風呂からの脱出。
サキュバスの再襲撃。
昨日の大規模襲撃で一回、今朝の襲撃で一回、そして、これで都合三回目の襲撃だ。
でも、いくらやってきても同じことだ。
この屋敷は、サキュバス一人に落とせるような警備じゃない。
また、サキュバスは数分と持たずに尻尾を巻いて逃げることになるだろう。
――そう思っていた。
「な、なんだ!? いったい、どうなっている!?」
「明かりが消えていくっ……!? クソッ、何も見えないぞ! サキュバスはどこへ行った!」
「あの蝙蝠型の魔物っ……も、もしかしてライトイーターか!?」
けれど、予想に反して。
屋敷のいたるところから、混乱した騎士の声が聞こえてきた。
どうやら、今度のサキュバスは魔物を連れてきたらしい。
「……シキ様、ここを出て、急ぎ騎士達と合流しましょう」
不穏な空気を感じとったのか、聖女がそう提案してくる。
けれど、その提案を実行に移す前に、異変に気付いた。
――明かりが、消えていく。
何か物が壊れるような音と一緒に、脱衣所の明かりがどんどん消えていく。
「あれって、もしかして……!」
その光景を見て、ルルカが叫ぶ。
そして、その叫びと同時。
脱衣所との間にあった曇りガラスを突き破り、数匹の蝙蝠のような魔物が、風呂に突入してきた。
「な、なに!?」
「やっぱり、ライトイーターだ!」
エリスの悲鳴に応えるようにして、ルルカが言う。
「ラ、ライトイーター?」
「ライトイーターはね、光を放つものを執拗に攻撃する習性がある魔物なの! このあたりの洞窟にも生息してたと思うから、サキュバスが連れてきたのかも……!」
どうやら、あの蝙蝠の魔物はライトイーターというらしい。
そして、明かりが消えていっているのも、あの魔物の仕業のようだ。
でも迎撃しようにも、さすがに風呂の中で武装はしていない。
「きゃあ!」
「あぁっ、明かりが!」
ほんの僅かな間に、風呂の明かりは全て破壊されてしまっていた。
「お、おい、怪我をしたやつはいるか?」
「だ、大丈夫! ライトイーターは人を襲ったりはしないから! 多分、すぐ別の明かりに向かって飛んでいくと思う!」
ルルカの声と一緒に、聖女やユエルからも、無事の声が聞こえてくる。
どうやらルルカの言う通り、ただ明かりを破壊しただけらしい。
エリスの無事も確認しようと思ったが、どうやら確認する必要はなさそうだ。
背中に、エリスでしかありえない質量が当たっている感覚がある。
柔らかいなにかが、ぎゅっと押し付けられている感触がある。
……唐突に魔物がきたから、怖かったんだろうか。
それとも、俺を庇おうとでもしたんだろうか。
「お、おい、エリス……」
でも、今エリスは何を着ているというわけでもない。
そんな状況で密着すれば、柔らかい感触が生で背中に当たっていろいろやばいことになる。
「っ……! そ、その、ご、ごめんなさい」
「い、いや、大丈夫だから。ぜ、全然大丈夫だから」
状況に気づいたのか、エリスが弾けるように俺から距離をとった。
……ここが暗闇でよかった。
視覚的な情報まであったら、俺はユエルが見ている前でも本能のままに行動していたかもしれない。
「し、しかし、本当に何も見えないな……」
「この状況は不味いですね。騎士も混乱しているようです。なんとかして合流しなければ……誰か、女性の騎士も一緒にお風呂に呼べばよかったかもしれませんね」
「今更言っても仕方がないな。とりあえず、風呂から出るぞ……ユエル!」
目が慣れるまで待つという手もあるが、今は一刻も早く騎士達と合流する必要がある。
ここは、夜目の利くユエルに出口まで案内してもらうしかないだろう。
「ご主人様、こっちです」
ユエルが、俺の手をとって引っ張り始める。
出口までこのままエスコートしてくれるつもりらしい。
さすがユエルさん。
凄く頼りになる。
……でも、確か脱衣所のガラスが割れたりしていたな。
ユエルは踏まずに済むかもしれないが、俺はうっかり踏んでしまいそうだ。
「ユエル、俺にもわかるように、状況を実況してくれ」
情報を俺にも共有するように、しっかりユエルに指示を出しておく。
「わかりました。じゃあ、ご主人様、手を引きますね。まずは、浴槽から出ます。段差があるので、大きく乗り越えてください」
「あぁ、わかったユエル」
浴槽から出るために、まずはユエルの指示通りに一歩を踏み出す。
右足を浴槽から出し、見えない段差を大きく乗り越える。
――そして、つるっと足を滑らせた。
「う、うぉおおお!?」
俺の意志とは無関係に、前傾していく身体。
――なぜ転んだのか、その可能性を頭が考え始めた。
入浴剤。
あれだ。
アルカリ性の温泉に入ると、皮膚が僅かにぬるぬるする現象。
あのぬめりが、俺の足を滑らせたんだ……!
「ご、ご主人様っ!?」
ユエルの悲鳴が聞こえた。
転びそうになっているのはわかるが、真っ暗で何も見えない。
どこに手をつけばいいのかもわからないし、受け身もおそらく取れないだろう。
けれど、瞬間。
なにかが俺の身体を支えた。
おそらくユエルが、倒れこみそうな俺の身体を支えようと頑張っているんだろう。
でも、ユエルの腕力では、もう倒れる寸前までいってしまった俺を止めることはできない。
俺は、そのままユエルを巻き込んで床に倒れこんだ。
「あいたたた……」
頭に鈍い痛みはあるが、ユエルを押しつぶしたような感覚はない。
適当に手をついてみたんだが、なんとか自分で自分の身体を支えることはできたようだ。
「ごっ、ご主人様がっ、ごごご、ご主人様がっ……わ、私の上にっ……!」
……もしかしたら、ユエルが頭を打ってしまったかもしれない。
声をかけて、無事の確認をしてみる。
「ユエル、大丈夫か?」
「わっ、私は大丈夫です! わ、私は、私はいつでも大丈夫です!」
大丈夫そうだ。
いつでも大丈夫というのはちょっとよくわからないが、とりあえず大怪我はしていなさそうだ。
少し安心した。
「あっ、じっ、実況。実況するんでした! えっと、今、裸の私の上に、裸のご主人様が覆い被さっています。も、もう触れてしまいそうなぐらい、近い距離です。す、凄くドキドキしています」
……全然安心できない。
そんなところを実況しろとは言ってない。
状況の報告はともかく、心情の告白までは求めていない。
「ちょ、ちょっとあなた、な、なにやってるの!?」
「押し倒したのっ!? ユ、ユエルちゃんを、今押し倒してるの!?」
状況がよくわかっていなかったエリス達も、今の実況で理解したらしい。
これはいけない。
「タオルもはだけてしまっていて、ご主人様は何も着ていません。す、す、すすす、すごいです……すごいですっ……」
なにがすごいというのか。
この状況でくっきりはっきり見えるのは、夜目の利くユエルだけだ。
俺には何がどうなっているのか、さっぱりわからない。
でも、ユエルは絞り出すような声で、すごいですすごいですと繰り返している。
「は、恥ずかしくて、顔が熱いです。でも、凄くうれしいです」
耳にささやくような、ユエルの声が聞こえた。
……というか、これ、本当に耳にささやいている。
ユエルの吐息らしきものが、耳にかかる感覚があった。
よく見えないが、どうやら本当に近い位置にいるらしい。
状況もなんとなくしかわからないが、とにかく離れないと不味い気がしてきた。
「わ、悪い、ユエル。今どくから」
俺は今、両手と両ひざを地面についている姿勢だ。
おそらく、ユエルは俺の手と手、足と足の間にすっぽり入っている形になっているんだろう。
ユエルを跨ぐように、急いで腕と足を移動させる。
――その瞬間。
「うおおぁ!」
ぬるっと手が滑った。
焦っていたせいか、体重移動に無理があったらしい。
支えを失った体は、そのまま真下に落下する。
反射的に肘をついて勢いを殺すことには成功したが……今のは危なかった。
「シ、シキ様……やはりシキ様の趣味は……私に反応しなかったのも、やはりシキ様が幼女趣味だから……」
そうして悪戦苦闘していると、聖女がなにやら結論づけようとしている声が耳に入った。
でも、それは酷い誤解だ。
俺が、聖女に反論しようと口を開く。
すると、
「ご、主人様と裸で密着しています!」
ユエルが叫んだ。
「ご主人様が、上から私に乗っています。ぎゅって、密着しています。筋肉がごつごつしています。たくましいです。とても温かい、ご主人様の体温を感じます」
そして、心の底から嬉しそうに、そう言うユエル。
そういえば、身体の下になにかぷにぷにとした感触がある。
どうやら、さっきのでユエルを本当に下敷きにしてしまっていたらしい。
ユエルは何か勘違いでもしているのか、俺の背中に両手をまわし、きゅっと力を入れている。
「ユ、ユエル、待て! 今のは手が滑っただけ、手が滑っただけだ!」
これは、流石に弁明しなければ、風評以前にユエルが何をするかわからない。
誤解を、全力で解きに行く。
「……ちょっと前、私の胸を偶然を装って触った時も同じことを言ってたわ」
エリスが言う。
確かに、そんなこともあったかもしれない。
……エリスは、たぶんセクハラのことは結構根に持っている。
でも、今それを言うのはやめて。
本当にやめて。
「シ、シキ!? 本当なの!? だ、駄目だよそれは! 流石にユエルちゃんだけは駄目だよ!」
ルルカが、エリスの言葉を真に受けて騒ぎ出す。
そして、ざばざばと水音が鳴った。
「ひ、ひゃああああ!」
それから、悲鳴と何かが地面に転がる音。
……たぶん転んだな。
ろくに見えないのに無茶するから。
「ルルカさんがお風呂から出て、石鹸を踏んで転びました。床の上で、尻餅をついています。持っていたタオルが、お風呂の中に落ちてしまいました」
ユエルが、ルルカの状況も冷静に説明してくれる。
やっぱり転んだのか。
……でも、それはつまりルルカは今、完全に全裸ということなのだろうか。
ルルカが全裸で、床の上で、尻もちをついてるということなのだろうか。
見えないんだけど、声の方向に目をこらしても、なにも見えないんだけど。
「ご主人様が、尻もちをついた裸のルルカさんをじっと見つめています」
目を凝らしてルルカの方を見ようとしていると、それもユエルが実況する。
「え、えぇ!? ちょ、ちょっと、見ないで! 見ないでよ!」
「み、見えてないから!」
駄目だ。
視線を向けるとユエルに実況されてしまう。
「エ、エリスさんも、ルルカさんも、こっちに視線を向けています! は、恥ずかしいですけど、ご、ご主人様が今お望みならっ……見られていでも、私は大丈夫です!」
そして、そんなユエルの言葉。
よく目を凝らしてみると、目の前にユエルの顔がある。
どうやら、暗闇に少し目が慣れてきたらしい。
ユエルの顔は、俺の目と鼻の先。
ほんの数センチのところで、浅く荒い呼吸を繰り返しながら、俺をじっと見つめていた。
「前に、聖女様がエリスさんに言っていたこと、私も聞いていました。サキュバス対策に、とても有効な方法があるって。ご主人様の、せ」
「ユ、ユエル、もう何も言わなくていい! 実況も必要ない、も、もう目が慣れたから!!」
時間が経ったせいか、床が僅かに見えるようになった。
こ、これだけ見えれば、なんとか脱衣所から出ることはできるだろう。
「よ、よし、早く騎士達と合流するぞ!!」
俺は、ユエルの声をかき消すように、そう叫んだ。
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