川に落ちて。
ふわり、と何かが触れる感覚で目が覚めた。
細く、長い何かが胸元を撫でる。
なんだかくすぐったい。
そして重い。
――目を開けると、そこにはユエルがいた。
俺の胸にぴったりと耳を押し当てながら、身体を密着させている。
表情はなにやら不安気だ。
ユエルは眉を歪めながら、ぎゅっと目を閉じている。
どうやら今の感覚は、ユエルの髪が俺の肌に触れた感触だったらしい。
そして、ユエルに声をかけようとして、気付いた。
今の感触は、通常の状態においてあってはならないと。
ユエルの髪が、俺の素肌に触れたのだ。
そう、素肌に。
自分を見る。
いつの間にか、パンツ一丁である。
......おかしい。
俺の修道服はいったいどこへいってしまったのか。
そしてユエルは何故、そんな俺の体に密着しているのか。
こういう時こそ冷静さが肝心だ。
一つずつ、状況を整理していこう。
まず、俺の服はどこにあるのか。
少し視線を動かすと、すぐに見つけた。
俺の頭の横に、綺麗に畳んで置いてある。
次に、ここはどこなのか。
小さな洞窟のようになっている、岩陰だ。
周囲は焚き火でぼんやりと照らされ、川の流れる音も聞こえてくる。
時刻は夕暮れか夜、場所は川沿いのようだ。
川。
「......そうだ。川に落ちたんだった」
「ご、ご主人様っ!」
俺が言葉を発すると、ユエルがパッと目を見開いた。
「ご主人様、お怪我はないですか!?」
「あ、あぁ、だいじょう......いったたた」
少し体を動かすと、全身に痛みが走る。
骨が折れたりはしていないようだけれど、いくつか打撲がありそうだ。
あと、頭が痛い。
あまり覚えてないが、川に落ちてから打ったのかもしれない。
とりあえず、まずは治療だろう。
「ヒール! ユエルは怪我は無いか?」
「えっと、わたしは......」
少し口ごもっている。
よくユエルを観察すると、ユエルの掌から血が滲んでいた。
「血が出てるじゃないか! エクスヒール!」
しかし、俺が川に落ちてから何があったのか。
川沿いの岩陰に寝かされていた俺。
ユエルと二人きりの現状。
そして、俺が川に飲まれる寸前に見た、人影。
大体想像はつくけれど。
多分、俺が川に落ちた時、ユエルも後を追って飛び込んできたんだろう。
けれど俺はすぐに頭を打つか何かして意識を失った。
ユエルはそんな俺をどうにかして助け、ここまで運んだ。
そんなところだろう。
岩陰の外から俺を引きずってきたような跡も残っているし。
しかし、ここがどこだかわからない。
あれからどれだけ時間が経ったのかも不明だ。
まずは情報の共有が肝心だろう。
ユエルは淡々と何があったのか話してくれた。
簡潔にまとめるとこうだ。
俺が川に落ちた後、ユエルもすぐに川に飛び込んだ。
ユエルはなんとか俺に取り付くと、俺から離されないように、体にしがみついた。
しかし助けようと思ったはいいものの、川の流れは早かった。
それに加えて、すぐに俺が気を失ってしまったために、ユエル一人での救出は困難。
しばらくはそのまま流され続けていたそうだ。
そんな中ユエルは必死に俺を助ける方法を考えた。
そして、思いついた。
アイテムボックスに入っていたロープの片方を俺に、そして片方をナイフにくくりつけて、ナイフの方を川沿いの木に引っ掛ける、という方法を。
ユエルは何度かの失敗を経て、ロープのついたナイフを木に引っ掛けることに成功し、俺とユエルは川岸に辿り着くことができたそうだ。
掌からの出血は、俺を川から引きあげる時に、掌をロープで強く擦ったせいらしい。
そしてそれから、俺を近くの岩陰までひきずっていき、寝かせた。
服に関しては、濡れたままだと風邪をひいてしまうからと脱がせたものの、替えの服は俺のアイテムボックスに入っていたために取り出せず、そのまま焚き火で温めることにしたということらしい。
そして、さっきの密着は心音を聞いていただけだそうだ。
話を聞く限り、ユエルは相当頑張ったようだ。
しかし、迷いなく増水した川に飛び込む度胸。
あるものを駆使して俺を助けたその機転。
そして川に落ちたり、川に落ちてすぐに気絶するような情けないご主人様を責めるでもなく、ただひたすら心配し続けたその心の優しさ。
有能すぎる。
ユエル自身は、ご主人様から貰ったナイフを一本、川の中に落としてしまったと言って落ち込んでいるけれど。
それもかなり悲しげに。
でもそんなことは本当に些細なことだ。
ユエルが俺を川から助け出した功績を考えれば、いくらでもお釣りがくる。
何かユエルが喜ぶことをしてあげたくなるけれど、何をすればユエルは喜ぶんだろうか。
迷宮で魔物を倒した時は、頭を軽く撫でるだけで良かったけれど。
さすがに今回も頭を撫でるだけというのは、ユエルも不満が残るかもしれない。
でもとりあえず撫でておく。
「ユエル、本当によく頑張ったな。助かったよ」
ねぎらいながら頭を撫でると、ユエルははにかみながら、頭を寄せてきた。
すごく嬉しそうだ。
......これで良かったらしい。
ユエルの頭を撫でながら、話を続ける。
「ところで、あれからどれぐらいの時間が経ったか、わかるか?」
「......えっと、ご主人様が寝ていた時間も合わせて、大体三時間ぐらいだと思います」
あれから三時間というと、今はだいたい夜の七時ぐらいだろうか。
随分とぐっすり寝てしまっていたらしい。
「どれだけ流されたか、わかるか?」
「......ごめんなさい、わかりません。でも、川の流れも早かったですし、大分流されてしまったと思います」
はっきりとしたことはわからないが、大分流されてしまったらしい。
いや、逆をいえば、わからなくなる程流されたのか。
そういえば、いつだったかドラマで、主人公が増水した川に落ちた子犬を助けるシーンを見たことがある。
あのドラマでは、大人が全力で走ってやっと、川を流れる子犬と並走できていた。
俺が落ちた川も、実際それぐらい流れが早かったような気もする。
そう考えると、例え川に流されていた時間が二〜三十分程度だとしても、大雑把に見積もって五キロぐらいは流されていそうだ。
川の中にいた時間次第では、もっとかもしれない。
討伐隊との合流はできるんだろうか。
こんな視界もろくに効かない、魔物蔓延る森の中で。
ふと、以前治療院でルルカの言っていた言葉が脳裏を過る。
――遭難。
いや、いや、大丈夫、大丈夫なはずだ。
川に落ちたんだから当然ではあるけれど、川というわかりやすい目印もある。
これを遡上していけば、騎士団率いる討伐隊と合流できるはずだ。
......討伐隊が川から離れていなければ。
けれど、討伐隊が俺の生存を諦めていなければ、川を下って、周辺を捜索しにくる可能性はある。
しかも、クランクハイトタートルと戦う前、セラから地図を見せてもらったが、確かこの川は森を抜けて、メルハーツの街につながる街道の方向に流れていた。
川を下れば、いつかは街道に出られるのだ。
具体的な距離までは覚えてないが、多分、丸一日はかからないだろう。
どうするべきか。
まずは川を遡上し、討伐隊との合流を目指す。
クランクハイトタートルを討伐した場所まで行って討伐隊と合流できなかった場合、今度は川を下って森を抜け、街道に出る。
これがベターだろうか。
「ご主人様?」
考えていると、ユエルが声を掛けてきた。
どうやら考えすぎて、撫でる手が止まっていたらしい。
「ユエル、これからのことなんだが、川を上って討伐隊との合流を目指そうと思う。討伐隊も、俺を探している可能性があるしな。ユエルはどう思う?」
「はい。わたしも合流できそうなら、騎士の人達とすぐに合流した方が良いと思います。街の外はとても危険ですから」
「それじゃあ、夜が明けたら移動することにするか」
「......ご主人様。移動するなら、夜の方が安全かもしれません」
ユエルが真剣な顔つきで言う。
「森の中では、大量の魔物に囲まれてしまうのが一番怖いです。でも夜なら少なくとも、夜目の効かない魔物は寝ていますから」
なるほど。
「いや、でも、暗いぞ? こっちも見えないなら、魔物と戦えないだろ?」
「私は夜でもはっきり見えます。ダークエルフですから」
ハイスペックなユエルさん。
なんと暗視モードも搭載しているらしい。
川を上ること十数分。
空はもう晴れていて、川沿いには月明かりが差している。
月明かりがあるといっても、魔物蔓延る夜の森。
正直怖いものがあるけれど。
ユエルは時折耳をピクピクと動かしては周囲の物音を探り、少しずつ前進していく。
そして、何かを見つけたのか、唐突に駆け出した。
一瞬、ナイフが月明かりに煌めく。
近寄ってみると、そこには犬のような顔をした、亜人タイプの魔物の死体。
首を一刀で切り裂いている。
慎重に移動しつつも、魔物を見つければ、常に先制攻撃を仕掛けていく攻撃的なスタイル。
まるで暗殺者である。
伸ばしてはいけないユエルの才能を見てしまった。
いや、ユエルの場合こういうスタイルをとらないといけない理由があるのかもしれないが。
ユエルの体は小さいし、ルルカのように盾のスキルを持っているわけでもない。
ユエルは誰かを守るということが、肉体的な特徴として、不得手なんだろう。
だから、脅威になりそうなものを俺に近づく前に排除する、という攻撃的なスタイルになるのかもしれない。
よく考えれば合理的である。
そんなことを考えていると、ふと、ユエルが足を止めた。
そして、耳をピクピクとさせながら、キョロキョロと周囲を窺っている。
「ご主人様、この先に多分、コボルドの集落があります」
「わかるのか?」
「はい。沢山の魔物の気配があります。かなり規模の大きい群れで......百匹以上はいるかもしれません。多分、今のコボルドも、その集落の見張りです」
「倒せそうか?」
「......ごめんなさい、多分、私一人では無理だと思います」
ですよね。
流石に無茶振りだった。
「見つからずに進めそうか?」
「......コボルドは夜目も効きますから、危険です。これ以上近づくと、いつの間にか囲まれてしまう可能性もあると思います」
コボルドの大規模集落か。
どうするべきか。
ユエルを単騎で突入させて、俺は木の上あたりからエクスヒールを掛け続けるというアイデアも一瞬思い浮かんだが、流石に物量に潰されそうだ。
というかそんな作戦、実行する気もさらさら無いけれど。
となると、迂回か。
コボルドは夜目もきくらしいし、見た目からして耳も嗅覚も鋭そうだ。
もし見つかって大量のコボルドとの戦闘になれば、目も当てられないことになる。
かなり大きく迂回する必要があるだろう。
いや、でも、迂回するということは川から大きく離れることになる。
広い森の中で、川という目印を失うのは痛い。
それに、討伐隊とすれ違ってしまう可能性もある。
どうする。
考える俺を、ユエルが見つめている。
そして気付いた。
ユエルが、眠そうな、疲れたような表情をしていることに。
背中に冷や汗が流れるのを感じる。
――そうだ、ユエルが眠ったらどうしよう。
不味い。
考えが足りていなかった。
今、ここには俺とユエルの二人しかいないのだ。
そしてユエルは索敵も戦闘もできるけれど、俺は両方ろくにできない。
音を殺して近寄る野生の魔物を感知することなんてできないし、突然の攻撃から眠るユエルを守ることもできないだろう。
......川を、上るべきではないかもしれない。
川を上ったとしても、もし討伐隊に合流できなければ、そこから街に戻るまで、倍近い、もしくは倍以上の時間がかかる。
ただでさえ、ユエルは川での俺の救出、そして看病と、相当疲れているはずだ。
俺は眠っていたようなものだからいいものの、ユエルはその間もずっと魔物を警戒していたはずである。
これからコボルドの集落を迂回して、川を上って、討伐隊と合流できなかった場合。
ユエルの体力が持つかわからない。
いや、ユエルは戦闘スキルはあるものの、肉体的には普通の女の子と大差無い。
多分、持たないだろう。
そしてユエルの体力が限界を迎えた時が、魔物の餌食になる時である。
今からすぐに川を下って、街道まで出さえすれば、街道警備の騎士や行商人と合流できる可能性もある。
純粋な距離の問題としても、討伐隊と合流を図るより短い時間で街に帰ることができるだろう。
そもそも、討伐隊が川を下ってきているという保証もない。
一瞬、動かずにじっと助けを待つことも考えたが、この森には魔物が居る。
長期戦は駄目だ。
幸い、まだ川を上り始めて二十分も経っていない。
損失は、少ない。
引き返せる。
「ユエル、川を上るのは諦めよう。川を下って、街道から街を目指そう」




