期待。
「やべぇ、やべぇよ……」
そわそわする。
領主の屋敷の大きな浴場。
そこに張られた適温の濁り湯に肩まで浸かりながら、俺はそわそわしていた。
そわそわしすぎて、さっきから何度も独り言が口から出ている。
……おそらく、ルルカもエリスも、一緒に風呂に入るというのはその場の勢いで言ってしまったことなんだろう。
服を脱ぐところを見られたくないのか、先に俺に入って待っているように言ったあたり、恥ずかしさを強く感じていそうな雰囲気だった。
俺が頭を洗い、身体を洗ってもまだ二人で脱衣所で固まっているのが、曇りガラス越しにぼんやり見える。
「でも、たぶん……二人とも、入ってくるよなこれ」
エリスもルルカも、俺のことが好きだと言っていた。
おそらく、今、二人とも退くに退けない状態になっている。
エリスが退けばルルカが入って俺を色香で誘惑し、ルルカが退けばエリスだってそうするかもしれない。
ドキドキしてきた。
というか、さっきからドキドキしっぱなしだ。
か、身体を洗ってもらったりするんだろうか。
いや……身体を洗ってもらうだけで済むのだろうか?
二人とも、好きになったらいつでも即肉体関係、みたいなことを考えるタイプじゃない。
どちらかといえば、しっかり段階を踏んで……みたいなタイプだろう。
――でも今はそれが通用しない。
今、エリスとルルカは、どこまで俺と一緒にいられるかのチキンレースのような状態になってしまっている。
例えば、俺の身体をエリスとルルカで洗うとする。
まず、二人のどちらかが俺の背中側を洗う。
性格的に、おそらくルルカが先に行動に出るだろうから、ルルカが俺の背中を流すと仮定しよう。
そうすると、それに対抗するためには、エリスは前側を洗うしかないわけで。
俺が二人と一緒に風呂に入って、平静で冷静で沈静な状況でいられるわけもない。
前側は、強く存在を主張するわけで。
エリスはきっと、必死に目を逸らしながら俺の胸板や足を洗うことになるだろう。
でも、いつまでも目を逸らしてはいられない。
俺の気持ちをどうにかするには、色仕掛けが一番手っ取り早いことを、エリスもルルカもよく知っている。
そのまま、エスカレートしてしまう可能性だってないではないのだ。
「落ち着け……落ち着け俺……」
また、上がったテンションが独り言として口から出た。
曇りガラスの向こうに、ぼんやりとエリスとルルカのシルエットが見える。
二人とも、ゆっくりと、無言で服を脱いでいるようだ。
しゅる……しゅる……と、衣擦れの音だけが聞こえてくる。
「なっ……! すごっ……え、えぇっ!?」
そして不意に、驚いたようなルルカの声が聞こえた。
「べ、別に……そんなに凄くはないと思うけど……」
恥ずかしがるような、エリスの声も聞こえた。
何が起きたのかはわかる。
おそらく、エリスが上を脱いだのだろう。
……あの迫力は驚くよな。
俺も、初めて見たときは驚いた。
驚きすぎてそのまま風呂場にいるエリスにダイブして、翌日治療院を追い出された程だ。
でも、今はいくら見ても追い出されたりはしない。
合意の上だ。
触ったりしても許してもらえるかもしれない。
ルルカもエリスもたぶん、怒ったりはしないだろう。
「こんなことが……こんなことがあっていいのか……」
なんだか、無性になにかに感謝をささげたくなってきた。
でも、残念ながら俺には信仰する宗教はない。
とりあえず、関係の進展に一役買ったサキュバスあたりに感謝をしておくか。
こんな状態になったのも、サキュバスへの警戒のためというのが大本だし。
邪神の使徒サキュバス、ありがとう。
サキュバスを生み出した邪神様もありがとう……。
今なら、邪神教徒になってもいいと思える。
曇りガラス越しに、脱衣所の光景が見える。
エリスが服を脱いだことに焦ったのか、ルルカも服を脱ぐような動きを見せている。
テンションがどんどん上がっていく。
そして、曇りガラス越しに見える赤いルルカの髪。
その下が、肌色になった。
ぼんやりとしたシルエットしか見えないが、確実に服を脱いでいる。
さぁ、後はそこの脱衣所と風呂を繋ぐドアを開けるだけ。
あとちょっとで、二人の姿が見える。
二人は、僅かな間、固まったように動きを止めた。
でも、すぐにゆっくりと動き出す。
戸惑いはもうなさそうだ。
何か考えるべきことがあったような気もするが、今はもう二人とお風呂に入ることしか頭にない。
さぁこい……さぁ……さぁこい!!
そして、扉が開き始める!
――その瞬間。
「サキュバスだー! サキュバスが来たぞー!」
騎士の野太い声が、屋敷中に響き渡った。
「クソサキュバスが!!!」
まさか、こんなタイミングでサキュバスがやってくるなんて。
あとちょっとでエリスとルルカとお風呂に入れたのに。
あと少しだったのに、まさかこんなところで邪魔されるとは……!
「……いや、待てよ……?」
……サキュバスが来たということは、エリスもルルカも俺のそばにいる必要がある。
つまりは、この風呂に入ってくる必要があるということだ。
逆に、サキュバスが来た事で二人が急いで入ってくるという可能性もある。
まだ、チャンスは消えていない。
頭に浮かんだその希望に、望みをかける。
けれど、脱衣所の方から。
「……ま、まだ早いよね」
ルルカの声が聞こえた。
「そ、そうね。さ、流石にいきなり……一緒にお風呂はね。こ、ここのお風呂はサキュバスが入ってこれるような大きさの窓もないし、ここが唯一の入り口だから……だから、待ってれば大丈夫よ」
そして、ルルカの言葉に同調するような、エリスの声が聞こえた。
「そ、そうだよね! や、やっぱり早いよね! ちょ、ちょっと焦っちゃったね!」
今のルルカの様子は、見なくてもわかる。
まず間違いなく、エリスの胸元から視線を逸らしながら、自信無さげな顔をしているはずだ。
……おそらく、エリスの衝撃的な巨乳を見て、日和ってしまったんだろう。
自分から風呂に入ろうとしたくせに。
「ふ、服……着ましょうか」
「あ、う、うん!」
エリスは、おそらく単純に裸を見られるのが恥ずかしいのだろう。
きちんとした段階も踏んでいないし、こういうのは間違っていると思っているのかもしれない。
退けるなら退きたい、そんな気持ちがひしひしと伝わってくる。
でも、ここは退かないでほしかった。
――そして、静かになった脱衣所。
俺は、一人風呂に取り残された。
……この気持ちをどこにぶつければいいのだろう。
期待が高まっていた分、目の前でチャンスが消えたことで、ふつふつと怒りが湧いてくる。
「待ってろよ、サキュバス」
さっきまで感謝を捧げていた邪神の使徒の名前を、呪うように吐き出す。
「絶対に捕まえる。ひんむいて、街中に晒しあげてやる!!」
俺は、サキュバスを捕まえる決意を新たにした!!
「サキュバスが単独で食堂に突っ込んできたらしいぞ! 食堂に急げ!」
「狙いは聖人様と聖女様だ! 絶対に行かせるな!」
「出入り口を塞げ! 必ず食堂で仕留めるぞ!」
風呂から出ると、屋敷の中は大騒ぎになっていた。
騎士の大声が、屋敷のいたるところから聞こえてくる。
声の内容から察するに、どうやらサキュバスは魔物も連れずに一人で突貫してきたらしい。
……そういえば、他の街の教会で石化の治療を求めていた、という話だ。
「石化が進行して、焦ったのか」
サキュバスは相当切羽詰まっているのかもしれない。
でも、この屋敷は現在、対サキュバス作戦本部とも言っていいぐらいの厳戒態勢。
戦闘能力のないサキュバスに、この屋敷の警備を掻い潜って俺や聖女をどうこうすることなんて不可能だろう。
最早無謀と言っていい攻撃だ。
「サキュバスにシキが誘惑されて、連れ去られちゃうとまずいんだよね……? と、とりあえず……て、手とか? つ、繋いでおこっか」
そんなことを考えていると、不意に、右手にひんやりとした感触があった。
ルルカだ。
……どこか恥ずかしそうに頬を染め、少し照れたような様子で俺の手を握ってくる。
手を握るより、一緒にお風呂に入ってほしいんですけど。
「そ、そうね……て、手よね。手を繋いでおけば、大丈夫よね」
ルルカに乗るように、エリスもそっと俺の左手に手を触れさせてくる。
エリスの方は、どこかホッとしているような、そんな雰囲気だ。
……もしかしたらエリスは、以前俺がサキュバスに誘惑されたときに言われた、聖女の言葉でも思い出しているのかもしれない。
手を握るよりも、そっちが良いんですけど。
「ひっ、ひぃいいい! な、なんでぇっ! なんでこんなにたくさんいるのよーっ!」
「サキュバスを逃がすな! 剣でも矢でもなんでもいい! ぶん投げて壁にはりつけにしろ!」
「そうだ、翼だ! 翼を切り落とせ! 翼さえ切ればちょこまかと逃げ回れないはずだ!」
「や、やめてぇ! はりつけはいやぁ! 翼はっ、翼はやめてぇええ!」
……しかし、よりにもよって食堂に突っ込むとはサキュバスも運がない。
あそこでは、大勢の騎士が食事をとっていたはずだ。
まさに飛んで火にいる夏の虫、そんな状況になっていることが簡単に想像できる。
「わたしは石化を! 石化を治してほしいだけなのにいいいいいいいい!!!」
「窓を破って逃げたぞー! 追え、追えー!」
パリン、と窓が割れる音が鳴ると同時に、悲痛そうなサキュバスの叫びと、騎士の雄叫びが屋敷に響く。
窓から外を見てみれば、サキュバスが空を飛んでいるのが見えた。
「サキュバス、逃げてるな」
「翼のさきっぽのあたり、ちょっと切れちゃってるね。なんか髪の毛も少し焦げてるし」
「足も、もう膝の上ぐらいまで石化してるわね……討伐する必要があるのはわかっているけど……なんだか少しかわいそうになってきたわ……」
屋敷に入って、数分も経たずに満身創痍で敗走するサキュバス。
……屋敷の警備は万全なようだ。
報復してやろうと思っていたが、俺が手を下すまでもなかった。
サキュバスは、屋敷の中にいる俺を発見することすらできずに逃げ去っていった。
この調子なら、俺と聖女がこの屋敷に籠っていれば、数日後にはサキュバスは石像にでもなっているだろう。
一日で石化が膝の上まできたのなら、おそらく、あと二、三日もあれば、石化が翼のあたりまで進行して飛行すら不可能になる。
この近辺に俺たち以外のエクスヒールの使い手はいないということらしいし。
サキュバスはこれでもう詰みだ。
しかし、はた迷惑な奴だった。
あとちょっとで、エリスとルルカと風呂に入れたのに。
「い、いやー。サキュバスが来るなんてびっくりしたね! そ、それじゃあ、シチューの汚れも落ちたし、ドラちゃん見に行こっか! ドラちゃん! あ、エリスさんも一緒でいいからさ!」
「そ、そうね。ドラゴン、見に行きましょうか。な、仲良く見ればいいわよね……」
もう、エリスもルルカもそんな雰囲気じゃない。
というか、一緒にお風呂に入ろうとしていたということに、全く触れようとすらしない。
完全になかったことにしようとしている。
おそらく、今から入ろうと言っても入ってはくれないだろう。
もう入る理由もないし。
「そういえば、ユエルは庭だったよな。一応無事だけ伝えておくか」
心配しているかもしれないし。
そう続けようとした瞬間、
「ご主人様、ここにいます」
「うおわっ!」
背後から声をかけられた。
めっちゃびっくりした。
めっちゃびっくりした。
びっくりしすぎてエリスとルルカの手を振りほどいてしまうぐらいびっくりした。
「ユ、ユエル、いたのか……」
「アステルさんが言っていました。隠密たるもの、常に気配を消すべし、だそうです。普段から気配を消すのに慣れるために、まずはご主人様に気づかれないようにそばに控えている練習をしていろって言われて」
ユエルに変なことをやらせないでほしい。
毒の勉強はもう終わったんだろうか。
……というか、いつからいたんだ?
食堂?
風呂?
それともサキュバスがやってきてから?
「お風呂から出た直後ぐらいから、あなたの後ろにいたわよ。気づかなかったの?」
エリスが「何言ってるの」とばかりに指摘してくる。
なにそれちょうこわい。
「ユ、ユエル、お、俺の近くでは気配は消さなくていい。ほ、ほら、頭も撫でられなくなるからな」
怖い。
怖すぎる。
ユエルに本気で隠れられると、俺は間違いなくユエルの存在に気づけない。
いついかなる時も、ユエルの視線を意識しなければならなくなる。
迂闊にトイレでスライムぜりーすら使えなくなる。
「はい、わかりました!」
「お、俺の近くで隠れるのも駄目だぞ? ユエルはかわいいから、いつも見えるところにいてほしいしな」
「はい!」
元気に頷くユエル。
ユエルが素直な子でよかった。
かわいいと言われたからか、ニコニコしている。
……いや。
でも、どこか違和感がある。
そうだ、視線が俺に向いてない。
ユエルの視線は、ルルカとエリスに向いている。
……あぁ、これはたぶん、俺とエリスとルルカが手を繋いでいたからニコニコしているのか。
エリスとルルカに喧嘩してほしくなさそうだったし。
和解したと思っているんだろう。
実際には風呂やらサキュバスやらで、ただ有耶無耶になっただけなんだけれど。
でもこの誤解はそのままにしておこう。
またハーレム計画を暴露されては困る。
それに、本当はハーレムなんてほとんどの人が受け入れないなんて知ったら、たぶんユエルは泣くだろうしな。
次の更新は3日後ぐらいです。




