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狼達の花宴 ~大軍師伝~  作者: 花和郁
巻の五 軍師の決断
42/66

(巻の五) 第三章 密会 下

 翌朝、定恭は早い朝食をとると、妻のさよりと息子の魚太郎(うおたろう)を連れて、義理の両親と祖母に出発の挨拶をしに行った。

 旅程と泊まる町を定恭が告げると、岳父(がくふ)定挙(さだたか)は重々しい口調で声をかけた。


「帰るのはいつ頃になる」

「半月後の予定です」

「長旅になるな。納得するまで敵の様子を見てこい」

「そのつもりです。しばらく留守にしますが、よろしくお願いします」

「この家のことは心配せずともよい」


 砂鳥家の現当主は婿養子の定恭だが、家業の方は五十代半ばの隠居の定挙(さだたか)が管理している。定恭は学舎の寮にいた期間が長かったし、その後は政所に出仕し、最近は戦陣にいることが多いので、漁業権関係の話にはあまりかかわったことがないのだ。武家として戦に出る者と家業の商いや農業を担当する者が分かれている家は珍しくない。


「気を付けて行ってらっしゃい」


 義母のいとよは干しいかをたくさん持たせてくれた。


「あなたに何かあったらさよりが悲しみますからね」


 いとよは川の漁業権を握る家から嫁いできたので、同じくよその家からやってきた定恭にやさしかった。


「父上、今度こそ大きな手柄を立ててください。父上ならきっとできます」


 十歳の魚太郎は折り目正しく頭を下げた。行儀作法を厳しく(しつ)けられているのだ。たった一人の孫で砂鳥家の跡取りなので祖父母に溺愛されている。


「どんなものを見てこられたのか、お話をうかがうのを楽しみにしています」

「なるべく早く帰ってくるよ」

「いえ、無理をせず、予定通りにお帰りになってください」


 息子は急に目を逸らした。どうかしたのかと思った時、祖母のはたが口を開いた。


「定恭殿、次の作戦のためと言ったが、また戦があるのかい」

「はい、そう遠くないでしょう」


 定恭は丁寧な口調で答えた。


「では、今度こそ、大きな手柄を立ててもらわないとねえ」


 はたは鸚鵡(おうむ)のような声で言った。


「一千貫が増えたのはよいが、あんな離れた土地ではねえ。しかも農村とは。今度こそ、隣の(いそ)の漁業権を頂けるように励むのじゃぞ」


 (うち)の海の砂浜の漁師を従える砂鳥家は、隣接する岩場の漁業権を長年欲していた。岩に生える海苔(のり)や海藻、隠れている貝やうにやなまこなど、売ればもうかるものがたくさんあったのだ。しかし、磯を管理する家とは昔から仲が悪く、権利を買い取りたいと幾度も持ちかけて断られ続けていた。

 采振家の攻略に成功すると、定挙(さだたか)数多田(あまただ)馬酔(ばすい)蛍居(ほたるい)汎満(ひろみつ)に多額の付け届けをして磯の管理権を褒美としてもらえるように運動した。はたも毎日魚の干物や汁物の具にする干した海藻を持って旧家の重鎮の家を訪ねて回った。しかし、願いは聞き届けられず、しかも渋搗家より加増が少なかった。


「そなたは婿に入った身じゃ。砂鳥家を守るため、必死で努力しなければならぬ。分家から本家の当主に迎えられたのじゃからな」

「もちろんです」


 褒美が漁業権でなかったのは持康の嫌がらせではないかと密かに疑っているが口には出せない。期待が大きかった分、落胆も大きく、定恭は一時家にいづらかった。


「定恭殿ならできるはずだ。大殿のお役に立てるように頑張ってくれ」

「砂鳥家のためにしっかりと働いておくれ。期待しておるよ」

「心得ております。ご恩を忘れたことはありません」


 分家の子の定恭は本来なら学舎に入れない。定挙(さだたか)従兄(いとこ)の息子が軍学好きと聞いて、入学できるように馬酔(ばすい)に頼んでくれたのだ。父の定芸(さだのり)が海に沈んだ時も、途方に暮れていた定恭と今は亡き母を引き取ってこの屋敷に住まわせ、娘とめあわせて当主にまでしてくれた。


「今度こそ敵軍師に勝てるように、必勝の策を探して参ります」


 退出した定恭に、さよりと魚太郎は門までついてきた。


「いってらっしゃいませ」


 妻はたった一言だけつぶやくように言って頭を下げた。


「ああ、行ってくる」


 定恭は無表情の妻と手を振る息子に背を向け、街道を南下していった。今回は一人旅で連れはいない。

 五形の町は内の海に面した港町だ。穀倉地帯である万羽国の米を中心に栄え、多くの船が停泊している。それを右手に見ながら南国街道を南下して、茅生国との境までやってきた。


「さて、今日は野風(のかぜ)城下まで行こうか。その前に、商人に身なりを変えよう」


 武家の格好では怪しまれて撫菜領に入れない。家の商売が干物の販売なので、行商人に化けるつもりだった。


「ここだ」


 変装する時いつも使っている宿に入り、荷物を解いて気が付いた。


「あれ、にせの通行証がない」


 商人の身分を証明する木の札が見当たらなかった。増富領内で使う方はあるが、都で発行される他領へ入るための札がない。


「しまった。昨日読んでいた兵法書に挟んだままだ」


 為続と飲んだせいか、起床が予定よりやや遅くなって急いで支度をしたのだ。


「仕方がない。引き返すか」


 定恭はすぐに宿を出て、北へ道を戻っていった。

 五形の町へ入った時にはもう夕方だった。途中で団子を食べただけで腹が空いていたが寄り道せずにまっすぐ家に戻った。


「ただいま」


 門をくぐり玄関を開けると、廊下を通りかかった沖網広太郎が驚いた顔をした。戦場では武者だが、普段は干物の店の手伝いをしているのだ。


「どうしてここにいらっしゃるんですか」

「忘れ物をして戻ってきた」


 家に上がろうとすると、広太郎は慌てて立ち塞がった。


「もう少しお待ちください」

「なぜだ。ここは俺の家だぞ」

「そうですね。では、大広間にご案内します」


 様子がおかしい。定恭は嫌な予感がしてわらじを脱ぎ捨てると、廊下をどんどん歩いていった。


「お待ちください!」


 引き留めようとする広太郎を無視して自分の部屋へ向かった。


「何かあるのか」


 襖を開いて中へ入った。真っ暗で、誰もいない。と、隣室の襖に目が行った。(あか)りが漏れ、楽しそうな話し声が聞こえてくる。


「こっちか」


 近付いてがらりと開くと、笑っていた妻が顔を上げた。一緒にいた男も驚いて振り返った。


「定恭……!」


 部屋には布団が引かれていて、上体を起こしている為続は全裸だった。さよりは笑みを消して慌てて布団をかぶったがやはり裸だった。


「いつからだ」


 自分でも驚くほど冷ややかな声が出た。


「答えろ」


 為続は少しためらって言った。


「五年前からだ」


 それだけの期間、定恭はだまされていたのだ。


「魚太郎は俺の子か」


 それが気になった。


「そうだ」

「本当だな?」

「間違いない」


 為続の背中に身を隠すようにして、さよりが小さく頷いた。


「そうか……」


 つぶやいて思い出した。十歳の息子はなるべく早く帰ると言ったら予定通りの方がいいと答えた。知っていたのだろう。


「大殿はご存じなんだな」


 問いではなく確認だった。


「ああ。箱部殿が気付いたらしい。両執政に呼び出されて問いただされ、認めるしかなかった。二年前のことだ」

「通じ合っていたのはそれか」


 持康が何を言われても機嫌を直してにやにやし、定恭にやさしい言葉をかけた理由はこれだったのだ。耳に痛いことを言うこの男は、自分では軍師で頭がよいつもりらしいが、妻を友人に寝取られても気付かぬような間抜けなのだと、内心で大いにばかにしていたに違いない。


義父上(ちちうえ)も、義母上(ははうえ)も、おばあ様も、家中のみんなが知っていたのだな。知らなかったのは俺だけか」


 笑いが込み上げてきた。怒りもあった。悔しさもあった。だが、それ以上に、絶望と、(むな)しさと、激しい悲しみに襲われていた。これまで自分の不満は黙ってのみ込んで一生懸命砂鳥本家に馴染もうとし、家の名を上げるために軍師として働いてきたのに、その努力を人々は陰で嘲笑っていたのだ。


「続きをしてもいいぞ」


 襖を閉め、定恭は(きびす)を返した。早足で廊下を歩いて玄関へ行き、草履(ぞうり)をつっかけた。


「どこへいらっしゃるのですか」


 恐る恐る尋ねた広太郎に振り向きもせずに言い捨てた。


「分からない。今はこの家にいたくない」


 定恭は駆けるように門をくぐり、夕暮れの町へ飛び出した。

 行きたい場所などなかった。とにかく歩いて歩いて思い付きで角を曲がり、どんどん進んでいった。無意識のうちに五形城からは遠ざかっていた。あんな主君のことは考えたくもない。ただ、どこか遠くへ行って消えてしまいたかった。

 やがて太陽が沈んで町は暗くなった。いつの間にか港の方へ来ていた。宿屋や料理茶屋の明かりだけがところどころで道を照らし、船員や旅人たちが飯を食い酒を飲む騒がしい声が漏れ聞こえていた。

 人通りが減った町を(あか)りも持たずにしばらくさまよった末、定恭は街道を南へ向かおうとした。行く当てはないが、足を止めたくなかった。


「お待ちください」


 突然声をかけられて我に返った。目の前に両手を広げた男がいて、ぶつかりそうになったのだ。


「砂鳥定恭様ですね」

「何者だ」


 名を呼ばれて、定恭は警戒の声を発した。男は町人の身なりだったが、鋭い目つきは別な職業に思われた。 


「あるお方があなたにお会いしたいとおっしゃっています。ご同行願います」


 左右を見ると、似たような男がすぐそばにいた。背後にもいる。四人に囲まれていると知り、抵抗は諦めた。


「それは誰だ」

「お答えしかねます」

「そんな誘いに乗れるか」

「身の安全は保証致します。決して傷付けるなと命じられております。この通り、武器は持っておりません」


 四人とも手は空だった。腰に短刀があるが、鞘に収めたままだ。


「大人しく従ってください。手荒なまねはしたくありません」


 定恭は迷ったが頷いた。逃げるのは難しそうだし、招いたのが誰か興味があった。友人と妻の件で自暴自棄(じぼうじき)になっていたのもあったかも知れない。


「分かった。行こう」

「では、こちらにおいでください」


 囲まれたまま角を曲がって裏通りに出ると、二人で担ぐ簡素な駕籠(かご)が待っていた。


「目隠しをさせていただきます」

「好きにしろ」


 腹をくくって乗り込むと、目に黒い布を巻かれた。籠が持ち上がり、ゆっくりと動き出した。

 さて、どこの屋敷に向かうのだろうか。それとも宿屋や料理茶屋か。

 合わせて六人の足音に耳を澄ませていると、さほど行かないうちに砂を踏む音に変わった。

 砂浜に出たか。海のそばだな。

 すぐに駕籠は木の板でできた道へ上がった。


桟橋(さんばし)……、船か!」


 ほどなく駕籠が下ろされ、目隠しをはずされた。思った通り、五形港に停泊している大きな船の前だった。


「はしごをお上りください」


 いまさら引き返せない。言われるままに船に上がって暗い甲板を進み、船室に案内された。

 中は行燈(あんどん)で明るかった。思わず細めた目に、にこやかに笑う大柄な若い武家が(うつ)った。


「桜舘直春公!」


 思わずつぶやくと相手は肯定した。


「そうだ。砂鳥定恭殿だな。会ってみたいと思っていた」


 隣に二十歳ほどの青年がいた。


「銀沢菊次郎信家です。お初にお目にかかります」


 何度も戦った敵の大軍師は人のよさそうな笑みを浮かべていた。


「お話がしたくてお招きしました。強引な方法になってしまって申し訳ありません」


 信家が隠密たちに頷くと、背後で扉が閉まり、三人だけになった。


「お座りください。命を取ろうとは考えていません。信じてください」

「分かりました」


 定恭は大人しく座布団に座った。直春の腕前は知っている。腰に旅用の短刀はあるが戦っても勝てないだろう。それに、定恭は桜舘家の軍師を信じていた。殺すつもりなら街で捕まえた時にそうしているはずだ。


「一杯どうだ」


 直春は銚子を取り上げた。先に自分の杯に注いで飲んで見せる。いまさら毒など疑わないが、警戒を解くためだろう。


「頂きます」


 素直に杯を差し出し、白い酒をその場で飲み干した。あなた方を信じると示したのだ。直春は二杯目を注ぐと自分と信家の杯も満たし、銚子を置いた。


「これは刺身という。うまいぞ」


 三人の前にはそれぞれ皿があった、生の魚は漁業の家の定恭も滅多に口にできないご馳走だ。箸で一切れつまみ、ありがたく味わった。(たい)だろうか。低く腹が鳴り、ひどく空腹だったことに気が付いた。そういえば昼から何も食べていない。

 刺身の横に白米の飯と漬物があり、魚肉と海藻が入った汁物は温かかった。船の上で可能な精一杯のもてなしだろう。定恭が食べる姿を直春はうれしそうに眺めていた。


「それで、お話とは何でしょうか」


 一通り箸を付け、三杯目の酒を注がれたところで、定恭は尋ねた。

 直春は杯を置き、まじめな顔になった。


「単刀直入に言おう。君を当家に迎えたい。二万貫を差し上げよう」


 定恭は一瞬口をつぐみ、すぐに顔を上げた。


「どうして私を誘うのですか。それほど評価してくださるわけは何ですか」


 直春は心からの言葉と分かる口調で言った。


「君はすぐれた軍師だ。戦場で増富軍を支えているのは君だろう。泥鰌縄手(どじょうなわて)菜摘原(なつみはら)崩丘(くずれおか)、いずれも君にしてやられた。恐るべき知謀(ちぼう)だ」

「ですが、全て当家が負けています。一度も信家殿に勝てていません」

「それはこちらも同じだ。君がいなければもっと勝っていたのだ。霧前原(きりまえはら)で決着がついていたかも知れない。あの戦いから四年、当家がいまだに茅生国を制圧できないのは君が原因だ」


 信家も言った。


「崩丘ではもう少しで負けるところでした」

「だが、俺たちは勝った。なぜか。敵の大将が増富持康だったからだ」


 直春の声に力が入った。


「君の作戦は素晴らしかった。菊次郎君も認めている。なのに、持康はそれを台無しにした!」


 直春の体が怒りで膨れ上がったように見えた。


「実にもったいない! 定恭殿のようなすぐれた家臣を持ちながら、その力を生かさないとは! 邪魔をするなど全く信じられん!」


 唸るように言って直春は深い息を吐き、声をやや落とした。


「吼狼国内に君を欲しがらぬ封主家などあるまい。増富家だけが君の真価を知らず、ふさわしい待遇を与えていないのだ」


 直春が本当に腹を立てていることが伝わってきた。


「持康は定恭殿の才能を生かせない。俺の(もと)に来い。君が思う様腕を振るうところを見てみたい。本当は十万貫でも安すぎるが、当家にはこれが今出せる限界なのだ」


 定恭は泣きそうになった。ここまで自分を評価してくれた人がいただろうか。だが、ぐっとこらえてさらに尋ねた。


「つまり、戦で役に立つから家臣に欲しいということでしょうか」


 道具として求めているのかという問いに、直春は大きく首を振った。


「確かにそれもある。だが、君を迎えたいと思ったのは別な理由だ」


 直春は定恭に真摯(しんし)な目を向けた。


「茅生国南部の制圧に乗り出した時、定恭殿は戦ではなく調略で五家を落とそうと提案したと聞いた。その後も、機会があるたびに調略を勧めたそうだな。采振家を滅ぼした時も、抵抗する者たちをできるだけ説得して降伏させようとした。君はそれほどの軍略の才を持ちながら、戦より交渉を好む。武力でたたきつぶすよりも話し合って取り込もうとする」

「それが楽だと考えたからです」


 定恭は言ったが、直春は続けた。


一昨年(おととし)の戦のあと、茅生国は凶作に見舞われた。持康や執政たちが南部三家を締め上げようと米や作物の境を越えての販売を禁じた時も、君は反対したそうだな。封主家同士の争いに民を巻き込んではならない、民を飢えさせるやり方は間違いだと言ったと伝え聞いた。それで俺は、君を欲しいと思ったのだ」

「桜舘家が助けるのであまり効果はないだろうと思ったのです」


 三家の窮状を耳にした直春は援助を申し出て、備蓄していた食料や冬の残りの麦などを提供した。また、三家の領内開発を進めて民に仕事を与えたので、餓死者が出ることは避けられた。


「もちろん、俺たちは三家の民を見捨てるようなことはしない。だが、増富家が禁令を出さなければ、民の苦しみはもっと短かったはずだ。崩丘を戦場に選んだのも、火を放っても人家や田畑に影響が出ない場所にしたのだろうと菊次郎君は想像したが違うか」

「それはその通りです」


 答えながら、定恭の頬はわずかにゆるんでいた。そうした言動は結局のところ、自己満足にすぎない。誰かに誇りたかったわけではないし、理解されることも期待していなかった。それなのに、この二人は気が付いてほめてくれたのだ。


「やはり君はすぐれた軍師だ。君を当家に招きたいと言ったら、菊次郎君は賛成してくれた」

「あなたは正しい軍師だと思います。だまし、傷付け、不幸にするやり方ではなく、できるだけ人にやさしいやり方を取ろうとします」


 信家はおだやかな口調で言った。


「戦とは非情なものです。多くの人は勝つために手段を選びません。ずるい方法、多くの人に迷惑をかける方法をためらいません。他に思い付けない場合も多いでしょう。しかし、定恭殿はもっとましな方法を探し、考え出して、採用しようとします。それこそが賢者の道であり、すぐれた軍師の条件です」

「信家殿……」


 定恭は半分驚き、半分納得していた。桜舘家の若い当主と大軍師にはそういう傾向があると感じていたからだ。


「蜂ヶ音儀久が敷身(しきみ)家の城を落とした方法はご存知でしょう。ああした策を、あなたは思い付かないのですか。僕はしばしばそうした策が頭に浮かびます」


 定恭は答えなかったが、信家は大きく頷いた。


「やはり、あなたも思い付くのですね。けれど、進言はしないのでしょう。そこがあなたの正しいところであり、すぐれていると僕が考える理由です」


 信家は定恭を自分と同類と考えている。それがうれしくもあり、まぶしくもあった。


「あなたは当家に向いています。直春さんは僕やあなたのような人間には得難(えがた)い主君です」


 信家は熱心に語った。


「僕は一人では多少知恵の回る小僧にすぎません。心配性で失敗を恐れ、作戦を思い付いても実行する勇気がありません。でも、直春さんがどんどん先を決めて道を示し、僕に作戦を考えさせます。その決断力で、慎重すぎて行動力がない僕の背中を押し、物事を進めていきます。また、忠賢さんや直冬さんなど、信頼できるすぐれた武将がいて、無茶な作戦も実行してくれます。だから、僕は大軍師でいられるんです。みんなが僕をそういう存在にしてくれたんです。僕一人の力ではないのです。でも、持康公はあなたの邪魔ばかりするではありませんか」


 直春が手を差し出した。


「俺たちは天下統一を目指している。戦のない、人々が互いを疑い裏切らなくてすむ平和な世を実現したい。君となら、この理想を共有できると信じている。力を貸してほしい」

「定恭殿が加われば、当家の力は倍になります。ぜひ豊津城へ来てください。あなたは持康公にはもったいない人です」


 定恭は体中が震えるほどの喜びに襲われた。軍師としてこれほど言われたい言葉は他にない。あなただからこそ教えを請いたい。仲間にしたい。共に戦いたい。名君と(たた)えられる人物にそう望まれることは、軍学を学ぶ全ての者の願いだろう。

 だから、頷きたかった。この温かいまなざしと手を受け入れて、不愉快な人物ばかりのこの町を離れてしまいたかった。しかし、定恭は軍師だった。ゆえに、簡単に承知はできなかった。


「大変ありがたいお言葉です。感激致しました」


 定恭は心から礼を述べ、頭を深く下げた。


「しかし、その誘いに乗るわけには参りません」


 直春は信家と一瞬視線を合わせた。


「なぜだ」

「桜舘家が今後も発展するかどうか、分からないからです」


 直春は意外そうな顔をした。


「直春公、あなたはまれに見る名君です。名将でもあります。信家殿、あなたは恐らく現在の吼狼国で最高の軍師でしょう。それでも、この先勝ち続けられるかは分かりません。あなた方以外にも、軍師や名将はたくさんいるからです」


 信家はそう来たかという表情だった。


「足の国周辺だけでも知謀にすぐれた人物は少なくありません。骨山願空、宿木(やどき)資温(すけはる)、成安家の沖里(おきざと)是正(これまさ)、蜂ヶ音儀久、鮮見家の朽無(くちなし)智村(ともむら)など、油断ならない者ばかりです。彼等と共に戦う名将も多くいます。そうした者たちに、あなた方は本当に勝てるのでしょうか。貴家の実力はようやく五十万貫程度、大国のひしめくこの地域では、まだまだ小さな家でしかありません」


 名君と大軍師のいる桜舘家が発展する可能性は高い。だが、確実とは言えないのだ。


「ですから、あなた方の実力を証明してください」

「どうすればいい」


 尋ねた直春を、定恭はまっすぐに見つめた。


「私と戦ってください」

「なに?」

「私程度に勝てないようでは、恐らく貴家はこの先生き残れないでしょう。まず、私と増富家を倒して見せてください。もちろん、手加減は致しません。全力でお相手します」

「つまり、本気の君と戦って負かせばよいのだな」

「はい、できるものならば。あなた方が勝ち、私が負ければ、桜舘家の家臣になります」


 これは定恭の本心であり、計算でもあった。菊次郎に負ければ、増富家は勢いを失い、桜舘家に押されるようになる。持康や取り巻きたちは定恭を責め、役に立たないと見なすかも知れない。そうなれば妻を寝取られたことも噂になって広がるはずで、軍門に下っても不自然ではない。桜舘家の人々に対しても、実力を見せ付けつつ、大軍師の方が上であると順位をはっきりさせることになり、受け入れてもらいやすくなるだろう。

 もし戦に勝てば、増富家内での定恭の評価は高まる。持康や取り巻きたちも、砂鳥家の人々も、この軍師はこれからも必要だと再認識し、より大切にしてくれるはずだ。


「分かりました。戦いましょう」


 信家は定恭の視線を正面から受け止めた。


「菊次郎君、それでいいのか。定恭殿、君も増富家より当家の方がよかろう」


 道の上で声をかけられたのだから屋敷を見張っていたのだろうし、妻や友人と何があったのかも知っているだろう。


「確かに、私にはいづらい理由があります。それでも、僕は婿養子に迎えてくれた砂鳥家に恩があります。持康様や両執政にもお世話になりました。簡単には離れられません。みんなが納得できる理由が欲しいのです。そちらも近々戦を起こすつもりだったのでしょう。どなたとお会いになったのですか」

「やはり分かってしまったか」


 直春は素直に認めた。増富家の武将が桜舘家に寝返るのだ。その約束をするために当主自身が敵のお膝元まで忍んできたに違いない。


「誰なのかは言えないが、確かにもうじき戦が起こる」

「いつ頃ですか」


 信家は少し考えた。


「三ヶ月以内です。それはお約束します」

「今は萩月(はぎづき)の下旬です。貴家と崩丘で結んだ休戦があと一ヶ月残っていますから、紅葉月(もみじづき)水仙月(すいせんづき)ということになりますね」

「はい、その期間のどこかです」

「日時と戦場はそちらにお任せします。こちらは武者数が倍ですから」

「分かりました。当家の総力を挙げて挑みます」

「こちらも全力で迎え撃ちます。楽しみにしています」


 定恭は本当にわくわくしていた。無論、胸にはまだ様々な感情がうごめいているが、それらを上回るほど気分が高揚していた。

 我ながら()(がた)いことだ。

 自嘲しながら、定恭はもてなしの礼を述べて立ち上がった。


「それでは、帰らせていただきます」


 信家は心配そうな顔をしたが、立ち上がって握手を求めた。


「お会いできてうれしかったです」


 直春も手を伸ばした。


「俺も楽しかった。ますます当家に迎えたくなったな」


 直春は心地よい笑みを浮かべていた。


「おもてなしに感謝します。失礼致します」


 頭を下げると、背後の扉がするりと開いた。外で聞き耳を立てていたらしい。当主と大軍師を守るためだろう。


「こちらへ」


 来た時と同じ隠密に案内されて甲板へ出て、はしごで桟橋に降りた。


「これをどうぞ。暗いですので」


 家紋の入っていない提灯(ちょうちん)を渡された。


「道はお分かりですね。では、お気を付けて」


 定恭が頷くと、隠密ははしごを上っていった。すぐに船が動き出し、港を出ていく。月があるとはいえ、夜の海を航行するのは難しい。さすがは楠島水軍だった。


「家に戻るか」


 あまりあの人たちと会いたくなかったが避けては通れない。


「よし」


 覚悟を決めて、砂鳥家の屋敷へ向かった。

 門の前には広太郎がいて、姿を見付けて飛んできた。


「おかえりなさいませ。とても心配しました」


 広太郎は心底ほっとした顔をしていた。


「申し訳ありません。黙っていましたこと……」

「君のせいではないよ」


 定恭は提灯を渡して玄関に入り、部屋へ向かった。


「入るぞ」


 為続とさよりは着物を身に着けて暗い顔で何やら相談していたが、同時に振り返った。

 為続は少しためらって、土下座した。


「すまん。怒っているだろうが、謝らせてくれ」

「悪いことをしたとは思っているのだな」


 定恭が冷ややかに言うと、為続は(ひたい)を畳につけた。


「お前の女房だからな。ずっと隠していたことも不愉快だろう。許してくれとは言わんが、さより殿のことは怒らないでやってくれ」


 横目でさよりを見て、為続は言った。


「誘ったのは俺なんだ。町で見かけて、ひどく疲れた顔をしていたので声をかけたんだが、同情して何度か会って話を聞くうちにな」


 さよりは肯定も否定もしなかった。恐らく、どちらからともなくそういう関係になったのだろう。為続は夫の友人という以上に熱心だったし、さよりも期待するようにわざと隙を見せたのだ。そうした二人の様子が目に浮かんで、定恭は胸がむかむかした。


「やっぱり怒っているな。まあ、当然だな」


 為続はさらに謝ろうとしたが、急に顔を上げた。


「だがな、お前もいけないんだぞ。さより殿は寂しかったんだ」


 為続にらむように定恭を見上げた。


「お前は好き合ってさより殿に結婚を申し込んだわけではなく、おじさんが学才を見込んで養子に入れた。だから、性格が合わない部分はあるだろう。お前なりに夫らしく振る舞ってきたのも知っている。だが、お前はさより殿より軍学を優先した。さより殿が布団の中でお前が来るのを待っているのも知らずに、軍学の書物にいつまでも読みふけっていると愚痴をこぼしていたよ。しかも、軍学の研究と言って、しばしば一人で旅に出てしまう。子供ができても変わらなかったそうだ。そういう不満が溜まって、さより殿は(うつ)(うつ)としていたのだ。もっとさより殿を大切にしてやれ」

「言いたいことはそれだけか」


 定恭はぴしゃりとさえぎった。


「人の女房に手を出しておいて、夫の俺が悪いだと? よくそんなことが言えるな」


 嫌味をたっぷり含ませて言い返すと、定恭は大きな溜め息を吐いた。


「もういい。さよりが望んでしたことなのだろう。家の者も皆知っていた。知らないのは俺だけだったのだ。恥ずかしい話だ」


 さよりと結婚が決まってから十二年になる。この家に溶け込もうと努力してきたつもりだったが、少しも受け入れられていなかった。怒鳴ったりすれば一層みじめになる。


「公認の仲だったのだから、俺が一人で怒っても(むな)しいだけだ。罰は与えない。さよりにもな」


 浮気現場に踏み込んだ時、さよりは笑っていた。定恭は見たことがない表情だった。自分には罰する資格はないと感じていたのだ。


「だからあなたが嫌いなのよ」


 さよりが疲れた口調でつぶやいた。


嫉妬(しっと)もしないのね。私のことなんてどうでもいいんだわ」


 さよりは定恭の方を見ようとしなかった。為続はさよりに何か言いたそうにしたが、その横顔に定恭は言った。


「だが、為続、今後は俺のいない時はこの家に足を踏み入れるな」


 為続は顔を戻して頷いた。


「約束する」

「大殿には見付かったことを知らせるな。それもまたからかいの種になってやりにくくなる」

「承知した」

「それから、このあと少し話がある。さよりは出ていってくれ。軍師の仕事の関係だ」


 さよりは黙って立ち上がり、部屋を去っていった。為続はそれを見送って意外そうな顔をした。


「本当にこれだけでいいのか。殴ってもいいぞ」

「俺の手が痛くなるだけだ。お前の顔が()れ上がっていたら理由を聞かれるだろう。密通の噂が広まってしまう。俺にもお前にも損だ」

「そうか」


 為続はあまり納得していない様子だったが頷いた。


「それで、仕事の話とは何だ」

「桜舘家と戦になる」

「なにっ!」


 為続は目をむいた。


「直春公と銀沢信家に会ってきた。港の船の中にいた」

「どういうことだ?」


 為続はわけが分からないという表情だった。


「全力で戦い、勝負をつけようと約束した。それに負けたら俺は桜舘家に下る」

「ちょっと待て。当家はどうなる」

「俺が勝てなければ誰があの大軍師に勝てるんだ。滅びるだけだろう」


 定恭は断言して、こぶしを握った。


「だが、俺にも意地がある。負けるつもりはない。当家をここまで育てた軍師は俺だ。頭を(しぼ)り、全力で迎え撃って、必ず打ち破る」


 唖然(あぜん)としている為続に命令口調で告げた。


「その戦いにお前の力が必要なんだ、()()殿()。俺に勝ってほしいんだろう」

「もちろんだ。さより殿を置き去りにして桜舘家へ行かせるわけにはいかない。渋搗家の存続のためにもな。何より、お前が敵に回ったら生き残れる自信はない」


 為続は迷わず答え、尋ねた。


「何をすればいい」

「すまないと思う気持ちがあるのなら、俺を全力で補佐してくれ。お前自身と当家のためにな」


 為続はまじまじと定恭を見上げて、大きく首を縦に振った。


「分かった。何でもする」

「その言葉、忘れるなよ。こき使ってやる」


 定恭は凄味(すごみ)のある表情でにやりとしてみせた。


「この戦は俺の生涯で最大のものになるかも知れない。さよりには悪いが、かつてないほど軍学好きの血が騒ぐよ」

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