錬金術ですが、なにか?
翌、月曜日。
完爾はいつも通り仕事に向かい、休憩時間にスマホで自分の口座をチェックし、本当に残高が八桁になっていることを確認する。所得税が天引きされているから一千万円が丸々入金されたわけではないのだが、その前に残っていた預金と合わせると一千万円を軽く越えている。しかも、これからしばらくは放置していても硬貨の貸し出し料が月五十万、入金される予定だった。
ちょいと前まではまるで縁がなかった金額が表示されている画面を見て、完爾は乾いた笑い声を上げたくなる衝動に駆られた。周囲にいる同僚たちに不審に思われるので、実際には声をあげなかったが。
……これだけで、食えるんじゃないか?
と、思わないでもなかったが、クシナダグループの方針が変われば入金も即座に途絶えてしまうわけで、少なくともこれだけに依存するのは得策ではないか、とすぐに思い直す。
結局、
「やはり、今の仕事を辞めるわけにはいかないな」、と結論した。
今の仕事に不満があるわけではないが、この仕事の収入だけで将来的にも家族を養えるかといったら、かなり心許ない。
当面は、今の仕事をやりつつ、もっと実入りのいい仕事を捜すのが得策だろう。
「……なに、門脇さん。
スマホ見て、百面相して」
寺岡さん、という同僚から声をかけられた。
「え?
ああ、いや。
口座残高見て、将来設計とかちょっと考えていてもんで……」
「将来設計、か」
「いつまでも続ける仕事じゃないもんな」
休憩所の周りにいた同僚たちが、口々にそんなことをいいだす。
肉体を酷使する仕事であるせいか、人の入れ替わりはかなり激しい職場だった。完爾がこの仕事をはじめてからまだ一月経っていないのだが、同時期に面接を受けた人間は一人か二人しか残っていない。
この職場で長くやっていける者は、完爾のように肉体労働が苦にならないタイプか、それとも他の職場ではまず受け入れて貰えない半端者かのどちらかだった。
「門脇さん、家族居たっけ?」
寺岡さんが、訊いてきた。
寺岡さんは、若い連中が多いこの職場の中では年輩の部類に入る三十代の男性で……つまりは、完爾と同年輩だった。
「ええ。
嫁と娘が」
「ああ。
それじゃあ、収入的にきついかも知れないな。
なに、共働き?」
「いえ。
まだ、娘が生まれたばかりなんで、手が放せなくて」
「そっかあ。
それじゃあ、しばらくはきついかも知れないな」
「どっかに割のいい仕事ないっすかねえ」
「あったら自分でやっているよ」
こんな何気ない世間話をしている自分の姿なぞ、ほんの数ヶ月前の完爾自身は、想像もできなかったろう。
世間一般から見れば、この職場にいる人たちは低収入の、いわゆる下流層に分類される人たちなのだろうが、こういう場所にはこういう場所なりの安寧がある……と、煙草の煙と缶コーヒーの匂いを感じながら、完爾は思う。
収入的な面はともかく、それ以外のことに関していえば、完爾は、今の職場はそれなりに気に入っていた。
帰路、電車で揺られながら、完爾は今後のことを考えてみた。
クシナダグループからの流れてくる現金は、当面、ありがたく受け取っておくことにして……やはり、それ以外に、長期的に続けられる仕事というか収入源をはやめに確保しておくべきだよな、と。
千種には、「来年にはがっぽり税金がかかってくる」といわれている。法人を設立すれば、多少は節税になるそうだが。
……やっぱ、資金があるうちになにか商売をはじめる方がいいのかなあ……とも思うのだが、中学を卒業するのと同時にむこうに召喚された完爾には、すぐに妙案が浮かぶほど世間知に長けてはいないのだった。
……帰ったら、ユエやねーちゃんと改めて相談してみよう。
結局は、そんなありきたりな結論になった。
夕食後、完爾はユエミュレム姫に相談をはじめる。
「カンジは、お金が欲しいのですか?」
「違う違う。
欲しいのは、お金じゃなくて、安定した収入源。
お金がないとなにもできないのは、こっちもむこうも同じだから」
帰宅してすぐに、完爾は、「いつまでもクシナダグループに頼っているわけにはいかない」こと、それに「今の仕事だけでは三人の家族を養えないこと」などの事情をユエミュレム姫に説明した。
「……割合と、厳しい状況だったのですね」
「低収入で、すまん」
説明しながら完爾は、なぜだか非常に申し訳がない気分に襲われた。
「カンジが謝る必要もないと思いますが……。
そうですね……」
ユエミュレム姫はいくつかの案を出す。
「魔法を使った、か……」
「こちらの世界は、もう十分に豊かですから……。
さらにこの上、なにかを売ろうとしたら、こちらの世界にはないものを……ということになるのではないでしょうか?
幸い、わたくしは錬金術系の魔法も心得ておりますし、それを利用して独自の製品を売りに出せば……」
「……そういや、銀行の貸金庫に金貨や銀貨を預けていたっけ……」
どのみち、固定化の魔法などの特殊効果の要素を除けば、こちらでは地金としての価値しかない代物だ。
「それがあるのでしたら、なおさら。
貴金属は、こちらでも貴金属なのでしょう?
こちらの女性も、凝った細工の装身具を好むのではないでしょうか?」
「お、おう。
それは……いいかもな」
あとで千鶴に相談してみる価値はあるか、と、完爾は思った。
完爾は試しに十円玉を渡して、ユエミュレム姫にそれに錬金術系の魔法をかけ、なにかを作ってみるようにいった。
ユエミュレム姫の掌の上で、十円玉は外周部からほどけはじめる。
細い針金状態の銅線となって、螺旋状になって、真上に昇る。
一メートルくらいまで上昇したところで、単純な「銅線」が、小さな輪が連なった「鎖」に変形した。
その「鎖」が、ユエミュレム姫の手首に巻きつく。
「……へぇー……」
その様子を、完爾は、素直に感心して見ていた。
「ユエ、そんなこともできたんだ」
「カンジの前で披露する機会はありませんでしたが……」
ユエミュレム姫は、はにかんだような表情になる。
「……お掃除や針仕事と同じで、こんなのも婦女子の嗜みのうちなのですよ」
会話の間にも、「鎖」の変形は続く。
手首から掌全体へむかって這っていき、手の甲の部分に複雑な模様を描きはじめた。
「その模様……みおぼえが、あるな」
「うちの家に伝わる、代表的な模様ですから。
お城の内装や刺繍の模様なんかにも、よく取り入れられています」
幾何学的なパターンを繰り返す模様だったが……道理で、完爾にもみおぼえがあるわけだ。
「そういう模様、まだいくつかおぼえているの?」
「五百……くらいでしょうか?
本当は嫁入り前にその五倍くらいはおぼえないといけないのですが、わたくしの場合、途中からカンジたちと合流してしまいましたから……」
基本的に、知識は人から人へと直接伝えられるのが当然の世界だったしな……と、完爾は納得する。
しばらくすると、ユエミュレム姫の左手は、銅製の、繊細な細工でできた手袋に覆われていた。
王家伝統の模様をあしらっているだけあって、繊細な印象を受ける。
「それ、硬くないの?」
「硬くは、ありませんね。
この線の一本一本は細いですし、それに、柔軟化と固定化の魔法も重ねてかけていますので、動きを邪魔することもありません」
そういえば、完爾も向こうでは、妙に伸縮性に富んだ金属製の甲冑とかを使用した経験がある。
この手の魔法も……むこうの世界では裁縫とかの延長の、ごくありふれた技術に過ぎないんだろうな……と思うと、完爾は少々複雑な思いに駆られるのだった。
むこうとこちらとの違いは魔法の有無だけに拠るものではなく、もっと根本的な部分から違っているような気がする。
物理的な技術に関しては確かにこちらの方が進んでいるが、だからといってむこう側がこちらよりも遅れている世界だとは思えないのだった。
ともあれ……。
「……こういう細工物、貴金属で作ったら……こちらでも、高価で取引されると思う」
完爾はそう、結論した。
なにより、他では真似できない加工法を持っていることは、絶対的な強みになるはずだった。




