修羅場ですが、なにか?
そのとき、靱野九朗は例によって窮地に陥っていた。
……彼の場合、「窮地に陥る」のもいわば日常茶飯事であり、決して珍しいことではないのだが、今回のは、「いつもの窮地」とは少し違ったようだった。
「……グラスホッパー!」
拡声器を経由した胴間声が、靱野の耳に入る。
「貴様は、囲まれている!
観念してそのまま地獄にいきやがれ!」
続いて、「……わひゃひゃひゃひゃ!」という哄笑が続いた。
スペイン語訛りの英語、だった。
その声の主は、たしか、カルロス某とかいったか。靱野は、そんなチンピラの名前はいちいち記憶していないのだが……確か、南米の麻薬カルテルでそれなりの地位にいる中年男性だったはずだ。
その組織でそれなりに儲けながら、「人間の欲望を吸収して増殖するコイン」を効果的に使用し、自身の強化を努めている人物だった。
「……親愛なるグラスホッパー殿。
曾祖父と祖父が世話になったそうだな」
今度は、ドイツ語だ。
「おれは、アーベラインという。アヒム・アーベラインだ。
アーベライン。
聞きおぼえはないか?
そうだな。
お前は、数えきれないくらい、多くの同胞を葬り去ってきた。
いちいちひとりひとりの名をおぼえていないのかも知れない。
とにかく、お前はわが一族の仇だ。
とうてい、許してはおけん」
「多くの秘儀に通じ、今や世界の門にさえ手にかけようという男よ」
嗄れた、アラビア語が靱野に語りかける。
「アッラーの御名のもとに、知っている限りの知識を手渡してもらおう」
その他、世界中の言語で靱野への恫喝、要求、罵倒が繰り返されること十数回。
そのすべてを、靱野は聞いて理解した。言語に関しては、決して不自由することがないアイテムをたまたま靱野が所持しているからだ。
「……参ったなあ……」
靱野は、呟く。
大勢に囲まれているのは、まだいい。
それくらいの危地は、これまでにも何度か経験して、見事にくぐり抜けてきている。
どうやら、転移魔法を阻止する結界かなにかが張られていて、逃げ出すことができないのも……まあ、なんとかなるだろう。
一番、問題となるのは……。
「なんで、こんなにたくさん……」
場合によっては、利益が相反する組織同士が結託して、靱野を追いつめているのか……という事実だ。
こういう場合は、たいてい、あの男が裏で糸を引いているはずで……。
「……やぁ、ミスタ・グラスホッパー。
それとも、きみの本名であるシナクくん、と、そう呼びかける方がいいのでしょうかね?」
今、一番聞きたくはない声が、靱野の耳に入った。
「こうして直接対面するのは、二十五……いや、三十年ぶりだったかな」
綺麗な日本語だった。そして、この場では一番聞きたくない声でもあった。
通称、「大使」。
本名、年齢、経歴、国籍、すべて不明。
外見的には、四十前後の白人男性に見えるが……その姿は、靱野が三十五年前に見たときの外見と寸毫も異ならなかった。
この男は……どんな過激な組織の中枢にでもやすやすと潜り込み、ほとんどその弁舌だけで動かしてしまう……という、厄介な特技の持ち主だった。
これまでに靱野が因縁をつけた相手をこの場に集め、糾合したのも、この男が暗躍したおかげだろう。
「どうやら、これ以上の言葉は不要なようだね。
君はここに集まった皆さんも焦れておいでだ。
さあ、みんなでともに踊ろうではないか!」
カリブ海に浮かぶ小島に、銃声と爆音が轟く。
「……そうなんだよ。
厄介なのは、いつだって人間なんだ」
靱野は、呟く。
耳を聾するばかりの轟音に、呟いた本人でさえその声は聞き取れなかったが。
「そりゃあ、こんだけ長く働いていれば、それなりに敵を作ってきたって自覚はあるけどさあ……」
ここの集まってきたのは、みな、靱野が回収・破壊することを目的とする自律術式を利用してきた集団と、その成果の継承者たちである。
靱野本人の意志としては、可能な限り穏便に回収したいところではあるのだが……どうした加減か、靱野の目的を知るとほぼ例外なく敵対関係に突入してしまうのであった。
機関銃やライフル、散弾銃、はてはミサイルまで使用した一斉射撃が続いたのは、せいぜい、数分といったところだろう。
ごく短い時間といえたが、靱野が潜んでいた廃墟はあっというまにその形をなくし、地面がほじくり返され、あたりにはもうもうたる土埃が漂っている。
「……やったか!」
誰かが、叫ぶ。
疑問形の体裁をとった、断言だった。
これだけ苛烈な攻撃を受けて、無事な物体がこの地上にあるわけはない……という認識が、その声には籠められていた。
「いいや。
まだまだ」
ひとり、「大使」だけは、首を横にふっていた。
「彼の複合防御術式が、この程度の攻撃を受け止められないはずがない」
その言葉の通り……土煙が晴れてくると、平然と立っている人影が見えてきた。
その周囲には、球状に、土煙を弾いているように見える奇妙な空間が視認できる。
「さあ、皆さん。
パーティははじまったばかりです。
せいぜいみんなで、ダンスを楽しみましょう」
「大使」がそういったとき、靱野を取り囲んでいた者たちが、一斉に爆発した。
「ほら。
彼は、やる気になっていますよ」
そういって「大使」は、くすくすと笑い声をあげる。
ヘリや装甲車、戦車などといった近代兵器は、靱野の最初の攻撃によってほとんど沈黙した。
目標を設定すればどこまでも追尾してとどめを刺す、そんな自走式の術式を、靱野は普段から多数、持ち歩いているのだ。
あとは……。
「……よっ」
ひゅん、と、風切り音を残して、靱野、いや、グラスホッパーの体が、瞬時に、滑るように移動する。
まるで瞬間移動でもしているかのような、唐突な消失と出現を繰り返しながら、グラスホッパーは、ひとり、またひとりと異形を斬り伏せていった。
グラスホッパーの両手には、今、長大な片刃の刀が握られていた。
グラスホッパーがその刀を振り抜くと、何故か、刀身よりも遙かに遠くにある物体までもが両断されるのだった。
「……わひゃひゃひゃ」
地面から隆起した物体が、グラスホッパーが振り回した刀の刀身を無造作に掴む。
その物体は、夥しいコインだった。
「無尽蔵な欲望とやらを吸い上げてよ、おれはこんなに強くなっちまっただよ」
そういって、コインの固まり……人間としての名は、確かカルロス、とかいったか? ……が、コインの塊で形成された五メートルほどの大きな腕で、グラスホッパーの体を殴りつける。
グラスホッパーの小柄な体が、宙に舞った。
「ラストバタリオンは不滅なり!」
アヒム・アーベラインが叫ぶと、グラスホッパーに斬り伏せられた死体が、むくむくと起き上がりはじめる。
死体……とはいっても、今となっては、すでに原型を留めていなかった。
灰色の……濃淡はあるものの、モノトーンの体表、人間の四肢の動物の意匠をあしらったかのような、異形の造形。
「死してこそ本領を発揮するわれらが秘術、とくと堪能せよグラスホッパー!」
その他、メモリが、スイッチが、カードが、指輪が使用され、生き残った者たちが次々と異形へとその姿を変じていく。
そうしたアイテムを使用しない、直接、身体を改造したタイプの者たちも、少なくはなかった。
今となっては、こうした初期型の直接改造タイプは希少であり、かなり珍しいはずなのだが……よくもまあ、ここまでかき集めてきたものだ。
地面に叩きつけられながら、グラスホッパーは冷静に周囲を観察している。
カルロス某による攻撃も、実際のところは、防御結界がその衝撃をかなりのところ吸収してくれる。
派手に宙を飛んだ割には、グラスホッパーが受けたダメージはさほどでもなかったのだが……。
「……飛蝗召喚!」
地面に打ちつけられてから起きあがったグラスホッパーは、そう叫んだ。
もともと自律術式を駆除するために過去にグラスホッパーが作った、これまた自律式の術式ということになる。
当初の予定以上に繁殖力と食欲が旺盛であったため、普段は別の疑似空間に閉じこめてあったのだが……今、この場には、その自律術式の派生物が山ほど存在する。
彼ら飛蝗にとっては、魅力的な餌場でしかない。
いきなり、空中の裂け目から沸いてきた黒雲のごとき飛蝗の群が、世界中から集まってきた異形たちに群がり、食い尽くしはじめた。
「……おやおや。
こんな切り札があるなんて、思いもしませんでしたね」
飄々とした、日本語……「大使」の、声だった。
「自慢じゃないが、おれ自身の力は、そんなに強くはないからな」
肩で息をしながら、グラスホッパーは答える。
「使えるものは、なんだって使うさ」
「まだ、生き残っている方も若干名いらっしゃるようですが、この分だと、それも時間の問題でしょう」
「大使」の声は、続ける。
「今回のゲームは、またぼくの完敗ということで。
それでは、次の盤面、東京でお待ちしております」




