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狼達の花宴 ~大軍師伝~  作者: 花和郁
巻の六 伸ばした手
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(巻の六 伸ばした手) 第一章 槍峰国へ

『狼達の花宴』 巻の六 吼狼国図

挿絵(By みてみん)


『狼達の花宴』 巻の六 足の国北部図

挿絵(By みてみん)


青峰(あおみね)忠賢(ただかた)様。ご婚約、おめでとうございます」


 菊次郎たちはそろって頭を下げた。黒い羽織と灰色の(はかま)で正装した忠賢は、許嫁(いいなずけ)と共に畳に手を突いた。


「ありがとうございます。皆様のおかげでございます」


 降臨暦三八二〇年の桜月(さくらづき)も半ばを過ぎ、新豊津(とよつ)城に植えられた桜の若木はすっかり緑の葉に覆われている。春らしいさわやかな風が、本郭(ほんくるわ)御殿(ごてん)の広間に(うち)(うみ)の潮の香りを運んできていた。


「本日はわざわざお集まりいただき、感謝申し上げます。どうかわたくしたち二人と今後も変わらぬお付き合いをお願い申し上げます」


 忠賢は神妙な様子で答礼したが、すぐに顔を上げてにやりとした。


「俺もいよいよ年貢の納め時だぜ」


 晴れ着姿の田鶴(たづる)が呆れた顔をした。


「花婿がにやにやしないでよ。弘子(ひろこ)さんはとってもおしとやかなのに」

 槻岡(つきおか)良弘(よしひろ)の末娘は真っ白に化粧した顔を幸福そうにやわらげてにこにこしている。


「その方が忠賢様らしいと思います」

「よく分かってるな。さすがは俺の嫁さんだ」


 忠賢がますます笑みを大きくすると、直冬が吹き出した。


「せっかくのいい男が台無しですよ。珍しく無精(ぶしょう)ひげを()ったんですから、もっと顔を引き締めないと」

「今日くらい、いいじゃないか。兄貴、よかったですね」


 錦木(にしきぎ)仲載(なかとし)はうれしそうだ。騎馬隊の指揮を学びにきて忠賢にほれ込み、滅多に国に帰らず豊津にいついている。


「いや、実にめでたい。忠賢殿も、良弘もな」


 直春が声をかけると、筆頭家老は顔をほころばせて主君に礼を述べた。


国主(こくしゅ)様のおかげです。娘をよい相手に嫁がせることができました。肩の荷が下りましたぞ」


 忠賢を見込んだ良弘が、主君に仲介を頼んだのだ。直春と妙姫は忠賢を呼び出して話を持ちかけた。


「会ってみたが、しっかり者で気立てがよさそうだ。少々日に焼けて体つきはがっしりしているが、器量も悪くない。武家の娘なのに、畑で花や野菜を作るのが好きらしい。それで二十歳になっても嫁ぎ先が決まらなかったのだ。料理や家事は得意だそうだから、忠賢殿には似合いではないかと思う」


 話を聞いて忠賢は少し考えたが承知した。


「もう二十八だ。領地も万貫を超え、家臣も増えた。そろそろ身を固めてもいいだろう。畑仕事が嫌で武家になった俺がそういう嫁さんをもらうのも奇妙な縁だが、体は丈夫でよい子を産みそうだ。この俺が由緒ある家老家の娘をめとる日が来るとはね」


 この縁談を聞いた人々は皆喜んだ。もちろん菊次郎たちもだ。直春も幸福そうな友人の姿に目を細めている。


「忠賢殿は当家を支える名将だ。近隣国にも武名が轟いている。こういう話が今までなかったのがおかしいくらいだ。紋付の上等な羽織が板についているではないか」


 蓮山(はすやま)本綱(もとつな)も感心した様子だった。


「本当に見違えましたぞ。三万貫の(あるじ)の貫禄十分ですな」

「弘子さんもとてもおきれいです。お似合いですね」


 (たえ)姫がほめると、忠賢は照れ臭そうにした。


「そっちももうすぐおめでただな」


 妙姫はお腹が大きい。六ヶ月になる。子供が好きな田鶴はうらやましそうな顔で膝に乗せた小猿の背を撫でている。


「お祝い事が続くね。忙しくなりそう」


 今日は(うち)(うち)の披露で、婚儀は日を改めて盛大に行う。筆頭家老の娘と桜舘(さくらだて)家で最大の貫高を()む国主の腹心が結婚するのだ。


「忠賢さんはこういう着物も似合うんですね。背が高くて胸板が厚いから、花婿の晴れ着が()えるでしょうね」


 菊次郎が感心すると、忠賢は顔を向けた。


「お前はどうなんだ」

「どうとは?」

「お前も二十一だ。そろそろ結婚してもおかしくないだろ」


 田鶴がはっとして雪姫を見やった。ずっと黙っていた十八歳の姫君は、視線に気付いて顔を上げ、菊次郎と目が合うとすぐに下を向いた。


「お前は結婚する気はないのか」


 忠賢がさらに追及し、菊次郎が返答に困っていると、仲載が急に大きな声を出した。


「国主様、妙姫様」


 何事かと人々の視線が集まった。仲載は緊張した面持ちで丁寧に、しかし力を入れて言葉を続けた。


「雪姫様を俺の妻に頂戴したく存じます。お許しいただけませんか」


 田鶴が息をのんだ。直春と妙姫は目を見張って視線を()わした。


「それは仲宣(なかのぶ)殿も了承されていることなのか」

「はい。父の許可は得ています」


 はっきりと仲載は答えた。


「これは錦木家としての正式な申し込みです。日を改めて使者をお送りしますが、俺も父も本気です」

「そうか……」


 直春は口を閉じた。忠賢や直冬は驚いた顔で成り行きを見守っている。田鶴は雪姫と菊次郎を見比べていた。肝心の雪姫は、先程より一層うつむいて暗い顔をしている。


「どうか、ご許可を下さい。桜舘家と縁戚になりたいのです。俺自身も雪姫様を愛しております」


 仲載は少し顔を赤らめながらも照れずに言い切った。直春は妙姫や雪姫に目を向けて、どう答えようかと思案する様子だった。


「当家としては願ってもないお話だと思う。あとは本人の気持ち次第だ」


 直春は義妹に問いかけた。


「雪姫殿はどう考えている。仲載殿に嫁ぐつもりはあるか」


 しばらくの間、雪姫は身じろぎをしなかった。やがて顔を上げ、仲載を見つめて、ちらりと菊次郎と田鶴へ視線を走らせると、首を振った。


「お断りします」


 仲載は体の力が抜けた様子だったが諦めなかった。


「どうしてですか。俺では不満ですか」


 少しためらって付け加えた。


「それとも、他に好きな男でもいるのですか」


 雪姫はまた首を振った。


「違います。私は……」


 一度言葉を切って唇を噛み締めると、投げ出すように言った。


「私は子供を産めないんです!」

「えっ!」


 仲載は意外そうに声を上げた。


「月のものがちゃんと来ないんです。体が弱いから。だから、子供を産めません。嫁ぐ資格がないんです!」


 叫ぶように言い捨てると、雪姫は立ち上がり、部屋を走り出て廊下を去っていった。


「雪姫様!」


 一瞬呆然とした田鶴が慌てて小猿を膝から下ろし、一緒にあとを追っていった。廊下に控えていた侍女のお(とし)もお辞儀をして早足で付いていった。


「本当にそうなのか」


 直春が尋ねると、妙姫は頷いた。


「料理を始めてから食べる量が増え、最近は体の調子がよくて、以前は来なかったものが時々来るようになっていましたが、安定はしていないようです。あの子も気にしていたのですね」

「そんな……」


 仲載はがっくりと両手を畳に突いた。


「仲載、気を落とすな」

「そうです。元気を出してください」


 忠賢が近付いて同情するように肩をたたき、なぜか泣きそうな顔の直冬が(はげ)ました時、廊下を駆けてくる足音がした。


「国主様、いらっしゃいますか」

「どうした」


 直春が当主の顔に戻った。


「緊急の報告がございます」

「申せ」


 家臣は廊下に素早く平伏すると、興奮気味に告げた。


増富(ますとみ)家の持康(もちやす)公が本日五形(いつかた)城を出陣しました。一万を(ゆう)に超える大軍で、目標は北東とのことです」


 桜舘家では昨年から鳩による通信を取り入れている。葦江国(あしえのくに)茅生国(ちふのくに)の諸城の他、各地にひそんでいる隠密衆にも鳩を配ってあり、徒歩で七日はかかる万羽国(よろずはのくに)の情報がその日のうちに手に入るようになっていた。


「当家に内応の約束をした槍峰国(やりみねのくに)外様(とざま)衆を狩るつもりか」


 直春の視線に気付いて、菊次郎は我に返った。


「そう思います。恐らく救援要請が来るでしょう」


 増富家が本城に武者を集めているという情報は届いていた。煙野国(けぶりののくに)(はち)()()家の討伐と称していたが、本当のねらいは違っていたようだ。


「なら、出陣だな」


 忠賢も武将の顔になっている。


「でも、もうすぐ夕刻ですよ」


 直冬が指摘した。菊次郎は進言した。


「夜間に無理な行軍をするよりも、明日朝早く出発する方がよいでしょう。持康公自らの出陣です。こちらも動かせる最大の数で向かいましょう」

「そうだな」


 直春は頷くと、仲載に言った。


「雪姫殿に結構なお話を頂いたが、(いくさ)が始まる。彼女の気持ちも確かめたい。申し訳ないが、正式な返事は戦が片付いたあとにさせてもらいたい。そちらも考える時間が必要だろう」

「はい。それでかまいません」


 仲載は戦を何度も経験している武将だ。何を優先するべきかはわきまえている。

 忠賢が婚約者に言った。


「残念だが、俺たちの婚儀も延期だな」


 言葉とは裏腹に、表情は戦意に満ちていた。戦が好きな男なのだ。


「帰ってから勝利の祝いと一緒にやればいいさ。良弘もそれでかまわぬな」


 直春が言い、槻岡家の父と娘は頭を下げた。


「では、評定の間へ移動しよう。明日出陣することを知らせて主だった家臣を城へ呼べ。軍議を行う。菊次郎君は作戦を頼む」

「はい」


 菊次郎は頷きながら、内心ほっとしていた。雪姫の結婚話は一時棚上げになった。菊次郎があの姫君と自分の気持ちに向き合って結論を出すのは先延ばしになったのだ。

 だが、いつまでも宙ぶらりんではいられない。結論を出し、決着をつけなければならない時は、そう遠くないだろうと思われた。



 翌桜月二十一日の早朝、桜舘軍は豊津城を()った。菊次郎は忠賢の騎馬隊に同行し、直春・直冬・蓮山本綱たちの本隊より先行することになった。

 菊次郎の献策と萩矢(はぎや)頼算(よりかず)差配(さはい)によって、茅生国の諸城への街道は整備されている。いざという時の兵糧を各所に備えてあるので、騎馬隊の足は早かった。土長(つちなが)城・撫菜(なでな)城・鳥追(とりおい)城を()ながら南部三家の軍勢と合流し、七日後には望水(のぞみ)峠を越えて万羽国(よろずはのくに)へ入った。

 国境(くにざかい)雀形(すずめがた)山脈のふもとには(ひざし)(うみ)という足の国で一番大きな湖がある。桜舘・泉代(いずしろ)市射(いちい)・錦木四家の連合軍九千七百はその東岸を北上し、湖の北端にある陽光寺(ようこうじ)砦を包囲した。

 その三日後の三十日の昼過ぎ、菊次郎たちは砦から少し離れた森の奥に隠れていた。


「大軍師殿、本当に持康公は今日ここへやってきますかね」


 次第に傾いていく太陽を木々の間から見上げて、錦木仲載が尋ねた。その背中に菊次郎は答えた。


「恐らくやってきます」

「なぜそう分かるんですか」


 仲載は振り向かず、眼下を南北に走る両湯(もろゆ)街道とその先にある陽光寺砦を眺めている。


「持康公はそうするだろうと、定恭(さだゆき)殿と意見が一致しました」


 敵を待つ間の暇つぶしと緊張をやわらげるためのおしゃべりだと分かっていたので、菊次郎は三日前に説明したことをもう一度繰り返すことにした。仲載と話をしていると周囲はむしろ緊張するようだったが。


「今回持康公が出陣したのは、槍峰国(やりみねのくに)の外様衆の反乱を恐れたからです。多くの者が離反する原因を作ったのは持康公自身ですが」


 鳥追城外の合戦のあと、持康は失った茅生国(ちふのくに)の奪還を誓い、戦力の回復と強化をしようとした。しかし、二十万貫分の収入が減ったので、家臣たちから貫高に応じて金銭を徴収する新しい税を設けた。


「それが不公平だったんです。新家と旧家に比べて外様衆はより多くの負担を求められました」

「それは怒るよね」


 二人の表情をうかがいながら小猿を肩に乗せた田鶴が話に加わり、そんなことを気にしない忠賢は呆れた口調だった。


「あの合戦の時、持康は軍勢を置き去りにして一人で逃げた。橋を焼いて味方の退路まで断ちやがった。取り残された外様衆は俺たちが持ちかけた停戦のおかげで生きて帰れたんだ。そいつを()びるどころか重い税をかけたんじゃ、嫌われるに決まってるさ」

「その上、副軍師殿と小薙(こなぎ)殿が離反しましたからな」


 泉代(いずしろ)成明(なりあき)柳上(やながみ)定恭(さだゆき)へ目を向けた。


「増富家中の動揺は相当なものでしょうな」


 茅生・槍峰両国の攻略や多くの合戦で活躍した定恭は、増富家中で畏敬(いけい)されていた。とりわけ、主家を滅ぼされた旧采振(ざいふり)家の外様衆に恐れられていた。その()軍師が増富家を見限った衝撃は大きかった。しかも、敵に回って大軍師菊次郎に協力しているのだ。

 鳥追城外の合戦後、持康は言ったという。


「わしが何か悪いことをしたか。定恭が寝取られたことを少々面白がっただけではないか。本人には黙っていてやったのだぞ。たった二千貫、家老ですらなかった者に気を使っていたのだ。非難されるべきは主君を裏切り敵に寝返ったあやつだろうが!」


 定恭への仕打ちは外様衆にとって人事(ひとごと)ではなかった。あれほど貢献し特別な能力を持つ定恭でさえ大切にされないのだと、多くの者が絶望した。持康は信用する側近だけを重用し、外様衆は捨て石にすることが、あの合戦で明らかになった。


「もともと采振(ざいふり)家の旧臣は土地を取り上げられたり利権を奪われたりした者が多く、不満がくすぶっていました。持康様は新家と旧家を優遇しすぎなのです。その危険さに気が付かず、改めようとしません。他家に寝返る者が出るかも知れませんと申し上げたこともあるのですが」


 定恭(さだゆき)は苦笑いを浮かべていた。


「あの方は家臣の気持ちをお考えになりません。新しく傘下に加わった者の複雑な心境など想像もできないでしょう。主君のために働いて死ぬのが当然だと思い込んでいます。俺や敏廉(としかど)殿は最初の離反者だったから驚かれただけで、いずれ多くの者が同じ選択をしたと思います」


 小薙(こなぎ)敏廉(としかど)の決断も多くの外様衆を考え込ませたはずだ。五万貫の大領主であり、増富家に下ってから長い上に、歴戦の勇士として知られていたのだから。


「そこへ定恭殿が調略の手を伸ばしたのです。数家は応じるだろうと思っていましたが、予想以上に多くなったのはさすがの腕前です。僕はとても及びません」


 菊次郎の称讃(しょうさん)に定恭はただ微笑んでいたが、実際そのやり方は巧妙だった。


「定恭殿はまず、采振家の旧臣の多くが桜舘家に内通していると噂を流しました」


 定恭はもらった二万貫で雇った六百人に、隠密のような工作を行なわせた。


「あの家は蜂ヶ音家に、向こうの家は福値(ふくあたい)家に情報を流している」

「誰それが大殿の悪口を言っていた」

「あの家臣は反乱を起こして独立するつもりだ」


 こうした噂が次々に持康の耳へ入った。


「持康公は疑心暗鬼に(おちい)り、敏廉殿に続く裏切り者が出ることを恐れて締め付けを厳しくしました。疑わしい者を呼び出して問い詰めたり、外様衆の領内に隠密を放ったりしたのです。そこへ新しい税です。敗戦で多くの武者や武具を失い、捕虜になった者の身代金で借金を抱える家も多いのにです」

「兵糧庫を焼いたそうですな」


 仲載の父の仲宣(なかのぶ)は感心した口調だった。


「徴収したものやもともとの備蓄を納めた場所を何ヶ所も」


 焼かれて物資が不足すると、定恭は家臣を商人に化けさせて送り込み、増富家の役人から資金をだまし取ったり、偽情報をつかませたりした。


「持康公はますます取り立てを強めざるを得なくなりました。持康公の人柄や増富家の内情をよく知る定恭殿だから打てた策です」

「お米役でしたから」


 定恭はほめ言葉が続いて面映(おもは)ゆそうだった。


「俺が離反した時点で場所を変えるなど対策をしておくべきだったのですが」


 現在持康を補佐しているのは()軍師の箱部(はこべ)守篤(もりあつ)と護衛役の渋搗(しぶつき)為続(ためつぐ)だが、二人とも思い至らなかったようだ。


「調略がうまく進んだのも定恭殿の伝手(つて)があったからこそです」


 菊次郎が言ったのは屈谷(かがみや)家のことだ。娘の強引な求婚話を断る手伝いをした見返りに、采振家攻略に協力した七千貫の家だ。娘婿で現当主の晴若(はるわか)は定恭を非常に尊敬していて、為続と持康の仕打ちに腹を立てていたので、真っ先に内応の誘いに乗り、他の家との交渉に協力していた。


「こうした動きに持康公が気付き、内偵を進めて、とうとう討伐に動き出したのです。当家に内通した者を攻め滅ぼして見せしめにし、これ以上の離反を食い止めるつもりでしょう」

為続(ためつぐ)あたりが思い付きそうなことです」


 定恭はつぶやいた。


「軍議の様子が目に浮かびますね」

「しかし、外様衆が籠もったのは堅固な山城の峰前(みねまえ)城です。こうした時のために長期の籠城に備えて物資を運び込んであります。しかも、武者は約三千です。それがここへ持康公が来る理由です」


 菊次郎の言葉に仲載は反応しないが、耳を傾けているようだった。


「内通者を攻めるために兵を動かせば、僕たちが援軍に駆け付けることは予想できます。持康公は大軍で一気に攻めつぶし、援軍到着前に片を付けるつもりだったのでしょう。しかし、三千といえば十万貫に相当する人数、槍峰国の貫高の四分の一です。持康公は予想外の多さに驚いたに違いありません。城は簡単には落ちそうになく、城内の外様衆と僕たちに挟み撃ちにされるかも知れません」


 増富軍の目算は狂ったのだ。しかし、裏切り者に罰を与えずに引き上げるわけには行かない。彼等が増富家に戻ることはもうなく、領地は桜舘家の勢力圏になってしまうのだから。


「ところが、僕たちは騎馬隊と皆さんの軍勢だけで先行してきました。兵力は敵が一万五千、こちらは一万弱です。陽光寺砦には一千の武者がいますので、そちらにも備えなければならず、合戦に使える数は敵の半分程度です。直春さんたちが到着する前にたたいてしまおうと考えたのでしょう」


 菊次郎の説明に、定恭が補足した。


「さらに言えば、この砦は交通の要衝(ようしょう)です。両湯(もろゆ)街道は槍峰国や峰前城へ通じ、南谷(みなみたに)街道は五形城と深奥国(みおくのくに)を結ぶ重要な街道です。しかも、陽光寺は大昔の宗皇(そうおう)様が創建なさった茅生国一の名刹(めいさつ)、門前町は温泉街でもあり、大きな収入を失うことになります。落とされたくないでしょう」

「ですので、あの砦を囲んだと知れば、数日中に峰前城の包囲を解いて駆け付けてくるはずです」


 菊次郎と定恭が相談して出した結論だ。


「増富軍の行軍速度を考えると、砦に着く頃には日が暮れます。戦うには遅すぎますし、敵の目の前で宿陣地を作るわけには行きません。定恭殿は宿営するならここだろうと断言しました」

「砦前の我が軍の陣地からほどほどに離れていて、周囲が開けていて、大軍が集まって陣を張れる草地という条件で探せば、この辺りになります。そばには川もあります。増富家の軍法や慣習が変わっていなければですが」


 定恭には確信があるようだった。お米役として幾度も経験したことなのだろう。


「というわけで、もうすぐ敵がここで陣地を造る作業を始めます」


 仲載がようやく振り向いた。


「そこを襲うわけですね」


 笑みを浮かべている。


「はい」


 菊次郎はその目を見返してきっぱりと言った。


「敵の油断を誘って奇襲します」

「お殿様が来るのを待つ必要はねえ。俺たちだけで打ち破ろうぜ」


 忠賢がにやりとした。


「うむ」

「やれましょうな」


 成明と仲宣(なかのぶ)の表情も戦意と自信に満ちていた。


「うまく持康公を捕らえられればよいですな」


 この草地の少し先に橋があり、五形の町へつながる街道が分岐(ぶんき)している。対岸に小薙敏廉隊が伏兵していて、本城へ逃げ戻ろうとする敵の大将を襲う予定だ。当主孝貫(たかつら)率いる市射(いちい)勢は砦の包囲に残してきた。


「大軍師様!」


 坂を一人の隠密が足早に登ってきた。農夫の格好をしている。彼等は戦闘に参加しない。


「増富軍一万五千が近付いてきます。非常に長い隊列です。半刻ほどでこの辺りに到達すると思われます」


 菊次郎たちは顔を見合わせ、頷き合った。


「では、予定の場所に向かってください。合図をするまで森の奥で息をひそめて、くれぐれも敵に気付かれないように」

「分かってるって」


 忠賢が真っ先に歩き出し、背を向けたまま手を振った。


「抜かりはありません」


 成明も軽く一礼して去った。


「では、またのちほど」


 仲宣は息子と菊次郎を見やると会釈(えしゃく)して、護衛と共に坂を下っていった。


「俺も行きます。大暴れしてやりますよ」


 仲載は挑戦的な目つきで菊次郎に告げ、自分の騎馬隊六百の方へ向かった。錦木家は茅生国攻略で三万貫を得たので騎馬隊を増やしたのだ。


「それでは俺も」


 定恭も二万貫六百人を率いている。


「大丈夫、きっと勝てます」


 硬い顔の菊次郎に言って、森の中へ消えていった。


「残ったのはあたしたちだけだね」


 田鶴が近付いてきて、小猿を地面から抱き上げてさりげなく隣に並んだ。友茂たち四人の護衛もそばにいる。


「勝とうね。みんなのために」


 みんなに含まれる人々の顔が目に浮かんだ。直春・直冬・本綱・妙姫、そして雪姫。

 定恭が副軍師になっても、菊次郎の責任の重さは変わっていない。むしろ、一戦ごとに周囲の期待は大きくなっている気がする。定恭すら下したことで、(あが)めるような目で見る武者も多い。


「みんなのために、か……」


 その重圧が苦しくないわけではない。一方で、彼等がいるから勝てるのだと思う。菊次郎がどれほどすぐれた作戦を立てても、一人では実行できないのだ。


「勝とう。みんなの力で」

「うん」


 田鶴は笑みを浮かべて頷いた。



「大殿、本日はここで宿営いたしましょう」


 ()軍師の箱部(はこべ)守篤(もりあつ)が馬を寄せて提案した。渋搗(しぶつき)為続(ためつぐ)も言った。


「そろそろ夕方です。無理をせずに寝る支度をし、明日合戦を挑むのがよろしいと存じます」

 増富軍の隊列は大きな川に沿ってどこまでも続いている。岸辺の草地に伸びる武者たちの影は、もうかなり長くなっていた。

「砦には入れぬのか」


 持康は手綱を引いて馬を止め、がっかりした顔をした。


「今夜は湯を浴びたかったが」


 五形城を出陣してから十一日、ずっと野宿だった。桜月は暑い季節ではないが、さすがに体がにおい始めていた。


「敵は三日前にあの砦に到着しております。包囲の陣地は相当堅固でしょうな」


 ()執政の犬冷(いぬびえ)扶応(すけまさ)も二人に賛成した。


「武者たちは一日歩いて疲れております。敵は三日ここから動いておりません。一晩休んで元気を取り戻すのがよろしいでしょう」

「敵は戦うつもりかも知れぬぞ」


 持康は不満そうだった。


「襲ってくるかも知れぬ」

「いいえ、敵も今日はもう寝るようです」


 守篤(もりあつ)は南の空を指さした。風にざわめく森の向こうに多数の白い筋が糸のように見える。


「敵は夕食の準備を始めています。明日に備えて武者を早く休ませるつもりでしょう。物見の報告では、高い板塀に囲まれていて中は見えなかったものの、味噌煮込み雑炊のうまそうなにおいが漂い、大勢が火を囲んで談笑する声が聞こえたそうです」

「敵が油断しておるなら急襲してはどうだ?」


 持康は未練がましく言ったが、為続が(さと)した。


「我が軍の接近は知っておりましょう。相応の備えはあるとみるべきです」

「我々も急ぎませんと食事を終える前に日が暮れてしまいます。もっと物見を出し、敵の布陣や武者数を十分に偵察した上で、明日どう攻めるかを検討いたしましょう」


 扶応(すけまさ)にまで言われて、持康は諦めた。


「分かった。すぐに陣地を築け。夜襲の可能性もある。堅固にな」

「かしこまりました」


 執政は一礼し、命令を下した。


「半数は木材を組んで柵を作り、空堀を掘れ。小荷駄隊を呼び寄せ、火をおこして食事の用意をさせよ。後続の者たちにも、ここへ着き次第始めるように伝令を出して伝えよ」


 一万五千の武者と五千の小荷駄隊は次々に広い草地に入り、部隊ごとに集まって荷物を置くと、早速作業に取りかかった。全員を収容できる大きな方形の陣地と、その隣に柵だけのやや小さな円を二つ作っていく。こちらは家畜用で、五百頭いる牛と騎馬隊などの馬を入れる。


「あんなに多くの牛を連れてきて、足手まといではないのか。囲いを作る手間が増えたぞ」


 扶応(すけまさ)は守篤に文句を言った。()執政の蛍居(ほたるい)汎満(ひろみつ)は五形城に残っているので言い合う相手がいないのだ。


「あれは峰前城に入った連中の財産です。きっと城の中で悔しがっているでしょう。敵の財力を弱める意味もありますし、食料にもなります」

「塩漬けでない肉が食べられると武者たちは喜んでいますよ。滅多に口にできないご馳走ですからね。それに、もう一つねらいがあるのはご存じでしょう」


 為続の言葉で、執政は思い出した顔になった。


「そういえばそうだったな。本当に役に立つかは分からぬが」

「戦のあとも生きた牛が残っておりましたら、執政のお二方に差し上げるつもりです」

「うむ、そうか。ならば逃がしてはならぬな。きちんと世話をさせておけよ」

「心得ております」


 為続は頭を下げ、武者達の方を見て言った。


「そろそろ牛をさばき始めているようですな」


 新鮮な肉を焼くよいにおいが流れてくる。床几(しょうぎ)に座っている持康が鼻で大きく息を吸い込んでいた。


「毎日嗅いでいますが、いいにおいですな」


 守篤は小荷駄隊から肉を入れるための木の椀を受け取った。


「魚の方が好きですが、肉もなかなか」


 為続も(はし)を握って応じた時だった。東の方角、やや離れた森の中で、突然大きな(とき)の声が響いた。


「桜の御旗(みはた)に栄光あれ!」


 騎馬武者一千八百が飛び出してきた。先頭は青い鎧の武将だ。


「さ、桜舘軍だ! 青峰忠賢だ!」


 何度も蹴散らされ追いかけられた恐ろしい相手だ。武者たちは蒼白になった。


「遅れるな! 我々も突撃だ!」


 西を流れる雄川(おかわ)のほとりの林からは、泉代勢三千が駆けてくる。


「こっちにもいるぞ!」


 南側の森から、錦木勢の徒武者九百と、それを追い越して仲載の騎馬隊六百が迫ってくる。


「敵は夕食の支度をしていたのではなかったか! どうしてここにいる!」


 持康は青ざめて床几から立ち上がった。守篤が手から椀を取り落として叫んだ。


「あれは敵軍師の策でしたか! すっかり油断しました!」

「この場所に陣を張ると予見していたようですな。定恭のやつの入れ知恵でしょう!」


 為続はいまいましげに箸を地面にたたき付けた。


「どうすればよい!」


 持康が()えるように尋ねた。


「逃げるしかございません」


 守篤は無念そうに答えた。


「今から迎え撃つ体制を作るのは不可能でございます」


 木の柵を立てる者、(すき)を手に土を掘る者、火を囲んでいた者など、部隊はばらばらになっていた。鎧を脱いでいる者も多い。奇襲に気が付いて右往左往している武者達を呼び集めても、隊列を組む前に敵が来てしまう。


「この奇襲には定恭が関わっております。今から対応しても遅いでしょう。お命が何よりも大切でございます」


 為続は歯をぎりぎり噛み締めてうなだれた。全員が設営や食事の準備をしていたわけではない。陣地を守って周囲を警戒し、武装を解いていなかった部隊ももちろんあったが、主に南側、陽光寺砦の方角に集中していた。菊次郎はそれを予想し、忠賢隊は東、錦木勢は西に配置したのだ。南の錦木勢は警戒していた敵部隊が持康たちの方へ引き返すのを邪魔し、後ろから蹴散らす役目だ。

 忠賢の騎馬隊はやすやすと警備の武者を迂回して造りかけの陣内に突入した。徒武者隊も複数の小部隊に分かれて陣内に駆け込み、迎え撃つ者たちを挟撃した。

 さらに、混乱に拍車をかけたのはあちらこちらで起こった火災だった。


「陣内を怪しげな者たちが走り回り、火の中に油玉や煙玉を投げ込んでいきます! 騎馬隊もくさい煙の出る玉を放り投げてきます!」


 これは増富軍の鎧を着けた柳上(やながみ)家の武者たちだった。定恭は増富家の陣地構築法をよく知っている。設営と食事の準備の騒ぎにまぎれて陣内に入り込ませたのだ。


「この悪臭は鳥追城の合戦で覚えがあります。馬酔木(あせび)です。馬が暴れますぞ」


 漂ってきたにおいをかいで、守篤は顔をしかめた。春の風にあおられて、火が草地に広がり始めている。

 しかも、怪しげな叫び声が多数聞こえていた。


「元()軍師、砂鳥(すなどり)定恭の作戦だ! 俺たちはおびき出されたんだ!」

「銀沢信家の罠に引っかかった! また大敗するぞ! 命あるうちに逃げろ!」


 必死に部下を呼び集めようとする武者(がしら)たちの言葉は、武者たちの不安げなどよめきや悲鳴にかき消されていた。


「あれは敵の間者ですか!」

「定恭のやりそうなことだ!」


 守篤と為続は地団駄(じだんだ)踏んだが、武者たちは抵抗どころではなく、生き延びるために逃げ惑っていた。


「もはやどうしようもありませぬ。お馬にお乗りください」


 犬冷(いぬびえ)扶応(すけまさ)が手招きして持康の愛馬を連れてこさせた。馬廻りが集まって持康を囲んだ。


「わたくしがお守りします。時間はこの二人が稼ぎます。そうだな?」

「お任せください」

「策はございます」


 守篤と為続は頭を下げた。


「分かった。先に行くぞ」


 持康が去ると、守篤は総員退却の太鼓を叩かせた。


「大殿は落ち延びられた。皆、逃げよ!」


 繰り返し叫ばせながら、自分も北へ向かった。先程進んできた道を戻り、砦から遠ざかる方向だ。途中、小荷駄隊を呼び集め、従えていく。

 一方、為続は家畜の囲いに向かった。


「柵に火を放て! 牛の尻をひっぱたいて走らせろ!」


 牛を連れてきたのはこのためだった。守篤と相談して立てた策だ。


「米俵や荷車も焼け! 火災を起こさせるんだ!」


 牛は火に興奮し、(むち)でたたかれ刀で斬り付けられて怒り狂い、戦場に散らばって駆け回った。


「牛の群れだと? ちいっ、邪魔だ!」


 忠賢がいらだって怒鳴ったが、ぶつかったら落馬する。徒武者は跳ね飛ばされ、踏みつぶされる。桜舘連合軍は攻撃を中止してやや下がり、牛がいなくなるのを待たなければならなかった。

 その間に増富軍の武者たちは必死に走って戦場を遠ざかった。しかも、武者を先に行かせ、小荷駄隊を最後にした。


「卑怯者め! 武器を持たぬ者たちを盾にするつもりか!」


 成明が珍しく激しい口調で(ののし)り、桜舘家の武者たちは皆、軽蔑と怒りの(うな)り声を上げたが、増富軍は距離をとると武者をまとめて素早く迎撃の陣形を造り、追撃を警戒しながら北へ消えていった。

 菊次郎と田鶴が森を出ていくと、武将たちが集まっていた。


「まんまと逃げられましたね」


 定恭が近付いてきた。六百人の武者は本来の緑の鎧に着替えて整列している。


「ええ、こんな結果になるとは予想外でした」


 菊次郎は正直な気持ちを述べた。敵に一千程度の損害は与えた。少ない数ではないが、まだ一万四千が残っている。壊滅させるつもりだったので失敗と言ってよいだろう。敵は食料を失ったが、ここは増富領内、すぐにどこかの城に入って体勢を立て直すに違いない。


「幸い死傷者はほとんどいないようですが」


 怪我(けが)人の多くは突進する牛によるものだった。


「牛を放ったのは恐らく為続です。ああいう小ずるいことを思い付く男なのです」


 定恭は苦笑する風だった。腹を立てるより呆れているらしい。


「荒っぽいやり方です。増富軍にも怪我をした者がたくさん出たでしょうね」


 混乱した戦場の中で、牛に突かれたり蹴られたりしたのは敵の武者の方がずっと多い。

 仲載は不愉快そうだった。


「効果があったのは間違いないですよ。攻撃できなくなりましたからね」


 父の仲宣はむしろ感心したらしい。


「大軍師殿の作戦からうまく逃げおおせたのは定恭殿以外では初めてですな」

「そう考えるとすごいよね」


 田鶴が言うと、成明は首を振った。


「あんな恥ずかしい方法では誇れませんな」


 諸将は笑ったが、菊次郎はそんな気持ちにはなれなかった。腕を組んで考え込むと、定恭が怪訝(けげん)な顔をした。


「何か気になることでもありますか」

「牛を放つのも、小荷駄隊の盾も、奇抜な策です。急に思い付いて実行できるものではありません。持康公がやれと命じても、何千人が即座に自分のするべきことを理解して素早く動くなんてありえないんです。でも、牛が放されたのは奇襲を受けてすぐでした。しかも、ためらいなく五百頭全てが戦場に投じられました。牛をあのように使うことを武将たちや武者たちが知っていたように感じます」

「為続はあの策を事前に用意していたというのですね」

「離れたあとも迎撃の陣形を即座に作り、さっと撤退しました。まるで練習していたかのようです」


 定恭は「なるほど」とつぶやいた。


「確かにそれはおかしいですね。こちらが少数で陽光寺砦を囲んだから急いでやってきたはずなのに、負けて撤退する時の準備があったわけです。為続や持康様らしくありませんね」

「敏廉殿の伏兵も無駄になりました。なぜ北へ戻ったのでしょうか」


 増富軍は西の五形城へ逃げ帰ると予想していたが、橋を渡らなかったので、持康の捕縛は失敗した。


「敏廉殿を呼び戻しましょう。増富軍がどこへ行ったか情報を集めて、今後の行動計画を練り直さなくてはなりません」

「つまり、敵にしてやられたってことですか」


 仲載が驚くと、成明が否定した。


「いや、あれだけの損害を出したのです。そうではないでしょうな」

「ですが、軍師お二人の予想を超えた結果だったわけですね」

「そうです」


 菊次郎は認めた。


「何かがおかしい気がします」


 武将たちは不安そうに顔を見合わせた。

 しまった、と菊次郎は思った。大軍師の発言は影響が大きい。暗い気分で戦はできない。定恭も気が付いて眉を曇らせている。急いで明るい話題を探そうとした時、忠賢が叫んだ。


「とにかく、戦い足りないぜ! あっと言う間に終わっちまったからな!」


 愛用の槍を大きく天に突き上げた。


「持康の野郎は逃げ足だけは速いよな。討ち取ってやろうと思ったのによ。次の戦では大暴れしてやるぜ! 絶対にだ!」


 武将たちの顔に笑みが戻った。菊次郎は感謝しつつ約束した。


「騎馬隊が十分に活躍できる作戦を立てますね」

「おう、それは任せた」


 忠賢はにやりとすると焚火に歩み寄り、木の枝に刺したまま放置されている真っ黒な肉を手に取った。


「もったいないぜ。食っちまおう」


 歯で焦げた部分をむしり取り、かぶりついた。


「うまいぜ。味が付いてないけどよ」

「肉を集めて僕たちの陣地へ持っていきましょう。味噌があります。毒を仕込む余裕はなかったはずですから、食べても大丈夫でしょう。生きている牛も連れていきます。峰前城の人たちに返してあげましょう」


 武将たちは食欲をそそられた顔で舌なめずりし、火に近付いた。それぞれ一切れを手に取ると、成明が言った。


「とにかく、我々は勝ったのです。それを祝いましょう」


 木の枝に刺さった肉を高く(かか)げると、武将たちもそれにならった。


「勝利を祝って、今夜は(うたげ)だ!」


 忠賢の雄叫(おたけ)びに、周囲の武者たちが大歓声で応じた。いつの間にか彼等も皆焼いた肉を持っていて、大神様に感謝の祈りを唱えると、うれしそうに食べ始めた。



 翌藤月(ふじづき)一日、直春の本隊が陽光寺砦に到着した。

 出迎えた菊次郎は合戦の結果を報告し、失敗を謝った。


「増富軍の大部分を逃がしてしまいました。敵の準備が整わないうちに奇襲して撃破し、峰前城の守りを強化して引き上げる計画でしたが、無理そうです」


 茅生国を手にした桜舘家は本格的に増富家の攻略を考えていた。外様衆に調略の手を伸ばしたのはその布石(ふせき)だ。ところが、準備が整わないうちに敵が先に動き、出陣せざるを得なくなった。だから今回、菊次郎たちは敵の主力を一撃して打ち破ったら、内応した家の領地とそこへつながる街道を確保する手を打って、ひとまず豊津へ帰る予定だった。


「菊次郎さんの策がはずれるなんて」


 直冬は驚いていたが、直春は怒らなかった。


「そういうこともあるさ。相手は人間だ。向こうも知恵を絞って対抗してくる」

「敵を甘く見ていたかも知れません 俺の責任でもあります」


 定恭が頭を下げた。


「いいえ。作戦を立てたのは僕です」


 菊次郎は唇を噛み締めた。直春はその肩にぽんと手を置いた。


「これからのことを考えよう。敵はどう動くと思う?」

「どこか大きな城に籠もるでしょう。戦いを避けて僕たちの撤退を待ち、追撃をかけてきます」

「お城を攻め落とせばいいんじゃない? こっちには菊次郎さんがいるんだし」


 田鶴が言ったが、菊次郎は首を振った。


「堅固な城に入られたら攻略に相当手間取るでしょう。多数の損害が予想されます」


 直春が考える顔になった。


「本格的な攻城をすることになるかも知れないわけか」

「兵糧攻めという方法もありますよ」


 直冬は言って、「あっ!」と気が付いた。


「その場合、すぐには帰れないんですね」


 菊次郎は頷いた。


「葦江国をほとんど空にしています。長く留守にするには備えが十分ではありません。幸い背後を襲われる可能性は低いですが、宇野瀬(うのせ)家の動きは気になります。南部三家にとっても急な出陣です。いずれ撤退することになります」

「それまで耐えて、追撃をかけてくるわけですか」


 直冬はもう十七だ。背も高くなり、声も(りん)としてよく響く。


「増富領内には他にも城があり、合わせれば一万近い武者がいます。城を包囲中に背後を襲われる危険もあります」


 だからこそ、敵の主力に合戦で大打撃を与えておきたかったのだ。


「直春さんの連れてきた五千七百を合わせると、こちらは一万五千四百です。一方、敵の主力は一万四千、包囲して封じ込めるのさえ相当困難です。他の城の敵も警戒しなくてはならないとなると、攻略は不可能に近いです」

「だが、ここで引くことはできん」


 直春は断言した。


「当家についてくれた者たちの安全を確保しなければ、豊津には戻れない」

「はい」


 増富軍の主力が健在なまま撤退すれば、持康は必ず寝返った者たちを討伐して滅ぼそうとする。彼等を守るために菊次郎たちは出陣してきたのだ。見殺しにしたら桜舘家に寝返る者はいなくなるだろう。そんなことを直春がするはずはないが。


「とにかく、持康公の逃げた先を調べましょう。全てはそれからです」


 諸将は頷いた。


「また、陽光寺砦の守将に開城を持ちかけます。退路の確保のため、この砦は落とさなくてはなりません。援軍が来ないことがはっきりしていますので、条件次第で応じるでしょう。その交渉をしている間に、敵の情報が入るはずです」

「長い遠征になりそうだな」


 直春が言った。


「もっと兵糧がいるな」


 菊次郎もそれを考えていた。


「追加で運ばせる必要があります。行動予定が決まったら、妙姫様に連絡しましょう」

「豊津に帰るのは当分先か」


 忠賢が口にくわえた香りのよい草を動かした。


許嫁(いいなずけ)に会えなくて寂しいですか」


 直冬がからかった。


「おお、寂しいねえ。一人(もん)には分からないだろうがな」


 忠賢はにやりとした。


「俺も雪姫様にお会いしたいですね」


 仲載が応じると、忠賢が田鶴の(ひたい)を小突いた。


「この陣中には女っ気がないからな」

「つっつかないでよ!」


 田鶴は手で頭をかばった。もう十九になったのに、気性はあまり変わっていない。菊次郎たち四人が出会った頃のままだ。


「戦は始まったばかりだ。いつもそうだが、この戦も負けるわけには行かない。皆、気を引き締めてくれ。三家の方々も、よろしく頼む」


 直春の言葉に武将たちと周囲の武者が頭を下げた。



 陽光寺砦が開城したのは三日後だった。籠もっていた一千は武装したまま五形城の方へ去った。

 砦の守備に市射(いちい)勢一千八百を残し、直春たちは槍峰国へ向かった。峰前城へ牛を届けるためだ。両湯(もろゆ)街道を進むこと三日、山城のふもとでは、主だった武将がそろって待っていた。


「国主様、お久しぶりでございます。金平橋(かねひらばし)以来でございますね」


 安瀬名(あぜな)数軌(かずのり)は深々とお辞儀をした。


「あなたのようなすぐれた武将を当家に迎えられてとてもうれしく思う」

「持康公には愛想が尽きました。信じられるお方に忠義を尽くしたいのです」


 鳥追城外の合戦で、安瀬名(あぜな)数軌(かずのり)は忠賢の策にかかったが、脱出後、直春の突撃を受けた持康の救援に向かおうとした。ところが、総大将が軍勢を飛び出して逃げてしまった。やむなく騎馬隊をまとめて追撃を防ぎながら撤退を始めたが、橋が落とされていた。もはやこれまでと死を覚悟したところへ、桜舘軍から休戦の申し出があった。多くの者が直春に感謝したが、代表として交渉に当たった数軌もその一人だった。


「直春公は小薙殿を厚遇なさっています。持康公は反対のことをしました」


 五形城に戻った持康は、数軌が忠賢の策にかかったせいで負けたのだと非難した。混乱する騎馬隊を救援せず、横を通り過ぎて敵本陣を目指そうとしたくせにと、数軌たちは皆腹を立てた。しかも、帰国したばかりの外様衆に茅生国奪回のためすぐに出陣せよと命令を出し、とても無理だと断ると、持康は不忠者と叫んで使者を蹴り飛ばしたという。


「そんなことされちゃ、仕える気がなくなるよな」


 忠賢は同情する口ぶりだった。


「九十六万貫の増富家に反旗をひるがえすのはとても恐ろしいことです。しかも、我々の領地は葦江国から遠く離れ、間に万羽国を挟んでいます。それでも貴家に付くのは、必ず援軍を出すという直春公のお言葉を信じているからです。信義に厚い直春公だからこそ、我々は信じるのです」


 直春は右腕を伸ばした。


「あなた方はもう俺たちの仲間だ。あなた方の命も、家臣も、領地と領民も、必ず守る。約束する」


 数軌はその手を両手でぎゅっと握って涙を浮かべた。


「ありがとうございます。覚悟は決めました。あなたのようなすぐれた主君のために戦えて光栄に存じます」


 数軌は顔を上げると笑みを浮かべた。


「持康公は我々を見捨てて逃げました。我々があの方やその側近たちを見捨てても、文句を言える筋合いではございませんでしょう」


 外様衆三千のうち、数軌の騎馬隊一千を加えた直春たちは、北平(きただいら)街道を西へ進んだ。峰前城は大長峰(おおながね)山脈に近かったが、目的地の野司(のづかさ)城は海のそばだ。持康の軍勢は意外にも北へ向かい、采振家の本拠地だった城に入ったのだ。


「この城をどう攻めるんだい、大軍師殿」


 楠島(くすじま)昌隆(まさたか)は港から大きな城を眺めて興味(しん)(しん)の顔つきで尋ねた。三十になってますます体が大きくなり、たくましさが増している。


「それを考えているところです」


 そう答えるしかなかった。


「はっきり言えよ。途方に暮れてるってさ」


 忠賢は人事(ひとごと)のような口調だった。


「落とすのは難しいが、撤退もできない。進退(きわ)まってるぜ」


 野司城のそばに来てもう五日、包囲はせず、城下町にも入らずに、少し離れた場所に堅固な陣地を造っただけだ。敵主力を城からおびき出してたたきたいが、設営の作業をわざとゆっくり進めても敵は出てこなかった。


「こんなところに引き籠もられたら、俺たち水軍は諦めるが、そうも行かないか」

「そうできたらいいんですが」


 雑談をしながら、水軍の副頭領は船から米俵を下ろす船乗りたちに指示を出している。兵糧が足りなくなりそうなので、鳩で水軍に運搬を依頼したのだ。


「残念ながら、増富軍に動きはありませんね。港での積み下ろしは城から見えているはずですけど」


 騎馬隊五百人が近くに隠れている。直冬や蓮山本綱も伏兵している。城を出てきたら奇襲して打ち破り、追撃して城内に突入する手はずだったが、無駄になりそうだ。


「五形城を攻めようって俺は言ってるんだがな」


 陽光寺砦を離れる前、忠賢は野司城へ向かうことに反対し、増富家の本城の攻略を主張した。


「今からでも南へ向かおうぜ。あの町が包囲されたら慌てて城から出てくるだろうよ」

「こちらより多い敵に背中を見せるのは危険です。五形城には五千ほどの武者が残っていますから、落とすのは難しいですよ」


 菊次郎も定恭とその案を検討したが、危険すぎるという結論になった。


「それに、どうも嫌な感じがするんです。何かがおかしいです」

「どうおかしいんだ?」


 忠賢は笑わなかった。戦場でそういう感覚を無視すると痛い目を見ることがあるからだ。


「籠城するなら五形城でいいはずです。最も堅固な城ですし、陽光寺砦からはあちらの方が近いです。留守の武者と合流すれば数で大きくまさり、ますます僕たちは攻めにくくなります。城下町を戦に巻き込みたくなかったのかも知れませんが」

「五形城に引き籠もったら、俺たちは外様領の守りを固め、手薄な城を落として占領地を広げようとするだろ。結局出てこなきゃならなくなるぜ。領地を守り、俺たちを引き付けておくにはこっちの城の方がいい。持康が大軍を率いている限り無視できないからな」

「それにしては、領内に攻め込まれているのに焦りが感じられません。僕たちが引くのをただじっと待つつもりでしょうか。この城におびき寄せられたように思えてなりません」


 だから直春や諸将に警戒を怠らないように伝え、あまり城や町に近付かず、城内の様子を探って、定恭と敵の動きやねらいを分析していた。


「考えすぎじゃないか。敵はあの持康だぞ。軍師殿と直春公の敵ではないさ」


 昌隆は励ますように言って、空を見上げた。


「そろそろ日が傾いてきたな。俺たちは明日島の砦へ帰る。伝言や運ぶものがあれば引き受けよう」

「負傷者が若干います。それくらいですね。今夜のうちに妙姫様に宛てた手紙を書くつもりです」


 そろそろ夕暮れが近い。水軍衆でさえ夜の航海はできるだけ避ける。海上は陸地以上に真っ暗で、岩礁(がんしょう)や他の船に気付かずにぶつかる危険があるのだ。


「俺たちにできることがあるか」

「考えてみますが、ないと思います。でも、ありがとうございます」


 礼を述べつつ、菊次郎は溜め息を吐きたかった。数万を収容できる巨城に大軍が籠もっている。攻略方法を思い付かない。城の構造を知っている定恭や数軌の意見を聞いたが、困難さを確認しただけだった。


「さて、どうしましょうか」


 つぶやいた時、田鶴が走ってきた。小猿も一緒で、きょろきょろしている。菊次郎が片手を上げると、足早に近付いてきた。


「あっ、いた! 菊次郎さん、探したよ!」


 大声に周囲の人が積み下ろしの手を止めて振り向いた。田鶴は慌てて口を押さえ、小声になった。


「直春さんが呼んでる。忠賢さんもすぐに本陣へ戻って。昌隆(まさたか)さんにも来てほしいって」

「何があったの?」


 直春がこんな呼び出し方をするとはただ事ではない。菊次郎たちは素早く視線を()わした。田鶴は左右を見回し、三人だけに聞こえる声でささやいた。


「妙姫様から連絡が来たの。成安(なりやす)家の軍勢が豊津城へ向かってるって。氷茨(ひいばら)元尊(もとたか)が攻めてくるの。あいつ、あたしたちを裏切ったんだよ!」


 菊次郎の顔から一瞬で血の気が引いた。

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