眠り粉。
数分後。
……なんとなく、こうなるような気もしていた。
でも、こうなったら面倒なことになるだろうなとも思っていた。
領主屋敷の庭。
寸止めの、木剣による一本勝負。
――その結果、倒れこんだアステルの首元に木剣を突きつける、ユエルがいた。
「くっ、くぅううう……」
尻もちをつきながら、ギリギリとユエルを睨み付けるアステル。
……勝っちゃったよユエルさん。
騎士にも負けない対人戦闘のいろはを仕込まれた聖女の隠密に、勝っちゃったよユエルさん。
「ご主人様! 勝ちました!」
ユエルが、嬉しそうに俺に近づいてくる。
そして撫でてほしいのか、頭を撫でやすい位置にもってきて、頭を小さく揺すり始めた。
アステルの反応が気になるが、とりあえず撫でておく。
「ありえない……」
そして、頭を撫でられてはにかむユエルを、子供がするにはありえない表情で見つめるアステル。
目には半分涙がにじみ、下唇をきつく噛みしめ、ユエルを強く睨んでいる。
……やっぱりこうなったか。
ユエルには勝って欲しかったが、勝ったら勝ったでこうなるのは目に見えていた。
ほら、聖女の護衛としての、プロ意識みたいなの高そうだったし。
……でも、アステルの気持ちもわからないでもない。
アステルは、ユエルに戦闘の技術ではおそらくいくらか勝っていた。
でも、スペックで完全に負けた、そんな試合内容だった。
巧みなフェイント交じりのアステルの攻撃は、ユエルの反射神経一つで強引に避けられる。
アステルが俊敏にユエルの死角に移動しても、ユエルは耳をピクッと動かしては、正確にアステルの居場所に木剣を向け続ける。
ユエルは、技術の差を身体能力でカバーしてしまった。
ユエルがきちんと戦闘技術を磨いた時の伸びしろを考えれば将来への期待は高まったが、これはアステルには少し酷な結果だ。
というか、こんなに悔しそうにしているアステルが、ユエルに戦闘技術をちゃんと教えてくれるだろうか。
ただでさえユエルのことを嫌っているような雰囲気があるのに。
アステルのメンタル状態が不安だ。
アステルに命令した聖女からしても、この結果はおそらく予想外だろう。
聖女の使う隠密に勝てるのなら、おそらくユエルは大抵の敵にゴリ押しで勝ててしまう。
それこそ皮膚が硬すぎてナイフの通らないアーマーオーガや、アステル以上に強い一握りの実力者でもなければ、ユエルには勝てないのかもしれない。
でも、そんなことはおそらくアステルには関係ない。
ユエルの強さがどうであろうと、聖女の隠密として同い年の、しかも戦闘訓練もろくに積んでいないような人間に負けた。
これは、アステルにとってどうしようもなく屈辱的なことだろう。
ユエルを睨みながら、瞳いっぱいに涙をため、プルプルと震えてしまっている。
「な、なぁアステル、これは……」
ちょっとかわいそうになってきた。
何か慰めの言葉でもかけるべきかと悩んでいると、
「し、試合だったから負けたんです。も、もしこれが真剣で、私が武器に毒を塗っていれば、私の勝ちだった。真剣勝負なら、私の勝ちだった!」
ユエルに向かって、ほとんど泣きながら、アステルがそう主張する。
どうやら、試合では負けても真剣だったら負けていない、そう言いたいらしい。
まぁ、適当に納得してくれるなら、勝敗なんて俺としてはどうでもいいんだけれど。
ユエルもアステルもどっちも幼い少女だし、変にそこを拗らせて泣かれても困る。
あとはユエルの反応次第だが……ユエルもアステルの言葉に深く頷いた。
「はい、毒が塗ってあったら、負けていたかもしれません」
そして、アステルの主張をなぞるようにそう言うユエル。
空気を読んだんだろうか?
いや、よく見てみると、ユエルの右肩に小さな擦過傷ができている。
気づかなかったが、アステルの攻撃を躱し損ねたのかもしれない。
あの程度ではまず致命打にはなりえないが、確かに実戦で武器に毒を塗ったりしていれば、ユエルは行動不能になっていただろう。
「私は聖女様の隠密です! 聖女様の敵を追跡し、情報を収集し、時には毒や薬を用いて無力化する。それが私の仕事です。もちろん正面戦闘の技術も重要ですが、隠密にはそれよりも重要なものがあるのです!」
ユエルはふんふんとアステルの言葉を聞いている。
そしてアステルはおもむろにユエルの目の前に複数の瓶を並べ始めた。
「あなたに何を教えるべきか悩みましたが、これにしましょう。これは全て、私が独自に調合した毒薬です」
「こ、これ、全部ですか……? す、すごいです!」
ズラリと並べられた、毒の瓶。
それを見たユエルが驚愕の声をあげ、アステルを称える。
ピクリと、力なく垂れていたアステルの犬耳が揺れる。
「わ、私はこのすべての毒を、状況に合わせて使い分けています」
「じょ、状況に分けて……こ、こんなにたくさんあるのに? すごいです!」
さらに、ユエルが褒める。
アステルの犬耳がまた揺れた。
その耳が、元気を取り戻したかのように、僅かに上を向く。
「毒だけじゃありません、解毒剤だって、私はすべて調合できます!」
「すごいです! わたし、毒ってつかったことありません。全部使えて、しかも解毒剤も調合できるなんて、すごいです!」
ユエルが毒瓶をまじまじと見つめながら、大きな感嘆の声を上げた。
アステルの耳が、ピンと上を向いた。
そして、ピコピコと揺れ始める。
「わ、わかればいいんです!」
いつの間にか、アステルの瞳から涙は引き、震えもなくなっていた。
ユエルを見る瞳も、いくぶんか穏やかだ。
なにか慰める言葉でも言ったほうが良いかと思ったが、どうやらもう立ち直ったらしい。
……結構ちょろいなこいつ。
ユエルの方は天然で褒め殺していそうだけど。
「まず、これが神経性の麻痺毒。それで、これは致死性の出血毒。この二つは、主に武器に塗って使います」
気をよくしたのか、アステルがユエルに向けて毒瓶の説明をしていく。
……しかし、毒か。
俺みたいに治癒魔法が使えればあまり怖くはないが、毒を使われると普通の人間ならかすっただけで致命傷だ。
ユエルのように、非力で手数が多いタイプにはちょうどいいのかもしれない。
「……それで、これは眠り粉です。これは呼吸器から摂取させます。即効性で副作用が少ないため、相手を殺したくない時にはうってつけです」
アステルが、毒の説明を続ける。
その話を聞く中で、ちょっと気になるものがあった。
「へぇ……眠り粉か。いいもの持ってるな、それ、俺に少しわけてくれないか?」
眠り粉。
危険性も低いようだし、俺でも扱えそうだ。
おそらく眠り粉は、俺と相性も良い。
アステルに交渉してみる。
「せ、聖人様!? い、いくら聖人様といえど、婦女子を眠らせて乱暴などされては困りますよ!?」
「ち、違う! い、いや、ほら、俺ならその眠り粉をさ、部屋に充満させて、それで自分だけ解毒し続けていればどんな相手でも完全に無力化できるだろ? 持ってればもし誰かと戦うことになっても、肉弾戦なんてしなくて済むと思ったんだよ」
眠り粉が欲しいと言っただけで、あらぬ疑いをかけられた。
俺はいったい、アステルにどういう人間だと思われているんだろうか。
というか、門の警備をする騎士からも結構酷い風評被害を受けていた気がする。
……サキュバスに簡単に誘惑されてしまったところを大勢に見られたからだろうか。
今、この屋敷にいる人間の中で、俺のイメージがどうなっているのか非常に気になる。
「そ、そうですか。ですが聖人様、悪用だけはしないようにお願いしますね?」
「もちろんだ」
さすがに俺も、そこまで外道じゃない。
「聖女様は今、非常に微妙なお立場です。シキ様の行動次第で、聖女様のお立場が揺らぐ可能性も否定できません。そこだけは、どうかお願いします」
けれどアステルは、さらに念を押してくる。
……どれだけ信用がないんだろう。
一応、聖人っていう凄い人物のはずなんだけど。
いや、というか、
「ん……聖女が微妙な立場? それってどういうことだ?」
聖女の立場が危うい、というのは初耳だ。
忙しそうにはしていたが、そういう話は特に聞かされていない。
「……聖女様はサキュバスの復活を、その場に居合わせながら阻止することができませんでした。サキュバスの襲撃も、防衛には成功しましたが、サキュバス自体は取り逃がしてしまっています。……これは、つけ込まれる大きな隙となります。聖女様は敵の多いお方ですから」
聞いてみると、特に隠すことでもないのか、アステルが教えてくれる。
「敵が多いのか?」
「はい。聖女様は、聖人の末裔として強い責任感を持たれていますから。……近年教会では、ダルノーのような汚職は非常に多いのです。聖女様は、汚職をした神官や、不正を働く教会の関係者を、過去に多く粛清してきました。だから、聖女様を目の敵にする人間は……特に教会の内部には多いのです」
アステルの話を聞いて、思い出す。
……そういえば、聖女はわざわざ王都からダルノーを粛正しにきていたんだったか。
まぁ、今回はダルノーがサキュバスの封印された宝玉を奪ったというのもあったが、汚職を見つける度にああいう粛正を繰り返しているんだとすれば、確かに教会内部に敵はできそうだ。
もし俺が大司教になって好き放題やったらすぐ粛正されそう。
気をつけよう。
「聖女様は教会の内部から教会の腐敗を正し、弱者を救うために全力を尽くしているのです。……元奴隷だった私を助けてくださった時のように」
アステルがそう言いながら、胸を張って俺を見る。
そのアステルの目は、とても純粋で、曇りや陰りは感じられない。
アステルは聖女に深く心酔し、尊敬している、そんな雰囲気が伝わってきた。
側近にここまで好かれるというのは、並大抵のことではない気がする。
……たしか聖女は、孤児院の目が見えない少女に、施しの指輪をやったりもしていた。
サクラの件とかでなんだか腹黒そうな奴だと思っていたが、冷静に考えてみると、案外情の深い人間なのかもしれない。
「あ、あぁ。悪用はしない。絶対だ」
「はい。それなら、問題ありません。どうぞ」
「あの、アステルさん、その、私にもいただけますか?」
俺が眠り粉の入った瓶をしまうと、ユエルが待ちわびていたようにアステルに近づいた。
耳がぴこぴこと揺れている。
どうやら、毒を使ってみたいらしい。
個人的にはもっと女の子らしいものにわくわくしてほしいところだが、ユエルは毒に興味津々なようだ。
「聖人様は、治癒魔法のエキスパートだから問題ないのです。あなたには、まずは解毒剤の使い方から教えます。毒を扱うのは、それからです」
「……はい」
ユエルの耳が、残念そうに角度を下げる。
まぁ、ユエルはまだ治癒魔法が使えないからな。
でも、最初はどうなるかと思ったが、アステルに最初の険悪な雰囲気はもうどこにもない。
自負心の強そうなアステルと、素直なユエルは案外相性がよかったようだ。
幼い女の子二人が仲良さげにしているのは、心が癒される。
手に持っているのは毒物だけど。
そして、そんな二人を見ていると。
「シキ、やっぱりここにいたんだね!」
屋敷の方向から、声をかけられた。
振り向くと、ルルカが俺に手を振っているのが見えた。
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