(巻の七) 第四章 灯村 上
「本格的に雪が降り始めたね」
田鶴は白い息を吐きながら、寒さで赤くなった手で小猿を胸にぎゅっと抱き締めた。真白の銀色に見える色の薄い毛並みに、大粒の雪が次々に舞い落ちて光っている。菊次郎は雨笠の先端を持ち上げて、天を覆う灰色の厚い雲に目を向けた。
「まだ昼前ですが、今日はこの村で野営しましょう。さっきお話を聞いたおじいさんも、明日の朝までやまないだろうと言っていました」
林に囲まれた小さな村のこの広場には、もともと足首が隠れるほど積もっていた。寝床や食事の準備にそれなりの時間がかかるだろうし、墨浦まであと半日のところまで来ているので、無理に先へ進むことはない。
直春は頷き、そばにいた村長に許可を求めた。
「この広場を使わせてもらいたい。よろしいでしょうか」
「もちろんです。どこでもご自由にお使いください」
この村は成安領だったが、先程桜舘家に従うことを誓った。迷惑に思っていたとしても、菊次郎たちは五千近い軍勢を連れているので断る勇気はないだろう。
「ありがたい。できるだけ邪魔にならないようにします」
直春は頭を下げて約束した。命令すれば簡単だが、武力で脅して民に強制するようなまねはしたくないのだ。
「ただ、薪は分けていただきたい。代金はきちんと支払います。井戸も使わせてください。食べ物は持ってきました。料理もこちらでします」
村長はほっと肩の力を抜いた。
「この投木村は名前の通り薪を作って墨浦へ売っております。入用の数を遠慮なくおっしゃってください」
村の奥の方を手で示して申し出た。
「国主様はわたくしの家においでください。大したことはできませんが、精一杯おもてなしをさせていただきます」
村長の誘いは義理だけではない口調だった。人口二百人ほどの村の長にまで丁寧な態度の直春に好感を持ったようだ。
「いや、武者たちと共に寝ます」
直春が首を振ると村長は目を見張った。封主家の当主や軍勢の大将は村長の家を宿所にするのが普通だ。これまでもたくさんの人を泊めてきたのだろう。
「この雪の中、ご無理をなさらずとも」
「準備はあります」
「いっつもそうだもんね」
それが当然という田鶴の口ぶりに、村長はますます驚いた様子だった。
菊次郎は豊津帆を織る工房に注文して武者たちの宿営用に厚い綿布の天幕を作らせていた。素早く張れて風を通さない。できるだけ民に負担をかけないようにしようと直春が言ったのだ。
そう説明すると、村長は他の村人たちと視線を交わし、柔らかい笑みを浮かべた。
「この雪です。せめて暖かい寝床くらいは提供させてください。国主様を外で寝かせるわけには参りません。武者の方々も、全員は無理ですが、村の家々に泊まっていただきましょう」
「よろしいのですか」
菊次郎がためらうと、村人たちは頷いた。
「桜舘家の方々は噂通りなのですな。そういう領主様なら大歓迎です」
村長は苦笑のような表情になった。この地の領主は先日武者を連れて村にやってきて、食料や薪を強引に徴発していったらしい。
「かたじけない。お世話になります」
固辞するのもよくないと直春は思ったらしい。頭を下げて受け入れた。
「武者を泊めてくださった家には、あとで食料をお渡しします」
「そうしましょう」
菊次郎も首を縦に動かして同意を示した。客人が来れば薪を多く焚いて家を暖めたりお茶を出したりさせることになる。
「では、武者たちを分宿させる手配をしますね」
菊次郎は数字に強い則理を村人に紹介し、伝令役の武者をそばに呼んだ。
「今日はこの村に泊まると成明さんたちに伝えましょう。無理をしてここに集合せず、その地で夜を過ごすようにと」
南国街道を進軍しながら、桜舘軍は村や町に部隊を派遣して帰順を促していた。泉代隊・小薙隊・安瀬名隊はやや離れたところに行かせている。
宿泊場所の指示を出し終え、くじにはずれた武者たちが天幕を広げ始めると、菊次郎たちは村長の家に向かおうと歩き出した。が、武者が走ってきて直春を呼び止めた。
「どうした」
「この子供が馬で村に突入しようとしたのです」
武者たちが連れてきたのは十代半ばの男の子だった。
「おれは怪しいもんじゃねえ。直春公に会いたいだけだ!」
雪の上に無理矢理座らされた少年は、押さえ付けられたままわめいた。
「黙れ! 大人しくしないなら子供とて容赦しないぞ!」
暴れる子供の顔を見て、村長が声を上げた。
「元太じゃないか」
視線を向けた直春に説明した。
「西にある灯村の村長の息子です。この子の兄に娘が嫁いでおりまして」
子供が村長に気が付き、足にすがろうとした。
「おじさん、お願いだ! この村に直春公がいるんだろ! 会わせてくれ! 急がないと間に合わなくなる!」
「こいつ!」
こぶしで黙らそうとする武者を直春は手で制した。
「俺が直春だ。何か事情がありそうだな。話してみろ」
「えっ?」
少年は白と赤の立派な鎧の偉丈夫を見上げ、本物か確かめるようにじろじろと視線を走らすと、急に地面にはいつくばって頭を下げた。
「村の人たちを助けてもらいたいんだ!」
半泣きで語ったのは、領主である立明家の横暴だった。
寧居港の戦いのあと、半月ほどかけて態勢を立て直した桜舘軍は、宇野瀬軍と同時に大門国に向かって進軍を開始した。一ヶ月後、薬藻国との境の波羽砦が願空の船で背後に回る策で陥落すると、成安軍は全軍を墨浦に集めて籠城することを決定、半空国側の足首砦も明告知業の雪の中に長い穴を掘る策で守備の武者が脱出、街道上の橋を全て落として撤退した。
「領主の武者たちがやってきて、無理矢理蔵を開いて米俵を持ち出そうとしたんだ。止めようとしたら、村の人たちを殴り付け、刀で脅して家に火を放ちやがったんだよ!」
成安家は城に入る家臣たちに領地から可能な限り多くの武器と食料を持ってくるように命じたのだ。
「ここ数年不作が続いてどの村も苦しいのです。この雪では山で食べ物を探すことも難しく、食料を奪われたら飢え死にするしかありません。私たちの村はそこまではされませんでしたが……」
村長は痛ましげに目を伏せた。
「直春様、どうか助けてくれ。家を焼かれたら雪の中寝るところがなくなる。食べ物だって、みんなひもじい思いをしていてぎりぎりだったんだ」
少年はあふれる涙を腕でこすった。
「村に温泉場があるんだけど、湯治客に食事が出せないから閉鎖してるくらいなんだ。差し出せるものなんてないんだよ。なのに、『これまで平穏な暮らしを送れてきたのは、当家がこの村を治めてきたからだ。その恩を返せ』とか言って、村の人たちにひどいことを……」
直春は眉をひそめて腕組みをした。
「まだ村にいるのか」
「いると思う。温泉場を壊したあと、みんなの家に押し入って食べ物や金目のものを奪ってるんだ。急がないと村を全部燃やされちゃうよ」
悔しげな少年に、田鶴が友人の鎧の腕をぎゅっと握った。
「直春さん」
「分かっている」
田鶴に頷いて、直春が怒りを押し殺した声で言った。
「菊次郎君。助けよう。放ってはおけぬ。領主は民を守るのが仕事だ。虐げるなどあってはならない」
表情を見て、止めても無駄だと悟った。
「分かりました。行きましょう」
菊次郎は答え、騒ぎを聞き付けて集まっていた武者頭たちに指示した。
「すぐに出発します。騎馬隊は先行してください。この子を道案内に」
「かしこまりました」
榊橋文尚が一礼し、配下を呼び集めて馬にまたがった。雪を蹴立てて一千の騎馬武者の群れが駆け去っていく。
「徒武者も向かいます。小荷駄隊はすぐに野営の準備を撤収して追ってきてください」
小荷駄隊の荷車は食料や天幕だけでなく、矢や油の樽といった戦いに使うものも積んでいる。
「成明さんなど、ここにいない人たちにもできるだけ早く灯村に来るように伝えましょう。でも、今日中に着くのは難しいと思います」
雪はますます激しくなっている。菊次郎たちが灯村に着くのは夕方だろう。
「村に来た立明家の武者は五十人ほどと聞きました。蹴散らすだけなら文尚さんで十分ですが」
「問題は明日だな」
「はい」
そんな無体なことをする領主だ。領民の反抗に怒ってもっと多くの武者を差し向けてくる可能性がある。逃げ出せば村人たちの命は助かるが、家や食べ物を失ったら生きてはいけない。村を救うには軍勢を入れて守りを固め、立明家が手出しできないようにしなくてはならない。
「本隊と切り離された一千の騎馬隊は格好の標的で、成安軍が出てきたら全滅しかねません。村を守ろうと思うなら、ある程度の数の軍勢を集結させる必要があります。そして、僕と直春さんが村に向かったと聞けば」
「最悪、戦になるな」
田鶴が息をのみ、小猿を抱く腕に力を入れた。直春のそばにいたのは五千ほど。それがまわりを海と崖に囲まれた逃げ場のない村にいると知ったら。
「今夜は寝られないと思います。成安軍が攻めてきても勝てるように、村の人たちと協力して迎え撃つ準備をしましょう」
「宗龍がそこまで愚かでないことを願うが」
直春の表情は険しかった。
「恐らく厳しい戦いになるだろう」
「雪と氷と寒さ。こういう戦場は初めてですね」
「だが、勝たなければならない。灯村の民は当家の庇護下に入ることを望んだのだ。子供とはいえ約束した以上、彼等の命も、家屋や財産も、俺は必ず守る」
「もちろんです」
菊次郎は友茂に助けられて愛馬にまたがり、そのぬくもりを両足に感じながら、周辺の地図を思い浮かべて作戦を練り始めた。
「何が起こったのだ。緊急の軍議とは」
同日、そろそろ日が沈む頃になって、杭名種縄の使いが宗龍を呼びにきた。菫と一緒に四歳の息子次安丸の遊び相手をしていた成安家当主は、面倒くさそうな顔をしたが、着物を変えて評定の間に向かった。
「桜舘直春が灯村に入ったと報告がございました」
居並ぶ諸将の一番前で、種縄が言上した。
「今夜は村にとどまる様子。敵の総大将を討ち取る好機でございます」
「ほう、詳しく聞かせよ」
宗龍が興味を持った顔をすると、種縄は熱っぽい口調で状況を説明した。
「南国街道を進んできた桜舘軍は一万と少しでございます。そのうち灯村に入ったのが約五千、残りは離れたところに宿陣しております。この雪で移動はしにくく、明朝にはさらに積もっておりましょう。村に到着するのは早くて昼頃になりますな」
言葉の意味が人々の頭に染み込むのを待って、種縄は続けた。
「よって、明日夜明けと共に出陣して村を包囲し、敵の残り半分が到着する前に攻撃することを提案いたします」
重臣たちは驚いて顔を見合わせ、口々に叫んだ。
「見事な作戦ですな!」
「きっと勝てましょう!」
「直春の命も明日までですぞ!」
墨浦に籠城する事態になり、北と東から迫りくる桜舘軍と宇野瀬軍に果たして勝てるのかと皆不安だった。そこに片方を撃破できそうな状況が生まれたのだ。安堵して戦意をみなぎらせる者が多かった。
「その戦には大義がござらぬ」
是正の雷のような声が大広間のうわついた空気を貫いた。種縄の話に一部の者たちは苦い顔をしていたが、その代表がこの宿将だった。
「立明家は暴虐を働いた。直春公は民を守ったのだ。村に入ったのも報復されるのを防ぐために違いない。その直春公を攻撃すれば、当家は民を苦しめる者を助け、守る者を討ったと非難されるだろう」
是正は宗龍に体を向けた。
「御屋形様。ここで出撃すれば当家は大きな恥をかきますぞ。探題として長く足の国をまとめてきた歴史と威光を汚すことになりましょう。軍勢を派遣するかわりに使者を送って、立明家は叱責する、村に報復はさせないとお約束なさいませ。さすれば民の心は当家にとどまり、桜舘軍は村から引きあげるに相違ございませぬ」
考える様子の主君に、さらに言葉を重ねた。
「この墨浦城に籠もって敵を迎え撃つ方針だったはず。無理な出撃はせず、守りを強化する作業を急ぎましょうぞ」
宇野瀬軍もあと一日の距離まで来ている。明日にも城が包囲されるのだ。
宗龍は首を傾げ、是正に尋ねた。
「それで確実に勝てるのか」
「確実とは断言できませぬが、当面負けることはございませぬ」
墨浦城は新豊津城を上回る巨城だ。敗戦が続いたとはいえ、まだ三万三千の武者がいる。向かってくる桜舘・宇野瀬両軍の合計とほぼ同じ数で、力攻めで陥落させるのはまず不可能だ。
「当面とはいつまでだ。どれくらい籠城せねばならぬ」
軍議でも何度か話題になったことだった。是正は見通しを述べた。
「少なくとも半年は覚悟するべきですな。もしかすると数年に渡る可能性もございます」
ふむ、と宗龍は頷き、種縄に視線を戻した。
「村を攻めれば勝てるのだな?」
「間違いございませぬ」
連署は自信ありげに断言した。
「直春を討てば桜舘軍は撤退いたします。討てなくても敵の主力に大打撃を与えて武者数を減らすことができ、籠城が有利になりましょう」
「墨浦を守りきれる可能性が高くなるということか」
「さようでございます。宇野瀬軍だけでこの城を落とすのは困難でございますゆえ、彼等も引き上げていくでしょう」
種縄は言葉に力を入れた。
「沖里公は大義がないとおっしゃいますが、御屋形様には五百年探題をつとめた名家を守り、しきたりや伝統を継承し、ご先祖様を祭り敬うという大変重要なお役目がございます。我が杭名家も宗皇様に頂いた大船柱という貴重な宝を子孫に伝え後世に残さねばなりませぬ。その使命に基づいて、侵略者桜舘直春を討ち、敵の軍勢をこの国から追い払い、墨浦の町を守る。これが決して譲ることのできない大義であることは、愚かな民草にも理解できるに違いございませぬ」
「わしらには守るべきものがあるということか」
つぶやいて宗龍は少し黙り、あごをさすった。
「出撃しておる間にこの城が落ちることはないのだな」
「宇野瀬軍は明日中に墨浦に着けるかどうかの距離。しかもこの雪でございます。お城が攻められるのは早くても明後日と存じます」
「分かった」
宗龍は正面に顔を戻し、注目する諸将に告げた。
「出陣を許可する。直春を討つぞ。今日中に勝ってこの城に帰ってくるのだ」
おおう、とどよめきが起こり、重臣たちが好戦的な笑みを浮かべた。
「お考え直しくだされ! この戦は勝っても負けても当家の恥になりますぞ!」
是正が割れ鐘のような声で叫んだが、宗龍はつまらなそうに言い返した。
「大義や道理では戦に勝てぬ。敵を打ち破る好機なのだ。理屈にこだわってそれを見逃す方が愚かだ」
「ですが!」
「このままでは当家は危ういのだろう。わしはまだ死にたくない。妻子を路頭に迷わせたくもない。そなたらも同じであろう。本国まで攻め込まれ、苦しいこの状況を、ここで打開したいのだ」
宗龍は広げた扇子をひらひらさせて重臣たちを黙らせると、表情を改めて命じた。
「明日早朝にこの城を出発する。わしも行くぞ」
「なんですと!」
種縄が目をむいた。興奮していた重臣たちは耳を疑う顔をし、大広間が緊張に包まれた。
「お待ちくだされ。御屋形様がご出陣なさる必要はございませぬ。戦は我等にお任せいただけませぬか」
是正が言うと、数人が同意の声を上げた。
「総大将は是正公がよろしいと存じます」
「さよう。御屋形様はお城におとどまりください」
「ここにいらっしゃってこそ武者や民が安心いたします」
宗龍は首を振った。
「この戦は必ず勝たねばならぬ。もし負ければどうなる」
重臣たちは口をつぐんだ。
「皆も分かっておろう。多くの武者を失えば籠城しても勝てる可能性が低くなる。だからこそ、わしが行って武者たちを鼓舞監督するのだ」
「ごもっともですが、それは家臣たる我等の役目。御屋形様ご自身が出向かれなくても勝利は揺るぎませぬ」
種縄も言ったが、宗龍の意志は固かった。
「この戦に勝っても宇野瀬家を相手に籠城せねばならぬ。少しでもその期間を短くし、守りきれる可能性を上げるために、わしも働くことにしたのだ」
種縄は開けかけた口を閉じ、諦めた顔になった。
「かしこまりました。では、お供いたします」
「わたくしも同行させてくださいませ」
次席家老の崇典古も名乗り出た。種縄にだけ手柄を立てられてたまるかと思ったようだ。
「うむ。軍勢を率いるのは初めてだ。お主たちを頼りにしている」
宗龍は頼もしげに言った。
「是正、そなたも来てくれ。戦上手と聞いておる。力を貸してほしい」
「ははっ、御屋形様はわしらがお守りいたします」
いよいよこの戦に負けられなくなった。全力で働く覚悟を宿将は固めたようだった。
「父上、わたくしに先陣をお申し付けください」
十五歳の宗愷が声を上げた。宗龍の正室の子だが、寵愛が深い菫に男児が生まれたので世子の座が危うくなると恐れているらしい。都から嫁いできた公家の娘で有力な後ろ盾のない母に、手柄を立てて武勇を示しなさいとそそのかされたのだろう。
「よかろう。こたびが初陣だな。わしも同じ年だった」
二十七年前のことだ。
「必ずや武功を上げてみせます」
緊張で青ざめている息子に、宗龍は励ますように声をかけた。
「よい心意気だ。期待しておる」
宗愷が平伏すると、宗龍は大声を張り上げた。
「出陣だ。必ず直春を討ち取るぞ!」
ははっと諸将はそろって頭を下げた。是正が深い溜め息を吐いたのが聞こえた。
宗龍は奥向きに戻り、出陣の用意を命じた。侍女たちが慌ただしく動き出し、城内は騒がしくなった。
「御屋形様」
鎧が飾ってある部屋で道具がそろうのを待っていると菫が入ってきた。次安丸を連れている。
「ご出陣なさるとうかがいました」
菫は二十二、母になっていよいよ美しくなったが、面にいつもの明るさとおだやかさがない。もとは農家の娘、戦に慣れていないのだ。
「どうしてもいらっしゃらなければならないのですか」
宗龍はいとしい妻を抱き寄せた。菫は体を預けて目を閉じた。
「ああ、戦ってくる。かけがえのない宝を守るためにな」
近付いてきた幼い息子の頭を撫でた。
「宝とはお前たちだ。家族の温もりをわしに与えてくれた。この幸せを壊そうとする者たちを追い払ってくる」
宗龍の寝所には多くの女が侍ってきたが、菫は特別だった。愛し愛される喜びを教えてくれたのだ。次安丸も他の子たちより格段にかわいいと感じる。菫の産んだ子だからだろう。
「この年になってようやく分かった。この城と領地の大切さが。代々のご先祖様もきっとこのようなお気持ちで家を守ってこられたのだろう」
菫を抱き締める腕に力を入れた。彼女と出会って、宗龍は初めて命をかけて守りたいものを得たのだ。
「戦は怖い。戦場に出るのは初陣以来だ。それでもわしは行く」
あの時は父に命じられて総大将をつとめたが、本陣にじっと座っているだけで危険はなかった。
「守りたいものがあるのに何もできないのは嫌だ。何かせずにはいられないのだ」
今回は是正や元尊も勝てなかった強敵だ。命を失う可能性があると分かっているが、結果をただ待っているだけなど耐えられなかった。勝利の可能性が少しでも高まるように、できることをしようと思っていた。
「直春は強敵だ。だからこそ、わしが出る必要がある。お前たちのためなら、戦場に立つ勇気が湧いてくる」
宗龍は妻の耳にやさしく決意を告げた。氷茨元尊の失脚で後ろ盾を失った二人には、自分しか頼れる者はいないのだ。
「必ず勝つ。成安家とこの城を守り、お前たちとこの先も暮らすために」
菫は額を宗龍の胸に付けた。
「無事にお帰りください。それだけを大神様にお祈りしております」
武家の娘なら「ご武運を」と言うところだが、戦の神でもある狼神に菫が願うのは勝利ではなかった。いかにも妻らしく、宗龍は一層固く抱き締めた。
「お前たちのもとへきっと帰ってくる。勝利の知らせを持ってな」
宗龍は約束し、体を離すと、大神様の像の前にひざまずき、生まれて初めて心から神と祖先の霊に頭を下げた。
「御屋形様、ご出陣なさるというのは本当でございますか!」
廊下が騒がしくなり、甲高い女の声が聞こえてきた。部屋に入ってきたのはお結の方だった。菫と同じく氷茨元尊が献上した側室だ。
「あら、あなたもいましたの」
お結の方は菫を見て嫌そうな顔になった。もと町娘の彼女は農村の出の菫を見下していた。
「出陣のご支度をお手伝いいたします。武運の縁起物も持って参りましたわ」
あからさまに宗龍に媚る表情をした。元尊の失脚で彼女も宗龍の寵愛しかすがるものがないのだ。
「菫に頼もうと思っていたのだ。そなたは呼んでおらぬ」
お結の方は一瞬いまいましそうな顔をしたが、すぐに笑みを作って甘えるように言った。
「大事な戦ですもの。わたくしにもご武運をお祈りさせてくださいませ」
このあけすけな性格を宗龍も一時は好んだが、菫に寵が移り、もう何年も彼女の部屋には行っていない。宗龍は不快そうに眉をよせたが、菫が言った。
「一緒にお祈りいたしましょう。お結様も不安でいらっしゃるのですよ」
「お前はやさしいのだな」
宗龍が苦笑すると、お結の方はこんな女に情けをかけられるなんてという顔をしたが、すがるように宗龍の袖を引いた。
「お願いいたします。一生懸命祈りますから」
宗龍は迷惑そうな様子で、断りの言葉を口にしようとしたが、廊下から声がかかった。
「わたくしも同席させてください」
正室が立っていた。もう十年以上、季節の行事以外で顔を合わすことはなかったが、息子宗愷も出陣すると聞いて夫に守ってくれるように頼みに来たのだろう。
お結の方は驚いた様子で宗龍の袖を離し、菫も脇にどいて正室に頭を下げた。廊下の奥から他の側室たちもやってくるようだ。
「分かった。今宵は皆で過ごそう」
菫だけでよいのだがという表情を宗龍はしたが、溜め息を吐くと、上座に腰を下ろし、侍女たちに人数分の夕餉をここに運ぶように命じた。
翌日、日が昇る前に成安軍は出陣した。
女たちは着飾って門まで見送りに来て、宗龍に一人ずつ言葉をかけた。菫は部屋で鎧を着るのを手伝い、徹夜で縫った綿入りの腹巻を渡し、握り飯も用意していた。具は宗龍の好物の焼いた塩鮭と自分で漬けている梅干だ。それを知った正室は傷薬と宗龍好みの香り袋を侍女に取ってこさせ、お結の方は墨浦の寺院のお守りと普段食べているそば粉の菓子を包んでくれた。他の側室たちもいろいろと持たせようとしたが、荷物になるので断った。
第一陣は総大将より先に墨浦城を出て西へ向かった。宗速の騎馬隊三千六百だ。敵情を探り、本陣を置く場所を確保せよと命じられている。もちろん敵が出てきたら戦ってよい。
「そろそろ村が近いな」
馬を慎重に歩かせながら、宗速は前方へ目を凝らした。
「随分と積もったな」
雪は夜半過ぎから一層激しくなり、膝が隠れるほどだ。道に穴があったら馬の脚が折れるので、あまり急ぎはしない。
「今年は特に雪が多い。この国で戦をするのは初めてだが」
大門国は臥神島で最も南にあり温暖な気候だが、冬は多くの雪が降る。北から吹いてくる風が内の海を渡って大長峰山脈にぶつかり、その先端の大門国で雪雲を作ると言われている。この国が戦場になるのは数十年ぶりで、宗速はこれほどの雪の中で戦った経験はなかった。
「すっかり白くなっているな」
灯村は墨浦の真西で、大長峰山脈の続きの丘が大門海峡に落ち込む場所にある。崖に半円形に囲まれて海に面しているが、付近は岩礁が多い難所で、楠島水軍といえども船で村に近付く無謀はしないだろう。村の手前は南北を丘に挟まれた細長い平地で、灯原と呼ばれ、田畑が広がっているはずだが、今は一面の雪原だった。
「敵です!」
周囲の地形を確認していた宗速の耳に、前を進む者たちの声が飛び込んできた。
「停止せよ」
命じて馬を急がせ、先頭へ駆け付けた。
「あれか」
街道の先に馬にまたがった武者が十騎いて、こちらの様子をうかがっている。
「物見か」
「そう思われます」
桜舘軍の騎馬武者は距離を置いて悠々と宗速隊を眺めていた。数を調べているようだったが、すぐに背を向けて去っていこうとした。
「捕まえますか」
「そうだな。敵の詳しい情報が手に入るかも知れぬ。行け」
「はっ」
宗速の指示で武者頭の一人が麾下の百騎を連れて追いかけた。叫び声に敵の騎馬武者たちが振り返り、慌てて速度を上げて振り切ろうとする。合計百十騎は雪煙を上げて平原を疾走していった。
宗速は進軍再開を命じた。敵は近そうなので警戒しながらゆっくり進み、本陣の設営予定場所に達した頃、百騎が戻ってきた。
「捕らえることはできませんでした。ですが」
武者頭はにんまりと笑みを浮かべた。
「敵の伏兵を発見しました」
あの十騎は突き出た崖を回り込み、その裏側の林の中に逃げ込んでいったという。
「辺りを調べますと、雪で消えかけていましたが、多数の馬の足跡が残っておりました」
林の少し先に桜舘軍の守備陣地があったと武者頭は説明した。
「桜舘軍の陣地へ攻撃しようと近付くと、あの林から騎馬隊が飛び出して背後を突くのでしょう」
「なるほど。気が付いてよかった。お手柄だな」
宗速は武者頭をほめ、全員に前進を命じた。
「では、その林の中の敵を先に片付けよう。敵の陣地の方にも物見を出せ。敵が騎馬隊を救援しようと陣地を出てくる可能性もあるからな」
武者頭の案内で街道を進み、林の手前に包囲するように騎馬隊を広げた。
「これで袋の鼠だ。追い出すために矢を射込め!」
雪をかぶった木々が茂っていて林の中は見えないが、桜舘軍がひそんでいるはずだ。三千六百のうち一千の武者が弓を構えた。
「よし、放て……、待て、何の声だ!」
攻撃を開始しようとした時、後方左側で大きな鬨の声が上がった。
「まさか、伏兵か!」
その方角にあった別な林から徒武者の群れが駆け出してきた。ざっと一千五百。一斉に矢を放つと弓を投げ捨て、槍を構えて走ってくる。
「背後をとったぞ! 攻撃せよ!」
凛とした声の主は赤と白の立派な鎧の偉丈夫だった。
「直春公か! 自ら伏兵とは!」
「敵は驚いているぞ! 突撃せよ!」
直春は白馬で先頭を駆けてくる。
宗速は降り注ぐ矢に慌てる騎馬武者たちを見回して一瞬迷い、命じた。
「全員、回頭せよ! 敵は直春公だ! 林に向かう足跡は偽装だったのだ!」
わざと足跡を見付けさせて林に注目させ、背後を襲う作戦だろう。
「だが、甘かったな。こちらは三千六百、精鋭の騎馬隊だ。半数以下の徒武者など蹴散らしてくれるわ!」
直春を討てばこの戦は勝ちだ。急な命令変更に武者たちは戸惑っているがすぐに立て直せる。
「こっちから突っ込んでやるぞ!」
そう意気込んだ時だった。
「今だ! 側面を突け!」
すぐそばにある大岩の陰から多数の騎馬武者が現れた。
「突撃! 敵を撹乱せよ!」
榊橋文尚率いる六百騎が、馬をくるりと反対へ向けようとしている宗速隊の横っ腹に突っ込んできた。
「挟撃? いや、三方からか!」
文尚たちに呼応するように目の前の林の中で鬨の声が沸き起こり、騎馬武者が雪を蹴立てて駆け出てきた。ざっと四百騎。やはりここにもひそんでいたのだ。
「合計二千五百か! 包囲された!」
正面に直春隊、側面と背後には騎馬隊。宗速隊は驚愕と動揺で統制を失い、狭まっていく包囲の輪の中を逃げ惑うありさまだった。
「このままでは全滅する。逃げるしかない」
宗速は撤退の太鼓をたたかせると、周辺の武者を呼び集めて、文尚隊に向かっていった。
「血路を開く。生き延びるためだ。必死で突破せよ!」
さすがに精鋭と名高い騎馬隊が死に物狂いで向かってくると、文尚隊は無理をせず、細い道を開けた。そこへ殺到する騎馬武者たちは、矢や投石で攻撃され、次々に傷付いていく。
「いったん村から離れるぞ。御屋形様のところへ行けば安全だ!」
成安家が誇る騎馬隊は、宗速を先頭に墨浦の方角へ命からがら逃げていった。
『狼達の花宴』 巻の七 灯村の合戦図 その一
「なにっ、緒戦に負けたじゃと!」
散々な目にあって逃げてきた宗速を、連署の種縄は大声で叱責した。成安一族で当主の叔父とはいえ、大きな戦で先鋒が負けて戻ってくるとは幸先が悪い。
「よい。敵情は分かったか」
進軍を止めて報告を聞いた宗龍は、やや青ざめたがおだやかな声で宗速に尋ねた。
「直春公の姿をこの目で見ましたぞ。間違いありませぬ。あの伏兵の策は銀沢信家でしょうな」
是正が唸った。
「信家がおるのか。予想はしていたが、この戦、簡単には勝てぬかも知れな」
種縄が嫌そうな顔をした。
「何を言うのじゃ。戦は始まったばかりじゃぞ」
宗龍に言上した。
「やはり直春はあの村におります。討ち取るまたとない好機と存じます。銀沢信家も捕らえれば、桜舘家はおしまいでございます。敵に援軍が来る前に村を陥落させましょう」
「うむ。前進を再開しよう」
部隊を立て直したら追ってくるように宗速に指示して、宗龍は村へ向かった。
「あれが敵の陣地か」
四角く幕をめぐらせた本陣に案内された宗龍は、興味深げに戦場を眺めた。
「前進を阻むつもりか」
小高い二つの丘に挟まれた細長い平地の中央部、最も幅が狭くなったところに、桜舘軍の防御陣地はあった。北の湯丘から南の見張り丘へまっすぐ伸び、灯原を二つに区切るような形状だ。
「あれを突破しなければ村には行けませぬ。徹夜で造ったと思われます」
「有利な地点で迎え撃つということか」
種縄に尋ねると、是正が答えた。
「それもございましょうが、村を戦場にしたくなかったのですな」
村の入口は小川がうがった細い渓谷になっていて、簡素だが門もある。大軍が一気になだれ込むことは不可能で、そこに陣地を造った方が守りやすいはずだ。少数ずつ村へ引き込んで袋叩きにする方法もある。だが、敢えて村から少し離れた位置で足止めすることを選んだようだ。
「直春公らしい配慮ですが、それだけではないかも知れませぬ」
宿将は考える様子だった。
「信家が何かを企んでおる可能性はありますな」
「どんなことだ」
「分かりませぬ。あの軍師は恐ろしいですぞ。用心なさるべきです」
是正のまじめな顔の忠告を、種縄がさえぎった。
「分からぬことを心配しても仕方ないじゃろう。数では圧倒的、踏み破って村に入るまでじゃ。こたびの戦は決して負けてはならぬのじゃぞ」
是正が寧居港を落とせなかったことを暗になじる口ぶりだった。
「その役目、わたくしにお任せを」
宗愷が進み出た。細面の美女の母に似て涼やかな目元の若者だ。
「約束だったな」
宗龍は頷き、進所悦哉を呼んだ。
「そなたを付ける。頼んだぞ」
「ははっ。命にかえましても」
初陣の十五歳、しかも世子に実際の指揮をとらせるわけはない。
「数は五千でよろしいでしょう」
種縄が言い、是正も無言で同意を示した。村にいる桜舘軍とほぼ同数だが、宗愷を守り、確実に陣地を突破して手柄を上げさせるには妥当な数だろう。
「御屋形様、わたくしにも五千をお分けください」
進み出たのは崇典古だった。
「灯村にはもう一つ入口がございます。そこを塞ぎとうございます」
墨浦へ向かう街道の始まる東門の他に、村の北のはしにも門がある。
「直春は北門から村へ入ったと聞いております。援軍が来るとしたらそちらからでございましょう。それを撃退し、直春が逃げられないように道を封じましょうぞ」
桜舘家の当主を討つのがこの戦の目的なのだ。
「よかろう。お主に任せる」
「ありがたき幸せ」
典古は頭を下げ、にんまりと笑った。手柄を立てて権勢を増し、主席家老や連署になりたいのだろう。
「では、我が息子にも三千を頂けませぬか」
種縄の目配せを受けて幽縄がそばに来た。
「敵のあの陣地は二つに分かれております。広い方を宗愷様に攻めていただき、狭い方を息子に任せたく存じます」
桜舘軍の防御陣地の中央に真中岩と地元で呼ばれる大きな岩がある。取り残された丘の一部と言った方がよい大きさで、よじ登るのは不可能な切り立った壁がそそり立っている。
「桜舘軍も街道が通る真中岩の北側と田螺川が流れる南側で部隊を分けている様子。こちらも二部隊で攻めた方が早く突破できましょう」
典古にばかり手柄を立てさせてなるものかという対抗意識だろうが、この提案には一理あった。成安軍は宗速の騎馬隊を抜いても一万八千を超える。ただでさえ少ない桜舘軍を分散させる意味でも、敵に援軍が来る前に決着を付けるためにも、多方面からできるだけ多くの武者で一斉に攻めるのは悪くない作戦だ。
「幽縄殿は材木山で失敗しております。大丈夫ですかな?」
典古が嫌味を言った。むっとした様子で種縄は言い返した。
「大丈夫じゃよ。経験豊富な巣早博以に輔佐させるのじゃからな」
「その巣早殿も押砦を直春に落とされているではありませぬか」
典古はさらに言ったが、そこで口をつぐみ、幽縄隊を作ることに反対はしなかった。もめているより戦って手柄を立てようというのだろう。成安軍は村内の桜舘軍の四倍強。まともに行けば勝てる戦なのだ。
「是正、これでよいか」
宗龍は信頼する宿将に確認した。
「何か言いたそうだが」
険しい顔つきだった是正は、主君に向かって重い口を開いた。
「正直に申し上げれば、わしはその攻め方には反対でございます」
陣幕の外に聞こえぬように落とした声だった。作戦に疑問を抱かせると武者たちの士気にかかわるからだ。
「なぜだ」
宗龍は意外そうな表情をした。
「確実に勝てる方法が他にあるからでございます」
「ほう」
宗龍は興味を示した。
「どうするのだ」
「北門とこの敵陣地の前にこちらも陣地を築いて村を封鎖し、兵糧攻めにするのでございます」
是正の視線につられて、宗龍も桜舘軍の方へ目を向けた。
「灯村はたった二百人の小村、しかも領主の徴発に逆らうほど食料が不足しておりました。そこへ五千が入ったのです。この雪の中、小荷駄隊の荷車は動きづらく、米俵を多数積んだ重い車が今朝までの間にどれほど村に入れたことでございましょう。桜舘軍が食料不足に陥るのに十日はかかりますまい。それまでこちらはただ包囲して直春公を逃がさねばよいのです」
種縄が嫌そうな顔になった。
「それでは時間がかかりすぎじゃ。宇野瀬軍が来てしまうじゃろう」
「墨浦城には一万一千がおります。宇野瀬軍二万をしばらく防ぐには足りましょう。さらに、この村を包囲するだけならば、二万二千もいりませぬ。北門に五千、ここに八千を置けば、残りは墨浦に帰っても問題ございませぬ」
典古も不満そうに口を挟んだ。
「だが、早く戦が終わるならそれに越したことはあるまい。墨浦を守りきったあと、失地回復の戦もあるのだぞ」
種縄が珍しく次席家老に加担した。
「兵糧攻めと言うが、直春が逃げてしまったらどうするのじゃ。崖をよじ登って丘を越えるかも知れぬし、小舟なら海へ出ることもできるじゃろう」
「直春公は自分だけ逃げるような卑怯なことはなさらぬでしょうな」
是正の反論は彼等に感銘を与えなかったようだった。宗愷が発言を求めた。
「昨日村に入らず他の場所で宿陣していた部隊が駆け付けてくるのではないか。包囲の背後を襲われたらどうするのだ」
「中に入れてしまえばよいのです。兵糧不足が早まりましょう」
是正は落ち着いていた。
「敵は一万以上の大軍になるぞ」
「東門の前は狭い回廊でございます。我等が攻め込むのも難しいですが、入った軍勢も出てきづらいのです。北門も似たような地形で、封じ込めるのは容易でしょうな」
種縄は言い返そうとして口を開け閉めすると、嗜虐的な顔つきになった。
「そんなに直春と戦うのが怖いのかえ」
馬鹿にした言い方だった。
「当家の宿将と呼ばれる男が尻込みするとは」
是正は挑発には乗らず、まじめな顔で宗龍に答えた。
「わしは信家の策略を警戒しておるのです。これまで数々の戦で数倍の敵を打ち破り、二年前に氷茨殿を大敗させた知略には底知れぬ恐ろしさを感じます。この状況で直春公が勝つには信家の知恵に頼る他ありませぬ。彼等は勝てる目算があるからこそ、村人を連れて村を離れることをせず、陣地を造って迎え撃とうとしておるのです」
是正は菊次郎には何か策があるのだろうと確信している口ぶりだった。
「こちらから攻めていくと策にかかる可能性がございます。我等は大軍、堅固な陣地を築いて守りを固め、油断せず夜襲や奇襲に備えれば、いかに信家といえども手を出せませぬ」
「さすが、数の多さを生かして堅実に戦うと評判の宿将殿じゃ」
種縄は悔しそうに嫌味を言った。典古はいらいらしている。
「そんな弱腰で戦に勝てるか! 敵は我等の四分の一、ここは戦うところだぞ」
連署は総大将に進言した。
「御屋形様、武者も彼等を与えられたお三方も戦意にあふれております。水を差して勢いを失わせるようなことはなさいませぬよう」
思案する宗龍の顔色をうかがって付け加えた。
「今が好機なのでございます。夜明けと共に出撃してきたのはなぜか、お忘れではございますまい。敵の援軍が到着する前にあの陣地を踏み破り、村に押し込んでしまえば、勝利は御屋形様のものにございます。日が暮れる前にお城に帰れますぞ」
「ふむ」
宗龍は少し迷ったが、きっぱりと告げた。
「作戦通りで行く。是正は大丈夫と言うが、墨浦の守りは宇野瀬軍の半分、何日も主力をここにとどめるわけには行かぬ」
宿将をなだめる口調になった。
「わしは墨浦が心配だ。敵はあの願空。万が一がないとも限らぬ。できるだけ早く帰って皆を安心させてやりたい」
宗龍は腹に手を当てた。雪の中寒いだろうからと、菫が徹夜で綿入りの腹巻を作ってくれたのだ。
「城が心配で武者たちも気持ちが落ち着かぬであろう。早く決着が付くやり方を選ぶ」
ははっ、と武将たちは頭を下げた。総大将が判断した以上、是正も食い下がりはしなかった。
「お三方に一つだけ忠告する。少数が多数に勝つには奇襲が定石。信家は伏兵もよく使う。用心されよ」
「宗速殿もそれにやられたのじゃったな」
種縄がもっともだという顔をし、宗愷・幽縄・典古は口々に油断はしないと誓った。
「では、頼んだぞ」
三人は総大将にお辞儀をし、武者頭を引き連れて天幕を出ていった。
「まだ何か言いたそうだな」
宗龍が視線を向けると、是正は頭を下げた。
「本陣のまわりを空堀と木の塀で囲うご許可を頂きたく存じます。守りを厳重にいたします」
「おそばには五千四百が残っておるのじゃ。敵がここまで攻めてくるとは思えぬのじゃが」
種縄は言ったものの反対はしなかった。当主の安全をはかるのは無駄なことではない。
「よかろう。任せる」
「ありがたき幸せ」
是正は一礼すると、武者頭と小荷駄隊の武将たちを集め、警備する者と工事をさせる者を分けた。すぐに木槌で釘をたたき、すきで地面を掘るかけ声や物音が響き始めた。
「父上。なぜこのようなことを」
作業を見守る是正に正維が近付いた。
「予定通りに進めば昼前には村が陥落するはずです。本陣が攻められるとお思いですか」
「分からぬ」
宿将は首を振った。
「だが、新豊津城外の合戦で氷茨殿が破れたのは、本陣を騎馬隊で急襲されたからだ。わしが総大将ならこんなことはせぬが、こたびは決して討たれてはならぬお方が本陣にいらっしゃる。念のためだ」
「丘の下の崖から川までですか。随分長い塀ですね」
正維はそばの低い机に置かれた柵の計画の図面を見やって疑問の表情を浮かべたが、理由は問わず、小声で別なことを尋ねた。
「先程おっしゃった兵糧攻めの案、なぜ最初に提案しなかったのですか。持ち場と武者を分け与えてから別案を出しても通らないと思いましたが」
「そうだな。実を言えば、わしは兵糧攻めに御屋形様は賛成なさらないだろうと思っておったのだ」
是正の眉が困ったように下がった。
「御屋形様のお心は半分墨浦に残っておる。目の前の戦に勝つことに全力ではない。負けても逃げ戻って城に籠もればよいと思っておいでだ。だから、多少危険が伴う作戦でも許可をお出しになり、できるだけ早く終わることを望まれる。時間がかかっても確実に勝てる方策を採るというご判断にはならぬ」
是正は低めたまま声に力を入れた。
「しかし、それで銀沢信家と直春公に勝てようか。わしも全力で立ち向かって打ち破れなかったのだ。この戦、一見結果は明らかなようだが、何が起こるか分からぬ」
「まさか父上は、負けるとお考えですか」
正維は目を見張った。
「可能性の話だ。だが、備えはしておきたい。御屋形様を危険にさらすことは許されぬ。何が起こっても無事にお城へお帰しせねばならぬのだ」
是正は視線を雪曇りの空へ向けた。
「わしは譜代とはいえ、たった五十貫の家に生まれた。先代宗周様に目をかけていただいて異例の出世をし、当代宗龍様は薬藻国の国主代にまでしてくださった。そのご恩に報いるため、わしは全力で御屋形様と当家をお守りする」
「父上……」
正維が口ごもったのは、代々の重臣たちから成り上がり者と陰口を言われたり露骨に嫌がらせをされたりした経験が自分にもあるからだった。
「わしは決して頑固一徹ではないぞ。忠義や奉公といった規範に凝り固まっておるわけでもない。わしは心底感謝しておるのだ」
もじゃもじゃの眉の下の深いまなざしは、硬い意志と同時に、現実をしっかりと見つめる冷静さも宿していた。
「わしは武者として、将として、働きたかった。立身出世したかった。名声や領地を得たかった。それを先代様と今の御屋形様はかなえてくださった。わしの働きを認め、過分な地位を与えてくださったのだ。譜代の重臣たちが互いの足を引っ張り合うあの城でだぞ。氷茨殿のような家柄を鼻にかける者たちに囲まれた中で、わしが宿将と呼ばれるまでになるには、実力だけでは駄目だったのだ」
大封主家だからこそ、しがらみや家中の競争も熾烈だった。
「大きな領地と力を持つ彼等を牽制するため、わしを利用したことは分かっておる。引き立てて恩を与えることで忠実な手駒にしようとしたのかも知れぬ。それでも、わしが存分に戦い、悔いのない日々を生きてこられたのは、あのお二方のおかげなのだ。その大きなご恩を、命をかけてお返ししたいのだ」
是正は視線を息子へ向けて目元をやわらげた。
「お前にも考えや進む道があろう。それでよい。わしはこの生き方を貫く。死に場所も自分で選ぶ」
「父上! それはまさか、当家はほろ……」
是正は首を振り、息子に口を閉じさせた。
「まだ分からぬ。とにかく、この戦に勝つために、わしは最善を尽くす。敵はあの信家だ。滅多に出会わない強敵だからな。寧居港の雪辱もしたい。年甲斐もなくわくわくするのだ。この老身がまみえる最後にして最大の敵となろう」
是正は愉快そうな笑みを浮かべた。
「種縄殿の作戦も間違ってはおらぬ。悲観するよりできることをしようぞ」
是正は息子の肩をたたいた。
「そなたにも働いてもらうかも知れぬ。いつでも戦えるようにしておけ」
正維は父の顔を食い入るようにじっと見つめると、大きな声で返事をした。
「分かりました。俺も全力で父上を補佐します」
「頼むぞ」
是正は頷き、声をかけたそうな顔つきで立っていた武者頭に歩み寄って、再び指示を出し始めた。
「前進せよ!」
武者たちに号令がかかった。工事が始まった成安軍の本陣から隊列が三つ離れていく。宗愷隊と幽縄隊は西に見える桜舘軍の陣地へ向かい、典古隊は少し東へ道を戻って湯丘を登り、越えて下った先に広がる北の原から村の北門を目指す。
「あれは雪の壁か」
停止させた五千の軍勢の後方で、宗愷は馬にまたがったまま敵の陣地を眺め、進所悦哉に尋ねた。五十がらみの家老はしばらく黙って戦場を観察し、肯定した。
「そのようですな」
北の湯丘から真中岩へ白く輝く壁が連なり、進路を塞いでいる。高さは大人の背を優に超える。地面に近いところに、身をかがめれば通れるくらいの穴が十個あり、壁を貫通しているようだ。
「あの穴を通って向こうへ行くしかないのか」
「そう思われます。突入してこいと誘っておるようです」
宗愷は考える様子だった。
「出口で待ち伏せているのではないか」
「恐らくしておりますな。穴は小さく、一人ずつ入ることになります。壁の向こうで複数の敵武者が槍を構え、顔をのぞかせたらずぶりとやろうということでしょうな」
それが桜舘軍の作戦と思われた。
「雪なら崩せぬのか」
「壁はかなり厚い様子。矢を浴びせたり蹴ったりするくらいでは崩せぬでしょう」
「盾を使って掘ればどうだ」
「それならば崩せそうですが、そんなことをしていたら、上から槍で突かれそうですな」
「そうかも知れぬな」
宗愷は迷う顔だった。
「どうすればよい?」
「正面から攻めて、壁を崩す動きをさせてみましょう。うまく行けばもうけもの、駄目なら敵の出方を見て修正すればよろしいかと」
「分かった」
損害を覚悟した提案に宗愷はひるんだ様子だったが、ごくりとつばを飲み込んで命じた。
「とにかく、やらせてみるしかあるまい。接近させよ」
「かしこまりました」
悦哉は頭を下げ、指示を出した。武者十人の組が多数作られ、盾を構えて前進していく。後方から一千の弓武者が矢の雨を降らせる。矢は雪の壁に当たると跳ね返されるか突き刺さるだけで、削れはしないようだった。
「敵の反撃が来ないな」
「おかしいですな。ですが、これは好機かと」
飛んでくると思っていた桜舘軍の矢がない。予想と違うが、一気に接近して壁を崩そうと、武者たちは壁の前の平らな雪原を走り出した。
「行けそうだな」
「あと少しです」
悦哉の返事に力が入った時、異変が起こった。
「どういうことだ?」
先頭を駆ける武者たちが次々に転んでいったのだ。後続の武者たちもある一線を超えると急に体勢を崩し、尻もちをついたり倒れたりする。
「足元に何かあるのか」
悦哉がいぶかしむ声をもらした。そこへ伝令が走ってきて報告した。
「雪の壁の前は氷を張った田んぼになっております!」
灯村へ続く街道の両脇は田畑が広がっている。今は雪にすっかり覆われたそこに桜舘軍は水を張り、夜の間に凍らせていたのだ。
「氷から先をとがらせた切り株や逆茂木が無数に突き出ております!」
滑るだけでも歩きにくいのに、逆茂木のせいで直進できないため、なかなか雪の壁にたどり着けないでいる。逆茂木は下の方が土と氷に埋まっていて動かすことはできないようだ。
「まずい! これは罠だ!」
青ざめた悦哉の耳に、若々しく凛々しい声が飛び込んできた。
「敵は大軍師の策にかかったぞ! 矢を放て!」
雪壁の中央部分に赤と白の鎧の武将が現れて刀を前へ振るった。直春だった。
大きな鬨の声が壁の向こう側で起こり、氷の上で立ち上がれないでいる武者たちに無数の矢や石が降り注いだ。
「ひるむな! 進め!」
武者頭が必死で叫んでいる。だが、武者たちはほとんどが膝をつき、あるいは氷の上を泳ぐように、はうように、もたもたとうごめくだけだった。
「くっ、直春公が見えておるのに届かぬのか! あの方を倒せばこの戦は終わり、当家は救われるというのに!」
悦哉が歯ぎしりした。
「そうだ! あぜ道だ。田んぼならあるはずだ!」
宗愷が叫ぶと、悦哉は感心半分、悔しさ半分の顔になった。
「よいお考えですが、敵も分かっておるはず。細いあぜの上に矢を集中してまいりましょう。ですが、それしかありますまい。盾で守りながら進み、なんとか壁に取り付ければ矢は飛んできませぬ」
すぐに指示を出そうとしたが、先程伝令に来た武者が悲しげに告げた。
「あぜ道には雪の下に大きな石がごろごろしております。しかも油を塗ってあるのです」
慌てて指さす辺りへ目を向けると、あぜ道にはい上がった武者たちが立ち上がろうとして何かに足を滑らせ、再び田んぼに転げ落ちていくのがあちらこちらで見られた。
「これが大軍師銀沢信家の策略か……」
宗愷の声は震えていた。悦哉が進言した。
「攻撃は中止しましょう。全軍を矢の届かぬところまで後退させます」
悦哉の命令が実現するまで、さらに少なくない数の武者が矢の餌食になった。
「まともに攻め寄せても損害を増やすだけですな。鬨の声の大きさと矢の数から、雪壁の向こうの敵は二千近いことも分かりました。作戦を練り直しましょう」
「……任せる」
はっ、と頭を下げ、悦哉は他の武将たちと相談を始めた。初陣の十五歳の世子は呆然として、雪の壁の上で刀を高く掲げて笑う直春を見つめていた。
「あちらにはそんな罠があったか!」
宗愷隊が苦戦していると聞いて、真中岩の南側では杭名幽縄が驚愕していた。
「銀沢信家がいると聞いてもしやと思いましたが、やはり一筋縄では行かないようですな」
幽縄隊三千はまだ攻撃を始めていなかった。副将の巣早博以が隣の戦いぶりを拝見しましょうと止めたのだ。
「恐らくこちらにも何かしかけがあるでしょうな」
幽縄は嫌そうな顔になって桜舘軍の陣地を眺めた。
「宗愷様の方は凍った田んぼだが、こちらは空堀じゃな」
「深いですな。幅も広く、渡るのは困難かと」
巣早博以も思案顔だ。
「底には、雪で見えませんが、逆茂木が多数あるに違いございません」
ただ地面を掘り下げただけではあるまい。落ちたら確実に怪我をするだろうし、移動をさまたげられて矢や石のよい的になってしまう。真中岩と南の見張り丘の間はやや狭く、直春のいる雪壁より陣地が短いから、空堀を掘るという時間のかかる作業ができたのだ。
「堀の両端、真中岩と田螺川のそばには雪の中に三角菱がびっしりとまいてあるようです。そこも通れませんな」
田んぼに氷が張ってあったと聞いて、博以がこちらの雪の下を調べさせたら案の定だった。
「なぜわざわざ堀を作ったのじゃ。三角菱をまくだけでよいじゃろうに」
幽縄は疑問を口にした。
「三角菱が足りなかったのかも知れませんな」
博以は不確かな推測を述べ、進言した。
「堀を越えるのは難しいと思われます。この幅と深さ、その向こうは雪の壁です」
こちらの陣地にも直春のいる方と同様の壁がある。堀の底から雪壁を見上げれば二階建ての家より高いだろう。とてもよじ登れない。
「となりますと、三角菱の場所から攻めるしかありません。真中岩のそばと田螺川の河原に武者を集めて前進させましょう」
「分かった。すぐに始めよ」
幽縄は三千を与えられた理由を分かっていた。崇家に負けぬ手柄を立てなければならない。
博以は三千を三分し、幽縄の護衛と堀の前、真中岩の脇、田螺川の河原にそれぞれ一千ずつを置いた。
「前進せよ!」
一千の二隊が、右手と左手から三角菱のまかれた場所へ接近した。五人が一組になり、盾で身を守りながら、細長い木の板で三角菱を掘り出していく。幽縄のそばの武者は矢を雪の壁に放って左右両隊を援護した。
「矢を浴びせよ! 敵を通すな!」
雪壁の上の方で武将の兜が動き回っている。恐らく壁は途中で段になっていて、そこを歩いているのだろう。桜舘軍は高所から狙えるわけだ。弓を上に向けて射なければならない成安軍は不利だ。
「あれは織藤昭恒という男ですな」
武者頭の一人が言った。
「ということは、精強で名高い直春公の馬廻りか」
つぶやいた博以は、幽縄が苦虫を噛みつぶしたような顔になったので、慌てて付け加えた。
「数は少ないようですな。一千はいないようです」
確かに聞こえる声も飛んでくる矢の数も大したことはない。
「とはいえ、楽な相手ではありません。……くっ、やはり狙い撃ちされます。数の差を考えた戦い方ですな」
博以は幽縄に説明した。
「我が軍と同様に、敵も真中岩の北側と南側、北門の三ヶ所に武者を分けています。数が少ないのを補うために、この陣地では空堀で進める場所を限定し、そこに矢を集中しているのです」
この陣地には全体に均等に置けるほど武者がいないのだ。だから進めそうな場所を敢えて作ってその前に武者を多く配置している。雪の壁も三角菱の前のところが一段高くなっていた。
「つまり、敵のねらい通りに攻めさせられているわけじゃな」
幽縄は面白くないという顔をした。
「なんとかせよ。わしの威信を取り戻す戦でもあるのじゃぞ」
半空国を奪われ、材木山に逃げ込んだものの、桜舘軍主力の閉じ込めに失敗した。ほとんど戦場に出た経験がなかったのにいきなり直春や菊次郎と戦う羽目になったのは不運だったが、そんな言い訳は通用しない。墨浦城で肩身が狭かった。父種縄は汚名返上の機会をくれたのだ。
「もっと矢を増やすのじゃ。盾を持って前進しているこちらの武者はニ百程度、残りに矢を射させればよかろう」
「そうさせましょう」
すでにしていることだったが、博以は逆らわず、伝令の武者に指示を出した。杭名親子の機嫌を取れなければ半空国の武将はつとまらない。大将は落ち着いた顔でどっしりと構えていてほしいが口には出せなかった。
「三角菱を雪の中からほじくり出し、道を作りながら接近していますので、時間がかかります。もうしばらくお待ちください」
博以にとっても桜舘家は策略で押砦を奪い取られた憎い相手だが、だからこそ手強く油断できないと分かっている。今度こそ慎重に負けにくい戦い方をするつもりだった。
「こちらの矢はなかなか当たらぬが、敵の矢は的確に盾や鎧に当たっておるぞ。どうにかならぬのか」
博以は目を細めて額に手をかざし、雪の壁を見やった。
「あの壁は真東を向いております。朝日を反射してまぶしく、ねらいがつけにくいのです。もう少しで日輪の位置が変わり、矢を当てやすくなります」
「それまで待てというのかえ! さっさと総攻撃に移りたいのじゃが」
幽縄は腹立たしげに言ったが、次々に矢を浴びていく自隊の武者を見て、舌打ちした。
「盾を増やし、こちらも壁を作って頭上と前を守らせよ。三角菱を回収する者が安心して作業できるようにしてやるのじゃ」
博以の驚いた顔を見て、視線をそらした。
「我が隊はたった三千じゃぞ。負傷者が増えれば戦える武者は少なくなるじゃろう。慌てず、確実に道を作らせるのじゃ」
幽縄は頬を指でかいた。
「焦れば敵軍師の策にはまるじゃろう。それは避けたいのじゃ」
「かしこまりました」
博以はうれしそうに返事をして、すぐに伝令を走らせた。
「ただ、あまり時間はないぞ。御屋形様は早く墨浦に帰りたいようじゃ。昼までには落とさねばらぬ」
「心得ております。時間がかかりすぎるようでしたら、別な攻め方が必要になりますな。次の手を考えておきましょう」
幽縄は鷹揚に頷いた。
「任せる」
博以は頭を下げ、視線を敵陣に戻してつぶやいた。
「若殿が立派な大将であろうとつとめてくださっている。この戦、ぜひとも勝って、手柄を上げていただきたいものだ」
博以はこぶしを固く握り、武者たちを励ます声を一層大きくした。
その頃、湯丘を越えた崇典古隊五千は、北門へ向かって進んでいた。灯村の人々が北の原と呼ぶこの平地も一面真っ白だった。
「まだ桜舘家の援軍は到着しておらぬようだな」
雪が細長く盛り上がった部分が街道のはずだが、武者の足跡はない。先行させた物見も敵の武者を見ていないそうだ。
「邪魔されぬうちにさっさと北門を突破して、村に一番乗りするぞ」
地面が見えないので慎重に馬を進めながら、典古は好都合だとほくそ笑んだ。北門を封鎖して敵の逃げ道を塞ぎ、駆け付けてくる泉代隊などを撃退すると宗龍には説明したが、本当のねらいは直春を討つことだった。
「種縄めは本陣を動けぬ。こうして武者を率いて攻め込むことはできぬからな」
典古が領袖の崇派は成安家中の勢力を杭名派と二分する。
「この戦で手柄を立てるのはわしだ」
敵の大将が少数の武者と孤立しているのだ。殺すか捕らえれば武名は大いに上がり、連署の座を奪うことも可能だ。
「近頃御屋形様は評定で発言なさるようになったが、分からぬことだらけのはず。うまく誘導するのは難しくない」
墨浦城を守りきって桜舘・宇野瀬両軍を撃退したら、奪われた国々の奪還戦が始まる。種縄は半空国を真っ先に攻めるべきだと主張するだろう。財政基盤を取り戻したら、杭名派が圧倒的に強くなる。
「白泥国の領地と国主の座を早く回復するためにも、家中で権勢を高め、主導権を握っておかねばならぬ」
是正などは皆が心を一つにして戦うべきで対立している場合ではないと言うだろうが、領地や権益を失うかどうかの瀬戸際だからこそ、勢力争いに負けられない。
「家を守るためなのだ」
崇家には大船柱のような諸国に名の知れた宝物があるわけではないが、成安家が墨浦に来る前から重臣で、八百年近く系図をさかのぼれる。そんな名家を自分の代で断絶させるわけには行かない。
「急がねばならぬな」
典古は馬の腹を蹴りたいのを我慢していた。雪に覆われた細い坂道を歩いて湯丘を越えるのに、それなりの時間がかかった。宗愷か幽縄が先に桜舘軍の陣地を破ってしまうかも知れない。
「北門はあの奥か」
湯丘のすぐ北にも同じくらいの高さの室丘がある。この二つの丘の間をえぐったように両側が崖の細い谷があり、奥の一番狭くなったところに北門がある。遠目に桜舘家の旗がひるがえっているのが見えていた。
「武者がおるな。あまり多くはなさそうだが」
どう攻めようかと考えながら白い景色を眺めて、ふと目が左手に向いた。
「あそこに林があるな」
湯丘の崖の下の一部がこんもりと白く盛り上がっている。典古はそばにいた武者頭に声をかけた。
「実は、沖里殿の言葉を思い出してな」
北門は二つの丘の崖に挟まれている。攻めている途中、もしこの林から桜舘軍が出てきて背後を襲われたら逃げ場がない。
「わしならこの林に武者を伏せる。調べさせよ」
全体を停止させて警戒態勢を取らせ、林に一隊を差し向けた。二百人が雪に覆われた木々の間をまず外側からのぞき込み、用心しながら奥へ踏み込んでいった。
「信家の策略を破ったとあれば、わしの名も上がるだろう」
期待して待ったが、何も起きなかった。しばらくして武者たちが林から出てきて、伝令を寄越した。
「誰もおらぬだと?」
「はい。武者がひそんでいる様子はありません」
「そうか。意外だな。ご苦労だった」
典古は肩透かしを食らった気分だったが、思い直した。
「わしなら絶対にここに伏兵する。信家は思い付かなかったのか。大軍師を名乗っておるが、大したことはないのかも知れぬな。右手も安全だろう」
室丘のふもとには林がない。上から崩れ落ちたのか、雪が崖にはりつくように高く積み上がっているだけだ。
とにかく背後を襲われる心配はないと分かった。典古は安心し、進軍を再開させた。
門に接近する前に、盾武者と槍武者、弓武者を組み合わせた隊列を作らせた。
「敵は少ない! 数で圧倒し、一気に村に突入するぞ!」
村内の桜舘軍は約五千。灯原の二つの陣地と北門、合わせて三ヶ所を守らなければならない。一ヶ所二千いるかどうかだ。
「粗末な門はさすがに補強してあるか。だが、さほど時間はかかるまい」
典古は武者たちを励まし、全力で攻め立てさせた。
「矢の雨を降らせよ! 敵がひるんだら盾武者と槍武者を前に出して門を壊すのだ!」
武者たちは大きな鬨の声を上げて攻めかかった。
「まだ落ちぬのか!」
それから一刻の間に五度の突撃が行われたが、門は破れなかった。
「地形が悪い。相手は上からねらってくる」
典古は恨めしげに丘を見上げた。切り立った崖は大人の背の四倍の高さがあり、よじ登るのは到底無理だ。矢を上に向かって射ることになり、あまり効果が出ていない。
「門の前が狭すぎて、盾や槍や弓を使いにくいとは!」
北門があるのは二つの丘が最も接近した場所で、荷車二台が並んで通れるかどうかの幅だ。門は木製だが、盾を打ち付けて補強し、上から雪を大量にかぶせて固めてあるので、矢も槍も通らない。
「数は七倍だというのに!」
敵の武者の数は両側の崖の上と門の向こうを合わせて七百程度のようだ。典古隊は五千だが、あまり大勢を狭い場所に押し込むと身動きが取れなくなる。
「のろのろしておったら灯原の陣地が落ちるかも知れぬ」
幽縄にだけは先を越されたくなかった。半空国に取り残されて救出された若造なんぞに負けたら大恥だ。北門攻めは自ら買って出た役目なのだ。
「一度下がらせて作戦を立て直すしかないか。陥落させるうまい方法はないものか」
敵の戦い方と味方の不甲斐なさにいらいらしていると、武者の一人が叫んだ。
「敵の新手です!」
振り向くと、西の方からやってくる一隊があった。のぼり旗は桜舘家のもので、典古隊が先程進んできた街道をこちらに向かっている。
「家紋は小薙敏廉です。約二千三百」
典古は舌打ちした。
「援軍が到着したか。さて、どちらを先に片付けるべきか」
北門と敵部隊を見比べて考えたが、すぐに決断した。
「よし、全軍をやや後退させよ。一部を抑えに残し、他は小薙隊を迎え撃つぞ」
このままでは先程の林に伏兵がいた場合と同じ状況になる。退路を断たれ、背後を襲われ、門内の敵と挟撃されるのだ。その危険をなくしてから改めて門を攻めるべきだろう。
武者頭の一人に一千を与え、門の手前で守備隊形を作らせて、敵が門から打って出てくるのに備えさせると、四千を率いて小薙隊に向かった。
「二千三百と四千。まともに戦えば勝てる。数の差を生かして包囲するか」
小薙隊は村に入るため門を目指している。横にやや広げた陣形を作って待ち構え、近付いたら敵の隊列が整う前にこちらから駆けて行こう。両側から挟むようにして壊滅させるのだ。
「雪原では隊列を組むのも移動するのも時間がかかる。先に戦闘準備を整えた側が圧倒的に有利だ」
武者頭たちに伝令を走らせ、典古は独り言ちた。
「しまった。あの林に武者を伏せておけばよかった。奇襲させて挟撃できたではないか」
今頃思い付いても遅かった。
両軍は互いに近付いていった。林の付近で典古が四千を停止させ、包囲陣形をとれと命じると、小薙隊も進軍をやめ、隊列を組み始めた。
「ちいっ、読まれたか。だが、数はこちらが上、まともにぶつかっても勝てるだろう」
門や村内での戦いのためにも、墨浦城に籠もる上でも、損害はあまり出したくないが致し方ない。
「よし、小薙隊を蹴散らすぞ! 隊列が多少崩れてもよい。全員、今すぐかかれ!」
赤い房の付いた軍配を前に振り下ろすと、武者たちは一斉に鬨の声を上げ、敵に向かって走り出した。
「よし、行ける!」
小薙隊はまだ隊列が整っていない。勝った、と思った時だった。
「な、何だ、この大きな声は? どこからだ!」
突然、一千を超す武者の雄叫びが轟いたのだ。
「後ろです。室丘の崖の下から敵が現れました!」
「ばかな! そちらに林はないはずだ!」
武者頭が指さしている方へ顔を向け、典古は口をあんぐりと開けた。崖には大人の背の倍以上に雪が積み上がって張り付いていたが、五ヶ所でそれが崩れ落ち、裏にほら穴が見えていた。多数の騎馬武者が次々に吐き出され、典古たちの後方で街道にあがって向かってくる。
「室岡とはそういう意味か!」
この辺りの丘は長年の川による浸食で、ほら穴がところどころに見られる。おそらく、灯村の人々が農具などをしまうのに使っている大きな穴が、あそこに複数あったのだ。
「出現した騎馬隊の旗印は安瀬名数軌、数は約一千一百!」
「安瀬名隊は離れた村に宿陣したはず。到着しておったのか。まずい、背後を襲われる!」
慌てたところへ、小薙隊が一斉に鬨の声を上げた。二千三百が駆け出し、槍をそろえて向かってくる。
「前からもか! やられた! 大軍師の策か!」
宗速隊は林にひそんでいた伏兵に破れた。だから、林を警戒した。逆に言えば、林がないところでは安心してしまったのだ。
「どう致しますか! ご指示を!」
「どうって、もう、どうしようもないではないか!」
小薙隊に向かって走り出していた武者たちは、背後の危険に気が付いて足を止めている。包囲しようと横に広がる陣形をとったため、小薙隊を突破するのは困難だ。一部を安瀬名隊に向けようにも態勢を整える前に騎馬隊に突撃される。手の打ちようがなかった。
「くっ、ここまでか!」
典古と武者たちが迷っている間に二隊の敵が迫り、挟撃が完成した。合わせて三千四百の敵を前後に受けて、四千の武者は首を左右に忙しく動かし、目の前の敵に集中することも難しい有様。勝負はついていた。
「やむを得ぬ。逃げるぞ!」
典古は勝利と抵抗を諦めた。
「ここで死ぬわけには行かぬのだ!」
派閥の領袖は味方してくれる家々の利益を守らなくてはならない。崇家の一族や武者たち以外にも、大勢の生活や人生に自分は関わっているのだ。
典古が逃げ出すと武者たちが追いかけ、崇隊は総崩れになった。小薙隊はすかさず追撃に移った。できる限りの損害を与えて、少なくともこの合戦にはもう参加できなくするつもりのようだった。
安瀬名数軌は騎馬隊の半数を門の前の成安軍一千に向かわせた。本隊の敗走を見て浮足立っていた彼等は、門内の桜舘軍が打って出て斬り込むとばらばらになって逃走、安瀬名隊をどうにか突破して、典古を追っていった。
「御屋形様にどうご報告すれば……!」
必死に馬を走らせて灯村から遠ざかりながら、典古はつぶやいた。全身汗でびっしょりになり、息もあえぐようだ。しかし、言葉ほどには絶望していなかった。大軍師と桜舘家の強さを身をもって知り、この戦に勝てないことを悟ったからだ。
「宗愷様も幽縄も、種縄も、是正殿でさえも、この戦で大した手柄を立てられないだろう。同じように逃げ惑う結果になれば、責任の追及はなくなるはずだ」
成安家の勝利が遠のくとしても、敗戦の予想は典古をほっとさせるのだった。
『狼達の花宴』 巻の七 灯村の合戦図 その二




