交渉ですが、なにか?
「……タイシカン? ボウメイセイケン?」
ユエミュレム姫が、首を傾げる。
日常生活を送る上では、まず必要のない語彙であったから、ユエミュレム姫がそれらの語句について知識を持たないのも当然といえた。
あわてて完爾がしどろもどろに説明をしかけ、その説明のたどたどしさに業を煮やした村越氏が、もっと正確な説明をしなおした。
「それは……とても、滑稽な提案だと思います」
一通りの説明を受けたあと、ユエミュレム姫はきっぱりとそう断言する。
「わたくしは、たまたま王家に生を受けたとはいっても、王位継承権の順番でいえば末尾に近く、いわば、名前ばかりの王族になります。
当然、直接まつりごとに携わった経験もなく、故国を代表するような立場に立てるわけがありません。
それに……国民一人だけの王家に、なんの意味がありましょうか」
完爾が聞いても、実に納得がいく返答だった。
むしろ、なんで政府の人たちが大使館とか亡命政権などという言葉を持ち出してきたのか、理解に苦しむくらいだ。
「しかし、外部の者には、ユエミュレム姫がこの世にただ一人の異世界人だとはわかりません」
村越氏は、毅然としたユエミュレム姫の拒絶を受けても怯まなかった。
「それに、元の世界と行き来する術がないということも……確実にそうだとは、確信が持てないはずなのです」
「……つまり、それは……はったり、ブラフっていうことですか?」
完爾が、村越氏が背後に秘めた意図を、そう推察する。
「ひょっとしたら、ユエの、ユエミュレム姫は、今にでも仲間を呼び寄せるなんらかの方法があるのかも知れない、と……」
「日本政府が出先機関である大使館なり、亡命政権なりを公的に認めてしまえば……そう解釈する者も、現れてくるでしょう」
村越氏は、顔色も変えずに説明を続ける。
「まさか、乳飲み子を連れたご婦人だけの、実体のない政権だとは思いますまい」
それから村越氏は、続けて各種の外交特権について説明していく。
「免税権はともかく、身体や住居への不可侵権、それに、接種国による保護義務などは、皆さまの場合、有効なカードとして使用できるかと思います」
「……メリットは、それなりにあるってことか……」
完爾は、ぽつりと呟く。
「つまり、ムラコシさんは、いいえ、ニホン政府は、わたくしのことを個人というよりは背後にある国家や文化ごとまとめてつき合いたいという意向をお持ちなのですね?」
完爾が呆然としているうちに、ユエミュレム姫はこの提案が持つ意味を把握し、聞き返した。
「そうなります」
村越氏は、頷いた。
「特に、魔法、というのですか?
あなた方が持つ未知の加工技術は、これからの経済を根底から変えてしまいかねない可能性を秘めている。
対個人で扱うよりは、背後に未知の文化圏があると仮定した方が一般にも理解がしやすいわけです。
あ、こちらの攻撃魔法というものも、軍事的な利用価値については十分に……」
「いえ。
おれほどの威力があるものは、むこうの魔法使いにも扱えませんでしたし……他の人に真似できない、再現性がないものについて、軍事利用は難しいでしょう」
完爾は、そういって首を横に振る。
別に謙遜などではなく、本気でそう思っていた。
「そうですか」
村越氏は、あっさりと頷いてユエミュレム姫に向き直る。
「それと、現実問題として、日本国籍を取得した個人を守るのと、外交官とその家族を守るのとでは、使える予算や人手に雲泥の差があります。
われわれ役人というものは、なにをするのにもしかるべき口実と予算を必要としますので、今後も日本国政府と皆様の関係を良好に保とうする上で、有効に作用するかと思います」
「そちらが意図することは、おおむね理解できたと思います」
ユエミュレム姫は、村越氏の目をまともに見据えてそう答える。
「ただ、その件を承諾するためには、いくつかの問題が存在します。
まず、先ほどもいったように、わたくしは王家の出身ではあるものの、実質的にはなんの決定権もない身であること。
次に、わたくしがわたくしの王国を代表する、といっても、現状では本国に行き来する術も、連絡を取る術さえないという事実があること。
最後に、ニホン国からわたくしに対して、そのような便宜を図って貰ったとしても、その対価として支払うのに相応しいものをわたくしが所持していないこと、です」
「そのうちの、前の二件は、ほぼ同じところに問題があるようですな」
村越氏は、続ける。
「しかし……現実には、あまり問題はありません。
ユエミュレム姫が故国との通信、ないしは交通ができない……と、外部の者にはわからないからです。
仮にそう推察する者がいたとしても、そうと確信する根拠をどこに求めたらいいのやら」
「つまりは……ムラコシさん。
わたくしに、嘘をつけと」
「嘘ではなく、事実の隠蔽です」
村越氏は、首を横に振った。
「外交の場では、普通に使われる手管のひとつですよ。
それに、最後の、日本国に支払う対価、とのことですが……これは、簡単です。
このまま、日本国内に在住してくだされれば、それでいい。
欲をいえば、魔法についての知識を広く教授していただきたいことですが……」
「そちらは、誰に乞われても、一律にお断りさせていただいております」
完爾が、口を挟んだ。
「理由は……」
「それまでになかった、魔法という不自然な要素を無制限に解放することによって、この世界の有り様を歪めないため、でしたね?」
村越氏は、完爾の言葉をみなまでいわせずに引き取った。
「わかっておりますとも、ええ。
短期的な利益だけを考慮すれば、確かに力づくでもあなた方から魔法の知識を引きずり出すべきなのでしょう。
しかし、長期的なことを考えれば、そちらの門脇さんが思い定めたとおり、その手の知識の流布を大幅に制限しておく方が、混乱が少ない。
われわれも、その点についてはほとんど同じ意見です。
日本政府も、魔法が存在することが明るみになったことによって、世間が無用に混乱することを望んでおりません」
「カンフル剤としては、実に魅力的なのだがね」
そういったのは、これまで口を閉ざしてきた厚生労働省の山背という男だった。
「その、魔法知識の公開、というのは。
しかし、それも結局はごく一時的なものだろう。
どんな知識だってそうさ。
出はじめの頃こそもて囃せれ、脚光を浴び、お金になる。
しかし、何年かして、周知が徹底して技術として陳腐化すれば、その価値も一気に下落する。
だったら、一時的にでも儲けた方がいい……という考え方もあるのだろうが、こちらでいろいろシミュレーションしてみた結果、君たちの魔法というものは、どうも、応用が広すぎる。
これはもう、これまで、既存の技術などとは比べものにならないほどで……そんなものが広がってしまったら、今の社会秩序は根底からひっくり返されてしまうだろう……と、そのような結果が出た。
われわれが知る君たちの魔法といえば、せいぜいが、君のところの会社の製品か、それに、君がクシナダグループで披露した実験のデータくらいなのだが……ただそれだけであっても、そうした魔法が世に広がれば大混乱は必至、という結果になった。
実際には……他にも、まだまだたくさんの魔法とやらがあるのだろう?」
完爾とユエミュレム姫は、無言で頷く。
「ならば……無理におおやけにせず、そのまま放置しておく方が無難だな。
この国はね。
諸外国に比べても、社会秩序の維持に熱心なんだ。
いくらお金になるからといっても、そんなリスクを好んで選び取る必要もない。
それに、君たちを抱え込んでいるだけで、なにもせずとも外の連中は勝手に警戒してくれる。
この間の太平洋上の映像が広まったときの、外の連中の騒ぎようが想像できるかい?
君たちとの関係を良好に保っているだけで、こちらも相応に得るものがあるのだよ。
これがまあ、君たちが支払うべき……いいや。
今現在も、君たちが存在するだけでわが国に与えているメリットということになるな。
これは、日本国に支払われた対価とは呼べないものかね?」




