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狼達の花宴 ~大軍師伝~  作者: 花和郁
巻の六 伸ばした手
54/66

(巻の六) 第四章 簗張曲 下

 翌日の朝が終わる頃、両軍は約束した戦場で対峙(たいじ)した。

 南北に通る南国街道上に、簗張(やなはり)村という小さな集落がある。周囲は草地とまだ水のない田んぼで、西側は切岸半島へ広がる森だ。東側、大長峰(おおながね)山脈がそびえる方に幅の広い境川が流れ、両岸に築かれた(つつみ)は周辺に木を植えられて細長い林になっている。

 村の少し南で東から来た川が北へ向きを変えていて、その岸に二ヶ所、(やな)という魚を捕るしかけが設置されている。家の屋根くらいある巨大なすのこを川に斜めに差し込んで固定し、ござを敷いて網がわりにしたものだ。川の中心の方へ板の塀を長く伸ばしてあり、入り込んだ魚は集められた急な流れに逆らえずにござの上に打ち上げられ、手づかみで捕らえられてしまう。

 桜舘軍は簗張村のすぐ前に布陣していた。数は六千四百。後方に新豊津城の天守が見えている。成安軍は向かい合う形で南側にいた。総勢二万。焦げ茶色の鎧が青天の下でそこだけ沼のようだった。


「そろったな」


 村を囲う柵のそばに並んだ投石機の前で、直春は味方の諸将を見回した。


「みんな、作戦は頭に入っているな。(かなめ)は直冬殿だ」

「必ずやり遂げます。僕が一人前の男だと証明するために」


 桃色の鎧をきしませて、十七歳の若い武将は緊張した様子だった。


「また、そんなこと言って。無茶はしないでね」


 田鶴は心配そうだが、直春は笑って励ました。


「信じているぞ。田鶴殿に君の勇気を見せてやれ」

「はい!」


 義弟に頷いて、直春は表情を引き締めた。


「では、始めようか」

「はっ!」


 武将たちは一礼し、自分の部隊へ戻っていった。直春も自身が率いる中軍へ向かい、本陣には菊次郎と田鶴、豊梨実佐が残された。警護役として棉刈(わたかり)重毅(しげかつ)がそばにいて、いざとなれば投石機担当の武者百人と共に菊次郎を守る。楡本(にれもと)友茂(ともしげ)笹町(ささまち)則理(のりまさ)蕨里(わらびさと)安民(やすたみ)柏火(かしわび)光風(みつかぜ)の護衛四人も横に控えていた。


「全軍、用意が整いました」


 武者が報告に来た。大人の背たけほどの物見台の上で、菊次郎は黒い軍配を前へ向けた。


「前進の鐘を」


 戦意を鼓舞するように大きな音ががんがんと響き始めた。桜舘軍の各部隊が成安軍の方へ進んでいく。敵部隊も大きな鬨の声を上げ、こちらに近付いてくる。


「いよいよだね」


 隣の田鶴は肩に乗せた小猿をあやしながら目は右翼の直冬隊を追いかけていた。


「存亡のかかった大勝負の始まりですな」


 返事を期待しない風の実佐の言葉に、重毅が答えた。


「当家の飛躍の扉を開く戦になりましょう」


 もう成安家の従属下ではない。泉代・市射・錦木の三家を家臣化し、宇野瀬家や蜂ヶ音家と対等の同盟を結べるようになったのだ。


「直冬さん、頑張って」


 田鶴が小さな声でつぶやいた。勝利すれば正式に求婚される。気持ちが固まったわけではないだろう。それでも、応援せずにはいられないのだ。


「僕にとっても運命の決まる戦ですね。ですが、今は勝つことに集中しましょう」


 菊次郎は目をぎゅっとつむって大きく開くと、足をしっかりと踏みしめて気合を入れた。



「作戦は頭に入っていますね」


 直冬は武者頭たちを集めた。


「倍以上の敵を長時間引き付けなければなりません。苦しい戦いになると思います。力を貸してください」

「もちろんでございます」


 副将の十杉(とすぎ)惟房(これふさ)が代表して答えた。


「直冬様の結婚がかかっておりますからな」


 笑いが起こった。まだ若い大将を武者頭たちは息子のように見守り、厳しく(きた)えてきた。


「田鶴は必ず口説き落として見せます。そのためにも、この戦に勝たないといけません」


 直冬は笑っていなかった。


「僕は最後まで諦めません。みんなを信じて戦います。みんなも僕を信じてください」


 随分大きなことを言っているが、全員が真顔で誓約した。


「どこまでもついて参ります」


 直冬は信頼した様子で顔をほころばせた。


「では、行きましょう」


 直冬は騎乗し、先頭に立った。大軍師のそばで鐘が鳴った。


「前進!」


 桃色の鎧に一千二百の(かち)武者が続く。左を見ると、味方の他の部隊も進み始めている。最も近いのは直春率いる中軍で、総大将の白い鎧が初夏の太陽を受けて輝いていた。


「敵が近付いてきます」


 斜め後ろを馬でぴたりとついてくる惟房(これふさ)がささやいた。正面に布陣していた子乗(このり)猛喜(たけよし)隊二千五百が向かってくる。戦う気満々のようだ。副将に頷いて命じた。


「横を通過する! 遅れるな!」


 直冬は叫び、馬の足を速めた。武者たちもやや早足になる。直冬隊は子乗隊を避けるように右手の森の方へ回り込もうとした。


「目標は敵本陣!」


 子乗隊を無視し、元尊のいる本隊へ突っ込もうというのだ。武者たちに緊張が走る。


「すれ違えません! こっちに来ます!」


 子乗隊が向きを変え、直冬隊を目指してくる。


「かかりましたね」


 直冬は惟房に目配せした。


「停止せよ!」


 直冬隊も子乗隊の方を向いた。


「目標変更! 至近の敵部隊を突破する!」


 武者たちの視線を浴びながら、直冬は胸を張り、深く息を吸った。


「全員、槍を構えよ!」


 自分の槍を前方に振り下ろして馬の腹を蹴った。


「突撃!」


 わあああと大声でわめきながら、直冬隊は子乗隊に向かって走った。隊列が乱れないのは訓練のたまものだ。


「突っ込め!」


 子乗隊も慌てて駆け足で向かってきたが、勢いは直冬隊にあった。


「突け! 突け!」


 一千二百は相手を中央で分断する勢いでぶつかり、二倍の子乗隊をあとずさりさせたが、すぐに食い止められてしまった。


「やはり、数が違いすぎますね……」


 激闘が始まった。一進一退、直冬軍の猛攻に子乗隊はかろうじて耐えている。


「かかれ! かかれ! 敵はひるんでいますよ!」


 直冬は声をかけて武者たちを鼓舞しながら、ちらりと後方の物見台を振り返った。七分袖の着物姿の田鶴はすぐに分かった。


「負けませんから。みんなのため、あなたのために」


 気持ちを引き締めると、惟房に言った。


「そろそろ頃合いでしょうか」


 いつの間にか優勢なのは子乗隊で、直冬隊は守る側になっていた。


「はっ、武者頭たちに指示を出します」


 事前の打ち合わせ通り、始めは右側、次いで左側、最後に直冬のいる中央が、じりじりと後退し始めた。


「敵は弱っておるぞ! もうすぐ勝負がつく! 押せ! 押せ!」


 猛喜の勝ち誇ったどら声が聞こえてくる。


「いいえ、ここからが本番ですよ」


 直冬はつぶやいた。負けそうなふりをして子乗隊を引き付けつつ、投石機の方へ下がっていかなければならない。できるだけゆっくりと、少しずつ。元尊がじれて援軍を送りたくなるように。武者たちには困難を()いることになる。


「長い長い戦いの始まりです」


 直冬は自分の馬も後退させながら、大きな声を張り上げて武者たちを励まし続けた。



『狼達の花宴』 巻の六 簗張曲の合戦図 その一

挿絵(By みてみん)


『狼達の花宴』 巻の六 簗張曲の合戦図 その二

挿絵(By みてみん)


「こちらも前進せよ」


 桜舘軍の南下を見て元尊は命じた。戦いの開始を告げる太鼓が激しくたたかれ、成安軍が進み始めた。


「作戦は完璧だ。あの通りにすれば絶対勝てる」


 味方と敵の距離が縮まっていくのを眺めながら、眼鏡の連署は八人の男が担ぐ輿(こし)の上で、真っ赤な軍配を無意識に固く握り締めていた。


「まずは横一列で進み、戦闘が始まったら次のように動いていただきたい」


 昨朝の軍議で、紙の上に木片を並べて元尊は説明した。


「この戦、ただ勝てばよいわけではありません。桜舘直春を捕らえるか、敵兵力に大打撃を与える必要があります。城に逃げ込まれたら厄介ですのでね」


 戦場の北側を杖でたたいた。


「よって、基本方針は敵本隊の包囲殲滅です」


 木片を先端で突いて動かしていく。


「直春の性格なら、本拠地の目の前の大戦(おおいくさ)では必ず一隊を率いて戦うでしょう。よって、我が方は中軍の武者数を最も多くし、敵の最多の部隊、つまり直春直率(ちょくそつ)の隊がその前に来るようにします。合戦が始まったら、中軍は敵本隊と接触後、やや下がります。押されているように見せて引き込むのです」

「その側面を他の部隊が攻撃するのですな」


 子乗猛喜が感心したように唸った。


「そうできれば最善ですが、敵は用心するでしょう。中軍はすぐに後退をやめて攻勢に転じ、直春隊を引き付けます。その間に、他の部隊が敵の右翼と左翼を打ち破ります。両側から背後に回り込み、敵全体を包囲するのです」

「そううまく行くでしょうかな。桜舘軍は守りの戦に強い。簡単には勝てませんぞ」


 進所(すすど)悦哉(えっさい)は懐疑的な表情だったが、元尊は落ち着いていた。


「そうでしょうな。一対一で正面から打ち破るのは難しいかも知れませぬ。そこで、後方の本陣から右翼と左翼に援軍を送って敵部隊の側背(そくはい)を突き、崩れたところを追い立てて陣列の背後に回ります」

「なるほど!」


 子乗猛喜がまた唸った。


「それならうまく行きそうですな!」

「しかし、敵にも作戦がありましょう。銀沢信家の知略は(あなど)れませぬ」


 進所悦哉はなおも慎重だった。


「そのためにも多くの予備兵力を持つのですよ。幸い、当方は敵の倍以上、初めから並べておくのは半数程度にし、戦況を見ながら部隊を必要な場所に追加します」


 両翼からの包囲はうまく行けば最高の策だと複数の兵法書に書かれていた。ただ、敵の動き次第で崩されやすいのが欠点だ。そこで、いくつかの実例を参考に成功しやすくする工夫をした。


「過去の記録を見ますと、失敗する場合は、包囲を崩そうとする敵の動きを止められず、どこかを突破されてしまうのです。防ぐには、予備の武者で崩れる前に援護すればよいでしょう。次々に部隊を送れば、余裕がなくなって崩壊するのは敵の方です。失敗した戦いでは、両軍の武者数に大きな差がないことが多いですが、今回はこちらがはるかに多数、数で圧倒できましょう」


 他によい案を出せる者はおらず、作戦は承認された。

 合戦が始まると、桜舘軍・成安軍それぞれ四部隊ずつは、正面の敵に向かって進んだ。最も川に近い宗速の騎馬隊は忠賢隊と、進所悦哉隊は左翼の蓮山本綱隊と、糸瓜(いとうり)当仍(まさより)隊は直春の中軍と衝突し、戦闘に突入した。ところが、桜色の鎧の若い武将が率いる敵右翼は、西の森の方へ大きく迂回し、子乗隊の横を通り過ぎようとした。


「あの武将は直冬とかいう子供でしたな。何をするつもりでしょうな」


 元尊は目を疑い、失笑した。


「まさか、たった一千二百でこの本陣をねらおうというのですか。それは勇気ではなく無謀ですぞ!」


 元尊の本隊は陣列のやや後方にいて八千を抱えている。直冬隊がどれほど勇猛でも勝てはしない。


「この前の夜襲で失敗を犯したのはあの小僧でしたな。まだ十七と聞きましたが、あれでも()りぬとはよほどの愚か者ですな」

「銀沢信家の策でしょうか」


 明告(あけつげ)知業(ともなり)が首を傾げた。


「何かねらいがあるのかも知れません」


 元尊は笑いを収め、不愉快そうに同意した。


「そうですな。不自然すぎますな」


 いくら無思慮な子供でも八倍がいる本陣に突っ込もうとはするまい。しかも(かち)武者なのだ。騎馬隊で奇襲するならまだしも、元尊には迎撃の態勢を取る十分な時間がある。


「小勢ですが、うろちょろされると邪魔ですな。あの小僧の策にはまりたくはありませぬ」


 元尊は旗信号を送らせた。


「子乗殿に迎撃させますぞ。あの部隊の相手をするはずでしたからな」


 子乗隊はすぐに向かっていった。直冬隊は突破しようと猛攻をかけたが、四半時ほどで目に見えて勢いがなくなり、ずるずると下がり始めた。次第に西の森の方へ移動し、直春隊から遠ざかっていく。


「突出していた直冬隊は、他の部隊とほぼ同じ列まで戻りました」


 宜無(むべない)郷末(さとすえ)が報告した。


「踏ん張っているようですが、さらに下がっていきます」

「子乗隊を破る策があるのかと思いましたが、正面からぶつかっただけではありませんか」


 元尊は嘲笑った。


「愚かで、しかも弱い。情けない敵ですな」

「あの部隊が何をねらったのかまだ分かっていません」


 明告(あけつげ)知業(ともなり)が言った。


「陣列の背後に抜けられると本当に思ったのでしょうか。警戒は必要と存じます」


 元尊は嫌な顔になった。


「敵の目論見が何であれ、こちらの予定を狂わせることはできませんでしたぞ」

「直冬隊が森の方へ移動し、子乗隊と共に下がっていくのは、わざとではないでしょうか。押されているふりをして、こちらの布陣を崩そうとしているように見えます」

「崩してどうするのですかな」


 元尊は不機嫌さを隠さずに尋ねた。


「分かりません」


 知業は白状した。


「過去に信家が立ててきた作戦の傾向から考えれば、この本陣を襲ってくる可能性がありますが……」

「どうやってですかな」

「それも分かりません」

「貴殿は理由も分からずに武者を不安がらせるようなことを言うのですか」


 元尊はあからさまにばかにする態度になった。


「ご覧なさい。直冬隊が離れた結果、陣列に隙間が生じていますぞ。直春の中軍の脇が丸見えではありませぬか」


 複数の部隊を横一列に並べるのは互いの側面を守る意味もあるのだ。


「大将のいる本隊のすぐ横にいた部隊をわざわざ遠ざける理由は何ですかな」


 知業は答えられなかった。


「ならば、本当に押されて下がっているのです。皆様はどうお思いですかな」


 本陣にいる他の武将たちは元尊の機嫌を損ねることを恐れて黙っていた。


「貴殿の考えに賛同する方はいないようですぞ」


 知業が黙って頭を下げると、元尊は機嫌を直した。


「要するに、当初の計画通りということですな」


 中軍の糸瓜隊三千はやや下がって直春の本隊二千を引き込んでから、攻勢に転じて足止めしている。進所隊二千八百は本綱隊一千五百と互角だ。


「子乗隊の動きが少々違いましたが、全てうまく運んでおりますぞ。このまま直冬隊を崩して押し下げれば、敵陣列の後ろに回れますな」


 余裕を見せた元尊に、知業が進言した。


「私に三千をお与えください」


 腕を伸ばして正面の方向を示した。


「直冬隊が森の方へ行ったので敵本隊の横が空きました。そこから側面を攻撃すれば必ず打ち破れます。直春公が逃げ出せば敵は総崩れになるでしょう」


 子乗・直冬隊と糸瓜・直春隊の距離が離れた。一部隊が進めるだけの空間がある。


「今をのがしてはなりません。許可をください」


 知業に()かされ、元尊は顔をしかめた。


「確かに好機に見えますが……」


 敵も味方も四部隊ずつでそれぞれ戦闘中だ。村の前の投石機の周辺に予備の武者は見えない。直春隊を救援できる桜舘家の部隊はいないように思われた。


「ご決断を。それでこの合戦は終わります」


 知業が(うなが)した時、郷末が叫んだ。


「敵の投石機が動きました」

「なにっ?」


 元尊が急いでそちらを見ると、簗張村の前にずらりと並んだ二十台の投石機が一斉に何かを高く投げ上げていた。


「小さいですな。石? いや、油玉ですか!」


 多数の丸いものは黒い煙を吐きながら一瞬空を覆い、直春隊の西側に次々に落下した。途端に激しい炎が上がり、煙がもくもくと立ち(のぼ)った。


「直春・直冬両隊の間を塞いだのですか」

「側面を突かれぬようにしたと思われます」


 元尊は一瞬(ほう)け、すぐに意地の悪い顔になった。


「明告殿、せっかくのご提案ですが、武者は預けませんぞ」


 煙を指さしながらわざとらしく丁寧な口調で言った。


「あそこは敵の投石機の正面。攻撃をまともにくらいましょう。貴殿の命を危険にさらせませぬ」


 お前の言う通りにしていたらあれを浴びていたぞ、余計な差し出口をするな、という意味だ。


「残念です」


 知業は嫌味に眉一つ動かさず、一礼して引き下がろうとしたが、元尊はにんまりして声をかけた。


「いや、貴殿の献策は無駄ではありませんでしたぞ」


 そばにいた武将の一人を呼んだ。


「一千を与えます。直冬隊の側面を突きなさい」

「はっ!」


 武将はすぐに本陣を出ていった。


「子乗隊と挟撃させ、あの部隊をつぶすのです。森の方へ回り込めば石は飛んでこないでしょうからな」


 直春隊と直冬隊の間はちょうど一部隊くらい空いていた。そこを油玉が覆ったので、桜舘軍の陣列が横へ広がったようになっている。そのさらに外側から側面をねらわせようというのだ。


「逃げる直冬隊を追撃しつつ敵の陣列の背後へ向かわせましょう」

「武者を小出しにせず、五千程度を送って一気に打ち破り、勢いのまま西側から包囲してはどうですか。投石機で多少の損害は出るでしょうが、敵は防げず、勝負がつくでしょう」


 知業は進言したが、元尊は首を振った。


「敵の動きを見極めてからでも遅くはありますまい。何か反応をするはずですからな」


 敵の大軍師がこの状況でどんな手を打つか分からない。菊次郎のことは大嫌いだが、油断ならぬ人物であることは間違いない。何が起きても対処できるように、予備の武者はまだ握っておきたかった。


「さようですな」


 元尊の言葉に一応は納得したのか、知業は口をつぐんだ。


「明告殿はまだこの合戦に反対ですかな」

「いえ、決まったことには従います」


 昨日の軍議で、知業は撤退を主張した。


「あの大軍師が挑んでくる以上、勝てる自信があるのです。合戦は危険です。攻め込んだことを詫びて和睦(わぼく)するべきです。桜舘軍は槍峰国が気になっているでしょうから、相応の人質、例えば、失礼ながら御屋形様の弟君でいらっしゃる宗速様を出せば、我等を追撃しないでしょう」


 当然、元尊は却下した。今ここで撤退するなら何のためにこの戦を起こしたのか。そんな条件をのめば宗龍に叱責され失脚するのは確実だ。


「他の武将たちも呆れておったではありませぬか。若いですな。物事はそんなに都合よくは行かぬものですぞ」


 知業は黙って頭を下げた。と、郷末の声が割って入った。


「敵の援軍です」

「どこだ?」


 元尊は頭を戦に戻した。


「簗張村からです」


 村の簡素な門から(かち)武者がぞろぞろ出てくる。知業が数えた。


「ざっと七百ですね。隠れていたようです」

「そのためにここを戦場に選んだのかも知れません」


 郷末の言葉に元尊は舌打ちした。


「数が少なすぎると思っていた。これで七千一百か。まだいるかも知れぬな」


 村から出てきた部隊は直冬隊のさらに外側、森の方へ進み、側面を襲おうとした一千の成安軍と戦い始めた。


「直冬隊を守るようです。崩れたら全軍の危機になりますから」


 知業は言った。直冬隊の東側には火の防壁があるので、新手の七百が守ったのは西側だ。投石機はたびたび油玉を補充し、炎と煙を絶やさぬようにしている。


「派遣した一千は止められました。どうなさいますか」


 知業の進言通り五千を送っていれば七百では止められず、直冬隊と一緒に押しつぶせていただろう。元尊は苦虫を噛みつぶしたような顔になった。


「少し待て」


 思案するように戦場を眺め渡した元尊は、明るい表情になった。


「宗速様はうまくやったようですぞ」


 本陣の人々は西側へ目を向けた。



 境川の近くでは、三千七百の宗速隊と一千六百の忠賢隊が戦闘中だった。

 精鋭の騎馬隊同士、激しい乱戦を繰り広げていたが、長くは続かなかった。次第に桜舘軍が劣勢になったのだ。


「押しているな。当然だが」


 勝利を確信した宗速の耳に、青い鎧の武将が大きな声で悪態をつくのが聞こえた。


「ちいっ、数の差が大きい。正面からぶつかったんじゃ勝ち目がないぜ」


 忠賢は既に敵の四騎を馬から突き落としていたが、周囲を見渡して眉をひそめている。


「いったん下がって立て直すぞ。これじゃ損害ばかり増える」


 忠賢が手を振り上げて合図すると、笛の音が高く鳴り響いた。


「後退だ!」


 忠賢隊の武者たちは一斉に戦闘をやめ、戦っていた相手と距離をとって本陣の方へ戻っていく。


「敵は逃げ出したぞ! 追いかけて一気にたたきつぶせ!」


 宗速は勝ち誇った声を上げた。攻城戦の間、騎馬隊は出番がなかった。味方の苦戦を前に何もできなかったのだ。宗速隊だけで豊津城を襲った時の負けもある。


「追え! 追え!」


 騎馬武者たちは勇躍し、鬨の声を上げて背後に食い付こうとした。

 と、また笛の音がした。


「あれを使え!」


 忠賢の声がして、騎馬武者のうち五百ほどが停止した。味方を先に行かせると、手に持っていたものを後方へ投げてきた。


「こいつは噂に聞く馬酔木(あせび)玉か!」


 馬の嫌がるにおいを出す特製の煙玉だ。それが五百個地面に転がり、もくもくと白煙を吐き出し始めた。宗速隊の馬たちはそのにおいを吸い込むと暴れ出した。


「やむを得ん。迂回しろ! どうせやつらは逃げられはせん!」


 宗速は騎馬武者たちを集めると、川の方へ大きく回り込み、右側の堤の林に沿って馬を走らせて、馬酔木玉の向こう側に出た。


「ここまでくればあまりにおわんな。敵はどこだ」


 宗速は辺りを見回した。


「いたぞ。正面だ」


 普通の煙玉もまいたらしく視界が悪いが、多数の馬の声が聞こえ、鎧武者の姿が見える。


「逃がすな! 突撃せよ!」


 騎馬武者たちは雄叫びを上げて一斉に煙の中に突っ込もうとした。そこへ、大きな鬨の声が起こった。


「なにっ、後ろからだと?」


 慌てて振り返った宗速たちの上に多数の石が降ってきた。


「柳上定恭隊、ここにあり!」


 いつの間にか初夏の青葉にまぎれる色の部隊が並んでいて、五百人以上が、おおう、と叫んだ。


「桜舘家の副軍師か!」


 騎馬武者たちがざわめいた。


「林の中に隠れていたのか!」


 緑の鎧の定恭は采配を前にふるった。


「突撃用意! 早足!」


 定恭隊の半数が槍先を向けて近付いてきた。その後ろから半数が河原で拾った石を切れ目なく投げ込んでくる。


「俺たちを忘れるなよ!」


 煙の中で声がして、正面に青い鎧が見えた。


「敵は引っかかったぞ! お前ら、逆襲だ!」


 忠賢はにやりとして先頭に立って駆けてくる。


「我等もいるぞ! 榊橋(さかきばし)文尚(ふみひさ)、見参!」


 左手からも騎馬武者が現れた。


「敵は包囲下にある! 脇を突くぞ!」


 忠賢隊と別れた分隊六百だった。


「しまった、三方からとは!」


 宗速は歯噛みした。右手は堤と林で逃げ場がない。定恭はわざと馬酔木玉を迂回させ、伏兵のいる林のそばに引き寄せたのだ。


「構え!」


 三方の桜舘軍が槍を握りしめてぐんぐん近付いてくる。


「突撃!」


 定恭・忠賢・文尚の三将が同時に叫び、二千二百が一斉に襲いかかった。


「くっ、罠にはまったか!」


 包囲と背後からの投石に動揺していた宗速隊は、たちまち混乱に陥った。


「後退だ! 逃げよ! 本陣へ戻れ!」


 宗速は不利を悟ると大声でわめきながら馬首を返した。三隊の敵と林に囲まれている。押し包まれたら全滅すらあり得る。


「逃げ延びて安全な場所で態勢を立て直せばよい」


 即断すると、全力で馬を走らせた。


「続け! 続け! 緑の部隊の横を突破する!」


 定恭隊は槍衾を作って背後を塞いでいるが、数が違いすぎる。さすがに死に物狂いの騎馬武者三千七百を正面から受け止めず、細い道を開けた。


「あそこだ! 突っ込め!」


 敵軍師がわざと作った穴だ。危険だが、他に出口はない。


「行くぞ!」


 宗速は真っ先に定恭隊の横の隙間に飛び込んだ。武者たちが次々に続いた。定恭隊は半数が槍を構え、半数が通過する騎馬武者に石を浴びせてくる。落馬する者が続出し、宗速の鎧にもかすったが、馬の背に伏せて何とか通過できた。


「走れ! 走れ! とにかく逃げるのだ!」


 宗速はまっすぐに南へ向かい、やや速度をゆるめて後続を集めつつ進んだ。振り返ると大部分は突破に成功したらしかった。


「ふう、もう安全か」


 ひたすら走り続け、本陣の間近まできて宗速はようやく馬を止めた。武者たちは皆息を切らしているが、思ったほど数は減っていない。


「敵は追ってくるか」


 振り返って川の方を眺めたが、敵の姿はない。


「こっちには来ないようです」

「そうか。賭けには出なかったか」


 追撃して本陣まで突っ込むかと思ったが、忠賢隊は一千六百、成安軍の本陣にはまだ七千がいる。宗速も総大将が危ないとなれば、必死で忠賢隊の前に立ち塞がるつもりだった。


「損害を受けたものの戦闘不能というほどではない。立て直す時間もあるようだ」


 宗速はほっとしつつ首をひねった。


「本陣を襲わぬにしても、我が隊を徹底的に追撃して戦場から追い払うくらいはしてもよいはずだ。なぜ停止したのだ」


 宗速はすっきりしないものを感じたが、今はそれどころではなかった。


「とにかく武者をまとめ、落ち着かせよう。合戦は始まったばかりだ。まだ出番はあるだろう」


 腰の竹筒から水を飲むと、口をぬぐって腰に戻し、周囲の武者に整列して損害を報告するように命じた。


『狼達の花宴』 巻の六 簗張曲の合戦図 その三

挿絵(By みてみん)


『狼達の花宴』 巻の六 簗張曲の合戦図 その四

挿絵(By みてみん)


「宗速様が負けました」


 郷末が感情のない声で事実を告げた。


「なんという……」


 元尊は「あの無能者め!」と(ののし)りそうになって、慌てて言葉をのみ込んだ。宗速は当主宗龍の弟だ。無礼な言葉は許されない。


「幸い、敵騎馬隊を振り切り、この本隊のそばまで下がることができました」

「宗速様がご無事で何よりですな」


 元尊は胸を撫で下ろした。戦死させたら大目玉を食らう。損害は思ったほどではなさそうだ。まだ戦えるだろう。


「敵の騎馬隊はどうしていますかな」

「攻めてはこず、引き返しました」


 郷末も不思議そうだ。


「馬酔木玉の壁の後方で休息しているようです」


 知業は不安そうな顔をしていた。


「陣列の一部を破ったのになぜ本陣を急襲しないのでしょうか。副軍師が自ら伏兵を率いて倍の騎馬隊を混乱させたのです。一気に勝負を決めるつもりかと思いましたが、後退させただけで満足するのは不可解です。敵の大軍師のねらいが分かりません」


 腕組みをして深刻な様子だった。


「見えていないものがあるのかも知れません。きっと何かをねらっているのでしょう。ですので」


 と言って顔を上げた。


「私に四千を預けてください」


 知業の口調には強い決意が表れていた。


「今度は川の方へ向かいます」


 定恭隊に目を向けた。


「敵の副軍師の部隊六百が、進所隊に接近していきます。側面を襲うつもりかも知れません。追い払い、追撃して敵陣列の背後へ回ります」


 今度は東へ視線を向けた。


「また、二千を森の方へ派遣しましょう。我が方の一千を迎え撃った七百の敵を挟撃し、直冬隊の側面を襲って崩します。私の隊と共に左右両翼から一気に敵を包囲しましょう」


 今こそ元尊の提案した作戦を実行する時だというのだ。


「銀沢信家は何か目論んでいる様子です。それが発動する前に勝負をつけるべきです。軍議でおっしゃったようにこちらは武者が倍以上、いかな大軍師と言えど数で押されればどうしようもありますまい」


 元尊は考え込んだ。が、すぐに首を上げた。


「よろしいでしょう。明告殿に一千を与えます。森の方へは三千を派遣しましょう」

「お待ちください……!」


 驚いて反論しようとした知業をさえぎり、元尊は理由を述べた。


「敵の総武者数は約九千。簗張村から出てきた七百と副軍師隊を合わせれば七千七百。あと一千程度は隠れていてもおかしくありませぬ。ゆえに、その倍以上の三千を派遣すれば、敵の新手が現れても前進を阻むことはできず、敵本隊の包囲がかないましょう」


 直冬隊はますます下がり、既に油玉の防壁より後ろにいる。だが、投石機は時々油玉を飛ばして火と煙を維持し続けているので、直春隊に向かうには直冬隊を崩すしかない。


「貴殿のおっしゃるように信家のねらいが分かりませぬ。ゆえに、本陣の武者をあまり少なくできませぬ。四千と二千を出せば、本陣に残るのはたった一千。予備の武者を使い切るのは危険すぎますな」


 知業は困惑した表情になった。


「ですが、私に下さるのが一千では敵の陣列を突破して背後に回るのは困難です。副軍師は戦上手と聞きます。打ち破るには二千以上必要です」

「いいえ、これでよいのです」


 元尊は素っ気なく言った。


「川側の敵は騎馬隊一千六百と柳上隊六百。どちらも精鋭で宗速様でも勝てませんでした。そちらは陣列を維持して抑えるにとどめ、攻めるのは森側でしょうな」

「作戦を崩すのですか」


 知業は驚いて声が大きくなった。


「崩すのではありませぬ。わずかに修正するにすぎませぬよ」


 分かり切ったことを言わせるなと元尊の顔に書いてあった。


「武者が足りないのです。両方に少しずつ派遣するより、片方に大きな兵力をたたき付けて打ち破る方が確実でしょう。ねらうなら、崩れかかっている直冬隊です」

「よく支えているように見えますが」

「しかし下がり続けていますぞ。子供があの状況から部隊を立てなおすのは不可能でしょう。そこへ更に三千を追加するのです。川側は最小限の武者で陣列を維持し、包囲された直春隊が壊滅したら、逃げる残りの敵を追撃してもらいます」

「それでは包囲が完成せず、直春公を取り逃がす可能性があります。始めの作戦通り、両翼から包囲する方がよいのではありませんか」


 危ぶむ思いが知業の口調に出て、元尊は顔をしかめた。


「敵本隊の包囲には三千で十分でしょう。子乗隊もいるのですよ」

「しかし、一千では川側が手薄になりすぎます。敵騎馬隊に突破される可能性があります」

「青峰隊には宗速様を差し向けます。貴殿は進所隊の側面を守り、柳上隊の相手だけすればよいのです」


 知業に手柄を立てさせたくないのだ。


「柳上隊はたった六百。一千は倍近い。十分でしょう。無理に勝とうとせず、陣列のこちら側へ出てこぬように抑えてくださればよろしいのです」

「では、子乗隊の前進をやめさせてください。宗速様が部隊を立て直し、三千の新手が到着するまで待ちましょう」


 元尊は片方の眉を上げた。


「優勢なのに停止させろというのですか」

「突出しすぎて全体の陣形が崩れかかっています。青峰隊を宗速様が、副軍師隊を私が抑えた上で、全部隊が一斉に攻勢に出るべきです……」


 なおも言いつのろうとした知業に向けて、元尊は真っ赤な軍配をいらだたしげにひらひらさせた。


「子乗殿を止めたら直冬隊は息を吹き返し、当方の勢いは失われますぞ。もうすぐ直春隊の背後に回れるのです。むしろ直冬隊をどんどん押し下げて敵本隊に向かってもらうべきでしょう」

「しかし……」


 知業は口ごもり、意を決した風に言った。


「この戦は必ず勝たなければなりません。負けたら大変なことになるからです。私も微力ながら協力したいのです。氷茨公の作戦も分かりますが、私の提案を受け入れていただけませんか。全員で力を合わせて勝利を得ましょう。お願いいたします」


 知業は頭を下げた。


「だから貴殿の言う通りにしろと? 差し出口がすぎますな」


 元尊は冷ややかに言い放った。


「もう決めたことです。総大将はわたくしですぞ。貴殿は命令通りに動いていればよいのです!」


 そばにいた武将に命じた。


「三千を率いて森の方から敵本陣を目指しなさい」

「はっ!」


 武将は頭を下げて去った。


「明告殿もよろしいですな」

「かしこまりました」


 知業は納得していない様子だったが一礼し、一千を連れて本陣を離れていった。


「これでよい。わしの作戦は完璧なのだ。うまく行くはずだ」


 元尊は(ひと)()ち、腹心に顔を向けた。


「何か言いたそうだな」


 郷末は首を振ったが、元尊は誰にともなく釈明した。


「明告殿は確かに頭が切れる。だが、まだ若い。こたびの出陣でも大した働きはしておらぬ」

「城攻めの際、あの方のおかげで損害を抑えられたことが数度ございました」

「そうだったかな」


 元尊はわざととぼけた。


「だがな、豊津城が落ちなかったのはあやつらのせいだぞ」


 三度に渡る敗退を思い出し、元尊は苦い顔になった。


「外郭が水没した時は、子乗殿が配下の武者の大部分をあの中に集めていたせいで、攻撃の続行が不可能になった。橋を渡ったのが半数程度なら、あれほどの混乱にはならなかったはずだ」


 怒りを冷まそうとするように、真っ赤な軍配で顔を(あお)ぎ続けていた。


「水門櫓でも、敵騎馬隊の逆襲を受けたのは進所殿の油断のせいだ。攻めていけるなら敵も出てこられるに決まっているのに、無様なほどのうろたえぶりだった。糸瓜殿もあの時は呆気なく部隊が崩壊した。他の時は堅実にやっているが、大した戦果はない。明告殿も、大手門を攻めた時は配下をまとめて引き上げるのが精一杯で、他の部隊を助ける余裕はなかったではないか」


 元尊はいらいらと輿の上であぐらの膝をたたいたが、担ぐ八人は聞こえないふりをしている。


「つまり、あの城を落とせなかったのは、あやつらがへまをしたせいだ。わしの作戦は間違っていなかった。各部隊がもっとうまく動いておれば、落城した可能性は高い。大体、先遣隊の宗速様が途中でもたもたせずに城へ直行していれば、あっさり落ちていたはずなのだ」


 言葉は次第に早く大きくなっていったが、宗速を罵る時だけはやや小声だった。


「わしの作戦は完璧だった。半年かけて()りに練った策だ。全てうまく行くはずだったのだ。それを配下の役立たずどもと増富家のうつけ者に台無しにされてしまった」


 郷末は同意も否定もせず、黙って聞く姿勢をとっていた。


「軍議でも戦場でも、明告殿や他の者たちはわしの作戦に不満を漏らし、口を出して乱そうとする。あやつらはおのれの役目を満足に果たすのが先だ。無能者ほどあとから作戦が間違っていたなどと言って責任転嫁したがるものだ」


 輿の膝元に置かれた索庵の遺した兵法書を郷末はちらりと見た。


「わしは連署だ。この戦だけでなく、巨大な当家の全体のことを考えねばならぬ。それどころか、天下の全てに思いをめぐらせ、はるかな都の情勢や吼狼国の行く末まで考慮に入れねばならぬのだ。天下最大最強の探題家の筆頭家老として、幼い頃よりそう教えられ育てられてきた。それがやつらには分からぬ。自分の担当場所だけ見ていればよい者たちに、わしがどれほど苦労し、先々のことに頭を悩ませているか、想像もできまい。あやつらの苦労など大したことはない。誰よりもわしが一番苦労しているのだ。直春の小僧は天下統一などと言っているらしいが、どうせ目先のことしか考えていまい。大軍師や副軍師の小僧どもも同じだ。視野の広さや背負っているものの重さが全く違うのだよ」


 ほとんど叫ぶように元尊は言い切った。


「わしは何百年も続き探題家と血のつながりが濃い名門家老家の当主だ。よい師について学び、教養もある。特別なのだ。民とは違う。浪人上がりの直春とも違う。大軍師の小僧の親は田舎の商人にすぎず、武家ではない。俺とは身分や育ち、生まれ持ったものが違うのだ。天下統一はわしのような選ばれた者にこそ期待され、実行可能なことだ。その自覚と誇りがあるからこそ、安楽な生活を送れるのに、困難な大事業に乗り出したのだ。だから、わしは負けるはずがない。あんな小僧どもには決して負けるはずがないのだ」


 ふうと大きな息を吐いた元尊に、郷末は竹筒を差し出した。元尊は水をごくごくと飲むと、投げ返した。


「要するにだ。わしの言う通りにしていればよいのだ。わしの作戦は完璧で、修正する必要は全くない。現に今のところ大きな問題もなく予定通りに進んでいるではないか。文句を言わず、自分の役目に集中せよということだな」


 郷末は竹筒を受け取って、数歩下がった。


「さて、敵がどう動くかだ」


 元尊は輿の上で立ち上がって戦場を眺めた。


「大軍師の小僧め、このままならわしの勝ちだぞ。この状況をどうする。いまさら打てる手もないと思うがな」


 本陣に残った武者は三千だ。一千は守りに残すとしても、まだ二千を動かせる。


「左翼か右翼か、崩れた方に最後の予備武者を投入すれば戦は終わりだ」


 豊津城の威容はこの戦場からもよく見える。想像していたよりずっと立派な城だった。落としたら城主になって、都へ上る足がかりにしてもよいなと元尊は考えた。



「青峰様と副軍師様は、見事敵騎馬隊を撃退しましたぞ」


 棉刈(わたかり)重毅(しげかつ)は感嘆していた。


「あの二人はさすがです。心配はしていませんでした」


 菊次郎は答えつつ、内心ほっとしていた。信じていたのは事実だが、何が起こるか分からないのが戦だ。うまく行ってよかった。


「定恭さんには敵を食い止めてもらいます。忠賢さんは出番に備えて休憩ですね」


 定恭隊は本綱隊と戦闘中の進所隊の側面をねらう動きをしたが、これはおとりだ。案の定、成安軍は一隊を援護に派遣してきた。


「一千ほどですな。副軍師様の隊の二倍ですが、大丈夫ですかな」

「問題ありません。攻めるにも抑えるにも中途半端な数です。定恭さんがうまく相手をするでしょう」


 定恭隊は六百、副軍師の知謀を考慮に入れると、完全に抑えるにはもう五百は欲しいところだ。打ち破るつもりなら二千は必要だろう。


「元尊は本陣の武者を減らしたくなかったのだと思います。一気に大兵力を投入して勝負を決するのではなく、様子を見たようですね」


 四隊並んでいたうちの一つが下がり、川や林と進所隊の間が空いた。そこを埋めようとしたが、武者数をけちったのだ。


「臆病なのですな」

「そういう見方もできますが、慎重な敵の方が戦いづらいですよ。もっと出してくれると期待していました」


 本陣にまだ三千もいる。あれを吐き出させないといけない。


「明告隊は副軍師様の六百に襲いかからず、停止しましたぞ」

「こちらに策があると見て警戒しているようです。何かあればすぐに後退できるようにしつつ、森側で優勢になれば攻撃してくるでしょう」


 しばらくは川側では激しい戦闘や変化が起きないということだ。


「大軍師様の作戦がこれで実行できますな」

「そのようですね」


 このあとの手順を頭の中で確認していると、田鶴が袖をぐいっと引っ張った。


「菊次郎さん、こっちも心配してよ」


 田鶴は森の方ばかり見ている。直冬隊は倍の子乗隊に押されて下がり続けていた。油玉で作った防壁の横を通り過ぎ、どんどん投石機の列に近付いてくる。


「武者たちが疲れておりますな」


 重毅も心配そうだ。


「見るからに勢いがなくなっております」

「よく持っていますね」


 菊次郎は冷静にほめた。


「倍の敵と戦うだけでも体力気力両面で厳しいものです。その上、押されているふりをして少しずつ後退しなければなりません」

「あれはふりじゃないよ。本当に負けそうなんだよ!」


 田鶴は肩に乗せた小猿の足をきつくつかんではらはらしている。


「ぎりぎりのところで踏ん張っているようです。支えているのは直冬さんです」

「男を見せるとおっしゃっておられましたからな」


 重毅は気持ちは分かるという顔だった。直冬は馬に乗って走り回り、武者たちに声をかけ続けている。その声が物見台までずっと聞こえていた。


「国主様や忠賢様なら分かるけど、直冬様がここまで粘り強いとは正直思わなかったな」


 則理が失礼なことを言った。安民は感動している。


「武者の心をつかんでいるのですね。名将の(うつわ)かも知れません」

「俺は驚かない」


 光風が言い、友茂も同感らしい。


「当家の存亡のかかった合戦で、国主様は直冬様に一部隊を任せ、重要な役目を与えました。菊次郎様も反対なさいませんでした。それだけでも(あなど)ってはならない武将だと分かります」

「ですが、氷茨公は直冬様の部隊は弱いと考えているようですな。それは国主様と大軍師様も侮ることですぞ」


 重毅はむしろ愉快そうだった。


「油断は最も(いまし)めるべきことですな。敵を侮ったら負けますぞ」

「そうですね。負けますね」


 友茂もうれしそうだった。


「直冬様ならやれると思われた国主様や菊次郎様も、それに応えている直冬様もすごいですね」

「直冬さんは始めから弱くないよ!」


 田鶴は怒っている。


「面白がってないで助けてよ! もう見てられないよ!」

「確かにまずそうですな。何か手を打った方がよろしいのでは」


 重毅も言ったが、菊次郎は頷かなかった。


「作戦には順番があります。それまで頑張ってもらいましょう」


 直冬の桃色の鎧は目立つ。馬上で自ら槍を振るって戦っているが、肩で息をしているようだ。


「鬼!」


 田鶴は泣きそうな顔だ。


「直冬さんが心配ですか」

「当たり前でしょ! わざわざ聞くこと?」

「でも、結婚したらいつものことになりますよ。出陣するたびに」


 意地悪な言い方だと思ったが、敢えて口にした。


「求婚を受け入れるつもりならですが」


 田鶴はにらむような目つきで菊次郎を見た。


「結婚してもいいの? そうしてほしいの?」


 きつい言い方の中に不安がまじっている。菊次郎は一瞬ためらい、腹をくくって答えた。


「お似合いだと思います。きっと幸せになれますよ」


 田鶴は悲鳴を上げそうな顔をしたが、唇を固く結んでこらえた。


「それが答えなんだ。じゃあ、あたしの邪魔、しないでよ!」


 田鶴は菊次郎の袖から手を放し、顔を食い入るように見つめると、腕で目をぬぐって身をひるがえした。


「直春さんのところへ行ってくる!」


 物見台を駆けおり、小猿を肩に乗せて、中軍を目指して走っていった。


「よろしかったのですか」


 重毅が尋ねた。


「いいのです。これで」


 菊次郎はこぶしを固く握った。いつかこうなると分かっていたが、はっきりさせないできた。答えは最初から変わっていないので後悔はない。田鶴の悲しむ姿を見たくなくて明確に告げずにいたのだ。


「今でよかったと思っています」


 田鶴は直冬を助けにいった。それが菊次郎にも田鶴にも直冬にも救いになるだろう。


「直冬さんは大丈夫ですよ、田鶴」


 確かに危なそうに見える。子乗隊を引き付けるためとはいえ、いきなり突撃をかけたのは驚いた。でも、直冬は負けないだろうと思う。


「軍議の時も、籠城でも、夜襲でも、あんなに一生懸命でしたから」


 全ては田鶴に求婚するためだったのだ。それを知って、菊次郎は衝撃を受けた。自分に欠けていたもの、雪姫との仲が進展しなかった理由を突き付けられた気がした。


「大鬼一臣を笑えませんね」


 だからこそ、心から言える。

「直冬さん、頑張って下さい。あと少しです」


 つぶやきに護衛四人が振り返り、やさしい笑みを浮かべた。


「さあ、そろそろですね」


 菊次郎は気持ちを切りかえて戦場を見渡した。定恭隊は素早く後退し、馬酔木玉の煙と林を両側面の守りに利用して明告隊の行く手を塞いでいる。本綱隊・直春隊は同じ敵とずっと互角に戦闘中だ。直冬隊の側面を守る実佐隊七百は一千の敵を食い止め、直冬隊と速度を合わせてゆっくり後退している。多めに持たせた三角菱を森側にばらまいていたので、 敵本陣から分かれた三千は迂回せねばならず、すぐには実佐隊の側面を突けないだろう。


「そういえば、あれはどういう意味だったのでしょうか」


 簗張村へ武者を連れにいった実佐は、出撃する時菊次郎たちの前を通りながら奇妙な表情をしていた。何か言いたそうに思われたが、そのまま行ってしまった。


「戦にかかわるような重大事なら伝令をくれたでしょうが」


 そう思いつつ、何があったのだろうと首を傾げた時、成安軍の陣営が騒がしくなった。伝令が走り回っている。


「随分慌てておりますな。もしや……」


 重毅は期待する顔だ。


「策にかかってくれたようです。では、決着をつけましょうか」


 菊次郎は例のものを村から運ばせるように重毅に指示した。


『狼達の花宴』 巻の六 簗張曲の合戦図 その五

挿絵(By みてみん)


「なにっ、敵の新手三千ですと?」


 元尊は思わず輿の上で立ち上がった。本陣に走り込んできた宿陣地からの伝令の報告だ。


切岸(きりぎし)半島の南側、三郷(みさと)海岸に楠島水軍の船が十五隻現れて上陸させました。市射家・錦木家・泉代家ののぼり旗を立てております。ねらいは我が軍の宿陣地と思われます」

「守りに残したのはたった一千。これはまずいぞ」


 元尊は衝撃でよろけ、慌てて体を起こした。


「数が合いません。敵の総数は約九千です」


 郷末が冷静に指摘した。


「その三家の武者は槍峰国にいるはずです。偽兵(ぎへい)(けい)かも知れません」


 小荷駄隊などが偽装している可能性があるというのだ。


「分かっている。分かっているが……」


 元尊は輿の上をうろうろと歩き回り、決断した。


「宗速様に伝令を。部隊を二つに分け、片方を宿陣地に戻らせていただきたいとお伝えせよ」

「よろしいのですか」


 やめろとはっきりは言わないが、郷末は反対のようだった。


「もし半分でも本物の武者なら、米蔵が危ない」


 先の夜襲で成安軍は兵糧の三分の一を失っていた。


「貴重な兵糧をもう一俵たりとも焼かれるわけには行かぬのだ」


 元尊が合戦を選んだ大きな理由の一つが兵糧の不足だった。焼けた分を墨浦に要求しても届くとは思えない。文島が占領されたので大門国(おおとのくに)の守りを固めようとしているのだから。

 豊津城を落として終わりではないのだ。増富家が直春との合戦で弱っている今こそ、茅生国まで制圧する好機だ。そのためにも兵糧がいる。


「急げ。二千を向かわせよ」


 伝令が出されたが、拒否の返事を持って帰ってきた。何度か武者が行き来したあと、宗速は渋々承知し、騎馬隊の半数が戦場を去っていった。


「残ったのは一千五百。それだけあれば、敵の騎馬隊を抑えることはできる」


 宗速は行かなかったので、戦闘力の大きな低下はないだろう。


「もうすぐだ。もうすぐ勝負がつく」


 明告隊など川側の三隊はほぼ同じ位置にいる。子乗隊は直冬隊を押し下げているがゆっくりだ。唯一、三千だけが戦闘状態になく、どんどん移動していた。


「あれが敵の七百と直冬隊を崩せば勝利なのだ」


 数度咳払いして呼吸を落ち着かせ、腰を下ろそうとした時、戦場に大きな鐘の音が響いた。


「敵の大軍師か!」


 音は投石機の前の物見台の辺りから聞こえてくる。


「何か来るのか……」


 周囲を見回した元尊に、武者が報告した。


「敵の新手です!」

「またですか! どこからですか!」

「西の森です!」


 戦場よりずっと南、直冬隊や子乗隊からかなり離れた場所に、約六百の騎馬隊が現れた。


「旗印は錦木家です」


 草地に出た騎馬武者たちの先頭で若い武将が槍を振り上げた。


「我こそは錦木仲載! 氷茨元尊の首、俺がもらうぜ!」


 素早く隊列を組み、成安軍の本陣の方に進んでくる。


「宗速様に行っていただきましょう。一千五百全てで向かってくださいとお伝えしなさい」


 元尊は指示した。郷末が小声で指摘した。


「青峰隊の相手をできる者がいなくなりますが」

「敵は少数だ。一気に蹴散らして戻ってくれば問題ない。青峰隊は陣列の向こうですぐには出てこられないのだぞ」


 川から森まで、両軍の部隊が横一列に並んでいる。それを迂回しなければ元尊の方へ来られないのだ。

 命令を受けた宗速は即座に行動を開始した。仲載隊は森のそばで停止し、待ち構える様子だ。


「宗速様なら三分の一の相手など簡単につぶしてくださる。青峰隊の動きに注意しておこうか」


 言って座ろうとした時、また鐘が鳴った。


「今度は何ですか!」

「敵の新手です! 旗印は槻岡良弘、桜舘家筆頭家老です!」

「駒繋城の武者ですか」


 宇野瀬領から帰還した良弘が城の武者の一部を率いて豊津城の方へ向かったことは、隠密が知らせてきていた。


「どこに現れましたか」

「川向こうの森です!」


 元尊は呆気にとられ、上げかけた腰を下ろした。


「ならば問題ないでしょう。川を渡れるはずがありません」


 この季節は雪解け水で水量が多く流れが速いのだ。


「何か方法があるのかも知れません」


 郷末が言った。


「どんな方法だ。漕ぎ出すのはできても岸に上がるのは無理だぞ」


 元尊の豊津港攻撃作戦も流れのゆるやかな湖まで行ってから港へ向かうことになっていた。


「漁師用の小舟を使うようです」


 武者二十人で一隻を抱えて水に浮かべているという。こちらの岸には川に沿って堤と林があるが、ところどころ切れていて河原へ出られる道がある。そこから良弘隊の様子を見て旗信号で伝えてくる。


「舟だろうが、上陸できるはずが……」


 言いかけて、元尊は固まった。


「郷末、ここの地名は確か……」

簗張曲(やなはりくま)です」

「そうか、簗か!」


 川の中に斜めに突き刺さっている大きな屋根のようなすのこだ。そこに舟をつけるつもりなのだ。


「まずい。ねらいはこの本陣だ」


 元尊はそばにいた武将に命じた。


「一千を与えます。簗から来る敵を迎撃してください。ここに近付けてはなりませぬ」


 やがて物見から報告があった。良弘隊は小舟で川を横切り、簗に乗り上げている。降りたら舟を持ち上げて川に流して岸に移動し、そこに次の舟が入ってくるという。


「大丈夫だ。一隻二十人でも十隻で二百人。この二日で船をたくさん集めるのは無理だ。せいぜい五百といったところだろう」

「しかし、我が本陣の武者がまた減りました」


 郷末は思い出させるように言った。


「現在二千です。さらに何かしかけてきましたら、少々まずいことになりましょう」


 元尊は一瞬動きを止めたが、すぐに笑った。


「敵の新手二つで一千一百。合わせて八千八百になった。もう伏兵はいないだろう。もはや大したことはできぬはずだ」


 断言したが、わざと強く言うことで本当にそうなってほしいと願うような口調だった。


「そうなのだ。これ以上は武者がない。何もできるはずがないのだ……」


 つぶやいた時、三度目の鐘が鳴った。


「まだあるのか!」

「いよいよ奥の手でしょうか」


 愕然とする元尊のそばで、郷末は口元に薄い笑みを浮かべていた。



「元尊は本陣の武者をほとんど吐き出しました」


 楡本(にれもと)友茂(ともしげ)が言った。


「騎馬隊も遠ざかったね。半分は宿陣地へ、残りは仲載様の方へ」


 笹町(ささまち)則理(のりまさ)は憐れむような口調だった。


「水軍が運んだ新手に驚いたのでしょう。夜襲されたあとですから」


 これは蕨里(わらびさと)安民(やすたみ)だ。柏火(かしわび)光風(みつかぜ)が無言で頷いた。


「全部小荷駄隊と知ったら怒るでしょうなあ」


 重毅は愉快そうだ。友茂は控えめに同感を示した。


「その可能性は考えても、もしやと思うと無視はできないですね」

「狢河原では背後の砦を落とされたしね」


 則理は辛辣(しんらつ)な口調だ。あの戦に複雑な思いがあるのだろう。


「敵本隊は二千。攻めるなら今ですね」


 安民が言い、光風も同意見のようだ。


「では、そうしましょう」


 菊次郎は背後にいる武者に尋ねた。


「用意は?」

「終わっております」


 先程村から大きな樽が運び出され、投石機に設置された。


「鐘を鳴らしてください」


 菊次郎は黒い軍配を高く掲げた。物見台の前に並んだ五つの大きな鐘がぐわんぐわんと響き渡った。戦場のあちらこちらから視線が集中するのを感じながら、大声を出した。


「投擲!」


 軍配を前に振り下ろすと、二十台の投石機が次々に回転した。ぶうんという風を切る大きな音がし、一台につき一つ、大きな樽が宙へ投げ出された。くるくる回転しながら高く上がった樽は、勢いよく落下し、ばしゃん、がりんと激しい音を立てて壊れ、輝くものを辺りにまき散らした。油玉が燃えているのと同じ場所で、巻き上がった大量の灰の中に、何かが陽光を反射してきらめきながら広がった。


「ものすごい煙ですね。さっきまでの数倍は出てますよ」


 興奮気味の友茂に、則理は付け加えた。


「それだけでないよ。色が変わった」

「白いですね。油玉は黒かったのに」


 安民は当然理由を知っている。重毅もだ。


「水をまくとこういう煙が出ますな」

「半分は氷と雪」


 光風が独り言のように訂正した。夜の間に豊津城の氷倉から村に運ばせ、とけないように地下の穴で保存していたのだ。


「要するに、火を消したわけですね」


 友茂がまとめ、菊次郎を見た。


「全部は消せません。その必要もありません。真ん中だけでよいのです。通るのは人ではありませんから」


 火と煙で築かれていた油玉の防壁に一本の細い通路ができたのだ。直春隊と直冬隊の間、敵本陣に近い場所に。

 投石機は街道の東側と西側に十台ずつ置かれていた。それぞれの玉が落ちる場所は少し離れていて、油玉の防壁はひょうたん型になっていた。その中央のへこんだ部分の火を消したのだ。

 菊次郎は物見台の上で川の方を向いた。軍配を大きく振って合図した。


「お前ら、ようやくお待ちかねの時間だぞ!」


 忠賢の声が聞こえてくる。


「道は大軍師が作った。まさか、怖気付(おじけづ)いたやつはいないよな?」


 騎馬武者たちが笑い声を上げた。


「よし! なら行くぞ!」


 忠賢は槍を高く掲げると、大声で叫んだ。


「俺について来い! 一気に勝負をつけるぞ!」


 いうなり、馬を走らせた。一千六百が続いた。


「息を止めろ! 一瞬だけだ!」


 忠賢は本綱隊と直春隊の背後を疾走し、菊次郎たちの物見台の前を通り過ぎ、雲のような煙のかたまりに慎重に突っ込んだ。足元に丸い玉がたくさんあるので、馬が転ばないようにするためだ。油玉の細かな灰を蹴散らしながら、騎馬武者たちが次々に白煙の中へ消えていく。


「隊列を組め!」


 すぐに向こう側に出て攻撃隊形を取る。


「文尚、右から回り込め!」

「はっ! 六百、ついて来い!」


 二隊に分かれた騎馬隊は、雄叫びを上げながら、元尊の本陣二千に二方向から突っ込んだ。


「迎撃せよ!」


 敵陣で叫ぶ声が聞こえたが、すぐに怒号と悲鳴にかき消された。数はやや劣るとはいえ、精鋭騎馬隊の強襲を受けたのだ。あっという間に元尊の本陣は大混乱に陥り、他の部隊に指示を出せる状態ではなくなった。


「敵の本隊をつぶしましたね」


 友茂が体を両腕で抱えている。総毛立ったようだ。


「元尊公の命令はもう届きません。これで勝ちでしょうか」

「いえ、まだです」


 菊次郎は田鶴の姿を探していた。


「本隊を崩しても、他の部隊が負けてしまっては意味がありません」


 戦場で乙女は目出つ。その動きを追いながら、菊次郎は命じた。


「重毅さん。ここはもう安全です。予定の行動をしてください」

「はっ!」


 投石機担当の百人を連れて、重毅は物見台を離れていった。


「きっと間に合います。直冬さん、見事でした」


 つぶやきながら、菊次郎は微笑んでいた。



「こんなはずでは……」


 元尊は輿の上で呆然としていた。

 白煙を突き抜けて次々に桜舘家の騎馬武者が現れる。素早く隊列を整え、青い鎧の武将を先頭に向かってこようとしていた。


「お逃げください」


 郷末が言った。


「ここは危険です」

「逃げるだと!」


 元尊は我に返った。


「できぬ! それだけはできぬ!」


 反射的に否定した。


「ここで逃げたらわしは破滅だ! 御屋形様に決して逃げぬと約束したのだ!」

「ですが、すぐに敵がここへ来ます」


 青峰隊は少し手前で二隊に分かれた。正面と左手の二方面から挟み撃ちにするつもりだ。


「そうだ! 宗速様を呼び戻せ! 騎馬隊なら間に合うはずだ!」

「無理です。錦木隊に尻に食い付かれて苦戦しております」


 忠賢隊の動きを見て本陣へ引き返そうと反転したところを、すかさず仲載が急襲したのだ。


「ならば、他の部隊はどうだ。簗の方へ向かった一千は……」

「既に槻岡良弘隊五百と交戦中です。引き返そうとすれば、やはり追撃されるでしょう」

「明告殿はどうだ。副軍師隊を攻撃せず、勝手に停止していたはず。こういう時こそあやつが働くべきだろう!」

「簗に上陸する動きに気付き、こちらへ戻ってこようとしましたが、敵の副軍師隊が石を投げ付けて背後を襲ったようです。引き離してここまで来るのは困難でしょう」


 郷末は控えめに付け加えた。


「二千以上を与えていたら、半数を抑えに残して明告殿は本陣に戻れたかも知れません。しかし、一千では副軍師の相手で精一杯のようです」

「ええい、どいつもこいつも役立たずばかりだ!」


 元尊は親指の爪を噛み出した。


「そうだ! 宿陣地に向かわせた騎馬隊の半数を呼び戻せば……」

「間に合いません」

「森の方へ向かった三千はまだ戦闘に入っておらぬはずだ。すぐに旗信号を! 太鼓もだ!」

「遠すぎます。あの徒武者隊がここに戻ってくる前に本陣を蹂躙(じゅうりん)されます」


 郷末は首を振り、輿を担ぐ八人の大男に命じた。


「墨浦へ帰ります。敵が来る前に逃げますよ」


 八人は無言で向きを変え、本陣を去ろうとした。


「ま、待て! わしが逃げたらこの戦は負けてしまう! もう少しで直冬隊が崩れ、直春を包囲できるのだ!」


 元尊は止めようとしたが、八人は一層足を早め、南国街道を進んでいった。


「逃げれば死罪、家はおとりつぶしかも知れぬ! 戻れ! 戻るのだ!」


 わめく元尊に郷末は感情のない声で告げた。


「敵が突入しました」


 後方で大きな悲鳴や怒号が聞こえ出した。振り返ると、本陣を騎馬武者が走り回り、残っていた二千の武者が次々に逃げ出してくる。


「もはやこれまでか」


 元尊もさすがに事態を受け入れた。


「だが、わしのせいではない! 無能者どものせいで負けたのだ! 作戦は完璧だったのだ!」


 絶叫すると、腰を浮かせて命じた。


「止まれ。降りて自裁(じさい)する」


 声が震えていたが覚悟を決めた顔つきだった。宗龍や重臣たちに絶対勝てると大見得(おおみえ)を切って出陣してきたのだ。どんな顔で復命できようか。


「どうせ命は助からぬ」


 自分の始めたこの戦で桜舘家が敵に回った。宇野瀬家と同盟を結んだようだと隠密が報告してきた。成安家はこれまで以上に苦しくなるだろう。たとえ宗龍が許してくれたとしても、重臣たちから憎まれるのは確実だ。ここで死んだ方がましと思われた。


「駄目です。あなたをまだ死なせるわけには参りません」

「なぜだ!」


 忠実な腹心だと思っていた郷末が、元尊の意思を無視するようなことばかり言う。


「あなたは索庵様を殺しました。私の父もあなたのせいで死んだようなものです」


 郷末の声は初めて聞く冷ややかなものだった。


「あなたは生きなければなりません。彼等のために。でなければ死んだ者たちが浮かばれません」

「お前……」


 輿を見上げる郷末は侮蔑(ぶべつ)に満ちた笑みを浮かべていた。


「あなたには生きてもらいます。もっと無様な死を迎えるまで。抵抗するなら縛ります。その方がよろしいですか」


 本気と悟り、元尊は力なく腰を下ろした。黙って揺られていくしかないようだった。親指の爪を噛みながら。


『狼達の花宴』 巻の六 簗張曲の合戦図 その六

挿絵(By みてみん)


「はあ、はあ、これで何人目だろう」


 敵の武者をまた一人を突き伏せると、直冬は馬の背の上で荒い息をした。

 槍を振るい出してからもう二刻になるだろうか。桜舘家当主の弟で一千二百を率いる武将なのに、自分で戦わなければならない状態が長く続いている。始めのうちは味方が助けにきてくれたが、ここ五人ほどは一人で相手をしなくてはならなかった。


「相当まずい状況ですね。これは潰走するかも知れません」


 直冬は配下の武者たちに愛されている。少なくとも、直冬自身はそう感じていた。弟や息子のような年齢の高貴な若者は、武者たちから可愛がられている。なのに誰も助けに来ない。いや、来られないのだ。武者たちには他人を助ける余裕がなかった。


「難しい役目だと分かってはいました。ですが、見通しが甘かったかも知れません」


 一千二百で二千五百を抑えるのは簡単ではないが、非常に困難というほどでもない。敵が正面にいて、一歩も引かずに押し返して支えるだけならば。現に本綱隊と直春隊はそれをやってのけている。今回の役目の難しさは、押されているふりをして下がらなければならなかったことだ。

 合戦のような全力でのぶつかり合いでは、負けたふりはとても難しい。敵が本気で攻めてくるなら、こちらも本気でぶつからなければ勢いで負けてしまう。負けたふりが本当になることは珍しくない。

 しかも、敵を引き付けて森の方へ誘導するため、早足で横を通過する動きをし、突破をねらったように猛攻をかけることまでした。その疲労が武者たちを一層追い詰めている。直春隊と同じ列まで下がったら停止して敵を食い止める予定だったが、投石機の列の方へずるずると後退を続けている。踏ん張る力はもうなく、まだ崩壊していないのが不思議なくらいだった。


「みんなもうへとへとです。まともに動けているのはわずかですね。でも、頑張ってくれています」


 合戦の前、直冬は武者たちを集めて今回の役割がどれほど重要で困難かを語った。桜舘家の命運がかかっていることを誰もが分かっている。だからこそ、逃げ出す者がいないのだ。


「次はあの人ですか」


 敵武者がまた一人向かってきた。既に陣形はなく、個々人が目の前の相手と斬り合う乱戦になっている。子乗隊の方も隊列が崩れて統率された攻め方ではないので、奇跡的に突破や分断をされずにすんでいた。


「やあ! やあ!」


 重い腕で槍を振るう。桃色の鎧は目立つので、帯を奪って手柄にしようとねらってくる者があとを絶たない。


「はあ、はあ」


 十数回の突き合いの末、やけになって振り回した槍が相手の肩を切り裂き、逃走させることに成功した。ずり落ちるように馬から降りると、そのまま倒れそうになった。


「くっ、駄目だ。座っては……!」


 ぐらついた膝を両手で支え、何とか体を起こして辺りを見回した。あちらこちらに武者が横たわっている。座り込んで休んでいる者もいる。ほとんどが味方だった。


「惟房、こっちです!」


 副将を見付けた。ちょうど一人を追い払ったところらしい。大声のつもりがかすれていて自分で驚いたが、惟房は振り向き、近付いてきて馬を下りた。


「ご無事でしたか」

「生きてはいます」


 もう動けないという気持ちを込めて答えた。


「ご立派です」


 大真面目な言葉だった。


「この戦で生き残られるとは、もう一人前の武者ですな。心配いたしました」

「勝って田鶴と結婚するんです」

「そうでしたな」


 惟房は笑った。


「必ず実現なさいませ」


 直冬は頷いて言った。


「命令があります」


 状況を考えて思い付いたことだ。


「三百を集めて、左側に回ってください」


 惟房は目を見開いた。


「側面を突くのですか」

「それしかありません。このままではじきに潰走します」


 右側は実佐の七百が守ってくれているが、左側面は丸出しだ。後退が続いて油玉の防壁の横を通り過ぎてしまったのだ。


「こちらがしなければ敵が同じことをします。そうなったらおしまいです」


 惟房は少し考え、頷いた。


「かしこまりました」

「それと、馬を貸してください。約束はできませんが、できるだけ返せるようにします。武者頭たちの馬も集めます」

「お考えがおありなのですね。承知しました」


 惟房はじっと見つめた。


「どうかご無事で。本日のお働き、感嘆いたしました。これほど頑張られるとは、正直思っておりませんでした」

「戦はまだ終わっていませんよ。そういう言葉は勝ってから聞きます」


 いたずらっぽく言おうとしたが顔が引きつり、全く成功しなかったが、惟房は微笑んだ。


「そうですな。あとでたっぷりお聞かせしましょう」


 頭を下げると、背を向けて歩いていった。武者たちに声をかけている。


「僕もやらないと」


 重い体を伸ばして大声を出し、武者を呼んだ。二百人ほどが集まると、命令を出した。


「惟房と息を合わせて逆襲します。もう少しです。もうすぐ菊次郎さんが味方を勝たせてくれます」


 直冬隊の担当は戦場の西で、川の方の様子は分からなかったが、直春・菊次郎・忠賢たちがうまくやっていることを疑っていなかった。菊次郎がそういう人だからこそ、田鶴を争う相手として強敵なのだ。


「これが最後の攻勢です」


 手早く水を飲むと、竹筒を投げ捨て、槍を握り直した。


「ここで押し返せなければ終わりです。敵は直春兄様の隊に襲いかかるでしょう。疲れているのはよく分かりますが、必死の頑張りを見せてください。僕は最後まで踏みとどまる覚悟です」


 武者たちは固い顔で頷いた。


「合図の笛です」


 ぴいぴいと高い音が聞こえている。惟房の横笛だ。


「では、始めましょう」


 いうなり、自分の馬の尻を槍の()で思い切りたたいた。驚く馬を槍でさらにつつくと、猛然と走り出した。他の馬も武者達が刺激した。


「さあ、行ってください!」


 槍で周囲を囲んでいたので、興奮した二十頭の馬は唯一開いていた方向、つまり子乗隊の方へ駆けていった。


「馬だ! 暴れ回っている!」

「気を付けろ! 蹴られるぞ!」


 敵武者たちは驚いて騒ぎ出し、わずかに混乱した。


「今だ! 突撃!」


 直冬は先頭を走った。


「直冬様を死なせるな!」


 誰かが叫び、おう、と武者たちが絶叫した。同時に惟房隊も左側面へ突入、挟み撃ちにした。

 激しい戦闘が始まった。直冬隊の武者たちは体力の限界を超えながら気力で戦っている。子乗隊も馬による混乱と乱戦で組織的な迎撃はできず、支えるので精いっぱいだ。


「これでも駄目ですか」


 直冬隊が優勢に見えたのはわずかな時間だった。すぐに数でまさる子乗隊は援護の武者が駆け付け、一人を数人で囲む動きを始めた。


「はっはっは! やけになった逆襲もこの程度か。敵はもう終わりだ! 一気に蹴散らし、本陣へ向かうぞ!」


 猛喜の勝利を確信した声が戦場に響いている。


「もう動けない……」

「直冬様、申し訳ありません」


 味方の武者が次々に討たれ、負傷し、あるいは疲労で倒れていく。


「ここまでか」


 背後を振り向いたが、物見台の菊次郎に動きは見られない。


「せめて、誰かを道連れにして死にます!」


 直冬は最後の獲物を探しながら、悔しさで泣きそうだった。


「田鶴に会いたい。僕が死んだら悲しむでしょうか……」


 直冬に気が付いた敵武者が向かってくる。かなり大柄で、直冬より頭一つ大きいようだ。もう目の前で、逃げるのは無理だろう。


「やるしかない」


 槍を杖のようにして無理矢理体を起こし、震える手で構えた。


「お命、頂戴する!」


 敵が槍を振り上げた。とっさに自分の槍で防ごうとするが、簡単に弾き飛ばされてしまった。腕力が違いすぎる。疲労も頂点に達していた。


「無念!」


 目をつむり、刺されたと思った瞬間、大きな悲鳴が響いた。


「ぎゃあ!」


 上げたのは自分ではない。目を開けると、敵武者の手に矢が刺さっていた。がらん、と武者は槍を取り落とした。


「今だ!」


 はっとして腰の刀を抜いて全力で振り回すと、敵の鎧を貫いて脇腹に食い込んだ。相手はどしんと地面に尻もちをつき、あおむけに倒れた。


「直冬さん!」


 かけられた声に驚いて振り向いた。


「田鶴!」


 騎馬武者の後ろに乗って弓を次々に放ち、たちまち三人を倒すと、田鶴は馬から飛び降りてきた。小猿も慌ててついてくる。


「どうしてこんなところへ」


 驚きはすぐに怒りに変わった。思わず非難の口調になる。


「危険すぎます。いくら弓がうまいからって、女の子なんですよ!」

「だって、見てられないんだもん」


 田鶴は涙を浮かべていた。


「心配だよ。直冬さんに死んでほしくないの!」


 呼吸が止まるかと思った。目が(うる)んだ。何も言えない直冬の全身に田鶴は目を走らせた。


「怪我はない?」

「うん、ありません」


 小さな傷はたくさんあったがそう答えて、辺りを見回した。


「あれは昭恒(あきつね)ですか」


 三百人ほどの新手が、惟房隊と一緒に子乗隊を側面から攻めている。


「うん。直春さんに直冬さんを助けたいって言ったら、織藤(おりふじ)隊を連れていけって」


 織藤(おりふじ)昭恒(あきつね)は直冬の配下だ。船で豊津へ戻る時、乗れなかった武者を預けた。立返浜(たちかえりはま)の合戦では直春に従い、この簗張曲(やなはりくま)でも直冬の部隊を増やすとおとりにならないので、直春隊に組み込まれていた。


「菊次郎さんに、直冬さんが危なかったら向かわせてあげてと言われてたみたい」

「そうでしたか」


 全てお見通しだったと思うと悔しいより脱力した。でも、休んでいる場合ではない。


「さあ、押し返そうよ。あたしも手伝うよ」

「うん」


 田鶴の前で情けない姿は見せられない。槍を拾い、杖にして立ち上がろうとしてよろけたが、支えようと手を伸ばした田鶴に首を振った。


「大丈夫。自分の足で立てるよ」

「そう。男の子だね」


 田鶴は微笑んだ。


「子ども扱いはよしてください」


 両足を踏みしめて立ち、槍の感触を確かめる。


「よし。まだ戦えます」


 疲労はあるが、それを超える高揚感があった。田鶴が隣にいるのだから。


「一緒に戦おうね」

「もう田鶴に怪我はさせません。絶対に」

「あたしが直冬さんを守るの!」


 周囲で笑い声が起きた。武者たちがこっちを見ている。


「みんな、田鶴を守ってください!」


 頼むと、一人が叫んだ。


「直冬様を結婚前にやもめにはできませんからな!」

「あたしの方が強いのに」


 田鶴は照れたらしくそっぽを向いた。が、すぐ声をかけてきた。


「菊次郎さんが何か合図してる」


 物見台を振り向くと、大軍師が黒い軍配を大きく左右に振っている。


「何だろう」


 首を傾げた時、大きな声が戦場に響いた。


「氷茨元尊は逃げ出した! 本隊は壊滅したぞ!」


 棉刈重毅の声だった。(あし)(うみ)の対岸まで聞こえると言われる大声で敵の総大将の撤退を叫びながら、後ろの方から早い足取りで進んできた。たった百人だが、まだ戦っていなかった元気一杯の武者たちは、剛勇の重毅を先頭に「勝った! 勝った!」と叫びながら直冬たちを追い越し、子乗隊に向かっていった。


「嘘だと思うなら本陣を見ろ! 青峰隊が蹂躙(じゅうりん)しておるぞ!」


 不安になって振り返った成安家の武者たちの間に、さざ波のようにささやきが広がった。


「本陣壊滅だって?」

「まさか、負けたのか」

「あの連署め、また逃げたのか!」


 重毅はそのざわめきを突き破るような大声で叫んだ。


「さあ、桜舘家の仲間たちよ! 勝利の雄叫びを上げろ! 追撃の時間だ!」


 今だ、と直冬は思った。出せる限りの大声を振り絞った。


「勝負は決した! 全軍、総攻撃! 帯を奪え!」


 いうなり、槍を高く掲げて駆け出した。


「あたしも行く!」


 田鶴が弓を構えて隣を走り、立ち塞がろうとした数人をたちまち射倒した。きい、と小猿が威嚇している。


「桜の御旗(みはた)に栄光あれ!」


 武者たちが鬨の声で応じた。おおおお、と腹の底からわめきながら、直冬隊は目の前の敵に襲いかかった。


「遅れるな! 我等も行くぞ!」


 惟房と昭恒もここぞと声を張り上げて武者たちを鼓舞し、自ら先頭に立った。


「こんなばかな!」


 猛喜の憤怒(ふんぬ)の叫びが聞こえたが、すぐに武者たちの絶望と恐怖の悲鳴にのみ込まれてしまった。


「見て! 逃げていくよ」


 戦は負けと判断した子乗隊の武者たちは、命が惜しいと背を向け、我先にと南国街道を駆け去っていった。実佐隊と戦闘中だった一千、すぐそばまできていた三千も撤退に移った。


「敵が引いていく……」


 子乗隊の潰走を確認し、直冬は足を止めた。


「ははは……、勝った。僕たちは勝ったんだ……」


 心底ほっとした。喜びより安堵の方がずっと大きかった。途端に体から力が抜け、尻もちをつきそうになった。武者たちは皆地面に座り込み、肩で息をしている。大の字に倒れている者も少なくなかった。疲労はとっくに限界を超えていた。よく気力が持ったものだ。

 自分も座ろうと腰を落としかけた時、そばで田鶴の声がした。


「無事でよかった。疲れたの?」


 直冬ははっとして足に力を入れ、かろうじて体を支えた。


「大丈夫?」


 よろけたのを見られたらしい。田鶴は顔をのぞき込んできた。


「本当に心配したんだから。死んじゃうんじゃないかって」


 直冬は無言で倒れ込むように乙女に寄りかかり、きつく抱き締めた。


「こ、こら! 何するの!」


 田鶴が慌てて離れようとしたが、直冬はさらにぎゅっと腕に力を入れた。


「田鶴、結婚してください!」


 直冬は大声で叫んだ。


「えっ? ちょっと待って……」


 慌てる乙女にかまわず続けた。


「あなたが好きなんです。ずっと好きでした。あなたしかいないんです!」

「待ってってば!」


 もがくのでゆるめると、田鶴は体を離して抗議した。


「こんなところでいきなり言わないで!」

「今、言いたいんです!」


 直冬は叫び返した。


「だってまわりに人が……」

「みんなにも聞いてほしいんです」


 直冬は真顔で言って、一歩下がった。


「合戦には勝てました。でも、僕の力ではありません」


 驚いた田鶴が訂正する前に、直冬は続けた。


「武者たちの頑張りのおかげです。惟房や昭恒のおかげでもあります。もちろん、田鶴の救援があったから僕たちは持ち直しました。みんなの力です」


 武者たちが耳を澄ませているのを感じながら、直冬は思いを吐き出した。


「その中で一番大きかったのは菊次郎さんの策略です。この合戦に勝てたのは、大軍師の作戦があってこそです。僕も頑張りましたが、菊次郎さんがいなければ勝てなかったでしょう。この合戦だけではありません。これまでの戦はみんなそうです」


 田鶴は赤い顔でうつむいて聞いている。


「僕はこれまで必死に戦ってきました。これからも、一生懸命働いて武将のつとめを果たします。田鶴のためにもその覚悟でいます。でも、頭のよさで、僕は菊次郎さんにかないません。才能が違いすぎます。菊次郎さんにだけではありません。家臣たちの心をとらえることでは直春兄様に到底及びません。武勇では忠賢さんや仲載さんに勝てません。勇気では妙姉様、やさしさと明るさでは雪姉様の方がずっと上です」


 言いながら涙が浮かんできたが、直冬はぬぐわず流すままにした。


「でも、僕にも一番のものがあります。田鶴を愛する気持ちです。初めて会った時から好きでした。結婚するならこの人と心に決めていました。僕には田鶴こそが、他の誰よりも一番大切な運命の人なんです」


 田鶴は口を両手で押さえ、必死で何かをこらえていた。


「田鶴は家族が欲しいんですよね。子供と一緒に暮らす平凡な幸せが」


 乙女は頷いた。


「あたしは天下統一よりささやかな幸せが欲しいの」

「その幸せ、僕があげます」


 直冬はできる限りやさしい声で言った。


「僕は直春兄様みたいな吼狼国一の名将にはなれないでしょう。吼狼国一の大軍師にもなれません。でも、田鶴の一番の夫にはなれます。田鶴の子供の最高の父親になって、一緒に幸せな家族を作れるのは僕です。これだけは僕の方がまさっていると思うんです。師匠である菊次郎さんよりもです」


 田鶴の目から涙があふれた。


「だから、僕と結婚してください。決して後悔させないと誓いますから」

「でも、こんな急に……」


 田鶴はまわりを見回し、武者たちが注目していることに気が付いて一層顔を赤くした。


「お願いします」


 直冬は頭を下げて答えを待った。田鶴は下を向き、しばらくもじもじして、緊張で全身の汗が引く思いの直冬をちらりと見やり、またうつむいて、ほうっと溜息を吐くと、こくりと首を縦に動かした。


「うん、いいよ。結婚する」


 田鶴は照れ臭そうに答えた。


「断ったらもっと無茶なことしそうだし」


 小声で付け加えた。


「それに、あたしも直冬さんが好きだもの」


 顔を上げた田鶴は、止まらない涙をぬぐいながら幸福そうに微笑んでいた。


「一生大事にしてね」

「もちろん、目いっぱい大切にするよ! やったあ!」


 直冬は叫んで、両腕を天に伸ばした。


「ただ、一つだけ約束して」


 抱き寄せようとすると、田鶴は両手で待ったをした。


「絶対に死なないで。気持ちはよく分かったから、こんな危ないことはもうやめて。必ず生きて帰ってきて。あたしと子供たちのために。いい?」

「分かりました。約束します」


 直冬は大きく頷き、一歩近付いて田鶴に両腕を回した。今度は田鶴も拒否しなかった。


「あなたを残して死んだりしません。生きて戻って、田鶴を幸せにします」

「うん。きっとだよ」


 田鶴は腕の中でくすぐったそうに笑った。武者たちが大きくどよめき、激しい拍手がわき起こった。「おめでとう」という声があちらこちらからかけられ、真白も足元で手をたたいている。


「よく言ったぞ、直冬殿!」


 いつの間にか、直春がそばにいた。


「感動した。君は男の中の男だ。心から祝福するぞ」

「よっ、お熱いね。泣かせる台詞(せりふ)だぜ」


 忠賢はにやにやしている。


「でも、最高の口説き文句でしたよ」


 仲載は感心している。直冬を見直したようだ。


「いつの間にか立派になって」


 妙姫は涙をぬぐっていた。


「直冬、本当によかったね」


 雪姫もぼろぼろ涙をこぼしていた。直冬は驚いた。


「どうして姉上たちがここに? お城にいたはずでは」

「戦を見ていたのです」

「あの村からね」


 姉たちの返事にさらにびっくりした。


「えっ、戦場にいたんですか! 危ないですよ!」

「ちゃんと隠れていました。窓の隙間からのぞいていたのです」

「見付からなかったよ。護衛もいたし」

「お止めしたのですが……」


 城の留守を任せたはずの萩矢頼算だった。


「必ず勝つと信じていましたから」


 妙姫は夫を見つめていた。


「頼算さんも新しい油玉がうまく燃えたか気になっていたんだよね」

「見に行くと言い出されたのは雪姫様でした」


 今回使った油玉は火が大きいが早く燃え尽き、細かな灰になって崩れるものだ。投石機がたびたび投げて追加していたのはそのためだった。投石機を改良して投擲間隔を短くしたのも頼算だ。


「大丈夫、花千代丸はお城にいます。お(とし)に預けてきました」

「でも、鎧も着ないでですか。そんな豪華な打掛姿ではいざという時逃げられませんよ」

「国主の妻が、民の前でみっともない格好はできません」

「だからってですね……」


 呆れる直冬に、菊次郎が苦笑した。


「七百を率いて出陣する時、実佐さんが奇妙な表情をしていたのはこれでしたか。口止めされたのでしょうが、気になって当然ですね」

「全くです。もうやめていただきたいですぞ」


 実佐は渋い顔だ。


「雪姫様もお転婆がすぎますな」


 良弘が大袈裟な口ぶりで釘を刺し、笑いが起こった。


「考えておきます」


 妙姫は一言で二人を黙らせると、侍女から盆を受け取った。


「さあ、皆さん。お握りがありますよ」

「たくさん食べてね。作り立てだから」


 観戦しながら村人に手伝ってもらって用意したらしい。


「おお、ありがたい。妙が握ったものもあるのか?」


 直春が喜んだ。みんなくたくたで空腹だったのだ。


「ありますよ。こっちのお盆です」

「なら、逃げてく連中を追いかける前に腹ごしらえするか。それくらいの時間はあるだろ?」


 言いながら、忠賢はもう手を伸ばしている。


「追撃は徹底的にする必要があります。成安家がしばらく動けなくなるくらいに。その前に休憩は必要ですね。そろそろ昼食の時間ですし」


 菊次郎が進言すると、直春は握り飯を妙姫から受け取った。


「二人の婚儀も成安軍を追い払ってからだな。では、みんな、頂こう!」

「お殿様の許可も出たし、さあ、食うぞ」


 忠賢が握り飯にかぶりついた。


「ほら、お前らも食え!」


 侍女から盆をうばって振り返り、頭上に掲げた。妙姫と雪姫も大声で呼びかけた。


「皆様の分もありますよ!」

「たくさん食べてね!」


 おおう、と武者たちが歓声を上げた。


「ありがとうございます!」


 武者たちは村人の運んできた盆に群がり、むさぼるように食べ始めた。


「奥方様の手作りか!」

「こっちは雪姫様だぞ!」


 何やら盛り上がっている。感激して涙ぐんでいる者までいた。


「あなたが握ったものはありますか」


 仲載が尋ねると、雪姫は一つ渡してやった。


「これよ。もっと食べる?」


 仲載は一口で半分以上ほおばった。


「うまいです。五個は欲しいですね」

「そんなに?」


 驚きながら、雪姫はうれしそうだ。

「さあ、僕たちも頂きましょう」


 直冬は惟房や昭恒に声をかけた。


「あたしもお腹空いた」


 田鶴も一つ手に取り、小猿に分けてあげている。


「おいしいですね」


 直冬は心の底から言った。


「うん」


 田鶴は答えて、顔を赤らめた。


「よかった。またみんなでご飯を食べられて」

「ここにいるみんなが田鶴の家族ですね」

「でも、あたしたちの家族もできるんだよね。すごく楽しみ」


 田鶴と微笑み合うと、直冬は顔を菊次郎に向けた。


「一緒に食べませんか」


 大軍師の青年は戦場を見渡していたが、振り向いた。


「おめでとう。二人とも」

「ありがとう」


 田鶴は目を(うる)ませて答えた。


「とてもお似合いです。田鶴、よかったね」


 妹の幸せを喜ぶ兄のような言い方だった。


「次は菊次郎さんの番ですよ」

「頑張って。しっかりね!」


 直冬と田鶴の応援に、菊次郎は頷いた。


「分かっています。きちんと決めないといけませんね」


 菊次郎の視線の先には、武者たちに水の竹筒や握り飯を配る雪姫の笑顔があった。下の姉が晴れやかに笑っているのは久しぶりだった。


「うまく行ってほしいですね」


 思わず漏らすと、田鶴が請け合った。


「大丈夫だよ。あの二人なら」


 少し切なげに聞こえたが、未練はなさそうだった。


「そうですね」


 直冬は握り飯をのみ込みながら、体中の疲労が幸福感に置きかわっていくのを感じていた。



「そうか、元尊は負けたか」


 物憂(ものう)げに宗龍は言った。


「はい。残念至極にございます」


 次席家老の杭名(くいな)種縄(たねつな)は申し訳なさそうに平伏した。

「御屋形様にお誓いしたにもかかわらず、合戦の最中、武者を置き去りにして逃亡したようです。半空国(なかぞらのくに)に入ったところで捕縛し、墨浦へ移送中でございます」


「では、罰せねばならぬな」


 どこか遠い国の話のようだった。夜中に引見の間に呼び出されて眠いのだろう。


「これを許しては示しがつきませぬ。致し方ございませぬ」


 種縄は控えめに賛意を示した。


「どうすればよい」


 宗龍はあくびをして、菫が縫ってくれた腹巻を撫でた。


「所領は没収、氷茨家はおとりつぶしにすべきと存じます」


 種縄はちらりと主君の顔をうかがった。


「ですが、あの家は主席家老の家柄、連署を何人も出してきた名門でございます。元尊殿一人の失敗で断絶させるのはもったいのうございます。ここは先祖の功に免じて連署は解任、所領五万貫を半分に減らし、十七歳の息子に家督を譲って隠居でよろしいかと」

「そんなものか」


 宗龍は頷いた。


「新しい連署がいるな。誰がよい」


 種縄は答えなかった。


「そうか。そなたか。そうなるな」


 沈黙の意味を察して、宗龍は告げた。


「杭名種縄。そなたを新たな連署に任ずる。すぐに今後の方針を立てよ」

「ははっ、大任、心してつとめまする」


 種縄は平伏し、口元に薄い笑みを浮かべた。

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