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異世界の迷宮都市で治癒魔法使いやってます  作者: 幼馴じみ


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37/89

鬼。

今回は一万字ぐらい、ちょっと長めです。

 抱きかかえる程に太い四肢。

 二メートルを超える、巨大な体躯。

 頭から生える、一本角。


 「鬼」が、その剛腕を振り切った体勢でそこにいた。


 ユエルは数メートル先に吹き飛ばされて、木にもたれかかるようにして、ぐったりとしている。


 狼が逃げて行ったのは、仲間が死んだからじゃない。

 こいつの気配を察したからか。


 そして鬼は、倒れこむユエルに向かって歩いていく。


 まずい。

 駄目だ。


 弱ったユエルに何をするつもりかなんて、わかりきったこと。

 止めを刺すつもりだ。


 ユエルは今、立ち上がろうともがきながらも、立ち上がれないでいる。

 俺を庇ったせいだろう。

 相当なダメージを負っているようだ。

 今のユエルに、魔物の攻撃を避けることはできない。


 それに、もう、ユエルにあの腕輪は無い。

 次にこいつの攻撃を食らえば、本当に死んでしまうかもしれない。

 それは駄目だ。

 それだけは駄目だ。


 絶対に、行かせてはならない。


 すぐに起き上がり、メイスを強く握り込む。


 「はあああああっ!!」


 メイスを鬼に向かって叩きつける。

 そしてガラ空きの鬼の背中に、メイスが直撃し――


 メイスが、大きく弾かれた。


 鉄板でも殴ったかのような、硬質な音。

 ついメイスを手放してしまいそうになる程に、硬い感触。


 まるで、金属のような手応え。


 弾かれたメイスに引かれて、上半身が仰け反る。

 バランスが崩れる。

 俺は足元のぬかるみに足をとられて尻餅をついた。


 その直後。


 頭のすぐ上を、剛腕が走った。

 強烈な風圧。

 風圧だけで、体が揺れる。

 足元の水溜りが、波立つ。


 ――これは勝てない。


 もし尻餅をついていなかったら、一発で頭を砕かれていたかもしれない。

 そんな一撃だった。


 確信した。

 俺では、相手にもならない。


 それに、あの硬質な皮膚。

 金属製の鈍器で殴ったというのに、ろくにダメージを受けた様子も無い。

 あの様子じゃあ、ユエルのナイフで切りつけても傷がつくかすらわからない。

 俺やユエルが攻撃しても、まず倒せないだろう。


 こいつと戦っちゃいけない。

 絶対に勝てない。


 ......いや、勝てる勝てないを考えている場合じゃない。

 今はユエルだ。

 とにかく、まずは怪我をしたユエルを助けなければいけない。


 すぐに立ち上がり、ユエルの居る方向に、向かって走る。

 瞬間、鬼の拳が背中を掠めた。


 背中が焼けるような熱を持つ。

 バランスを崩しそうになるが、立て直してユエルのもとまで走る。


 すぐにユエルを抱え上げ、治癒魔法をかける――

 寸前、地面に影がかかるのが見えた。

 嫌な予感がした。


 ユエルを抱きかかえて、横へ飛ぶ。


 ついさっきまで、俺とユエルがいた場所を剛腕が潰した。

 地面が弾ける。

 全身に砕けた石と泥を浴びながら、ゴロゴロと地面を転がった。


 やばい。

 本当にやばい。

 あんな攻撃、まともに受けたら死ぬ。

 間違いなく死ぬ。

 頭に直撃でもしようものなら、治癒魔法を使う暇すら無く死ぬかもしれない。

 最低でも、意識は刈り取られるだろう。


 逃げるしかない。

 咄嗟に、土を握り込み鬼の目に向かって投げた。


 「エクスヒール! ユエル、大丈夫か!?」


 それから勢いを止めずに立ち上がり、ユエルを抱えて走る。

 脇目も振らずに鬼から逃げる。


 背後から、鬼の怒声が響く。

 どうやら、土が目に入ったようだ。

 これで少しは時間が稼げる。

 身が竦みそうになるけれど、今は距離を取らなければならない。


 「ご、ご主人様、ごめんなさい」


 ユエルは俺を見ながら、謝ってくる。

 あの魔物の接近に気づけなかったことに対する謝罪だろうか。

 その声は、震えている。


 やはり、あの魔物が、街を出てからユエルが怯えていた「何か」なのかもしれない。


 状況が状況だ。

 確認しておく必要がある。


 「......ユエルの目は、あいつにやられたのか?」


 「っ......!」


 俺の言葉に目を見開き、驚いた顔をするユエル。

 やっぱりか。

 ユエルはずっと、こいつを警戒していたのかもしれない。


 「ご、ご主人様、わたしは大丈夫です、下ろしてください。わたしが時間を稼ぎます、その間に逃げてください!」


 ユエルが、真剣な顔で言う。

 でも、それは無理だ。

 あれは、今まで迷宮で戦ってきたような魔物とは違う。

 ユエルでは、一撃死があり得る。

 もし死んでしまえば、俺でも治せない。


 それに、抱きかかえている俺だからこそ、今、ユエルが震えているのがわかる。

 過去に大怪我を負わされて、そして今もあんな怪我を負わされて、怖くないわけがない。

 しかも、ユエルはこれまでの移動で疲れ切っている。

 あの魔物とユエルを戦わせるわけにはいかない。


 どうする。


 ユエルの腕輪は壊れた。

 しかも、ユエルは疲労困憊。

 狼の魔物に気を取られていたとはいえ、あの魔物がここまで近づくまで気づけなかった程だ。

 そして、精神的にも通常じゃない。

 隠そうとしてはいるけれど、怯えているのが伝わってくる。


 逃走一択だ。


 幸いなことに、あの鬼の魔物のおかげか、他の魔物の姿が見えない。

 狼の魔物が逃げたことから考えるに、あの魔物は他の魔物からも警戒されていると見ていいだろう。


 「ご主人様、お、降ろしてください!」


 ユエルが切羽詰まったような声で、叫ぶ。

 背後を見れば、すぐ近くに鬼が迫っていた。


 思った以上に足が早い。

 このままだと、追いつかれるかもしれない。


 大きい魔物だ。

 そんな魔物が自分に殺意を向けているというだけで、身が竦む。

 体が縮こまる。


 あんな魔物と戦っちゃいけない。


 戦った結果どうなるか。

 奴隷市場で見かけた、ユエルはどうなっていたか。

 顔は潰れ、耳は削げ、もう戦うこともできなくなっていた。


 怖い。

 頭の中が、恐怖で一杯になる。


 でも、やはり鬼の方が足は早いようだ。

 どんどん距離を詰めてくる。

 俺の足では、逃げられるかどうかわからない。


 逃げるには、誰かが、足止めをするしかないだろう。



 ――ひとつの考えが、脳裏を過る。



 ユエルには、嫌われるかもしれない。


 そういえば、ユエルにこれを使うのは初めてだ。

 今までは、ここまで危険なことは無かった。

 別に、必要無いと思っていた。


 けれど、使うしかない。


 ユエルをそっと地面に下ろす。

 すぐにユエルは鬼に向かって行こうとするが、それを肩を掴んで止めた。


 振り向いたユエルと目が合う。

 決意をこめたような表情、でもどこか張り詰めたような、不安そうな顔だ。


 そしてユエルが何かを思いついたように、息をのむ。

 俺を見て、何をしようとしているのか察したようだ。

 けれど、構わず続ける。


 声に、魔力を込める。

 そして――命令する。


 「命令だ。ユエル、街まで逃げろ」


 ユエルの肩に、赤い、赤い紋様が浮かび上がる。


 「ご、ご主人様っ!?」


 ユエルの悲鳴が上がる。


 奴隷紋。

 命令を絶対遵守させる魔術の刻印。


 使い方が合っているか不安だったが、どうやら魔力を込めて命令を声に出すだけでよかったようだ。

 詠唱が必要、とかじゃなくてよかった。

 ちゃんと機能している。


 ユエルを、こんな魔物と戦わせるわけにはいかない。


 俺がこれだけ怖いんだから――ユエルは、もっと怖いに決まっている。


 「俺が時間を稼ぐ、その間に逃げてくれ」


 ここは格好つけないといけない場所だ。

 ご主人様として。






 ユエルは街に向かった。

 ユエルは赤く輝く奴隷紋を見て、驚愕の表情を。

 そして奴隷紋に身体を操られながらも、何度もこっちを振り返りながら走っていった。

 ユエルだけなら、一人でも街まで帰れるだろう。


 目の前の鬼を見据える。

 俺がメイスを構えると、鬼は興味深げに俺を見て、立ち止まった。


 大丈夫だ。

 強そうな魔物とはいえ、武器は拳だけ。

 そして俺は、治癒魔法が使える。

 頭さえ庇えれば、そうすぐにはやられない。

 ユエルがある程度ここから距離を取るまで、時間を稼ぐ。


 巨大な、鬼の魔物を見る。


 奴隷市場に居た頃のユエルの怪我。

 街を出てから、ずっと周囲を警戒していたユエルの様子。

 腕の中で、震えながらも戦うと言ったユエルの表情。


 この魔物を見ていると、様々な光景が鮮明に蘇る。


 気持ちが昂ぶっていくのを感じる。

 

 まともに戦って勝てないのはわかっている。

 時間を稼ぐだけのつもりだった。

 でも、治癒魔法を使いながら殴り合えば、もしかしたら粘り勝ちできるかもしれない。

 そんな気がしてくる。


 ユエルが怯えるこの魔物を、ユエルのトラウマを倒したい。

 そんな気持ちが、だんだんと湧いてくる。

 少女の盾となって、強大な魔物と戦う自分、そんな雰囲気に酔っているのかもしれない。


 でも、やっぱり、この魔物を倒したい。

 ユエルが、この魔物の影に怯えなくて済むように。


 まずは、鑑定を使う。


 アーマーオーガ(変異種)


 あの魔物はアーマーオーガというらしい。

 弱点なんかがわかることを期待したけれど、そうそう上手くはいかないようだ。

 アーマー、というのは、やはりメイスを弾く硬質な皮膚があるからか。

 変異種、というのはよくわからないけれど。


 とりあえず、頭をいつでも庇える位置にメイスを掲げながら、ジリジリと、距離を詰める。

 まだオーガの攻撃も俺の攻撃も届く距離じゃない。

 少しずつ、慎重に距離を詰めて行く。


 魔物と戦う上で何が大切かといえば、攻撃を受ける覚悟だ。

 いつでも攻撃を受けると思って、治癒魔法の準備をしておくことが重要だ。

 俺の治癒魔法なら、致命傷でもすぐさま完治する。

 理論上、頭さえ無事なら俺は絶対に死なない。

 俺でも、戦えるはずだ。


 そんなことを考えていると――



 オーガは武器を構える俺を見て、突然、両腕を振った。



 なんだ?

 まだオーガとの間に距離はある。

 腕なんて振ったところで、届きはしない。

 一体何を――


 瞬間。

 オーガの両腕から、刃物のようなものが飛び出した。


 腕から生えた、五十センチ程の何か。

 ......あれは剣、いや、爪だろうか。


 そういえば、鑑定の結果、あいつはアーマーオーガの変異種と出た。

 ......変異っていうのは、あれのことか。

 一目見ただけで鋭い切れ味があることを予感させる、大きな爪。

 それが、アーマーオーガの両腕から生えていた。


 ............やばいかも。


 スッと、頭が冷えていく。


 あれは駄目かも。

 いや、駄目な気がする。

 刃物は駄目だ。

 刃物は駄目だろう。


 拳なら受け方や打ち所次第では耐えられるかもしれない。

 でも刃物は駄目だ。

 頑張ってどうこうなるものじゃない。

 真っ二つになるビジョンしか見えない。

 というか怖い。

 刃物は本当に怖い。

 ジャイアントアントに足を切られたトラウマが蘇りそうになる。


 そういえばユエルの顔、あれは拳にやられたというより、爪でやられたという方が近かった。

 そうだよな、爪、あるよな。


 頭の中の天秤が、一気に傾いていくのを感じる。


 やっぱり俺も逃げよう。


 戦術的撤退だ。

 素手ならほんの少しは希望もあったが、あの爪は駄目だ。

 硬質な皮膚、鋭く凶悪な爪、まさに攻防一体。

 まともにやって勝てる気がしない。


 ちょっと格好良い自分に酔っていたのが、あの爪を見て一気に冷めた。

 そうだ、俺は剣士でも戦士でもない。

 治癒魔法が使えるだけの一般人だ。

 こんな魔物と戦っちゃいけない。

 簡単に返り討ちにあって、ユエルのトラウマを増やすことになるだけだ。


 ――考えているうちに、オーガが腕を一振りした。


 「ひ、ひぃっ!」


 咄嗟に横っ飛びして直撃を避けるが、はためいた服がスッパリと切り裂かれた。


 この切れ味。


 ......そして逃げることを決めたは良いものの、今オーガは目の前にいる。

 俺は横っ飛びからの、地面に転んだ状態。


 マジで殺される五秒前。

 いや、二秒前ぐらいかもしれない。


 何か、何かないか。

 地面から石を投げて、オーガにぶつける。

 石は、オーガの腕の一振りで粉々に砕かれた。


 アイテムボックスから服を取り出して、オーガの顔に投げつける。

 服は、オーガの顔に届く前に真っ二つに切り裂かれた。


 そうしてアイテムボックスを漁っていると、いいものがあった。

 それは以前迷宮で見つけた、温水の魔道具。

 ......これは使えるかもしれない。


 立ち上がりながら、温水を出す魔道具でオーガの目を狙う。


 出力はせいぜい水道を全開にした程度。

 まさに水鉄砲。

 些細な嫌がらせだ。


 でも、至近距離なら効果はある。

 目に水が入るのが煩わしいらしく、オーガが腕で目を庇う。

 一瞬、オーガが俺を見失う。


 オーガが顔を庇えば、足元に水をまく。

 オーガの足元がぬかるんでいく。

 ほんの僅かに、俺を追う足が遅くなる。


 これはいける。

 いけるかもしれない。


 昨日の雨で地面が元々ぬかるんでいるせいか、少量の水でも十分に効果があるようだ。

 水を撒きながら、全力で逃げる。


 逃げる、逃げる、とにかく逃げる。


 でも、時間を稼ぐことは忘れてはいけない。

 まともに戦うのは無理でも、せめてこの魔物がユエルに追いつく可能性だけは排除しておきたい。

 大きく円を描きながら、オーガから逃げる。

 こうして時間を稼いでいる間にも、ユエルは街に向かって走っているはずだ。


 ユエルは大丈夫だろうか。

 いや、ユエル一人なら、魔物に囲まれたとしても突破できるだろう。

 少なくとも、俺を連れているよりは安全に街にたどり着けるはずだ。

 無事であると信じたい。


 オーガから逃げ続ける。

 オーガは俺との間に立ち塞がる枝を、木を、その爪で切り倒しながら追ってくる。

 やばい超怖い。


 そ、そろそろいいかもしれない。

 疲れているとはいえ、ユエルの足なら僅かな時間でもこいつが追いつけない程度には先行しているはず。

 俺も、このまま街道に向かうべきだ。


 放水の魔道具は大分使える。

 オーガを振り切ることはできないかもしれないが、一定の距離をとりつつ逃げることは可能だろう。


 逃げられる。

 あんな凶悪な爪を持つ、怖い魔物から逃げられる。


 ......でも、逃げる前にせめて一発、この魔物をぶん殴っておきたい。

 ユエルに、二度も怪我をさせた魔物だ。


 怖い。

 あの魔物は、確かに怖い。


 けれど、逃げているうちに、ひとついいことを考えついたのだ。

 上手くいけば、この魔物を討伐できるかもしれない、そんなアイデアを。







 森の中を逃げる。

 オーガの顔に、足元に、水をかけながら逃げ続ける。


 温水の魔道具は、六、七メートル程の距離を超えると水が届かなくなる。

 俺の足の速さからも、魔道具の性能的にもこれ以上は離れられない。

 転んだだけでも致命的だ。

 慎重に足場を選んで逃げる。

 泥を避け、できるだけ岩の上、木の根の上を選びながら逃げ続ける。


 すると、目の前に大きな水溜りが見えた。


 水を撒きながら、ずっと同じ場所をぐるぐると回って逃げたのだ。

 昨日の雨もある。

 そこら中に、水溜りがある。

 そして俺の目の前にあったのは、ちょうどアーマーオーガの体が入る程の大きな水溜り。


 ここだ。


 俺は、水溜りを飛び越えながら、アイテムボックスの中身をその場に落とした。


 アイテムボックスの中から飛び出したのは、スライムゼリー。


 ......この戦い方は、ユエルには絶対に見せられない。

 間違っても、これは格好良くなんかない。

 ユエルに、「なんでこんなに沢山のスライムゼリーを持っているんですか?」なんて言われたら答えられない。

 こんなことを気にしている場合ではないけれど。

 でも、ユエルを逃がしておいて良かった。


 水に溶けやすいスライムゼリーは、急速に水に溶けていく。

 即席のトラップの完成である。


 そしてその水溜りに、アーマーオーガが右足を踏み入れる。


 滑る右足。

 踏ん張りがきかずに、アーマーオーガの右足が跳ね上がる。

 アーマーオーガが、面白いぐらい簡単に、半回転する。

 大きな音を立てて、アーマーオーガは、後頭部から水溜りに沈んだ。


 ローションプール、インオーガ。

 できればこんな魔物相手じゃなく、美少女を相手にやりたかった。


 じたばたともがき、立ち上がろうとするアーマーオーガ。

 でも、起き上がるのにも、時間がかかっている。


 これはチャンスだ。


 俺がこの魔物に一撃を入れるなら、ここしかない。

 水溜りに足を入れないように、慎重にアーマーオーガに近寄る。

 そして、メイスを大きく振りかぶる。


 どこを狙うか。


 アーマーオーガの皮膚は固い。

 普通に攻撃しても、致命傷にはなりえない。

 例え、金属のメイスを俺の全力で振り下ろしたとしても、こいつに致命傷を与えることはできないだろう。


 なら、致命傷じゃなくていい。

 ほんの少し。

 こいつを、自由に動けなくすればいい。


 俺とこいつの違いは、怪我を治せるか否か。

 この一撃で、俺とユエルを追えなくする。

 移動できなくする。


 目を狙いたいが、目は無理だ。

 二つを潰すのは難しいし、腕に近すぎる。

 腕で、簡単に庇われてしまうだろう。

 反撃の可能性も高い。


 狙うのは足首、その関節だ。


 関節なら、柔軟に動かすために、あの硬い皮膚も少しは柔らかくなっているはず。

 関節を砕ければベスト。

 ヒビが入るだけでもいい、関節が外れるだけでもいい。


 こいつから、少しだけでも移動力を奪う。


 メイスを握る腕に、治癒魔法をかける。

 大きな意味があるわけではないが、これで骨が折れても、筋繊維が千切れてもすぐに修復できる。

 力が増幅するわけじゃない。

 でも、俺の持てる、全力の全力でメイスを振り抜くことができる。


 最後まで、絶対にメイスから手を離さない。

 強く、強く、メイスを握りしめる。



 俺は渾身の力を込めて、アーマーオーガの足にメイスを叩きつけた。


 やはり、硬い感触。

 反動で手を離しそうになる。

 でも、メイスを握りしめる手は緩めない。

 筋肉に、骨に、痛みが走る。

 すぐに、治癒魔法がそれを修復していく。


 ――メイスが肉に食い込んだ、手応えがあった。


 オーガからの反撃を受ける前に、大きく距離をとる。

 大きく大きく距離をとる。

 もうちょっと、距離をとっておく。


 二十メートルは離れて、木の陰に隠れながら、今だに水溜りでもがくオーガの様子を窺う。


 「......どうだ?」


 数秒して、水溜りから這い上がり、立ち上がるアーマーオーガ。


 立ち上がったアーマーオーガは......


 右足を、引きずっている。


 「よしっ!」


 やった。

 やってやった。

 これでこいつを振り切れるかもしれない。


 右足にダメージを与えた。

 あの巨体なら、足にかかる負荷だって相当に大きいはず。

 あいつはしばらくの間、移動をしにくくなるだろう。


 あとは街に帰ったらこのことを騎士にでも報告して、このあたりを探索してもらえばいい。

 以前街道で被害を出した魔物だ、騎士団も放置はしないだろう。

 そして騎士にお願いして、オーガの死骸をユエルに見せる。

 これでユエルはもう、あいつに怯える必要は無い。


 ユエルに怪我をさせたあの魔物は必ず討伐する。

 けれど、それをやるのは俺じゃない。


 餅は餅屋、魔物は騎士に任せよう。

 今俺がやるのは、少しでも移動を封じて、こいつがこの付近から逃げにくくするだけだ。

 俺自身も逃げやすくなる、一石二鳥。


 この魔物を倒すためならエクスヒールを人前で使ってもいい。

 騎士団に雇われるのもいいだろう。

 次に会う時は、底なしのエクスヒールを駆使して不死身の騎士団と戦わせてやる。


 完璧だ。

 まぁ俺がこのまま討伐するのが一番ではあるんだけれど、もし俺が返り討ちにされたらそれこそユエルのトラウマになる。


 引き際を誤ってはいけない。

 自分の実力を見誤ってはいけない。


 べつにあの爪を見て、攻撃を受けるのが怖くなったとか、そういうのじゃない。

 リスクを勘案し、俺にできる最善手を選んだのだ。


 あのオーガの頭にメイスを叩き込んだところで、致命傷になるとも思えない。

 ある程度ダメージを与えるためには、それこそさっきのように全力を振り絞る必要があるだろう。

 足にダメージは与えたものの、まだオーガは健在だ。

 バランスは悪いが、二本の足で立っている。

 カウンターで殺されるビジョンしか見えない。


 一撃をいれて、個人的な鬱憤も少しは晴らせた。

 ユエルの前で、ご主人様としての格好もつけた。

 足にダメージを与えて、次への布石も打った。


 一時的には逃げるが、戦略的には勝利である。


 アーマーオーガに背を向けて、走る。


 他の魔物のことが気になるが、もうあまり街道まで距離はないはずだ。

 多少のダメージは無視して、立ち止まらずに走り抜けよう。


 そうだ、ユエルと合流はできるだろうか。

 いや、駄目か。

 奴隷紋が正常に働いていれば、随分と俺の先を行っているはずだ。

 奴隷商はろくに説明もしてくれなかったし、正直解除の仕方もわからない。

 多分、命令を果たせば消えるとは思うけれど。


 そんなことを考えながら、ひた走る。



 ――瞬間、背中に、衝撃があった。



 呼吸が止まる。

 走っていたはずなのに、地面に、足がつかない。

 体が、宙に浮いている。

 体が傾いていく。


 ふと、キラキラと、光るものが目に入った。

 つい最近、見た光景。

 腕輪だ。

 腕輪が、砕けている。


 勢いが止まらない。

 衝撃とともに、頭から地面に着地した。

 ゴロゴロと、そのまま地面を転がる。


 痛い。

 背中から下の感覚が無い。

 体に、力が入らない。

 呼吸ができない。


 何が起きた?


 アーマーオーガに追いつかれたのか?

 いや、アーマーオーガとは二十メートル以上離れていたはずだ。

 こんなにすぐに追いつかれるはずがない。


 じゃあ、どこかに、別の魔物が隠れていたのか。

 目だけを動かして、周囲を見る。


 ――違う。


 岩だ。

 血のついた、岩が、地面を転がっている。

 ......真後ろから、岩が飛んできたんだ。


 誰が。


 後ろを見れば、腕を振り切ったような姿で、アーマーオーガが俺を見ていた。


 オーガの表情なんて知らないが、今のあいつの表情はなんとなくわかる。

 あれは、憤怒だ。


 ......中途半端にダメージを与えて、あいつを本気にさせてしまったのかもしれない。

 やってしまった。


 体から血が抜けていく。

 視界が暗くなっていく。

 ろくに身動きもとれない。


 そうだ治療だ。

 治療しないと。


 「......っエクスヒール!」


 暖かさとともに、急速に体に力が戻ってくる。


 大丈夫、大丈夫だ。

 治せる。

 木を影にして、逃げればなんとかなるはずだ。

 とにかく、逃げよう。


 立ち上がると、今度は目の前の木を、投石が砕いた。


 「っ......!」


 木の破片が体を打つ。

 バランスが崩れる。

 泥の水溜りに、尻餅をつく。


 泥が気持ち悪い。

 足をくじいたかもしれない。


 でも、そんなことを気にしている場合じゃない。


 「エクスヒール!」


 逃げないと。

 顔を上げ、側にあった木を支えに立ち上がる。


 そして立ち上がると、すぐ近くにアーマーオーガが迫っていた。

 大きな爪の生えた、腕を振り上げた状態で。


 予想していた以上に、足が速い。


 なんだよ、全然動けるじゃないか。

 俺の攻撃は痛みは与えても、動きを制限する程のダメージは与えられなかったのか。

 骨までは、届かなかったのかもしれない。


 爪の一撃が、くる。


 背中には木、後ろは無理。

 横の回避は間に合わない。


 避けられない。

 もう腕輪もない。


 ――直撃すれば、死。


 そして、腕が振り下ろされる瞬間。

 オーガの腕が、止まった。


 オーガは振り上げていた腕を、顔の横で止めている。


 それから、金属音。

 キィン、と軽い音が鳴る。


 オーガの腕に当たり、地面に落ちる、一本の金属片。


 ......見覚えのある、ナイフだ。


 オーガが、横に視線を向ける。

 その視線の先には、銀髪の少女が居た。


 どうして。

 なんで戻ってきた。

 奴隷紋で逃がしたはずだ。

 奴隷紋がある限り、奴隷は命令に逆らえない。

 そういうものなはずだ。

 次々と、疑問がわいてくる。


 ユエルは肩をおさえて、ぜえぜえと息を切らしながら、オーガを見ている。

 そして、そのユエルの肩には、刃物で何度も刺したような傷があった。

 まるで、奴隷紋の浮いた場所を、抉り取るかのような。

 ......そうだ、奴隷紋のあった場所の、皮膚が無くなっている。


 あんな抜け道があったのか。

 ......もしかしたら本来は、奴隷には自傷禁止の命令を出してから、改めて命令を下すものなのかもしれない。


 「命令を無視してしまって、ごめんなさい」


 ユエルが、俺を見ながら呟く。


 「でも、わたしは一人で逃げるなんて、したくありません! わたしはご主人様を守るためにここまでついてきたんです!」


 そして、叫んだ。

 ユエルが、ナイフを構える。

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