天井。
前回の更新はいつもより感想が沢山もらえて嬉しかったです。ありがとうございます。
男は白目をむいている。
邪魔者は排除できた。
あとは、あの窓から逃げるだけだ。
「よし、エリス、ここから逃げるぞ」
エリスの猿轡を外し、拘束を解いていく。
「ね、ねぇ、あなた、だ、大丈夫なの?」
猿轡を外すと、半泣き顔でエリスが言った。
あまりエリスのこういう表情は見ない。
なかなか新鮮だ。
「あんなのは俺の相手じゃない。ただの雑魚だ。いいから逃げるぞ」
「ぼ、ぼろぼろになってたじゃない……」
それから、縋り付くように抱きついて、泣きながら言ってくるエリス。
いつもならこのままエリスの柔らかい胸の感触でも楽しむところだが、残念ながらまだ危機は脱していない。
今は淡々と、エリスの拘束を解いていく。
「今は無傷だ。……よし、ロープも解けたな。すぐに逃げるぞ」
エリスの腕と足を縛っていたロープを解いて、立ち上がる。
ドアはまだ大丈夫そうだ。
あとは、窓から逃げるだけ。
「駄目よ……もう、先回りされてるわ」
エリスに言われて、窓を見る。
エリスの言う通り、窓の外に、複数の神官の影がある。
……遅かったか。
外から回り込まれる前に、あのバルダスとかいう男を倒す必要があったのに。
神官達の内の一人が、窓を破ろうとメイスを振りかぶっているのが見えた。
おそらくこれから、何人もの神官がこの部屋に入ってくるだろう。
その中には、さっきのバルダスのような、戦い慣れている男もいるかもしれない。
ベッドで寝ていただけのバルダスと違って、最初から武器だって持っているはずだ。
一対一でも厳しかったのに、それが複数となれば……。
……もう駄目なのか?
いや、まだだ。
俺が諦めるということは、それはエリスの終わりを意味する。
メイスを構える。
こうなったら、俺が一人で神官を全員倒しきる。
――そう覚悟した瞬間、大きな破砕音が聞こえた。
目の前の窓が割られた音じゃない。
もっと大きな、建物全体に響くような、轟音。
「ッ――!!」
そして、なにかの咆哮。
「う、うわああああああ!」
「ひっ、ひぃっ、ひいいいいいい!」
「ド、ドラゴン!? なっ、なんでこんなところにドラゴンがっ!? ひっ、く、来るなぁ!!」
逃げ惑う、人の声。
これはおそらく、大司教や神官達の声だ。
しかし、ドラゴン?
いったい、何が起きているんだ……?
考えようとした瞬間、もの凄い音と衝撃と共に、部屋の壁が吹き飛んだ。
咄嗟に、エリスを庇う。
壁の方を見てみると……そこにはドラゴンの顔があった。
見覚えのあるドラゴンの顔が、石造りの壁を突き破っていた。
「こ、これでいいんだよね!? ほ、本当にいいんだよね!?」
ドラゴンの顔の向こう側から、聞き覚えのある声が聞こえる。
ルルカだ。
ルルカの声がする。
「ええ、ルルカさん。よくやってくれました。大司教の慌てて逃げ回る無様な姿が見れて、私もようやく溜飲が下がりました」
「そ、そんなことのために私とドラちゃんを突っ込ませたの!?」
「はい。私は、やられたことはやりかえすと決めていますので」
ルルカと話している方の声も、聞き覚えがある。
でも、まさか。
あいつは、確か王都に帰ったとアリアが言っていたはずだ。
――ドラゴンが、ゆっくりと壁から顔を抜いていく。
壁の向こう側にはルルカと……やはり、聖女が居た。
「武器を捨て、投降しろ!」
空いた穴から部屋の外まで出ると、騎士達が何人も教会に突入してくるのが見えた。
ふと窓の方を見れば、さっきまで外にいた神官も、騎士に拘束されている。
これは……どういう展開だ?
なぜ聖女が、この街にいる?
どうして騎士が、教会に来た?
俺が疑問に思うと同時、教会に入ってきた騎士の一人が、血相を変えて駆け寄ってきた。
……アリアだ。
聖女と王都に帰ると言っていた、アリアまでいる。
「お、お姉ちゃん!? なんでお姉ちゃんがこんなところにいるの!? も、もしかして、大司教に攫われた女性って、お姉ちゃんだったの!?」
「アリア……」
アリアが、へたり込むエリスの手を取って立ち上がらせる。
でも、なんで騎士や聖女、それにルルカやアリアまでこのタイミングで教会に……?
「ア、アリア、これはどういうことなんだ? 説明してくれ」
「お、お兄さん!? すごい怪我ですけど、だ、大丈夫なんですか!?」
聞いてみると、逆に聞かれた。
そういえば、あのバルダスとかいう男のせいで血まみれだった。
服の裾から血が滴り落ちるぐらいのレベルで血まみれだ。
「えっ、シ、シキ!? って、う、うわっ、血!? それ、全部血なの!?」
俺の声が聞こえたのか、ルルカがこちらを見て駆け寄ってくる。
そして、俺の身体を検分するように撫で回しながら、聖女に声をかけた。
「ね、ねぇ、聖女様。これ、どういうことなの!? なんでシキがここに居るの!?」
「そういえば、お知り合いなんでしたね。すみません、失念しておりました」
ルルカの質問に、視線も向けずそっけなく答える聖女。
その聖女は今、冷たい目で、尻餅をついている大司教を眺めている。
ルルカと聖女。
この組み合わせで、一つ思い出した。
――粛清。
たしか、ルルカは以前、聖女がこの街に来た理由は「粛清」だと言っていた。
あれは、もしかして……。
聖女は、大司教が手に持った、紫色の宝石を見ながら言う。
「それは以前、邪神教徒の襲撃によって奪われた、サキュバスの宝玉ですね。やはり、あれは貴方の差し金によるものでしたか。それは危険なものです……返していただきますよ」
……聖女は勘付いていたのか。
こいつが邪神の使徒を復活させようとしていた、ということに。
だから、粛清。
聖女の目的は、最初からこの大司教を粛清することだったのか。
「な、なぜだ! なぜだぁっ! お、お前は王都へ、逃げ帰ったはずだろうがぁ!」
尻餅をついたまま、聖女に向かって声を荒げる大司教。
「本当に愚かですね。私はあなたが粛清に値するだけのことを起こすのを、待っていたんですよ。騎士団の調査隊に紛れて、こっそり街に戻ってきて、ね」
……そういえばアリアが、領主が数日前に、クランクハイトタートル事件の大規模な調査隊をだしたとか言っていたような。
どうやら俺の知らないところで、聖女と大司教の情報戦があったようだ。
「サキュバスの宝玉は、持っているだけでも所有者の欲望を増幅させる。悪い噂の絶えないあなたのことです。あなたを監視し続けていれば、必ず何かの犯罪行為を起こすだろうと思っていました……まぁ、私の予想とは少し外れた結果にはなりましたが」
大司教を、聖女が監視していた?
つまりこの状況は、大司教がエリスを拉致するという犯罪行為を犯したことで、粛清の大義名分を持って聖女がこの教会に突入した、ということなのか?
なんだか、警察による犯罪者の別件逮捕みたいな話だ。
「聖女様は、不自然な寄付金の流れから、この大司教が邪神教徒だと確信していたみたいなんです。でも、それは騎士団を動かせる決定的な証拠とまでは言えなくて……だからこうして一芝居打った、ということらしいです。私も、街を出てから聞かされたんですけど」
アリアが説明してくれる。
「そういうことだったのか」
どうやら、この展開は聖女の手のひらの上だったらしい。
おそらく聖女と領主は、あの大司教にどうやってボロを出させるかとか、そういうことをこれまで話していたんだろう。
「まさか、あなたが関わってくるとは思いませんでしたけどね。大司教にあなたの存在を勘付かれる可能性を減らすために、あえて監視をつけなかったんですが……正直、アステルからの報告を聞いた時は、もしかしたら間に合わないかもしれないと肝を冷やしましたよ」
聖女は大司教を眺めながら、俺とアリアの話に入ってくる。
聖女のそばには、ちょうどユエルと同い年ぐらいの、犬っぽい獣耳の女の子がいた。
あの子がそのアステルなんだろうか。
聖女に頭を撫でられて、嬉しそうに喜んでるけど。
いや、そんなのを見ている場合じゃない。
……俺が関わってくるとは思わなかった?
それはつまり、俺の存在を、聖女はしっかり認識していたということで。
「あぁ、大変失礼致しました。まずは、お礼を言うのが先でしたね。石化の治療を私の代わりにやっていただいて、本当にありがとうございました。観客だけでなく、私が治療しきれなかった部下の一人まで治療していただいて」
俺の方に視線を向けて、ニコリと微笑む聖女。
……あの「見つけた」という言葉、勘違いではなかったらしい。
俺の治癒魔法の実力は、どうやら既にバレていたようだ。
……でも、大司教に俺の存在を勘付かれてはいけないというのは、どういうことだろうか。
そんなことを考えていると、不意にルルカが俺を見ていることに気づいた。
ルルカは俺と目が合うと「や、やっぱり……」と言って自分の足を眺め、何やら嬉しそうに笑い始める。
そして「もう……もうっ……!」と呟きながら、肘で小突いてきた。
「大司教……いえ、邪神教徒ダルノー」
聖女が、大司教に向き直る。
そして、騎士に組み伏せられ、既に身動きすらとれなくなっている大司教に言った。
「王都の教会を襲撃し、サキュバスの宝玉を奪った罪。婦女子を攫い、その復活のための犠牲としようとした罪。……おそらく叩けばまだまだ埃は出るのでしょうが、貴方を牢獄に入れるには、これだけでも十分すぎる程でしょう。メディネ教の聖女として、私はあなたを粛清します」
「ぐ、うぅ……」
地を這う大司教が、呻きながら聖女を睨む。
さっき、エリスにしていたのと逆の構図だ。
……ふと気になってエリスを見てみれば、なぜかエリスも俺を見ていた。
目が合うと、慌てたように顔を下に向ける。
「宝玉を取り返しなさい」
冷淡な声で、聖女が騎士に命令する。
「い、いやだ! 絶対に嫌だぁ! この宝玉は、王都の教会を手当たり次第に襲撃させて、やっと手に入れた宝玉なんだ! わ、私は、サキュバスのいる、理想の世界をつくるんだ!!」
けれど、大司教は組み伏せられながらも身をよじり、身体を捻り全力で抵抗する。
聖女をにらみながら、なんとか拘束から抜けようとする。
「それは理想の世界などではありません。僅かな享楽の後には、貧困と争いに満ちた絶望的な現実が待っています」
……サキュバスのいる理想の世界。
女性がみんな、淫乱になる世界。
それは、俺もちょっと……いや、かなり魅力的には思ったが、
「……それに、女性をただの性欲の対象としてしか見られないあなたのような男にはわからないかもしれませんが、その世界は女性にとってただの地獄です」
ですよね。
……そうですよね、女性にとっては地獄ですよね。
俺は妄想して楽しんでいただけなので許してください。
そうこうしていると、騎士が大司教の腕を掴んだ。
そして、宝玉を奪い取ろうとする。
必死に宝玉を握りしめる大司教の指を、引き剥がそうと騎士が力を込めた。
その瞬間。
「くっ、くそっ、くそっ、くそおおおっ!」
大司教がいる場所から、煙が吹き上がった。
「っ……!」
煙幕だ。
教会の中に、煙が充満する。
……煙玉をどこかに仕込んでいたのか?
「き、貴様! 暴れるな!」
騎士が、何かを制止するかのような声。
「本当に往生際の悪い……サリナ、やりなさい」
「はい……ウインド」
サリナと呼ばれた、聖女の護衛の一人が魔法を使う。
風が吹き、すぐに煙が晴れた。
煙が晴れると、そこには組み伏せられたままの、変わらない大司教の姿があった。
「ふ、ふふ……ふは、ふははは!」
けれど、笑っている。
さっきまでの必死な表情とは違う、不敵な笑みを浮かべた大司教がそこにいた。
「絶対に……宝玉は絶対に渡さない……」
そして、どこか狂気じみた雰囲気でそう呟く大司教。
「っ……! 宝玉は!? すぐに確認してください!」
大司教の様子を見て、聖女が何かに気づいたように、声を上げた。
騎士が大司教の身体を確認するが……首を振る。
冷静だった聖女の表情が、大きく歪んだ。
「ま、まさか……自分で飲んだのですか? そ、そんなことをすれば……」
「ぐ、うう、うああ……」
笑っていた大司教が、胸を押さえて呻き始めた。
騎士の拘束も振り払うような勢いで身をよじり、苦しそうな声を出す。
なんだか、尋常じゃなさそうな様子だ。
しかも、あの聖女の慌て様。
宝玉を、飲みこんだ?
もしかしてあの宝玉は、身体の中に取り込むことで……。
「う、うわあっ!!」
大司教を拘束していた騎士が、異変に気づいて飛びのいた。
……黒い、もやだ。
黒いもやが、大司教の全身から吹き出している。
そのもやは大司教の全身を覆いつくし、まるでサナギの繭のように大司教を包んだ。
「これは、やられましたね……魔法使いの方は魔法の詠唱を! 総員、戦闘の用意をお願いします! 邪神の使徒が復活します!」
――邪神の使徒が復活する。
その言葉に、周囲に緊張が走るのがわかった。
同時、目の前の黒い繭の形が変化し始めた。
まるで中の存在を消化するかのように収縮と膨張を繰り返しながら、変形していく。
それから繭は収縮し、だんだんと人の形をとり始める。
そして、女の姿になった。
あれが、邪神の使徒サキュバス。
……あ、あれがサキュバス?
「な、なによこれぇっ!?」
教会に緊張が広がる中、女……いや、女の子の甲高い声が響く。
……ほ、本当にあれはサキュバスなのか?
「ど、どうなってるのよ! 素体はお、男ぉ!? しかも、魔力もほとんど偽物じゃない!」
サキュバスが、自分の身体に手を当ててから、叫んだ。
ピンク色の長い髪。
柔らかそうな、褐色の肌。
悪魔のように、大きな翼。
煌々と輝く、赤い瞳。
ここまでは、確かにサキュバスっぽい。
でも……小さい。
身長はユエルより少し高い程度しかないし、それに何より……、
「む、胸が、胸がないじゃない!! わ、私の胸は!? 私の胸はどこなの!?」
……胸が無い。
サキュバスが、自分の胸をペタペタと触りながら、一人狂乱している。
……そういえば大司教は、完全な復活のためにはエクスヒールが使えるぐらい魔力がある女が必要、みたいなことを言っていた。
大司教は女じゃない。
それに、魔力も指輪の魔道具をじゃらじゃらとつけて、水増ししていただけだ。
大司教本来の魔力量は、たいしたことはないんだろう。
「じ、自慢だったのに……私の自慢の胸だったのに……」
あれはおそらく、不完全な復活の結果だ。
聖書に書かれていたサキュバスの挿絵は、もっとグラマーな体型だった。
それこそ、ちょうどエリスぐらいの。
今のサキュバスは……お子様体型と言っていいだろう。
「ど、どうして……どうしてぇ……」
サキュバスにとっては相当重要なことだったようで、サキュバスはパニックに陥っていた。
周りのことが何も見えていない、そんな雰囲気で自分の身体を何度も何度も繰り返しチェックしている。
表情も半泣きだ。
「攻撃魔法、放て」
無慈悲にも聞こえる、聖女の声がした。
俺が考察している間に、騎士や聖女の護衛は魔法の詠唱を終えている。
復活したばかりのサキュバスに、容赦無く爆炎が、雷が、氷の塊が飛んでいく。
「っ……! ひっ、あ、あつっ! つめたっ、や、やめ、やめてええええ!」
泣き叫びながら、背中の翼を駆使し、魔法の集中砲火から逃げ回るサキュバス。
……なんか、あんまり強くなさそうだな。
邪神の使徒と聞いていたけれど、少し拍子抜けだ。
縦横無尽に魔法を回避する、その逃げっぷりだけはたいしたものだけれど。
「情け容赦は要りません! 必ずここで仕留めるのです!」
聖女の号令が飛ぶ。
教会の中を飛んで逃げ回るサキュバスを狙って、魔法がさらに飛んでいく。
「ひぎぃっ!」
あ、ドラゴンに尻尾ではたかれて、壁に叩きつけられた。
けれど、ボロボロになりながらも、すぐに逃走を再開するサキュバス。
そのサキュバスの瞳から、涙が零れたのが見えた。
「に、人間め! ……それに、ここは教会か! 邪神様を封印した、にっくき教会の人間めぇ!」
お子様体形のサキュバスが甲高い声で何かを言っているが、迫力は全くない。
時折熱いだの冷たいだの泣き言を叫びながら、羽虫のように逃げ回っているだけだ。
……ほ、本当にあれは、聖書に書かれていたサキュバスと同じものなんだろうか。
けれど、流石歴戦の邪神の使徒というべきか。
サキュバスは、既に割れてなくなっている天井のステンドグラスのあたりまで、魔法の雨を掻い潜りながら逃げ切った。
髪は結構焦げてるし、足に大きめの氷の塊が張り付いたままだけど。
ドラゴンがすぐに追撃するが、
「くっ……これでどうだ!」
サキュバスの瞳が赤く光ったと思うと、ドラゴンの動きが僅かに硬直した。
そして、サキュバスはドラゴンを見つめ続ける。
「ぐ、ぐうう、やはりドラゴンは無理か……」
けれど、すぐに何かを諦めたかのように、ドラゴンを見るのをやめた。
それから、サキュバスは、
「ゆ、許さないからな! 絶対に許さないからなお前ら! こんな街、私の魔物の軍団ですぐに捻り潰してやる! く、首を洗って待っていろよ!」
泣きながら、空へと飛んで逃げていく。
すぐに夜の闇の中に溶け込んで、もう視認もできない。
「逃げられましたか……」
苦々しげな顔で、聖女が呟いた。
「拍子抜けな感じもしたけどな」
なんというか、少なくとも邪神の使徒という感じがしない。
あれが人類の脅威と言われてもしっくりこない。
「見た目に騙されてはいけません。どうやら完全な復活ではないようですが、あれは間違いなく、邪神の使徒サキュバスです。教会に残っている資料によれば、時には人類の中に紛れ込み暗躍し、時には数万の魔物の軍勢を操り、多くの国を滅ぼしたとか」
無念そうに、聖女が言った。
「す、数万!?」
数万。
今、数万の魔物を操るとか言っただろうか。
たしかに聖書の中には、魔物の欲望を操作して軍隊のように指揮するとか書いてあった気はしたけど。
そ、そこまで多いのか。
「サキュバスは直接戦闘をするタイプの使徒ではありません。警戒すべきは戦闘力ではなく、欲望を操るという特殊能力です。ここで仕留められれば最良だったのですが……。それに、彼女はこの都市への襲撃を予告していました。今すぐ、対策をとる必要があるでしょう」
この都市にいる騎士の数は、おそらく千人にも満たない。
それなのに、襲ってくる魔物は数万だという。
お子様体型に騙されたが、どうやら本当にあれは邪神の使徒らしい。
なんだかやばい気がしてきた。
「ね、ねぇシキ。こんなこと聞いてる場合じゃないのかもしれないんだけど……。そういえば、さっきあのアリアって子にお兄さんって呼ばれてたよね……あれって、あれってどういう意味なの……?」
アリアの術中に完全にハマっているルルカが、おそるおそるといった感じで俺に聞いてきた。
でも、本当にそんなことを話している場合じゃない。
これから魔物の軍勢が襲ってくるというなら、今すぐ逃げるべきだ。
――不意に、ガラス窓が割れる音がした。
「ひっ!」
その音と共に、凄い勢いで、何かが教会に飛び込んでくる。
早い。
早すぎる。
もう、サキュバスが魔物を連れて戻ってきたのか……?
と思ったけれど、違った。
体で窓を突き破り、ずざざざっと地面に着地した、何か。
小柄な身体。
銀色の髪。
ユエルだ。
ユエルが、窓から飛び込んできた。
それからユエルは素早く周囲を見渡すと、俺を見つけて駆け寄ってくる。
「ご、ご主人様っ!」
「ユエル、ど、どうしてここに!?」
ユエルはそのまま、一直線に俺の目の前にきた。
それから、涙ぐんだ顔で俺を見上げる。
「目が覚めたらご主人様がいなくて、玄関があいたままで、なにかあったんじゃないかって心配でっ! 教会の方ですごい音がしたから、きっとここだって思って!」
震えた声で、そう言うユエル。
どうやら、本当に必死で俺のことを探していたらしい。
心配させてしまったようだ。
というか、心配といえば……、
「け、怪我とかはないからな。大丈夫だユエル、心配はするな!」
俺、血まみれ。
心配するなと言って心配しないわけがないが、一応無傷だということは伝えておく。
「ご主人様、ごめんなさい……お側にいられなくて、ごめんなさい……」
するとユエルは自分が血塗れになるのも構わず、抱きついてくる。
それから、ぐすぐすと泣きはじめた。
……俺だって、エリスが攫われた後、どこにも影も形もない、探す手がかりすら無いなんてことになれば、冷や汗が止まらなかったはずだ。
ユエルもそんな心境でずっと街を彷徨っていたのかもしれない。
ユエルの頭を撫でる。
それと同時、聖女の居る方から声がした。
「あっ、あぁー! あの子! あの子ですよフィリーネ様! 私が孤児院で大司教の監視をしようとしたら、突然追い回してきたの!」
視線を向けると、先ほど聖女が頭を撫でていた、獣人の幼い少女がいた。
名前は、確かアステルとか呼ばれていたか。
ふんわりとした茶色の髪を振り乱し、ユエルを指差している。
……ユエルが孤児院で追い回した?
そういえば、屋根の上に獣耳の女の子がいたから追いかけたとか言っていた気がするが。
ユエルさん、大司教につけられた聖女の監視を追い回してたんですか。
まぁ、俺の近くでコソコソしてるなんか怪しい奴、とか考えたのかもしれないけれど。
ユエルはそんな声は聞こえてすらいないのか、温もりを確かめるかのように俺に強く抱きついて、泣き続けている。
よく見れば、体中傷だらけだ。
裸足だし、足からも血が滲んでいる。
余程焦って俺を探していたんだろう。
治癒魔法を発動してから、ユエルの頭をまた撫でてやる。
アステルとかいう少女は、そんなユエルを強く睨んで言った。
「フィリーネ様、ねぇフィリーネ様! あの子です! あの子ですよ!」
「アステル、少し黙りなさい」
けれど、深く考え込んだような表情の聖女が、それをたしなめる。
アステルは言われた通り黙り込み、耳をペタンとしおれさせて下を向いた。
聖女は、サキュバスが出て行った天井の穴を見つめ続けている。
「いつまでもここに居ても仕方がありませんね。一度、領主様のお屋敷で、今後のことを考えましょうか」
聖女はそう呟くと、それからなぜか俺を見てニコリと微笑んだ。
次の更新は三日後ぐらいです。




