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狼達の花宴 ~大軍師伝~  作者: 花和郁
巻の七 守る者たち
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(巻の七) 第三章 逆襲 下

 直春が関所を突破したのと同じ時刻、寧居港では二日目の戦いが始まろうとしていた。


「成安軍は総攻撃の構えですな」


 市射孝貫が采配台に登ってきた。織藤昭恒も一緒だ。


「東側の回廊に五千、北の庭園に五千、西も対岸の調練場に投石機を十台並べていますね」


 材木を積み上げた上にいるので、菊次郎にも見えている。


「西側はいかだ川を越えられないはずです。事前に商船は出航させ、漁師の小舟は全てこの突き出島に集めてあります。投石機にさえ気を付ければ大した脅威にはならないでしょう。ですからそちらは百人で警戒させるにとどめます」


 昨日話し合い、両将の承諾は得ている。


「昭恒さんは引き続き一千二百で回廊の守備を、孝貫さんは一千七百でに庭園から荷揚げ堀を渡ってくる敵を防いでもらいます。この本陣には二百五十を置いて、援軍が必要になったら送ります」

「何とかやってみますよ。苦戦は必至ですがね」


 孝貫はそう言いつつも自信をのぞかせた。昭恒も戦意は高そうだ。


「できるだけ踏ん張ります。今日一日は持たせたいですね」


 (あん)に明日は分からないと言っている。菊次郎は責められなかった。今日中に陥落する可能性も低くないのだ。


「基本は敵を近付けないことです。丸太の防御壁は急造のもの、取り付かれたら苦しくなります。幸い矢と石はたくさんありますので、節約する必要はありません」


 町の人たちに矢を作らせ、河原で石を拾わせた。三千二百五十の武者が使うには十分な量がある。


「直春さんは今日か明日には戻ってきます。それまで頑張りましょう」


 両将は明るく返事をして下りていった。


「さあ、そろそろ始まりますね」


 東、北、西に成安軍の隊列が並んでいる。総勢一万三千。四倍だが勝つしかない。


「直春さん、急いでください」


 菊次郎は北の山へ伸びる材木山街道を見つめ、すぐに頭を切りかえた。


「敵が動き出しました!」


 東の港側の回廊に盾と槍の群れが接近してくる。采配台の下で開戦を告げる鐘ががんがんと鳴り響いた。敵味方の双方が早速矢と石を激しく送り合っている。


「投石機、攻撃を始めてください」


 回廊を封鎖する丸太の壁の背後と材木池の対岸で、大きな機械が動き出した。組み合わされた木がぎしぎしときしむたび、正面と横手からこぶし大の石が敵武者たちの上にばらまかれる。石を詰めた壺も次々に飛んでいく。直撃したら鎧や兜がへこむし、防ごうと掲げた盾を衝撃で手から落としてしまう武者も続出した。そこへ矢が集中的に射込まれる。

 投石ひもによる攻撃も多くの怪我人を作り出し、成安軍の隊列に穴を開ける。しかし、成安軍は数が多い。すぐに隙間は埋められ、前進は止まらない。


「例のものを」


 菊次郎が指示すると、投石機が違うものを打ち出し始めた。


「大きな火の玉が飛んでいきます!」


 楡本(にれもと)友茂(ともしげ)が叫んだ。


「すごい威力です!」


 大きな焚火のように材木を角が長く突き出た四角形に組み合わせ、油をたっぷり吸わせた布を中心に詰めたものに、火をつけて飛ばすのだ。一つが神輿(みこし)ほどもあり、成安軍の隊列に突っ込み、一度に五、六人をなぎ倒している。


「地面にまいてある木片が燃え上がっています!」


 昨日と同様、丸太の壁の前には木切れをばらまいて歩きにくくしてある。そこに燃えた油が飛び散って炎が広がっている。


「まるで燃える地面を歩いているみたいですね」


 蕨里(わらびさと)安民(やすたみ)の言葉は成安家の武者たちの気持ちを表しているだろう。飛んでくる矢を防ぎながら、足元の燃える木の棒にも気を付けなければならないのだ。


「菊次郎様が発明なさったんですよね!」


 友茂は興奮気味だ。


「定恭さんが崩れ丘で使ったものを参考にしました」


 この火の玉の利点は球を自作できることだ。城壁や門を破壊するなら石など重いものがよいが、武者を攻撃するなら組み合わせた木材で十分だ。火と油を使うのは威力を強化するためだった。


「敵は止まっていない」


 柏火(かしわび)光風(みつかぜ)がぼそっと指摘した。飛んでくる火の玉に驚いて守りを固めたが、再び動き出している。


「矢や石が足りないようです」


 菊次郎は言い、そばにいた武者に命じた。


「旗を振ってください」


 武者が南へ向かって青色の広い旗を左右に大きく動かすと、海の方で鬨の声が上がった。沖に停泊していた十隻の軍船が港に向かってくる。岸辺から声が届くほどの距離で止まった船団は、投石機や弓を動かし始めた。


「海からの攻撃だと!」


 成安軍が動揺している。船上からの石や矢は左側面を襲った。右側は材木池越しに投石機や弓隊に狙われている。三方からの攻撃に、成安軍の前進の速度が鈍った。すかさず昭恒が正面から矢の雨を降らせると、成安軍はじりじりと下がっていった。後退して隊列を組み直すようだ。


「水軍衆の援軍、ありがたいですね」


 安民はしみじみと言った。田鶴が期待する顔で尋ねた。


「これでしばらく持つかな」

「だとよいのですが」


 菊次郎は答えたが、難しいことは分かっていた。すぐに両側面に盾を並べて前進を再開するだろう。


「さて、荷揚げ堀の方はどうなっているでしょうか」


 こちらの成安軍は庭園の壁に階段を取り付けて越えてきて、堀を渡ろうとしていた。水深は武者の肩が出るくらいなので、いかだなどは使わずに歩くようだ。


「うわっ、急に深いところが!」

「とげだらけの木が沈めてある!」

「水中に柵があるぞ!」


 菊次郎が作らせたしかけに引っかかって足が止まっている。そこを市射隊が弓や投石ひもで攻撃していた。


「慌てるな。よくねらいをつけろ。水の中にいる敵はこちらを攻撃できないぞ」


 孝貫の声が聞こえる。冷静に指示を与えているようだ。

 成安軍の伝令が何度も塀の階段を行ったり来たりし、やがて大きな植木ばさみがいくつも運ばれてきた。武者が水に入り、邪魔なものを切ったりどかしたりし始めた。


「はさみを持った武者をねらえ!」

「やらせるな! 味方を守れ!」


 矢や石が嵐のように飛び交い、はねた水で堀の中の武者たちは頭までびっしょりになっている。上に掲げた盾はあっという間に針鼠(はりねずみ)のようになった。


「よし、前進再開だ!」


 成安軍は苦心の末水中の障害物を除去し、堀の中を歩いて接近してきた。


「取り付け! よじ登れ!」


 水から上がった(こん)色の鎧たちの目の前に丸太の壁があった。


「す、滑る! なんだこれは!」

「油が塗ってあるのだ! 登れるものなら登ってみろ!」


 丸太を積み上げた壁は大人の背より高い。その表面はぬるぬるしていて手でつかめず、足がかけられない。

 とまどう武者たちを上から伸びてきた槍が貫いていく。水に落ちる者たちの悲鳴としぶきが次々に上がった。


「こちらもしばらくは持ちそうですね」


 菊次郎は少しだけ安堵した。


「昼前に陥落という最悪の事態は避けられそうです」

「これなら一日どころか何日だって守りきれるんじゃない?」


 田鶴の言葉に友茂たちも頷いたが、菊次郎は残念そうに首を振った。


「そううまくは行かないでしょう」


 それはすぐに現実となった。


「成安軍が投石機を用意しています!」


 友茂が東を指さした。港の方に木の車輪の付いた可動式の投石機が二十台現れた。


盾車(たてぐるま)弓射塔(きゅうしゃとう)もあります!」


 盾車は新豊津城の攻防で元尊軍が使った攻城器で、前と上を守る屋根に車輪を付けたものだ。弓射塔(きゅうしゃとう)は車輪の付いた塔の上に数人が乗れる四角い箱がついている。動く物見櫓のような形状だ。


「先程の攻撃はこちらの手を探るためのものだったのですね」


 菊次郎は唇を噛んだ。


「盾車十台と弓射塔七基が前進を始めました。投石機が大量の石を投げてきます! 総攻撃です!」


 港側の成安軍は五千だが、二千は交代で休んでいた。是正はそうした武者を全て投入してきたのだ。織藤隊の疲労がたまった頃をねらって。


「これはまずいですね」


 昭恒は武者たちを必死で励まし、水軍や投石機も可能な限りの攻撃を浴びせているが、盾車は足元の木切れを片付けながらじりじりと前進を続けている。火の玉は木材の(かたまり)で石ではないため、盾車に当たっても跳ね返されてしまう場合が多かった。弓射塔による上からの攻撃も武者たちを悩ましている。


「とうとう壁に取り付かれました。敵は大量のはしごを用意しています!」


 回廊の壁も油を塗ってあるのだが、手前にはしごを立てかけて丸太を踏まずに登ってくる。槍で突き落としているものの、越えられるのは時間の問題だった。投石機や弓での援護も激しく、織藤隊の数倍の数が飛んでくる。


「鐘を鳴らしてください」


 菊次郎は指示した。采配台の上で音が響くと昭恒が菊次郎を見上げ、別な鐘が鳴り始めた。


「崩せ!」


 昭恒の大声が聞こえた。ぶつっ、という何かが切れる音が複数続くと、がらがらと轟音を立てて、壁を作っていた丸太が崩れ、勢いよく成安軍の方に転がっていった。壁の内部に斜めに板を立て、その外側に丸太を重ねて縛る構造にしてあったのだ。


「丸太の雪崩(なだれ)だと!」


 成安軍の武者たちが無数の悲鳴を上げた。巻き込まれた者たちは下敷きになり、あるいは足を取られて転び、あるいは勢いよくぶつかってきた丸太にはね飛ばされた。盾車や弓射塔も動けなくなった。


「今だ! 撤収!」


 成安軍が混乱した隙に織藤隊は退いた。少し後ろにある新たな丸太の壁に移動し、守りを固める。


「追え! 前進再開だ! 敵が態勢を整える前に一気にあの壁も突破せよ!」 


 成安家の武将が叫んでいる。だが、油でぬるぬるする丸太が大量に転がっているところを歩くだけでも大変なのに、早速桜舘軍の石や矢が飛んできている。


「全員、それぞれの武者頭のもとへ集まれ!」


 是正が送ってきた伝令が叫び、ようやく混乱は収拾された。


「さあ、進むぞ!」


 武将たちは額の汗をぬぐって命じたが、武者たちは戸惑った顔つきで見つめ返してきた。


「これは何だ」


 織藤隊はいつの間にか二番目の丸太の壁からいなくなっていた。それを越えると、背より高く厚い木の板の垂直な壁があり、この奥に隠れているらしい。板のない場所が複数あり、そこから中へ進めるようだ。


「行ってみろ。気を付けろよ!」


 五ヶ所の入口にそれぞれ百名ほどが入っていったが、すぐに悲鳴を上げて飛び出してきた。


「迷路だと?」

「は、はい。細い道が複雑に入り組んでいて、行き止まりだったり、元の道に戻ったり、別な入口のやつらとはち合わせしたり。しかも、時々壁が動いているらしく、道が変わるんです!」


 戸惑ったり迷ったりして立ち止まると、壁の上に敵武者が現れて、いきなり槍で突かれたり石を投げつけられたりするという。


「壁を登れないのか!」

「全ての壁に油が塗ってありまして」

「うぬぬ、おのれ!」


 武将は歯噛みしたが、さらに三度送り込んで全て追い返されると、一度下がって迷路から離れた。足元の丸太を海や材木池に片付ける間に是正に指示を仰ぐようだ。


「少しは時間が稼げたみたいですね」


 菊次郎は握り飯を配るように小荷駄隊に指示した。既に太陽は真上にあった。


「荷揚げ堀の方もまだ大丈夫でしょう」


 こちらも壁をはしごで登られたが、同じように外側の丸太を崩して撃退に成功した。丸太が堀に大量に漂っていると進めないため、成安軍は除去する作業をしている。もちろん矢や石で邪魔しているし、水中の逆茂木(さかもぎ)や柵に引っかかったり、底に穴を掘って埋めた壺に足を突っ込んで溺れそうになったりで、時間がかかっている。


「沖里公はどうやって迷路を越えるつもりでしょうか」


 握り飯をほおばりながら友茂たちは話し合っていたが、その答えはすぐに分かった。


「またはしごですか」


 一度後退して休息をとった成安軍は、二十人で一組になり、はしごを一本ずつ持っていた。


「迷路を歩かず、全ての壁をはしごで越えようというのですね」


 菊次郎は思わず溜め息を吐きそうになり、慌ててのみ込んだ。


「そんな無茶なこと、できるの?」


 田鶴が首を傾げた。


「普通ならできません。越えてくるところを槍で攻撃できますからね。はしごを登る時、下りる時はどうしても無防備になります。でも、登ってくる数があまりに多ければ、対処しきれません」

「数で押すってこと?」

「そうです。どうやら、調練場にいた武者を移動させたようです」


 川の向こうからの攻撃は、それなりに肝を冷やしたものの、投石機では精密なねらいはつけられず、矢は届かないので、一千を置いておく価値はないと判断したようだ。その分、港側の数が増えている。


「六千の武者が一気に越えてきたら防げるの?」

「難しいですね。弓射塔が援護するでしょうし」


 口ぶりに残念さがにじんでしまった。


「でも、まだ手はあります。それが成功すれば逆転も可能です」

「分かった」


 田鶴はほっとした様子になった。信頼の笑みを浮かべている。


「ここにいる二百と川を警戒していた百を回廊に送りましょう。死傷者が増えてきているはずです」


 荷揚げ堀側はまだ持つと見て、予備の武者の大部分を派遣した。


「攻撃が再開されます」


 数が増えた成安軍がまた回廊に迫ってきた。材木池越しと楠島水軍の攻撃が再開され、織藤隊も矢や石で少しでも敵が近付くのを遅らせようとしている。だが、四倍の差は圧倒的で、飛んでいく矢の数が違う。成安軍は難なく迷路に達し、無数のはしごを板の壁に立てかけていく。是正は弓射塔に迷路の地図を作らせたらしく、徒武者たちは迷うことなく前進してくる。


「もう少し。あとちょっとで……」


 菊次郎は成安軍の動きをじっと見ていた。六千の武者は二つの丸太の壁を通り過ぎ、迷路の前に集まっている。是正のまわりには本陣警固の五百のみ。宗速の騎馬隊一千五百はしばらく前に姿が見えなくなった。今こそ好機だ。


「水軍に旗を振ってください!」


 菊次郎は命じた。先程とは違う色、真っ赤な旗が大きく左右に揺らされた。


「水軍が応えました!」


 友茂が指さした。帆柱の先端に、同じように真っ赤な旗が上がった。


「これで伝わったでしょう」


 そう言って菊次郎は視線を北に向けた。


「もうすぐです」


 それはほどなく現れた。安瀬名数軌隊一千四百だ。騎馬武者の群れは風のように武家町の横手を通り過ぎ、港に到達した。


「全員、突撃! 沖里公を討て!」


 おおう、と大きな鬨の声を上げて一千四百の騎馬隊が是正の本陣に殺到した。


「これぞ千載一遇(せんざいいちぐう)の好機! 手柄を立てるのは誰だ! 国主様を救うのは誰だ! お前たちだ! この我等なのだ!」


 決死の覚悟で突っ込んでくる精鋭騎馬隊に、是正を警護する徒武者隊は総大将のまわりに円陣を作って待ち構えた。だが、数が三倍近い安瀬名隊の前に、次々に倒れていく。


「よし、これは勝てます!」


 そう思った時だった。


「沖里公をお救いしろ! 待ちに待った我等の出番だぞ!」


 聞き覚えのある声が響いた。宗速だった。


「どこから?」


 周囲を見回して、真っ先に目のよい田鶴が叫んだ。


「倉庫だよ! ぞろぞろ出てくるよ!」

「港の倉庫街に騎馬隊を隠していたのですか!」


 やられた、と菊次郎はうめいた。是正は安瀬名隊が突き出島の外にいることを忘れていなかったのだ。


「沖里公の罠にはまりました。わざと周囲の武者を減らしておびき寄せたのです!」


 倉庫から現れた一千五百の騎馬武者は安瀬名隊の背後に襲いかかった。数はほぼ同じだが、前と後ろに敵がいる方が不利だ。勝ったつもりでいたところを奇襲され、安瀬名隊が動揺しているのが見て取れる。


「数軌さんに合図を」


 菊次郎はそう言うしかなかった。安瀬名隊はこの港を守るのに必要だ。失うわけには行かない。鐘が鳴り始めると、数軌は悔しそうに采配台を見上げたが、妥当な判断だと認めたようだ。数人が横笛を吹き、それを聞いた武者たちは馬首を返して港から去ろうとする。


「逃がすな! 前を塞げ!」


 宗速が勝ち誇った声で命令している。安瀬名隊の武者たちは宗速隊と斬り合い、突き合い、馬と馬がぶつかり合う死闘を繰り広げ、かろうじて数騎ずつ抜け出してばらばらと川の上流の方へ去っていく。宗速隊が追いかけたが、安瀬名隊には撤退する時の道筋も用意させたので、多くは命が助かるだろう。


「数軌さんは逃げられたみたいだね」


 田鶴の声は沈んでいた。


「僕のせいです。読み負けました」


 菊次郎はうなだれた。勝てる可能性があるとすればこの方法だけだった。是正を倒せれば成安軍を撤退に追い込める。是正も分かっていて、自分をねらうだろうと網を張っていたのだ。


「しっかりして」


 田鶴が体を揺さぶった。


「これからどうすればいいの?」


 友茂たちや采配台の下の武者たちが不安そうに菊次郎を見ていた。急いで胸を張り直す。


「こうなったら守りに徹するしかありません。とにかく攻撃をしのぎきるのです」


 もう騎馬隊の奇襲は通用しない。自力で勝つことは不可能になったが、もともと賭けだったのだ。突き出島を守らなければ生き残れないという現実は何も変わっていない。


「時間を稼いで日が暮れるのを待ちましょう。迷路を簡単には通らせません」

「うん」


 田鶴は励ますように頷いた。菊次郎さんが諦めたら全部終わりなんだよと表情が語っている。


「昭恒さんに伝えてください。状況を見て、第二の策の実行を許可します」 


 伝令の武者が材木の山を駆け下りて行った。

 織藤隊が後退を始めたのは一刻ほどのちだった。


「敵が引いていくぞ。すぐに追うのだ! 一気にこのいまいましい迷路を突破するぞ!」


 成安軍は勢いに乗って迷路のさらに奥へ踏み込んだが、すぐに足が止まった。


「地面がぬるぬるするだと?」


 織藤隊は下がる時油をまいていったのだ。壁にもかかっているのでつかまるところがない。足を滑らせて転倒する武者が続出した。


「歩けなくするということは、出撃は諦め、この辺りは放棄するということだ。我等は優勢なのだ!」


 そう叫ぶ武者頭も()()り腰で壁にしがみついてなんとか立っている状態だ。是正からはしごを地面に横たえてその上を歩けと指示が来て、ようやく少しずつ進めるようになった。もちろん、この間も織藤隊から矢や石が休みなく降っている。


「大変です!」

「どうした?」

「迷路の壁がいきなり何枚も同時に倒れてきて、五名が下敷きになりました!」


「た、助けてくれ!」

「今度は何だ!」

「落とし穴です。深さはさほどでもありませんが、底と周囲の地面がぬるぬるで上がれません。引っ張り出そうとした者たちも足が(すべ)って一緒に落ちてしまいました!」


「き、救援を!」

「またか!」

「細い通路が急に広がる場所で待ち伏せです! 一人ずつしか出ていけないのに、敵は五人もいます!」

「こっちは壁を抜けた途端矢の集中攻撃です! 迷路の出口をねらっているんです!」


 是正は盾を持った武者を先頭に、はしごを地面に敷く者、盾の陰から弓で攻撃する者、槍を持った者で数名ずつの組を作らせ、迷路を攻略させた。また、海際(うみぎわ)と材木池に沿った場所の壁を壊して水の中に投げ捨て、新しく滑らない板を敷かせて、広い通路を作っていく。他の部分もできるだけ壁を破壊して、油の付いていない面を上にし、歩きやすくしているようだった。


「突破されちゃうよ」


 その様子は材木を積み上げた上にある采配台からよく見えた。織藤隊の多くがもう迷路の外にいて、すぐそばまで焦げ茶色の鎧たちが迫っている。


「菊次郎さん、どうするの。顔が怖いよ」


 田鶴に言われて、菊次郎は深く息を吸い、大きく吐き出して気持ちを落ち着かせた。


「強敵だと分かっていましたが、沖里公は本当に慌てないのですね」

「どういうこと?」

「迷路のしかけは敵を焦らせたり、いらだたせたり、これは無理だと諦めさせたりするのが目的なんです。一つ一つで稼げる時間は多くないですが、敵の前進をできるだけ遅らせ、犠牲を増やし、撤退させたかったんです。でも、沖里公は的確な対処を根気よく続けて、決して無謀な突撃をしたり、わざと作った隙に誘われて突っ込んできたりしません」


 悔しいが同時に感嘆していた。


「急がず、少しずつ、確実に」


 その言葉はほとんど溜め息だった。


「圧倒的に数の多い相手にそういう姿勢で来られたら、落ちない砦はないと思います」


 涙声にならぬように必死で我慢して言った。


「奥の手を使いましょう」


 できればやりたくなかったが、他に方法がない。


「田鶴、頼みます」

「分かった」


 乙女は抱いていた真白を降ろし、弓を手に取った。


「鐘を鳴らしてください」


 昭恒がはっとした顔で見上げてきた。菊次郎が頷くと、相手も頷き返し、大声で命じた。


「全員、持ち場を離れて後退せよ!」


 味方が退避したのを確認すると、菊次郎は言った。


「やってください」


 田鶴は弓に火矢をつがえた。ぎりりと引きしぼり、ひょうと放つ。燃える赤い筋は勢いよく迷路の上に落ちていった。

 矢が見えなくなった次の瞬間、ぼうっと大きな音がして、激しく炎が上がった。みるみる燃え広がり、迷路全体が火に包まれた。黒煙がもくもくと立ち(のぼ)って突き出島の空が暗くなり、木材と油の焦げるにおいが辺りに充満した。田鶴や友茂たちも(そで)で鼻を覆っている。


「引け! 引くのだ!」


 成安軍が急いで後退していく。皆鼻を隠し、是正の作らせた水際の二本の通路を通っている。水に胸までつかって逃げていく者もいた。


「是正公にはお見通しだったようですね。武者頭たちに事前に警告していたようです」


 木材で作られた迷路に油がかけられていたのだ。火を放たれれば大惨事になる。菊次郎はこれまで合戦などで幾度も火計を使っているから、予測されて当然だった。


「今日の戦は終わりです。火が消えるまで侵攻は不可能ですので」

「じゃあ勝ちだね」


 田鶴がほっとしたように言った。


「よかったね、真白」


 友茂たちも笑みを浮かべている。危機はひとまず去ったと思ったのだろう。荷揚げ堀側の成安軍も撤退を始めている。是正は今日陥落させることを諦めたのだ。


「最後の策を使わされてしまいました。僕の負けです」


 聞こえないように、菊次郎は口の中でつぶやいた。

 放火の策は確実に敵を撤退に追い込める。しかし、一度しか使えない。そして、使ってしまえば防壁はぼろぼろになる。今夜中にできるだけ再建するとしても限界があった。


「人手が足りません」


 町の人たちは一日だけという約束で、もう一両を渡してしまった。是正に逆らってまで、敗色濃厚な菊次郎たちを助けてくれる者はいないだろう。武者たちは疲労困憊(こんぱい)、小荷駄隊に頼むしかないが、彼等も怪我人の搬送や手当などでくたびれているし、二千しかいない。荷揚げ堀側の壊れた箇所(かしょ)の修復も必要なので、大がかりな作業はできないだろう。


「つまり、明日は確実に陥落します」


 昼時まで持つかどうかだ。


「沖里公が慎重すぎることも気にかかります」


 火を放ったら是正はあっさりと全軍を撤退させた。武者を傷付けたくないのは当然だが、焦っている様子がない。直春が到着する前に落とせる自信があるようなのだ。


「とにかく、武者たちに食事を与えて休ませましょう。新しい防壁作成の指示も出さないと」


 気持ちが沈んでいるせいか、重たく感じる体を無理に起こして采配台から下りようとした時、駆け上がってくる姿に気が付いた。


「菊次郎様!」

「則理さん! 戻ってきたのですか」


 直春に是正の襲来を知らせに行かせたのは一昨日だった。


「勝ったようだね」


 周囲を見回しながら則理は近付いてきた。


「行きで馬がつぶれて、帰りは小舟を拝借(はいしゃく)して川を下ってきたよ」


 自分ならそれができるからこの役目を買って出たのだと則理は言った。一息(ひといき)村でつり橋から落ちた利静(としきよ)を助けた時も(さお)を握っていた。


「それで、直春さんは」


 どこまで来ているのか。今日中に着くのか。思わず声が上ずった。則理は意外そうな様子になった。


「もしかして厳しい状況なのか。それはまずいな……」


 笑みを収め、声量を落として告げた。


「直春公は閉じ込められている。しばらく駆け付けてこられないだろう」

「どういうことですか!」


 友茂の顔色が変わった。則理は沈痛な面持(おもも)ちで、関所で足止めされていることを話した。


「なんてこと」


 安民も絶句した。


「沖里公の策略ですね。間違いありません」


 菊次郎はこれを恐れていた。直春が戻ってくるのを邪魔する手を自分なら打つからだ。大馬柵城の文尚や良弘も駆け付けてこられぬようにされていた。それでも帰ってくると信じて戦うしかなかった。この町を明け渡すことはできないのだから。是正が陥落させるのを急がないので不安が高まっていたが、当たってほしくない予想が的中してしまった。


「直春さんたちは大丈夫なの?」


 田鶴が心配そうに尋ねた。


「封鎖している杭名幽縄軍は三千ほど。関所から出てこられないようにするのがせいぜいで、直春公を討つ力はないね。砦にいるから屋根のある建物の中だし、小荷駄隊も一緒で当面の兵糧はありそうだよ」


 則理は安心させるように言った。


「こちらの状況はお伝えした。国主様も必死で関所を破ろうと試みていたようだけど、突破には数日かかると思う」

「そうですか……」


 菊次郎は全身から力が抜けたように感じ、思わずよろけた。


「大丈夫?」

「あ、ああ、ありがとう」


 とっさに支えてくれた田鶴に礼を言って足を踏みしめ直し、胸を張った。


「さあ、下へ行きましょう。最後に守っていた壁をもっと強化して、明日に備えないと。修繕が必要な場所も調べて急いで図面を()き、指示を出します」


 歩き始めた菊次郎に、田鶴たちは何か言いたそうだったが、守るように一緒に材木の山を下った。


 その夜、無数の星に包まれた采配台の上で、菊次郎はずっと考えていた。


「どうしたらあと五日、いや三日、せめて二日、持たせられるだろう」


 いくら頭をしぼっても、明日陥落する結果しか想像できなかった。


「こうなったら全軍で突撃して包囲を突破し、直春さんを救いに行くしか……。でも、勝てる可能性は低い。戦える武者は約二千。敵は一万以上。犠牲をたくさん出すだけで、突破できずにここに押し戻されてしまうだろう」


 敵味方の動きや状態を検討すればするほど絶望が深まっていく。


「突き出島を出て川の対岸に逃げる? 水軍衆に頼めばできるかも知れないけど、それではここに籠もって敵を引き付けた意味がない。豊津や大馬柵城に向かおうにも、寧居橋を落として渡れないようにしなければ追撃されて全滅する」


 友茂たちは交代で寝ている。もう紅葉月(もみじづき)で夜は冷える。田鶴には建物に入るように言ったが、小猿を抱いて暖を取りながらそばで丸くなっていた。起きている二人はつぶやきが聞こえているだろうが話しかけてこない。


「いっそ降伏するか。いや、駄目だ。僕は殺されるだろうし、そもそも寧居港を失ったら直春さんは材木山で飢え死にするしかない」


 それは桜舘家の終わりを意味する。


「もしかしたら、今頃直春さんが包囲を突破しているかも。……いやいや、行きは二日半かかったんだ。明日の朝には間に合わないよ」


 結局、一晩考え続けて何も思い付かなかった。


「何が大軍師だ。また大勢を死なせてしまう。利静(としきよ)さんを犠牲にした時から僕は少しも成長していないじゃないか」


 彼が守ってくれと言った直春の天下統一の夢が消えていく。多くの武者の命と未来が指の間からこぼれ落ちていく。

 迷った末、出た結論は一つだった。


「結局、みんなが助かるには僕が死ぬしかないんだ」


 まともに戦っても勝ち目はないし、逃げることもできない。だから、誰かがおとりになり、敵を引き付ける必要がある。是正が必ず追ってくる人物は菊次郎しかいなかった。


「僕が少数の武者とここを出て、材木山街道を北へ向かう。沖里公は突き出島への攻撃を中止して僕を追いかけさせるだろう。その間に楠島水軍の船で武者たちを輸送する。負傷者と小荷駄隊は降伏させるしかない。沖里公ならひどい扱いはしないだろう」


 大馬柵城まで後退すれば、榊橋文尚の騎馬隊や槻岡良弘がいる。城に籠もって豊津に援軍を要請し、忠賢たちが来てくれれば、是正を撃退できる可能性はある。そのあと直春たちを救いに行くのだ。それまで兵糧が持つかは賭けだが、砦の奥には畑もあるというし、湖には魚がいる。一ヶ月程度なら生きていられるだろう。もちろん、その前に直春が脱出に成功する可能性もある。


「撤退せず突き出島に籠もることを提案したのは僕だ。武者たちを生かして国に帰す責任がある」


 直春が駆け付けてきてくれることを前提にして作戦を立てていた。冷静に考えれば、是正がそれを計算に入れないはずはない。何らかの手を打ってあることは想定するべきだった。


「直春さん、会いたいよ。忠賢さん、今頃どうしているかな。雪、僕は君のところに帰れないかも知れない。最後に一目でいいから会いたかった」


 直春にもらった漆塗りの黒い軍配を握り締めると涙がこぼれそうになり、鼻をすすった。安民と光風が振り向いたがすぐに体を戻した。目を覚ました友茂が辺りを見回し、眠気を飛ばしに材木池へ顔を洗いに行った。


「申し訳ないが、君たちには一緒に来てもらうよ」


 ひどく胸が痛んだ。則理と安民と光風は結婚している。則理には子供もいる。雪姫を残していくつらさを彼等にも味わわせることになる。


「利静さんに光園(こうえん)で叱られるな。武者たちの家族に恨まれるだろう」


 あまり数が少ないと追っ手が減るので、二百くらいは連れていく必要がある。守りやすい地形の場所で可能な限りの抵抗をして、打ち減らされたら僕の命と引き換えに武者たちを助けてもらおう。沖里公なら大神様の教えに背いて敗者を殺戮(さつりく)することはないと信じられる。


「すぐに指示を出し、朝食を終えたら出撃しよう」


 心が決まると、ふああ、と大きなあくびが出た。ここ数日壁の設営などで睡眠があまりとれていなかったところへ、昨日の疲労と徹夜だ。頭がぼうっとする。


「きっとひどい顔だろう。僕も冷たい水で洗ってしゃっきりしようか」


 東の大長峰山脈の背後が明るくなってきた。菊次郎は立ち上がり、まだ焦げたにおいが漂っている突き出島を見渡した。北の山並みにその奥にいる直春を思い、海の向こうに見える御使島に忠賢を思って、重たい頭を振り、采配台を出ようとした時だった。


「菊次郎様! 大変です!」


 友茂が材木の山を駆け上ってきた。全速力で来たらしい。随分慌てている。大声で目ざめた田鶴が体を起こして目をこすっていた。


「どうしたんですか」

「ざ、材木池が!」


 言いかけて、友茂は両膝に手をついて下を向いた。はあはあと荒い息をすると、つばを飲み込んで大声で言った。


「すごく黄色いんです!」

「えっ?」


 首を傾げると、友茂はしまったという顔をして言い直した。


「材木池の水が黄色くなっているんです!」


 寝不足のせいか、彼の言葉が理解できなかった。


「何か染料でも溶けているんですか」

「違います! 黄色いもので埋め尽くされているんです! とにかく、見てください!」


 手を引かれ、おぼつかない足取りでよろよろと坂を下り始めた。小猿を抱いた田鶴や則理たちもついてきた。友茂は菊次郎がふらふらだと気が付いて歩く速さを落としてくれたが、手は離さなかった。


「これです。どうですか。黄色くなっているでしょう!」

「これは……」


 菊次郎は絶句した。確かに材木池の水面が黄色いもので覆われていた。


「菊、ですか」

「はい。花です。菊の(くき)から下を取り去って、花だけが流れてきたんです。こんなにたくさん! すごいでしょう!」


 材木池は荷揚げ堀の倍ほどの幅がある。成安軍の一部が何度か渡ろうとしたが撃退している。普段は材木のいかだが十以上浮かんでいるのだろう。そういう場所の半分ほどが菊の花で埋まっていた。


「どうしてこんなに……。そうか!」


 菊次郎は理由を悟り、こらえきれずに叫んでいた。


「則理さん! 材木山へ行く途中に菊の花が咲いていませんでしたか!」

「あ、うん、たくさん咲いていたよ。この町から半日くらいの場所は、土手に沿ってどこまでも菊畑だった」


 やっぱり。声が震えてしまった。


「直春さん、ですね」


 涙を抑えきれなかった。


「関所を破って、菊畑の場所まで来ているんです。それを知らせようとこの花を川に流したんです!」


 明るくなり始めた天を(あお)ぐと、しずくが頬を伝って落ちていった。


「もうすぐここまでやってきます! 助けに来てくれるんです!」

「直春さんが」


 田鶴が息をのんだ。


「国主様……」


 友茂が泣き出した。


「助かった……」


 安民がもらし、光風も目をぬぐった。


「これで勝てますよね!」


 友茂の期待の籠もったまなざしに大きく頷き返した。


「勝てます! いえ、勝ちます! あと半日持たせられれば僕たちは生き延びられるんです!」


 力強く答えると、菊次郎は言った。


「直春さんは、僕たちが寧居港で戦っている、まだ陥落していないと信じて菊を流してくれたんです。その信頼に応えなくては!」


 その程度のことができないようでは、大軍師の称号と軍配は返上しなければならない。


「さあ、采配台に戻りましょう。安民さん、則理さん。昭恒さんと孝貫さんを呼んできてください。作戦を決めましょう」


 高い峰々を越えて太陽が顔を出し、材木池の水面を光で満たした。漂う無数の菊の花が波に揺れて黄金色に輝いている。


「菊ってこんなにきれいなんだね」


 小猿が花を手ですくい、日にかざして眺めている。


「自分の名前なのにあまり好きではありませんでしたが、今大好きになりました」


 田鶴や護衛たちの明るい笑い声が、最後の抵抗をしていた夜の(とばり)を海の向こうへ吹き飛ばしていった。



「なにっ、桜舘軍が水軍の船に乗り込んでいるだと」


 甲冑を身に付けて宗速と是正が朝食を食べていると、突き出島を見張っていた者たちから伝令が来た。


「負傷者を運び込んでいるようです」


 武者は答えた。


「逃げるつもりか」


 宗速が問いかけると、是正は眉をひそめた。


「勝ち目がないと見たか、何か目的があるのか」


 広げたままの半空国の地図を見やった。


「恐らく行先は大馬柵城。風次第だが、最寄りの港まで行ってそこから歩いても、我々より先に入れるだろう。駐屯している部隊がいるはずだ。合流するつもりに違いない」

「では、脱出される前にたたいておくべきだな」


 宗速は攻撃を提案した。


「この先の戦いが少しは楽になる」

「目的を探るためにも一当てしてみよう」


 是正は頷いて命じた。


「回廊から四千に侵攻させよう。庭園にも三千を置き、そちらへ脱出しようとしたら押し戻させる」

「最後の仕上げだな」


 宗速は自分も戦いたそうだった。菊次郎に恨みがあるのは同じなのだ。


「もうすぐ寧居港は俺たちの手に戻る」

「いや、信家を甘く見ない方がよい。何の策もなく逃亡をはかるような人物ではない。わしらも行くぞ」


 是正は陣触れを発し、急いで食事をかき込んで立ち上がった。

 一刻後、成安軍は配置についた。


「前進せよ」


 是正の命令で四千が回廊に侵入していった。


「昨日最後に籠もった壁の向こうに武者が並んでいるな」


 武将は桜舘軍の様子を観察した。燃え落ちた迷路の少し奥にまた防壁があり、桜舘軍はそこで脱出の時間を稼ぐつもりのようだ。


「ただの木の壁のようだな。おかしなしかけは特になさそうだ。時間と人手がなかったのだろう。正面から押せば突破できるか」


 是正に報告すると、二千の弓隊を追加で送ってくれた。その支援の(もと)、四千は防壁に迫った。桜舘軍も応戦するが、武者の数は明らかに少なかった。


「五百といったところか。庭園側も矢で攻撃しているからそちらに半分いるとしても、ずいぶん減っているな。これは楽に落ちそうだ」


 炭になった材木が積もっているため車輪付きの攻城器は使えない。盾と槍を構えた徒武者たちは慎重に防壁に接近した。


「この距離ならいいだろう」


 武将は槍で前を示した。


「全員突撃! あの壁を踏み倒せ! 脱出させるな!」


 おおう、と大きな鬨の声を上げて武者たちが駆け出し、無謀ともいえる勢いで防壁に取り付いてよじ登った。桜舘軍は槍や投石で押し返そうとしたが、無理だと悟ったのか、壁を放棄して逃げ始めた。


「引け! 引けい! 次の壁に移動するのだ!」


 織藤昭恒が叫んでいる。


「よし! 追いかけるぞ! 一気に突き出島を制圧する!」


 ある程度の損害は覚悟していたが、予想外に桜舘軍がもろい。数が多く交代できる成安軍と違い、連戦で疲労がたまり、士気が下がっているのかも知れない。武将は武者たちと一緒になって走った。


「一度止まれ! また壁がある」


 新たな防壁は急造らしく、ただ材木を土手のように積み上げただけのものだった。高さと幅はあるが防御効果は低そうだ。


「そこの二十名、近付いて様子を探ってこい!」


 防壁の向こうに織藤隊が吸い込まれていったのに攻撃が来ないので、念のため物見を出そうとした時だった。


「離れて! 火傷するよ!」


 若い女の声が警告し、空に赤い筋が走った。


「火矢だと!」


 途端に目の前の防壁が燃え上がった。


「船に乗り込む時間を稼ぐつもりか!」


 最後の悪あがきで突破を図って総突撃してくる可能性も考えていたが、この火ではそれはなさそうだ。しかし、みすみす船に乗り込ませるわけにも行かない。


「堀際や海際を崩してそこから向こうへ進むしかないな」


 その指示を出そうとした時、再び女の声が響いた。


「後ろにも気を付けて!」

「後ろだと?」


 慌てて振り返ると、ぶちっと縄が切れる音が複数響いた。聞き憶えのある嫌な音に、どこからだと辺りを見回すと、武者の一人が叫んだ。


「よ、横です!」


 指さす方を見上げると、ごろんごろんと地響きのようなすさまじい音をたてながら、采配台の乗っている材木の山が崩れてくるのが見えた。


「た、退避せよ!」


 叫びながら必死で走った。武者たちも慌てふためいて逃げている。三階建ての建物ほどの高さに積み上げられた材木の山が、雪崩(なだれ)のように四千と援護の弓隊の間に広がった。


「火をつけるよ!」


 女の声の通り、再び火矢が飛んできた。投石ひもによる油玉も大量に落下し、材木の山は火に包まれた。


「前と後ろを塞がれたか!」


 武将は焦った。

「これはいったん下がるしかないな」


 四千は炎に挟まれているだけで火の中にいるわけではないが、煙がひどく熱も感じる。後方の味方と切り離されてしまったし、何より前方の壁が燃え上がっていて越えて攻め込むのは不可能だ。安全な場所まで退避し、是正と連絡を取って指示を仰ごう。


「下がれ! 後退だ! 海際へ向かえ!」


 材木の山は材木池のほとりにあり、海へ向かって崩れたが、水際までは達しなかった。その隙間から順次後退せよと、武将は指示を出した。


「侵入は失敗か。最初の攻勢は撃退されたな」


 宗速は腕組みをして眉を寄せた。


「敵に時間を与えてしまった。この間に脱出するつもりか」

「そのようだが……」


 是正は考え込んでいた。


「寧居港を放棄すれば直春公の退路がなくなる。それを防ぐためにここにとどまって抵抗したはずだ。今更逃げることにしたのか。どこか妙だな」

「諦めたのではないか。敵の武者は相当減っているようだ。このまま戦えば全滅する。大馬柵城で付近の味方と合流するのは妥当な手だ」


 宗速の意見に、是正は納得できないようだった。


「撤退するなら夜のうちに船に乗ればよい。明るくなるのを待った理由は何だ」

「朝改めて防壁と武者たちの様子を見て判断したのではないか」


 是正は首を振り、状況をもっと把握しようと物見を出そうとしたが、その前に伝令が走り込んできた。


「突き出島の桜舘軍が小舟で川を渡り、対岸の砦に入っていきます!」


 寧居砦はこの地を治める領主の館で、寧居橋を渡って進んだ先の海際(うみぎわ)にある。背後が砂浜で、そこに桜舘軍は小舟を次々に着けて上陸しているようだ。突き出島から少し離れているため、是正は桜舘家の武者がひそんでいないことを確認しただけで、守備の部隊を配置していなかった。


「撤退ではなく、拠点を移すのか」


 宗速は意外そうだった。


「突き出島を守りきれないと見て砦に籠もるつもりか。その時間を稼ぐために四千を炎で足止めしたのだな」


 負傷者は船に移し、元気な者だけで戦うようだ。宗速はまだねばるつもりかと苦々しく思う一方、無駄なあがきだと憐れんでいるらしい。


「庭園にいる三千を対岸へ向かわせよう。弓隊二千も行かせる。突入した四千は時間がかかりそうだな」


 その指示を是正も了承し、伝令が走ったが、宿将は首をひねっていた。


「何かがおかしい。残っている武者は二千程度のはず。砦に籠っても猛攻すれば持って一日、包囲されれば脱出は難しい。それならまだ大馬柵城に撤退する方が先がある。信家は何を考えておるのだ」

「寧居港を絶対に渡したくないのではないか」


 宗速は言ったが、是正はやはり物見を出すことにし、庭園の三千に警戒せよと伝えるように命じた時、物見の武者が叫んだ。


「敵の騎馬隊が現れました!」

「安瀬名数軌か!」


 材木山街道を疾走してきた一千余の騎馬武者は、庭園を出ようとしていた武者たちの目の前を集団で駆け抜け、寧居橋を渡って砦に入っていった。


「これで敵は三千か!」


 宗速は舌打ちした。


「手強くなりますな。落とすのに手間がかかりそうだ」

「騎馬隊に守備をさせるのか」


 是正はまだ()に落ちないという顔だった。


「馬から下ろして砦に籠もらせるなど愚かな使い方だ。信家はこれまで騎馬隊をうまく動かして合戦に勝利してきた。彼らしくないな」

「だが、あの砦と信家を無視はできぬぞ。騎馬隊もいるとなればなおさらここでつぶしておきたい。すぐに包囲しよう」

「そう思うだろうな、誰でも」


 つぶやいて、是正は白い眉を上げた。


「なるほど、そうか」


 是正は北の山へ目を向けた。


「直春公が脱出したのだな」 

「なんだと?」


 宗速は耳を疑う顔をした。


「そう考えればつじつまが合う。直春公が材木山街道を戻ってくれば、我等はそれを迎え撃ち、合戦になるだろう。その時、我等の武者の大半が対岸にいたらどうだ」


 是正は確信したようだった。


「直春公が勝てる可能性を上げるには、我等の武者数を減らせばよい。三千が籠もる砦を落とすには九千は必要だ。退路確保や材木山方面の警戒のため、全軍が川向こうに行くことはできぬから、こちら側に数千を残すことになる。その状況で橋を落とし、八千余の直春公にまずこちらの岸の軍勢を打ち破らせる。対岸の者たちは宿陣地と兵糧と退路を失って孤立するというわけだ。砦を落とそうにも籠もるのは信家、どんな策を用意しておるか分からぬ。桜舘軍は水軍など川を渡る手段があるが、我々は進むことも引くこともできなくなるだろう」

「信家は自分をおとりにして我が軍を向こう岸に閉じ込めるつもりなのか」

「恐らくな」


 是正は物見の武者に尋ねた。


「今朝、突き出島に何か異変はなかったか」

「敵軍には特段の動きはございません。防壁の修理の音は響いておりましたが、それくらいでございます。それと……」

「何だ?」

「荷揚げ堀に大量の菊の花が浮いていたようです」

「それだな」


 是正は断言した。


「間違いない。茎から下がない花だけが山ほど流れてくるなど自然には起こらぬ。直春公が信家へ届けたのだ。明告殿は失敗したようだな」


 是正は一瞬無念そうな表情をしたがすぐに顔を引き締めた。


「そうと分かれば、我等は橋を落とせばよい。対岸に閉じ込められるのを信家にするのだ。庭園と突き出島に行かせた武者を呼び戻し、有利な地点で直春公を待ち構え、奇襲するのがよかろう」

「ふう、すさまじいだまし合いだな」


 宗速は呆れた様子だった。


「しかし、それならこちらの勝ちだな。砦は放っておき、その策で武者を配置すればよい。材木山街道に隠密を送って、直春公がどこまで来ているか見てこさせよう」

「もう近くにおるに違いない。信家も武者も連戦で疲れておるはず。砦を守るのはせいぜい一日程度の計算だろうからな」


 是正が周辺の地図を広げた。


「布陣するならここだな。すぐにかかれ」


 武将たちに指示を出し、動き出そうとした時だった。


「伝令です! 沖里公はいらっしゃいますか!」


 猛烈な勢いで成安軍の旗を立てた武者が本陣に飛び込んできた。


「この二通のお手紙を沖里公に」


 宗速は大きい方の封筒の表を見て目を見開いた。


「御屋形様からのご命令だ」


 墨浦から鳩が足首砦に飛ばされ、伝令が馬で走って届けにきたのだ。重要な内容に違いない。

 急いで封を切り、目を通して是正は沈黙した。


「どうした」


 宗速に問われて、是正は書状を手渡して空を見上げた。


連橋(つらねはし)城が落ちたそうだ」

「なんだと!」


 慌てて自分も読み、宗速は悔しそうに書状を握り締めた。


正維(まさつな)殿が願空にしてやられたのか」


 桜舘家と同時に成安領に侵攻した宇野瀬軍は、薬藻国の連橋城を包囲したまま二ヶ月近く攻めあぐねていた。そこへ、是正出陣の知らせが届いた。警戒したが、半空国へ転進したようだという。願空は一計を案じ、夜の間に包囲する部隊の一部を武者の格好をさせた小荷駄隊と置きかえ、密かに移動させた。

 翌朝、南方から成安軍の焦げ茶色の鎧の集団が城へ向かって進んできた。宇野瀬軍は包囲を解いて城に背を向け、迎撃するようにそちらへ近付いていく。


「味方の来援か!」

「是正公ののぼり旗が見えるぞ!」


 城兵は喜び、正維(まさつな)は即座に出陣を決めた。


「父上に協力して宇野瀬軍を挟撃する!」


 城門の前の橋を下ろして広い堀を渡り、七千七百のうち五千を率いて打って出て、前方の軍勢とまさにぶつかろうとしている宇野瀬軍の背後を攻撃した。

 すると、宇野瀬軍が左右に分かれた。正維は怪訝(けげん)に思ったが父に合流しようと進み、目の前まで行って異変に気が付いた。


「焦げ茶色に染めてあるが、宇野瀬軍の鎧だ!」


 しまった、と慌てて引き返そうと振り向くと、分かれた宇野瀬軍は背後で再びくっつき、退路を塞いでいた。偽装していた前方の宇野瀬軍も数を増やすための小荷駄隊を切り離して向かってくる。


「味方は五千、敵は二万、勝ち目はないか」


 正維(まさつな)は血がにじむほど歯を噛み締めたが、城へ戻るのは諦め、撤退を決めた。


「包囲が完成する前に左右へ逃げて突破せよ!」


 判断が早かったので、多くの武者が脱出でき、五千のうち三千ほどが追撃を振り切って大門国に向かった。城内の武者にも脱出せよと指示したので、こちらも無駄な抵抗はせず、城を明け渡して正維を追いかけた。置き去りにされた武者たちの家族は大神様の教えの通り城内から退去を許され、墨浦を目指しているという。


「御屋形様は戻ってこいと(おお)せだ」


 薬藻国の武者は最も堅固な連橋城に集中していたので、他の城は空だ。武者はばらばらになって逃亡していて、どこかの城に呼び集めるのは難しい。つまり、薬藻国は失われたのだ。


「願空が勢いに乗って攻めてくることを、墨浦の方々は恐れておるらしい」


 動かせる武者はほぼ全て率いてきた。宗龍のそばには四千五百しかいない。薬藻国との境の砦も守備の武者は多くない。

 是正は悔しげにこぶしを握ったが、すぐに開いた。


「ご命令とあらば仕方ない。撤退しよう」

「畜生め、あと一歩だというのに!」


 主君に是正を呼び戻すように進言した誰かを、宗速は口汚く(ののし)った。


「その前に幽縄殿を救出せねばならぬ」


 もう一通の手紙には、明告知業が直春の閉じ込めに失敗したと書かれていた。材木山を出て寧居港へ向かっているので、三千の武者と大船柱も一緒に運んでこいとの指示だ。恐らく直春軍の後方にいるのだろう。


「さて、どうするか」


 是正が撤退すれば直春は追撃してくるだろう。大門国との境の足首砦まで約一日。途中で追い付かれる可能性は高い。幽縄隊との合流もしなくてはならない。

 是正は少し考えて言った。


「信家の策を利用させてもらおう」


 宿陣地にいる武者と小荷駄隊に撤収の準備を命じ、庭園と突き出島の部隊に伝令を送った。

「直春公を出迎えに行こう」



「国主様、敵が待ち伏せしております」


 泉代成明が馬で走ってきた。先行させた物見が発見したという。


「材木山街道を封鎖する形に布陣している軍勢が約六千、森の中にも数千。戦いが始まれば側面を突いてくるでしょう」

「是正か。まさか、菊次郎君が負けたのか」


 撤退したか、捕虜になったか。最悪の場合も考えられる。険しい表情になった直春に、成明が告げた。


「敵軍が交渉をしたいと申しております」

「向こうが圧倒的に有利な状況で話し合いだと?」


 直春は首を傾げ、使者二人を連れてこさせた。


「沖里公は撤退するとおっしゃるのか」


 直春は話を聞いて驚いた。


「はい。我々は現在、寧居橋を封鎖しております。直春公が合戦を選択なさるなら、橋を落として砦に籠もった信家殿と切り離した上でお相手いたします。既にお気付きと存じますが、我が方は正面以外にも兵を伏せており、勝利は疑いない状況です。しかし、沖里公は戦いを望んでおられません。直春公が休戦に応じてくださり、追撃しないとお約束いただければ、橋は落とさず、大門国へ引き上げます。また、貴軍の後ろから来ている杭名幽縄公と明告知業様の軍勢も、一緒に撤退させることを望んでおられます」

「話を聞く限りそちらが勝っていたように聞こえる。なぜ撤退するのだ」


 直春が尋ねると、使者は連橋城が陥落したことを告げた。是正に話してよいと言われたという。


「そういうことならこちらに異存はない。休戦に応じよう。約束を破らぬ(あかし)として誰かを預けようか」


 直春は休戦をのんだ。使者の口ぶりから菊次郎がまずいことになっていると察したのだ。


「人質は無用です。直春公は信義に(あつ)いお方とうかがっているとおっしゃっておられました」

「そうか。ならばその信頼を裏切らないことを誓おう」


 直春は表情をゆるめた。


「俺も沖里公を信じることにする。武将の(かがみ)のようなお方だと信家も口癖のように言って尊敬しているからな」

「大変ありがたいお言葉です。しかとお伝えいたします」


 片方の使者は礼儀正しく挨拶して戻っていった。もう一人は杭名隊に連絡したいというので、武者をつけて案内させ、通してやった。


「少し下がろう」


 直春は軍勢をやや後退させた。後ろが詰まっているので大きくは動けないが、追撃しない意思を示したのだ。

 やがて是正軍が動き出した。まず街道の上の部隊が、続いて森から武者たちが整然と列を作って港の方へ移動していく。直春軍はそれをじっと見守った。


「成安軍が港のはずれで停止しました」


 是正軍が旗を振ったのを確認し、直春は前進を命じた。ゆっくりといかだ川に沿って道を進み、寧居橋に出ると、対岸へ渡っていく。

 最初に武者たちが、続いて小荷駄隊が橋を通過した。全員の移動が終わると、是正軍から騎馬武者が材木山街道を駆けていった。呼びに行くようだ。


「ようやく帰ってきたな」


 直春は砦から走り出てきた馬の群れの先頭に深い緑の胸当てをした青年を見付けて頬をゆるめた。



「直春さん!」


 知らせを聞いた菊次郎は砦を飛び出し、全力で馬を飛ばした。


「いた!」


 白と赤の鎧と立派な白馬はよく目立つ。馬上で堂々と胸を張っている姿に心が震え、目がうるんできた。材木山へ出発したのはたった六日前なのに、随分長く会っていなかったような気持ちがする。

 馬を止めるのももどかしく、飛び降りて駆け寄った。


「よくぞ無事で! もう会えないかと思いました!」


 涙があふれるのも構わなかった。直春は笑っていた。


「俺は信じていたぞ。君も、孝貫殿や数軌、武者たちのこともな」

「はい! 私たちも国主様を信じておりました!」


 一緒に来た孝貫や昭恒が泣き出した。頼算や敏廉もつられて涙ぐんでいる。

 うきゃっと叫んで、小猿が直春に飛び付いた。受け止めて胸に抱え、頭を撫でてやっている。


真白(ましろ)も会いたかったって」


 田鶴は目をぬぐいながら笑みを浮かべた。


「とにかくほっとしました」


 菊次郎は気持ちを落ち着けると、馬を下りた直春にこれまでのことを話し、情報の交換を始めた。


「どうやって材木山の封鎖を突破したんですか」


 頼算の説明を聞いて菊次郎は絶句した。


「大将が、国主が、直春さんが、自らおとりになったんですか!」


 思わず()頓狂(とんきょう)な声が出てしまった。


「作戦だったのだ」


 直春はこともなげに答えた。


「早く君たちのところへ帰りたかったのでな」

「だからって!」


 文句を言おうとしたが、続きが出てこない。直春が心底そう思って危険な役目を買って出たことが分かるからだ。


「命をかけて君を守ると言ったろう。憶えているか」

「もちろん覚えています。けれど……」


 狢宿国(むじなやどのくに)からの撤退のあと、駒繋(こまつなぎ)城で聞いた言葉だ。忘れるわけがない。


「うれしいです。本当にうれしいですけど、無茶はしないでください。僕のために誰かが死ぬのはもう嫌なんです!」

「大丈夫だ。俺は死なない。君も、他のみんなも、ちゃんと守る」


 直春の笑みに胸が張り裂けそうだった。


「俺はこうしてここにいるだろう」

「だからって……!」


 腕で目を覆った菊次郎に、田鶴が今更だという顔をした。


「直春さんはいつもそうじゃない。戦いでも先頭に立つし」

「そういうお方だから人々がついていくのです。我々が直春公を選んだのもそれが理由です」


 成明が言い、孝貫と敏廉が深く頷いた。


「それは分かっていますが……」


 総大将の心得を言い聞かせようとして、口をつぐんだ。これほど立派な当主にこの上何を求めようというのだろう。みんなの言う通り、自分が好きなのはこういう直春ではないか。

 改めて直春を上から下まで眺めた。またうれしさが胸に込み上げてくる。


「おや?」


 じっと見つめていると、何かが引っかかった。直春の姿に違和感を覚えたのだ。


「じろじろ見てどうかしたか」


 直春がおかしそうな顔をした。


「直春さんがいつもと何か違うような」


 首を傾げると、田鶴がからかうように言った。


「いつもの直春さんだと思うけど」

「そうだぞ。怪我(けが)も悪いところもない。ぴんぴんしている。少し腰が軽いくらいだな」

「腰ですか。あれっ?」


 言われて腰を見ると、刀が一本しかない。戦闘用の長刀だけだ。


「あの脇差はどうしたんですか」


 虹関(にじぜき)家の家宝だった虹鶴(こうかく)だ。虹の家紋の下で鶴が羽を広げた絵柄が鞘に蒔絵(まきえ)で細工された名品だ。


「菊の代金のかわりに村長(むらおさ)の家に置いてきた」

「えっ、あげちゃったの?」


 田鶴が驚いた。


「あげたわけではない。預けただけだ。あとで金を持ってくると約束して、それまで担保としてな」


 菊次郎はめまいがした。


「あんな大切なものを他人に預けたんですか! 直春さんが高貴な血筋だと証明する刀なんですよ!」

「急ぐため小荷駄隊の半数を材木山に残してきたから、持ち合わせがなくてな。荷車には武者たちの兜と武器、二日分の食料だけを乗せてきた。だが、どうしても菊が欲しかったのだ。駄目か?」

「駄目ですよ!」


 行くのに実質二日かかったのに一日半で戻ってきた理由が判明した。


「かといって、脅して従わせるわけにも行くまい。長刀は戦いに必要だったしな」

「それはそうですけど……」

「直春さんらしいよね?」


 田鶴の言葉に武将たちは苦笑している。


「菊次郎さんのためなんだよ」

「分かっています。とってもうれしいですけど、でも!」


 こういう人なのだ。また涙が浮かんできた。こうしたやり取り、この仲間たちとの時間、守りたかったのはこれだったのだ。


「きっと来てくれると信じていました。主君が直春さんで本当によかったです」


 菊次郎はごしごしと(そで)で目をこすった。


「菊の花はめまいや目のかすみに効くそうですよ」


 頼算が冗談を言うと、田鶴が笑った。


「魚の目がよくなったかな」

「確かに、花でいっぱいの堀を見たら、目の前が明るくなりました」


 菊次郎も心からの笑みを浮かべた。笑ったのは何日ぶりだろう。


「幽縄軍が来たぞ」


 疲れた足取りで三千弱の武者が街道から現れた。負傷者を乗せた荷車や仲間の肩を貸りる怪我人、小荷駄隊に続いて、二十人で(かつ)輿(こし)にのせられた大船柱が現れた。橋の前で菊次郎たちに背を向け、是正軍に合流し、南国街道を一緒に去っていく。


「これで半空国は全て僕たちのものですね」


 この国から成安軍はいなくなったのだ。


「……犠牲(ぎせい)は大きかったですが」


 小声で付け加えると、直春が肩に手をのせた。


「沖里公の作戦が巧妙だったのだ」


 まさか、薬藻国方面へ行ったはずの軍勢が隠密も知らないような山道を越えて半空国に攻めてくるなんて。尊敬すべき名将だが、恐ろしい相手だった。


「それでも、僕の責任です」


 もっとうまくやれたはずだという後悔が、再会の喜びにかわって胸を覆っていた。


「だが、俺たちは守りきった」


 直春は力強く言った。


「そうではないか」


 菊次郎は仲間たちを見回し、隣に立つ友の深いまなざしを見上げた。豊津にいる雪姫が思い出された。


「そうですね」


 次は胸を張って言えるようにしたい。菊次郎は心の底からそう願っていた。

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