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狼達の花宴 ~大軍師伝~  作者: 花和郁
巻の五 軍師の決断
43/66

(巻の五) 第四章 勝負 上

 定恭との会見から二ヶ月後、紅葉月(もみじづき)の下旬に、桜舘軍は豊津城を出陣した。撫菜城に入った直春は南部三家の軍勢と合流すると、城の守備隊の半分を加えて北上し、鵜食橋(うぐいばし)を渡って増富領へ入った。

 西を白鷺川(しらさぎがわ)、南を支流の火吸川(ひすいがわ)で区切られたこの地域は五万貫の鳥追(とりおい)城主小薙敏廉が治めていたが、彼は持康に救援を求めなかった。それどころか、翌日になって絶縁の手紙を五形城へ送ってきた。

『当家はもともと独立した封主だったが、攻められて増富家に屈し、忠実に仕えてきた。しかし、当代の持康公の暗愚には呆れ果てた。これからは名君の(ほま)れ高い桜舘直春公に従って生き延びる道を選ぶことにする。悪く思わないでくれ』

 持康は激怒した。


「裏切り者を許すことはできぬ。絶対に殺す!」


 作戦を問われた定恭は進言した。


「桜舘家は本気で当家に戦を挑むようです。十分な準備があると思われます。我々も最大限の兵力を集めて向かいましょう」


 持康は各地から守備に必要な武者以外は全て呼び寄せ、二万四千の大軍を編成すると、三日後に白鷺川までやってきた。

 桜舘家を中心とする連合軍は金平橋(かねひらばし)を封鎖せず、増富軍を鳥追領へ引き入れた。そして、昼頃、城のそばまで進軍してきた持康に挑戦状を送った。

『明日合戦し、雌雄(しゆう)(けっ)しよう』

 持康は軍勢を停止させ、両執政と左右軍師に意見を聞いた。


「小封主のくせに生意気な。わしに異存はない。直春をこの手で討ち取ってやる」


 持康は気炎を吐き、二人の執政も反対しなかった。


「できる限り早く桜舘家を打ち破る必要がございます。籠城されるより合戦の方が好都合ですな」

「数で圧倒して一気に城を攻め落とし、撫菜城も奪ってしまいましょう」


 二ヶ月前から五形城下に不穏(ふおん)な噂が流れていた。桜舘家が采振家旧臣の外様衆に反乱をそそのかしているという。対陣中に槍峰国が乱れることを持康と両執政は恐れたのだ。武将たちも領地が荒らされる心配があると戦いに集中できない。

 この懸念に定恭は懐疑的だった。


「桜舘家の勢力は当家の半分以下で、外様衆がすぐになびくとは思えません。もしその噂が事実なら、反乱を起こさせて当家がこの戦場に武者を集めにくくするはずです。我々を慌てさせて合戦に持ち込むためにうそを流したのです。この策を信家が打ってくる可能性を考えて隠密に外様衆を監視させていますが、怪しい動きはないようです」

「いつの間にそんなことを。お前の家の隠密か」


 持康は驚き、不愉快そうに唇をゆがめた。


「渋搗家にも手伝ってもらっています」


 為続が頭を下げて肯定し、定恭は進言を続けた。


「成安家の援軍は来ないと思われます。周辺国も当家領に攻め入る様子はありません。勝負を急ぐ理由はないのです。むしろ、早く決着をつけたいのは本拠地を遠く離れている敵の方です。鳥追領は五形城から二日の距離です。豊津からは五日かかります。ここはじっくりと相手を観察して信家の作戦に見当を付け、対策を立ててから戦うべきです」


 定恭は落ち着かせようとしたが、持康は聞かなかった。


「それでは時間がかかりすぎる。手こずっていると思われたくない」

 敏廉の裏切りに衝撃を受けているのだ。降伏した槍峰国の武家から領地を奪って新旧両家に配ったし、外様衆となった彼等を一段低く扱ってきた。敏廉に続く者が他にも現れるのではないかと不安に駆られている。


 これは止められないと考えて、定恭は提案した。


「急ぎたいのでしたら、今夜敵陣を襲撃してはどうでしょうか」


 鳥追城周辺の地図に指で部隊の動きを示した。


「承知の返事をし、戦いは明日と思わせておいて奇襲するのです。失敗しても敵に眠れぬ夜を過ごさせることができます」

「ばか者!」


 持康は叱り付けた。


「わしは大増富家の当主だぞ。そんな卑怯なことができるか! 正々堂々と戦って勝ってこそ、武名が近隣国に(とどろ)くのだ!」


 おのれの実力を示すことに持康はこだわっていた。定恭は(いさ)めようとしたが、守篤が先に口を開いた。


「小薙敏廉の離反から慌ただしい日々が続きました。昨夜もあまり眠っていらっしゃらないとうかがっております。今夜はゆっくりお休みいただいた方がよろしいでしょう」


 言われてみると、持康は目が赤い。行軍中も何度かあくびをしていたことを定恭は思い出した。


「武者たちも明日の戦いに備えて休養させましょう。夜襲はしないと互いに約束してはどうでしょうか。襲ってきても備えがあるぞとほのめかすのです」

「なるほど、よい考えだな!」


 持康は感心した。定恭は内心首を傾げたが黙っていた。ここは敵の領地の中だ。警戒は必要だし、空堀と木の柵を巡らせた宿営用の陣地はどのみち作るのだ。


「当方は敵の二倍の大軍、日の光の(もと)で正面から戦っても勝てるはずです。そうですな、砂鳥殿」


 定恭は頷くしかなかった。挑戦を受けて立つ(むね)の返事が送られ、武者たちは野営の準備に入った。

 軍議のあと、定恭は自家の武者を呼んで命じた。


「民の格好をして敵陣や予定戦場の周辺を調べてきてくれ。信家の作戦を知りたい」


 小高い丘の上にある鳥追城は刈り取りの終わった田んぼに囲まれている。干してあったはずの稲はどこかへ移されていて、土も乾いて固い。戦をするのに問題はなさそうだ。


「青い秋空に白い雲。明日も晴れそうだな」


 直春と信家の顔とあの会見が思い出された。


「もしやと思っていたが、小薙殿だったか。この戦に負けたら当家は大打撃を受ける。今は大殿の家臣として全力を尽くそう」


 この戦場を選んだのは信家だ。作戦を練る時間もたっぷりあった。きっと厳しい戦いになる。

 定恭は気を引き締めると、地形を眺めながら頭の中で部隊の動きを再確認し始めた。



 その頃、菊次郎は城の丘のふもとにいた。やはり戦場を眺めて作戦を検討中だった。

 あまり広くない城下町のはずれに桜舘軍は陣地を築いている。ここに着いてもう三日目で、防御の備えはできているが、敵がそばにいるので武者たちは昨日よりぴりぴりしていた。


「芋の煮っ転がしか。うまそうなにおいがするな」


 忠賢と直冬が歩いてきた。馬は近くの牧草地に置いてきている。田鶴と小猿も一緒だった。


「もう夕食の準備を始めたんだね。さっきお昼ご飯を食べたばかりなのに」


 小荷駄隊が芋の皮をむいている。人数が多いので、芋の入った木箱が何十もあった。できあがったら、当主や武将たちが手ずから武者たちの皿によそってやることになっている。


「師匠、何を食べているのですか」


 菊次郎の口元を見て直冬が尋ねた。手にのせていたものを見せると、ああという顔をした。


「雪姉様のかき餅ですか」

「そろそろ食べてしまわないと傷みますから」


 出陣する時に雪姫が渡してくれた菓子だ。小さく切った餅を油で揚げて塩で味をつけてある。日持ちをよくするためにわざと固めにしてあるのを、少しずつ噛み砕いて食べていた。


「おいしかったよなあ」


 錦木(にしきぎ)仲載(なかとし)が味を思い出す顔をした。忠賢のもとで騎馬隊の訓練をしていたので、菊次郎たちと一緒に豊津から出陣してきたのだ。


「名門封主家の姫君なのに料理がうまいんだからすごいよな。女人に手作りの菓子をもらったのなんて初めてだ」


 仲載(なかとし)は三万貫の錦木家の跡取りだ。かき餅など食べ慣れているだろうが、手作りを贈られるのはまた違うようだ。


「しかもあんな美人だしな」


 雪姫は十七歳になった。姉に負けぬ美貌だと城下の民の間で評判になっているそうだ。菊次郎が一目惚れしてすぐに破れた時の妙姫と同じ年になり、似てきた部分もあるが、どこか(はかな)げなところは雪姫らしい。そんな面差しが目に浮かび、菊次郎の胸は甘くざわめいた。


「頭までいいんだよな。芋を削っているあのかんなは雪姫様の発明だぞ」


 小荷駄隊の手には小さな刃のついた木製の道具がある。通称芋かんなという。

 芋の皮をむくのが大変だと侍女のお(とし)が言うのを聞いて、かつお節を削るかんなを使えないかと雪姫は考えた。だが、芋は丸いのでうまく行かない。その話を萩矢(はぎや)頼算(よりかず)にしたところ、発明好きの仕置(しおき)奉行は面白い発想だと乗り気になり、試作品を作って持ってきた。


「もっと小さく軽くして、片手で持てるようにできないかな。芋ではなくてかんなを動かすの」


 雪姫は料理番やお俶と一緒に感想を述べた。頼算はなるほどと思い、木の部分を可能な限り少なくし、刃も薄くして、ようやく実用にたえるものが出来上がった。


「今、城下で大評判なんだって」


 田鶴の肩の上で、小猿が芋のにおいに鼻をひくひくさせている。


「工房に注文が殺到してるよ。雪姫様も喜んでた」


 煮っ転がしの屋台で使ってもらったところ好評で、野菜の皮むきに苦労していた料理人の間であっと言う間に噂が広がったという。


「玉都の料理茶屋が欲しいと言ってきたんだろ。豊津の名産品がまた増えたな」


 忠賢は料理はしないが、以前一つ手に持ってみて、これはもうかりそうだなとつぶやいていた。


「雪姫様はいい奥方様になるだろうなあ」


 仲載(なかとし)が菊次郎のかき餅をもの欲しげに眺めた。自分の分は食べてしまったようだ。


「ねえ、いくつ入ってた?」


 田鶴が尋ねた。


「えっ、何が?」


 菊次郎が聞き返すと、田鶴はもどかしそうにした。


「かき餅の数」

「二十個だよ。みんなと同じだと思う」

「そうなんだ」


 田鶴はほっとしたような不安なような顔をした。


「俺も二十個だったが、何か違ったのか」


 仲載が怪訝(けげん)な顔をすると、田鶴は首を振った。


「違わないよ。気にしないで」


 その割には表情が暗い。直冬は心配そうだが何も言わなかった。


「どういうことなんだ?」


 仲載が首を傾げると、忠賢が横目で田鶴を見た。


「菊次郎のだけ、多かったんじゃないかと思ったんだろ」

「それって、つまり……」


 仲載が急に言葉を切って、菊次郎と田鶴を見比べた。


嫉妬(しっと)だな」


 忠賢がはっきりと口にした。


恋敵(こいがたき)だからな」

「ということは、雪姫様は菊次郎殿を?」


 田鶴はうつむいている。忠賢は肯定も否定もせず、直冬は困惑した顔だった。


「雪姉様の気持ちはよく分からないんです」


 つぶやくように言って、菊次郎を見た。


「師匠はどうなんですか。雪姉様のこと、どう思っているんですか」

「どうって……」


 菊次郎が返事に(きゅう)すると、田鶴が体を強張(こわば)らせて叫んだ。


「やめて! 聞きたくない!」


 小猿がびっくりして飛び上がった。田鶴は真白を片手で撫でてなだめると、もう一方の手に持っていた(わら)の包みを忠賢に突き付けた。


「そういうことを言う忠賢さんには、これ食べてもらうからね!」

「何だそれは?」


 忠賢の目の前で田鶴は藁を開いた。


「げっ、蓮根か!」

「鳥追池で作ってるんだって」


 城の手前に農業用の溜池(ためいけ)がある。白鷺川から引いた水を溜めて周囲の田んぼを(うるお)すもので、広さも深さもさほどではない。


「蓮根は嫌いだって言っただろうが」


 忠賢は本当に不愉快そうだ。嫌う理由が味より思い出にあるからだろう。


「煮っ転がしに入れようと思ってもらってきたけど、騎馬隊にあげることにする。小荷駄隊に渡しておくね」

「やめてくれ。絶対たくさん食わされる」


 忠賢は騎馬隊で尊敬されている。珍しい具の蓮根をたっぷりよそってくれるだろう。


「お前も嫌いなものがあるだろ。気持ちは想像できるだろうが」


 田鶴はにっこりした。


「嫌いな食べ物はないよ」

「あれはどうだ」


 忠賢が指さしたのは大きな銀杏(いちょう)の木だった。根本にぎんなんがいっぱい落ちている。


「つぶれた時のにおいは(いや)だけど、味は好き」

「なら、俺に蓮根を食わせたら、ぎんなんの汁を服にいっぱいつけてやる」

「やめてよ。かぶれたらどうするの!」


 田鶴は両腕で自分の体を抱くようにして身を反らした。


「その腕にすり込んでやるぜ」

「いやらしい言い方しないでよ!」


 豊津では侍女なのでそれなりによいものを着ているが、戦場ではいつも七分袖の着物だ。弓を引きやすいからのようだ。下は膝がかろうじて隠れるくらいの長さの(はかま)のようなものをはいている。もう十八歳で、女らしい体つきになってきていた。普段隠れている部分の肌が白くつややかだった。


「何?」


 田鶴が菊次郎の顔を見上げた。田鶴もだいぶ背が伸びたが、菊次郎の方が高い。よく見ると顔が少し赤かった。


「いや、何でもない。ごめん」


 自分がどんな目で田鶴を見ていたかに気が付いて、菊次郎は謝った。

 田鶴は無言で服の前や(すそ)を直した。菊次郎は言う言葉がなく、直冬も黙っていた。仲載は探るように三人を観察している。

 と、何か考えていた忠賢が顔を上げた。


「おい、菊次郎、明日の作戦に変更はないよな」

「はい」


 突然の問いだったが、慌てずに肯定した。


「豊津で話した通りです」

「つまり、芋かんな作戦だな?」

「そうです」

「勝手に変な名前つけないでよ」


 田鶴が呆れたが、菊次郎は悪くないと思った。


「この作戦を思い付くきっかけは芋かんなでした。ですから、ふさわしい名前ですね」


 あの道具を見せにきた時の雪姫の笑顔が目に浮かんだ。


「そうなんだ」


 田鶴が驚いた。直冬も意外だったようだ。


「そうだったんですね」


 忠賢は珍しくためらい、慎重に言った。


「今、こんな策を思い付いたんだが、どうだ」


 忠賢が真剣と知り、菊次郎も笑みを収めた。


「聞かせてください」


 作戦は簡単なものだった。菊次郎は何度か頷きながら耳を傾けた。


「とてもよい考えだと思います」


 菊次郎は心から言った。


「面白いです。ぜひ取り入れましょう」

「ちょっと安易すぎねえか」


 忠賢は不安を口にしたが、菊次郎は励ました。


「忠賢さんだから浮かぶ策です。僕には思い付けません。きっと敵も驚きます。勉強の成果が出ていますね」


 兵法を学びたいと言った忠賢に、菊次郎は歴史の書物を薦めた。実戦経験が豊富な忠賢は基礎の原則を文章で読むよりも、過去の名将の作戦をたくさん知る方がよいと思ったのだ。敵や味方がその作戦を使ったらどうなるか、実感を持って感じられるはずだ。


「以前言いましたね。作戦は複雑なものがすぐれているわけではありません。どんなに単純で簡単な策でも、相手が引っかかってねらった効果が出せるなら、それはよい作戦です」

「そうか。なら、やってみるか」


 忠賢は照れたように頭をかいたが、すぐに表情を引き締めた。


「そんじゃ、俺たちはちょっくら出かけてくるぜ。小荷駄隊にも声をかけないとな」

「はい。夕食には戻ってきてください。最後の軍議をします」

「分かってるさ。そんなに時間はかからねえよ」


 忠賢は答えると、自隊の武者がいる方へ足早に歩いていった。


「忠賢さんもいろいろ考えてるんだね」


 去っていく後ろ姿を見つめて田鶴がつぶやくと、直冬が胸の前でこぶしを握った。


「そうですね。僕も頑張らないと」

「兵法の兄弟子だもんね」


 田鶴は弟を見るような顔をした。直冬は溜め息を吐いた。


「厳しい戦いですけれど」


 直冬は十六になり、田鶴を見下ろすくらい背が伸びた。毎日武術の稽古(けいこ)に励んでいて体はたくましい。それでも、田鶴の中では出会った頃の幼い少年のままのようだ。


「強敵と分かっていても負けられない戦いもあるよな」


 仲載が言い、田鶴が首を傾げた。


「明日の合戦のこと?」

「もちろん、それもあります」


 直冬が向けた視線を、菊次郎は受け止めた。


「絶対に勝たなければなりませんね。僕たちのためにも、定恭殿のためにも」


 田鶴と直冬もあの約束は知っている。


「勝利すれば、天下統一という直春さんの目標に一歩近付くでしょう」

「うん、分かってる」

「全力を尽くします」


 菊次郎はかき餅の最後の一つを丸ごと口に放り込み、ばりばりと噛み砕いた。

『帰ってきたらまた作ってあげるね』

 雪姫は約束してくれた。

 勝って帰っておいしかったと伝えよう。

 菊次郎は勝利への決意を新たにしたのだった。



 翌二十八日の朝、朝食を済ませた直春たちは陣地を出て、少し先の田んぼの真ん中に布陣した。桜舘軍、南部三家の軍勢、城から出てきた小薙家の部隊を合わせると、一万一千七百に上った。

 さほど待つこともなく、増富軍も姿を現した。金平橋(かねひらばし)の前に一千を置いて退路を確保し、二万三千で合戦に(のぞ)むようだ。

 両軍は鳥追池を挟んで向かい合う形になった。東に桜舘軍と鳥追城、西に増富軍だ。池から北と南へ細い水路が伸びていて、自然と互いの領分の境界線になっていた。二つの本陣は鳥追街道で結ばれているが、北水路にかかる橋は踏み板をはずしてある。


「菊次郎君、そろそろ始めるか」


 敵の様子を眺めていた直春が言った。二階建てほどの高さの物見台からは戦場が一望(いちぼう)できる。


「特に挨拶は必要ないと思います。準備ができたら動き出すでしょう。ほら」


 増富軍は手早く本陣を設置して陣形を整えると、一部が離れて桜舘軍の方へ向かってきた。


「定恭殿は相当慎重に構えていますね。半数以上を本陣に残しています」


 中央の池を回り込むように五千ずつの二隊が北水路と南水路へ進んでくる。大将持康がいるはずの本陣には一万と騎馬隊三千が控えている。


「定恭殿も菊次郎君と同じ考えのようだな」


 直春は驚いてはいなかった。


「相手が何をしてくるか分からない以上、本陣にできるだけ多くの予備兵力を置き、どんな事態になっても対応できるようにするということだろう」

「定恭殿はやはり恐ろしいです。二倍の相手に用心深く動かれたら勝つのはとても難しくなります」

「それでも勝たなくてはならない。俺たちならできるさ」

「はい」


 互いにそうした布陣になることは予想していた。だから、次の手も決まっている。


「こちらもまずは少数で相手をしましょう」

「では、二人を前進させる」


 直春は手を前に大きく振って声を張り上げた。


「直冬殿と本綱に、予定の対応をせよと伝えろ!」


 合図の鐘が鳴り、二千ずつの二隊が北と南の水路に向かっていく。水際に達すると、土手に隠れて矢を浴びせ始めた。

 増富軍の二隊は盾兵を前に出し、頭の上にも盾を構えて、応射しながら少しずつ前進してくる。五千対二千なので飛ぶ矢の数は増富軍の方が多く、桜舘軍は敵が近付くと後退を始めた。


「一気に水路を越えよ!」


 増富軍の武将が叫んでいる。二倍以上の数を頼んで武者たちは水路になだれ込み、すぐに岸に上がって

きた。

 北と南の水路は溜池の水を田んぼに行き渡らせるためのものだ。子供でも助走をつければ対岸に飛び移れるほどの幅しかない。稲刈りのあとなので水門が閉じられていて水は膝まで来なかった。土手も手をつかずに登れる高さだ。増富軍側の土手は土の俵を積んであるが、それでも腰程度にすぎない。

 増富軍は勢いに乗って水路を通過し、二千の桜舘軍へ迫ろうとした。

 そこへ、直冬と本綱の声が響いた。


「今だ! 攻撃!」

「一気に前進せよ!」


 二隊の武者は急に増富軍に接近して槍を突き込んだ。


「しまった! これがねらいか!」


 水路で隊列が乱れたところを襲われて、増富軍はみるみる崩れた。狭い場所に密集し土手に押し付けられては、槍を振るうのは困難だ。しかも、半数近くがまだ水路を渡っておらず、戦っているのは桜舘軍と同じくらいの数だった。後退しようにも水路と背後の味方が邪魔だ。少なからぬ武者がろくな抵抗もできぬうちに桜舘軍の槍に倒れていった。


『狼達の花宴』 巻の五 鳥追城外の合戦図 その一

挿絵(By みてみん)


「よし、敵の第一陣二隊の足止めはできました」


 池の北も南も、二千が五千を抑えている。


「地形を利用して数の差を埋めたのか。さすがは菊次郎君だ」


 直春は笑みを浮かべていた。余裕ありげな表情はいつものことだが、戦場ではとても頼もしく見える。


「では、次の段階へ進みます」

「芋の皮むきだよね」


 田鶴に頷いて直春を見ると、大将は再び腕を前へ振った。


「市射殿と泉代殿に行動を開始せよと伝えよ!」


 鐘が激しく鳴らされ、本陣のそばにいた二隊が動き出した。やはり北と南へ分かれて進んでいく。


「敵の先鋒が動けない間に水路を越えさせましょう。敵の本陣へ向かわせます」


 田鶴が心配そうに肩の上の小猿を片手で撫でた。


「数が少ないけど大丈夫かな」

「市射勢は一千一百、泉代勢は一千二百ですからな」


 馬廻頭(うままわりがしら)豊梨(とよなし)実佐(さねすけ)も腕を組んで遠ざかる二隊を目で追っている。菊次郎は安心させるために、知っているはずの作戦をもう一度田鶴に説明した。


「今回の合戦は忠賢さんが名付けた通り、芋かんな作戦で行きます。市射勢と泉代勢が近付けば、敵は必ず迎撃の部隊を分離します。適当に戦って、引き付けながら北と南へ逃げてもらいます」

「そうやって敵の武者を分散させるのね」

「それがねらいです」


 直春は隣で黙って聞いている。


「僕たちと同じように、定恭は多くの予備兵力を本陣に置いています。それをなんとかしないと、罠にはめても援軍を送って立て直されてしまいますし、本陣が分厚くて攻め込む隙がありません。まずはその武者を吐き出させます」


 五千の二隊は既に抑えた。さらに二千か三千ずつを分離してくれれば、敵の武者のうち一万五千ほどが戦闘に参加できなくなる。


「攻撃すれば勝てる程度まで敵本陣の武者が減ったら用意した策を実行します」

「敵の大将をねらうんだよね」

「増富軍を潰走(かいそう)させるには当主持康公を危機に陥らせるのが一番確実です。霧前原や崩丘でも、持康公は危なくなると真っ先に逃げ出しました。そうなれば勝負はつきます。他の部隊が互角でも、持康公さえ倒せば勝てるんです」

「あたしもそう思う」


 田鶴は安堵したように頬をゆるめた。


「家臣の部隊が次々に動けなくなったり戦場から去っていったりすれば、持康公の性格からすれば、きっと自分で攻めてきます。その時が好機です」

「皮がなくなった芋を煮込んでおいしくいただこうというわけですな」


 実佐は大きく頷いている。


「はい。市射勢と泉代勢が成功したら、次は敵の騎馬隊を遠ざけます。忠賢さんの役目です」


 それで敵本陣の兵力は五千程度、味方の武者は残り三千八百、策が効果を発揮すれば十分勝てるはずだ。


「忠賢さんなら大丈夫だね」


 田鶴がほっとしたように言った時、直春が割り込んだ。


「かんながうまく動いていないぞ」

「えっ?」


 菊次郎が戦場を見ると、泉代勢と市射勢が水路の手前で停止している。


「足止めしていた敵が部隊を分けたのですか!」


 五千の敵部隊はそれぞれ二千を切り離し、そばを通過しようとする二隊を襲わせていた。どうやら、水路を渡り切れなかった者たちを分隊として、横に並べたらしい。敵が前を塞いで向かってきたら、泉代勢と市射勢は応戦するしかない。交戦を避け、離れた場所で水路を渡っても、追いかけられた場合、敵本陣から来た部隊と前後に挟まれてしまう。


「敵の先鋒二隊に、こちらは四隊が捕まってしまったのですな」


 実佐が(うな)った。


「分隊とはいえ相手の方が数が多いです。泉代勢と市射勢は防戦で手一杯でしょう」


 桜舘軍は全部で九隊に分かれていた。その半分近くが戦闘を始め、自由に動けなくなってしまったのだ。


「いきなり作戦と違う展開になったな」


 直春は落ち着いていた。


「先程敵陣で太鼓が鳴っていた。定恭殿の合図ではないか」

「こっちのねらいを読まれたってこと?」


 田鶴がまた不安そうになった。


「恐らくそうでしょう。定恭殿なら気付いてもおかしくありません。だからこそ、先手を打ってどんどん部隊を差し向けて、彼が対応せざるを得なくしたかったのです」

「先手を打っているのは定恭殿のようだな」


 直春が言った。


「敵本陣から部隊が分かれたぞ。水路の方へ向かってくる」


 一千五百の部隊が南へ二隊、北へ一隊、進んできていた。


「どうするの?」


 菊次郎は唇を噛んだ。


「迎撃するしかありません。交戦中の部隊の脇を突かれたら崩れます。その勢いで本陣まで攻め込まれかねません。水際で食い止めましょう。同じように渡らせたあとで水路に押し付けるのです」

「分かった。そうさせよう」


 直春が伝令武者に命じた。


「本陣の前にいる三隊を向かわせよ」


 予定と違う行動なので鐘では伝わらない。

 秋芝(あきしば)景堅(かげかた)の撫菜城の部隊と小薙敏廉の鳥追城の部隊それぞれ一千二百が南へ、錦木勢八百が北へ向かった。


『狼達の花宴』 巻の五 鳥追城外の合戦図 その二

挿絵(By みてみん)


「どうするの。もうほどんど武者がいないよ」


 田鶴が辺りを見回した。

 先程まで本陣のそばには多くの部隊が待機していたが、既にそのうち七隊が水路の前に並んでいる。もはや忠賢の騎馬隊一千五百と直春直卒(ちょくそつ)の六百しか残っていない。背後に立つ二十台の投石機には計一百人がいるが、彼等は動かせない。


「これで敵の本陣を攻撃できるの?」


 菊次郎はうなだれた。


「持康公のそばにはまだ八千五百もいます。とても無理です」


 田鶴の表情を見て小猿の真白まで心配そうにきょろきょろし始めた。


「しかも、忠賢さんの部隊は……」

「待って! また敵が来るよ!」

「やはり……」


 敵本陣のそばにいた敵の騎馬隊三千が動き出した。水路を越えるつもりだ。


「忠賢殿を行かせる。よいな」


 やむなく直春に頷くと、すぐに伝令が走った。一千五百の精鋭騎馬隊が前進を始めた。同じように北水路のこちら側で迎え撃たせる。


「数の差が大きいですが、忠賢さんなら持ちこたえてくれるはずです」


 祈る気持ちがつい口から出た。攻めていって適当なところで逃げるのと、待ち受けて防戦するのでは随分違う。勢いは敵にあり、数も倍だ。忠賢といえどかなり苦しいだろう。

 一方、直春は感心していた。


「やはり定恭殿は同じことを考えていたのだな」


 互いに同程度の兵数の部隊を繰り出して次々に戦わせていけば、先に武者が尽きるのは数に劣る桜舘軍だ。本陣の武者はたった六百になってしまった。増富軍は五千五百を残している。


「実力の高い軍師同士だとこういう展開になるのか。興味深いな」


 直春は面白そうな顔をしているが、菊次郎は楽しむどころではなかった。


「読み負けました。ねらいを察知されて、対抗策を打たれました」

「どうやって君の策を読んだのだろうな。こちらの動きを見てなのか」

「戦場に着いてからではないと思います。もっと前からこういう展開を予測していたのでしょう」


 腹の探り合いは勝負を約束した時から始まっていた。菊次郎は定恭の作戦を予想しようとしたが、それは無理だと気付いた。少数の側が防戦に回っては勝ち目がない。積極的に動いて主導権を握り、敵に自由な行動をさせないようにするしかないという結論に達したのだ。その線で考えたのが芋かんな作戦だった。


「ここから逆転できるの?」


 田鶴が小声で尋ねた。言葉が出ない菊次郎に、直春の冷静な声が追い打ちをかけた。


「錦木勢が押されている」


 先程敵本陣から分離した三隊のうち、北水路へ進んできた一千五百を錦木勢八百に迎撃させた。だが、倍近い敵に明らかに苦戦している。仲載(なかとし)の騎馬隊三百が側面を突いて必死に支えているが、(かち)武者五百はじりじりと下がり始めていた。


「まずいですね。でも、もう援軍に送れる武者がいません」


 数の差が問題なので数百を追加してやれば持ち直すと思われるが、本陣にいるのは直春隊六百だけだ。他の部隊は全て数でまさる敵と戦闘中で、武者を引き抜いたら負けてしまうだろう。


「どうするの? あたしが行こうか」

「申し出はありがたいけど、無駄だと思う」


 田鶴は弓の名手だが、少女一人が加わっても形勢は変わらない。


「じゃあ、どうしたらいいの、菊次郎さん!」


 どうしようもなかった。武者の数で劣るという桜舘軍最大の弱点を定恭は見事に突いてきた。こちらは無理を承知で、始めの四隊が倍以上の敵を引き付ける作戦を立てていた。それくらいこれは大きな問題だったのだ。


「錦木勢の奮闘を祈るしかありません」


 かすれた声で答えた時、直春が言った。


「実佐を向かわせよう」


 当主を護衛する馬廻頭(うままわりがしら)に命じた。


「四百を預ける。すぐに向かえ」

「待ってください」


 菊次郎は慌てた。


「それでは直春さんの身が危なくなります」


 総大将の守りは六百でも少なすぎるくらいだ。たった二百では丸裸も同然だった。


「放っておくことはできない。まだ負けていないのは水路際で食い止めているからだ。錦木勢が崩れたら全体が崩壊する」

「それは、そうですが」


 直春のきっぱりした口調には迷いが感じられなかった。


「実佐、頼む」

「はっ!」


 四十歳になり白いものがぽつりぽつりとまじり始めた頭を下げて、実佐は命令を受けた。すぐに(かち)武者を呼び集め、北水路の方へ駆け足で向かっていく。


「大丈夫だ。まだ間に合う」


 直春は口元に笑みさえ浮かべていた。


「直春さんがそう言うならきっとそうだね」


 田鶴は菊次郎に対してとは違う意味で直春の言葉を信じているようだった。

 実佐隊は錦木勢の背後で隊列を整え、横に並んだ。仲載と逆の側面をつくような動きをしたので敵は警戒してやや下がり、錦木勢は持ち直した。


「直春さんの判断が早かったからですね」


 菊次郎は深い溜め息を吐いた。ほっとしたのが半分、絶望が半分だった。


「これで戦いは膠着(こうちゃく)したな」


 直春は戦場を見つめたまま尋ねた。


「定恭殿はどう出てくると思う」


 菊次郎は即答した。


「敵にはまだ五千五百が残っています。一方、こちらには二百しかいません。僕なら好機と見てこの本陣をつきます。つまり、ここへ攻めてきます」


 自分たちの立つ物見台を指さした。


「持康公の護衛に一千か一千五百を残し、残りを二つに分けて、北側と南側の両方から前進させます。僕たちに防ぐ兵力はありませんから、敵はほとんど抵抗を受けずにここに到達するでしょう」

「そうなったらどうなるの?」


 田鶴に問われて、菊次郎は少し黙り、かろうじて細い声を(しぼ)り出した。


「逃げるしかありません。直春さんが討たれたら桜舘家は終わりです。定恭殿はそれをよく分かっているはずです」


 口に出して自分で戦慄(せんりつ)した。


「どうにかならないの」


 田鶴は救いを求めるように直春を見上げた。


「無理です」


 菊次郎は答えた。


「直春さんが逃げたら敵は戦闘中のこちらの部隊の背後をつくでしょう。どのみち全軍が崩壊します」


 総大将に頭を下げて軍師として進言した。


「今すぐ撤退命令を出しましょう。鳥追城に小薙隊が入るのを支援し、それを見届けたら鵜食橋(うぐいばし)を渡って撫菜城へ一時後退します。今ならまだどの部隊も崩れていません。敵を食い止めつつ橋に向かうことができます。かなりの損害が出ると思われますが、橋の向こうで体勢を立て直して反撃の策を練りましょう」


 自分の言葉が耳を滑っていく。大敗だった。作戦を立てた自分の責任だ。定恭を寝返らせるのも失敗した。そもそも貫高が倍以上の大封主家に戦いを挑んだのが間違いだったのだ。軍師として止めるべきだったのに、賛成してしまった。


「なあに、大丈夫だ」


 頭上に明るい声が落ちてきた。


「俺たちは勝つ。撤退はしない」

「どうしてですか」


 菊次郎は顔を上げた。


「なぜ勝利を信じられるんですか!」


 つい声が大きくなった。作戦を立てた時、この事態を一番恐れていた。直春も状況の悪さを分かっているはずだ。

 直春は菊次郎を見つめて言った。


「俺は自分の大軍師を信じている。他の仲間たちもな。だから、戦っている味方を置いて逃げたりしない」


 直春は自信に満ちた表情で笑っていた。


「俺たちがあの持康に負けるはずがない。定恭殿がどれほどすぐれていようと、俺たちが勝つはずだ。菊次郎君の策がまだ残っている」

「僕もそう思いたいですけど……」


 泣きそうになるのを何とかこらえて、菊次郎は直春の目を見返した。

 なぜだろう。理由は分からないが、直春を見ていると勝てそうな気がしてくる。頭では今すぐ逃げた方がいいと思うのに、この人の言葉の方が自分の判断より正しいと心が感じている。

『負けそうに見えても最後まで自分の正義を揺るがせず、提案した軍師を信じて作戦を貫く強い心を持った大将だけが勝利できるのです』

 以前そう言ったのは菊次郎自身だった。直春がそういう人だから、桜舘軍は勝ってこられたのだと。

 知恵が回る分動揺しやすい自分をいつもこの人が支えてくれる。間違いそうになった時も冷静な判断で正しい道を示してくれる。今も同じではないのか。

 菊次郎は直春の顔をまじまじと眺めた。三つ年上の友人の人好きのする笑顔に心が締め付けられた。


「……分かりました」


 菊次郎は体を起こし、無理に胸を張った。


「総大将は直春さんです。あなたがそう言うのなら、僕も信じます。直春さんと、仲間たちを」


 それが軍師として、銀沢菊次郎という人間の生き方として、正しいと感じた。


「菊次郎さん自身もだよ」


 田鶴が言った。


「そうだね」


 これは桜舘家みんなの戦いだ。自分一人の考えで負けと決め付けてはいけない。それこそ自分勝手だ。


「直春さんは強いですね」


 人としての大きさや心のしなやかさが自分とは比べ物にならない。菊次郎は快い敗北感に包まれていた。


「僕も頑張ります。最後まで」

「君は全軍の大軍師だ。心をしっかり持て」

「はい!」


 菊次郎は大きな声で返事をした。

 その時、戦場で激しい(とき)の声が起こった。


「忠賢さんが負けてる!」


 田鶴が悲鳴を上げた。菊次郎は慌てて右手の北水路の方を眺め、青ざめた。


「騎馬隊が総崩れです。倍の敵に持ちこたえられなかったんです!」


 うめき声を漏らした菊次郎の肩に直春が大きな手をのせた。


「慌てるな。仲間を信じろ」


 直春の顔に不安の(かげ)りはなかった。


「忠賢殿が簡単に負けるはずがない。違うか」

「僕もそう思います」


 でも、と続けようとして言葉をぐっとのみ込み、菊次郎はかろうじて頷いたが、体の震えが止まらなかった。



「ちっ、本陣が空じゃねえか」


 忠賢は敵騎馬隊との交戦の指揮をとりながら、後方を振り返って舌打ちした。


「こっちの部隊は全部出払っちまった。残ってるのはお殿様だけか」


 考えながら馬を走らせ、向かってきた敵の騎馬武者を一人、槍で馬から突き落とした。


「芋かんな作戦ははずれたな。皮をむかれたのはこっちだぜ。むかれすぎて実が残ってねえ」


 近くにいた敵武者の槍を跳ね上げ、腹に一突き入れて逃げ出させた。


「菊次郎の策は聞いてるが、これじゃ使えねえな」


 少し思案して、にやりとした。


「俺がやるしかねえか」


 目の前の敵は一千ほどを分離して側面をつこうとねらっているようだ。


「どのみちこのままじゃやばい。一気に攻めてくる気なら丁度いいぜ」


 忠賢は付き従っていた騎馬武者五人を呼び寄せた。


「四人は背中の旗を広げろ。さっきの指示通りにやれ。ちょっと小細工するが、信じてついてこい。そっちのお前は文尚(ふみひさ)に伝言しろ。あれをやるとな。それで分かるはずだ」

「はっ!」


 忠賢に心酔している武者たちはそろって頷いた。一人は副将の方へ馬を走らせた。


「そろそろ着いたな」


 連絡が届いた頃を見計らって、忠賢は部隊の前へ出た。


「俺が青峰忠賢だ! 敵将はどこにいる! 俺と勝負しろ!」


 槍を掲げて大声で叫ぶと敵の騎馬武者がまわりを取り囲もうとした。忠賢隊の武者たちが阻止しようと守りを固める。


「俺が大将の安瀬名(あぜな)数軌(かずのり)だ。一騎打ちだと? 笑わせるな!」


 大柄で立派な鎧の武将が見事な馬に乗って近付いてきた。大勢の武者を引き連れている。

 忠賢は敵将に槍先を向けた。


「お前の顔は見覚えがあるぞ。崩丘では世話になったな」

「あの時砂鳥殿の策にかかった愚か者か。また負けに来たか。こりないやつだ!」


 安瀬名(あぜな)数軌(かずのり)はわざとらしく高笑いした。


「数が違いすぎて負けそうだが、一騎打ちなら勝てると思ったか。元浪人風情が思い上がるな。お前の相手などせぬ。諦めてさっさと降参せよ」

「何だと、言わせておけば!」


 忠賢は激怒し、敵将に向かっていった。そばにいた武者たちも追いかけようとしたが遅れ、忠賢は一騎で敵の中に突っ込むことになった。


「慌てるな! 包囲せよ! 討ち取ってしまえ!」


 数軌(かずのり)はやや下がって冷静に命令した。多数の騎馬武者が忠賢に殺到した。


「邪魔だ! どけ! 俺の相手は口の減らないあの大将だけだ!」


 忠賢は追い払おうとしたが、数が多すぎた。たちまち囲まれ、同時に何本も槍が繰り出された。


「畜生! やりやがったな!」


 伸びてくる槍を必死で払いのけていた忠賢が苦悶の声を漏らした。一本が右肩に突き刺さったのだ。


「くっ!」


 忠賢は顔をしかめ、左手で傷口を押さえると、馬首を返した。


「勝負はお預けだ。命拾いしたな!」


 捨て台詞(ぜりふ)を吐くと、左手一本で滅茶苦茶に槍を振り回しながら味方の方へ馬を走らせた。忠賢隊の武者たちが敵武者を押しのけながら近付こうとする。


「逃がすか!」


 背後から槍が幾本も伸び、忠賢は馬上に伏せてかろうじてよけた。その拍子に愛用の槍が手から落ちた。


「しまった!」


 忠賢は悔しそうに地面に転がった槍を振り返ったが、すぐに前を向き、何とか囲いを突破すると、本陣の方へ馬を走らせた。


「全員、今すぐ逃げろ!」


 叫びながら一目散に遠ざかっていく。そのすぐ後ろを青い布をたなびかせた騎馬武者四人がついて行った。


「敵将が逃亡したぞ! 俺たちの勝ちだ!」


 数軌が叫び、安瀬名隊の武者たちが歓喜の雄叫(おたけ)びを上げた。


「忠賢様が負傷だと! そんなまさか!」

「逃げろ! 逃げろ! 敵が来るぞ!」


 忠賢隊の騎馬武者たちは目に見えて動揺し、次々に戦闘をやめて大将に続いた。


「今だ、挟撃せよ!」


 その時、先程分離した一千が忠賢隊の側面へ突っ込んできた。


「敵は大混乱だ! 逃がすな! 追撃だ! 一気に蹴散らして敵の本陣へ向かうぞ!」


 数軌は勝利を確信し、先頭に立って敵部隊を追いかけた。


「何と無様な逃げぶりだ。止まって抵抗する者がいないではないか」 


 忠賢隊は散り散りになっている。大きく二つの動きがあり、片方は本陣へ向かい、もう一方は戦場を離脱するようだ。どちらも先頭に青い布をひるがえす二騎がいた。


「こんな敵に今まで当家は負けていたのか」


 拍子抜けして失笑を漏らした数軌に、武者(がしら)が馬を寄せてきた。


「どちらを追いますか」


 数軌は一瞬考えた。


「部隊を分ける。戻ってこぬように蹴散らしてから、合流して敵本陣へ向かう」

「はっ。では、そのように……」


 武者が承知の返事をしかけた時、前方で多数の悲鳴が聞こえた。人と馬と両方の声だった。


「どうした!」


 数軌は急いで駆け付けようとしたが、途中で慌てて手綱を引いた。


「太い角材と丸太が多数落ちている。こっちには葉のついた大きな枝がある。蹄鉄(ていてつ)でこんなところに飛び込んだら馬の足が折れてしまう」

 桜舘軍が陣地を築いた時に余った木材や残った切れ(はし)だろうか、田んぼ数枚分の広さに無数に散らばっていた。忠賢隊はこれを知っていたので分散してよけて通ったらしい。


「前方には空堀か。底に木の板が敷いてあるようだな」


 半円形の堀は手前が深く、先に行くほど浅くなっており、登ろうとしても滑ってしまう。


「木の板に油が塗ってあるのか」


 既に百頭近い馬が空堀からはい上がれずに油まみれになってもがいていた。


「皆、速度を落とせ! 足元に気を付けて進むのだ!」


 大きく手を振って呼びかけたが、三千騎が勢いに乗って駆けていたのだ。さらに少なくない馬が木材で滑って転倒し、空堀に落ちていった。


「しかし、どうしてこんなものがあるのだ。おかげで追撃は一時中断だ」


 数軌は首を傾げてはっとした。


「まさか……」


 辺りを見回した時、何かが兜にごつんとぶつかった。


「これは煙玉か!」


 こぶしよりやや大きくて丸いものが多数飛んでくる。火がついていて大量の煙を吐き出している。逃げたと思っていた忠賢隊が投げているようだった。


「慌てるな! 桜舘軍がよく使うものだ! 煙いだけで害はない!」


 まわりの武者たちにも同じことを叫ばせたが、返ってきたのは無数の咳と悲鳴、馬の苦しそうないななきだった。


「なんだこの煙は! なんとも不快で目とのどが痛い。けほっ、けほっ、これはたまらん!」


 騎馬武者たちは皆のどを押さえ、吐きそうな顔をしていた。それにもましてひどいのは馬の嫌がりようだった。主人の言うことを全く聞かずに大暴れし、次々に武者を振り落として駆け去っていく。


「煙の正体が分かりました!」


 馬から落ちた武者の一人が走ってきた。手に火が消えて燃えなかった煙玉を持っている。


馬酔木(あせび)です。いつもの煙玉に葉をたくさんひもで縛り付けてあるのです!」

「馬酔木だと!」


 数軌は目を見張り、同時に納得した。馬は馬酔木を決して食べない。毒があるからだ。食べた馬が酔っぱらったようなおかしな状態になることが名前の由来らしい。燃やした煙は虫を殺す効果があると言われている。


「馬はにおいに敏感だ。こんなものを燃やされたら暴れるに決まっている」


 馬に乗る者なら誰でも分かることだ。明らかに騎馬隊対策だった。


「足元の悪さといい、敵の策略にはまったか」


 そう気付いた時、さらに別な悲鳴が起こった。


「敵が石を投げてきます! うわっ!」

「煙でよく見えない! どこから飛んでくるんだ!」


 散り散りになったと思っていた忠賢隊はいつの間にか集合して隊列を組んでいた。


「昨日河原で拾ったやつが荷車にいっぱいあるぞ! けちらずどんどん放り込め!」


 忠賢は活力に満ちた愉快そうな声で味方に指示している。手には仲間から受け取った別な槍を持っていた。


「怪我は演技だったのか!」


 数軌は歯ぎしりした。三千の騎馬隊は大混乱に陥っていた。煙と石に興奮した馬が勝手な方向に走り出したり木材を踏んで転んだりして手が付けられない。必死でなだめようとする武者たちも目やのどが痛み、息苦しそうだった。


「やむを得ん。一時撤退だ。水路の方へ戻れ! 煙いのはこの辺りだけだ」


 数軌は大声で指示して引き返そうとしたが、忠賢隊が立ち塞がった。


「逃がさねえよ。こっちは風上だしな!」


 吼狼国では秋の風は西から吹く。つまり、増富軍が越えてき水路の方角からだ。そちらへ回り込んだ忠賢隊は馬酔木の煙を浴びずにすむ。


「完全に包囲されたか」


 忠賢隊は半円形の空堀にふたをするように広がり、石と槍で安瀬名隊三千を閉じ込めてしまった。


「さて、俺はできることをしたぜ」


 忠賢は本陣の方を見やった。


「次はそっちの番だ。どうする、お殿様と菊次郎さんよ」


 挑発するような口ぶりに反して、忠賢は楽しそうに笑っていた。


『狼達の花宴』 巻の五 鳥追城外の合戦図 その三

挿絵(By みてみん)


「ここまではお前の目論見通りだな」


 定恭が本陣で戦況を眺めていると、背後で声がした。振り向くと、隣に為続が並んだ。


「敵の予備兵力を引っ張り出せた。柿の皮むき作戦は成功だ」


 にやりとした為続に、定恭は言い返した。


「いかの皮むき作戦だ」

「それじゃ薄すぎる。むかなくても食えるじゃないか」

「柿だって同じだ」


 定恭は戦場へ目を戻した。為続には妻のことでいろいろ言いたいことがあるが、この合戦の準備に集中するため一時休戦している。為続は約束を守り、さよりとの関係を定恭に知られたことを誰にも話していないようだ。


「とにかく、敵の大将は丸裸になった。作戦は順調だ。そうだろう?」

「今のところはそう見えるな」


 為続は怪訝(けげん)な顔をした。


「見えるとか、今のところとか、歯切れが悪いな」


 定恭の口ぶりが気になったらしい。


「勝っている気がしないんだ」


 定恭は本音を漏らした。


「どうしてだ? お前の予想通り、敵はこちらの武者を分散させようとした。だから、先手を打ってどんどん部隊を繰り出し、敵が応戦せざるを得なくした。それはうまく行ったじゃないか」


 先鋒の五千ずつ、面高(おもだか)求紀(もとのり)隊と矢之根(やのね)壮克(たかかつ)隊を信家が少数で迎撃して足止めしようとしたのを見て、定恭はすぐに彼等に分隊を作らせ、さらに三隊と騎馬隊を差し向けた。


「桜舘軍も予備兵力を多く持ってこちらの策に対応しようとすることは予想がついたからな」


 現在、北水路の向こうでは敵と味方それぞれ四部隊が戦っている。南水路にも同じく四部隊ずつが並んでいる。両軍合わせて十六部隊は目の前の敵と激戦を繰り広げていて互角と言ってよいだろうが、決定的な違いがあった。


「戦闘中でない武者は敵が二百かそこら、こっちは五千五百だぞ。圧倒的に有利だろう。いずれ、数に劣る敵部隊は弱ってくる。そこでいよいよ俺たちが動いて勝負を決めるわけだ」

「そうだな」

「なら、何が問題なんだ。どこに不安要素がある」


 為続は首を傾げている。


「まだ敵軍師の策がどんなものか分からない」


 定恭は池の向こう側にある桜舘軍の本陣を眺めていた。物見台の上に深めの緑の胸当てをして黒い軍配を持った敵軍師と、白い鎧の国主が立っている。増富軍の本陣も見晴らしのよい盛り上がった場所を木の板の壁で囲ったものなので、向こうから見えているはずだ。


「銀沢信家は恐ろしい軍師だ。こんなに簡単に勝てるはずがないんだ」


 定恭は腕を組み表情は硬かった。


「敵は味方の半分だ。その兵力でどうやってこちらを倒すつもりなのか」


 それを考えていくと一つの結論に突き当たる。


「どう計算しても、信家が勝負を決定付けに来る時、向こうにはこちらより少ない兵力しか残っていない。つまり、絶対に何かの策略を使うんだ。そうしなければ勝てない。どんな策なのか気になるんだ」


 船中の会見のあと、どうしたら桜舘家に勝てるかを定恭は必死で考えた。結論は、敵軍師に策略を使わせてはならないということだった。

 信家の発想は奇抜で予想は難しく、対策を立てるのは不可能だ。策を破るのではなく、使えないように封じるしかないと思った。

 それができれば兵数が半分の桜舘軍は恐ろしくない。数の差を生かした堅実で隙の無い作戦で力押しすればよい。本陣に多くの予備兵力を置いておき、援軍を送ったり交代させたりして味方の陣形を維持し、敵部隊の側面や直春のいる本陣をつく機会を待つのだ。


「この作戦を提案したのはお前だぞ」

「だからこそ不安なんだ。俺はいつも敵の動きを予測して、罠を張ったり、打ってくる策を逆手に取ったりして勝ってきた。だが、信家の策略は読めない。奇策を使う軍師はそこがやっかいなんだ」


 為続は目を見開いた。


「意外だな。そんなに信家の策略が心配なのか」

「彼はこれまで何度も大胆な策略であっさりと形勢を逆転させてきたからな」

「名軍師のお前だからこそ、信家の恐ろしさが分かるのかもな」


 為続は桜舘軍の本陣の後ろにある投石機に視線を向けた。


「あれを使うんだろうな、きっと」


 左右に十台ずつ、計二十台だ。設置式の大型のもので、かなり遠くまで重いものを飛ばせるはずだ。


「間違いない。何かを投げるんだろうが、それだけだろうか」

「敵陣を偵察させたはずだな。その報告は?」

「そばに樽が多数あったそうだ。中身は分からなかった」


 為続も腕を組み、眉を寄せた。


「骨山願空みたいに蜂の巣でも投げるのか」

「あれは足止めが目的だ。信家のねらいは混乱させて少数で多数に勝つことだろうから、違うと思うぞ。蜂がいたら彼等も近付けない」

「なるほど」


 為続は少し考えて、質問を変えた。


「お前が信家の立場なら、どんな策を立てると思う?」


 定恭はあごに手を当てて少し黙り、鳥追池を見つめた。


「あの池と水路を利用したいところだな」


 南と北の水門は閉じていて水が最大まで入っている。


「どう使うんだ」

「水門を開けて洪水で武者を押し流すとか、水量を急に増やして対岸に渡った部隊を孤立させるといったところか」

「その手があるか!」


 為続は感心したが、定恭は首を振った。


「言ってみただけだ。現実には不可能だ」

「なぜだ」

「水深が浅すぎる。幅も狭い。水が増えても渡れないことはないし、押し流すほどにはなるまい」


 子供でも助走をつければ飛び越えられる。土の俵を並べてある増富軍側の土手でさえ、大人の腰程度の高さだ。


「もし流されても、水の中の(くい)に引っかかるだろう。南北両方とも少し先に六本ある。簡単な橋があったのだろうが、敵が踏板をはずしたのだな」


 池に流れ込む川は白鷺川から引かれている。増富軍が進んできた道のそばを流れていたので、途中に(せき)を作って水をたくさん溜めておくといったしかけがないことは確認している。


「第一、こちらの部隊はもうみんな対岸にいる。分断するつもりなら、半分ほどが渡ったところで実行していたはずだ。いまさら水量が増えても動揺はしないだろう」

「確かにそうかもな」


 為続は残念そうだ。


「それに、水門は我が軍の部隊の列の背後にある。敵はどうやって近付くんだ」


 閉じてある水門を開ける方法も問題なのだ。


「なら、池を舟で渡ってこっちの本陣を奇襲するとかはどうだ」


 為続は自信なさそうに言った。


「池に舟は一つも浮かんでいない。こっちから丸見えだから奇襲にならないしな。騎馬隊を走らせた方がよっぽど早い」


 泳いで渡るのもあり得ない。鎧を着た武者は重いので沈んでしまうし、武器が邪魔だ。南北二つの水門の前に木の板が四、五枚ずつ浮いているが、つかまって浮きにするのはむりだろう。


「じゃあ、何だろうな」


 為続は考えようとしたがすぐに諦めた。


「お前に分からないものが俺に分かるはずないな」


 笑って元気付けるように言った。


「本陣が空で、ほとんどの部隊が戦闘中なら、どんな策があろうと形勢をひっくり返すのは無理だ。こちらは援軍を送ってすぐに立て直せる。もう敵には手がないんじゃないか。それをねらっての皮むき作戦だろう」

「そうなんだが、敵はまだ戦意を失っていない。逃げる様子もない。何を考えているのか」


 つぶやいた時、二人の近くで耳を傾けていた箱部守篤が大声を上げた。


「安瀬名殿が敵騎馬隊を崩しましたぞ!」


 両軍の騎馬隊は北水路の一番北側で戦っていたが、突然桜舘家の一千五百が驚愕の叫びを上げて乱れ、逃走を始めた。安瀬名隊三千が追いかけていく。


「数が倍でしたからな。支え切れなくなったのでしょう」


 守篤は興奮したが、定恭は喜ばなかった。


「それにしては一斉に崩れました。青峰忠賢という武将は武者たちの信頼厚く、簡単には負けないと思うのですが」

「そうでしたか?」


 守篤は不満そうな顔をしたが、反論はせずに状況を見守った。

 やがて青峰隊は北と南へ二手に分かれるように散らばっていき、ぐるりと弧を描くように戻ってきて安瀬名隊の背後で合流、攻撃を始めた。


「煙が上がったぞ。火計か」


 為続が尋ねた。


「いや、煙玉というやつだろう」


 安瀬名隊から馬や武者の悲鳴がひっきりなしに聞こえてくる。


「ただの煙にしては混乱が大きい。いつもとは何か違うのかも知れない」


 青峰という武将はああいう小細工をする人物ではなかったはずだが。考え始めた定恭に、守篤が言った。


「これはまずいのではありませんか。救援した方がよいのでは」


 定恭は思考を中断して口を開こうとして、二人の執政と総大将持康も注目していることに気が付いた。


「もうしばらく様子を見ましょう」


 定恭は床几(しょうぎ)に座っている持康へ答えた。


「放っておけということか」


 持康は顔をしかめて聞き返した。定恭はまた結論を先に言ってしまったことに気が付いて、丁寧な口調で付け足した。


「はい。損害は多少出るでしょうが、投石などの攻撃が中心です。すぐには潰走しないと思います。全体を見ればまだ我が軍が優勢です。慌てて反応せず、敵の出方を見極めた方がよいでしょう」


 定恭は恐れながら期待していた。一部隊とはいえ増富軍が崩れたのだ。信家にとって好機だ。策を使ってくる可能性があった。どんなものか分かってから動いても遅くない。こちらが援軍を送って本陣の武者を減らすのを待っているかも知れないので、慎重な対応が必要だ。

 持康は頷いて立ち上がった。


「ならば、いよいよわしの出番だな」

「えっ?」


 定恭は驚いた。それを愉快そうに見やって総大将は言った。


「これよりわしがじきじきに敵の本陣を攻める。必ずや陥落させて見せよう」

「お待ちください!」


 定恭は思わず大声を出した。


「今はまだ攻める時ではありません」


 持康は露骨に嫌そうな顔をした。


「なぜだ。今が好機ではないか」


 突き刺すような勢いで戦場を指さした。


「お前は優勢だと言うが、戦況は膠着しておる。何もしなければ死傷者が増えるだけだ。ここで主力が動かずになんとする」


 持康はいらだたしげに声を(あら)らげた。


「どの部隊も数に劣る相手と戦っておる。いずれは敵が力尽き、崩れるだろうと思っておった。だが、安瀬名隊が敵の策にかかった。このままあやつが負ければ、敵騎馬隊は他の部隊の側面を襲うだろう。この本陣をねらってくるかも知れぬ。つまり、待っておれば勝てる状況ではなくなった。そう思わぬか」


 視線を向けられて()執政の犬冷(いぬびえ)扶応(すけまさ)が慌てて猫背を伸ばし、甲高い声で返答した。


「優勢ではありますが、互角とも受け取れますな。このままでは勝負はつきませぬ」


 恰幅(かっぷく)のよい()執政の蛍居(ほたるい)汎満(ひろみつ)は商人のような顔に媚びるような笑みを浮かべた。


「数の差を考えれば、敵は善戦していると見ることもできますぞ。もう一押しが必要ですな」

「わしもそう思う」


 持康は両執政の言葉に満足げだった。


「援軍を送って安瀬名隊を立て直そうとしても間に合わぬかも知れぬし、もっとよい手がある。我が隊が前進し、敵の本陣をねらうのだ! 敵騎馬隊が向かってきたら蹴散らし、一気に直春を討つ!」


 持康は得意そうに執政や軍師たちを見渡した。


「この状況を変え、味方に勝利をもたらすのはわしの役目だ。安瀬名隊や他の部隊の武者たちのためにも、そろそろ合戦を終わらせてやりたい。敵の武者を全て引っ張り出したら本陣を攻める作戦だったはずだ。違うか、守篤」


 左軍師は総大将に(うやうや)しく言上した。


「確かにそうなっておりました」


 定恭は焦った。


「まだ早すぎます!」


 持康が気分を害すのを承知で反対した。


「敵軍師の策略が分かりません。もうしばらく様子を見た方がよろしいと存じます」


 持康は意外な顔をした。


「そんなに信家の策略が不安か」

「はい。銀沢信家は奇策を使います。充分な用心をするべきです」


 定恭は必死に自分の懸念を言葉にした。


「これまでの対戦でも、常に兵力で劣勢にありながら勝利しています。大殿のお命を危険にさらすことはできません」


 持康は少し考え、口ぶりに嫌味をたっぷりとにじませた。


「待てば敵の策が読めるのか」

「いえ……」


 定恭は返答に困った。


「敵が実行するまで分からないのだな。つまり、お前には予想がつかないのだ。そうだろう」

「はい」


 定恭は唇を噛んだ。


「では、攻撃を行うべきだ。今も武者たちは必死で戦っておるのだぞ! のん気に構えておる場合ではない。これは命令だ!」


 しかし、と言いかけて、定恭は言葉をのみ込んだ。総大将が決断を下したのだ。もはや止められない。


「分かりました。攻撃しましょう」


 定恭はやむなく頷いた。


「ですが、大殿ご自身が向かわれる必要はありません」

「なに?」


 持康は眉を上げた。


「残り五千五百のうち一千五百を大殿のおそばに残し、残りを二千ずつ二隊に分けます。北と南から同時に水路を越えさせれば敵は防げません」


 敵本陣の武者数では一隊の相手すら難しい。二隊が進んできたらどうしようもないだろう。


「いや、わしが行く」


 持康はうるさそうに言った。


「わしの手で勝利を決定付けるのだ」

「危険です。大殿御自(おんみずか)ら動かれる必要はありません。総大将は本陣にいらっしゃるものです」

「ばか者!」


 持康は定恭を怒鳴り付けた。


「茅生国の征服は亡き父の遺言だ。わしがやらずにどうする。新当主の実力を諸国に示すのだ」


 定恭は呆れたが、ぐっとこらえて頭を下げた。


「敵軍師は恐るべき知謀の持ち主です。どんな策を使ってくるか分かりません。大殿のお命を危険にさらすわけには参りません。どうか本陣にお残りください」


 崩丘のように持康が逃げ出したら戦はそこまでだ。


「敵には投石機があります。安全なこの場所で味方の働きを督戦(とくせん)なさってください」

「駄目だ。この戦は外様衆ばかり戦っておる。新旧両家の精鋭をここで活躍させるのだ。それを率いる者は両家の上に乗るわし以外におらぬだろうが!」


 水路際に並んでいる部隊は、多くが槍峰国や茅生国の外様衆で構成されている。安瀬名数軌も外様の武将だ。面高(おもだか)求紀(もとのり)隊と矢之根(やのね)壮克(たかかつ)隊も五千のうち半分近くは外様衆の武者だった。持康が新旧両家の部隊をできるだけ本陣に残すように定恭に命じていたのだ。


「このままの布陣で敵が崩れて勝負がつけば、外様衆に全ての功績を持っていかれる。俺が前に出なければ新旧両家の面目がつぶれるのだ」

「そんなことにこだわって御身(おんみ)を危険にさらされるのですか」

「そんなこととは何だ!」


 持康は激怒した。


「当家の伝統を守るためだ! それが当主であるわしの役目ではないか!」

「大殿、お心をお静めください」


 守篤がおだやかな声で主君をなだめた。持康は左軍師と定恭を見比べて渋々といった様子で口を閉じかけたが、急に意地悪い表情になった。


「わしがこだわるのは当家の伝統をとても大切に思っておるからだ。だが、定恭、お前は違うようだ」


 あからさまに侮蔑(ぶべつ)する口調で持康は言った。


「わしや当家の者たちの思いなど、敵に寝返るようなやつには分からぬのだろう! この裏切り者め!」


 定恭の視線を避けるように為続が横を向いた。


「お前は戦が怖いのだ。わしが行けばお前も敵の前に出なければならなくなると思ったか! 女を寝取られても 相手を(ののし)ることも殺すこともできぬ弱虫野郎め!」


 崩丘や霧前原で、定恭は三百を率いて敵部隊に奇襲をかけているのだが、持康は都合の悪いことは忘れてしまえるらしかった。


「お前はわしたちが負けた方が都合がいいのだろう! 当家にはいづらいだろうからな!」


 守篤と二人の執政は嘲笑うような表情を浮かべ、聞こえないふりをした。


「お前のような者に作戦を任せておっては、勝てる戦も負けてしまうわ! もうよい。お前の意見は聞かぬ。黙ってわしの命令に従っておれ!」


 持康が肩で息をしながら言葉を切ると、守篤は定恭の方を向いた。


「敵の本陣はほとんど空です。大殿が攻めていかれた場合、止められると思いますか」

「不可能だと思います」


 今の時点でつかんでいる情報からは、そう言うしかなかった。


「その上、砂鳥殿には秘策がありましたな」

「用意はしてあります」


 策があるのは信家だけではなかった。


「あれを使われたら、砂鳥殿ならどう対応しますか」

「援軍を送って立て直します」

「敵はそれはできません。それでも勝てないのですか」


 守篤はやり込めることを楽しんでいるような不愉快な笑みを口元に浮かべていた。


「貴殿なら、どうやってここから桜舘軍を勝利させるのですか」


 定恭は答えられなかった。敵軍師には策があるはずだと思うが、無暗に恐れて動かないのは愚かだ。それを分かった上でなお、信家の策が不安だったのだ。


「大殿、前進致しましょう。今が好機と存じます」


 守篤は進言した。


「わしは最初からそのつもりだ。すぐに準備致せ」

「かしこまりました。北の部隊は大殿ご自身で指揮をおとりになるとして、南から向かわせる部隊は誰に率いさせますか」


 尋ねた守篤に定恭が言った。


「南北に部隊を分けると大殿を守る武者が少なくなりすぎます。一部隊にし、本陣の武者のほとんどを連れていくのがよいと思います」


 守篤の視線を受けて持康は渋々承認した。


「分かった。五千で向かう」


 持康はあからさまに見下した目つきで定恭に命じた。


「お前はこの攻撃に反対した。そんなやつがいても足手まといだ。五百と共に本陣に残れ」


 定恭に手柄を立てさせないつもりなのだ。


「為続もここにいろ。守篤と執政二人はついてこい」


 すぐに武者たちに指示が伝えられた。持康は馬にまたがり、両執政と左軍師を連れて水路の方へ進んでいった。


「大殿を行かせて本当によかったのか。俺たちは勝てるのか」


 為続が周囲に聞こえぬようにささやいた。


「分からない」


 定恭は溜め息を吐いて答えた。


「敵軍師の策略による。普通に考えれば勝てる状況だが、銀沢信家が何の手も打たずに負けるとは思えない。それに……」

「何だ」


 為続が先を(うなが)した。


「ただの勘だが、大殿が自ら攻めていったのは、敵軍師を喜ばせるのではないか」

「そうなのか!」

「俺が信家なら、困難を承知で大殿をねらう。少数が多数に勝つには大将など軍勢の(かなめ)になるものをたたくのが定石(じょうせき)だからな」


 定恭は小声で言って、背後の太鼓手を見やった。


「とにかく、俺は自分の仕事をする。あの策がうまく行けば、桜舘軍を窮地に追い込むことができるはずだ」

「そうだな。それに賭けよう」


 二人は笑みをかわそうとしてはっとした。互いに気まずそうによそを見る。為続は持康に伝えないという約束を破っていた。長い付き合いの友人より主君を選んだのだ。


「こんな風にまわりの顔色をうかがわなくてはならないことが一番の足かせだ。信家は自由にやれるのだろう。俺に勝ち目はあるのだろうか」


 定恭は苦笑気味につぶやいた。

 二人が見守る中、持康隊はかなりの速さで進み、北水路を渡って対岸へ出た。


「大殿は安瀬名隊を救わないようだ」


 為続が言った。


「五千全部でまっすぐ敵の本陣へ向かうらしい」

「外様衆は見捨てるつもりか。大殿らしいご判断だな」


 定恭は呆れた。


「敵の騎馬隊を引き付けてもらおうということじゃないか」


 為続は主君をかばった。


「本陣をつけば敵は逃げ出す。騎馬隊も攻撃をやめるだろう。結果的に安瀬名隊も立ち直る。放っておけと言ったのはお前じゃないか」

「俺は敵軍師の策略を警戒してもう少し待つように進言したのだ。せっかく手元に武者を多く残したのに分散しては意味がないからな」


 敵本陣をねらうにも、五千程度は握っておきたかったのだ。


「大殿は違う。単に救うつもりがなかっただけだ。俺ならそばを素通りされたら怒る。やっと助けが来たと思ったのにとがっかりして恨む。一隊を差し向ければ救えるのだからな」


 数が倍の安瀬名隊が劣勢に陥ったのは彼等自身の失敗のせいだ。それでも、近くに来た味方に無視されたら不愉快だろう。


「もう少し家臣の気持ちを考えていただきたいものだ」


 定恭は(ひと)()ちて、戦場を見回した。


「そろそろいいだろう」


 敵味方の各部隊の様子を確認すると、背後の太鼓手たちに命じた。


「よし、今だ。合図の太鼓をたたけ!」


 五人の太鼓手が息の合った動きで、だだだ、だだだと激しく打ち鳴らした。

 水路際で戦っていた増富軍七部隊の隊列の後方で、多数の弓が構えられ、目の前の敵に向かって一斉に放たれた。


「たこの墨を浴びせよ!」


 桜舘軍の武者たちは急に降ってきた矢の雨に驚いた。鎧に刺さったものを見て不安そうになる。


「な、何だこの矢は! 先端が黒いぞ!」

「墨のようだが、ひどく嫌なにおいがする!」


 沸き起こった多数の疑問のつぶやきを、増富軍の武者たちの声をそろえた叫びが打ち消した。


「ふぐの毒をくらえ! かすっただけで命がないぞ!」


 桜舘軍の武者たちはざわめいた。


「ふぐって何だ?」

「海の魚だろ。食ったやつは絶対助からないっていう……」

「一匹で何百人も殺せるらしいぞ」

「そんな毒が肌に触れたら……」


 桜舘軍の武者たちは恐怖に震え上がった。


「俺、口に入っちまった! ものすごく苦い! もう駄目だ!」

「俺は目についた! 失明するのか!」

「肌がかゆくなってきた! これだけでも死んじまうのか!」


 皆急速に戦意を失い、槍を振るう速度が遅くなっていった。


「ばか者、戦闘中だぞ! 恐れるな! 必死で戦い続けろ!」


 武者頭たちは怒鳴ったが、不安の声は広がっていく。

 そこへ追い打ちのように新たな太鼓が響いてきた。


「いかの足を伸ばせ!」


 増富軍の隊列の三列目から五列目までの武者たちが槍を引き、穂先の根元に巻いてあった布をはがした。長い鎖が垂れ下がり、三角のとげがいくつもついている鉄球が現れた。


「うにを敵に食らわせてやれ!」


 武者頭のかけ声に合わせて数百の槍が高く掲げられ、一斉に同数の鉄球を桜舘軍の兜や鎧に勢いよくたたき付けた。


「どわっ、上から何かが落ちてきた」

「肩をしたたかに打たれた。骨に響く痛みだ!」

「俺は腕をたたかれた! しびれて力が入らない!」

「兜に音が反響して耳が痛い! 頭がくらくらする!」


 ものすごい速さで繰り返し振り下ろされる重い鉄球の衝撃は槍の打撃を上回った。最前列やその後ろの武者たちは、正面の敵と槍で戦いながら、複数の鉄球の打撃を次々に受けることになった。相手にする敵が数倍になったようなものだ。その場に倒れる武者が続出し、先頭の列の動揺はすぐに後ろの者たちに伝染していった。


「今だ! 突き崩せ! 敵は弱っているぞ!」


 増富軍の武者頭は叫んだ。


「踏みとどまれ! 後退してはいかん! 背を向けたらおしまいだぞ!」


 桜舘軍の武将たちも慌てて叫んだが、もう遅かった。数にまさる敵に一歩も引かなかったのは、武者たちが心を合わせ、必勝の覚悟で全力を振り(しぼ)っていたからだ。心と隊列を乱され、死を意識して恐怖に取り付かれた武者たちは、もはや半分の力も出せなかった。


「くっ、これは持ちこたえられないか!」


 武将たちの必死の努力にもかかわらず、桜舘軍の七隊は少しずつ本陣の方へあとずさりを始めた。ゆっくりだった足の運びは次第に早くなり、後部では隊列を離れて逃げ出す者すら現れた。


「よし、勝った!」


 為続は叫んだ。


「あんな策で効果があるのか疑問だったが、見事に敵が崩れたな。黒い液の正体が墨を混ぜた柿渋と知ったら、敵は悔しがるだろうな」

「ねらったのは実害じゃない。戦意を失わせ、動揺させることだ。数に劣る敵は負けぬように懸命に押し返して支えていた。そこに揺さぶりをかけてやれば一気に崩れると思ったのだ」

「なるほど。心を攻めたんだな」

「前に言ったろう。心の準備がないことをされると人は適切な対応ができない。慌てるし、集中力が切れてしまう。そうなれば実力を発揮できなくなるんだ」


 解説しながら、定恭は胸を撫で下ろしていた。奇策に(るい)するものを使うのは初めてだったので不安もあったのだ。


「信家のまねだが、うまく行ってよかった」


 とはいえ、素直に喜べなかった。


「勝ったことは俺にとってよいことだったのか」


 臆病者と(ののし)った時の持康の心底侮蔑(ぶべつ)するようなまなざしを思い出すとげんなりする。


「直春公なら、あんなことは決して言わないだろうな」


 忠誠を信じてくれない主君に仕え続けるのはしんどい。先程持康が大声で叫んだことで、為続とさよりの噂は武者たちに広がるだろう。


「どうした」


 為続が顔を向けた。


「何でもない」


 定恭は誤魔化して太鼓手を振り返った。


「総攻撃の合図を。後退する敵を圧迫して一気に崩し、勝利を確定させる。この戦を終わらせるぞ!」


 太鼓が激しく鳴り出した。


「俺も攻撃に加わりたかったな」


 為続は見ているしかない悔しさと勝ったうれしさが半々の顔つきだった。


「それは俺たちの役目ではないさ。全体を眺めて部隊の動きを調整しよう。本陣にいるからこそできる仕事だ」


 向こう岸から増富軍の勝利を確信した大きな雄叫びが聞こえてきた。水路のそばで隊列を整えていた持康隊も勢い付いて敵本陣へ向かっていく。


「信家はどう対処するのだろうか。さすがにもう何もできないと思うが」


 そろそろ戦いも終わりだろうと、勝ってしまったことを定恭は寂しく感じていた。


『狼達の花宴』 巻の五 鳥追城外の合戦図 その四

挿絵(By みてみん)


「やられたな。さすがは定恭殿だ」


 直春は腕を組んで感心していた。


「忠賢殿の騎馬隊以外は下がってくるぞ」


 水路際に並んでいた七隊全てが後退を始めていた。忠賢隊は優勢だが、戦闘中で動けそうにない。


「戦意をくじかれたら、数で劣るこちらは簡単に崩壊します。一気に味方が劣勢になりました」


 菊次郎には敵軍師の策略をほめる余裕はなかった。


「まずいですね。敵は勝負を決めに来ました」


 五千の敵が北水路を越えた。総大将持康の旗印が見えている。


「敵の本隊がこの本陣に到達したら、僕たちの負けが確定します。直春さんの命すら危うくなります」


 できるだけ淡々と事実を述べたが、声が震えそうだった。もう打つ手はない。定恭の勝ちだった。


「もはやこれまでです。すぐに撤退を……」 


 口にしかけた決定的な言葉を、直春の面白そうな口調がさえぎった。


「ふぐの毒というのは本当だと思うか」


 菊次郎は口をつぐみ、少しためらって首を振った。


「いいえ、違うでしょう。ただの(おど)しだと思います」

「根拠はあるのか」

「定恭殿は負けたら当家に下る約束です。恨みを買うような策は使わないと思います。伏兵や側面攻撃などで崩された場合は仕方がないと武者たちも思うでしょうが、火で焼かれたり毒で苦しんだりしたら憎む気持ちが残ります。敵だった定恭殿が当家に溶け込むのはただでさえ苦労します。僕だったら居心地を悪くするに決まっていることはやりません」

「やはりそうか」


 直春も分かっていたらしい。


「そうなんだ。よかった」


 田鶴はほっとしている。


「それをみんなに伝えたら立ち直るかな」

「いまさら遅いだろう。軍勢というものは、あとずさりを始めてしまえば、その足は早くなる一方だ。集中力や戦う気持ちを一度失うと取り戻すのは簡単ではない」


 桜舘軍の部隊はじりじりと水路から遠ざかりつつある。 


「全軍が崩れかかっている。放っておけば、すぐに武者たちは隊列を離れて逃げ始めるぞ」

「直春さんでも支えられないの?」


 田鶴は小猿を胸にぎゅっと抱き締めている。


「無理だろうな。むしろ、よく持ちこたえている。当家の武者たちだからこそだ。増富家ならとっくに全面潰走(かいそう)になっている」


 直春は絶望的なことを語っているのに落ち着いていた。


「なぜ、みんながまだ必死で踏ん張っているか分かるか」


 田鶴は目を見開き、顔を少しほころばせた。


「分かるよ。菊次郎さんがいるからだよね」

「そうだ。この状況を逆転できる者が一人だけいる」


 直春と田鶴は背後の二十台の投石機を見上げた。


「当家自慢の大軍師だ。みんな、その策略に期待しているのだ」


 武将たちも武者たちも、策略があることを知っていて、それを待っている。だから、逃げ出したい気持ちと必死に戦っているのだ。


「じゃあ、まだ負けてないんだね。勝てるよね」


 田鶴が勝利を神に祈るように尋ねた。


「勝てる」


 直春は断言した。


「俺たちなら勝てる。菊次郎君のあの策なら可能だ」


 直春と田鶴の視線を受けて菊次郎は体が震えた。


「本当にうまく行くと思いますか」


 励ましを期待する聞き方になってしまい、恥ずかしかった。


「絶対に成功する」


 直春は笑って()け合った。


「君ならできる。君にできなければ誰にもできないさ」


 直春の菊次郎への信頼は決して揺るがない。それはとてもうれしい。武将たちや武者たちの期待もだ。同時に責任の重さが苦しくもあった。


「でも、こちらにはもう武者がいません。どうやって敵の本隊を迎え撃つのですか」


 策略が成功しても、勝負を決める兵力がない。だから菊次郎は合戦に負けたと判断したのだ。


「俺が行く。二百全てを連れていく」

「えっ、直春さんが!」


 菊次郎は驚いた。


「敵は五千ですよ。たった二百で突撃するつもりですか! 死にますよ!」

「本気なの?」


 田鶴も青ざめている。


「大丈夫だ。俺は死なない。たくさんの仲間がいるからな」


 直春は自信に満ちた笑みを浮かべていた。


「俺たちはこれまでも力を合わせて勝ってきたはずだ。前に言ったろう。君は一人で戦っているわけではないんだ」


 菊次郎はからからの口で同意の言葉を言おうとしてためらった。そんなに楽観的にはなれなかった。


「それはそうですが……」


 直春が死んだら桜舘家は終わりなのだ。危険すぎる。


「心配するな。みんなうまく動いてくれるさ」


 直春はまだ不安そうな田鶴の頭に手を置いた。


「もし、俺が敵に突っ込んでいくのが見えたら、菊次郎君はどうする」

「それは、すぐに援軍を送ります」

「忠賢殿や直冬殿は同じことをしないのか」

「すると思います。でも、みんな数でまさる敵と戦闘中です。援軍を送りたくても難しいかも知れません。それに多少増えても敵本隊は五千もいて……」


 菊次郎は途中で口を閉ざした。自分がひどく醜い人間に感じられた。頭では分かっている。味方を信じるべきだし、信じられる人たちなのだ。なのに、足が震える。もしもの可能性が頭から離れない。


「そんな顔をするな。きっと大丈夫だ」


 下を向きそうになるのをこらえるのが苦しかった。


「直春さんは強いですね」

「俺はみんなを信じているだけだ。彼等や武者たちをな。だから、勇気が湧いてくる」


 菊次郎は告白した。


「僕は怖いんです。どうしようもなく」

「君はそれでいい。軍師とはそういうものらしいからな。心配性な方が、様々な可能性を考えて周到な手を打てる」


 直春の目はやさしかった。


「だから、不安から無理に目を逸らすな。そのかわり、俺を信じろ。君を信じる俺と当家の仲間たちを信じろ。もし失敗したら、決断した俺を恨め。そんなことには絶対にならないがな」

「直春さんを恨むなんてできません」

「なら、恨まずにすむようにするしかないな」


 直春は晴れやかに笑って、菊次郎の肩をぽんとたたいた。


「では、行ってくる。策略を発動する指示は君が出してくれ」

「はい!」


 菊次郎は表情を引き締めて、できるだけ力強く返事をした。恐れ迷う時間は終わった。直春を助けるため、策を効果的に発動することに集中しよう。


「全員騎乗せよ! 敵の大将を打ち破りに行くぞ!」


 物見台を降りると、直春は愛馬にまたがって槍を振り上げた。


「どこまでも一緒に参ります!」


 武者頭が応じ、馬廻りの精鋭二百騎が一斉に叫んだ。


「おう!」


 直春は大きく頷き、馬の腹を蹴った。


「行くぞ! 俺についてこい!」


 言うなり、先頭に立って馬を走らせた。持康の本隊目がけて疾走していく。全騎が砂煙を立てて追いかけた。


「よし。僕たちも準備しよう」


 菊次郎は田鶴を振り返った。


「分かってる。任せて」


 田鶴はにっこり笑うと、小猿を連れて池の方へ歩いていった。


「菊次郎様、いよいよですね」


 友茂が言い、護衛の四人がまわりを囲んだ。


「もしもの時の備えです。必ず無事にお逃がしします。でも、大丈夫、きっとうまく行きます」


 菊次郎は黙って頷いた。

 直春の二百は直冬隊、泉代勢、錦木勢と豊梨実佐隊の後ろを通過していく。敵の本隊が直春たちに気付き、一旦停止して攻撃態勢を取ろうとしている。

 直春さん。あなたはこんな僕を信じてくれる。だから、僕は決断できるんです。逃げずにここに立っていられるんです。

 戦場を見回すと、池のそばで田鶴が振り返った。手を振っている。よく見ると、前方の部隊で忠賢や直冬や泉代成明もこちらへ顔を向けていた。

 直春さんだけじゃない。みんなに支えられている。その期待に応えて役目を果たさなくては。


「そろそろ頃合いですね」


 菊次郎は空を見上げてぎゅっと目をつむり、深く息を吸い込んでふうっと大きく吐き出すと、目を開き、直春にもらった黒い軍配を高く掲げた。

 後方に首を向けて叫んだ。


「投石機の準備を!」


 既に樽はのせてある。安全装置がはずされる。


「鐘を鳴らせ!」


 さあ、どでかいことを始めるぞ。そう宣言するけたたましい音が戦場に響き渡った。

 何事かと顔を上げる敵武者たちや、ようやくかと振り向いて喜ぶ味方をもう一度眺め渡すと、肺を一杯にふくらませて大声を張り上げた。


「全ての荷物を発射せよ!」


 黒い軍配を前に思い切り振り下ろすと、組み合わされた木材がきしみ、太く長い棒がぶんと空を切る音がして、大きな樽が宙を舞った。本陣の左右に並ぶ投石機から飛んだ二十の大樽は、ゆるやかな曲線を描いて戦闘中の武者たちの方へ向かい、田鶴の頭上を越えて、池の中に落ちた。

 どぼんという大きな水音と、木の樽が水面にぶつかって砕ける音がいくつも続いた。池の表面にきらきらと金色に光るものが広がっていく。樽を満たしていた油だ。さほど大きくない溜池の半分ほどが油に覆われた。


「頼むよ!」


 菊次郎の声が届くと、前方で田鶴が弓を構えた。ひょうと放たれた火矢は、池の中心に向かってまっすぐに飛んでいった。

 矢が水面に落下した瞬間、ばっと破裂するような音がして、池全体が燃え上がった。激しい炎と煙に覆われた池の中で大きな爆発がいくつも起こり、高い水柱が立った。割れていなかった樽に火がついたのだ。

 炎は水の流れにのって広がり、水門へ近付いた。水門を閉じるしかけを縛っている(わら)や草のつるは油をしみこませてあり、たちまち黒い灰に変わった。


「行っけえ!」


 水の圧力が水門をきしませ、ついにこじ開けた。菊次郎が振り回した軍配に(あお)られたかのように、南北の水門がほぼ同時にはじけ飛び、満杯だった水を一気に吐き出した。

 爆発音が戦場に轟き、燃える大洪水が北と南へ大波となって走った。馬の十倍の速さで水路を突進した燃える水は、すぐに木の(くい)にぶつかった。洪水の先頭には水門の壊れた扉やはずれた部品、池に漂っていた木の板が浮いていて、水路の中に立つ六本の杭にひっかかり、流れをさえぎる壁となった。

 行き場を失った燃える洪水は(うず)を巻き、みるみる水位が上昇、低い方の堤防を乗り越えた。東側の田んぼへ勢いよく流れ下り、増富軍の方へ広がっていく。


「もっ、燃える水だと!」

「後ろから迫ってくる! 速い! もうそこまで来たぞ!」

「ひいっ、あっという間に足元が火の海だ!」


 立て続けに響いた轟音と池を覆う炎や煙に呆気にとられていた武者たちは、事態を悟って悲鳴を上げた。後列の武者たちの驚愕と恐怖はたちまち部隊全体に広がった。


「燃える! 足が燃える!」

「水が足首まで来た! 履物に火がついた!」

「鎧の膝が燃え始めた!」


 増富軍の武者たちはもはや戦いどころではなかった。炎から逃げ、具足についた火を消すのに大わらわだ。熱い熱いと足を交互に高く上げて踊るような格好をしている者もいる。騎馬の者たちは炎に驚いて暴れ出した馬から振り落とされないだけで精一杯だった。


「今だ! 全軍総攻撃!」


 菊次郎は叫び、合図の鐘が耳がおかしくなるほど激しく鳴らされた。先程まで後退していた桜舘軍の部隊は一斉に(とき)の声を上げ、目の前に敵に突撃した。


「かかれ! かかれ!」

「敵は動揺しているぞ! 押し返せ! 突き崩せ!」


 形勢は一気に逆転した。攻める側と守る側、勢いに乗る側と混乱して慌てふためく側が交代していた。

 馬を走らせながらその様子を眺めていた直春は、愉快そうに大きな笑い声を上げた。


「さすがは当家の大軍師だ。俺たちも負けてはいられないぞ!」


 振り返って全騎がついてきていることを確認すると、愕然としている持康隊五千に速度を上げて突っ込んだ。


「桜舘直春、見参! 増富持康、その命もらいに来たぞ!」

「桜の御旗(みはた)に栄光あれ!」


 二百騎は大声で叫びながら、体当たりする勢いで槍を構えて敵武者へ襲いかかった。


「敵は少ないぞ! 慌てるな!」


 増富軍の武将が叫ぶ声がしたが、それはすぐに別な鬨の声でかき消された。


「俺たちもいるぜ!」


 忠賢の騎馬隊だった。鐘を聞いて菊次郎の策が実行されると知ると、安瀬名隊への攻撃をやめ、取って返して持康隊を襲ったのだ。しかも、一千は忠賢自身が率いて直春の援護に向かい、残り五百は榊橋(さかきばし)文尚(ふみひさ)に預けて敵の側面を襲わせた。


「忠賢殿か! 来てくれると思っていた!」

「あたぼうよ! 俺だけじゃないけどな!」


 忠賢はにやりとして片目をつむった。

 その言葉通り、他の方角でも突撃の雄叫びが響いていた。直冬隊の分隊五百と泉代勢の一部三百だった。錦木仲載(なかとし)の騎馬隊三百も暴れ回っている。つまり、北水路側にいた全ての部隊が、少ない兵力を割いて差し向けてきたのだ。誰が指示したわけでもないのに、互いの動きを見て背後や側面に回り、持康隊を包囲しようとしていた。


「これで俺たちは六隊だぜ!」

「信じていたぞ!」


 直春は槍を振るって敵武者をなぎ倒しながら、また笑い声を上げた。


「見たか、菊次郎君! これだから俺たちは強いのだ!」


 二人は視線をかわし、声を合わせて叫んだ。


「勝負はついた! 敵将を逃がすな!」


 持康の本隊は五千だ。直春たちは合計しても半分程度にすぎない。それでも、炎の洪水の効果と連携した攻撃で増富軍を圧倒していた。

 と、突然、持康隊で大きなどよめきが起きた。


「そこをどけ! 邪魔をするな!」


 わめき声が聞こえ、立派な鎧を着た一騎がものすごい速さで部隊を飛び出した。


「当主の命令だ! わしを助けろ!」


 田んぼの中を北の方へ走っていく。慌てた様子で十騎ほどが追いかけていった。


「大殿が逃げたぞ!」

「馬で火のない方へ駆けていかれた!」

「総大将が戦場を放棄した! 俺たちは負けたんだ!」


 持康隊の武者たちから急速に戦意が失われていった。


「もうやめだ! 俺も逃げるぞ!」

「踏みとどまっても意味はないな。命が大事だ!」

「大殿に続け! 急がないと置いていかれるぞ!」


 持ち場を放棄して逃げ出す者が続出し、持康隊は潰走(かいそう)を始めた。持康の脱出と本隊の崩壊を知った他の部隊も戦闘の継続を諦め、池の南北で増富軍は総崩れになった。


「ちっ、逃げやがったか!」


 忠賢が悔しがった。


「逃げ足だけは速いやつだ。情けない大将だぜ!」


 直春が馬を近付けた。


「惜しかったな。だが、これで勝利は決定的だ」

「仕方ねえな。帯でも稼ぐか」

「武者たちの分も残しておいてやれ」


 直春は笑い、槍を振り上げて大声で叫んだ。


「敵は崩壊した! これより追撃に移る!」

「おう!」

「我等の勝利だ!」


 桜舘軍の武者たちの爆発的な歓喜の声が戦場を覆いつくした。


「勝ちましたね、菊次郎様」


 友茂がうれしそうに話しかけてきた。則理・安民・光風も顔をほころばせている。

 菊次郎は頷いて微笑もうとして、頬を伝うものに気が付いた。


「直春さん、よく分かりました」


 熱いしずくがどんどんあふれて止まらなかった。


「この素晴らしい仲間を信じ切れていなかったなんて、僕はなんてばかなのでしょうか。なんて弱いのでしょうか。あなたはいつも正しいですね」


 直春や忠賢や田鶴や他のみんながいるから自分は大軍師でいられるのだ。菊次郎は心の底からそう感じ、全身を喜びに震わせていた。


「菊次郎さん、よかったね」


 田鶴が笑顔で戻ってきた。小猿を肩に乗せている。菊次郎は目をぬぐって顔を上げた。


「まだ仕事が残っていましたね」


 投石機を担当していた馬廻りの武者たちが、物見台のそばに集まっていた。


「では、行きましょう。大切な宝を手に入れに」


 投石機一台につき五人、計百人の武者は全員馬にまたがった。菊次郎は武者頭の後ろに、田鶴も小猿と一緒に別な馬に乗せてもらった。


「混乱している敵の真ん中を突っ切ってください。火に気を付けて」

「かしこまりました」


 武者頭が答え、騎馬武者の群れは一団となって軽快に走り出した。


『狼達の花宴』 巻の五 鳥追城外の合戦図 その五

挿絵(By みてみん)

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