ユエル。
穏やかな寝息が、部屋に響く。
深夜ということもあってか、ユエルはすぐにぐっすりと眠ってしまった。
やはり、まだ子供ということだろう。
……子供は夜はしっかりと寝るべきだ。
ユエルを起こさないように、布団から抜け出る。
そして、極力音をたてないように、ゆっくりと部屋の扉を開けた。
「ご主人様、どこへ行くんですか?」
瞬間、背後から声がした。
……布団から抜け出た時に、起こしてしまったのだろうか。
でも、これは少し不味いな。
ユエルを連れていくわけにはいかないし。
とりあえず、誤魔化しておく。
「あ、あぁ……トイレだよ」
「ご主人様、私も連れて行ってください」
……トイレに一緒についてきて、いったいどうするつもりなんだろうか。
お断りしたい。
「さ、さすがにトイレに一緒に行くのはな……ユエル、少し、部屋で待っていてくれ」
けれど、ユエルは俺と扉の間に回り込むと、じっと俺の瞳を見つめる。
「ご主人様、このお屋敷の外に出るのなら、私も連れて行ってください」
そして、俺を正面から見据えて、はっきりとした口調でそう言った。
「っ……! ユ、ユエル!?」
……俺の考えは、ユエルにバレていたらしい。
そういえば、よく見てみると、ユエルの表情に寝ぼけているような様子はない。
……ずっと起きていたのだろうか?
で、でも、寝息はしっかり確認したし。
もしかして、狸寝入りでもしていたのか。
狸寝入り……。
それはつまり、俺の嘘を、ユエルは確信していたということで……。
「ご主人様、私、ご主人様が私にたくさんの嘘をついていたこと、最近わかるようになったんです」
「んんんっ!?」
そして、衝撃的な言葉が、ユエルの口から発せられた。
さ、最近っていつだろう。
どの嘘がバレたんだろう。
ユ、ユエルの中の俺のイメージは、いったい今どうなっているんだろう。
――ユエルが、俺がこれまでついてきた嘘に、気づいていた。
邪神を倒すために一人立ち向かおうとしていたが、そんなことは一瞬で頭から消え去った。
ユエルに、「嘘つきでえっちなご主人様なんて大嫌い」、そう言われてしまったら?
やばい。
無理。
耐えられない。
でも、もし本当に嘘がバレてしまったのなら、そうなって当然だ。
ユエルは、清廉で潔白でとても優しい理想のご主人様が好きだったんだから。
ユエルは、嘘で固めた俺の表面を見ていたに過ぎない。
「……ユ、ユエル……その、悪かったな。俺はユエルが思っていたような、立派なご主人様じゃない」
おそらく、誤魔化しても意味はないだろう。
これまで、ユエルが騙されていたのは、ユエルが俺を疑わなかったからだ。
俺の嘘は、後で冷静になって考えれば、すぐにわかるような杜撰な嘘ばかりだったし。
いつかは気づかれると思っていたが、ついに来る日が来てしまったらしい。
まぁ、少しの期間でも気づかれていなかったのが奇跡だった。
そして……俺が本当はどういう人間なのかを知れば、ユエルはきっと見損なうはずだ。
ユエルの目を、正面から見ることができない。
「いいえ、私のご主人様は、立派なご主人様です」
けれど、耳に、ユエルの澄んだ声が響いた。
驚いて、ユエルの顔を見る。
すると、ユエルは俺の目をしっかりと見据えながら、こう続けた。
「これまで、おかしいなと思うことはたくさんありました。すごく、すごくたくさんありました。……でも、私はご主人様が嘘をつくわけがないって、きっと無意識に、ご主人様を信じようとしていたんです」
すごくすごくたくさんありましたか。
例えばなんだろう。
エリスに治療院を追い出された理由を黙っていたこと?
ルルカの胸を揉んで治療費を値引きしていたこと?
それとも、鑑定のスキルが使えることを黙っていたことだろうか。
いや、トイレに行くと行ってミスコンの会場に潜り込んだあの時のことかもしれない。
正直、心当たりはいくらでもある。
「でも、私、気づいたんです。……ご主人様は、おっぱいが大きい女の人が、本当に、本当になによりも大好きなんだって」
「そ、そこは気づかないでほしかったな」
……まぁ、最近エリスもルルカも一緒にいることが多かったしな。
風呂場なんかでは、本当にガン見していたと思うし。
逆に、ユエルがそこに気づかないわけがないんだろう。
「……そう考えたら、ご主人様がいつも何を考えていたのか、どうしたかったのか、なんとなくわかるようになったんです」
いつも何を考えていたか。
それは、つまりおっぱいだ。
俺はいつもおっぱいを眺めては、あのおっぱいを揉むにはどうすればいいだろうとか、そんなことを普段から考えていた気がする。
これは駄目だ。
ユエルは立派なご主人様だと言っていたが、これでどう立派だと言うんだろうか。
「ユ、ユエル……たしかに、俺はそういう人間だ。……その、ユエルが嫌だというなら、奴隷から解放してもいい。今なら、フランあたりが護衛として高給を出してくれるかもしれないしな」
これで、ユエルに好かれるわけがない。
ユエルが俺を嫌だというのなら、ユエルの意思を尊重するべきだ。
俺がユエルを奴隷としてそばに置いていたのは、あくまでユエルがそれに不満を持っていなさそうだったからだし。
金銭的な問題も解消された今、ユエルを無理に俺の手元に置いておく必要はない。
……残念では、あるけれど。
「ご主人様のことは、嫌じゃありません。嫌になんて、なれるわけがありません。……私はご主人様の嘘に気づいたとき、すごく、すごく嬉しかったんですから」
けれど、ユエルの言葉は、想像とは違っていた。
ユエルはそう言いながら、俺に微笑みかける。
「確かに、ご主人様は私に嘘をついていました。でも……ご主人様が私についた嘘は、私を悲しませないため、私を泣かさないため、私を傷つけないための、優しい嘘ばかりだったと思うんです」
「っ……!」
――優しい嘘。
俺には、そんなつもりはなかった。
ユエルに嘘をついていたのは、もちろんユエルを悲しませないためでもある。
でも、どうして嘘をついたかと言えば、俺の悪いところを隠すためとか、俺のやりたいことをユエルにバレずにやるためだとか、そういう、自分本位な理由だったはずだ。
「私は、ご主人様に顔を治してもらって、美味しい料理を食べさせてもらって、ふかふかのベッドで眠らせてもらって、すごく、優しくしてもらって……勝手に、ご主人様に自分の理想を、押し付けていたんだと思います。でも、ご主人様はその理想を壊さないでいてくれました。ただの奴隷である私のために、ご主人様はずっと、私の優しい立派なご主人様でいてくれようとしていたんです」
ユエルはそう解釈したらしい。
ユエルの理想を演じていたと言えば聞こえはいいが、俺はただユエルの前で見栄を張るのが楽しかっただけなんだが。
……少しはそういうところも、あったのかもしれないけれど。
「ご主人様は、完璧な人間ではないかもしれません。でもご主人様はそれでも、いつだって、いつだって私のことを考えてくれていました。泣きそうな私を見つければ、必ず頭を撫でて、慰めてくれました。……私は、そんなご主人様が大好きなんです。勇気があって、格好良くて、そして優しい。そんなご主人様を、私は愛しているんです」
……でも、ユエルにとっては、俺の欠点なんてどうでも良いらしい。
俺は確かに、よくユエルのことを考えていた。
ユエルの尊敬を失いたくなくて、悲しませたくなくて、ユエルのご主人様としてそぐわないことをするたびに、それを誤魔化していた。
ユエルの理想のご主人様にふさわしい行動をとろうと、普段の自分の行動原理を曲げたことだって、何度もある。
「絶対にご主人様には危険な目にあってほしくありません。私は、何があってもご主人様と一緒にいたいんです」
……ユエルは俺に感謝しているようだが、でも、それは俺だって同じだ。
俺がユエルのために理想のご主人様としての行動をとっていたというのなら、俺はユエルがいなければ理想のご主人様としての行動はとることができなかったんだから。
ユエルがいなければ、エリスと関係を修復することはできなかった。
ユエルがいなければ、街をエリアヒールで救うことだってしなかっただろう。
そうなれば、俺は今も、こうして聖人なんてもてはやされることは、絶対になかった。
ユエルがいなければ、俺は今頃、そのあたりで小悪党でもやっていたかもしれない。
「私は、ご主人様の勇者です。何があっても、ご主人様を必ずお守りします……だから、私も連れて行ってください」
そして、ユエルがもう一度、そう言った。
……改めて考えて、よくわかった。
俺にとって、本当にユエルは大切な存在だったらしい。
ユエルはずっと一緒にいたいと言ってくれたが、俺も今はそう思える。
だから、俺はこう答えた。
「わかった。ユエルが守ってくれるなら、邪神との戦いも安心できる。……一緒に行こう、ユエル」
「っ……は、はい! 私はご主人様の勇者として、必ずご主人様をお守りします! なにがあろうとも、絶対にご主人様を守り切って見せます!」
俺が答えると、ユエルは表情をパァッと明るくする。
一緒に行けることが、本当にうれしいらしい。
ぴょんぴょんと飛び跳ねそうな勢いだ。
すごくかわいい。
「流石ユエルだ。頼もしいな」
そのまま、頭をぐりぐり撫でる。
片方の手――左手で、ユエルの頭を抱きしめるようにしながら、撫で続ける。
「えへへ……」
連れて行ってもらえることがうれしいのか、撫でられてうれしいのか、ユエルは小さく声を漏らした。
――そして、俺の「嘘」に気づかずに、ユエルは嬉しそうに頭をこすりつけている。
ユエルは嘘に気づいたと言っていたけど、この調子じゃ多分全部は気づいてないな。
俺がついた嘘のいくつかに気づいた程度で、まだ半分も気づけてないんじゃないだろうか。
まぁ、大人になったら自然と気づくことではあると思うんだが。
俺がついたのは後で冷静になって考えれば、すぐにわかるような、ずさんな嘘ばかりだし。
――そのままユエルを左手で抱きしめながら、アイテムボックスに右手を入れる。
取り出すのは、眠り薬。
アステルに貰った、副作用がほとんどないという、即効性の睡眠薬だ。
そして、それをユエルの頭の上から振りまいた。
即座に、自分にだけディスポイズンを発動する。
便利そうだから無理を言って貰ってみたが……本当に便利だなこの薬。
素早く、気配の察知が得意なユエルだって、これなら完封だ。
まさか、これを最初に使うのがユエルになるとは思ってなかったが。
異様な匂いに気づいたのか、ユエルが俺を、そして俺の手にある小瓶を見つめた。
ユエルは驚いた表情をするが、それも一瞬。
すぐにユエルは身体から力を抜いて、そのまま俺に倒れこんできた。
「わ、私は……ごしゅ……を……まも……」
眠気に抵抗しながらも、俺に何かを伝えようとするユエル。
でも、さすがにこれは意思の力でどうにかなるようなものじゃない。
……ユエルは、そのままゆっくりと目を閉じると、穏やかな寝息を立て始めた。
「悪いな、ユエル。…………俺も、愛してるよ」
もちろん、恋愛的なあれじゃないけれど。
ほら、家族的なあれだ。
一応ユエルの頬をむにむにしてみても、何の反応もない。
今度こそ、眠ったようだ。
眠ったユエルを、そっとベッドの上に運ぶ。
――ユエルは「大好きなご主人様だからこそ、危険な目にあってほしくない」、そう言っていた。
でも、それは俺も同じだ。
こんなに慕ってくれているユエルだからこそ、絶対に危険な目に合わせるわけにはいかない。
俺は、必ずこの作戦を成功させる。
そして帰ってきたら、その時はユエルのことを全力でかまってやろう。
俺はそう決意して、部屋から一歩を踏み出した。
次の更新は3日後ぐらいです。




