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狼達の花宴 ~大軍師伝~  作者: 花和郁
巻の五 軍師の決断
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(巻の五) 第二章 情勢

 菊次郎が(あし)(うみ)湖畔(こはん)で橋の建設現場を視察していると、直春の声が聞こえた。


「大分橋らしくなってきたな」


 萩月(はぎづき)下旬のさわやかな風に吹かれながら、豊津の町の中を一人で歩いてくる。


「おいおい、国主様がお供も連れずに散歩か。危なっかしいな」


 忠賢がからかうような声をかけた。もちろん本気ではない。直春はいつも帯刀しているし、腕前もかなりのものだ。着物は上等だが若々しくて威張った雰囲気がないので、忠賢の言葉で豊津城の(あるじ)と知った周囲の人々が驚いている。


「昼食後の仕事が片付いたのでな。俺も工事の進み具合を見にきた」


 直春は笑っている。田鶴も笑みを浮かべて説明した。


「もう(くい)は全部打ち終わったって。あとはそれをつないで歩くところを作るだけね」


 直冬が急いで付け加えた。


「だけと言いますけれど、まだまだ先は長いです。完成予定は三ヶ月後ですよ」

「時間がかかるのは仕方ありません。かなりの難工事ですから」


 水に入って働く大勢の人々へ菊次郎が目を向けると、忠賢が呆れた顔をした。


「お前がここに橋を架けようって言ったんじゃないか」

「正確には直春さんが言い出したんです」


 この橋は(あし)(うみ)の河口を横断するものだ。境川が流れ込むこの大きな湖はしじみや魚など多くの実りを与えてくれるが、旅や交易には障害だった。海とつながる部分が広く流れがあるため渡し船などがなく、都から延びる南国街道は湖を大回りして豊津に至る。桜舘軍が茅生国方面へ出陣する時も、湖のほとりを半日近く歩かなくてはならない。

 豊津港の奥の丘の上にある天額寺(てんがくじ)で花見をした時、菊次郎が河口を見下ろしてつぶやいたことがあった。


「あそこを渡れれば茅生国がぐっと近くなり、商人たちも助かるのですが」


 これに直春が返事をした。


「ならば橋を架けよう」


 菊次郎は驚いたが直春は本気だった。萩矢(はぎや)頼算(よりかず)と相談して豊津商人に資金を出させ、湖底を調べて困難な工事になると分かると都から職人を呼んだ。


「本当に作ってしまうなんて、直春さんはすごいですね」


 菊次郎がしみじみと嘆息(たんそく)すると、直春は意外そうな顔をした。


「思い付いたのは君だ。よい考えだと思ったから実行しただけだ」

「橋を架けたらいろいろ便利だろうとは言いましたが、無理だと思っていました。お金と時間が相当かかりそうでしたので」

「このお殿様は諦めが悪いからな」


 忠賢の言葉に直冬は首を傾げ、ぽんと手を打った。


「架けたいけれど難しいから仕方がないとは言わないんですね」

「そういうこった」

「そこが直春さんのすごいところです」

「さっきからすごいばっかり」


 田鶴はおかしそうだった。


「だが、きっとこの橋は役に立つ」


 直春の言葉に迷いはなかった。


「これが完成すれば豊津の町は一層発展するだろう。楽しみだな、菊次郎君」

「はい。茅生国の三家との絆を深めることにもなりますね」


 湿(しめ)(はら)の合戦後、葦江国(あしえのくに)では菊次郎の提案で新田開発が行われた。湖岸の湿地の埋め立てと、楠島(くすじま)水軍に与えた土地の開墾だ。

 また、頼算発案の新しい帆布が狢宿国(むじなやどのくに)の戦が終わる頃に完成した。港の名をつけた豊津帆の性能はたちまち評判になり、注文が殺到した。豊津港は船であふれ、都へ売るための綿や炭や味噌などの生産も盛んになった。

 これらの増収をもとに、直春は葦江国の貫高を増やす決断をした。開墾で三万貫、豊津港の収益で一万貫、楠島(くすじま)水軍領の発展で一万貫、合わせて五万貫増加の三十八万貫だ。玉都(ぎょくと)天宮(てんぐう)に使者を送り、献金して宗皇(そうおう)の許可をもらうと、新たに武者を雇った。

 さらに、直春は茅生国の南部三家にも領内開発の話を持ちかけた。足の国は天候不順が続いて凶作で、増富家がそれを利用して三家を締め付けようとしていたし、経済的な協力は同盟の強化につながる。三家はこれに飛び付き、頼算は豊津商人と協力して計画を進めた。石叩川(いしたたきがわ)の浅瀬や(せき)もその一部だった。

 この結果、泉代家は白鷺川(しらさぎがわ)周辺の湿地を田畑に変えて二万貫、市射(いちい)家も一万貫が増えた。錦木(にしきぎ)領で獲れる毛皮は都で珍重され、特産の紙も評判がよく、貫高は増やさなかったが騎馬隊を強化した。


「錦木家の跡取りの仲載(なかとし)さんは忠賢さんに弟子入りしたんですよ」


 直冬が言った。


牧場(まきば)ですごく熱心に教えを受けています」

「俺は弟子は取らねえよ」

「でも、まんざらでもないんだよね」


 田鶴が笑った。いつもからかわれる側なので、逆襲したらしい。


「熱心に教えていますもんね。三つ下の二十四歳ですから、弟と言ったところでしょうか」


 菊次郎も調子を合わせると、直春までそれに乗った。


「案外親分肌なのだな。俺も意外だったぞ」


 忠賢は苦笑したが言い返さず、話題を変えた。


「そんで、お殿様は何の用でここに来たんだ」


 直春は笑みを収めた。


「例の件の報告が入った。ついでに今後のことをいろいろと相談したくてな。そろっているなら丁度よい」

「なら、城に戻るか」


 忠賢は町の方へ歩き出した。菊次郎や直春も働く職人たちに軽く頭を下げて橋に背を向けた。


「この町も随分にぎやかになったよね。お店がたくさん増えたし」


 田鶴は豊津の町並みを眺めてうれしそうだった。


「直春兄様と頼算さんのおかげですね。妙姉様と僕だけではこんな風にはできませんでした」


 直冬は感慨深げだ。忠賢も周囲を見回している。


「人通りが随分多いよな。町に勢いがある」

「この町は今、吼狼国中から注目されていますから」


 もともと大きな港町だったが、豊津帆のおかげで活気付いている。行きかう人々の足取りも軽く楽しげで、よい意味で騒がしさがあった。


「あれが帆布の工房だな。拡張した部分をこんなふうに町割りしたのか」


 忠賢はしげしげと眺めている。


「町造りに興味があるんですか」

「一国一城の(あるじ)になった時のためさ」

「先々のことまで考えているんですね」


 菊次郎は感心した。


「町を発展させるのは領主の役目だからな。商売が盛んになれば運上金(うんじょうきん)をがっぽり取れる」

「そんな目的?」


 田鶴は非難がましい顔をしたが、直冬は肯定的だった。


「来る人や住む人が増えれば、町へ食べ物を売る農民も豊かになりますよ」

昌隆(まさたか)さんも収入が増えたと言っていました」


 楠島を拠点とする水軍衆も来航する船の警護に大忙しだ。その分護衛料を値下げした。湿り原の合戦の時の約束を守ったのだ。


「で、あれが新しい城か。やっぱりでかいな」


 忠賢の視線の先には現在建設中の新豊津城がある。旧城は宇野瀬軍に攻め込まれた時に菊次郎が燃やしてしまったので、境川の対岸、豊津の町の南に新しい城を作っているのだ。


「規模を一回り大きくしました。収容できる武者の数も多くなります。今の城は手狭ですし、豊津の町を守るためにも堅固な城が必要です」


 設計には都の技術者と共に菊次郎も加わっている。もちろん、直春や諸将の意見も取り入れた。


「それにしてもだ。この城は一国の(あるじ)にはちょいと広すぎるんじゃないか」


 忠賢がにやりとして声をひそめた。


「まるで天下を治めるやつの城みたいだ」


 直冬が驚いた。


「何てことを言うんですか。当家は成安家の家臣ですよ」

「ずっとそうなのか?」

「もちろんですよ」


 言って、直冬ははっとした。


「まさか、兄上はそのつもりなんですか」


 直春は首を振った。


「当家にそんな力はない。少なくとも今はな。まずは茅生国を取る。そういうことを考えるのはその先だ」

「そうなんですね」


 直冬は衝撃を受けた様子で菊次郎を見た。


「師匠も同じ考えなんですか」


 菊次郎は小声で答えた。


「現在の状況で成安家に敵対しても当家には損ばかりです。実行する可能性のないことを議論しても意味はありません」

「つまり状況が変われば……」


 直冬は考え込んでいた。

 城に入った五人は直春の居室に向かった。


「いらっしゃい。今お茶を用意します」


 妙姫が迎えてくれた。実際に茶を配ったのは侍女のお(とし)だ。


「桜かけ餅もあるよ。作ったの」


 雪姫が全員に小皿を渡した。桜色の粉をまぶした丸く甘い餅だ。蓮根の漬物が二枚添えてある。

 みんな早速頂いた。昼食から二刻ほど過ぎていて、菊次郎も腹が空いていた。


「このやわらかさを出すのが難しいの」


 雪姫は最近菓子作りにも興味を持っていて、時々こうして感想を求めてくる。


「大分腕を上げたな」


 直春がほめ、直冬も顔をほころばせていた。


「よいできです。今までの試作品とは違います」

「今回は自信作なの!」


 うれしそうな様子に、菊次郎は微笑んだ。


「いい味ですね。おかわりしたいくらいです。添えてある漬物もおいしいですね」

「やったあ!」


 雪姫は顔を真っ赤にして盆を胸に抱き締めた。


「こら、はしたないですよ」


 妙姫がたしなめ、やさしく言った。


「でも、おいしかったですよ。ありがとう」

「うん。どういたしまして」


 照れる雪姫に菊次郎は目を引き付けられた。雪姫が頬を赤らめてちらりと視線を向け、すぐに伏せた。菊次郎が慌てて横を向くと、忠賢が直冬に自分の皿を渡していた。


「漬物はやるよ」

「えっ、食べないんですか。おいしいですよ」


 直冬はびっくりしている。


「忠賢さんが食べ物を残すなんて」


 食べることを好む男だ。「たくさん食うのは戦う者の基本だ」が口癖なのだ。


「蓮根だけは苦手でな」

「そうだったの。ごめんなさい、知らなくて」


 二人のやり取りに気が付いた雪姫が謝った。


「唯一駄目なんだ。直冬が食ってくれ。餅はうまかったよ」

「へえ、忠賢さんに苦手なものがあるんですね」


 菊次郎も驚いた。


「何でも食べるたくましい人だと思っていました」

「昔、生のままかじらされたことがあってな。あんまりいい思い出がないんだ。しっかり煮込んであればまだましなんだが。好き嫌いなんてわがままだと思うか」


 故郷の村は貧しかったと聞いている。


「無理しなくていいと思います。馬にも食べない葉がありますし」


 直冬は皿を受け取った。


馬酔木(あせび)のことか」


 忠賢がああという顔をし、菊次郎が知識を披露した。


「毒があるそうですね。虫を追い払う時に燃やすと聞きました」

「それです。本当にその木の葉っぱだけ食べないんですよ。では、僕がもらいますね」


 直冬はぼりぼりとかじって飲み込んだ。

 二杯目の茶が注がれたところで、直春が口を開いた。


「では、話を始めよう」


 表情を引き締めた菊次郎たちを見回して言った。


「例の件に入る前に、周辺諸国の情勢を確認したい。まずは田鶴殿から報告を聞こう」

「分かった」


 田鶴は茶碗を置き、小猿を膝に座らせると、持っていた紙束の中の一枚を開いた。


「まず、御使島(みつかいじま)の情勢から伝えるね」


 同じ村出身の隠密たちから届いた情報を(よど)みなく読み上げた。

 聞き終えて、直冬が感想を述べた。


「以前から成安家は鮮見家に手を焼いていましたけれど、まさか領地を削られるとは思いませんでした」


 (かかと)(くに)で元尊が願空(がんくう)対峙(たいじ)していた頃、鮮見(あざみ)家は彼がいなくなった鯨聞国(いさぎきのくに)を荒らしていた。狢河原(むじながわら)の合戦の結果が伝わると、秀清(ひできよ)は重臣の朽無(くちなし)智村(ともむら)規村(のりむら)とかねてより計画していた作戦に出た。国境(くにざかい)の砦に大軍で攻め寄せたのだ。元尊が作らせたこの砦が揺帆国(ゆれほのくに)と結ぶ主要街道上にあるために、鮮見軍は山間(やまあい)の細い道を抜けて盗賊のようなことをするだけで領地を奪えずにいた。

 赤い鎧の軍勢は猛攻を加えたが、守将は善戦し持ちこたえた。五日後、鮮見軍は諦めたのか攻撃をやめ、いかにも意気消沈したように撤退を始めた。

 砦の武者たちは勝利に()き、口々に進言した。


「どうか追撃のご許可を。ここで打撃を与えておくことは当家のためになります」


 守将はなかなか首を縦に振らなかったが、成安家の大敗を知って領民が動揺していると聞き、考えを改めた。


「深追いはするな。一撃したら戻るぞ」


 砦の門を開いて打って出ると、鮮見軍は明らかに動揺して総崩れになった。


「雑魚にかまうな! 秀清を討ち取るのだ!」


 逃げ惑う武者たちを蹴散らしながら敵を切り裂いて進み、これは勝ったと思った時、後方で大きな(とき)の声が上がった。


「伏兵です! 砦のそばに敵が現れました!」


 赤い鎧とのぼり旗の軍勢約四千が砦に向かって進んでいく。


「しまった。砦を落とされる!」

「退路を断たれるぞ!」


 武者たちは愕然とした。


「ばかな! 鮮見軍はあれだけの数の武者をまだ隠していたというのか!」


 鮮見家の貫高から考えて、動かせるほぼ全ての兵力で砦を囲んでいたはずだ。守将は疑問に思ったものの、武者たちは既に浮足立っている。やむなく撤退命令を出した。

 成安軍が引き始めると鮮見軍は反撃に転じた。ばらばらに逃げていると思われていた武者たちがあっという間に武者(がしら)のもとに集まり、追撃されるのは成安軍の方になった。


「生かして城に返すな!」


 秀清は自ら馬を駆って槍を振るい、暴れ回った。朽無(くちなし)兄弟は左右両翼から挟み込んで包囲しようとする。

 一方的に狩られて多数の武者を失い、辛うじて砦までたどり着くと、あの赤い軍勢がいなかった。驚く守将に物見が報告した。


「どうやら山の民に赤い着物を着せたようです」


 山奥の村に暮らす者たちに避難民を装わせて近くの森にひそませ、赤い衣装と旗で軍勢に見せたのだ。成安軍が近付くとそれを脱いで逃げ去ったらしい。

 守将は悔しがったがもはや砦に入っても勝ち目はなく、留守の武者にも逃げるように命じて撤退した。


「この戦いの結果、鮮見家は砦周辺の五万貫を奪ったって」


 秀清は国境(くにざかい)の合戦に勝利しても、一気に中心地要餅(かなめもち)城に攻め寄せはしなかった。智村(ともむら)の助言に従い、砦を修理拡張するとともに、元尊に追われた旧領主に占領した土地や特権の一部を返してやり、成安家より税を下げた。それを知って鯨聞国(いさぎきのくに)の他の地域の旧領主や民の間に鮮見家への期待が広がっているそうだ。


「秀清は占領したところを確実に自分のものにしようとしたんですね」


 直冬は腕組みして「なるほど」と繰り返しつぶやいている。


「そうですね。秀清は勇猛なだけでなく、必要なら我慢して力を蓄えることもできるようです」


 菊次郎は鮮見家の当主に対する認識を改めた。彼をうまく導いている朽無(くちなし)兄弟も(あなど)れない存在だ。


「これで鮮見家は鯨聞国(いさぎきのくに)で大軍を動かすことが可能になりました。元尊は一層苦境に立たされましたね。狢宿国(むじなやどのくに)の半分と磯触国(いそふりのくに)の合計三十万貫を失った上に鮮見(あざみ)家にまで大敗した責任を追及する声が、成安家内で高まっているそうです」


 菊次郎が言うと、雪姫が首を傾げた。


「でも、連署(れんしょ)はやめていないよね。どうして?」

「あまり嫁入り前の姫君には聞かせたくないのですが」


 菊次郎は困った表情で説明した。


「元尊は新しい側室を当主に献上したそうです。宗龍(むねたつ)公はその娘を大層気に入り、元尊の罪を問わないと約束したとか」


 直冬と忠賢が呆れた顔をした。


「天下統一とか言っているのにやることがせこいですね。負けたのは陰平(かげひら)索庵(さくあん)の作戦のせいにしたそうですし」

「戦は下手だが女を取り持つのはうまいんだな」


 菊次郎は苦笑した。


「以前献上したお(ゆい)の方は(ちょう)を奪われて激怒し、宗龍公の前で元尊を口汚く(ののし)ったそうですよ」


 直春はまじめな表情と口調を変えなかった。


「新しい側室は純情で一途(いちず)な娘で、一生懸命尽くして気に入られたらしい。なんでも、毎朝食事を手作りして持っていったり肌着を縫ってやったりし、宗龍公が風邪をひいた時には眠らずに一晩中つきっきりで看病したそうだ」

「そんな理由で家臣の失敗を許しちゃうの? 男の人ってそういうものなの?」


 雪姫は頬を染めている。十七歳でもう子供ではないが、この手の話題には(うと)いのだ。


「成安家のご当主はそういうお方なのです」


 妙姫は冷ややかだった。


「そのようですね。狢河原の直後のことですが……」

 菊次郎は耳にした逸話を披露した。


 宗龍は敗戦を報告した元尊にただ一言だけ尋ねたそうだ。


「当家は危ういのか。敵がここまで攻めてくるのか」


 元尊は平伏して答えた。


「多くの武者を失いましたが、当家の存立を(おびや)かすほどではございません」

「ならばよい。早く勢力の回復につとめよ」


 それだけ言うと宗龍は興味を失った顔になり、元尊の進言した再建策を退屈そうな様子で承認したという。


「成安家は駄目ですね」


 直冬が溜め息を吐いた。


「なるほど、さっきの話が分かってきました。直春兄様の目標達成に邪魔になるかも知れないんですね」

「何のこと?」


 雪姫が怪訝(けげん)な顔をした。


「天下統一はまだまだ遠いということさ」


 忠賢が強引にまとめ、話題を変えた。


「で、宇野瀬家はどうなんだ」


 田鶴は別な紙を手に取った。


「今は福値(ふくあたい)家と戦っているみたい」

「菊次郎君が二年前に言った通りになったな」


 直春は感心した口調だったが、菊次郎は喜べなかった。


「やり方は想像していたよりよほど巧妙でした」


 狢河原で家中の反対勢力を一掃(いっそう)した願空は、その牙をいよいよむき出しにした(かん)があった。


「福値家は願空のために大混乱しています」


 降臨暦三八一七年は長斜峰(なはすね)半島の国々にとって大きな変化の年だった。狢河原の合戦、増富常康の死去に加えて、もう一つ大きな事件があった。福値家の連署隆親(たかちか)の死だ。

 福値家を事実上動かしていた隆親は名将だった。奇襲や待ち伏せや伏兵と言った奇兵(きへい)を好み、数にまさる敵を何度も撃破している。先代当主だった兄に仕えて弱体化していた(かみ)副探題の名家を立て直し、葉寄国(はよりのくに)を統一、宇野瀬家と激戦を繰り広げた。宇野瀬道果(どうか)に追放された探題家の当主を庇護(ひご)して兄をその養子とし、福値の名を継がせたのは隆親だ。()(くに)の大封主斧土(おのづち)家の娘を兄の息子親森(ちかもり)の妻に迎えて同盟を結んだのも隆親の献策だった。兄が死んだあとは当主となった親森を後見し、周辺国を切り取って、五ヶ国にまたがる七十九万貫の大勢力を築き上げた。


 ただ、隆親には一つ欠点があった。相当な変人だったのだ。

 うどんが好きで、戦陣でも帯同する職人に打たせて熱いのをすすり、腹持ちが悪いので夜食を含めて一日六回も食事をした。女は母親のような年齢の者にしか興味を示さず、子供ができなかった。酒好きだったが、どぶろくに海藻や薬味や味噌や梅干などをまぜ、豆(あん)入りの甘い饅頭を(さかな)にした。自分の身なりは実用重視なのに女物の華やかな着物を多数集めていて、城にいる時は毎日部屋中に広げて陰干しした。追い詰められた敵城主が数百年前の珍しい花嫁衣装を贈ったら包囲を解いて引き上げたこともあったという。他にも様々な逸話があり、好みがうるさく、細かなことに非常にこだわった。特に問題だったのがどもりがひどいことで、しばしば何を言っているのか分からず周囲を悩ませた。

 それでも戦は非常に強かったし、(まつりごと)でもいくつか大きな改革を行った。漁師の網元の家に泊まった時には、海が荒れてもてなす魚が獲れず平伏して謝る主人に、誰も食べない臭い魚を持ってこさせ、調理法を指示しておいしい料理に変え、その土地の名物にしてしまったことさえあった。

 家臣たちは仕えにくい人だと思いつつも他にない才能を尊敬し、自分たちがいてこそこの方の能力は生きると思って尽くしていた。三十を過ぎた甥の親森(ちかもり)もこの奇妙な叔父に頼り切りで、政と軍事の一切を任せていた。


 ところが、三年前、魚森(うおもり)城下に都から高名な僧侶がやってきた。多くのできごとを言い当てた予言者だという。興味を持った親森が城に招いて話を聞くと、僧侶は声をひそめて告げた。


「このままではあなたのお命は長くないでしょう」

「どういうことだ!」


 驚く親森に僧侶は耳打ちした。


「隆親様は親森様を(はい)して当主になるおつもりだろうともっぱらの噂です。恐らくそれは現実のことになります。お気を付けください」


 僧侶は親族に殺された封主家当主の例をいくつも語った。


「叔父上にそんな気はない。変わった方だが、現世の地位や権力には不思議と興味がないのだ」

「本当にそうですかな。城下の者の多くは隆親様が当主と思っております。親森様の存在を知らぬ者も少なくありませぬ。当主の地位を奪うため、隆親様がわざとそういう印象を民に与えているのでしょうな」

「ばかな。あり得ぬ!」

「では、隆親様のなさることに反対なさってみることです。皆が誰を当主と思っているか明らかになりますぞ」


 親森はまさかと思ったが、家臣たちの前で隆親が決めた新しい施策に否定的な意見を述べてみた。すると、家臣たちは笑って聞き流そうとした。


「隆親様にお任せしておけばよろしいでしょう」

「当主は俺だぞ」

「もちろんでございます。ですが、この件は隆親様のおっしゃることが正しいと存じます。あのお方のご判断なら間違いございません」


 他の家臣たちもみな同じ反応だった。隆親の考えに従うべきだと口をそろえたのだ。

 親森は愕然とし、(いきどお)った。


「当主ではなく、何を言っているのか聞き取るのに苦労するあんな変人の言葉の方を皆は聞くのか。叔父上のせいで、俺は当主にふさわしい敬意を払われていないのだ」


 叔父は本当に自分を殺して当主になるつもりかも知れない。疑い出せば思い当たることはいくつもあった。城下の噂を集めさせると、隆親を名将と(たた)え親森を能無しと笑う歌が流行っていることが分かった。

 また、城に投書があった。願空は和平を望んでいるが隆親が実権を握っている限り戦は終わらない。民は苦しみ、家臣の不満は溜まっている。北に斧土(おのづち)、南に宇野瀬という大勢力に囲まれて、拡大路線は現実的ではない。隆親を排除して両家と手を結ぶ方が福値家のためになる。

 親森はこれを信じ、側近に命じて毒を入手し、隆親が遠征から戻ってくるのを待った。


「叔父上、深奥国(みおくのくに)北平(きただいら)家を従属させるための出陣、ご苦労様でした。当家の版図はかつてないほど広がりました」


 親森は功を(しょう)して手ずから酒を与えた。


「お前が褒美をくれるとは珍しいな」


 首を傾げて飲み干した隆親はのどを押さえて苦しみ出した。


「俺を殺して当主になろうとした逆賊め! 罰を受けよ!」


 隆親は目をむいて甥をにらみつけた。


「こ、この、愚か者が!」


 叫んでばたりと倒れ、やがて動かなくなった。享年五十七だった。

 諸将は驚愕したが、親森が以後自分で政務を見ると宣言すると平伏して従った。

 田鶴が呆れた口調で言った。


「この僧侶、絶対本物じゃないよね。あたしでも怪しいと分かるよ」


 菊次郎も同意見だった。


「恐らく願空の手の者ですね」

「親森は城の奥で贅沢な暮らしをして遊んでたんだろ。知恵も経験も足りない小僧をだますのは、あの陰険じじいには簡単だったろうさ」


 忠賢の言葉は全員の気持ちを代弁していた。


「ただ、思った通りには行かなかったようです」


 隆親の死は周辺諸国を驚かせた。願空は大喜びし、すぐさま一万八千を福値領へ攻め込ませた。

 親森は自ら軍勢を率いて出陣したが、初陣で何も分からず、家臣たちも隆親という強力な指導者を失って意見がまとまらない。行く手を(はば)もうと布陣したものの、戦う前に崩れて逃げ出してしまった。

 だが、この危機を隆親の腹心が救った。三十一歳の宿木(やどき)資温(すけはる)は宇野瀬領との境付近の城を二千で守っていたが、散り散りになった親森隊を追って宇野瀬家の大軍が近付くと、城に火を放って撤退を始めた。


「見ろ、かなわぬと知って逃げていくぞ」


 宇野瀬軍の諸将は嘲笑い、城を無視して、本隊との間に割り込むように逃げていく資温(すけはる)の部隊を蹴散らそうとした。

 多くの荷車を引いて足の遅い資温隊はすぐに追い付かれ、戦闘が始まった。


「一気につぶしてしまえ!」


 宇野瀬軍が勝利を確信した時、本陣に奇襲を受けた。


「敵の新手だと? どこにいたのだ?」

「燃える城の中から出てきました!」


 大将は驚愕し、敵の策にかかったことを知った。資温は城を燃やしたが、火の来ない安全な部分を残してあり、そこに五百の武者と共にひそんでいたのだ。

 本陣が襲われたと知って慌てる武者たちに、追われて逃げていたはずの一千五百が反転して突撃をかけた。荷車に積んでいた薪や油に火をつけて敵に突っ込み、火の玉を辺りにまき散らす装置を作動させて暴れ回ったのだ。

 大将が命令を出せない状態だったため、宇野瀬軍の武将たちは本陣を守るべきか目の前の敵をたたくべきか迷い、部隊によって対応がばらばらになって混乱した。それを見て、ようやく武者をまとめた親森の本隊が取って返して攻撃に加わった。宇野瀬軍は大きな損害をこうむって侵攻を諦め、撤退を始めた。

 親森は好機と見て追撃を命じた。


「攻めてきたやつらをただでは返さぬ。仕返しをしてやろう!」


 それを知った資温は親森のもとに出向いて進言した。


「敵は引き上げていきます。防衛には成功したのですから、これ以上の戦は不要です。敵は老練(ろうれん)の武将、(あなど)ってはなりません」


 だが、親森は宇野瀬軍を追いかけ、逆襲されて包囲されそうになり、心配してついてきた資温に救出されるという失態をさらした。

 魚森(うおもり)城に引き上げてきた親森に、資温は今後は無理をせず経験豊富な家臣たちを頼るように(さと)した。


「火のついた球をまき散らす装置は、隆親様が宇野瀬家との戦に備えて考案なさったものです。私の城をお築きになったのも、もしもの時に本隊を支援するためでした」


 城を預かるまでになれたのは隆親様が引き立ててくださったからだと資温が恩人を惜しむと、親森の顔色が変わった。


「つまり、宇野瀬軍を撃退できたのは叔父上のおかげだと言いたいのか!」


 親森は叫んで座布団の上に立ち上がった。


「経験が足りぬ、家臣を頼れ、自分一人で決めるなだと? 俺はそんなに能無しか! あの変人に劣るというのか!」

「そういう意味ではございません」


 慌てる資温に親森は言い放った。


「せっかく築いた城を自分で焼くとは何事だ。お前にやるつもりだった褒美と捕らえた敵武者の身代金を修理費にあてる」

「お待ちください。それでは懸命に働いた武者たちが報われません!」

「城を焼かずとも勝てたはずだ。籠城するなり、全滅覚悟で突っ込むなりして敵を足止めし、俺たちの来援を待てばよかったのだ」


 資温は首を振った。


「戦には目的がございます。それを達成するために自分の命が必要なら、喜んで死ぬまで戦いましょう。納得できる理由なら武者たちも付き合ってくれるかも知れません。ですが、勝てる目算もないのに一か八かで敵に突っ込むのは、勇気ではなく愚行です。私はそんな無謀な命令で部下の命を危険にさらすつもりはありません。このたびは城を焼く必要があると判断したのです」

「言い訳するな!」


 親森は激怒して処刑しようとしたが、「敵を撃退した功労者ですぞ」と周囲に止められた。


「以後、その装置と今回のような伏兵や奇襲の作戦を禁ずる。お前は城を固く守っていればよいのだ! たまたま危機を救ったことに調子付いて、二歳も年上の俺に偉そうに説教するな!」


 親森は席を蹴立てて出ていった。

 資温は途方に暮れたが、自分の財産を処分して武者たちの働きに報いた。

 その後、宇野瀬軍は体勢を立て直して繰り返し侵攻してきた。資温は必死に戦ったが、隆親直伝の奇襲戦法を封じられたために苦戦し、とうとう城を失ってしまった。親森は帰還した資温を叱責(しっせき)し、領地を召し上げて謹慎を命じた。

 失意の資温のもとを、親森の腹違いの弟の親水(ちかみず)が密かに訪れた。


「兄上は暗愚だ。このままでは福値家は宇野瀬家に滅ぼされる。叔父上のような傑物を暗殺し、お前のような名将を冷遇するとは、全く当主の(うつわ)ではない。叔父上が始めたというだけですぐれた施策をやめるなど、領内を混乱させている」


 親水(ちかみず)は資温に謀叛(むほん)を持ちかけた。


「俺は兄上とは違う。(まつりごと)を正常に戻して当家を立て直すため、貴殿に師事したい。叔父上のかたきを討とう」


 資温は迷ったが承知し、(はかりごと)を進めた。親水は十二歳離れた兄に忠実に仕えて信用を得る一方、隆親と近かったために冷遇されている武将たちと密会を重ねた。

 三ヶ月後、親森のやり方に反対する武将が声返国(こえがえりのくに)で城に立て籠もって反旗をひるがえした。

 親水は兄に進言した。


「敵は少数かつ孤立していて滅ぼすのは容易です。兄上自ら軍勢を率いて討伐なさいませ。お力を示せば、不満を持つ者たちも大人しくなりましょう」


 親森はその気になり、弟の献策通り自分を支持する武将や目をかけている側近だけを率いて出陣した。

 だが、城に攻めかかろうとした時、急報が届いた。


「なにっ! 反対派が魚森(うおもり)城を乗っ取っただと!」


 親水のたくらみに協力する武将が留守居の中に含まれていて、城門を開けたのだ。


「急いで城へ戻るぞ!」


 慌てて取って返した親森の軍勢を、途中の森の中で親水と資温が待ち構えていた。


「これがお前の禁じた伏兵だ! 隆親様直伝の兵法(へいほう)、その身で受けてみよ!」


 籠城した武将も打って出て背後を襲い、挟撃した。軍勢は壊滅し、親森は命からがら国外へ逃亡した。


「親水という人はちゃんと当主がつとまったの?」


 雪姫が田鶴に尋ねた。


「それが、弟の方も問題があったんだって」


 親水が当主になって最初にやったのは、側室を二十人増やすことだった。また、兄に忠実だった者たちの領地を削って謀叛に協力した者たちに配ろうとした。

 資温は(いさ)めた。


「親森様は政を混乱させ、えこひいきをしたことで信頼を失われました。その(てつ)を踏んではなりません。質素倹約して自ら(はん)をお示しになり、家臣を公平に処遇なさいませ。宇野瀬家という強敵がいつまた攻めてくるか分かりません。人々の心を一つにし、国力を回復して守りを固めなくてはなりません」


 親森は嫌な顔をしたが領地を削るのは取りやめた。しかし、側室を増やすのはやめなかった。


「雪に聞かせたくないお話ばかりですね」


 妙姫が溜め息を吐いた。


「しかも、戦が始まったのでしょう」

「はい、北と南の大国が介入してきました」


 菊次郎は頷いた。


「親水は兄を捕らえ損ねたのです。親森は()(くに)へ逃げて、妻の実家の斧土(おのづち)家を頼りました」


 五川国(いつかわのくに)を本拠地とする一百六万貫の大封主家は、兄を引き渡せという親水の要請をはねつけ、親森に二万を与えて侵攻させた。


「驚いた親水は宇野瀬家に助けを求めました。資温は反対したようですが」


 福値家の領地は二つの大封主家の戦場になってしまった。両家は各地の城や要地を占領し、幾度も小規模な戦を繰り返したため、領内は荒れ果てた。


「どっちが勝ったの?」


 雪姫に田鶴が答えた。


「宇野瀬家だよ。願空が自分で采配を振るったんだって」


 桜舘軍が崩丘で戦っていた頃に大きな合戦があった。願空はうそを広めて親森と斧土家を不和にさせると、急造でまとまりに欠ける親森隊に攻撃を集中し、突破して敵陣を崩したという。戦後両軍は協議し、斧土家は親森を引き渡して福値領から撤退した。

 願空は親水に報酬として雁路国(かりみちのくに)の十八万貫を割譲するように迫った。親水は受け入れざるを得ず、悔しがって資温の制止を聞かずに撤退する宇野瀬軍に追撃をかけ、願空に迎撃されて手痛い敗北を喫した。


「斧土豊職(とよもと)は欲をかきすぎました。初めに願空がそれぞれ一国ずつを親水に割譲させて兵を引こうと提案したのですが、それを蹴って戦いを始めました。親森を傀儡(かいらい)にしたかったのですね」


 言った菊次郎に直冬が尋ねた。


「福値家は弱体化したということですか」

「亡き隆親を慕う家臣と親森を支持した者たちの対立がくすぶっていて、政が安定しません。もはや願空の敵ではないと思います」

宿木(やどき)資温という軍師がいてもですか」

「彼は親水とあまりうまく行っていないようです」


 親水は減った収入を補おうと、兄と斧土家に味方し和平後帰参した家臣十数人を誅殺(ちゅうさつ)して領地を奪い、一部を側近に分け与えた。資温は止めたが無視され、気まずい雰囲気になっているという。


「仕える相手を間違えたな。軍師がよくても主君が青臭い小僧で実力を発揮できないんじゃ意味ないぜ」


 忠賢の言葉を直冬がことわざに置き換えた。


「猿に名笛(めいてき)ですね」

「貴重な宝を使い方を知らないやつに持たせておくのは無駄だ。俺のところに来たら家臣にしてやるんだが」

「えっ、忠賢さんがですか?」


 直冬は驚いた。直春も意外だったようだ。


「そんなことを言うとは思わなかったな。どうしたのだ」

「軍師ってやつが俺にも必要かもなって思ってさ」


 忠賢はにやりとしたが、口調はまじめだった。


「崩丘でまんまと定恭の策に引っかかったろ。あれが悔しくてな。結局、俺はほとんど役に立たなかった。直冬や本綱は頑張って戦ったってのにな」

「忠賢さんが退路を塞いだから小薙殿は降伏したんですよ。敵の騎馬隊を引き付けてくれましたし」


 菊次郎は言ったが、忠賢は首を振った。


「あの戦いは俺なしで勝ったようなもんだ。敵を罠にかけるには菊次郎がいるが、俺自身が引っかかるのは避けられるようになりたいと思ってな」

「ならば、軍学を学んではどうだ」


 直春がおだやかに言った。


「直冬殿のように菊次郎君に師事してはどうだろう。忠賢殿が武将として成長するのは俺も大歓迎だ」


 押し付けがましさはなかったが、ぜひそうしてほしいと思っていることが分かる口ぶりだった。


「当家が大きくなれば、忠賢殿にはもっと多くの武者を率いてもらうことになる。菊次郎君がいない戦場もあるだろう。今の忠賢殿が弱いとは思わないが、より強く賢くなってくれるのは大いにありがたい」

「そうですよ。一緒に学びましょう」


 直冬が片手を伸ばすと雪姫が言った。


「直冬が兄弟子だね」


 直冬はびっくりして面白そうな表情になった。


「よし、びしびし鍛えますよ」

「そいつは勘弁してほしいな」


 忠賢は笑って、真顔で菊次郎に頼んだ。


「お前の弟子になる気はない。かわりにお薦めの兵法(へいほう)書を教えてくれ。今までそういうのを真剣に読んだことがないから、とっつきやすいのがいいな」

「分かりました。あとでいくつか選んでお渡しします」


 菊次郎は感動していた。


「忠賢さんは立派ですね。自分の失敗をきちんと認めて、その原因を克服しようとするんですから」

「ほめるようなことでもないさ」


 忠賢が頭をかくと、雪姫が叫んだ。


「忠賢さんが照れているよ!」


 たまらず直冬が吹き出し、みんな笑顔になった。菊次郎もつられて笑ってしまった。


「遠からず忠賢殿は知将として知られることになりそうだな」


 直春は本当にうれしそうだった。見込んで仲間にした男がすぐれた武将に成長していくのを喜んでいるのだ。


「忠賢さんが賢くなったらどんな風になるの?」


 雪姫には想像できないらしい。


「宿木資温とは少し違うような……。どう思いますか、師匠」


 直冬に問われたが、菊次郎は明確には答えなかった。


「さあ、どんなでしょうね。知将と言っても様々です。ただ、煙野国(けぶりののくに)毒蜂(どくばち)のようになってはいけません。大丈夫とは思いますけど」


 田鶴が思い出したように小猿がいじっていた紙を取り上げた。


「じゃあ、煙野国(けぶりののくに)について報告するね」


 ざっと目を通して顔をしかめた。


(はち)()()家があの国の東半分を支配したみたい」


 増富家と同盟して主家を滅ぼした蜂ヶ音儀久(のりひさ)は、次は采振家から独立したもう一つの家と戦を始めた。敷身(しきみ)家だ。

 煙野国に五万貫を領する敷身(しきみ)蔭任(かげとう)は、儀久(のりひさ)が反乱を起こして麻緑(あさみどり)城に立て籠もると包囲に参加したが、毒蜂を警戒して積極的に攻めず、戦力を温存していた。増富家の侵攻を知って采振軍が撤退すると、それを追撃する儀久に同盟を持ちかけ、采振領のうち三万貫を併合した。

 その後蜂ヶ音家と険悪になり、衝突を繰り返すようになったが、五十六歳の蔭任(かげとう)は戦上手で、武者数が半分にもかかわらず善戦した。彼自身が設計した右葉(みぎは)城も堅固で攻めにくい。儀久は一計を案じ、城内の隠密に指示を出した。


「なに、妻の侍女が毒で死んだだと! 儀久のしわざだな」


 知らせを受けて蔭任はぞっとした。侍女は奥方が食欲がないからと渡した料理を食べていた。随分苦しみ、むごい死に方だったという。


「城内に毒蜂の手下がいる。俺をねらったのだろう」


 警戒を強めるように指示したが、翌日近習の一人が死んだ。やはり毒で、苦しさのあまり殺してくれと叫び胸をかきむしりながら息絶えたという。


「今度もねらいは俺だ。間者は近くにいるのかも知れぬ」


 死者はそのあとも数日おきに発生し、蔭任は疑心暗鬼に取り付かれた。家臣たちは互いを疑い、あいつが怪しいと蔭任に密告に来る者もいた。


「これは儀久の離間(りかん)の計に違いない」


 頭では分かっていても恐ろしい死に様を見てしまうと周囲を疑わずにはいられない。何とか気分を変えようと(うたげ)(もよお)し、酒を振る舞い踊りを見せたが、城内の雰囲気がひどく悪いことを皆が確認しただけだった。

 その数日後、また死者が出た。しかも、儀久から重臣の一人に宛てた書簡を持っており、内通に感謝し落城後の厚遇を約束すると書かれていた。


「あいつに限って大丈夫だろう」


 そう思いつつも呼び出して問いただすと、案の定必死で否定する。お前を疑いはしないと約束して退出させたが、夜にその家臣が城を脱走しようとしていると知り、追っ手を差し向けて殺害した。


「まさか、本当に裏切っていたのか」


 衝撃を受けたところへまた同じような書簡が見付かった。宛名の家臣は翌朝には城からいなくなっていた。

 そんなことが一ヶ月ほど繰り返されたあと、蜂ヶ音軍が現れて城を包囲した。夜の間に矢文がいくつも射込まれ、明日城門を開けてくれだの、あいつを暗殺しろだの、約束通り右葉(みぎは)城主に任じようだのと書かれていた。矢文の中身は瞬く間に城内に知れ渡り、名を書かれていた者が他の家臣に囲まれて惨殺される事件まで起きた。矢文はそのあとも毎日城内に飛んできて、脱走する者が相次いだ。

 凄惨な籠城が始まって十二日後、ほとんど寝ていないためふらふらになっていた蔭任のもとに武者が駆け込んだ。


「重臣の一人が門を開いて蜂ヶ音軍を引き入れました」


 蔭任は大笑いし、立ち上がって刀を手に取った。


「もはやこれまでか」


 側近を連れて迎撃に向かい、激しく戦って斬り死にした。討ち取られる時、つぶやいたという。


「これでようやく静かに眠れる」


 蜂ヶ音家は敷身領を併合し、二十四万貫となった。


「恐ろしい男ですね」


 直冬は寒気を感じたようだった。


「陰湿ですね。最低です」


 妙姫が不快感を露わにした。


「まさに毒蜂だな」


 忠賢が菊次郎を見た。


「お前もこういうのを思い付くのか」


 菊次郎が答える前に、直春が言った。


「菊次郎君はそんなことを提案しない。されても俺は絶対に許可しないぞ」

「そうだよ。直春兄様と菊次郎さんだもの」


 雪姫も青ざめていたが、声に力を込めた。


「平和な世を築くために戦っているんだから!」

「その通りだ。統一のためだとしても、してはならないことはある」


 直春は言い切ったが、忠賢の意見は少し違った。


「後味は悪いが、勝利は勝利だ。強敵を弱らせて堅城を落とした知恵はすごいと思うぜ。そういう手をためらわない勇気もな。戦狼の世だしな」

「そういうのは知恵や勇気とは言いません。悪だくみと開き直りです」


 妙姫が反論した。


「戦とはいえ、人をわざとむごく(あや)めることは許されません。そんな人に民を治める資格はありません。違いますか、菊次郎さん」

「僕もそう思います。確かに効果的ではありますが、やってはいけないことだと考えます」


 心の底からの言葉だった。


「儀久を知将とほめる人もいるようですが、周辺国から危険な男と思われています。人の道にはずれた卑劣なやり方は、目先の問題は解決できても、長い目で見れば信用や支持を失って大きな損になります」


 菊次郎は宇野瀬道果の逸話をいくつか披露した。


「道果は希代(きだい)の謀略家と言われながら、民にも家臣にも好ましいお人柄と敬愛されました。民を(いつく)しむ仕置(しお)きを行い、祭りでは(みずか)ら太鼓をたたき、一緒に裸になって踊ったこともあります。手柄を立てた家臣には惜しげもなく金品を与えて大声でほめ、平時は若い家臣や小荷駄隊を城に招いて夜通し語り合い、一緒に風呂に入って洗い合ったり酒を()()わしながら軍談に花を咲かせたりしました。勇士の死には辺りをはばからず涙を流して惜しみ、事あるごとに彼等の家族の様子を見に行ったり家督を継いだ者に目をかけて励ましたりしました」


 だからこそ、寝たきりになっても道果は宇野瀬家の精神的な支柱なのだ。


「願空も信賞必罰(しんしょうひつばつ)を徹底し、狢河原で活躍した者に多すぎるほどの褒美を与えたそうですし、磯触国(いそふりのくに)で善政を()き、民も飛鼠(とびねず)家の旧臣も宇野瀬家の領地になってよかったと言っているようです」


 たとえ人気取りや反乱を防ぐためだったとしても、伝え聞く政策は納得できるものが多かった。


「実力を恐れられながら人柄を愛され信頼されるのが本当の大物です。儀久のように信用できないと思われるのは小物なのです」


 語り終えて部屋を見回すと、皆びっくりした顔をしていた。


「君の気持ちはよく分かった」


 直春が笑った。


「珍しく力が入った演説だったな」


 忠賢はからかう口調なのにどこか安心した顔つきだった。


「師匠、本当にその通りだと思います!」


 直冬は目を(うる)ませていた。


「うん、あたしもそう思う」

「菊次郎さんらしいね」


 田鶴と雪姫もうれしそうだった。


「あなたの考えは正しいと思いますよ」


 妙姫が微笑んだ。


「だから、あなたは大軍師なのです。恐ろしいほどの知恵者(ちえもの)でありながら、直春様に心底信じられているのですから」

「えっ?」


 みんなの思わぬ反応に菊次郎がまごつくと、忠賢が背中をどついた。


「まっ、そういうこった。非難されるような手を使わずに勝てるやつの方がすごいのは間違いないぜ」

「ほめていますか」

「当たり前だろ!」


 忠賢はまた背中をばしばしとたたいて肩に腕を回してきた。


「ところで、師匠」


 直冬が問いかけた。


「砂鳥定恭のことはどう思いますか」


 菊次郎は即答した。


「非常に優れた軍師だと考えています」

「それは分かるが、理由が知りたいぜ」


 忠賢は腕をはずして体を離した。


「定恭はどこがすぐれてるんだろうな」

「僕も聞きたいです」


 直冬も身を乗り出した。


「そうですね……」


 菊次郎は少し考えた。


「一言で表すと、明確な目的を持ち、それを実現するために最も的確な手を打つところですね」

「例えばどういうことですか」

「崩丘での戦を思い出してください。失敗はしましたが見事な作戦でした。あれで定恭の恐ろしさが分かります」

「そうですか?」


 直冬は納得できない様子だった。


「伏兵はすごかったですけれど、あとは側面を突いたり挟み撃ちをしたり、結構単純だったと思います」


 忠賢もよく分からないという顔つきだった。


「そうだよな。引っかかった俺が言うのもなんだが、案外簡単な策だったぜ」

「もっとひねった作戦の方がよいのではありませんか。びっくり仰天するような」


 菊次郎は大きく首を振った。


「それは違います。どんなに単純で簡単な策でも、相手が引っかかってねらった効果を出せるなら、それはよい作戦です。複雑なものがすぐれているわけではないのです。大切なのは相手の(きょ)をつくことと、弱点をねらうことです」


 言って、指を二本立てた。


「あの時、こちらの弱点は二つありました。一つは兵数で劣ること、もう一つは直春さんです」


 直冬が驚いたように義兄を見やった。


「桜舘家の貫高は増富家の三分の一です。それでも茅生国の三家が同盟しているのは、当主の直春さんを信頼しているからです。もし直春さんが討たれれば同盟は崩壊し、当家は茅生国での勢力を失うでしょう」


 みんなぎょっとした顔をしたが、直春は平然としていた。


「かも知れんな。それで?」

「定恭はその二点を突いてきました。直春さんのそばから武者を引き離し、数の減った本隊を攻撃して総大将を討つのがあの作戦のねらいです」

「なるほどな。目の付けどころは正しいぜ」


 忠賢が腕を組んだ。


「そのために、定恭は四隊で包囲する構えを見せました。こちらもやむなく四つに分かれました。その結果、中央部分は敵の方が倍以上になりました。もともとあった差がさらに広がったのです。その上で伏兵や側面攻撃を使って、一隊ずつ確実につぶしていこうとしました。そうなると分かっていても、あのように布陣するしかなかったのです」

「定恭の思う通りに動かされたってわけか」


 忠賢が(うな)った。兵法を学ぼうとしているだけあって、真剣に考えている。


「当家の部隊が予定外の行動をしても、最後には直春さんの本隊を挟撃できるようになっていました」

「でも負けましたよ。まだ一度も師匠に勝てていないではないですか」


 直冬は不満そうだった。


「それは定恭のせいではありません」


 菊次郎は直春を見た。


「途中までは定恭の計画通りに戦いが進んでいました。あのまま行けば僕たちが負けた可能性は低くありません。でも、そうなりませんでした。総大将が作戦を無視して、勝手に丘を駆け下ってしまったからです。それでこちらの策にかかりました。そこが定恭の弱点です」

「持康か」


 直春が納得した顔をした。


「つまり、主君が悪いってことか。それは大変だな。同情はしないがな」


 忠賢は似たような経験があるのか意地悪い表情になった。


「どんな名軍師でも、勝手に作戦を乱されたら勝てないよな」

「それ、すごく分かる!」

「雪姉様が?」


 振り向いた弟に姫君は料理の話をした。


「茶碗蒸しを習ったばかりの頃、卵はだし汁とは別な(うつわ)に入れて、よく()いてから合わせなさいって言われたのに、面倒くさいからだし汁に卵を割っちゃったの。そうしたらすごく怒られたの!」


 雪姫は両手を腰に当てて料理番の仕草をまねた。


「私は料理の専門家です。素人がその指示を無視して勝手をやってはいけませんって。できた茶碗蒸しは卵がよく混ざっていなくてまろやかじゃなかったの」

「なるほど、雪の言いたいことが分かりました」


 妙姫が感心した顔をした。


玄人(くろうと)の考えたやり方を素人が浅知恵で変更してはならないのですね。全ての手順には意味があって、無駄などないのでしょう」 


 直春は雪姫をほめた。


「そこできちんと反省できるのは立派なことだ。もちろん、俺は菊次郎君の作戦を信じる。勝手に変更など決してしない」


 直春は信頼のまなざしを大軍師に向けた。


「僕たちは増富家に絶対負けないということですね」


 直冬は安堵したらしい。


「直春様は桜舘家の弱点ではなく強みです」


 妙姫が言った。


「直春様だからこそ、当家は強いのです」

「その通りです」


 菊次郎は大きく頷いた。


「軍学は多くの武将が学んでいます。頭がよい武将も少なくありません。ですが、現実にはしばしば失敗したり大敗したりします。なぜだと思いますか」

「敵も兵法を知ってるからじゃねえか」


 忠賢の口調は皮肉っぽかったが、耳はしっかりと傾けている。


「それならば条件は互角です。失敗する原因は、多くの大将や武将は、自分の都合を優先させたり、不安に惑わされたりして、兵法を曲げてしまうからです」

「どういうことですか」


 直冬は食い付くように師匠を見つめていた。


「欲望や目の前の利益、守らなければならない立場や利権、そういったもので気持ちが揺らぐのです。主君や上役や他人の目を意識し、功を競う同輩に負けたくないと思った時、状況を自分に都合よく解釈したくなり、正しい道が見えなくなってしまいます。負けそうに感じても最後まで自分の正義を揺るがせず、提案した軍師を信じて作戦を貫く強い心を持った大将だけが勝利できるのです。そういう人の(もと)でこそ、武将や武者は安心して全力で戦うことができます。兵法家や大将に最も必要なのは固い意志と我慢強さなのです」

「直春兄様は楽をしているわけではないのですね!」


 直冬の声は興奮に上ずっていた。


「そうです。人は自分が一番賢いと思いたい生き物です。全て他人の考え通りに動くのはとても勇気がいります。命のかかった戦で、勝っても負けても自分が責任を取るとなればなおさらです。つい口を出したくなりますし、負けそうに感じたら変更したくなります。中途半端に知恵が回るお調子者より、自信家や頑固者の方が武将に向いているのはそのためです」

「菊次郎さんを信じて勝利を手にする直春様は、とても器量(きりょう)が大きいのです」


 妙姫はそんなことはとっくに分かっているという顔だった。当主だった経験から直春のそういう部分を見抜き、自分よりすぐれていると感じて地位を譲ったのかも知れない。


「僕は直春さんに支えられています。崩丘でも作戦が間違っていたかも知れないと慌てそうになりましたが、直春さんは動じませんでした。だから勝てたのです」

「師匠でも迷うんですね」

「無論迷います。迷わない人は愚かです」

「どうしてですか」

「賢いとは、自分の考えや思い付きに疑問を投げかける能力が高いということだからです」

「そうなんですか」


 直冬は意外そうだった。 


「この考えは間違っていないか。もっとよい方法はないか。他の見方はないか。損害が出たり誰かに迷惑をかけたりする危険はないか。そう自分に問いかけて、正しい、これでよいと確信できるまで検討すること。ものを考えるとはそういうことです。これが得意な人、徹底的にできる人が賢いのです」

「へえ、そういうものなんだ……」


 田鶴が目を見張っている。


「ですが、全ての意見には反論ができます。理屈はいくらでもこじつけられます。ですから、最後には、自分の理想を貫き、正しいと信じた判断を揺るがせずにやり遂げる強い意志が必要なのです」

「師匠みたいに賢い人は迷わないのかと思っていました」

「違います。問題に対して多くの選択肢を用意でき、その中から最も適切なものを選ぶ能力があっても、自分を信じて最後までやりきることができなければ結果を出せません。本人にやる気があっても、周囲の支持を得られずに実行できない場合も同じことです。ですから、本当にすごいのは直春さんであって僕ではないのです」

「そんなことはない」


 直春は真顔で否定した。


「俺はみんなに支えられている。忠賢殿は騎馬隊を率いらせたら吼狼国一だ。直冬殿も民に人気があり期待されている。大軍師の菊次郎君はもちろんのことだ。俺一人ではこの国をこんなに発展させられなかった」

「直春兄様を中心にみんながまとまっているから桜舘家は強いんだね!」


 雪姫の言葉に、菊次郎たちは顔を見合わせて微笑んだ。


「まっ、そういうことだな。確かに全員の力だと思うぜ」

「忠賢さんがそんなことを言うんだ?」


 田鶴がからかった。


「事実だからな」


 忠賢は照れなかった。


「師匠がそんな風に思っていたなんて! 感動しました!」


 直冬は顔を真っ赤にして涙ぐんでいる。


「菊次郎さんは正直ですね。少し驚きました」


 妙姫は弟に手拭き布を渡した。


「でも、私も同じ考えですよ。福値家の兄弟は人の和の大切さを分かっていなかったように思います」


 侍女のお(とし)が目をぬぐった。


「皆様がいる限り、当家は安泰でございますね」

「さて、それはどうかな。俺は疫病神(やくびょうがみ)だしな」


 忠賢がにやりと笑い、田鶴がその膝をぱんとたたいた。


「またそういうことを言うんだから」

「逆ですよ。疫病神は嫌われ者ですけれど、騎馬隊の武者たちにとても慕われていますから」


 直冬が大まじめに言った。


文尚(ふみひさ)さんも滅多にいないほどの名将だってほめていました。特に国主様との連携はすごいって。兄上もそう思いますよね」

「もちろんだ。忠賢殿と一緒だと戦いやすい」


 直春が頷くと、菊次郎は人差し指を立てた。


「つまり、馬が合うんですね。騎馬隊だけに」


 部屋が静まり返った。


「えっ……」


 田鶴が絶句し、忠賢が呆れた口調で確認した。


「それ、しゃれか?」


 菊次郎は慌てて謝った。


「すみません。つまらなかったですね」


 直冬も呆気にとられていた。


「師匠がしゃれを言うなんて。初めて聞きました」


「うん、あたしも驚いた」


 田鶴はまだ口をぽかんと開けている。


「もう忘れてください」


 菊次郎が顔を赤らめてうつむいた時、大きく噴き出す声がした。


「ぷっ! うそ、菊次郎さんが? あはは、あははは。すっごくおかしい」


 腹を抱えているのは雪姫だった。体を前に倒して大笑いしている。


「く、苦しい……」

「大丈夫? 落ち着きなさい。ほら」


 妙姫に背中をさすられても雪姫は笑い続け、息を切らせてむせるほどだった。


「姉上、そんなに面白かったんですか」


 直冬は不思議そうだ。田鶴もびっくりしている。


「雪姫様がこんなに笑うのは珍しいね」


 すると、菊次郎と雪姫を見比べて忠賢が何とも言えない表情になった。


「お前等、仲いいな」


 田鶴がはっと息をのんだ。菊次郎は苦笑した。


「しゃれが好きなんでしょうか。僕も驚きました」

「いや、そういう理由だろ」


 忠賢の隣で田鶴は青ざめていた。その様子を直冬が痛ましげに見つめていた。


「とにかく、忠賢殿は当家に欠かせない存在だ。疫病神などでは全くない」


 直春が話を戻した。


「菊次郎君のしゃれには俺も驚いたがな」

「場をなごませようと思ったのですが」


 直春は微笑んで頷き、表情を引き締めた。


「それで田鶴殿、例の件だが、どうだった」


 菊次郎は崩丘での増富軍の行動を不可解に感じ、定恭の置かれている状況を詳しく調べるように隠密に依頼した。そこで出てきた新情報に直春は驚き、田鶴にもう一度確認してもらい、その報告が届いたと聞いてこの話し合いを持ったのだ。

 田鶴は気を取り直して顔を上げ、怒った風に答えた。


「本当だったよ。入るところと出てくるところを二回見たって」

「そうか」


 直春は眉間にしわを寄せた。


「ひでえ話だな。さすがにかわいそうだぜ」


 忠賢も顔をしかめ、菊次郎は暗い表情になった。


「定恭が嫌われているのは知っていましたが、これほどとは」

「何の話?」

「僕には教えてもらえないんですか」


 雪姫と直冬が知りたがった。直春たちは顔を見合わせ、菊次郎が答えた。


「定恭への増富家の人々の仕打ちが目に余るのです。これもあまり雪姫様には聞かせたくないのですが……」


 事情を話すと、雪姫は憤慨(ふんがい)した。


「何それ! どうしてそんなのを許しているの!」


 直冬も信じられない様子だった。


「定恭は増富家を支えている名軍師ではありませんか!」

「今のお話と逆のことを増富家はしているのですね」


 妙姫の言う通りだった。


「つまり、俺たちにはかないっこないってことだ」


 忠賢が直春に顔を向けた。


「これを聞かせたってことは、あっちの方も話が進んだんだろ」

「ああ、とうとう承知した」


 直春はやや声を落とした。


「まだ秘密にしておいてほしいのだが、鳥追(とりおい)城主の小薙敏廉殿が当家に寝返るそうだ。五万貫の武者全員を引き連れてな。持康を見限ったようだ」


 忠賢が狼の顔になった。


「じゃあ、戦になるな」

「ああ、大戦(おおいくさ)だ」


 裏切った者を増富家が許すはずはない。必ず城に攻め寄せて殺そうとする。


「小薙殿に援軍を送って増富軍を撃破し、新しい仲間と領地を守る」


 増富家にこちらから戦をしかけるのは初めてだった。


「作戦は菊次郎君に任せる」

「はい!」


 菊次郎は大きな声で返事をした。


「大軍師の作戦が決まったら小薙殿と打ち合わせをし、出陣する。皆、準備をしておくように」


 全員が頷いた。


「この戦にどっちが勝つかで、茅生国の所有者が決まるな」


 忠賢がにやりとした。


「増富家のばか当主にはいい加減うんざりしてたとこだ。しばらく立ち直れないくらい痛め付けてやろうぜ。崩丘の借りもあるしな」

「定恭も全力で来ると思います。敵にとっても負けられない戦ですから」


 菊次郎が言うと、直冬が断言した。


「師匠なら勝てます」

「菊次郎さんなら大丈夫だね」


 田鶴も信頼のまなざしだ。雪姫は菊次郎をじっと見つめた。


「応援しているよ、菊次郎さん」

「みんな、ありがとう」


 菊次郎は背筋を伸ばし、深く頭を下げた。


「力を貸してください。よろしくお願いします」

「俺たちは勝手なことをして料理をまずくするようなへまはしねえよ」

「そうだな。玄人(くろうと)の難しい要求を全てやり遂げてうまいものを作れるのがいい料理人だ」

「それどころか軍師もびっくりするような絶品に仕上げてやるぜ」


 忠賢と直春は頼もしげな笑みを浮かべていた。


「師匠のため、直春兄様のために頑張ります!」


 こぶしを握った直冬の腹が鳴った。


「料理の話を聞いたらお腹が空いてきました」

「そういえば、もう夕食の時間だな」


 直春が妻を見ると、妙姫が提案した。


「今夜は皆さんも一緒にご飯を食べませんか」


 菊次郎たちも異存はなかった。


「そうするか」

「ごちそうになります」


 承知すると、雪姫が立ち上がった。


「私も料理を作る!」

「あたしも手伝う」


 侍女の田鶴と小猿も腰を上げた。


「師匠、部屋においしいお酒があるんです」


 直冬は最近酒の味が分かるようになってきたらしい。


「俺が全部飲んでやるよ」

「忠賢さんにも、少しだけならあげますよ」


 直春は笑って言った。


「膳をここへ運ばせよう。お(とし)、頼む」

「かしこまりました」


 三姉弟(きょうだい)と侍女二人は廊下へ出ていった。直春は隅の棚から酒樽と干した木の実の小皿を持ってきた。


「忠賢殿、こっちの酒もいけるぞ。食前に一杯どうだ」

「いいねえ、もらうぜ」


 その夜、直春の居室には遅くまでにぎやかな声が響いていた。

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