ユエルと治癒魔法。
翌日。
エリスの誤解をなんとか解いた俺は、ユエルに治癒魔法を教えていた。
ユエルは俺に魔力の扱い方を聞くと、早速治癒魔法を発動してみようとする。
そして――
「駄目でした……ご、ご主人様にせっかく教えて貰ったのに……だ、駄目、でした……」
無念の感じられる、弱々しい声で呟くユエル。
ユエルはご主人様に向ける顔が無いとばかりに下を向き、ふるふると震えている。
「き、気にするなユエル。治癒魔法自体は発動しなかったが、ほんのちょっとだけ手元が光った。最初でそれだけ出来れば十分だ」
……流石にユエルでも一回目から成功したりはしないか。
でも、治癒魔法の修行には普通は数年程度かかるという話なのに、一発目からそれらしい光が出たというのはかなり凄い方だろう。
天才かもしれない。
うちのユエルちゃんは、もしかしたら天才なのかもしれない。
ナイフで中近距離の戦闘ができて、敏感に気配が察せて、夜目も効く。
そして治癒魔法も天才的なんてことになればそろそろ俺の存在意義が危うい。
既に俺が保護者どころか、逆に保護されている気もするし。
治癒魔法が使えるなら、攻撃魔法だって学べば使えるようになるだろう。
俺と一緒にいるだけで魔力が底上げされ続ける上、種族は長命と言われるダークエルフだ。
修行の時間も十分にある。
ユエルさんの伸び代がやばい。
「まぁ、治癒魔法には魔力の扱い方だけじゃなく、信仰心や知識なんかも関係しているからな。そのあたりを勉強すればすぐに使えるようになるさ」
「信仰や知識、ですか……」
落ち込むユエルを慰めながら、考えてみる。
ユエルのことではなく、昨日のことだ。
ルルカから聞いた、聖女の目的。
「粛清」という単語に一度は夜逃げも考えたが、どうにもあれは俺のことでは無い気がした。
それに逃げるといっても、この治療院にはエリスもいるし、エリスはそう簡単には思い入れのあるこの治療院を離れないだろう。
なんとなく不安だから、なんて理由でここを離れることはできない。
というわけで、もう少し聖女について情報収集をしたい。
今後のことを決めるのはそれからだ。
……ぼんやりとそんなことを考えていると、ユエルが俺を見ていることに気づいた。
ユエルは俺と目が合うと、おずおずと口を開く。
「……あの、ご主人様。もしよかったら、聖書を読んでくれませんか? 私、うまく読めなくて……」
そういえば、聖書を読むことでも信仰心は深まるみたいなことをエリスは言っていた。
神に関する具体的なエピソードを読むことで、神の存在を信じる助けにするとか、おそらくはそんな感じなんだろう。
「聖書? ……あー、ユエル、文字はどれぐらい読めるんだ?」
ちなみに俺はこの世界の文字が読める。
何故かはわからないが、この世界の言葉や文字に関しては、俺はこの世界に来た直後から完璧に理解できていた。
ユエルに教えるぐらい、わけないだろう。
何故文字が読めるのか、そもそも何故この世界の言葉が理解できるのか、という原因についてはサッパリわからないけれど。
そもそも死んだと思ったらこの世界に居た、なんていう今の俺の状況自体が全く理解できないし。
……まぁ、これに関してはいくら考えても仕方ないか。
何か理由があるのかもしれないが、考えるための材料が足りなすぎる。
いくら考えても結論なんて出るわけがない。
まだエリスの胸をバレないように眺める方法でも考えた方が生産的だ。
「ある程度は孤児院に居た時に学んだので読めます。でも、聖書は難しい言葉が多くて、よくわからなくて……」
「なるほどな、わかった。そういうことなら俺に任せろ」
「ありがとうございます、ご主人様! えっと、それじゃあ、第三章の途中からお願いします!」
ユエルが、嬉しそうな声で言う。
しかし、聖書か。
俺はメディネ教の聖書というものをまともに読んだことがない。
内容も詳しくは知らない。
メディネ教が国教のこの国では聖書の内容が史実として扱われているということと、大まかな話の流れとしてメディネ教が邪神とその使徒を封印するという内容らしいのは知っているけれど。
「えっと、三章……三章な……」
三章を探してパラパラとページをめくってみると、何やら立派な杖を持った男が、魔物の大軍勢と相対している挿絵があった。
挿絵があるのは子供の教育用に作っているからだろうか。
少し気になってざっと文に目を通してみると、どうやら邪神の使徒サキュバスが率いる魔物の軍勢と、教会の聖人が戦っているシーンらしい。
「サキュバスか……」
「ご主人様、サキュバスが、サキュバスがどうかしましたか?」
気になった単語を小さく呟くと、ユエルが即座に反応してくる。
「い、いや、なんでもないぞユエル」
……なんでサキュバスって二回言ったんだろう。
いや、信仰心のために貪欲に聖書の内容を理解しようとしているということか。
うん、知的好奇心があるのは良いことだ。
しかし、サキュバスか。
サキュバスといえばアレだ。
よくエッチな成人向け漫画に出て来るやつだ。
寝ている間に凄く良い夢を見せてくれたり。
欲望を操って女の子を発情させたり。
都合の良い魔法で人の感じる快楽を数十倍に引き上げたり。
成人向け漫画でよくそういうことをする、淫乱な悪魔と書いて淫魔のあのサキュバスだ。
……本当にいるんだな、サキュバスって。
いや、この聖書自体が宗教の権威付けのための創作という可能性も否定できないんだが、サキュバスという単語を見て否定したくなくなった。
どうせ宗教の本なんてつまらない内容だろうと思っていたはずなのに、俄然興味が湧いてきた。
邪神の使徒ということは、サキュバスは人類の敵として出てきているわけだけれど、一体どんなことをしたんだろう。
女の子を発情させたんだろうか。
女騎士達の性的快感を数十倍にして「あぁっ、鎧が擦れるだけで感じちゃう!」な状態にしてまともに戦えなくしたんだろうか。
想像が膨らんでいく。
「ユエル、この聖書に興味深い記述を見つけた。高度な治癒魔法にも応用できるかもしれない、重要な記述だ。集中して読みたいから、少し待っててくれ」
「……? はい、わかりましたご主人様」
少し読んでみると、どうやら魔物の欲望を操ることで魔物の軍団を作り上げたサキュバスが、街を襲おうとしているという状況らしい。
どうでもいい戦いの部分は読み飛ばしながら、サキュバスに関する記述だけを探していく。
するとあった。
【サキュバスには、生物の欲望、特に性欲を自在に操る能力がある。サキュバスはその能力を使い、知能の低い魔物をまるで軍隊のように指揮する】
……いや、このあたりは違う。
あまり興味がない。
流し読みでページをめくっていく。
【サキュバスは、動物や知能の低い魔物だけでなく、人の性欲を操ることもできる】
これだ。
これでこそサキュバスだ。
テンションが上がってきた。
「ふむ、なるほどな」
盛り上がってきた心の内をユエルに見抜かれないよう、クールな表情を維持しつつ、前髪をファサッとやったりしながら読み進めていく。
どうやらここは、邪神の使徒としてサキュバスが行った悪行が書いてあるページのようだ。
【サキュバスは人間の女性になりすまし都市に潜入すると、その能力を使って街全体の若い女性達の情欲を際限なく煽り、昼夜を問わず性交にふけらせることで都市の機能を麻痺させた】
このページに挿絵が無いのが悔やまれる。
おそらく聖書に記述されているこの都市は、どこよりもエッチな成人向け漫画の世界に近い都市だ。
サキュバス、この迷宮都市にもぜひ来て欲しい。
サキュバスに乱れさせられ、高ぶり続ける情欲と恥じらいの間で葛藤するエリスとか、とても見たい。
――不意に。
聖書を読み続けていると、俺の読んでいる内容が気になったのかユエルが聖書を覗き込もうとした。
「この理論、少し古いが今の治癒魔法にも応用できるかもしれない……」
「っ……!」
適当なことを言いながら立ち上がり、それを阻止。
こうすれば背の低いユエルには見えない。
流石にサキュバスが若い女性を淫乱にさせているくだりを読んでいるなんてバレるわけにはいかない。
ユエルはなんだか凄そうなことを言った俺を尊敬の眼差しで見つめている。
……それにしてもサキュバス、なんで今は居ないんだろう。
あぁ、教会に封印されたんだったか。
サキュバスを封印するなんて、教会も酷いことをする。
ぜひとも復活させたい。
あ、でも邪神の使徒で人類の敵だから復活させちゃ駄目なのか。
邪神のいる世界に少し魅力を感じつつ、読み進めて行く。
【サキュバスは住民の情欲を長年にわたって操り続けることで、複数の都市で人口爆発を引き起こした。情欲を操られ続けたことによる生産力の低下、そしてこの人口爆発をきっかけとして、都市の一部には飢餓や貧困が溢れた】
やることをやれば子供が産まれる。
この世界、しかも聖書に書かれるような古い時代ならまず避妊具なんて無いだろうし、当然のことだろう。
【しばらくして、食料や資源をめぐった人間同士の小競り合いが起こるようになった。この小競り合いは、やがて都市と都市、国と国、そして人類全体を巻き込んだ大きな戦争となった。サキュバスは争い連携の取れなくなった人類の隙を突き、魔物の軍勢を率いて都市を一つ、また一つと滅ぼしていった。この戦争をきっかけとして人類は生存圏の大幅な後退を余儀無くされ、当時の人口の六分の一がこのサキュバスの能力を起因とする飢えや争いで死亡した】
……サキュバス、絶対に復活させちゃいけない。
さすが邪神の使徒というか、やり方がえげつなさすぎる。
あえて敵の人口を増やして、足りなくなった食料をめぐって争わせ、漁夫の利を狙うとか。
もっとほら、なんか、サキュバスらしくダブルピースフルな感じの展開を期待してたのに。
これは駄目だ。
やはり、漫画と現実は違うということだろうか。
このサキュバスは、間違いなく人類を殺しにきているサキュバスだ。
……なんだか、上がっていたテンションが一気に冷めてしまった。
「よし、もういいぞユエル。三章からだったな」
「はい、サキュバスの特徴が書いてあるあたりからお願いします」
「あれが三章だったのかよ!」
……ユエルの目を見てみる。
キョトンとしているのは、俺の動揺が伝わったからか。
でも、大丈夫そうだ。
耳は赤く無いし、もじもじともしていない。
ただ聖書の内容を学びたがっているだけ、そんな真面目な顔をしている。
他意はなさそうだ。
これなら「情欲ってどういう意味ですか?」とか、「性交ってなんですか?」とか聞いてきたりはしないはず。
……。
「聖書には難しい言葉があってよくわからない」ユエルはさっきそう言ってたな。
もしそれを聞くとしても、俺には聞かないで欲しい。
エリスに聞いて、エリスが恥ずかしがりながら説明に困るところを俺に見せるべきだ。
「ご主人様、どうかしましたか?」
俺が躊躇しているのが伝わったのか、ユエルが純粋な瞳で聞いてくる。
……ルルカとの一件以来、ユエルは何をするかわからないところがある。
不意に一線を超えてきそうな、そんな危うさがある。
正直、サキュバスが若い女性を淫乱にして子作りさせまくった話なんて、絶対に読み聞かせたくない。
「内容に不適切な部分があったから幼いユエルには読み聞かせられない」と正直に言おうか?
……駄目だ。
ユエルの目は治癒魔法を覚えてご主人様の役に立ちたいという使命感に満ちている。
「私は大丈夫です」以外の答えが返ってくる可能性は限りなく低い。
まぁ一応言ってみるけど。
「ユエル、そのな、三章はちょっと内容がユエルに悪い影響を与えるかもしれな」
「だ、大丈夫です! 私は大丈夫ですから!」
かなり食い気味だ。
しかも二回返事をした。
……もう一度ユエルの目を見てみる。
なんだか、覚悟の据わった目をしている気がする。
とても真剣な目だ。
治癒魔法を学びたい、そんな真摯な気持ち一色に見える。
本当に他意はなさそうだ。
……そういえば俺は以前、川に流されて気絶したことがあったな。
しかもその時、ユエルは俺の身体のことをとても心配していた。
そういう経験があったからこそ、俺が治癒魔法を使えない状況の時に俺を治せる力が欲しいと考えているのかもしれない。
ユエルは向上心のある少女だ。
可能性は高い気がする。
俺も覚悟を決めるしか無いのだろうか。
まだ幼い奴隷の少女であるユエルに、サキュバスによる人類子作りファンタジーを読み聞かせる覚悟を決めるしかないのだろうか。
この、純粋な目をした少女に?
読み始めて五秒で「情欲ってなんですか?」とか聞いてきそうなこんな幼い少女に……?
できるわけがない。
ここはユエルには悪いが、用事が入ったから読めないとでも誤魔化しておこう。
適当に外をぶらついて、時間を潰すことにしよう。
あ、でも駄目だ。
ユエルはおそらく後をついてくる。
ついてこられたら用事なんて無いのがバレる。
置いていくのもそれはそれでなんだか可哀想だ。
というか、ミスコンで魔物の襲撃事件もあったから、外に出るとなればユエルは俺の近くを離れない気がする。
最近は酒場のバイトにも行ってないし。
「あー、ユエル、悪いんだがちょっと、その、これはな……」
……そうしてユエルをどう誤魔化そうか悩んでいると、不意に治療院にノックの音が聞こえた。
まさに救いの音。
どうやら、ちょうど客が来たようだ。
「残念だが今日の治癒魔法の特訓はここまでだ。ユエルはエリスの料理でも手伝ってくるといい。俺は来客の対応をしてくるからな!」
こんな部屋にはいられない。
俺は、聖書をユエルに返しそそくさと部屋を逃げだした。
さて、来客はいったい誰だろう。
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