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狼達の花宴 ~大軍師伝~  作者: 花和郁
巻の六 伸ばした手
52/66

(巻の六) 第三章 攻防 下

 その夕方、本丸御殿の一室に主だった者たちが集まった。軍議だ。兜は脱いでいるが、武将たちは鎧を着けたままだった。

 (ふすま)が閉められ、勝利の(うたげ)の準備のにぎやかな声が遠ざかると、城主代行の妙姫が尋ねた。


「敵は今後、どう攻めてくるでしょうか」


 全員の目が大軍師に向けられた。菊次郎はこれに直接は答えなかった。


「いくつか考えられることはあります。ただ、すぐには攻めてこないでしょう」

「どうしてですか」


 妙姫はいつも以上に丁寧な尋ね方だった。ここ数日の戦いで改めて菊次郎の知謀を信頼するようになったらしい。それを裏切ってはならないと、分かりやすい説明を心がけた。


「堀を埋め、下郭や外郭を攻めたのに勝てませんでした。水門櫓も落とすのは難しそうです。こちらには相当な備えがあることを悟ったでしょう。攻めやすい場所、この城の弱点を敵は見付けられなかったのです。次は一般的な攻め方をするしかありません」

「といいますと」

「多くの場所から一斉に城に取り付いてこちらの武者を分散させ、数の差を生かしてどこかを突破するやり方です」

「まあ、その手しかないだろうな」


 忠賢が言い、実佐が頷いた。


「わしもそう思いますな。一ヶ所を集中攻撃しても駄目なら、全体を全力で攻めるしかありませぬ」

「ありがとうございます。お二人の賛同を得られてますます確信が増してきました」


 菊次郎は微笑んだ。


「しかし、その攻め方は相当な損害が出ます。これまでの死傷者も少なくないでしょう。盾車などをもっと増やして十分な準備をし、できれば増援を受けたいところです」

「増援は無理だと思います」


 直冬が指を折った。


「計算してみたんですが、成安家は動かせる最大の数を連れてきています。宇野瀬家や鮮見家への警戒をゆるめるわけには行きませんから」

「そうですね。ですが、出陣したのにまだ到着していない部隊があります」

「えっ、どこにですか?」


 直冬は驚いた。


「船に乗ってきた武者たちです」

「あっ」


 直冬はそうでしたねという顔をした。


「鯖森国へ帰りましたが、半数以上は無事なはずです。遊ばせておくのはもったいないでしょう。僕なら呼び寄せます」


 実佐が腕を組んだ。


「では、その合流を敵は待つのですな」

「武者に休養を与える必要もあります。宗速の騎馬隊の襲撃から数えると四連敗です。僕なら数日かけて体勢を立て直し、今夜は酒宴を許しますね」

「なら、好機じゃねえか」


 忠賢が不敵に笑った。


「そこを襲おうぜ」


 妙姫は気乗りしない様子だった。


「打って出るのですか。守っていればよいと思いますが」


 今のところ勝っている。落城しそうな状況ではなく、無理をする必要はないと思うようだ。


「敵が攻めてこないなら、こっちも休めばいいんじゃない」


 田鶴は戦場では勇敢だが、戦自体は好きではない。横に座った小猿の背をやさしい手つきで撫でている。


「いいですね。行きましょう」


 意外な人が賛成した。直冬だ。


「敵は疲れています。お酒を飲めば油断します。勝てますよ」


 菊次郎は不思議に思った。直冬はいつもは常識的で手堅い作戦を好む。菊次郎の提案する奇抜な作戦に疑問を投げかけ、好戦的な忠賢をたしなめることも多い。


「おお、いいねえ。やる気じゃねえか」


 忠賢は面白そうな顔をした。直冬は平然と言った。


「守っているだけでは勝てません。こちらから打って出て、敵を打ち破る勇気が必要なんです」

「その通りだぜ。戦も他のこともな」


 忠賢は身を乗り出した。


「ここは行くところだと思うぜ。なあ、大軍師殿」


 騎馬隊の副将の榊橋(さかきばし)文尚(ふみひさ)は何も言わない。忠賢と妙姫の判断に従うつもりのようだ。

 菊次郎は迷い、実佐に目を向けた。


「どう思いますか」

「反対はしませぬ」


 馬廻頭は少し考えて言った。


「こちらも一休みしたいところですな。しかし、好機なのも事実。大打撃を与えられれば、今後の戦いが有利になるでしょうな」


 実佐は直春が帰ってきたあとのことを考えている。元尊が諦めて引き上げればよいが、そうでなければ長い戦になるかも知れない。


「兄貴が行くなら俺も行きますよ」


 言ったのは錦木仲載だ。立返浜(たちかえりはま)の合戦のあと、彼の騎馬隊は直春たちと別れて先行し、先程城に着いたばかりだった。


「疲れていませんか」


 妙姫は案じたが、仲載は笑って首を振った。


「これくらいの行軍でへばるようなやつは当家にはいません。敵を蹴散らしてやりますよ」


 言いながら、この場にいる八人の最後の一人を横目で見た。雪姫はうつむいて無関心な様子だったが、視線に気付くと顔を上げて辺りを見回し、菊次郎と目が合うと露骨に顔をそむけた。菊次郎は小さな溜息を吐き、妙姫は三人を見比べた。


「分かりました」


 菊次郎は気持ちを切りかえ、背筋を伸ばすと決断した。


「襲撃しましょう」

「そう来なくっちゃな」


 忠賢はうれしそうな顔になった。


「襲うなら今夜がよいでしょう。敵の油断と疲れが最大のうちに夜襲します」


 頭の中で即座に作戦を組み立てる。


「動かすのは忠賢さんと直冬さんの部隊です。仲載さんは長旅で疲れているでしょうから、この城を守ってください。実佐さんの配下も残します。直冬さんは日が暮れたら(あし)大橋(おおはし)を渡って(あし)(うみ)の対岸へ行き、水軍の船で切岸(きりぎし)半島に上陸、敵の宿陣地に近付きます。忠賢さんは夜半過ぎに水門櫓から出撃、境川に沿って進み、夜が明けると同時に両部隊で奇襲します」

「いい作戦だぜ。連中は調練牧場(ちょうれんまきば)に宿陣してやがるからな」


 忠賢がにやりとすると、仲載が呆れ顔になった。


「まぬけな連中ですね。調べなかったんですかね」


 直冬も珍しく辛辣(しんらつ)だった。


「誰も言わなかったんでしょうね。民は葦江国内の戦を終わらせて善政を()く直春兄様を慕っています。裏切った成安家は相当嫌われていますよ」


 境川のほとりに牛や馬をたくさん放した牧場(まきば)があり、隣は広い草地だ。豊津城から歩いて一刻、馬を飛ばせば四半時(しはんとき)、行軍の訓練も兼ねて行って帰ってくるのにちょうどよい距離だ。騎馬隊が駆け回れる広さがあり、陣形を組んで模擬(もぎ)合戦をしたりもする。


「俺たちには庭だ。今夜は少し欠けた半月だが問題ない」

「絶好の獲物ですね。俺も行きたいなあ」

「今日は休んで疲れを取れ。戦はまだあるぜ」


 忠賢は仲載をなだめた。


「わざとそこに陣を張って襲ってくるのを待っているのではありませんか」


 妙姫が尋ねると、諸将は顔を見合わせ、一斉に首を振った。


「ないな」

「ないですね」


 忠賢と仲載は断言した。


「ないと思いますよ、姉上」

「ないでしょうな」


 直冬と実佐も同意見だった。


「その可能性は疑ったのですが、すぐに否定しました」


 菊次郎も言った。


「あまりにも危険すぎます。本当に知らないのだと思います。宗速隊は城を落とす役目だったはずで、それが果たせず、やむなく近くに宿陣したのです。元尊は疑わずにそこに入ったのでしょう」


 二万を収容可能な宿陣地を造れる広さの草地はなかなかない。豊津城に近すぎず遠すぎずという条件が付けばもっと少なくなる。他に見付けられなかったのかも知れない。


「では、勝てそうですね」


 妙姫は納得した様子になった。


「目的の第一は盾車などの大型武器を焼くことです。戦の準備を遅らせて時間を稼ぎ、直春さんが帰ってくるのを待ちます。武者を殺し武将を討つのはその次です」


 全員の頭にしみこませるようにゆっくりと告げていく。


「敵が慌てているうちに目的を果たし、体勢を立て直す前に撤収します。無理はせず、敵の対応が早いようならさっと引いてください。打撃を与えることよりも、こちらが損害を受けないことを重視します。あくまでも籠城を有利にするための出撃で、敵をこの国から追い払うためではありません」


 武将たちは頷き合い、承認を求めて妙姫を見た。


「よろしいでしょう。出陣の支度を始めてください」


 妙姫は命じて、思い出した顔をした。


「今夜の祝宴はどうしますか」


 菊次郎は笑った。


「計画を悟らせぬため盛大に行いましょう。直冬さんがいないことが分からぬように大騒ぎしてください。お酒ではなくお茶でね」

「帰ってからのお楽しみですね。勝利の美酒は」


 直冬が言うと、忠賢は片目をつむった。


「じゃあ、茶で思いっ切り酔ってやるぜ。直冬隊の分までな」


 忠賢と文尚は立ち上がり、部屋を出ていった。仲載は雪姫に声をかけようとしたが、顔を背けているので残念そうに忠賢を追っていった。菊次郎も暗い顔の雪姫を気にしつつ、続いて去ろうとした。


「菊次郎さんはここにいてください。雪も」


 妙姫の声に立ち止まると、驚いて振り返った直冬と目が合った。


「他の人は、すみませんが席をはずしてください」


 侍女の田鶴は雪姫のそばにいたが、菊次郎を見やると黙って猿と一緒に廊下に出た。直冬も続いた。

 襖が閉まり、三人だけが残された。妙姫は上座から妹の前に移動し、身振りで促されて菊次郎も二人のそばに腰を下ろした。


「話というのはあなたたち二人の関係のことです」


 妙姫はまじめな顔だった


「雪、あなたは菊次郎さんを避けていますね」


 雪姫は目を逸らした。


「そんなことない」

「あります」


 妙姫は断言した。


「天守で督戦している時も、軍議の時も、菊次郎さんを見ようとしません。槍峰国から帰ってきてからずっとです。みんなが気にしています。一致団結して戦わなくてはならないのに、このままでは士気にかかわります。直春様が帰るまでこのお城を預かる者として見過ごせません。仲直りしてもらいたいのです」


 雪姫はそっぽを向いたままだった。そんな妹から妙姫は視線を移した。


「菊次郎さんにお尋ねします。二人の間に何があったのですか」

「何もありません」


 菊次郎は困った。どう答えればよいのだろう。


「本当ですか」

「特別なことは何もないのです」


 妙姫に見つめられても、そう言うしかなかった。


「分かりました。では、質問を変えます」


 妙姫は少し目を伏せ、すぐに上げた。


「菊次郎さん、正直に答えてください。雪のことを好きなのですか」


 雪姫が息をのんだ。


「雪と結婚する意志はありますか」

「お姉様、何を急に……!」

「あなたは黙っていなさい」


 口調の厳しさに雪姫が口をつぐむと、妙姫は声をやわらげた。


「菊次郎さんが望めば雪は嫌がらないと思います。どうですか」

「だから、勝手に……!」


 雪姫は蒼白になって抗議しようとしたが、言葉が続かなかった。


「菊次郎さんの気持ちを聞かせてください」


 妙姫に重ねて問われ、菊次郎は黙り込んだ。雪姫は落ち着かなく目を左右に走らせ、時々菊次郎をちらりと見上げてはすぐに伏せている。妙姫はじっと答えを待っていて、誤魔化すことはできそうになかった。


「僕には」


 最近吐いた中でも特大の溜め息を漏らし、菊次郎は重い口を開いた。


「僕には、結婚する資格がありません」


 雪姫は目を見張り、悲しみをこらえるように下を向いた。妙姫はそれを横目で見て、意外そうに尋ねた。


「どういうことですか」

「僕は十歳の時、浅知恵をひけらかしたせいで家族を失い、封主家を一つ滅ぼしました。重い罪を背負(せお)っています」

「それは聞いていますが、けれど……」


 言いかけた妙姫に、菊次郎は首を振った。


「直春さんと忠賢さんに説得され、天下を統一して平和な世を実現することで、殺してしまった人たちに(つぐな)うことにしました。二人を助けるため、軍師として一生懸命働くつもりです。それでも、罪はなくなりません。本当なら何回も死罪にならなくてはならないほどの重罪人なんです。人として失格な僕は、幸せになることは許されません」


 ずっと思っていたことだ。迷いや未練を断ち切るつもりで口にしたのに、一層が胸が苦しくなった。


「僕は今、直春さんの天下統一を助けるだけで手一杯です。自分の幸せの追求や結婚なんて、する時間はありません」

「一生独身で通す気ですか」

「はい」


 菊次郎ははっきりと頷いた。


「もともと僧侶になるつもりでした。天下統一を手伝ったあとは出家しようと思っています」

「ですが、雪のことを好きなのではありませんか」


 妙姫は諦めきれない顔だった。


「結婚したいと思わないのですか」

「雪姫様は」


 菊次郎は唇を噛み、かすれた声で続けた。


「素晴らしい女人(にょにん)だと思います。僕にはもったいない方です。そもそも結婚する資格のない男が、伴侶に望むなんてとても許されません」


 妙姫は反論しようとして言葉をのみ込み、少し考えて妹に目を向けた。


「雪、あなたはどうなのですか。菊次郎さんのことを好きなのですね」


 菊次郎はどきりとした。雪姫はうつむいたまま動かなかった。


「この方と結婚する気はありませんか。私はとてもお似合いだと思います。雪が承知するなら、私も直春様も大賛成ですよ」


 雪姫は身じろぎもしなかった。その横顔を見つめながら、菊次郎は胸から飛び出しそうなほど激しい鼓動を全身に感じていた。呼吸も荒くなり、額に汗が浮かんできた。思わずあえぐような声が出そうになった時、雪姫の右腕が動いた。ゆっくりと持ち上がり、着物の合わせ目を胸の前でぎゅっと握った。


「私も、結婚するつもりはないの」


 かすれたささやくような声だった。今にも泣き出しそうでありながら、強い意志が感じられた。


「こんな体だから、夫になる人は困ると思う。子供も産めないもの」


 雪姫の返事に絶望しながら、菊次郎は大きな共感を覚えてもいた。やはりこの姫君は自分に似ている。だからこそ、拒否する言葉の重さが分かってしまう。


「でも、雪は菊次郎さんのことを好きなのでしょう」


 妙姫は引き下がらなかった。


「隠しても無駄です。私には分かります。この人ならあなたを理解して受け止めてくれると思いますよ」


 妹がそういう反応をするのは予想がついていたけれど本心は違うはずだと確信している様子だった。


「結婚してしまえば何とかなるものです。それとも、仲載さんに申し訳ないと思っているのですか」


 そんな理由ではないはずだ。病弱で姉弟(きょうだい)に世話をかけ通しだったのに、他家に嫁いで子を産み、桜舘家の役に立つことすらできない。その雪姫の孤独と無力感が、菊次郎には激しい胸の痛みとともによく理解できた。


「自信を持ちなさい。気持ちに正直になりなさい。ここで意地を張ると一生後悔しますよ」


 妙姫も分かっているのだろうが、叱り飛ばして励まし、前へ進ませようとしている。雪姫はかたくなな表情で唇をぎゅっと結んでいた。


「雪、何か言いなさい」

「待ってください」


 追及しても苦しめるだけだ。菊次郎は我慢できなくなって口を挟もうとしたが、激情を押し殺したような声が先に響いた。


「結婚はしないって言っているでしょう! 勝手に決め付けないで!」


 雪姫は姉ではなく、板じきの床をにらむように見すえていた。


「仲載様に言った通りだよ。私には結婚する資格がないの。誰とも結婚できないの」


 雪姫の目に涙が盛り上がり、こぼれ落ちた。


「だから、一生一人でいい。このお城にいると邪魔ならお寺に入る。漢曜(かんよう)和尚(おしょう)様は歓迎してくれると思う」

「本当にそれでよいのですか」


 妙姫は困った顔になった。


「いいの。だって、無理なんだもの」

「そうと決まったわけではないでしょう」

「決まっているよ。菊次郎さんだって、子供を産めない女と結婚する気にはなれないでしょう?」


 急に問われて、菊次郎はとっさに答えられなかった。そんなことはないと言えば、雪姫と結婚したいと受け取られてしまう。


「ほら、やっぱり! 口では自分にはもったいない素晴らしい方なんて言っても、本音ではごめんこうむりたいのよ!」


 胸にたまった悲しみをぶつけながら、雪姫はとても苦しそうな表情をしていた。


「仲載さんだってあの時顔色を変えたじゃない。病弱で、お金ばかりかかって、何の役にも立たないお荷物を背負(しょ)い込みたくないのは当たり前だよ。私は誰にも求められていないの。結婚なんて許されないのよ!」

「そんなことを言うものではありません。あなたはお荷物などでは……」


 妙姫がたしなめようとしたが、雪姫は(かぶり)を振って立ち上がった。


「結婚したいなんて私は一度も言ってない! 勝手に相手を探さないで。もう、ほっといて!」


 叫んで襖をあけ、部屋を駆け出ていった。


「何ということ」


 妙姫は呆然とつぶやいたが、はっと気が付いた。


「菊次郎さん、妹がひどいことを。申し訳ありません」


 妙姫は頭を下げた。


「事前にご相談もなく結婚の話を持ち出してしまいました。承知すると思ったのですが」

「怒ってはいません」


 菊次郎は弱い笑みを浮かべて頭を下げた。


「出陣の支度があります。僕も行かないと」


 腰を上げ、逃げ出すように部屋を出た。襖を閉める時、妙姫が大きな溜め息を吐くのが聞こえた。



「田鶴」


 背後から声をかけられ、びくりとして振り返ると、直冬が立っていた。


「聞いていたの」


 直冬は頷いて歩み寄ってきた。軍議をしていた部屋との境の襖へ目を近付け、妙姫も出ていったことを確かめると、襖をぴたりと閉じて隙間をなくした。


「こうなりそうな気はしていましたが、あの二人が結ばれるには時間がかかりそうですね」

「結ばれないよ」


 田鶴はむっとした。


「二人とも断ってたじゃない」

「口ではね。好き合っているのは見え見えなのに、なぜぐずぐずしているのでしょうね。誰も反対しないのに」


 分かりきっていることだという口調に、田鶴はますます腹が立った。


「そうなって当然みたいに言わないで。直冬さんには菊次郎さんの気持ちが読めるの?」

「読めますよ。よく分かります」

「どうして? あたしには全然分からない。雪姫様の考えも」


 我慢しないと涙が出てしまいそうだった。その顔を、直冬はやさしい表情で見つめていた。


「分かるのは、僕にも好きな人がいるからです」

「えっ、誰?」


 驚いて目を上げると、直冬はそのおでこを指でつっついた。


「田鶴」

「えっ?」


 混乱して同じ言葉を繰り返すと、直冬は今度は自分の鼻を示した。


「僕は、田鶴が好きです」

「そんな……、えっ?」


 三回目とは自分でも間抜けだと思ったが、他に言葉が出なかった。


「そういう反応だと思っていました」


 直冬は寂しそうに笑った。


「全然気付かないんだもの。(にぶ)すぎますよ」


 姿勢を正すと、頭を下げた。


「僕と結婚してください。妻になってください」

「それは……」


 絶句して目の前の相手をまじまじと眺めた。


「菊次郎さんは雪姉様と結婚します。だから、田鶴は僕と結婚するんです」


 直冬は断言した。


「僕の片思いだと思っていたから言いませんでしたが、こうなった以上、もう気持ちを隠しません」


 真剣な顔つきだがむずかゆそうで、頬と耳が紅潮(こうちょう)していた。


「本気なんだ。そう……」


 ようやくのみ込めて、体を一周した驚きが去ると、申し訳ない気持ちになった。


「うれしいけど、駄目だよ。結婚できない」

「菊次郎さんが好きだからですか」

「うん」


 ずばりと言われてどきりとしたが、周知のことなので肯定した。


「今でも変わらずに?」

「もちろんだよ。あたしがこの国に残ったのだってそれが理由だったし」

「本当にそうでしょうか」


 直冬は首を傾げた。


「田鶴はもう菊次郎さんのこと、あまり好きではないように思いますけど」

「はあっ?」


 田鶴はびっくりし、笑い出した。


「何を言い出すの。まだ好きに決まってるじゃない」

「もう友情だと思います。付き合いの長い仲間への信頼と親しみを恋と思っているだけでしょう。始めは本当に好きだったのでしょうけど」

「ちょっと、何言ってるの」


 聞いているうちに腹が立ってきた。


「人の大切な気持ちを勝手に変な解釈しないで」

「変じゃなく、本当のことです。田鶴の恋はもう冷めているんです。でも、誰かを好きな気持ちを失いたくない、うやむやで終わらせたくないから、しがみついて、まだ好きだと思い込もうとしています」

「やめて」

「その恋が実ることはありません。菊次郎さんは雪姉様が好きなんです。ずっと、田鶴のことは妹のようにしか思っていなかったですし」

「うるさい! もう黙って!」


 田鶴は直冬の口を二つの手で塞ごうとしたが、その両腕を直冬はやすやすと握り締めて動きを封じてしまった。


「離して!」


 直冬は田鶴の言葉を無視し、つかんだ両腕を上へ持ち上げて顔を近付けた。


「菊次郎さんには雪姉様がお似合いです。田鶴は僕が幸せにします」

「本当に怒るよ!」


 腕を振りほどこうと暴れたが、直冬の手はびくともしなかった。


「そんな……」


 改めて相手を見つめると、直冬の背は田鶴を頭一つ追い越していた。腕も太くたくましい。以前は着られている感じのあった桃色の甲冑(かっちゅう)がよく似合っていた。


「いつの間に……」


 ずっと子供だと思っていた少年は、一人前の武将の顔をしていた。もう十七歳、輪郭(りんかく)に残った幼さも消えていこうとしている。忠賢たちと騎馬隊の修練を積み、部隊を率いて何度も戦に出ているのだから、当たり前のことだった。


「ひげがあるんだね」

「槍峰国から帰ってきてから伸ばすことにしたんです。まだ短いですけど」


 今頃気が付いたのかと呆れた様子だった。声もかつての甲高(かんだか)さはなくなり、低くてよく響く。


「大人に見られたいの?」

「田鶴には特に」


 直冬は照れたように笑った。子供らしい純粋さと、大人の男らしい野性味とが合わさった魅力的な笑みだった。田鶴は急に、恋愛対象になり得る年頃の男に腕を握られて見つめ合っていることを意識した。


「そろそろ手を離してくれる?」


 恥ずかしさを隠してわざと素っ気なく頼むと、直冬は一歩離れた。


「力、強くなったね」


 自由になった手首は赤くなっていた。思わず隠すようにもう一方の手で握った。


「返事を下さい」


 顔の熱さ、胸の鼓動の激しさを悟られたか気にする田鶴に、直冬は言った。


「結婚してくれますか」


 この青年は真剣なのだ。本気で田鶴に恋をしている。長く一緒の城で暮らしてきたからよく分かった。いい加減な答えは返せなかった。


「できないよ」


 傷付けてしまうけれど、そう言うしかなかった。


「ごめんなさい」


 口にした瞬間、胸に痛みが走った。この言葉でより傷付いたのは自分のように感じた。そんなはずはない、直冬の傷の方がはるかに深いと思うのに、目が(うる)みそうだった。


「諦めません」


 直冬は意外に平気そうな顔をしていた。その答えを予想していたのかも知れない。


「絶対に承知させてみせます。ずっと好きだったんです。菊次郎さんには負けません」


 かわいそうだと思う一方、うれしくもあった。恋愛対象と見たことはなかったけれど、長い時間を共に過ごしてきた大切な人なのだから。その気持ちを言葉にするなら、家族愛。そう、直冬は家族なのだ。だから、結婚は考えられない。


「菊次郎さんにかなうと思うの?」


 意地悪だなと思いながら尋ねると、直冬は顔を暗くした。


「正直なところ、難しいかも知れません。体力と武芸以外でまさるところが見付かりませんから。でも、諦めたくないんです」


 きっぱりと言うと、直冬は記憶に刻むようにもう一度田鶴の顔を眺めた。


「では、出撃します。応援してくれますよね」

「それは、もちろんするよ」


 自然にそう答えていた。勝ってほしいし、怪我をしてほしくない。昔の家族を失った田鶴は、今の家族である彼等の無事をいつも祈っている。戦が好きではないのに戦場に出るのも、助けになればと思うからだ。


「絶対に大きな手柄を立てます。約束します」

「そんなことはいいから、気を付けてね」

「期待していてください。僕にだってやれるところを見せたいんです」


 田鶴の心境に気付かず、励ましの言葉をもらえたことに喜んでいる。直冬は一礼して部屋を出て、廊下を去っていった。


「まだ、どきどきしてる」


 胸に手を当ててつぶやくと、田鶴は数回大きく息を吸い、吐き出した。


「さて、雪姫様のところに行かなくちゃ」


 菊次郎に結婚を断られて落ち込んでいるだろう。田鶴は侍女であり、友人でもある。なぐさめてあげなくては。


「菊次郎さんは大丈夫かな」


 そちらも気になったが、分からなくなっていた。今の彼にふさわしい言葉も、自分の気持ちも。出陣前、軍師は忙しい。侍女の仕事を優先しよう。


「結婚なんて、この戦に勝ってからのことだよね」


 雪姫にどう話しかけようかと考えながら、顔のほてりと胸の高鳴りを収めるために、わざと遠回りの道を選んで主人の部屋へ向かった。



 日没後、直冬隊は(あし)大橋(おおはし)の対岸で船に乗り、切岸(きりぎし)半島に渡った。途中数回の休憩を挟みながら森の中を進み、南国街道の向こうに成安家の宿陣地を望む位置まで近付いた。

 二万を収容しているだけに、広い草地の大部分を占めるほど大きい。周囲に木の柵と空堀をめぐらし、東西二ヶ所に門があった。

 直冬が竹筒の水を飲み、握り飯を食べていると、十杉(とすぎ)惟房(これふさ)が戻ってきた。


「そろそろ夜が明けます」


 直冬隊の四十六歳の副将は森のはずれで敵の様子をうかがっていたのだ。


「我々の動きに気付いている気配はありません。大部分の武者は寝ているようです」

「ありがとう。そろそろ戦闘開始ですね」


 既にそれぞれの分隊は配置について命令を待っている。


「忠賢さんが火矢を撃ち込みます。それが見えたら合図の笛を吹きます」


 兜の()を締め直し、静かに待つことしばし、正面にそびえる大長峰(おおながね)山脈の山際(やまぎわ)がうっすらと白み始めた。


「火矢です!」


 山の手前のまだ暗い空に、一筋の流れ星のようなものが見えた。続いて、多数の光の筋が長い尾を引きながら宿陣地に飛び込んでいく。


「さあ、行くぞ!」


 叫んで立ち上がり、馬に飛び乗った。


「鬨の声を上げよ!」

「桜の御旗(みはた)に栄光あれ!」


 武者全員が叫び、一斉に森を飛び出した。直冬は先頭を馬で走る。目指すは宿陣地の門だ。


「て、敵襲! みんな、起きろ! 起きるんだ!」


 寝ないで門を守っていた敵武者数人がわめいている。


「一気に突破するぞ!」


 直冬が腕を前に振ると、槍武者たちが門に殺到した。門の前の小屋から敵武者がばらばらと駆け出てきたが、数が違う。たちまち多くは突き伏せられ、残りは抵抗を諦めて逃げ出し、仲間を呼ぼうとする。


「門を破れ!」


 用意していた丸太を門扉にがんがんぶつける。かんぬきの棒は豊津城のそれに比べたら小枝のようだ。すぐに折れ、大勢で体当たりすると、ぎいっときしみながら内側へ開いた。


「散らばって火を放て!」


 宿陣地に侵入した一千四百は、百人ごとの隊に分かれて走り回り、油玉をばらまいた。


「ねらいは盾車だ。忘れるな!」


 直冬は辺りを見回して指示を飛ばす。


「武器庫を探せ! 矢や弓を焼き払え!」


 既に宿陣地は大混乱だった。久しぶりに酒を許され戦場にしては豪華な食事をした翌朝でもあり、成安家の武者たちはすっかり油断していた。慌てて飛び起きたが状況がつかめず、右往左往するだけだ。下着姿に兜だけかぶって刀を構えていたり、両脇に鎧と武器を抱えて逃げ回ったりしている。時々武装を終えた武者が立ち塞がろうとするが、せいぜい十人程度の集団で、簡単に蹴散すことができた。


「おう、そっちも来たな!」


 忠賢とすれ違った。騎馬隊は五十人ほどの隊に分かれ、矢を乱射したり、目につくものを片っ端からなぎ倒したり、たいまつで放火したりしている。


「盾車はありましたか」

「そっちは俺たちが焼いた。元尊の野郎を見たか」「いいえ。恐らくどこかに隠れているのでしょう。武器庫を探しています。見付かりましたか」

「似たような建物が多くて分からん。南の方にそれっぽいのが見えたが、もう潮時だろう」


 空はすっかり明るくなった。成安家の焦げ茶色の鎧に比べて襲撃隊があまりにも少ないことを敵も悟っただろう。


「大将を仕留められなかったのは残念だが、第一の目的は達した。俺たちはさっさとずらかるぜ。お前も早く逃げろ」


 忠賢は馬首を返すと、背後にぴったりとつき従っている二騎に合図の笛を吹かせた。先程入ってきた川の方にある門へ向けて駆けると、青い鎧の周囲に騎馬武者が次々に集まり、数が増えていく。


「我々も引きましょう。敵が反撃の態勢を整える前にここを出ませんと」


 十杉(とすぎ)惟房(これふさ)が進言した。成安軍の混乱は収まりつつあり、各所で配下を呼び集める武者頭の声が聞こえている。


「直冬様、ご決断を」


 黙っていると惟房は再度促した。


「もう十分戦果を上げました。ぐずぐずしていると追撃されます。我が隊は(かち)です。騎馬隊のように足が早くありません」

「分かっています」


 直冬は目をつむり、一瞬迷って告げた。


「武器庫を探します。そこだけ焼いて引き上げましょう」

「もう時間切れです。すぐに撤退するべきです」


 惟房は驚いて反対したが、直冬は馬の腹を蹴った。


「南の方にあると聞きました。そちらへ向かいながら皆を集め、焼き払って脱出します」

「しかし!」


 それ以上耳を貸さずに直冬は走り出した。


「やむを得ません。集合の笛を」


 惟房は命じて、あとを追った。

 目的の建物群はすぐに見えてきた。同じような倉庫が二十以上並んでいる。その前に、二千を超す焦げ茶色の鎧が整列していた。


「しまった」


 直冬は思わずつぶやいた。これほどの敵がいるとは思わなかったのだ。


「引きましょう」


 惟房が懇願した。


「とても無理です」

「焼き払ってからです。これだけの敵が守っているのです。きっと大切なものが入っています」

「ですが、背後からも接近してきます。死傷者が増えます。諦めましょう」


 直冬は無視して命じた。


「火をかけよ」


 武者たちが油玉に火をつけ、次々に放り投げた。敵も黙って見てはいない。一斉に矢を浴びせてきた。周囲の味方が数人倒れた。


「一部は燃えたな。引くぞ!」


 大声で命じて、入ってきた森側の門へ向かう。


「敵が逃げるぞ! 追撃しろ! 宿陣地から出すな!」


 敵の武将が叫んでいるが、追いかけてきたのは半数程度だ。残りは建物についた火を消そうと走り回り、大慌てで中身を運び出している。馬上で振り返ったが、武器が入っていたのか確かめられなかった。


「後尾に食い付かれました。交戦が始まっています」


 惟房の声に焦りがまじっている。後ろだけでなく、左右にも敵の部隊がいる。一千四百の直冬隊は、数倍の敵に包囲されそうになっていた。


「もう少しで門だ。急げ!」


 徒武者たちを励まして走らせながら燃え上がる建物をいくつか曲がり、門が視界に入ると、直冬は顔をこわばらせた。


「待ち伏せですか」


 門の前に敵部隊がいる。通さないつもりのようだ。ざっと三百、多くはないが、背後と左右からも敵が来る。


「引き際をあやまりました」


 唇を噛み締めたが、迷ったのは一瞬だった。


「惟房、後ろの半数を任せます。守りを固め、時間をかせいでください」

「かしこまりました」


 言いたいことはあったろうが、惟房は頷き、即座に周囲の武者に声をかけて陣形を作っていく。


「残りは僕について来い! 門の前の敵を排除する!」

「ははっ!」


 直冬は素早く槍衾を作らせ、残りの油玉を全部投げつけさせると、槍武者に前進を命じた。


「一気に押しつぶせ! 敵は少ないぞ!」


 槍の列が足並みをそろえて接近していく。もっと急げ、時間がないんだと言いたくなるが、ばらばらに襲いかかっても撃退されるだけだ。

 自分も行きたかったが、大将だ。馬上で声をかけて武者を励ます。敵も槍衾を作り、盾を並べて防御の態勢だ。彼等は時間を稼ぐだけでいい。直冬隊は既に包囲されている。後部をじりじりと削り、ほころびができたら斬り込んで押しつぶすだけだ。


「まずいですね。あそこで欲を出さなければ」


 直冬は後悔と恐怖を周囲に悟られぬよう、必死で余裕の笑みを作っていたが、足が震えていた。このままでは全滅する。その前に降伏するべきだろうか。


「一人も生かして外へ出すな! 全員殺せ!」


 敵の武者頭が叫んでいる。怒り狂っているようだ。降伏しても許されないかも知れない。

 二人の姉や直春、菊次郎の顔が目に浮かんだ。もう会えないのだろうか。


「田鶴、ごめんなさい。せめて一度くらい抱き締めたかったです」


 涙がこぼれそうになり空を見上げた。

 その時、聞きたかった乙女の声が耳に飛び込んできた。


「直冬さん、まだ無事だよね?」

「田鶴?」

阿古屋貝(あこやがい)、いくよ!」


 空耳かと思ったが、ぴいいと鋭い音を立てながら一本の鏑矢(かぶらや)が空を切り裂いて飛ぶのが見えた。


「現実だ!」


 悟ると、とっさに最大の声で叫んだ。


「全員、目をつむり、息を止めろ! 口を閉じ、鼻を覆うんだ!」


 武者たちは驚きながらも腰から布を抜き取って指示に従った。次の瞬間、門や周辺の塀を越えて、大きな貝が飛び込んできた。一抱えもある貝は、高く宙に舞ったあと、地面に激突して破裂した。さらに多数の煙玉や貝殻玉が放り込まれた。


「どわっ、何だ? どこからだ?」


 飛び散った鋭い破片で多数の武者が傷付いた。慌てて敵は辺りを見回したが、すぐにのどを押さえて咳き込み始めた。


「これは、目つぶし、いや、のどつぶしか!」

「ごほっ、ごほっ、息ができんぞ!」


 焼けるような刺激がのどに張り付き、呼吸がうまくできない。

 そこへ若い声が響いた。


「放て!」


 多数の矢が門を固める武者たちの背に浴びせられた。


「敵の援軍が門の外にいるのか。気を付けろ!」


 武者頭は顔をしかめながらも指示を出そうとした。


「口と鼻に布を当てろ! 敵と同じようにするんだ! 百人は後方の敵に備え……」


 言葉は突然途切れた。武者頭の体がぐらりと傾き、馬から落ちたのだ。背中に矢が刺さっていた。


「直冬さん、大丈夫?」


 門の向こうで声がする。


「田鶴ですか。さすがの腕ですね」


 直冬は感嘆し、すぐさま命じた。


「敵は混乱している。今が好機だ。一気に突破し、門を出るぞ! 全員、続け!」


 いうなり馬の腹を思い切り蹴り、門へ突進した。苦しんでいる敵武者をかき分け、外へ向かう。


「直冬様に続け! 走れ! 走れ!」


 直冬隊の一千四百はなだれのように門に殺到し、成安家の武者を押しのけて門を出た。


「逃がすか!」


 急に走り出した直冬隊に驚いた包囲部隊は、追撃しようと慌てて門を出てきた。


「敵は徒武者、足は遅いはずだ! うぐっ!」


 先頭にいた武者頭が突然胸を押さえて落馬した。


「どうしました? うわっ?」


 武者頭に駆け寄った副将にも矢が刺さった。


「狙撃か!」


 門の少し先に二百人ほどの武者がいて、真ん中で一人の乙女が弓を構えていた。次々に成安軍の騎馬の者を射落としていく。他の武者も矢を連射している。


「何という腕だ」


 驚く成安軍を騎馬隊が左から攻撃した。


「今だ! 蹴散らせ! 突き崩せ!」


 錦木仲載隊だった。六百人が槍を構えて突入し、門を出たばかりの焦げ茶色の鎧を次々に跳ね飛ばし、突き伏せている。反対側からは忠賢隊が襲いかかった。


「世話のやける坊やだな!」


 夜襲に参加した数のほぼ半分の八百ほどが、雄叫びを上げて焦げ茶色の鎧を次々に(ほふ)っていく。


「直冬さん、今です! 森へ!」


 菊次郎の声がした。田鶴の隣にいたのだ。乙女に目を奪われて気が付かなかった。


「皆さん、ありがとうございます!」


 直冬は涙を浮かべて叫び、武者を率いて先程出てきた森へ向かった。木々のそばまで行くと、武者を先に行かせ、自分は逃げてくる者たちを待った。

 直冬隊が全員門を出ると、菊次郎隊は小型の投石機を分解し、矢を射ながら森の方へやってきた。仲載隊は門の前へ三角菱をまき、忠賢隊と一緒に追撃を振り切って城の方へ走っていった。


「やれやれ、助かりましたな。大軍師様のおかげです」


 惟房は最後に戻ってきた。百人ほどの武者は全員怪我をしている。


「すみませんでした」


 頭を下げると、副将は表情を改めて低い声で言った。


「この経験を次に生かしてください。あなたは多くの武者の命を預かっているのです」

「はい。よく分かりました」


 直冬は歯を食いしばってもう一度頭を下げた。忠賢と別れた時にすぐに引き上げていれば死傷者は半数以下ですんだ。明らかに直冬は判断を誤ったのだ。菊次郎の予想より多くの損害が出たことで、今後の籠城戦に影響が出ることは避けられない。


「この森にはいくつか罠をしかけました。追ってこられないでしょう。近くの岸辺に船がいます」


 菊次郎隊は用意してあった大量の煙玉に火をつけて森の入口に煙幕を張ると、奥へ向かって歩き出した。直冬たちもついていった。武者たちは皆疲れ切った様子で、勝利の喜びはなかった。


「無事でよかった、本当に」


 田鶴がそばに来た。ほっとした顔をしている。


「忠賢さんが教えてくれたの。直冬さんが逃げ遅れるかも知れないって」

「そうでしたか。あとでお礼を言っておきます」


 忠賢は直冬を心配してすぐに撤退せず、近くにとどまっていてくれたのだ。判断を誤るかも知れないと思われ、その通りになったわけだ。どっと疲れが襲ってきてうなだれた。


「大丈夫?」


 直冬の肩に手を伸ばそうとして、田鶴は顔をしかめた。


「痛っ!」

「どうしたんですか」


 直冬は顔を上げた。


「ちょっと腕に怪我をして」

「えっ!」


 直冬は青くなって田鶴の手首をつかんだ。


「どこですか。どれほどの傷ですか」

「大したことないよ。矢がかすっただけだもん」


 田鶴は笑ったが、直冬は破けた袖をまくり上げ、ひじのすぐ上に青いあざを見付けた。


「ほら、本当にちっちゃな傷でしょ。お城に戻って冷やせば治るよ」


 千本槍(せんぼんやり)城の近くの氷室(ひむろ)から、菊次郎は治療用に雪や氷を運ばせていた。


「ですが……」


 直冬は顔を伏せた。


「助けてもらった上に、危険な目にあわせて怪我をさせるなんて」

「気にしなくていいの。直冬さんを助けるためだもん」


 直冬は涙を浮かべて首を振った。


「だからこそ自分が許せなくて」


 目をぬぐう直冬を眺めて、田鶴は小声で尋ねた。


「どうしてあんな無茶をしたの?」


 幼い弟の失敗をたしなめる姉のような口調だった。


「菊次郎さんに言われたよね。敵が態勢を立て直す前に素早く撤退するようにって」


 いつもの直冬らしくないと言いたいらしい。


「手柄を立てるためです」


 直冬は答えた。


「盾車は忠賢さんが焼き払いました。だから、僕は武器庫を焼きたかったんです」

「最近手柄にこだわるね。どうしてなの?」


 田鶴はよく分からないという顔だった。直冬は桜舘一族だ。出世や加増のために無理をする必要はない。


「菊次郎さんに勝ちたかったんです」

「えっ?」


 田鶴は目を見開いた。


「勝つというのは無理かも知れません。菊次郎さんはすごすぎますから。それでも、僕だって一人前の武将として働けることを示したかったんです」

「どうしてそんなことを気にするの? 直冬さんは立派な武将だよ。直春さんも豊津城を頼むって船に乗せてくれたじゃない」

「田鶴に選ばれるのにふさわしい男になりたかったんです。菊次郎さんから田鶴を奪っても誰もが納得するような名将だと証明したかったんです」

「そんなこと!」


 田鶴は大きな声を出した。


「直冬さんは直冬さんだよ。菊次郎さんと比べたりしないよ」

「分かっています。それでも、世間はどう見るでしょうか。あんな子供が大軍師様より田鶴を幸せにできるはずがないと言われるでしょう。何より、僕自身が、菊次郎さんに勝って田鶴を自分のものにしたいんです。知恵ではかないませんが、菊次郎さんは武将としては働けません。そっちで力を示したかったんです。でも、多くの武者を失い、田鶴に怪我をさせてしまいました」


 田鶴は息をのみ、つぶやいた。


「直冬さんって、思ってたよりばかだね」

「ばかとはひどいですね」


 あんまりな言葉につい言い返すと、田鶴はくすっと笑った。


「だって、本当にばかなんだもん」


 やさしい口調だった。


「直冬さんは菊次郎さんとは違うよ。いいところも悪いところも違う。菊次郎さんと張り合っても意味ないよ」

「でも、負けたくないんです。田鶴についてだけは。どっちが田鶴に好かれるか、これは勝負なんです」


 田鶴は溜め息を吐いた。


「あたしが菊次郎さんを好きなのは、戦に強いからじゃないよ」

「なら、どうしてなんですか」

「それくらい分からないの?」


 何となくむっとして、「はい」とは言えなかった。


「やっぱり、男としての甲斐性でしょうか。菊次郎さんは軍師をやめても生きていけそうですし」


 自分は武将を続けるしかないと直冬は思っていた。お城の外の世界をほとんど知らないのだ。


「軍師をやめたら僧侶になっちゃうよ」


 田鶴はおかしそうに言った。もうその心配はないと思っている様子だった。


「そういう意味ではなくて……」


 いらだちをぐっと抑えて、誓う気持ちで言った。


「今回は失敗しました。でも、次はうまくやります」


 田鶴は困った顔になった。


「また無茶をするつもりなの?」

「したくはありませんが、まともにやっていたら菊次郎さんに勝てません」

「じゃあ、次も助けにこないといけないね」


 いたずらっぽく言われて気が付いた。


「そういえば、どうして田鶴と菊次郎さんは近くにいたんですか。仲載さんも。お城を守っているはずでしょう」

「あたしが言ったの。心配だって」

「えっ……!」


 直冬は絶句した。


「出陣の前にあんなこと言ったから」


 絶対に手柄を立てると約束したことだろう。


「菊次郎さんや忠賢さんも直冬さんが焦ってることに気付いてたから、離れたところで見てて、危なくなったら助けようってことになったの」

「そうだったんですね」


 直冬はうなだれた。気ばかり(はや)って周囲に心配をかけた挙句、本当に失敗してしまった。


「だから、もう無茶はしないでね」


 子供相手のような口調に、悔しさでまた涙が出そうになった。


「それは約束できません」


 意地になっていることは自覚していたが、それでも首を振った。


「どうして?」

「堂々と田鶴を奪いたいんです。菊次郎さんに負けない立派な男だと証明しなくてはなりません。でないと、田鶴も僕も幸せになれないんです。二人のためなんです」


 田鶴は呆れたように一つ息を吐くと、憐れむ表情になった。


「そんなこと、あたしは望んでないのが分からないの? そんなんじゃ、菊次郎さんにはいつまでたっても勝てないよ。今の直冬さんはかっこよくないよ」

「これは男の誇りの問題なんです」


 田鶴は眉を寄せ、小声で尋ねた。


「手柄を立てても絶対に直冬さんとは結婚しないって言ったら?」

「そういう問題ではありません。僕はもう菊次郎さんに挑戦状をたたき付けたんです。男の勝負なんです!」

「男、男って、まったくもう……。とにかく、無茶は駄目だからね」


 田鶴はそれ以上何も言わず、菊次郎の方へ行ってしまった。


「僕は必死なんです」


 直冬はつぶやいた。勝てるとは思っていない。今回も結局は菊次郎が助けてくれたのだ。差の大きさを思い知らされ、絶望的とさえ感じる。それでも、挑むと決めた以上、いまさら敗北を認めて引き下がることはできなかった。


「どうして僕の気持ちを分かってくれないんでしょうか」


 恨み言を言いたくなるが、田鶴を好きな気持ちは大きくなりこそすれしぼむことはない。

 初めて会った時から()かれていて、恋だと悟ったのは三年前。それ以来、ずっと自分の思いと菊次郎への劣等感のはざまで苦しんできた。師と仰いで尊敬し、大好きだからこそ、負けたくなかった。勝ちたいけれど、菊次郎に圧勝してほしくもある。それでも、田鶴には自分の方がふさわしいと思う。


「何でもいいんです。自信を持てるものがあれば」


 自分を低く評価しているわけではない。菊次郎という高い山に引け目を感じずに対等の恋敵でいるために、誇りを支えてくれるものが欲しいのだ。


「次はうまくやります。絶対に」


 こぶしを握って、直冬は足を早めた。林の向こうに朝日に照らされた青い海と、水軍の船団が見えていた。



 その日、成安軍は南へ移動した。火災で多くの建物が焼けてしまったので、もっと豊津城から離れた安全な場所に宿陣地を造り直すことにしたのだ。

 特に痛手だったのが兵糧が燃えたことだった。直冬が撤退を遅らせて襲撃した倉庫のいくつかに米俵が入っていたのだ。宗速が豊津城へ向かう途中で集めた物資も多くが灰になった。新しい宿陣地は侵入されぬように頑丈な門を作り、周囲の柵と空堀を二重にする。

 元尊は宿陣地を造る場所へ移動すると、作業は武者頭たちに任せて主だった武将を集めた。


「現在、動かせる兵力はいくらですかな」


 宜無(むべない)郷末(さとすえ)が答えた。


「昨夕二千五百が加わり、出陣してきた二万五千が葦江国にそろいました。そのうち、これまでの死傷者は四千です」


 水軍の船で豊津港へ上陸しようとして敗退した部隊に合流を命じていたが、桜舘軍の夜襲の直前に鯖森国から到着していたのだ。


「宿陣地に一千を残すと、二万が出陣可能だ。城を攻めるには十分な数だな」


 宗速が言い、子乗(このり)猛喜(たけよし)も積極策を支持した。


「今朝の襲撃で桜舘軍も損害を出したはず。敵も苦しいのは変わりませぬ。休まず攻めるべきですぞ」


 宿陣地内の混乱と、追撃しようとして騎馬隊に襲われたことが原因で、成安軍の損害は一千に上った。一方、桜舘軍にも三百程度の損害を与えたと思われる。これまでの城攻めも合わせると一千近くは戦闘不能になっているはずだ。


「さよう。まだ勝ち目はあります。武者たちの士気は失われておりませぬ」


 進所(すすど)悦哉(えっさい)は「たび重なる敗北にも」を敢えて省略した。


「夜襲してきた敵は短時間で引き上げました。我等を墨浦に追い返すほどの力はないのですな」

「問題はどう攻めるかです」


 糸瓜(いとうり)当仍(まさより)は難しい顔だった。


「実に攻めにくい城ですな。包囲できませんので」


 普通、城を攻める場合は囲んで外部と連絡できないようにするが、豊津城の東側や北側に出るには境川や海を越える必要がある。三方に門があるのに南側の一つしか攻められず、数の多さを生かせないのだ。


「城内へ通じる地下道を掘ってはどうですかな」

「それは無理でしょう。このあたりはもとは湿地だったそうですよ」


 明告(あけつげ)知業(ともなり)が考えを述べた。


「何とか川を越えるしかないと思います。他の門へ敵を分散させれば、大手門の守りにも隙が生まれます」

「うむ。私も皆と同意見ですな」


 元尊は我が意を得たりという顔になった。


「攻める手を休めては敵の思う壺。すぐに次の攻撃を行いましょう。豊津へ上陸する策を提案しますぞ」


 武将たちを見回して地図を示した。


「宇野瀬家と戦った時、桜舘家は橋を通行不能にして城に籠もり、町を守ったと聞きました。桜舘家は豊津商人と結びつきが強いのです。町へ上陸すれば、敵は必ず多くの武者をそちらへ差し向けるでしょう。そこを総攻撃するのです」

「しかし、どうやって? 船はないぞ」


 宗速は首を傾げた。豊津周辺は楠島水軍の縄張りだ。成安水軍は近付けない。


「いかだを使います」


 元尊は自信ありげに告げた。


「森で木を切っていかだを作り、境川を下ります。鏡橋(かがみばし)の下をくぐり、(あし)(うみ)に出たら、(かい)()いで町へ近付きます。敵はそちらを警戒しておりませぬ。上陸は難しくないでしょうな」

「この季節、境川は流れが急ですよ。本当に下れますか」


 知業が指摘した。藤月は大長峰(おおながね)山脈の雪が解けて水量が増える時期なのだ。


「いかだを大きく丈夫にすればよいのです。葦の江まで出れば流れはゆるやかですよ」


 元尊はまたお前かという表情をしたが、にこやかに持っていた兵法書を開いた。通常より一回り大きないかだの作り方が図入りで書いてある。


「幸いそばに森があり、材料には困りませぬ。宿陣地を造るにもたくさんの木材がいるのです。水堀に浮かべれば大手門を攻めるのにもいかだは使えましょう」


 武将たちは顔を見合わせたが頷いた。他に名案はなく、反対する理由もない。


「では、敵の襲撃を警戒する者以外全てを使って木を切らせましょう」

「ははっ!」


 諸将はすぐに動き出した。猛喜は木を切る監督をし、悦哉はいかだ作りを指揮した。当仍は空堀と柵で宿陣地を囲わせ、知業は倉庫と盾車を作らせた。宗速は武装した武者を率いて護衛だ。

 そうして、たった二日で成安軍は安全な宿陣地といかだと盾車などの攻城器を作り上げた。


「さあ、いよいよ明日ですぞ」


 全ての準備は整った。元尊は上機嫌で諸将をほめ、手ずから酒を注いでやって乾杯した。


「朝早くここを立ち、豊津城へ向かいます」


 新しい宿陣地からは少し距離があるのだ。


「激しい戦いになりましょう。武者たちをよく眠らせておいていただきたい」


 元尊も新しい建物の中で早めに布団にくるまった。氷茨(ひいばら)家の小荷駄隊に持ってこさせたものだ。


「とうとう豊津城が落ちる。桜舘家もおしまいだ。大軍師の小僧を捕らえたら、さらし者にしてから殺してやろう」


 高ぶる気持ちも疲労には勝てず、元尊はすぐに寝息を立て始めた。

 翌日、まだ日が昇る前に郷末に起こされた。昨夜作っておいた握り飯を腹に入れて甲冑を身に付けると、元尊は輿(こし)に上がった。


「出陣! 今日は勝利の日だ!」


 二万の軍勢は宿陣地の前で二手に分かれた。元尊は主力一万五千を率いて街道を北へ向かう。境川をいかだで下る者たちは約五千、主力が城に近付いたところで川へ乗り出す。

 夜が明け、豊津城が遠くに見えてきた。


「いまいましい天守だ。桜舘家のおごりの象徴だな」


 葦江国で一番高い建物なのでとても目立つ。敵武者は城壁の内側にいるため見えないが、城に特に変わった様子はなかった。


「よし。いかだ部隊に合図を出せ」


 赤い軍配を振るって元尊は命じた。


「城を守っている最中(さなか)にいかだの群れが川を下ってきたら、敵は仰天するだろうな」


 にんまりと笑ったその時、天守の最上階に一人の武将が現れた。


「何者だ? 白地に金や赤をあしらった甲冑だと? ……まさか」


 その武将はすらりと腰の刀を抜き、大きく左右に振った。すると大手門が開き、武者がぞろぞろと橋を渡って外郭へ入っていく。その列はなかなか途切れない。五千を軽く超えている。


「直春だと! そんなばかな! まだ合戦から十三日だぞ!」


 槍峰国からは急いでも半月はかかると踏んでいた。二日かけて宿陣地の建設といかだ作りをしても、帰着より先に落城させられると考えていたのだ。だが、あの鎧、堂々たる体躯、手にした名刀。間違いない。桜舘家の当主が帰ってきたのだ。


「どうなさいますか」


 郷末が感情のない声で尋ねた。


「ただ今物見の報告が届きました。敵の主力は全て昨夜のうちに城に入ったそうです。現在豊津城にいるのは九千ほどのようです」

「九千だと!」


 悔しさに声が震えた。あの堅城にその数が籠もったらとても落とせない。


「撤退する」

「よろしいのですか」

「だから、そう言っている! 宿陣地に引き上げて作戦の練り直しだ! このまま攻めても勝てんのだ!」


 わめくような口調になったが、武者たちの視線を気にするどころではなかった。桜舘家の主力がいないうちに葦江国を落とし、可能なら茅生国まで進出する。狢河原以降失った広さ以上の領地を得て、連署としての権威と権力を取り戻す。その目論見が不可能になったのだ。


「いや、まだだ。まだ、方法はあるはずだ。戻って考えよう。考えるしかない!」


 吐き出すようにつぶやいて、元尊は輿を担ぐ八人に引き返すように命じた。一万五千がそれに続いた。


「わざとゆっくり戻るぞ。追撃してきたら反転して打ち破ってやる」

「敵は引いていくぞ! 逃げ出したのだ! 我等の勝利だ!」


 後ろで爆発するような勝利の雄叫びが轟いた。


「おのれ!」


 元尊は歯ぎしりし、親指の爪を噛み始めた。

 桜舘軍は追撃してこなかった。

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