毒霧。
街から百メートルも離れていない、目と鼻の先。
そこには、「二匹目」のクランクハイトタートルの死骸が転がっていた。
......街道を移動する中で、ルルカ達が話してくれた。
討伐隊の本隊が、少人数の捜索隊を別に作ってまで、急ぎ街に戻った理由。
それは、クランクハイトタートルの卵が発見されたからだそうだ。
そういえば俺も見た気がする。
クランクハイトタートル討伐の時、フランが範囲魔法で焼き払い、黒焦げにしたあの卵のことだろう。
迷宮の中以外では、魔物といえども普通の動物と同じようにつがいをつくり、交尾をし、子を残す。
つまり、卵があったということは、あの森には少なくとも二頭以上のクランクハイトタートルがいたということになる。
川に落ちてからはそんなことを考えている余裕も無かったし気にとめていなかったけれど。
でも、卵の存在は騎士団にとって不意の凶報だった、ということなんだろう。
行軍中にもセラが言っていたが、クランクハイトタートルは、大雨が降ると移動する習性がある。
そして昨日の夕方。
クランクハイトタートルを討伐した、あの時も大雨が降っていた。
騎士団は、二匹目のクランクハイトタートルが移動し、街に近づいている可能性を考え帰路を急いだらしい。
昨日の夕方の時点では、街の防衛を担う騎士団は討伐隊に人員を割いていることもあり、いつもより手薄な状況だった。
特に、騎士団所属の治癒魔法使いに関してはほとんどが今回の討伐隊に駆り出されてしまっていたそうだ。
それに加えて、街にいる一般の治癒魔法使いも、優秀な人間から声を掛けられて討伐隊に参加していた。
クランクハイトタートルは、治癒魔法使いによる断続的な解毒魔法がなければまともに戦うことも難しい、特殊な魔物だ。
街に居る騎士団員だけでは早期にクランクハイトタートルを発見できたとしても、街に近づく前に討伐することができないかもしれない。
そんな懸念があったらしい。
そして今、街のすぐ近くに転がる、あのクランクハイトタートルの死骸。
あれは、その懸念が的中してしまったことを意味している。
治癒魔法使いの不足した街に、餌を求めてクランクハイトタートルがやってきた。
その結果、毒霧のせいで騎士はまともに戦えず、クランクハイトタートルをあの距離まで街に近づけてしまった。
ことの顛末は、そういうことなのだろう。
この状況は、とても不味い。
毒霧を広範囲にばら撒くクランクハイトタートル。
そんな魔物が、あそこまで街に近づけばどうなるか。
......街に、毒霧が届いたかもしれない。
「そ、そんなっ......!」
フランが、街のすぐそばに転がるクランクハイトタートルの死骸を見つめ、呻くような声を上げる。
焦りを感じさせる表情だ。
しばらく呆然としていたフランは、唐突に何かを思い立ったかのように、街の中に走っていく。
「ちょっと!? フラン! 待ちなさい!」
「フラン、落ち着いて!」
セラとルルカもそれを追って駆けていく。
俺も後に続くように、街に入った。
......街の中に入ると、そこはいつものメルハーツの街とは違っていた。
いつものような、賑やかで楽しげな喧騒は無い。
通りに並ぶ屋台の数も、歩く人の数も、普段と比べ大分少ない。
その代わり、特徴のある揃いの修道服を着た神官や、鎧を着込んだ騎士達が忙しそうに動き回っている。
そして人の減った街の中。
通り沿いの、治療院。
そこにだけは、大きな人だかりができていた。
「こ、こんなことが......」
捜索隊の騎士達の中、マリエッタが驚いたような声をあげる。
街の状況は、異様だ。
不安の声を上げる民衆と、その混乱を抑えようとする騎士、そんな構図が街のいたるところにあった。
特に治療院周辺はひどいものである。
どうやら、もう街の人間は事態を把握しているらしい。
「私達はすぐに詰所の方に向かい、指示を仰がなければなりません。今回の報酬等についてはまた後日改めて話があると思いますので、失礼します」
捜索隊の騎士の一人が、早口気味に言った。
僅かな時間も惜しい、そんな感情が滲み出ている。
討伐から帰ったばかりだが、多分、騎士は休むこともできないだろう。
「あ、あぁ」
街の状況は、パニック一歩手前といったところだ。
まぁ、あんな街の目と鼻の先で巨大な魔物と戦闘していれば、街の住人も気づいて当然か。
......治療院に一人きりのエリスが心配だ。
エリスの治療院に、急がなければいけない。
エリスの治療院につくと、やはりそこにも人だかりができていた。
今まで見たことも無い程の大繁盛っぷりである。
でも多分エリスは嬉しく無いだろう。
二十人、いや、三十人はいるだろうか。
......あの数は、エリス一人では絶対に捌ききれない。
門の前。
近づいてよく見てみると、人だかりの中心には一人の騎士がいた。
その騎士は、我先にと治療院に入ろうとする人々を抑えようと、声を張り上げている。
この混乱だ。
治療院に警備も兼ねて、騎士団が人員を派遣してくれていたのかもしれない。
エリスが人だかりにもみくちゃにされたりしていないか心配だったが、どうやらその心配はなさそうだ。
人だかりへの対応は騎士に任せ、鍵を使って、裏口からこっそり治療院の中に入る。
いつもの治療室、そこにエリスがいた。
エリスは目をつむり、眉間に皺を寄せながら一人の客に向けて治癒魔法を発動させようとしている。
けれど、だいぶ辛そうだ。
治療室に入ってきた俺に気づかないぐらいである。
顔色も悪い。
......多分、エリスはもう魔力が切れてしまっているんだろう。
これは手伝わないといけない。
「大変そうだな」
後ろから声を掛けると、エリスは安堵したように大きく息を吐く。
「あぁ、シキ、帰ってきてたのね。街の外から来たなら状況はわかっていると思うけど、今、毒の霧が街に入ったって噂が流れて街の人がパニックになってるの。それでその、私はもう魔力が無いから......っ!」
そして、振り返りながら話を始めるが、俺の姿を見るなりぎょっと目を見開いた。
「ちょっ、ちょっと! ボロボロじゃない! だ、大丈夫なの!?」
エリスの視線の先は、俺の着ている修道服だ。
......そうだった。
街の異様な雰囲気に呑まれて、すっかり忘れていた。
今の俺は、アーマーオーガとの戦闘のせいで服のところどころに血が滲み、全身はこびりついた泥にまみれ、ボロボロになってしまっている。
そういえば治療院にはあんなに人だかりができているのに、俺が誰かに治療をねだられるようなことは無かった。
ボロボロだけど、修道服を着ているのに。
......もしかしたら治癒魔法使いではなく、ホームレスか何かだと思われていたのかもしれない。
面倒を避けられたのはラッキーではあるが、なんだか複雑な気分だ。
でも仕方ない。
着替えの服はアーマーオーガに投げつけたせいで真っ二つ。
スッパリ腰から下の布がなくなっている修道服で街に帰るわけにもいかなかった。
もっと服をアイテムボックスにいれておけばよかったんだが、容量の九割近くを圧迫しているスライムゼリーの存在を考えるとそれもできなかったし。
「あー、もう大丈夫だ、怪我もない」
まぁ、エリスは心配しているけれど、今はもう怪我はない。
とりあえず、ぐっすり眠り続けているユエルをエリスに預け、目の前の客にヒールとディスポイズンをかける。
クランクハイトタートルの毒なら、これでいいはずだ。
――討伐隊の作戦会議で、クランクハイトタートルの毒の特性については聞いた。
話を聞いてみたら、なんというか毒というより細菌に近いような気がしたけれど。
クランクハイトタートルの毒の特徴はこうだ。
クランクハイトタートルの毒霧は、特殊な遅効性の毒を含むらしい。
そしてその毒霧を浴びてから一定の時間が経つと、高熱の症状が出る。
以前、フランとセラが寝込んでいたあれだ。
あの毒霧は、浴びた量によって発症までの時間が変化する。
クランクハイトタートルと剣で戦う程まで接近していれば、それこそ一分も経たずに発症するが、浴びた量が少ないと、発症までの時間は大きく伸びる。
毒の量によっては発症しないということもあるらしい。
そして高熱を発して時間が経つにつれ、ゆっくりと黒い斑紋が全身に広がっていき、なんの対処もせずに放置すれば、一週間程でそのまま死に至る。
クランクハイトタートルの毒は、こういう毒だそうだ。
......やはり、凶悪だ。
少ない量でも時間が経てば発症するとか、あの毒霧は実は細菌の塊だとか言われた方が納得できる。
そしてそれが一定量を超えると人間の免疫機能の方が負け、細菌が一斉に体内で毒素を吐き出し高熱を発生させる、とかそんなイメージで。
俺は細菌のことなんてよく知らないし、騎士達は呪毒だなんだと言っていて結局はよくわからなかったんだけど。
まぁ、そんなことはともかく。
とりあえず毒の治療にはディスポイズンが必要で、免疫力を回復したり熱を下げる効果もあるヒールがあれば、なおよいはずだ。
エリスに代わって、治した客と入れ替わりで入ってくる客を治療していく。
どんどん治療していく。
次々と治療していく。
次々と。次々と。次々と。
十人を超えたところでうんざりしてきた。
「エリス、これ、いつになったら終わるんだ?」
「......終わらないわ。街には遅効性の毒霧が入ったって噂が流れているもの。......誰が流したのかは知らないけど、何時間か前に街の外からは戦うような音がしたし、街には本当に霧も入ってきていた。このあたりは門に特に近いから、みんなパニックになっているのよ」
噂を流した人物なるものがいるとすれば、それはきっとクランクハイトタートルのことを知っている街の治癒魔法使いあたりだろうか。
治療院の繁盛っぷりを考えるに。
いや、クランクハイトタートルの毒は発症すると高熱でほとんど動けなくなるから、その前に治療を促すための善意の行動ととれなくもないが。
「多分、治療の必要が無い人もたくさんいるんだろうな」
以前、ルルカは俺が怪我の治療のヒールをかけたせいもあるかもしれないが、フランやセラと違って高熱を出さなかった。
薄まった霧が僅かに街に入ったぐらいなら、建物の中に入ってやり過ごしていればそうそう発症もしないはずだ。
街の住人がパニック気味になっているのも、クランクハイトタートルの毒が遅効性で、いつ発症するかどうかわからないせいだろう。
「んっ......」
と、そんなことを話していると、エリスの膝の上から、小さな呻き声が聞こえた。
どうやらユエルが、目を覚ましたようだ。
ユエルは目をこすりながら、ぼーっと俺を見ている。
「ご主人様、ここは......」
「おはようユエル。治療院だ。今日はよく頑張ったな」
ユエルを褒めて、頭を撫でる。
ユエルはキョロキョロと周囲を見渡すと、安心したように小さく微笑んだ。
――が、その笑顔が急に固まった。
ユエルは目を大きく見開いて、一点を見つめている。
頭を撫でる俺の腕を、じっと見つめている。
頭を撫でて腕を動かす度に、その瞳がゆらゆら揺れる。
見つめている先は......俺の手首だ。
そして、ユエルは何かを確かめるかのように、恐る恐る、といった感じで自分の腕に視線を向けた。
一気に、ユエルの表情が暗くなっていく。
まるで、何か大切なものを失くしたかのような。
そんな表情で、何度も、何度も俺と自分の腕に視線を向ける。
「う、うでわが......」
そしてユエルが、震えた声で呟いた。
腕輪。
そうだった。
アーマーオーガとの戦闘で、壊れてしまったあの腕輪。
アーマーオーガと戦っていたあの時は落ち込んでいる余裕なんてなかっただろうが、今は違う。
ユエルは俺が買った安物のナイフ一本をなくしただけで暗くなってしまうような、そんな繊細な女の子だ。
それが、魔法のついたアクセサリーを壊してしまったとくれば。
しかもあの腕輪を買った時、暗いユエルを元気付けようと、俺はお揃いだとか言って特別感をだしてしまった。
ユエルにとって、あれはご主人様とお揃いの、大切なアクセサリーだったのだ。
......完全に裏目に出た気がする。
「ご、ご主人様に買ってもらった、お、おそろいの、うでわが......」
ユエルの目に、涙がじわじわと溜まっていく。
でもどうしよう。
壊れてしまったものは壊れてしまったのだ。
新しく買うか?
いや、それでもあの腕輪が壊れた事実は変わらない。
ユエルはきっと、腕輪を壊してしまった情けない自分に泣くだろう。
「っ......! ふっ......うぇっ......」
ユエルが僅かに上を向き、引き結んだその唇が、ぶるぶると震え始める。
不味い、不味い不味い不味い。
これはいけない。
泣く。
泣いてしまう。
このままではユエルは絶対に泣く、いや、大泣きする。
今回のクランクハイトタートル討伐で、ユエルは大活躍だった。
川に落ちた俺を独力で救出し、アーマーオーガにやられそうになっていた俺を颯爽と救出した。
そしてあのアーマーオーガを、撃破した。
今回のMVPと言ってもいいだろう。
でも、今ユエルは悲しんでいる。
これは駄目だ。
報われなさすぎる。
どうにか、どうにかしなくてはいけない。
何かないか。
何か......!
そうだ。
......まだ手はある。
俺は、ユエルの両脇を掴み、立ち上がらせる。
そして今にも泣き出しそうなユエルの手を握り――
「ユエル、ついてこい! エリス、ちょっと出かけてくる!」
治療院の外へ向かって、走った。
「えっ、ちょっ、ちょっと! 治療院は!? その格好で外に行くの!?」
後ろからエリスの声が聞こえるが、今は急がなければならない。
ユエルは暗い顔をしながらも、まだ泣いていない。
多分あのまま治療院にいたら、ユエルは泣く。
ユエルは今日のMVPだ。泣かせるわけにはいかない。
腕輪から、気を逸らしてやらないといけない。
「ユエル、南だ。とりあえず街の南端にむかってくれ。南端についたら、今度は人のいないところを探すんだ」
そして街を走りながら、ユエルに指示を出す。
突然の俺の行動、そして突然の指示に、ユエルは困惑気味な表情だ。
「ひ、ひとけのないところですか?」
でも何かを思いついたらしいユエルの表情が、僅かに明るくなる。
多分ユエルの考えていることとは全然違うがこの際だ。
ユエルが一時的にでも明るくなるなら誤解しておいてもらおう。
「......ご主人様、なんだか街の様子がおかしいです」
ユエルは走りながら、街の様子を見るなり呟いた。
ユエルはクランクハイトタートルの毒霧が街に入ったことを知らない。
寝ていたし。
説明の必要がある。
「――ユエル、今、この街は大きな危機に瀕している」
突然の俺の言葉に、きょとんとするユエル。
ことの重さをユエルが理解できるよう、意識して声音を低くする。
俺は、走りながら話を続ける。
「クランクハイトタートル。俺たちが討伐したあの毒霧の魔物は、実は二匹目がいたんだ。そして俺達が街に戻る前、その一匹が街を襲い、あの毒霧が街全体を包んだ」
多分、街全体を包んではいないが。
被害を受けていない人だっているはずだ。
でも、こういうのは勢いが大切である。
ユエルは、ことの重大さを理解したのか、難しそうな表情をして頷く。
「見ろユエル。あの、治療を求める人々の姿を」
ユエルが、通り沿いの治療院の前にできた人だかりを見る。
そして、ユエルはすがるような表情で、俺を見た。
多分、治療してあげてほしいと思っているんだろう。
でも、俺はそれを黙殺し、ユエルに移動するよう促す。
ユエルは少し迷いながらも、俺の「人のいないところへ行け」という命令に従って、路地裏に入っていく。
「ユエルも、魔力を使い果たして疲れきったエリスの顔を見ただろう。......このままでは、きっと治療は追いつかない。間違いなく、多くの人が死んでしまう」
多分、そんなに多くは死なない。
発症しても、死ぬまでは一週間程度の猶予があるという話だから、騎士団や教会あたりがなんとかするだろう。
運悪く治療から漏れたり、体力の無い子供や老人だったり、ユエルのような見限られた奴隷だったり。
......そんな人は死ぬかもしれないが。
ユエルは俺の言葉を聞いて、とても悲しそうな顔をする。
ユエルに悲しそうな顔をさせるのは本意では無い。
が、これは必要な「演出」だ。
「このあたりで良い。ユエル、今、俺達を見ている奴はいないよな?」
そして、たどり着いたのは路地の奥。
完全に人気の無い場所。
このあたりでいいだろう。
「は、はい......」
ユエルは不安そうな顔で俺を見る。
こんな街の状況の中、なぜ人々の治療もせず、こんな路地裏に来るのか。
俺の考えがわからなくなったんだろう。
俺はあえて、言葉では説明しない。
その代わり、魔法を発動する。
全力で、魔力をこめて。
「――エリアヒール!」
暖かな緑色の光が、凄まじい速度で、大きく、大きく、大きく広がっていく。
暖かい光の塊が、建物の高さを超え、路地の端を超え、それでもまだまだ広がっていく。
「――エリアディスポイズン!」
もう一度、魔力をこめて魔法を発動する。
僅かに色味の違う暖かい光が、エリアヒールの残光を塗りつぶすように、遥か彼方まで広がっていく。
「っ......!」
空に残る治癒魔法の残光を見る限り、効果範囲は多分、三百メートル程度だろう。
もう少しいけるかと思ったが、どうやらエリア系の魔法にはこれ以上魔力をこめることができないらしい。
少し消化不良だ。
けれど、ユエルはここまで大規模な範囲魔法を見るのは初めてだったようである。
ユエルが、震えた瞳で俺を見る。
俺はそんなユエルに向けて、高らかに宣言した。
「ユエル、今から俺は街を救う」
ユエルの瞳が、しっかりと俺を捉える。
治癒魔法をみたせいか、それともこれから起こる出来事に期待をしているのかはわからない。
けれど、ユエルのその表情には、確かな興奮があった。
「この治癒魔法を街全体にかけるんだ。俺になら、それができる」
街全体に治癒魔法をかける。
俺の魔力量と治癒魔法の腕がバレてしまう危険はあるが、この規模の範囲魔法なら、発動する瞬間さえみられなければそうそう特定されることも無いだろう。
こんな巨大な範囲魔法、どこが中心で誰が使っているかなんて、そう簡単にわかるはずがない。
まぁでも、今はリスクなんかどうだっていい。
俺はこのタイミングで、ユエルに最も言いたかったことを言葉にする。
「そして、俺がこうして街を救えるのは、ユエルが俺を街まで守りきったからだ。......腕輪は無くなってしまったけれど、ユエルが守ったからこそ今の俺がここにいる。腕輪が無いこと、それは俺を守った証なんだ」
「っ......! は、はい!」
ユエルはハッとした表情で、自分の手首を見つめた。
そして、その手首を胸に抱くように腕を重ねる。
――その姿は、まるで大切な宝物を抱えるかのようだった。
演出終了だ。
......これで、腕輪の件は大丈夫だろう。
多分、治療院で椅子に座ったまま言うだけでは駄目だった。
俺がどれだけ言葉を重ねても、ユエルは慰められているとしか感じなかっただろう。
今の街の状況を見せてから、俺の常識外れの治癒魔法を見せつける。
そして、今街を救えるのは俺の治癒魔法しかないと宣言する。
そんな演出があって初めて、ユエルは自分の行動が街を救ったということを実感できる。
腕輪が無いこと自体を、誇ることができるのだ。
そしてここまでくればもう、後は実行するだけだ。
「でもこれは、他人にバレてはいけない。俺の治癒魔法の実力が悪人に知られれば、俺の身に危険があるかもしれないからだ」
悪いことをしているわけじゃないんだし、バレたらバレたで逆にチヤホヤしてもらえるかもしれないが。
......いや、治癒魔法使いからすれば収入源をとられる形にもなる。
どんなところに利害があるかわからないし、やはり隠しておくのが無難である。
「そして、人に見られないためには、ユエルの協力が絶対に必要だ。手伝ってくれるな?」
ユエルは力強く頷く。
そして、加えて一言。
「このことは、ユエルとの秘密だ」
秘密の共有。
子供は大好きだろう。
そして俺のそんな一言に、ユエルはぐっと顔を寄せて食いついてくる。
「ふ、二人だけの秘密、ですか!?」
「へ? あ、あー......あぁ。そうだ、二人だけの秘密だ!」
二人だけかというと、微妙ではあるけれど。
多分、エリスあたりは気づきそうだし。
エクスヒールまで使える俺が治療院を飛び出して、帰ってきたら街全体に治癒魔法がかけられていた、とか。
さすがにわかりそうだ。
別に、エリスには隠すつもりもないが。
エリス以外でも、もし発動の瞬間を見られればバレるかもしれないが、もうそうなったときはそうなった時だ。
というかここでバレなくとも、いつか別件で俺の治癒魔法の実力がバレた場合。
街の人間を救えるのに救わなかったという事実が明るみにでる方が、よっぽど危険だ。
どんな恨みを買うかわからない。
まぁそんな打算的な考え方もあるが――
「――エリアディスポイズン! よし、次は西だ、急ぐぞユエル!」
「はいっ! ご主人様!」
なによりユエルが楽しんでいる。
ユエルは頬を紅潮させ、目をきらきらと輝かせ、興奮した表情で先を走る。
気分は正義のヒーローだろう。
実際やっていることはそんな感じだし。
きっともう、腕輪を壊したことなんてどこか遠くへいってしまっているはずだ。
街の南から、西へ走る。
こそこそと街の路地を走っては、治癒魔法を発動していく。
これは、ユエルにご主人様の威光を見せつけるチャンスでもある。
治癒魔法の発動の瞬間、かっこいいポーズをするだけでユエルの瞳がきらきらと輝いた。
なんだか楽しくなってくる。
西から、北へ走る。
治癒魔法を発動するたびに、ユエルの歓声があがる。
けれど、それと同時に魔力が減っていくのを実感する。
正直体力的にも走るのが辛くなってきたが、歩いて回っていては日が暮れても終わらない。
路地裏に隠れて治癒魔法を発動し、先導するユエルのペースに合わせて走り続ける。
北から、東へ走る。
足は最早震えているが、それをユエルに悟らせてはいけない。
しかし、思っていたよりこれはきつい。
だんだんと魔力が減っていくのがわかってきた。
きっと、底が見えてきたということなんだろう。
流石に街全体に治癒魔法をかけるなんていうのは、無茶だったもしれない。
貧血のような感覚が、全身を重くする。
やっぱりこんなこと、しなければよかったかもしれない。
ちょっと後悔してきた。
でも、ここでやめてはユエルの尊敬を得られない。
疲れたから残りはまた明日にしよう、なんて格好悪すぎる。
そして、南へ。
ふらふらになりながらも、俺は根性で街を一周した。
街を一周すると、既に治療院の行列はどこにもなかった。
治癒魔法の暖かな光と、かけられた瞬間のあの感覚は独特だ。
あれがただの発光ではなく治癒魔法だということは、治癒魔法をかけられたことのある人間なら誰でもわかったことだろう。
日も既に、すっかり沈んでしまっている。
体が重い。
ずっと街を走って一周した上に、大規模範囲魔法の連発である。
初めて感じる感覚だが、これが魔力の欠乏というものなんだろうか。
さすがにもう、治癒魔法は使いたくない。
最初はユエルの反応が楽しかったが、どっと疲れた。
がくがくと震える脚で、治療院へ帰る。
治療院の前には、もう、騎士もいなければ、人だかりもない。
その代わり、エリスが一人、門の前に立っていた。
「おかえりなさい。......凄いことをしてくれたみたいね」
そして一言。
やっぱりバレていたらしい。
まぁ、分からない方がおかしいか。
ユエルはやたらニコニコしているし、俺はふらふらしているし。
タイミング的なものもある。
まぁ、どうだっていいか。
なんだか、エリスの顔を見たせいか、一気に気が抜けていく。
そして、治療院に入ろうとして――不意に足がもつれた。
疲れからか、咄嗟に体を支えられない。
倒れる。
「ご主人様、あぶな......っ!!」
「ちょっ、ちょっと......きゃあ!」
倒れこんだ先には、何か、とても柔らかいもの。
エリスの豊満な、とても豊満で柔らかく肉厚な胸に、頭がすっぽりとはまった。
ひぅっ、と息を吸い込むようなユエルの小さな叫び。
でも、動けない。
変な意味で動けない、ではなく本当に疲労が限界だ。
どうやらエリスを押し倒すように倒れてしまったらしい。
手にも、顔にも、柔らかいエリスの胸の感触を感じる。
こんなセクハラをしたら地面に叩き落とされるか、とも思ったが、エリスが動く様子は無かった。
駄目だ、眠くなってきた。
もう体力も魔力も空っぽだ。
今日は流石に頑張りすぎた。
瞼が重い。
ぐいぐいと服の裾を引っ張られる感覚を感じながらも、俺は意識を手放した。




