敗者たちの行方ですが、なにか?
六本木に出現した大カエルが氷漬けになったのを最後に怪人のたぐいは出没していないので、テレビなどでは今日の出来事をまとめて総括するような番組ばかりを流していた。完爾やグラスホッパーの活躍を録画した映像を編集して流し続けている。マスメディアが直接撮影した映像も多かったが、その場に居合わせた素人がたまたま撮影してネットにアップロードした映像素材もかなり多く使用されていた。
とにかく今回の件は目撃者が多く、そうした映像もその分、大量に保存されている。
流しっぱなしのテレビを確認しながら、千種は、
「これは、あとで大変なことになりそうなだな」
と、そう思う。
学校の所在地を確認したあと、千種はすぐに警察から専用の窓口として完爾が教えられていた番号にかける。幸い、その番号は「なにかあったときにはここに」といって、事前に完爾が白山さんに教えており、そのままスマホにも登録されていた。
相手が出ると千種は、まず名前を名乗り、誘拐されてからこれまでのことを簡単に説明する。それから、
「次は東京湾でなんらかの異変が起こる可能性があります」
とも告げ、その根拠となる推論もしっかりとした声で伝える。
千種がいった「異変」はすぐに確認されることになった。
東京湾上に、蜃気楼のような不可解な幻影が確認されたのだ。
その幻影が出現していたのは僅かな時間でしかなかったが、遮蔽物がなにもない東京湾上に出現したことから、かなり多くの人々に目撃されることになった。
また、警視庁や海上保安庁が迅速に出動し、幻影が現れている付近の捜索しだした。
マスコミ各社もすぐにヘリをさしむけて中継をはじめた。
中継されなかったとしても、浦安や湾岸地区、横浜方面など、その幻影までの遮蔽物がない場所からならば肉眼で観測することができた。
その日、かなり多くの人々が直接に、あるいはテレビの画面越しにその幻影を目撃することになる。目撃したほとんどの者が、それらを実体がない幻影だとみなした。
そこには、現実にはあり得ない風景、動植物、人造物が映し出されていたからだ。
常識のある者ならば、それは蜃気楼のような幻影だと思うはずだ。無理にでもそうとでも思いこまなければ、これほど不自然な現象を容認できない。
しかしそれらは、単なる幻影にしてはあまりにも克明でありすぎなかったか。生々しすぎなかっただろうか。
「……あれは……」
東京湾上のある場所に立った女性が、その幻影を見あげていった。
「……異なる世界の現実だ」
その女性、「博士」は自分の足元に視線を落とす。
「博士」が立っていたのは、かなり異常な場所だ。
ごつごつと硬そうな……しかし所々に皹が入っていて、そこから煙があがっている。
「あれらは、この世界がそうなっていたかも知れない姿……もうひとつの可能性だ」
「博士」が立っている場所が微かに揺れた。
『……わたしは……ここまでのようです……』
割れた、ひどく聞き取りづらい声がどこかから、響いた。
どこから?
いや、その声は「博士」の足元から聞こえてくる。
「気が済んだか? 「大使」よ」
「博士」は自分の足元に語りかける。
「これで、満足か?」
「大使」は、確か、ウミサソリとかいう太古の生物を模して自分の体を改造していたはずだ。そのウミサソリという生物は、全長二メートル半ほどの大きさでしかなかったそうだが、今の「大使」の体はその何十倍にも及ぶ巨大なものとなっていた。
どうしたわけか、自律術式を利用して人体に手を加えようとすればなんらかの動物をモデルにしなければうまく作動しないという制限があり、なぜ「大使」が自分の体に手を入れる際、こんなエビもどきの生物を選んだのか、詳しい理由を「博士」は聞いていなかった。
『改めて聞かれますと、返答に窮するところではありますな』
「大使」の声が周囲に響く。
『遅いか速いかの違いはあれど、いずれはこうなっていたような気もしますし』
「あの空を見よ。
「大使」よ。
お前の望む混乱の時代は、すぐそこにせまっているぞ。
この事態を招いたのは、明らかにお前の尽力によるものだ」
『そう……ですね』
「大使」の声は徐々に弱々しいものになっていった。
『この目でその混乱を直接見ることがかなわないのが、心残りではありますが……。
わたしの思考を模倣したbotは……学習し、複製し……いつまでも残ってこの世をかき回し続け……それで、よしと……』
「博士」が足場にしていた「大使」の巨体が、ぐずぐずと崩れて波間に消えていこうとしていた。
『……どうやら……本当に、ここまでの……。
……年前、パリで……仙丹を……』
切れ切れに聞こえてくる「大使」の声。
それに答えるべき「博士」の姿は、もはやそこには見られなかった。
靱野は泳いで氷塊に戻った。
せっかく完爾に補充して貰った魔力は、さきほどの「大使」に行った一撃でかなり目減りしてしまった。完全に枯渇したわけではなかったが、それでも転移魔法が問題なく使えるほど潤沢に魔力が残っているわけでもなく、だとすればここまで戻る手段は自力で移動していくしかない。
暦の上では春であるとはいえ、気温も水温もまだまだ冷たい季節だった。
氷塊の上に戻った靱野は、一度身震いして周囲を見渡す。
頭上には、異界の情景。
体を密着させて剣の柄を握り、必死にその剣を制御しようとしている完爾とユエミュレム姫の夫婦。
そして……どうやらその二人を襲うとしているらしい、一人の女性の姿が見えた。
先ほど、完爾が剣の被害を周囲に及ぼさないために展開した結界に阻まれ、その女性、「博士」の攻撃はなんの成果もあげないまま空転しているようだったが……。
それでも「博士」は、結界に対しての攻撃を続ける。
完爾たちは、「博士」の存在を関知した上で問題ならないと判断しているのか、顔をそちらにむけようとさえしない。
東京湾上に現れた幻影。
それらは、ほとんどの目撃者にとっては単なる幻にすぎなかった。
しかし、「博士」の目には幻などではなく、明らかにあり得たかも知れないもうひとつの現実、可能性として映った。
既知ではない、未知の事物。
それは、この「博士」が長年恋いこがれていたものでもある。
その膨大な可能性が、徐々にたったひとつのものに収斂していこうとしていた。
完爾とユエミュレム姫が急速に、あの剣の操作方法を学びつつあるのだ。
頭上に浮かんだ幻、そのひとつひとつが消えるたびに、「博士」は身を切られるような切ない思い駆られた。
心の中で、
「止めろ! 止めろ!」
と念じながら、必死になって見えない隔壁を攻撃する。
「博士」知るどんな秘技、秘術を全身全霊をもって駆使しても、完爾が張った結界は小揺るぎもしなかった。
それらの結界は、完爾にしてみれば気休めのために、一瞬で構築した程度の安易な代物であったのだが、それでも「博士」の力量と比較すれば、あまりにも強固に過ぎた。
「止めろ! 止めろ!」
いつしか、「博士」は、実際に声に出してその結界に殴りかかっていた。
長年追い求めたものが、すぐそこにある。なのに、どうあがいても手が届かないもどかしさ。
「……本当に理解しているのか、その意味を!
お前らは、今、この世界の可能性をひとつひとつ閉ざしているのだぞ!」
悲痛な、叫びだった。
別の世界への門。
完爾たちにしてみれば、この世界を乱す要因に他ならないのだが、この「博士」の目にはひどく蠱惑的なものに映っているらしかった。
しかし、「博士」の懇願も虚しく、頭上の幻影はひとつ、またひとつと数を減らしていき……ついには、たったひとつの「可能性」に収斂して、固定された。




