日常生活ですが、なにか?
あの後、橘幸恵とユエミュレム姫はいくらも経たないうちに親しくなった。
もともと、家が近所で生活圏がかぶっているし、橘幸恵の方も、暁を抱いて近所を散策するユエミュレム姫のことを以前から見かけてはいたのだ。なにしろユエミュレム姫は、この辺ではかなり目立つ風貌である。
それでもまさか、完爾とそこまで近しい関係にあるとまでは思わなかったわけだが……事実を明かされてみれば、何かが腑に落ちる気持ちもするのであった。
再開後の完爾は一見して穏やかな物腰をしているのだが、それでも隠しきれない内圧や凄みのようなものを、時折、なにかの節に感じてしまうことがある。
何か別のモノが、無理矢理に平凡な人間の皮を被っているよな……といったら、言い過ぎになるのだろうか?
だから、日曜日の朝、パン屋の前でユエミュレム姫を紹介された時も、
「ああ。
やはりな」
と納得する部分が大きかった。
やはり、完爾は……ここではないどこか遠い部分と繋がっていたのだな、と。
根拠もなく、論理的でもない感慨にすぎなかったのだが……ユエミュレム姫の存在は、完爾のこちらとはうまく馴染めない部分と直結していることが、直感的に理解できた。
そのユエミュレム姫との会話は、たいてい近所の公園でなされる。
何日かに一度の割合で、完爾の甥である翔太を遊ばせる傍ら、ユエミュレム姫が暁を抱いて来る。橘幸恵も同じ公園によく三歳児の娘を連れてくるので、自然と顔を合わせる機会は増える。
会話の内容は、主として育児のこと、次に家事のこと、近所の人たちの噂話など……まあ、ごく普通の井戸端会議なのだが、ユエミュレム姫は、まだ話せる語彙が少ないながらも、片言の日本語でよくしゃべった。
好きなおミソシルの具は? もうすぐ三ヶ月にナリます。夜泣きですか? 時々。でも、あやすとすぐに泣きやみます。
しゃべる方はともかく、日本語を聞いて理解する能力は、今の時点でもかなり高いようだった。不意に難しい単語を口にして、聞いているこちらが戸惑ったりすることも多い。
例えば唐突に「アベノミクスは本当に効果があると思いマスか? チグサは懐疑的なようですが……」などといわれても、咄嗟に返答ができなかったりする。
聞けば、こちらに来てからまだ一月くらいしか経っていないという。それでここまで言葉をおぼえているのだから、もともと頭がよい人なのだろう。
案外、インテリなのかも知れない。
そう思って、橘幸恵は、
「そういえば、ユエさんは、ここに来る前はなにをやっていたんですか?」
と聞いてみる。
「ここに来る、前……。
ソウですね。
カンジの手助けをしていました。
その前は、家の手伝いなどを……」
「ご実家は、なんのお仕事を……」
「……ソウですね。
ニホン語で、なんというのでしょう?
ノウカを支援したり、相談に、乗ったり……」
……ノウカ? ああ、農家、か。
「農業のコンサルタントとか……ですか?」
「ソウ。
それに近い。
ワタクシの国、今、とても貧しい。
それを豊かにするのが、ワタクシの家のお仕事デス」
ユエミュレム姫と橘幸恵の会話は、万事が一事、こんな調子だった。
本格的に門脇家の家事に手を染めるようになったユエミュレム姫は、近所のスーパーにもほぼ日参するようになった。気まぐれに翔太が着いてくることもあって、当然、これはたまに買って貰えるお菓子目当てである。
あまり翔太にばかり食べさせると夕食を食べなくなるので、たいていは一箱を二人で分け合って食べることになる。そのおかげで、ユエミュレム姫も日本のお菓子事情にすっかり詳しくなってしまった。ちなみに二人ともキノコよりもタケノコ派であった。
最初のうち、完爾から直接料理を習っていたユエミュレム姫も、徐々にテレビの料理番組を観て真似をしたり、自分でレシピを調べたりして自発的にレパートリーを広げるようになっていた。
砂糖、塩、しょう油、みりん、味噌……などの使用する調味料の名前はまっさきに記憶したくらいだし、日本の家庭料理は和洋中エスニックとやたらにヴァリエーションが広く、覚えても覚えても際限がないし、また、試し甲斐もあった。
最近、ユエミュレム姫は中華にはまっている。
「油で具材を炒める」という技法が、向こうにはなかったからだ。熱したごま油の香ばしい風味も好きだったし、短時間でざっと炒めるだけでそれなりの料理になってしまう簡便さが好ましかった。
はじめに完爾に買って貰ったノート三冊は、いくらもしないうちに使い切っていた。
見聞することすべてが目新たしく、ユエミュレム姫にしてみれば書き留めておきたいことはそれこそ無数に存在する。
それ以外に、こちらの言葉を学習する時に使用する必要もあり、料理のレシピやあとで完爾に質問する事柄のリストなどなど……とにかく、ノート三冊分の余白など、それこそあっという間に埋まってしまったような気がする。
三冊分のノートを使い切る頃には、千種や完爾から「ユエミュレム自身のために使ってもよい現金」をいくばか預けられていたため、ユエミュレム姫は完爾に教えられた百円ショップにいってノートや筆記用具をまとめて購入した。その際、ユエミュレム姫は文具類の種類の豊富さと安さにずいぶんと驚かされたわけだが、この頃にはこちらの物価に関しては向こうとは大きく事情が異なることも理解していたので、特に騒いだり完爾に報告したりすることもなかった。
それ以来、ユエミュレム姫のノートに記される内容は、とてもカラフルになっている。
いくばかの金銭を自分のために使えるようになって以来、主として翔太に連れられて足を運ぶようになったの場所にコンビニがあげられる。そこの商品の多様さにもユエミュレム姫はずいぶんと圧倒されるわけだが、なによりも翔太につきあって購入する菓子類の甘味はユエミュレム姫を魅了することになった。
お菓子のことをいうと、千種も完爾も揃って、
「買い食いはなあ……」
と、微妙な表情になり、
「まあ、ご飯が食べられないくらいに食わせなければいいか」
とか、言葉を濁すのであった。
千種はその後、
「甘いものもいいけど、食べ過ぎると太るぞ」
と忠告することを忘れなかったが、生憎とユエミュレム姫はいくら食べても肉がつきにくい体質なのであった。
基本的に甘味が好きなユエミュレム姫は、アイスクリームとチョコを使ったお菓子を好んだ。
その他に、ユエミュレム姫は、近所のレンタル屋でBDを借りることも覚えた。ユエミュレム姫だけでは会員カードも作れなかったから、仕事が速く終わった時などに、完爾に同伴して貰う形となる。
普段からテレビ番組を観ていたので、劇映画についてもその延長として鑑賞することに抵抗はなかった。
ユエミュレム姫自身がこの世界の成り立ちやら歴史やらに興味を持ちはじめていたので、最初のうちは史実を元にした作品や時代劇などを中心に借りて鑑賞した。初期の黒澤明や溝口などの邦画の古典、それにシェイクスピア作品を元にした作品などは、背景的な事情を含めてユエミュレム姫にも大変に理解がしやすかった。「ロード・オブ・ザ・リング」という長大な作品にも大変に感銘を受けたのだが、後で完爾に「実はあれはまったく架空の世界のはなしで」とバラされて少し拗ねたりもした。
逆に、観ていて混乱したのは近代以降を舞台とした戦争映画だった。
そもそも銃火器についての知識が皆無に近いユエミュレム姫にとって、それらはけたたましく悲惨なだけで、まるで面白味というものを感じなかった。そうした兵器が実在すると聞いても、まるで現実味を感じることができないでいた。テレビをつければ非現実的なイメージをCGで緻密な表現したCMなどが当たり前に放映されている。それを観てきたユエミュレム姫にとって、映像の中の現実感は、常に揺らいでいた。
映像が現実を反映しているとは限らない……という認識が前提になっているため、画面に写されている事物に関しても常に「これはどこまで現実を反映させているのだろうか?」という懐疑を差し挟むことがいつの間にか習慣になってしまっている。




