して確認を迫った。
「知り得た未知の知識とやらを……あなたのご友人がどのように活用するのかを知った上で、広めていたのですね?」
ユエミュレム姫には、あの靱野が、好奇心が強いだけの無害な存在に対して必要以上に警戒し、非協力的な態度を取るとは思えなかったのだ。
だとすれば、今の時点で靱野と協力体制にないこの「博士」は、なんらかの理由により、靱野から忌避されている存在だということになる。
そこまで推論できれば……結論の予想は、かなり絞ることができた。
「交渉が決裂した以上、余計な情報を与えられません」
「博士」は、やんわりと笑う。
「ですが……まず、あなたの予想通りであるといっておきましょう。
わたしにとっては真理こそがすべてであり、その他の世俗的な価値観に拘泥する必要は感じていません」
好奇心を満たしさえすれば、一般的な倫理観は無視する存在だ……と、「博士」がユエミュレム姫に自己紹介したようなものだった。




