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狼達の花宴 ~大軍師伝~  作者: 花和郁
巻の五 軍師の決断
44/66

(巻の五) 第四章 勝負 下

「こんなばかなことがあるか!」


 為続が叫んだ。その隣で定恭も信じられない気持ちだった。 


「実に見事だ。そう言う他はない」


 戦は増富軍の優勢で進んでいたはずだった。定恭の策の発動でさらに勢い付き、敵を圧倒していた。桜舘軍はほとんど崩れかかっていた。それがたった一つの策略でひっくり返されたのだ。

 今や、増富軍に隊列を維持している部隊は一つもない。武者たちは火と桜舘軍から生き延びようと、散り散りになって戦場を逃げ惑っている。桜舘家の各隊は潰走する増富軍を火の洪水へ押し付けつつ北と南の(はし)だけは塞がず、そこへ殺到する者たちに側面や背面から攻撃を加えて戦果を拡大していた。


「俺は負けたのだな。さすがは信家だ」


 その事実を噛み締めるように定恭はゆっくりと言った。


「奇策を使う軍師は本当に恐ろしい。俺は到底及ばない」


 予想しなかった手を打たれると対応できない。不可能と考えていたことが起こると衝撃が大きい。あれほど警戒していたのに防げなかった。

 同時に、納得する気持ちもあった。


「やはり、信家は大殿をねらっていたのだ。この策略はこちらの本隊に火をかけてこそ、最大の効果を発揮する」


 先程持康が部隊を捨てて逃走するのが見えた。あれがなければ、多くの部隊が火で混乱しても、すぐに全軍が崩壊することはなかったはずだ。


「敵軍師は大殿が攻めてくるのを待っていた。あの方のご気性も計算のうちだったのだ。俺がどんな策略を使おうと、大殿を攻撃して恐れさせることができれば勝てると思ったのだろうな」


 策略の内容には驚かされた。勝負に敗れた悔しさもある。持康を止められなかったことへの後悔もあった。しかし、それらをはるかに上回るほど強く、敵軍師に感嘆していた。


「いっそすがすがしいほどの負けっぷりだな。相手がこれほどの大軍師なら仕方がない。すっきり諦められるよ」


 顔が笑ってしまった。体から力が抜けたような気分だった。


「うれしそうだな」


 定恭の表情を違う意味に受け取った者がいた。


「そんなに当家を離れたかったのか。大殿や俺と縁を切れてせいせいするか」


 為続はいまいましそうに言うと、腰の刀を抜いた。それを合図に渋搗家の武者九十人が槍を定恭に向けた。


「お前を桜舘家に行かせるわけにはいかない。そんなことになったら当家も俺も終わりだからな」


 為続は憎悪に顔をゆがめていた。


「お前はすごい軍師だ。あの策略はなかなかだった。敵に回したくはないんでね」

「殺すつもりか」


 定恭は静かに尋ねた。その落ち着きぶりが(かん)(さわ)ったらしく、為続は吐き捨てるように言った。


「大殿のご命令だ。裏切り者は斬れとさ。この戦に勝っていたとしても、どのみちお前は処分された。敵と内通するような家臣は信用できないからな」

「人の妻と密通するやつには言われたくないな」


 定恭は皮肉たっぷりに言い返した。


「あの日、お前は家業を守りたいだけだと言ったな。そのために大殿を新旧両家が支える当家の秩序(ちつじょ)を維持したいと。だから砦を焼き、村人を(はりつけ)にしたのだと」


 定恭の口調にもつい恨みが籠もった。


「人として守るべき倫理(りんり)を犯すやつがそれを言うのか。不義密通が横行し、友を裏切ることが当たり前になった世の中に、秩序はあるのか」

「世間は広い。俺一人が少々はずれても社会は揺るがないだろう」


 為続はふてぶてしく言い放ってさえぎろうとしたが、定恭はさらに続けた。


「お前一人だけの問題ではないぞ。お前とさよりは砂鳥家の家臣たちにまで、仕える主人をだますことを強制したんだ。そして今度は友人の俺をその手で殺そうとする。そんなやつに、裏切りが許せないなどと言う資格はない」


 定恭が顔を向けると、砂鳥家の武者たちは視線を逸らした。


「人には倫理的であれと要求して、自分自身にはそうでないことを許すのか。お前の忠義や友情は、人としての道理は、状況によって出したり引っ込めたりできるものなのか」

「俺は道理のために生きているんじゃない。生きるために見栄(みば)えのいい衣装が必要なだけだ。衣装のせいで自由に生きられないようなやつは愚か者だ」

「昔からお前はそういうやつだったな。学舎(まなびや)で周囲とうまくやるために俺の悪口を言っていたのは知っていたよ。大殿にも同じようにしたんだろう」


 為続もくさいとからかわれていたが、はっきりと異端である定恭を否定してみせることで、自分は普通なのだと示して溶け込もうとしたのだ。


「お前は異常だ。変人すぎる。だからさより殿は平凡な俺を求めた。彼女にああさせたのはお前だ!」

「そんな言い訳が通用すると思うのか。凡人にこそ平凡でまっとうな生き方があるはずだ。お前がさよりに手を出さなければこんな事態にはならなかった。先に自分自身を処断したらどうだ」

「うるさい!」


 為続は大声で叫んだ。


「俺は生きるために戦に出ているんだ。半分趣味みたいな感覚で、敵軍師の策略に本気で感心するようなやつに、俺の気持ちは分かるまい!」


 為続は心に溜まっていた(うみ)を吐き出すような口調だった。


「お前はいつも大殿や執政方の間違いを指摘し、正しい道を示す。すごい能力だよ。だがな、その言葉を聞くたびに俺は、言われるまで気付かなかった自分の愚かさを思い知らされる。お前には決して及ばないと嫌でも感じさせられる。そういうお前が大嫌いだったよ」


 為続は引きつった顔で嘲笑った。


「だが、お前にも勝てない相手がいたんだな。いい気味だ! 知恵比べで完敗した気分はどうだ!」


 為続は目を向けず手だけで水路の方を指さした。


「見ろ、この惨状(さんじょう)を! 味方を大敗させておいて、自分だけ助かろうというのか! 死んで罪を(つぐな)え!」

「負けたのは俺のせいじゃない。大殿と取り巻きたちのせいだ」

「立て直すのが軍師の仕事だろう!」

「総大将が逃げてしまったんだ。どうしようもない」

「本当は負けて喜んでいるんじゃないのか! 大殿と当家を滅ぼしたいんだろう。砂鳥家もな!」


 為続は意地の悪い笑みを浮かべた。


「おじさんとおばあさまは、お前を家に迎えたことを後悔しているとおっしゃっていたぞ。軍学の才よりも、さよりを大事にして平凡で温かい家庭を築き、家業を守ってくれる者を後継者にすればよかったとな」


 定恭をわざと傷付けようとする口ぶりだった。


「さよりはよく笑う子だったが定恭と結婚してから無口で無表情になった。でも、俺が来るようになってから笑顔を見せるようになった。そう感謝すらされたんだ」


 女の心と家族の信頼を俺に奪われたみじめさを噛み締めろと言わんばかりだった。


「さよりもお前を殺すと言ったら頷いたぞ。未練は全くないそうだ。俺の方が百倍好きだとさ!」


 為続はけたたましく笑い、刀の先端を突き刺すように定恭に向けた。


「こいつを殺せ! 大殿のご命令だ! 息の根を止めたやつには俺からも褒美を出す。さあ、やれ!」


 渋搗家の武者たちは顔を見合わせ、槍を構えて迫ってきた。定恭は逃げようとしたが、後ろに回り込まれて退路を塞がれた。


「やめろ! お前たちはこんな命令に従うのか! なぜ俺が殺されなければならない! 去っていくのだから、見のがしてくれてもいいだろう!」


 渋搗家の武者は全員定恭と顔見知りだ。戦場での活躍も間近で見ているし、定恭の作戦で動いたこともある。彼等は少しためらったが、(かしら)格の一人が口を開いた。


「定恭様に恨みはございませんが、これは主命でございます。我々は武者、逆らえません。申し訳ございませんが、お命頂戴致します」

「俺を殺すことが本当に正しいと思うのか!」

「抵抗なさらなければ、苦しまずに一瞬で終わらせて差し上げます。じっとしていてください」


 武者たちはさらに近付き、槍を後ろに引いて構えた。砂鳥家の者たちは気まずそうに顔を背けているが、止めようとはしなかった。岳父や祖母に邪魔するなと言われているようだ。


「御免!」


 ずばっと五本の槍が突き出された。定恭はとっさに後退してよけたが、背後からも(やいば)が迫っていた。


「しまった!」


 かきん、と金属がぶつかり合う音がして、槍武者が飛び下がった。槍をはじかれたのだ。


「君は助けてくれるのか!」


 砂鳥家の武者沖網(おきあみ)広太郎(ひろたろう)は槍を構えて渋搗家の武者たちをにらみつけていた。


「私はずっと定恭様に申し訳ないと思っていました。大変すぐれた軍師で砂鳥家に多大な貢献をされた方をだまし続けなければならないことが、本当につらく、悔しくて仕方がありませんでした」


 広太郎は目に涙を浮かべていた。


「さより様とあまりうまく行っておられないことは知っていました。でも、私たち仕える者には大変よくしてくださいました。たびたび干しいかを頂きましたし、戦場でもとても頼もしく感じておりました。負け戦が何度かありましたのに、当家の者が一人も死なずにすんだのは、定恭様がおられたからです。新たな一千貫の領地も、先代様は気に入らないようですが、定恭様がいなければもらえなかったものです。それほどの恩がある方を殺せません。主命とはいえ従いかねます。これまで陰でご無礼を働いてきた分、せめてお命だけはお守りさせてください」

「ありがとう」


 定恭は心から言った。


「一人でもそう思ってくれる人がいてほっとした」


 定恭はやさしい笑みを浮かべた。


「この恩には必ず報いる。君のことは忘れない」

「もったいないお言葉です」


 広太郎は左右に目を配りながら頭を下げた。砂鳥家の他の武者たちは遠巻きに眺めていて動く気配はなかった。


「ええい、何をしている!」


 為続がいらだたしげに怒鳴った。


「殺せ! 早く殺せ! でないと、俺が、渋搗家が、つぶされるぞ! 大殿は無事にお逃げになったのだからな!」


 渋搗家の武者たちは頷き合い、再び槍先を上げて、定恭にねらいを定めた。


「そろって行くぞ! せえの……、突け!」


 頭格の武者が命じた時、空から何かが多数飛んできた。


「煙玉だと?」


 武者たちは慌てて槍を引いて辺りを警戒した。


「何者だ! どこからだ!」


 為続が狼狽(ろうばい)して叫ぶと、それに答えるように、数十個の玉が作った煙の幕を切り裂いて、多数の騎馬武者が(おど)り込んできた。


「定恭殿! こちらです!」

「信家殿か!」

「乗ってください!」


 菊次郎は隣の馬を指さした。定恭が手を伸ばすと、ぐいっと力強く上に引っ張り上げられ、かろうじて武者の後ろにまたがった。


「迎えにきてくださり、ありがとうございます」

「あなたの姿は見えていましたから」


 定恭はそのためにわざと目立つ場所にいたのだ。


「逃がすな! 殺せ! あいつは敵だ!」


 為続がわめいている。


「槍をぶつけろ! 馬から落とせ!」


 為続は家臣の一人から槍を奪い、定恭の乗った馬に向かってきた。武者たちが慌てて追いかける。


「近付くな! これでもくらえ!」


 定恭は馬上で体をひねると、右手に握っていたものを為続の顔に投げ付けた。


「ぐわっ、何だこれは! 目が痛い!」

「花の軍師考案の目つぶしだ! 兵法書に書いてあった!」


 渋搗家の武者たちがひるみ、足を止めた。定恭は指先を北水路へ向けた。


「為続、ここにいる五百を使って本陣を囲う木の板をはずし、橋を架けろ! 数枚重ねれば渡れる強度になるはずだ。対岸で逃げ惑う者たちの退路を確保するんだ! それが今すべきことだ!」


 鳥追街道は周囲の田んぼよりやや高くなっているため、火の洪水はもう引いている。もともと架かっていた橋の踏み板ははずされているので、そばに仮の橋を設けるのだ。


「その手柄があれば砂鳥家は取りつぶされないだろう。恐らく渋搗家もな。長く共に戦ってきた君たちへの餞別(せんべつ)だ。適当なところで撤退するんだぞ!」


 広太郎が顔をくしゃくしゃにした。


「定恭様……」

「今までありがとう。生きて帰ってくれ」

「必ず全員を無事に連れて帰ります!」


 定恭の乗る馬を桜舘家の馬廻り衆が守るように取り囲んだ。


「ま、待て! 定恭を行かせるな! 俺はまだ死にたくない! 渋搗家を守るためだぞ!」


 為続が目を押さえながら叫んだ。渋搗家の武者たちははっとし、ややためらって動こうとしたが、その足元に田鶴の矢が突き刺さるとあとずさりした。


「では、引き上げましょう」


 菊次郎の合図で百騎は一斉に馬首を返した。


「桜舘家でのご活躍をお祈りしております」


 広太郎は深々と頭を下げて、去っていく騎馬武者の群れを見送った。



「直春さん!」


 菊次郎は馬上で手を振った。


「おお、来たか!」


 直春はうれしそうに笑った。忠賢や直冬、本綱や景堅や敏廉、南部三家の当主たちもいる。増富軍の本陣から鳥追街道を少し西に行った場所に集合していた。菊次郎たちは安全な場所で戦場の混乱が収まるのを待っていたのだ。


「大軍師様だ」


 ざわめきが起き、武者たちが自然に割れて道を作った。菊次郎に向けられるまなざしには一様に畏怖が宿っていた。


「無事でよかった。田鶴殿もな」


 馬が止まると少女と小猿は素早く飛び降り、直春に駆け寄った。菊次郎も武者頭に礼を言って降りると、武将たちに近付いて深々と頭を下げた。


「ありがとうございました」


 菊次郎は心の底から礼を述べた。


「皆さんのおかげで勝てました。僕一人では勝てませんでした。直春さんが支えてくれたから僕は勇気を出せました。忠賢さんや他のみんなが自発的に動いて助けてくれたから作戦がうまく行ったんです」


 直春は驚き、忠賢と顔を見合わせた。


「それはこちらの言いたいことだ」

「そうだぜ。お前の策があったから勝てたんだ」


 忠賢は呆れた口調だった。


「燃える洪水とはね。事前に聞いてはいたが肝が冷えたぜ。敵は仰天したろうよ」


 まわりの武者たちがその通りという表情をしている。直冬も言った。


「敵が動揺したから、一部の武者を()いて直春兄様に援軍を送れたんです。さすがは師匠です」


 菊次郎は微笑んで首を振った。


「忠賢さんの策もすごかったですよ。あれがなければ持康公は水路を越えなかったと思います」

「うむ、俺も感心した。忠賢殿があれほどの知将だったとはな」


 直春にほめられて、忠賢はふんと鼻を鳴らした。


「菊次郎のまねだ」

「実に忠賢殿らしい策だったと思うぞ」


 直春の言葉に菊次郎も同感だった。


「騎馬隊を率いているからこそですね。馬酔木(あせび)を使うという発想はびっくりしました」


 芋かんな作戦を立案した際、菊次郎は敵の騎馬隊を抑える役目を忠賢に頼んだ。忠賢は数でまさる相手にどうやって持ちこたえるかを思案し、あの策を考え出したのだ。


「策略の種というのは、分かってしまえばなんだそんなことかと思うような単純なものであることが多いのですが、誰にでも思い付けるわけではありません」

「まあ、初めて考えたにしてはうまく行ったな」


 忠賢は大したことではないという口ぶりだったが、内心まんざらでもないらしい。


「勝った最大の理由は持康が臆病だったからだけどな」


 忠賢は呆れたように顔をしかめた。


「総大将が逃げ出しちまったら、武者たちだけ残って戦うわけはねえな。おかげで俺たちは楽だったが」


 敵はもう池の周辺にはいない。負傷して動けない者たちだけがあちらこちらに倒れている。小荷駄隊が帯を受け取って捕虜にし、治療して鳥追城へ運んでいる。


「追撃するんだろ」


 忠賢はまだまだ元気で、早く出発したいようだ。戦場では生き生きする男なのだ。


「もちろんだ。その方法を相談しようと思って菊次郎君を待っていたのだ」


 直春の言い方に、菊次郎は首を傾げた。


「何かあったのですか」

「先程報告が入った。持康は金平橋(かねひらばし)を焼いて逃げたそうだ」

「えっ、味方の退路を()ったのですか?」


 菊次郎は思わず大声を上げてしまった。


「追撃を避けようとしたんだろうぜ。どのみちもう追い付けないのによ」


 忠賢は軽蔑を通り越して不愉快そうだった。


「武者を捨てて一人で逃げただけでも最悪だが、味方の撤退を邪魔するとはね。反吐(へど)が出るぜ」


 菊次郎もさすがにひどすぎると思った。


「自分だけ戻っても、武者がいないとお城を守れないんじゃない?」


 田鶴は不思議そうだ。


「そこまで考えていないのだろうな。自分が助かりたい、ただそれだけなのだろう」


 直春も珍しく腹を立てていた。


「けっ、そんなやつには絶対に仕えたくないぜ」


 忠賢は視線を菊次郎の背後に向けた。


「だから、こいつはここにいるんだろ」


 定恭は周囲の注目を浴びていたが、直春の前に進み出て片膝をつき、頭を下げた。


「桜舘直春公、銀沢信家殿、あなた方の勝ちです。敗北を認めます」


 直春は定恭を見下ろして、おだやかに、しかし当主らしく尋ねた。


「では、当家に仕えるのだな」

「はい。増富家に未練はありません。これからは直春公と皆様のために働きます」


 武者たちからどよめきが起こったが、あまり好意的なものではなかった。先程この軍師の策略で全軍が崩壊しかけたばかりなのだ。

 それを分かっていたのだろう。直春は告げた。


「すまないが、君が増富家を離れるに至った事情をみんなに説明することになる。でないと疑念を抱く者がいるだろう」


 直春は痛ましげな顔をしたが定恭は頷いた。


「もちろんそうしてください。いまさら隠すつもりはありません。私は裏切り者です。批判は覚悟の上です」


 定恭の知謀は桜舘家で恐れられている。そんな人物が仕える(あるじ)を変えた事情に誰もが興味を抱くだろう。噂が広まるのは避けられない。ならば、きちんと説明する方がよい。持康や為続のしたことを知れば、多くの者が納得するはずだ。


「一つ確認したいんだが」


 忠賢が口を挟んだ。


「ふぐの毒ってのは本当か?」


 菊次郎が答えた。


「やはり違うそうです。柿渋だそうですよ」

「なら、口に入っても大丈夫だよね?」


 確認した田鶴に、定恭ははっきりと答えた。


「渋く苦いですが毒ではありません。あれは友人……渋搗為続の所有する畑で取れた柿で作ったものです」

「誰も死なないから、ふぐじゃないんだろうとは思ってたさ」


 忠賢は大げさにがっかりしてみせた。


「あんなにたくさんの矢に塗るだけの毒を集めるのは大変だと思います」


 菊次郎が言うと、まわりの武者たちがほっとした様子になった。『柿渋だってよ』というささやきが広がっていく。定恭を警戒する雰囲気が少しやわらいだ。


「でさ、菊次郎に負けたって言ったな。つまり、お前の方が下だってことを認めるんだな」


 忠賢がわざと意地悪い口調で尋ねた。


「はい、認めます。私は銀沢信家殿に到底及びません」


 またどよめきが起こった。


「だってさ。よかったな」


 忠賢に言われて、菊次郎は首を振った。


「いいえ、定恭殿は大変すぐれた軍師です。今回の合戦で改めてそれを感じました。あの策略はすごかったです。味方がみるみる崩れました」


 人々が思い出す顔をした。ぞっと身震いしている者もいる。


「それに、結果は当家の勝利ですが、勝ったのは僕ではありません」


 諸将は怪訝な様子になった。


「僕の策略が成功したとしても、持康公が火にかからなければ勝負を決められず、最後は増富軍が勝っていたかも知れません。持康公は本陣を離れてはいけませんでした。恐らく、定恭殿は止めたはずです」

「はい、止めようとしました」


 菊次郎の言葉を定恭は肯定した。


「しかし、持康公は諫言(かんげん)を聞き入れませんでした。その結果、定恭殿の策略によって得た勝利の機会をつぶしてしまいました」


 菊次郎は直春を見上げた。


「一方、直春さんは僕の策略を支持し、きっとうまく行くと勇気付けてくれました。その上、自ら突撃するという僕が想像もしていなかったことを実行して、勝利をつかみ取ってくれました」


 菊次郎は誇らしげに人々に告げた。


「この戦は軍師の優劣で勝敗が決まったのではありません。直春さんが持康公に勝ったのです」


 忠賢がにやにやした。


「お殿様が一番おいしいところを持っていったのは確かだな」

「総大将だけではありません。忠賢さんや直冬さん、本綱さんや景堅さんや敏廉さん、南部三家の皆さんも頑張って想像以上のことをしてくれました。すぐれた仲間がいたから勝てたんです。僕一人の力ではないのです」


 定恭は目を見張っていたが、やわらかく微笑んだ。


「いいえ、やはり私が負けたのです」


 定恭は噛み締めるように言った。


「持康様が自ら水路を越えていくとおっしゃった時、私は止められませんでした。私自身もそれが絶対に間違っていると断言できませんでした。負けて当然でした」


 定恭は淡々とおのれの罪を告白した。


「軍師は仕える主君あっての存在です。私はただ自分の属する封主家の当主という理由だけで不満を持ちながらも仕え続け、能力を十分に発揮できませんでした。一方、信家殿は旅の途中に偶然知り合った人物を自分の主君にふさわしいと判断し、忠実に仕えて支えてきました。どちらに先見の明があったでしょうか」


 忠賢と田鶴が目を見合わせて破顔した。


「それに、信家殿には素晴らしい仲間がいます。ここにいる方々を信じているからこそ、厳しい状況でも諦めずに戦い抜いて勝利することができました。私はその仲間を得ることができず、友人や妻にまで裏切られました。私の不徳ゆえです。負けたのは必然です。信家殿には到底及びません」

「顔を上げてくれ」


 直春の声は温かかった。


「君も今日からその仲間の一人だ。歓迎する」

「ありがとうございます」

「負けたのは君のせいではない。君ほどの軍師の意見に耳を貸さなかった持康の責任だ。総大将が敗戦の責任を負うべきなのだから」


 定恭が頭を下げると、直冬がうれしそうに叫んだ。


「軍師の作戦だけでも、総大将の(うつわ)の大きさだけでも、武将たちの武勇武略だけでもない。その全部が合わさったからこそ勝てた。そういうことですね!」

「そうだ。それが俺たちの、桜舘家の強さだ!」


 直春が力強く言うと、武者たちが歓声を上げた。


「直春公万歳!」

「桜の御旗(みはた)に栄光あれ!」


 叫ぶ声が軍勢全体に広がっていく。定恭はしみじみと嘆息(たんそく)した。


「私の知恵が信家殿を上回ることができたとしても、増富家は決して桜舘家に勝てなかったでしょう。私がいようといまいと結果は変わらなかったと思います」


 そんなことはないと菊次郎は思った。桜舘家の者は皆、定恭の恐ろしさを身に染みて知っている。この軍師が味方になったことは、間違いなく大きな力になる。


「定恭さん、これからは一緒に戦いましょう」

「信家殿……」

「菊次郎と呼んでください」

「分かりました。菊次郎殿、今後はあなたを全力で補佐致します」

「補佐だなんて。とてもすぐれた軍師なのに」


 菊次郎は否定しようとしたが、その立場の方が定恭にとってよいと悟り、受け入れることにした。


「こちらこそ頼りにしています」


 二人の軍師は微笑み合った。直春は笑みを浮かべて眺めていたが、表情を引き締めた。


「それで、これからのことだ」


 軍議の続きだ。菊次郎も気持ちを切り替えた。


「白鷺川を渡る方法を失った敵武者が橋のたもとに集まっている。ざっと一万三千といったところだ。それをどうにかしなければならない」

「どうにかって、狩るしかないだろ」


 忠賢はこともなげに言った。


「逃げ道はない。本陣を捨てたから食料もほとんど持ってないはずだ。弱ってるやつらから帯を奪い放題だ。いい稼ぎになるだろうぜ」

「そう簡単な話ではない」


 直春は難しい顔だった。


「あの橋を渡れない以上、万羽国へ戻るには北の望水(のぞみ)峠へ向かうしかない。雀形(すずめがた)山脈を越えられるのはあそこだけだからな。となると、鳥追領内を通過することになる。飢えた武者の群れが一万以上だぞ。逃げ遅れた小荷駄隊も多数加わっている。略奪が起き、民に大きな被害が出るかも知れない」

「全部捕まえればいいだろ、と言いたいところだが、それは無理か」

「包囲してもある程度の数は逃げてしまいますね」


 忠賢と直冬も直春の懸念を理解した。


「菊次郎君、どうすればいいと思う」


 直春の視線を受けて、菊次郎は少し考えた。


「直春さんは降伏させたいんですね」

「できればな。だが、無理だろう。あれだけの数だ。簡単には帯を差し出さない。総大将はいないが、誰かが指揮をとって抵抗すれば、鎮圧を終えるまでにこちらにも相当の損害が出る」

「その場合、城攻めができなくなるな」


 白鷺川の向こうの野風(のかぜ)城と開飯城にはほとんど武者がいない。それを取ってしまおうと忠賢は言っている。


「そうですね。この機会に茅生国は制圧したいところです」


 菊次郎も二城の攻略に賛成だった。


「もう戦は決着がつきました。これ以上、無用の死傷者は出したくないですしね」

「じゃあ、どうするの?」


 田鶴に聞かれ、菊次郎は隣を見た。


「定恭殿はどう思いますか」


 注目されて、もう一人の軍師は慎重に口を開いた。


「交渉で撤退させるのがよいでしょう。きっと応じます」


 直春は首を傾げた。


「どういうことだ?」


 定恭は青ざめた。


「しまった。また結論を先に……」


 背中に嫌な汗をかいたような表情になっている。恐る恐る顔を上げた定恭に、直春はおだやかに言った。


「詳しく聞こう」


 直春だけではない。武将たちは誰もいらだったり急かしたりする様子はなく、じっと次の言葉を待っていた。


「理由を申し上げます」


 定恭は深呼吸して述べた。


「橋のそばにいる者たちは、もう戦いたくないだろうと思います。総大将に置いて行かれたことにも腹を立てているはずです」


 例えば、安瀬名数軌の騎馬隊は、忠賢の罠を脱出したあと武者をまとめ、持康隊の救援に向かおうとした。しかし、総大将は逃亡してしまい、必死で追いかけたが、橋を落とされて立ち往生している。


「そこで、こう提案します。『あなた方の鳥追領内通過を認めます。攻撃もせず、帯も要求しません。そちらの本陣にあった食料も分け与えます。そのかわり、民には決して手出しをしないでください。また、国に帰ったあと、茅生国の城を守るために出陣を命じられても応じないでください。』つまり、茅生国の平定を終えるまで休戦することを条件にするのです」

「帯と身代金は諦めるかわりに、この国は確実に取ろうということか」


 直春は(うな)った。


「それなら彼等も応じるかも知れないな」

「民の被害は防げるね」


 田鶴は乗り気のようだ。小猿も主人と一緒に喜んでいる。


「ちょっと甘くねえか」


 忠賢はあまり賛成できないという顔つきだった。


「包囲して討ち取るなり捕虜にするなりしちまえば、増富家は一気に弱る。茅生国だけじゃなく、万羽国まで攻め込めるかも知れないぜ」


 定恭はこの疑問に答えようとしたが、菊次郎は目配せした。


「確かに甘いですね。それは恩を売るためです」


 定恭は開きかけた口を閉じて、その通りと頷いた。


「茅生国を取ったら、次に攻めるのは万羽国と槍峰国です。このうち槍峰国の大半は増富領になったばかりで、持康公に心服していません。彼等は無事に帰国できたら直春さんに感謝するでしょう。今後の調略がしやすくなります」

「戦の前に流した噂を本当にするんですね、師匠」


 直冬に菊次郎は肯定の笑みを向けた。


「槍峰国の外様衆を増富家から離反させ、反乱を起こさせます。そうなれば、倒すべきは万羽国を本拠とする新家と旧家だけになります」

「なるほどな。今後の布石(ふせき)ってことか。その方が楽に勝てるかもな」


 忠賢は納得したようだ。


「二人の軍師が共に提案するのです。よい考えだと思いますぞ」


 本綱たちや南部三家の当主も賛成のようだった。


「よし、それで行こう」


 直春が決断した。


「全軍で橋に向かう。包囲後、使者を送り、今の条件で休戦を提案する。彼等が承知したら食料を渡し、峠を越えるまで監視する」

「橋を修理する準備もさせましょう。僕たちの陣地を作るのに使った木材がたくさんあります。彼等が移動したらすぐに作業にかかり、橋を渡って野風城へ進軍しましょう」


 菊次郎が付け加えた。


「では、出発する。金平橋へ向かうぞ!」


 諸将がそろって頭を下げると、直春は定恭に歩み寄った。


「定恭殿、君はやはり大変すぐれた軍師だ。菊次郎君に匹敵する知謀だ。君のような人物を家臣に持つことができて、俺は本当にうれしく思う」


 直春が定恭に握手を求めると、定恭はその手を大切なもののように両手で包み込んだ。


「大変ありがたいお言葉です。心よりの忠誠をお誓い申し上げます」


 深々と(こうべ)を垂れた定恭は、突然はらはらと涙をこぼした。


「もし今の言葉を持康様が一度でも心からおっしゃってくださっていたら、私は決して……」


 定恭は言葉を切って歯を食いしばると、手を放して下がった。


「直春公のような名君にお仕えできて光栄に存じます。ようやく真の(あるじ)に出会えました」

「君には期待している。思い付いたことはどんどん言ってくれ。俺が間違っていると思ったらためらわずに指摘してくれ。それが軍師の仕事だ」

「お役に立てるように精一杯つとめます」


 定恭は涙をぬぐって顔を上げ、晴れやかに笑った。

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