(巻の七) 第三章 逆襲 中
『狼達の花宴』 巻の七 寧居港図
その日の夕刻、是正率いる一万六千は寧居港の手前の村までやってきた。
「ここに宿陣地を造る」
是正はすぐに取りかかれと指示した。
「もっと寧居港に近い方がよいのではないか」
成安宗速が言ったが、是正は首を振った。
「敵の出方が分からぬ。あまり近付くと向こうから手出ししやすくなる。ここなら敵が砦を出たと聞いてから到達するまでに守りを固める時間がある」
「随分慎重だな」
「負けたくなければ敵を侮らぬことだ」
是正は小荷駄隊と武者を動かし、周囲を空堀と二重の木の柵で囲った陣地を数刻で築き上げた。足首砦から携帯してきた夕食をとらせると、交代で四千ずつに警戒させて武者を就寝させた。
「敵襲です!」
翌朝、夜が白み始めると同時に陣地内に鐘が鳴り響いた。
「桜舘軍の騎馬隊が接近してきます。数、約一千四百! のぼり旗は安瀬名数軌です!」
「宗速殿、一当てしてみていただきたい」
本陣の大きな宿屋に駆け付けてきた騎馬隊の将に是正は命じた。
「わしらを誘っている。罠に気を付けなされ」
「任せてくれ!」
宗速は三千の騎馬隊全てを率いて出撃した。桜舘軍は宿陣地のまわりを駆け回って火矢を射込んだり門に油玉を投げつけたりしていたが、宗速隊が出てくると背を向けて逃げ始めた。
「やはり誘い出す気か。ちょうどよい。そちらの数と力を測らせてもらおう」
両騎馬隊は南国街道を疾走し、あっという間に寧居港までやってきた。
「散開せよ!」
寧居砦は町の真ん中を流れるいかだ川の向こう岸にあるが、そこを目指していると思われた安瀬名隊は急に右へ曲がり、武家屋敷や武者の長屋が立ち並ぶ一角に逃げ込んでいった。
「砦に入る前に追い付かれると考えたのか。それとも罠か」
宗速は考えたが迷いは一瞬だった。
「突入せよ。街道へ追い出せ。我等はそれを待ち構え、包囲して討つ」
半数が街道に残り、一千五百が百人ずつの隊に分かれて町の中へ入っていった。
武家街は街道沿いに塀に囲まれ庭が広い上級や中級の武家の屋敷があり、その後ろに長屋が連なっている。
「塀同士、建物同士が近い。馬一頭進むのがやっとだな」
武家街の路地は狭く、鎧を着た武者がすれ違うのは難しい程の幅しかない。建物の大きさがまちまちで、道が複雑に折れ曲がっていて先が見えなかった。
「やつらめ、どこに行ったんだ」
百人の中ほどで警戒しつつ馬を進めながら武者頭が首をひねった時、前方で悲鳴が上がった。
「どうした!」
「て、敵が横から!」
答えた武者と乗っている馬の腹に、長い槍が数本同時に突き刺さった。同時にがらがらと大きな音がして、短い槍を五本取り付けた荷車が先程の騎馬武者を刺したまま押しのけて飛び出してきて、行く手を塞いだ。
「やられた!」
「伏兵だ!」
背後でも混乱が起きていた。横道に桜舘家の徒武者がひそんでいたのだ。荷車のほか、立てかけられていた材木の束が倒れてきたり、瓦や大きな石が飛んできたりして、方々で同じような騒ぎが起こっているようだった。
「待ち伏せか。分断された!」
まわりの十騎ほどと孤立したことを悟ったが、呆けている場合ではない。
「待っていろ! 今助けるぞ!」
前を塞がれたので、騎馬武者たちに反転するように命じたが、狭い路地では馬の向きを変えるのすら苦労する。十頭が一斉に動いたためさらに窮屈になり、身動きが取れなくなった。
「今だ! 攻撃せよ!」
いきなり横の武者長屋の扉が複数開き、十人ほどの徒武者が飛び出してきた。
「敵だ! 応戦せよ!」
武者頭は驚いて叫んだが、馬と長い槍は壁や建物につっかえて思うように動かせない。桜舘家の武者の槍は取り回しやすいように短かった。
「罠にはまったか!」
開けた場所では圧倒的に強いはずの騎馬武者が、動きやすさを優先した軽装の徒武者に次々に馬から突き落とされていく。主を失った馬は尻を軽く突かれて苦痛のいななきを上げ、他の馬に体当たりし、地面に転がっている味方の武者を踏みつぶしながら逃げ出した。その行く手にいた後続の武者や馬たちが悲鳴を上げ、混乱が一層広がっている。
「引け!」
号令がかかると、桜舘家の武者たちはさっと離れ、再び建物の中に入っていった。裏口から逃げるらしい。
「やられた。始めからここに誘い込むつもりだったのか!」
街から次々に戻ってくる武者たちは負傷し、あるいは馬を失っていた。彼等の話で状況を知った宗速は歯をぎりぎりと噛み鳴らした。
「敵は武家街の中だ。全体で包囲して閉じ込めろ。頭を出したらたたけ」
街道の上にいた一千五百は町の路地の前に数十騎ずつ散っていった。
「街の裏手に敵の騎馬隊です! 攻撃を受けています!」
「なにっ?」
武家街と背後の森の間に広がろうとした騎馬武者を、安瀬名隊が森から飛び出して急襲した。一千五百が街の四方に分かれたのだから、森の前にいるのは四百足らずだ。そこに一千四百が襲いかかっているという。
「うぬう! 武者を散開させるのを待っていたのか! すぐに駆け付けるぞ!」
宗速は武者を集めながら町の外側を森の方へ向かった。
「敵はどこだ!」
「北へ逃げていきました」
材木山街道を去っていったという。
「逃がしたか」
既に姿は見えなかった。
「追いますか」
「残念だがもう遅いだろう。街の中にいた徒武者はどうなった」
「騎馬隊を追っている隙に港の方へ逃げたようです」
「そちらも追い付けまい。皆を集め、点呼を取れ。どれだけやられたか報告せよ」
街道へ戻った宗速は、三千のうち五百近くが死傷するか馬を失ったことを知った。
「警告を受けたのに面目ない」
宿陣地に戻った宗速は悔しそうに復命した。
「いや、敵の動き方が分かったので無駄ではない」
是正は厳しい顔つきをしていた。
「銀沢信家がおるな」
「なんだと?」
宗速は意外そうに目を見開いた。
「材木山に行かなかったのか」
「そのようだ。徒武者が突き出島に入ったのがその証拠だ」
是正は机上の地図を指でたたいた。港と川に挟まれた狭い半島のような場所だ。
「寧居砦はいかだ川の対岸だ。敵はそこに籠もると思っておったが、そうしなかった。しかも先にしかけてきた。ここにいるぞ、攻めてこいと誘っておるのだ。あの大軍師らしいやり方だ」
「なぜそんなことを。橋を落とせば我等は止まらざるを得ぬが」
「材木山で起きたことを知らぬのだ」
先程のろしが上がり、直春軍の閉じ込めに成功したことを伝えてきた。知業が墨浦に鳩を飛ばし、のろしで足首砦に伝え、進軍中に配置してきたのろし担当の小荷駄隊から是正に届くので、昨日の午後のことが今になって分かるのだ。
「恐らく直春公へ呼び戻す伝令を送ったのだ。主君の退路を塞がれぬように、わしらをここで足止めしたいのだろう。騎馬隊を挑発してたたいたのは、材木山へ行けぬようにするためだな」
「なるほど。それが敵のねらいか」
「橋を落として対岸に布陣すれば防衛には有利だが、直春公と切り離される。材木山への街道は川のこちら側を通っているからな。戻ってきた主力とわしらが戦う時、川向うで指をくわえて見ているしかない。ならば損害は覚悟でわしらを少しでも減らし、直春公と挟み撃ちにしようというのだろう」
「直春公が帰ってくることが前提の作戦か。よほど主君が大切らしい」
宗速は感心した風に笑った。
「敵にとって不足はない。緒戦は負けたが、次も同じようには行かぬぞ」
「敵の騎馬隊は港の外におる。その対処はお任せする」
「引き受けた」
「では、敵が籠もったその小島に向かおうか」
是正は全軍に出撃の命令を発した。
「あれが突き出島か」
二刻ののち、是正は宿陣地に徒武者と騎馬武者一千ずつを残し、一万三千余を率いて寧居港へやってきた。
「さすがは信家だ。攻めにくい場所だな」
町の中央を北から南の内の海へいかだ川が流れている。その手前側、つまり東岸に、荷揚げ堀という水路が垂直に入り込み、北と南へ分かれて川港と材木池になっている。
この水路によって、突き出島は細い陸地を残して港町と切り離されている。島の西はいかだ川の河口、南は海、東は寧居港の浜辺。北側の荷揚げ堀と材木池はいかだ川を下ってきた木材のいかだや薬草などを積んだ小舟が通るので、かなりの幅がある。
「あれは木材で作った壁か。急造だろうが、頑丈そうだな」
荷揚げ堀に沿って木材を高く積み上げ、防壁にしてある。港からつながる細い回廊にも行く手をさえぎる形に壁が作られていた。背後に弓を持った武者が多数いるようだ。突き出島は川を運ばれてきた木材を陸にあげて乾燥させ、船に積みやすい大きさに加工する場所で、木材がたくさんある。それを利用したのだ。
「采配台もあるな。あそこにおるのは信家か」
材木を積み上げて作った小山の上に、枡のように四角く腰の高さに板の囲いを作ってある。そこにまだ若い人物が、深めの緑の胸当てだけの軽装で黒漆塗りの軍配を手に立っていた。
「よく一日で作ったものだ」
宗速は北へ逃げた安瀬名騎馬隊の警戒を任せられたが、一千をそれに当て、自身は五百を連れて観戦に来ていた。
「昨夜も一晩中灯りをともして作業していたが」
「丸一日働けば一両を与えると言って人を集めたそうだ」
町にもぐり込ませていた隠密の報告だ。
「町の民のほとんどが参加したらしい。材木は商人たちから買い取ったようだな」
「その報酬なら当家への忠義より欲が勝ちますな」
宗速は呆れた様子だ。武者一人の年俸が二十両なのだ。
「五千両はかかったに違いない。人を動かすのがうまいな」
是正は感心した様子だった。
「思い付いても、もったいないとためらう者が多かろう。だが、負けたら桜舘家は終わりなのだ」
直春と菊次郎を失ったら先がない。
「財政が豊かなのだな。それに直春公を信じておるのだろう」
それほどの額を一度に使っても分かってもらえる、怒られることはないと大軍師は思っているのだ。自分が同じことをしたら何を言われるだろうか。そう是正は考えたようだが口にはしなかった。
「まずは敵の出方を見よう」
是正は徒武者に島へつながる唯一の道、狭い回廊へ侵入せよと命じた。三千が槍と盾を構えて前進し、その後ろを二千が弓に矢をつがえて進んでいく。
「攻撃開始!」
矢が届く距離になると射撃が始まった。二千が休みなく矢の雨を降らせ、その援護の下、槍武者が壁に向かっていく。
「成安軍を近付けるな!」
織藤昭恒という武将が命じ、大人の背より高い丸太の壁の向こうから桜舘軍が矢や石を放ち始めた。
「速度を上げよ。あの壁に取り付いてよじ登れ!」
武将の指示で徒武者たちは足を早め、盾で防ぎつつ一気に駆けて行こうとしたが、急に立ち止まった。
「どうした」
是正が目のよい武者に尋ねた。
「足元に何かあるようです。あれは……短く切った細い木切れでしょうか。一面にばらまかれています」
「歩きにくくしたわけか」
是正は唸った。
「それでは突撃はできんな」
手でかろうじて握れる太さで、ひじから指先までほどの長さの木切れは、下を見ながら気を付けて歩けば大した障害物ではない。しかし、飛んでくる矢を盾で防ぎながら敵をにらんで走る場合は、非常に邪魔になる。
「今です。攻撃を強化してください」
采配台の上で大軍師の青年が黒い軍配を振るうと、防壁の背後で投石機が動き出した。
「飛ばしてくるのは陶器の壺か」
寧居の町では薬草を湿気から守るために入れておいたり、酒に漬けて薬酒や薬茶を作ったりするのに壺を使う。それを買い上げて中に河原で拾った石を入れてある。地面に落下すると大きな音を立てて破裂し、壺の破片や石を勢いよく飛び散らせる。
「隊列が乱れ始めましたな」
材木池の対岸からも水を越えて投石機と弓隊の攻撃が始まった。成安軍は正面と右側面から壺と矢と石の攻撃を受けることになった。
「下がらせろ。慎重にな」
是正はすぐに諦めた。足元の木切れは後退もしにくくし、盾を前に向けて後ずさる槍武者隊は危うく混乱しかけ、是正は一千を援護に差し向けなければならなかった。
「予想はしておったが、正面からでは無理だな」
大した損害を出さずに矢の届かぬ場所まで武者を後退させると、是正は思案した。
「では、どうする」
宗速の問いは信頼に満ちていた。是正とは何度も一緒に戦っているのだ。
「わしの得意なやり方で行く。一万三千を連れてきて五千しか戦わぬのでは休んでいる武者が多すぎる。全軍が攻撃に参加できるようにする。そなたたちにも働いてもらおう」
是正は武者たちに休息と食事をさせるように言い、武将を集めて午後の作戦を伝えた。
「成安軍が庭園を囲んでいます!」
采配台の枡の中で食事をしていた菊次郎の元へ、伝令が走ってきた。
「やはりそう来ましたか。沖里公らしいやり方です」
菊次郎はつぶやいた。
「朝の指示通りにするように伝えてください」
そばにいた武者が庭園を守る部隊に旗信号を送った。
「日暮れまで持てばよいですが」
「どういうことですか」
我慢できない様子で蕨里安民が尋ねた。二十四歳になり、一層落ち着いた雰囲気になったが、これは気になったらしい。一つ年上の柏火光風も、声は出さないが聞きたそうな顔に見える。
「是正公はこの突き出島を包囲するつもりなんですよ」
菊次郎にかわって答えたのは護衛四人の頭格、楡本友茂だ。二十二歳になって体も随分たくましくなった。
「港の方の回廊は狭いです。材木を船まで運ぶ道なのでそれなりの幅はありますが、一度に攻め寄せられる数は少ないですね。五百も武者が守れば簡単には通れません。だから、沖里公は他の方面からも突き出島を攻撃しようと考えたんです。南は海ですが、西はいかだ川の対岸が調練場の広場ですし、北には庭園があります。そこに武者を入れて矢を射かけてくるつもりです」
庭園は数代前のこの地の領主が作ったもので、花や果物の木がたくさん植えられていて、中央に池があり、瀟洒な建物が建っている。客をもてなすのに使われ、季節ごとに宴が行われるそうだが、それだけの場所ではない。西はいかだ川、南は荷揚げ堀、東は川港と三方を水に囲まれ、南国街道に面した北側は水堀と高い城壁があって、城のような作りになっている。川の西岸にある寧居砦に対し、寧居橋の東側にあるこの庭園もまた、橋と港を守り敵を防ぐ砦の役割を持たされているのだ。
「いかだ川は幅が広く深いので船がないと渡れません。調練場からの攻撃はさほどの効果がないでしょう。しかし、庭園を奪われたら矢が十分に突き出島まで届きます。荷揚げ堀はそれほど深くありませんので、武者が歩いてこられます。恐らくそちらが午後の戦いの主戦場になりますよ」
最年長二十七歳の笹町則理は直春に危機を伝えに向かったので、菊次郎を三人で守らなければならない。その気負いが友茂をいつもより饒舌にしているらしかった。
「その通りです」
菊次郎は友茂の成長を素直にうれしく思った。
「ですが、庭園を守りきるのは無理です」
「どうして?」
田鶴が首を傾げた。豊津城では侍女らしく振舞おうとしているが、戦場に出ると行儀のよさは捨て、猿回し時代の元気な娘に戻ってしまう。膝に座っている真白はその方がうれしいようだ。
「武者が少なすぎます。僕たちは四千八百、そのうち数軌さんの騎馬隊が一千四百、残りは市射隊二千九百と直春さんが僕に付けてくれた五百です。この突き出島の防衛にすら十分ではありません」
水堀と城壁のある庭園を出丸のように使って戦いたいのはやまやまだが、武者数がそれを阻む。現在は一千四百を配置しているが、是正の大軍に総攻撃されたらいくらも持たないだろう。
「一日で落ちるでしょう。それでも、直春さんが戻って来るまで時間を稼ぐために、庭園で抵抗するのです」
「分かった。でも、最後は勝てるよね。菊次郎さんの作戦だもん」
信じきった様子の田鶴に言われて菊次郎は苦い笑みを浮かべた。
「相手は沖里公です。強敵ですが、やるしかありませんね」
負けるわけには行かないと護衛たちが頷いた時、武者が叫んだ。
「成安軍が庭園に攻撃を開始しました。港の回廊にも約五千が接近してきます」
「両方から攻めてきて、庭園に武者を集めさせないつもりですね。そうするだろうと思っていました」
菊次郎は一瞬険しい顔になったが、すぐに軍師らしい表情に戻って命じた。
「応戦を始めてください」
旗で合図が送られ、庭園にいる市射隊が矢や石を放ち始めた。
「あそこの城壁はしっかりしています。頑丈な門を突破するしかありませんので、しばらくは持つでしょう」
市射孝貫が庭園に出向いて指揮をとっている。酒宴ではおどけているが、戦場では冷静で経験も豊富だ。陽光寺砦を守りきった守備の手腕は信用してよい。
「油玉をうまく使っていますね」
庭園の前は南国街道ですぐ向かいが武家街だ。あまり広くないので成安軍は大勢を一斉にかからせることができず、数の多さを生かしにくい。しかも水堀があって接近できるのは二つの門だけなのだ。その二ヶ所に武家街の建物の中や屋根の上から矢や石を浴びせてくるが、孝貫は投石ひもで油玉を武家街に放り込んで火災を起こさせ、攻撃側を混乱させている。
「回廊の方は大丈夫そうですね」
こちらは織藤昭恒が一千二百の指揮をとっている。昨年まで直冬の部下だったが直春直属となり、お馬廻頭の豊梨実佐の娘と結婚した。留守居の彼にかわってこの遠征に従い、主君に菊次郎の護衛を任されたのだ。
「昭恒さんも堅実な戦い方をします。心配いりません」
回廊側は投石機がある。是正もそれを分かっているから無理はしないはずだ。
「僕たちの役目は庭園からいつ撤退させるか見極めて支援することです」
その時が来たのはそろそろ太陽が西の空に傾き始めた頃だった。成安軍が盾で頭上を守りつつ破城槌を門まで運んだのだ。市射隊も矢や石を集中し油玉や煙玉をたたき付けたが、とうとう扉が破られた。
「浮き橋を用意してください」
孝貫が限界を知らせる鐘を鳴らした。菊次郎の指示で、待機していた八百人が荷揚げ堀に材木のいかだを連ねた橋をかけた。連絡や怪我人の搬送用に二本はずっとつなげてあったが、それを五本に増やしたのだ。
「合図を!」
采配台にある大きな鐘がごおんごおんと響き渡ると、庭園の中で大きな爆発音がした。黒煙がもくもくと上がり、空高く登っていく。孝貫が庭園の門の周囲や通路に積み上げた木材に油をかけて火を放ったのだ。防壁の製作過程で出た木切れや町の工房のいらない木っ端を全て運び込んである。
「火の壁で足止めしている間に撤退させます。焦らず、しかし迅速に。事前に打ち合わせた通りにやればよいのです」
庭園の背後の壁に作った木材の階段を武者たちが次々に登ってきて堀端に下り、いかだの橋を渡っていく。武者たちの叫び声や切り合う音が次第に激しくなり、近付いてくる。やがて流れ矢が階段を歩く武者に届くようになり、堀に落ちてくる数も増えた。
「市射公です」
最後に孝貫が武者に守られて階段を越えてきた。武者たちが壁の上に渡された綱を切ると、がらがらと音を立てて材木の階段が崩れ落ちた。武者たちはそれに放火し、いかだ橋を渡って突き出島に戻ってきた。
「ご苦労様でした」
菊次郎は櫓を下りて出迎えに行った。
「どれほどの損害を与えましたか」
「四、五百程度でしょうか」
孝貫は申し訳なさそうだった。
「武家屋敷の中に隠れているので、あまり矢や石が当たらないのです」
「いえ、充分です」
全軍で一万六千だからわずかな数だが、一日を稼いだことに満足すべきだろう。
「こちらは百五十ほどやられました。撤退が難しかったですね」
「無理をお願いした僕の責任です」
やむを得ないとはいえ、少なくない死傷者だ。明日からは三千二百五十でこの島を守らなくてはならない。
「敵が引いていきます」
友茂が言った。
堀側の壁を越えて出てきた成安家の武者たちは、突き出島から矢や石を浴び、今日これ以上進むのは不可能だと諦めたようだ。
「回廊の敵も撤退したみたい」
勝利を知らせる鐘が鳴り、武者たちが雄叫びを上げている。田鶴の肩の上で真白も両手をたたいていた。菊次郎はかすかに頬を崩し、すぐに笑みを収めた。
「明日はもっと厳しい戦いになるでしょう」
「でしょうな」
孝貫はところどころ黒くすすのついた顔を引き締めて頷いた。
「突撃だ! 何としてもあの関所を突破するぞ!」
「誰か国主様を止めてください!」
白馬を駆って敵に突っ込もうとした直春の前に、棉刈重毅がとっさに両手を広げて立ちはだかった。
「そこをどけ!」
重毅をはね飛ばす直前でかろうじて手綱をしぼり、直春は怒鳴った。
「俺自身が行って、幽縄軍を蹴散らしてやる!」
「ここは通せませぬ」
重毅と直春がにらみ合っていると、萩矢頼算が走って追い付いてきた。
「国主様、落ち着いてください! 無謀ですよ!」
「菊次郎君が待っているのだ!」
普段のおだやかさや余裕のかわりに、直春の表情には焦りが色濃い。いらだたしげに馬上で横一文字に振るった槍が風を切る音を立てた。
「俺が行けばみんなもついてくるだろう。数はこちらが三倍なのだ。決死の覚悟で突撃すれば敵を圧倒できるはずだ!」
「関所の守りは固いです。国主様が出ていったら集中攻撃されますよ!」
息を切らせた頼算が目配せすると、馬廻りの武者たちが直春を取り囲んだ。
「昨日の昼過ぎから攻撃を始めて今日で二日目だぞ! 急がないと間に合わなくなる。俺たちが向かうしかないのだ!」
「分かっています。私も同じ気持ちです。可能なら今すぐ駆け付けたいところです」
頼算は負けじと声を張り上げた。
「でも、もう日が暮れます。今日の戦はお終いです。砦にお戻りください」
二十騎ほどが主君の体に触れないようにしながら馬の動きを封じると、直春もさすがに槍を降ろし、空を仰いだ。太陽は湖の向こうの峰々に隠れようとしている。
「今突破しても大して進めず、すぐに野営か」
「そうです。砦に引き上げて体を休め、明日の策を練りましょう」
直春は悔しげに関所をにらんだが頷き、引き鐘を打つように命じた。桜舘軍が後退を始めると、関所を守る成安軍の矢や投石もやんだ。あくまでも封じ込めが目的らしい。
「明日は必ず突破してみせる」
味方が安全な距離まで下がったのを確認すると、直春は馬廻りに守られて砦に入った。
「申し訳ありません。門を破れませんでした」
先頭の部隊を率いていた泉代成明が戻ってきた。誰言うともなく、武将たちは軍議に使っている部屋に集まっていた。
「我ながら不甲斐ない。敵はたった三千だというのに」
木の床に疲れた様子であぐらをかいた成明は、兜を脱いで頭をかきむしった。三十を四つ越え、ますます頼もしげな偉丈夫になってきたのにらしくなく荒れ気味だ。
「成明殿のせいではない。敵が巧妙なのだ」
小薙敏廉も疲れた顔だった。
「あの壁が曲者だ」
「明告知業ですな」
萩矢頼算は感嘆半分の口調だった。
「道の片側は切り立った崖、反対側は湖面まで大人の背の二倍の高さ。その間に土俵を積み上げて壁を作り、盾と槍を並べて矢と石を浴びせてきます」
それを考えたのが知業であることを武将たちは確信していた。敵の大将は杭名幽縄だが、そんな才覚がありそうには見えない。
「通常なら門にする場所に、太い丸太を地面へ打ち込んで大人の背より高くし、土俵で補強して通れなくする徹底ぶり。打って出るつもりは全くなく、ひたすら守りを固めるだけだと覚悟を決めています。まだ二十代半ばと聞きますが、なかなかの知恵者ですね」
「敵をほめるのは癪に障るが、あれでは近付きようがありませんな」
小薙敏廉が溜め息をもらした。
「突破する道筋が見えませぬ。このままでは明晩もこの砦で寝ることになりますぞ」
「明日にはここを出る」
直春は断言した。
「沖里公が寧居の町を攻めている。一刻も早く戻らなければならない。さもなくば、俺たちはここで干上がるしかない」
昼頃、湖の対岸で手旗信号を送っている者がいた。遠くて顔は見えなかったが菊次郎の護衛の笹町則理と名乗り、是正の大軍の来襲を伝えて主人の元へ引き返していった。
軍勢が通れる道は材木山街道だけで、他の地域へ出られる分岐は寧居港のすぐそばにしかない。菊次郎が負けるか撤退すれば、直春以下八千八百はどこにも行けず、この砦に閉じ込められてしまう。
「何か策はないか。皆、知恵を貸してくれ」
直春は頭を下げた。
「頼む。この通りだ」
「お顔をお上げください」
諸将は慌てたが、気持ちは皆同じだった。
「菊次郎殿がいればな」
泉代成明がつぶやくように言った。
「こういう時こそ、彼のありがたさを実感します」
「さようですな」
敏廉が悔しげに膝をこぶしでたたいた。
「あちらも今頃苦戦しておりましょう」
口をつぐんだ三人を見渡して、頼算がこほんと咳払いした。
「とにかく、関所を破る策を考えるしかありません」
長身の頼算は胸をたたいた。
「大軍師殿ではありませんが、私が司会をいたしましょう」
直春たちは顔を見合わせ、背筋を伸ばした。
「では、状況を整理しましょう」
頼算はわざと明るい声を張り上げた。
「あの関所が破れないのはなぜでしょうか」
敏廉が真っ先に口を開いた。
「頑丈な壁がある。崩したり倒したりはできない。丸太が打ち込んである場所はやや低いが、その狭い隙間を突破するのもなかなか難しい」
成明が付け加えた。
「急斜面と湖に挟まれて道幅が狭く、一度に壁に近付ける人数が少ない。こちらは三倍いるが、戦えるのはせいぜい槍武者一千五百と弓隊一千、他は動けない。あの壁の向こうに二千がいると、とても破れない」
「なるほど。問題がはっきりしましたな」
頼算は矢を床に置いて壁に見立て、その両側に石を置いて武者を示した。色違いの帯を数本使って湖と道を描き、町と橋の位置には箸を置く。
「壁は頑丈で守りやすい。敵はそこにほとんどの武者を置いていて、まともに攻めても損害が増えるだけ。三倍の武者数がいるのに全軍攻撃ができない、ということですな」
二人が首を縦に振るのを確認し、続けた。
「ならば、敵を分散させ、側面や背後へ回ればよいのです。そうすれば数の差を生かせます」
こともなげに頼算は言ってのけた。
「関所にいる敵武者が半分の一千、もしくは五百程度に減れば、破ることは可能ですか」
成明はちらりと敏廉の表情をうかがって首肯した。
「できるかも知れない」
「ならば、その方法を考えましょう」
「いや、しかし……」
簡単に言うなという顔の敏廉を直春がさえぎった。
「待て。どうすればよい」
直春は真剣だった。
「頼算の考えを聞きたい」
仕置き奉行は床の即席地図の上で、湖の対岸に指先を置いた。
「ここにも道があります。縛池との間の丸太川にくぐり橋があり、材木山街道に出られます」
砦や町があるのは東岸だが、西岸にもそちらの山へ行くための作業用の細い道が水際を走っている。
「湖を渡るのか」
直春は唸った。
「あまり横幅はありませんので、さほどの苦労はしないはずです。関所から見えない位置で密かに渡って対岸を移動し、一気に橋を越えて背後から奇襲するのです」
「それで壁を突破するのか!」
敏廉は明るい声を上げたが、成明は眉をひそめた。
「発想はよいと思いますが、それだけでは落とせないでしょうな。そもそも、何名に泳がせるつもりですか。奇襲するなら大勢は難しいですよ」
「五百といったところか」
直春の言葉に敏廉が腕組みをした。
「その数では関所を破るのは難しいですな」
「いや、大丈夫だ」
直春の声には活力が戻っていた。
「俺が行けばよい。総大将がいると知れば、敵は一千は向けてくるだろう。その隙に壁を破ればよい」
「お待ちください」
頼算は慌てた。
「自ら別動隊を率いるおつもりですか」
「それが一番よいだろう。お前たちは俺を殺しはすまい。必死で駆け付けてきてくれると信じている」
「それはそうですが」
敏廉は渋い顔だ。
「俺が行く。寧居港へ、菊次郎君のもとへ、少しでも早く帰らなければならない」
主君の表情を見て、頼算たちは覚悟を決めた。
「分かりました。では、私はここに残り、全力で関所を攻撃しましょう」
成明は止めても無駄だと悟ったようだ。
「となりますと、もっと策が必要ですね」
頼算は青ざめて目をつむった。武者頭の誰かにやらせるつもりだったのに、大変なことになったという顔つきだ。
「こういうのはどうでしょうか」
しばらく考えて頼算は提案した。
「幽縄は大馬柵城からあれを持ち出したそうです。効果はあるかと」
直春と成明と敏廉が意見を述べ、さらに検討して練り上げ、作戦が決まった。
「そんなのに引っかかりますかな」
敏廉は最後まで首をひねっていたが、腹はくくったらしい。
「任された役割はやり遂げましょう。早速準備にかかります」
「決行は明朝だ」
直春が宣言した。
「さっさとここを出て、寧居港に戻るぞ!」
「ははっ」
成明・敏廉・頼算は主君に一礼し、急いでそれぞれの仕事にとりかかった。
その日の深夜、町の人々がすっかり寝静まった頃、直春は砦を出て関所とは反対の方向に進み、湖に沿って畑が広がる場所に出た。
「どうどう。大人しくしてくれ」
下帯一枚の直春は、夜の外出を不審に思ったらしい愛馬をやさしく撫でてなだめた。
ここだけ崖ではなく河原のようになっていて湖に降りられる。水を運びやすいので、木を切って野菜を植えてあるのだ。材木山の町に住む一千人を支える大切な畑だ。
「では、行ってくる」
「お気を付けて」
頼算は深々と頭を下げた。
直春は下帯も取って全裸になると、真っ先に水に入った。もう紅葉月、水は夏より冷たいが、気温が低いためほのかに温かく感じる。
白馬の手綱を引いて水に誘う。馬は抵抗したが諦めて主人に従い、犬かきのように泳ぎ始めた。
「行くぞ」
振り返って小声で指示する。同じく全裸の男たちが次々に水に入ってきた。馬を連れた者は手綱を引き、そうでない者は鎧や武器をのせたいかだを数人で押している。
自ら志願した泳ぎのできる五百人は、声を立てずに湖を進んだ。水に映った欠け始めて四日目の月がさざ波に揺れる。幸いなことに晴れていて、数えきれない星を散りばめた空と、それが黒く切れる山並みの形状を頼りに、対岸の谷間を目指す。そこにもやや急ではあるが湖から崖の上に登れる場所があるのだ。
「全員、いるな」
水から上がると乾いた布で体をぬぐい、手伝い合って素早く甲冑を身に付けた。馬も丁寧に拭いてやる。いかだをばらばらにして湖に流した者たちも、岸に戻って身支度を終えた。
「誰もいません」
崖の上に物見に出した武者が報告した。
「よし、登るぞ」
宵のうちに一度湖を渡って下見をしている者たちの先導で、坂を上がって道に出る。灯りはつけられないので、崖から落ちないように注意しながら、武者たちは黙々と歩いた。
凍えていたからだが温まり始めた頃、案内役が止まった。
「ここで森にひそみます」
直春は草をかき分けて木々の奥に入った。大きな岩があったので、その陰に隠れるように愛馬と共に座り込む。武者たちも集まってきて、尻を地面につけて足を抱える者、星をじっと見上げる者、目をつむって動かない者、それぞれ時間が過ぎるのを待った。馬に背中を預けて暖を取る者たちもいて、交代で場所を譲り合っていた。火を焚いて温まりたいが、見付かる危険があるためできなかった。
「朝だな」
直春は枝と葉の間から差し込む光に目を細めた。
「食事をとろう」
いかだを壊した時に全員に配った握り飯を開く。総大将の直春も同じもので、大きな三個と漬物が六枚だ。よく噛んで腹に収め、包んであった葉を捨てると、直春は立ち上がった。
「みんな、用意はいいか。そろそろのはずだ」
倉の海と縛池をつなぐ丸太川に、くぐり橋という粗末な橋が架かっている。見える範囲に成安軍はいないようだ。
「合図です」
砦の方で大きな太鼓の音が響き出した。だんだだん、だんだだんと、決めておいた通りのたたき方だ。直春は武者たちを振り返った。
「行こう。生き延びるために。仲間の元へ帰るために」
全員が力強く首を縦に振った。直春は笑みを浮かべた。
「さあ、大勝負の始まりだ」
直春は馬を引いて森を出ると飛び乗った。
「続け!」
槍を掲げて前に向け、馬の腹を蹴った。
「鬨の声を上げろ!」
「桜の御旗に栄光あれ!」
五百人が叫び、一斉に駆け出した。
「一気に橋を渡るぞ!」
封鎖される前に川を越えなければならない。
「桜舘直春ここにあり! 杭名幽縄、覚悟せよ!」
高らかに叫ぶ直春の声と武者たちの雄叫びが水面を走り、湖を囲う山々にこだまして、明るみ始めた大空へどこまでも広がっていった。
「これがあと何日続くのじゃ」
幽縄に問われ、明告知業はおだやかに返答した。
「沖里公が寧居の町を落とすまでです」
土俵を積み上げた関所の後方の采配台の上で、幽縄は床几に座っていた。
「それまで何日かと聞いておるのじゃ」
幽縄は不機嫌だった。桜舘軍が関所を攻撃してきましたと、空が白み始めたばかりの時間にたたき起こされたのだ。ところが敵は五百ほどで、遠くから矢や石を浴びせてくるだけだった。
「そう先ではありません。武者が送られてきたら直春公の封じ込めを交代し、国主代様は墨浦へ行くことができます。それまで頑張りましょう」
「頑張れと言われてものう。敵は同じ攻撃を繰り返すだけじゃぞ」
幽縄はあくびをかみ殺した。さすがに武者たちに隠す配慮はするが、退屈そうだった。軍勢に指示を出しているのは知業で、彼は見ているだけなのだ。とはいえ、ここにいる武将や武者は皆半空国に領地を持っていて、事実上杭名家の配下なので、若様である幽縄が見ていることには意味があった。
「大軍師は来ていないのじゃろう? 砦のやつらに何ができるというのじゃ」
「直春公は名将です。ご油断なさいますな」
言いつつ、知業もこの防御を敵は破れないだろうと考えていた。ここに関所を作らせたのは知業なのだ。
墨浦城の評定で半空国奪還が決定されると、知業は是正と相談して計画を詰め、材木山にやってきた。寧居の町に駐屯する桜舘軍に怪しまれぬよう、連れてくる家臣は三人だけにし、行商人の格好をして街道を歩いたのだ。宗龍と種縄の署名のある命令書を見せると幽縄は大喜びし、全てを任せてくれたので、地形を見て回って場所を選び、国主代の権限で町の人々と武者を働かせて土俵を積ませた。
「直春公は追い込まれています。寧居港が攻められていることにも気が付いているでしょう。焦って無謀な突撃をしてくる可能性があります」
「分かっておる。破られたらわしらが危ないからのう」
直春が寧居へ行って是正を撃退したら、もはやこの地から脱出するすべはなくなってしまう。それを防ぐためにも関所を通過させてはならない。
「しかし、あの守りは抜けんじゃろう。手も足も出まい。あんな攻撃ではな」
父親の種縄は半空国の軍勢を率いて幾度も戦に出ているが、幽縄は父が墨浦にいる間この国を治める役目を務めてきたので、三十を過ぎているのに戦場をほとんど知らない。本人も自覚していて知業に任せる分別はあるが、戦では何が起こるか分からないという緊張感はなかった。
「朝飯はまだかのう。腹が減ったのじゃが」
「今準備しております。もう少々お待ちください」
急いで駆け付けてきたので武者の朝食がまだだった。知業は敵の数や動きを見てしばらくは安全そうだと判断し、伝令を本陣に走らせて小荷駄に炊き出しを命じていた。
「やれやれ。今日も一日これが続くのかえ」
公家風の抑揚で小さくぼやいているが、知業は聞こえないふりをした。
「しかし、確かに敵の攻撃が弱いな」
戦いの音や鬨の声、報告される桜舘軍の様子に、知業は違和感を覚えた。一昨日と昨日猛攻して破れなかったのだ。今日はさらに強化してくると思い、早朝からの攻撃にそら来たかと思ったのだが、敵に必死さが感じられない。
「やはり信家はここに来なかったようだ。楽になってありがたいが、予想より日数がかかるかも知れないな」
事前の計画では、三日もあれば寧居砦を陥落させられると踏んでいた。材木山に来た直春軍が約九千だから、寧居港の守備武者は五千以下、是正の敵ではあるまい。しかし、信家が残っているとなると苦戦するかも知れない。新豊津城の攻防には知業も参加していたから、あの大軍師の恐ろしさはよく知っている。それでも三倍以上の数の差があり、名将是正が大将なので、きっと落とせるだろう。それまでこの関所を守りきれるはずだ。
そう思いつつ、桜舘軍の動きが腑に落ちなかった。
「昨日より攻めてきた数が少ないのが不思議だ。むしろ全軍で総攻撃してきそうなものだが」
撃退する自信はあるが、胸騒ぎがする。考えられる理由を頭の中で指を折っていると、騎馬の伝令が走ってきた。
「国主代様! 火急のお知らせがございます!」
「ここじゃ。どうしたのじゃ」
幽縄が呼び寄せると、馬から飛び降りた武者は采配台へ駆け上がり、片膝をついて言上した。
「宿陣地が襲われております」
「宿陣地を? どうやってだ?」
知業は思わず聞き返した。本陣は材木山の町のはずれにある商人の大きな屋敷だ。その背後の谷間に武者の宿所を作ってある。この関所を通過しなければそこへ行くことはできないはずだった。
「山の上の道から谷を見下ろして火矢を射てくるのです。油玉や煙玉も多数飛んできます。投石ひもを使っているものと思われます」
「なにっ!」
幽縄が腰を浮かせた。振り返ると町の方で黒い煙が立ち上っていた。
「蔵は無事かえ?」
「今のところ大した火災は起きておりません。ただ、納屋や武者の天幕が炎上しており、延焼すればもしかすると蔵にまで到達するかも知れません……」
「それはまずいのじゃ!」
幽縄の顔が青くなった。
「大船柱が燃えてしまうぞ」
国主代は武将の一人を指さして命じた。
「お主、二百、いや三百を率いて本陣に戻り、蔵を守るのじゃ!」
「お待ちください」
知業は驚いた。
「関所の武者を減らすのですか。本陣には九百がおります。小荷駄隊も一千以上いるのですよ」
幽縄軍三千のうち、宿陣地の守備は一百。朝まで関所にいた八百も、桜舘軍が少数と分かったので休息のために戻していた。
「多くは食事を終えて寝ているはずじゃ。武者が足りぬのじゃ!」
「鎧武者はあの崖を下りられません。攻め込まれることはないのです」
「もし下りられたらどうするのじゃ! 大船柱に焦げ目でもできたら取り返しがつかぬのじゃぞ!」
幽縄は叫んだ。
「すぐに行け! 決して火事を起こしてはならぬぞ!」
武将は頭を下げ、武者を呼び集めて去っていった。
「直春め! なんという恐れを知らぬことを!」
憤激する幽縄を横目に見て、知業は不安を感じていた。
「なぜ宿陣地を攻撃したのだ。兵糧を焼こうとしたのか。それともこうなると知っていて武者の移動をねらったのか」
あの蔵に安置されているものを思い出して、知業は溜め息を吐いた。
杭名家は公家の秋影家から分かれた家だ。公家政権の時代、吼狼国の八十の国にそれぞれ置かれた国主は公家が務めていて、杭名家の初代もその任を受けた。時の宗皇は信頼する側近の出発にあたり、乗り込む船の大きな帆柱に名残を惜しみ新天地での活躍と杭名家の繁栄を祈る歌を墨で書き付けた。初代は感激し、半空国に上陸すると、帆柱の墨書のある部分を輪切りにして政所に置いた。以来七百年以上、大船柱は杭名家の高貴さと権勢の象徴であり、その前を通る時は皆頭を下げてきた。成安家に攻められて軍門に下った時も、そういういわれのある家だからと国主の地位を引き続き認められ、重臣として迎えられたのだ。
「大切なのは分かるが、こうなったのはあれのせいだぞ」
押砦付近の夜戦で敗北すると、幽縄は大馬柵城に逃げ込んだが武者が集まらず、城を放棄して逃げることにした。その際、大船柱を政所から持ち出し、二十人で担ぐ輿の上に乗せて運んだが、南国街道は逃亡する武者や民でごった返しており、追撃の騎馬隊が迫っていたので裏街道を行くことにした。大きな荷物を運ぶ一行の足は遅く、桜舘軍が先に寧居港に入ってしまい、やむなく材木山に籠もることにしたのだ。
「相手に守りたいもの、奪われたり傷付けられたりしたくないものがあれば、それを脅かすことで思う通りの行動をさせることが可能だ。敵から見ると国主代様は操りやすいのだ」
知業の危惧はそこにあった。
「三百が去ってここの武者は一千八百。何事もなければよいが」
そうつぶやいた時、武者たちが騒ぎ始めた。
「敵です。湖から攻撃してきます!」
「どういうことだ」
騒いでいる方へ目を向けると、水の上を近付いてくる武者の集団に気が付いた。
「いかだか!」
倉の湖には周辺の山で切った丸太が多数浮いている。それを縄で縛って大きないかだを作り、関所の裏側へ回り込んできたのだ。盾を構え、その後ろから矢を射てくるのは、ざっと三百人ほどだろうか。
「慌てるな。岸へは上がれぬ。矢を射返し、追い払え!」
知業は落ち着いて指示した。湖面から関所まで大人の背の高さの倍ほどの崖だ。簡単には登ってこられない。成安軍は足場の安定した高所からねらうことができ、いかだの上で逃げ場のない桜舘軍より有利だ。
「横を通り過ぎて下流へ行くようです。丸太川が流れ出る辺りで上陸するつもりかも知れません」
「それは困るのじゃ」
幽縄は怒りに声を震わせた。
「宿陣地を襲われたらどうする。直春め。大船柱を焼いて杭名家の権威に傷をつけ、半空国を奪うつもりじゃな。それほど当家が憎いかえ!」
幽縄は武将たちを見回し、一人に命じた。
「三百を連れていかだを追うのじゃ。決して上陸させてはならぬぞ!」
武将が去ると、幽縄は貧乏ゆすりを始めた。
「何をしようが大船柱は焼かせぬぞ。関所も破らせぬ!」
幽縄は床几にどすんと腰を下ろした。だが、体の力を抜いた途端、馬が駆けてきて大きな声が背後で響いた。
「お伝えします! 敵襲です! 対岸から敵が攻め寄せてきました!」
「なにっ! どれほどの数じゃ?」
幽縄はびくりとし、はね跳ぶように再び立ち上がった。
「約五百です。もうくぐり橋を越えています。先頭に白馬に乗った直春公が確認されております!」
「敵の大将が自ら攻めてきたじゃと!」
幽縄は目を見張り、考え込んだ。
「敵は五百なのじゃな? 確かじゃな?」
「それで全てに見えました。夜の間に湖を渡って隠れていたらしく、後続はいないようです」
「そうか。ならばこの戦、勝ったも同然じゃな!」
幽縄はにんまりと笑い、一人の武将に高らかに命じた。
「一千を率いて直春を迎え撃つのじゃ。必ずやつを殺すのじゃぞ!」
「お待ちください!」
知業は慌てて止めようとした。
「それではここに残るのはたった五百になってしまいます。守りが薄くなりすぎます……」
「別に問題なかろう!」
幽縄はうるさそうにさえぎった。
「敵の大将を討てばこの戦は終わるのじゃ。桜舘家は直春あってこそ今の勢いがあると聞いておる。敵は五百、倍の一千で攻めれば勝てよう」
「しかし、直春公は名将、武者の士気も高く……」
「やつは本隊と切り離されて孤立しておる。敵がしぶとくとも、宿陣地に伝令を出し、寝ている武者たちを起こして加勢させれば、やつを討ち取ることは難しくあるまい。この関所はそれまで持てばよいのじゃ。武者たちは戦が終わってからゆっくり眠らせてやろうぞ」
「でしたら、せめて同数の五百にして時間を稼がせ、その間にこちらの態勢を作って包囲しましょう。間違いなくこれは敵の陽動、関所の武者を減らそうとしているに違いありません」
「何を申すかえ」
幽縄は呆れ顔だった。
「敵と同じ五百では足止めできるか分からぬじゃろう。敵の士気が高いと言ったのはそなたじゃろうが。直春め、やはり大船柱をねらっておる。じゃから危険を冒して対岸に渡り、背後に回ったのじゃ。もし大船柱を焼かれたら、我が方の武者が大いに気落ちすること確実じゃ。不愉快じゃが、目の付け所は正しいからのう」
「では、連れて行かせるのはせめて半数の七百にして、八百はここに残した方がよろしいかと」
知業は食い下がったが幽縄は聞いていなかった。
「お主、はよう行くのじゃ。必ず直春を討つのじゃぞ!」
武将は命令に従い、一千を率いて駆け足でくぐり橋へ向かっていった。
「直春を討てば半空国は回復できる。それどころか葦江国を奪えるかも知れぬ。この一連の大戦で一番の手柄はこのわしじゃ!」
幽縄は満面の笑みで再び腰を下ろした。一方、知業は戦慄していた。
「間違いない。直春公は自らおとりになったのだ。我等はまんまと乗せられてしまった」
大将を討てるとなれば、他を手薄にしても武者をそちらに集めるだろう。だが、知業たちの役目は桜舘軍の足止めだ。直春を討つことではない。
「なんという勇気だ。一番危険な役目を買って出るとは。そういう大将を家臣が見捨てるはずはない。きっとここを破って助けに行こうとするだろう」
その確信があったが、負けるわけには行かない。成安家の命運がかかった戦なのだ。
「残ったのはたった五百だが、この関所に籠もっていれば簡単には負けない。守りをしっかり固めよう」
武者が減ったため空いた穴を埋めるように移動させて配置を組み直し、攻撃に備えさせる必要がある。知業が指示を出そうとした時、武者が叫んだ。
「て、敵襲です! ふたたびいかだです!」
またもや湖をいかだが近付いてきたのだ。やはり三百ほどだ。
「先程のいかだ隊を追いかける増援か。いや、ねらいはこの関所だ!」
いかだ隊の武者たちは崖に近付くと、並べた盾の背後から投石ひもで煙玉を投げ込み始めた。
「前方の敵も近付いてきます!」
砦の方からも盾を構えた武者が関所に向かって前進を始め、次々に煙玉を投げ込んできた。
「すごい煙だ! 何も見えん!」
幽縄が騒いでいる。関所のある場所は湖と急斜面にはさまれて道幅が狭い。そこに煙玉を数百個も投げ込まれたのだ。
「目が痛いぞ! なんなのじゃこの煙は!」
「煙玉を湖に投げ捨てろ。拾って左方向へ投げるんだ!」
知業は冷静に指示した。
「油断するな! 攻めてくるぞ!」
その言葉通り、一斉に矢が関所の中に射込まれた。その数は先程の数倍はある。
「これはなんじゃ。どうなっておるのじゃ!」
「敵の数が増えているようです。陽動部隊は合わせて二千程度、まだ砦の前に六千はいるのですから」
答えながら、知業は内心いぶかしんでいた。
「どうやってこの壁を越えるつもりなのだ」
関所の壁は土俵を積んだもので、押しても倒れないし、焼き払うこともできない。真ん中の隙間は太い丸太を五本地面に打ち込んであり、大人の背より高い。
「まさか、数で押しきれると思っているのか」
武者は四分の一に減ってしまったが、五百はこの壁にびっしり張り付かせるのに十分な数だ。はしごで登ろうとしても槍で突き落とせるし、門の前で密集して立ち止まれば石や矢を浴びせるだけで死傷者の山だ。
「いくら損害を出してもよいという無茶はできないはずだ」
ここを突破したら寧居港へ行って是正と戦うのだ。できるだけ武者を傷付けたくないだろう。だからこそ、一昨日と昨日の攻撃では無謀な突撃をしてこなかったのだ。
「一体何をたくらんでいる」
敵のねらいを考えていると、壁の上の武者が報告した。
「敵が何かを運んできます! 数は二つ。大きなものです。十人がかりでしょうか。あっ、地面に置いて逃げていきます!」
「何だか分かるか」
知業は嫌な予感がして詳しい報告を求めた。
「板を重ねたもののようです。三角形でこちら側がふくらんでいます。大きさは畳三枚分くらいあります」
「盾や階段ではないのか」
首を傾げた時、桜舘軍が大きな鬨の声を上げた。
「行くぞ! 一番乗りはこの俺、棉刈重毅だ! はいよ!」
町まで聞こえそうな太い声が聞こえ、けたたましい声援に送られて、騎馬武者が一騎、高速で突っ込んできた。
「馬だと? 徒武者がはしごならまだしも、壁にぶつかるだけだぞ?」
注目していると、騎馬武者は先程置かれた三角の木の板に向かってきた。
「勢いをつける坂にしては低すぎる。大人の腰程度の高さでは大した意味はない……なにっ!」
武者と馬は最高速度に達すると、跳躍して三角板の上に飛び乗った。急に武者と馬が沈み込み、板がつぶれたかに見えたが、ばんっ、という板同士がはじき合う激しい音がして、馬が宙に浮きあがった。
「まさか、曲芸師が使う踏切板か!」
たわませた板のばねで大きく飛んだ馬は武者もろとも丸太の柵を越え、壁の内側で槍を構えていた徒武者を一人押しつぶして着地した。
「成功だ! 杭名幽縄、お命頂戴する!」
叫んで槍を振り回し、気圧された武者たちの間を駈けてくる。呆気に取られていた知業は、はっとして叫んだ。
「国主代様をお守りしろ!」
周囲の武者たちが慌てて立ち塞がろうとしたが、棉刈重毅という騎馬武者はそれをたくみによけ、あるいは槍であしらって、采配台の階段を駆け上ってきた。
「くっ、やらせん!」
知業は刀を抜き、幽縄目がけて突き出された槍をかろうじて横にそらした。
「やるな! だが、まだだ!」
騎馬武者はさらに数度槍を突き出した。大変な強力で、知業は押されて後ずさった。
「ひいっ、助けてくれ!」
幽縄が背中を向け、階段を飛び下りて逃げ出した。
「ええい、早くこの敵を追い払え!」
知業が命じると、ようやく武者が集まってきて槍を向けた。前を塞がれた騎馬武者は舌打ちし、手綱をたぐって馬を跳躍させ、着地すると回り込んで追おうとする。
「行かせるな。決して近付けてはならん!」
二十人以上が幽縄を追いかけ、武者に囲まれた騎馬武者は諦めた顔になったが、すぐににやりとした。
「だが、関所はもう落ちたぜ」
「しまった!」
国主代の悲鳴と知業の大声で総大将の危機と逃亡が知れ渡ってしまった。壁の上の武者たちが後ろを振り返っていた間に、矢の雨の支援を受けた桜舘軍の騎馬武者たちは、二台の踏切板を使って次々に丸太の柵を飛び越えていた。その二十数騎は幽縄を追わず、壁を守る武者たちを背後から襲った。
「やられた。ねらいはこれだったのか」
関所の内側は大混乱に陥っていた。投げ込まれた大量の煙玉で互いの状況が見えぬ中、総大将がいなくなり、知業の指示も正しく伝わらない。桜舘軍はそれに乗じてはしごを三十以上立てかけ、壁を乗り越え始めている。
「国主様を死なせるな!」
「落ちるなら壁の向こうにしろ!」
「煙玉を絶やすな!」
「丸太をはずして通路を開けろ!」
桜舘家の武者や武将が叫んでいる。
「これはもう無理だな」
知業は抵抗の無駄を悟った。既に一千以上が壁を越え、丸太の柵に多数の武者が群がって引き抜こうとしている。五百人が全滅するまで戦っても、直春たちの出発を一刻程度遅らせることしかできないだろう。
「敵を通してやれ! 撤収だ! 宿陣地に逃げ込むのだ!」
知業は出陣の前夜種縄の訪問を受け、幽縄と大船柱を守ってほしいと頭を下げて頼まれた。是正からもここにいる三千は貴重な戦力だから救い出したいと言われている。せめてそれくらいは果たさなければ、自分がここに来た意味がない。
「伝令を出し、直春公と戦っている者たちにも引き上げろと伝えよ。敵は追ってこないはずだ!」
直春の目的は寧居港の救援だ。幽縄や知業を討つことではない。それを忘れて目の前の敵を殺戮し閉じ込められた恨みを晴らすことに夢中になるような大将ではないだろう。
予想は的中した。知業が武者を下がらせて抵抗しない意思を示すと桜舘軍は戦闘を中止し、部隊ごとに集合して次々に街道を南へ去っていく。二千ほどが槍を構えて知業たちを警戒する中、小荷駄隊の荷車が続き、最後の部隊が通過する時、前方から白馬に乗った直春がやってきた。高名な脇差「虹鶴」と長刀を腰に帯び、手に槍を持っている。白い鎧には返り血のしみが付いていた。
「国主様、よくぞご無事で」
「成明殿、よくやってくれた! 踏切板を思い付いたのは歴戦の貴殿だからこそだ。敏廉殿もいかだの戦、見事だったぞ!」
「おほめにあずかり光栄です。国主様の武勇には敵も驚いておりましたな」
「重毅も大したものだ。一晩で踏切板を作り上げた小荷駄隊もな」
「国主様が奮戦なさっているのに、お馬廻り衆が後れを取るわけには参りませぬ」
若い武者は謙遜しつつもうれしそうだ。成明が馬を並べた。
「さあ、向かいましょう、寧居港へ」
「来る時は二日半かかりました。間に合うでしょうか」
敏廉が言うと、直春は即答した。
「大丈夫だ。俺は菊次郎君を信じている」
全く迷いの感じられない断言だった。
「きっと今頃大きな責任と不安を一人で抱え込んでいるだろう。我が軍の大軍師は大層な心配性だからな」
直春は明るく笑い、ちらりと知業に視線を向けると、武将たちと一緒に馬を走らせ、朝日を背に受けて去っていった。
「信家は直春公と親しいと聞く。友を助けるためにあんな無茶をしたのか」
知業の胸は悔しさでいっぱいだったが、自分を破ったのがああいう人物だったことに、どこか爽快さを覚えていた。




