(巻の五) 第一章 崩丘 中
「さあ、行くぜ! お前等、用意はいいか!」
真っ先に谷間から飛び出した忠賢は、部下を集めて突撃陣形を取らせた。
「全員いるな? よし、俺たちの相手は敵の騎馬隊だ。一気に蹴散らして敵の列の背後に出るぞ。さっき言った通りに動けよ!」
細い道から続々と味方の徒武者が走り出てきて、忠賢たちの右側に隊列を組んでいく。蓮山本綱はもちろん、直冬も立派な指揮ぶりだ。もう十六歳になり、初陣から三年半が過ぎている。忠賢は二十七歳だから十一も年下だが、最近の直冬少年の武将としての成長ぶりには密かに対抗意識を感じていた。
「この戦で真っ先に敵を打ち破るのは俺だ。最大の手柄を立てるのもな。直春はお殿様だからしょうがねえが、桜舘家の第二席はこの俺だってことを見せ付けてやるぜ。菊次郎には期待されてるしな」
にやりと笑うと、忠賢は槍を振り上げて叫んだ。
「野郎ども、始めるぞ! 前進!」
言うなり馬を走らせる。騎馬隊一千五百が続いた。狢河原の時よりさらに三百増えた精鋭騎馬隊が列をなし、左手の山と右手の低い丘の間の草地を北へ向かって駆けていく。
敵の騎馬隊との距離はどんどん縮まっていった。忠賢隊の接近に気付いて向こうも動き出そうとしている。
「反応が遅いぜ。俺たちはもう全力疾走だ。勝ったな」
騎馬隊の突撃は勢いが命だ。敵が十分な助走をする前に突っ込めるだろう。
「文尚、こっちは任せる」
「ははっ!」
敵までもうすぐというところで忠賢は左に逸れ、先頭を副将に譲った。一千五百のうち一千は文尚と共にまっすぐ進む。残りの五百は忠賢が率いる。
「敵の横っ腹へ回り込むぞ。ついて来い!」
忠賢の分隊は加速しつつ曲線の軌道を描いて敵軍の左側へ出た。
「突撃!」
忠賢と文尚が同時に叫び、一千五百が敵騎馬隊二千にぶつかっていった。たちまち乱戦になったが、勢いと速度で大きく後れを取った敵は、挟撃を受けた時点で既に崩れていた。たちまち動揺が広がり、北へ後退を始めた。
『狼達の花宴』 巻の五 崩丘の合戦図 その一
「逃がすか! 追え! 立ち直れないくらい、思いっ切り痛め付けてやれ!」
傷が浅ければ体勢を立て直して逆襲してくる。部隊として戦闘力を失うくらいの損害を与える必要があった。
逃げる二千の騎馬隊を一千五百が追う。忠賢も槍を構えて馬を飛ばした。厳しく鍛えた部下たちはちゃんとついてくる。忠賢隊は速度を上げ、敵騎馬隊の尻に食い付いた。
「よし、追い付いたぜ。蹴散らせ! 馬からたたき落とせ! 存分に稼げよ!」
敵の帯を奪えば手柄になる。敵に返却する時に受け取る金は、武者たちの戦意の源でもあった。
「敵はこいつらだけじゃねえ。力を残しておけよ!」
言いながら、自分自身も目の前の敵に躍りかかった、その時だった。
「鬨の声だと! どこからだ?」
いきなり大きな雄叫びが起こって、西の崖の陰から徒武者の群れが走り出てきた。
「ちいっ、伏兵か!」
崩丘のある狭い盆地は口のやや狭まった湯のみ茶碗のような形をしている。その左側のふち、突き出た崖の裏側に敵の部隊がひそんでいたのだ。
一千の武者が槍を構えて左側面に駆けてくる。一部は背後に回る動きをしている。逃げ惑っていたはずの敵騎馬隊も前と右を塞ぐように広がって向かってきた。
「罠か。このままじゃ包囲されて全滅だ。どうする」
一瞬考えて、菊次郎の忠告を思い出した。
「この可能性を考えてたんなら言っとけよな!」
空に向かって文句を言うと、大声で叫んだ。
「敵同士の隙間を突破するぞ! 左前方だ! 俺についてこい!」
いうなり馬を駆けさせた。槍をかかげて腹の底から繰り返し怒鳴った。
「続け! 続け!」
すぐに文尚の声が同じ文句を叫び始めた。忠賢の意図を理解したのだ。周囲の武者たちが戦闘をやめ、二人の武将のまわりに集まってくる。
ねらいに気付いた敵が前を塞ごうとした。忠賢は周囲の二十騎ばかりを引き連れて、広がってくる敵の先端に突っ込み、かき乱して味方の脱出を助けた。文尚は先に包囲の輪を抜け、仲間をまとめながら逃げていく。
「もういいだろう。行くぞ!」
最後の一騎が突破すると、部下を呼び集めて文尚を追いかけた。
「畜生! この恨みはいつか絶対晴らす!」
一千五百の騎馬隊は大して戦いもせずに、戦場から遠ざかっていった。
『狼達の花宴』 巻の五 崩丘の合戦図 その二
「やりました! 敵は見事に策にかかりましたぞ!」
箱部守篤が歓声を上げた。本陣の他の者たちも表情をゆるめ、喜びを言葉や叫び声で表している。
「見事的中だな。作戦成功じゃないか」
為続が定恭の肩を叩いた。
「敵騎馬隊が突破しにくると分かっていたから、わざと崩れたふりをして後退させ、伏兵の前におびき出したんだな。大したもんだ」
「いや、敵に逃げられてしまった。壊滅させるつもりだったから半分失敗だ」
定恭は難しい顔で腕組みをした。
「騎馬隊の青峰忠賢はすぐれた武将だが、脱出の判断が早すぎる。伏兵に気付くと包囲が完成する前に抜け出した。しかも、味方の方へ引き返すのではなく北へ向かった。もしかしたら、銀沢信家はああなることを予想していたのかも知れないな」
為続は呆れた声で言った。
「いくら何でもそれは考えすぎだろう。罠があると知っていれば避けようとするはずだ。見抜けなかったから罠にかかった。だが、うまく逃げた。そういうことだと思うぞ」
守篤も同じ考えだった。
「確かに、敵騎馬隊をたたくことはできませんでしたが、戦場から追い払いました。これで敵は五千九百。我が軍は一万三千。半分以下になりましたな」
「いえ、それは違います」
定恭は訂正した。
「あの騎馬隊はほぼ無傷です。敵の重要な戦力であることは変わりません。しかも、背後に逃げました。我々はそれに対処せざるを得ません」
そう言うと、持康に進言した。
「騎馬隊に追撃をやめさせ、呼び戻しましょう。我が軍の退路を遮断されぬように、敵騎馬隊を警戒させるのです。騎馬隊は騎馬隊に抑えさせます」
「よかろう。合図の旗を上げ、太鼓を鳴らせ。伝令も出せ」
持康の指示を受けて、そばに控えていた武者が馬に飛び乗って崖を駆け下っていった。それを見送ると、持康は期待する口調で言った。
「では、いよいよ敵本隊への攻撃だな」
「いいえ、まだです」
定恭は作戦を思い出させようとした。
「まず、伏兵していた小薙敏廉殿の一千に西側の敵、蓮山本綱隊二千の左側面をつかせます。同時にこの本隊から一千に丘を下らせ、右側面を攻撃させます。先程からその敵を抑えている矢之根壮克隊二千五百と三方から挟撃すれば、こちらは合計四千五百、確実に敵は潰走します。それを追撃しつつ南下させ、この本隊も丘を下って敵本隊に迫り、挟み撃ちにします。それで味方の大勝利です」
おおう、と周囲からどよめきが起こった。そういう作戦だと知ってはいたが、これは勝てるとみんなが確信したのだ。
「うん、いい策だ。さすがは右軍師だな!」
為続の声ははずんでいた。
「そうですね。それなら勝てるでしょう」
守篤も言ったが、感嘆の響きはなかった。
おや、気が進まないのかな。
定恭は怪訝に思ったが、総大将に一礼し、命令を旗役と太鼓役に伝えようとした。だが、その時、冷ややかな声が耳に飛び込んできた。
「待て。その作戦は許可せぬ」
「えっ!」
思わず驚きの声を漏らして振り返ると、持康がいらだたしげな顔でにらんでいた。
「これより我が隊は丘を下る。眼下の泉代勢を蹴散らし、敵本隊に突撃する」
「お待ちください!」
定恭は慌てた。
「蓮山隊ではなく敵本隊を攻撃なさるのですか」
「そうだ」
持康は頷いた。定恭は総大将が作戦を理解していないのではないかと思い、もう一度説明した。
「状況を確認致しましょう。敵は四隊いました。そのうち最も西側の部隊を追い払いました。これから、その隣を打ち破ります。そのあとで敵本隊をたたくのです。これで我が軍の勝利です」
持康は首を振った。
「蓮山隊は矢之根隊に任せる。我が隊はこれから単独で敵本隊をたたく」
定恭は困惑した。なぜそんな命令を出すのか分からなかったのだ。
周囲を見回したが、為続も守篤も口を開かず援護してくれなかった。持康の表情から反対しても無駄だと感じているらしい。仕方なく受け入れることにした。
「承知致しました。それでも勝てましょう。蓮山隊は矢之根隊が抑えておりますので、敵本隊攻撃の邪魔にはなりません。先につぶしておいた方が確実ですが、もし救援に来ようと反転すれば、矢之根隊が追撃して蹴散らしてくれるでしょう」
持康の指示を肯定した上で、定恭は別な提案をした。
「ですが、もうしばらくお待ちください。現在小薙殿の隊が南下中です。息を合わせて攻撃すれば、たやすく敵本隊を撃破できます」
これで勝利の確率がより高まる。
「もし、敵が挟撃を恐れるなら、丘を登って攻めてくるかも知れません。それを待ちかまえれば高い位置で有利に迎え撃てます。いずれにしても、小薙隊と敵の動きをもう少し見守りましょう」
「それはできぬ」
持康はきっぱりと言った。
「敵本隊は我が隊だけで攻める。小薙隊は使わぬ」
「なぜでございますか」
定恭は思わず首を傾げてしまった。総大将の前で不作法だが、それどころではなかった。持康がこんなことを言い出した理由を必死で考えていた。
「定恭」
持康の口調は憎しみさえ感じられるほど高圧的だった。
「お前の作戦では敵本隊を攻撃するのは我が隊だったな」
「はい」
定恭は頷いた。
「ですが、単独ではなく、他の部隊と挟撃する予定で……」
持康はうるさそうにさえぎった。
「我が隊は五千だ。敵の本隊は七百、その前にいる泉代勢は一千二百だ。我が隊だけで勝てるではないか」
「それは……」
定恭は口ごもった。
「敵の総数はお前の予想通りだった。伏兵はいないだろう。我が隊は当主馬廻りと新旧両家の精鋭だ。それでも勝てぬというのか」
「いえ……」
「勝てるのだな」
「はい」
定恭は仕方なく頷いた。
「恐らく勝てるだろうと思います。しかし、矢之根隊や小薙隊と挟撃した方が確実です。こちらの損害も少なくなります」
「絶対に損害が減るのか」
「いえ、減るだろうという予想です。どちらの場合も敵の抵抗は激しいと思われますので、絶対とは言い切れません」
「ならば、我が隊だけで攻めても大きな違いはあるまい」
「ですが、それでは事前の作戦と違います」
「臨機応変と言うではないか」
持康の口ぶりはもはや罵倒に近かったが、定恭は腹が立つより戸惑いと焦りの方が大きかった。
「状況は予想通りに進んでおります。敢えて変える理由がありません」
定恭は丘の下を指さした。
「敵は大将のいる中央部分が最も武者数が少ない布陣です。左右両翼が我が軍と戦闘に入って動けなくなることは予想できたはずですので、本隊を守る策を用意している可能性があります。あの大軍師ならなおさらです。ゆえに、負けにくい挟撃が有効なのです」
「その敵の策と何だ」
持康は聞きたくなさそうに尋ねた。
「答えよ。どんな策なのだ」
「それは想像がつきません。ですがきっと何か……」
「分からないのに偉そうなことを言うな! 大人しくわしの言う通りにせよ!」
持康も分からないのは同じなのだが、威張って叱り付けた。定恭は膨れ上がった疑問で頭がいっぱいになり、我慢できずに尋ねた。
「なぜ有利な挟撃を捨ててまで急いで攻撃なさりたいのでしょうか」
持康は心底ばかにした目つきで言った。
「小薙隊は伏兵で敵騎馬隊を追い払った。既に手柄を立てたのだ。これ以上目立った働きをさせる必要はない」
「それは……」
定恭は絶句した。持康の意図が分かったのだ。
「先程敵騎馬隊を破ったのは小薙敏廉隊と安瀬名数軌の騎馬隊だ。どちらも外様衆だ。新家の矢之根壮克と旧家の面高求紀も敵を食い止めて奮戦しておるが、打ち破るには至っておらぬ。ここで敵を挟撃すれば、さらに外様衆が手柄を立ててしまう。それでは新旧両家の面目が立たなくなる」
定恭は耳から入ってくる言葉が信じられなかった。
「それに、お前はこの戦の目的を忘れたか!」
持康はとうとう怒りを爆発させた。
「こたびの出陣は父上の遺言を実行してわしの実力を天下に示し、すぐれた当主が誕生したことを我が領内と近隣国に知らしめることだ。それにはわしが単独で敵将直春を討ち取ることが必要なのだ。なぜそれが分からぬか。この愚か者め!」
持康は大声で怒鳴り付けた。
「わしは全体のことを考えているが、お前はこの戦のことしか考えていない。それでも軍師か!」
「いえ……」
定恭は反論しようとして口をつぐんだ。周囲を見ると、犬冷扶応と蛍居汎満の両執政が無表情だった。守篤も知っていたようだ。
「承知致しました」
呆れ果てて体から力が抜けそうになったが、かろうじて頭を下げた。その様子を持康は嘲笑うように見下ろしていた。
「では、我が隊は丘を下る!」
総大将は命令した。
「目標は敵の本隊。敵将直春を捕縛するか討ち取るのだ。邪魔な泉代勢は坂を下った勢いで一気に踏みつぶす。行くぞ!」
おう、と武者たちが鬨の声を上げた。
「定恭」
持康が顔を向けた。
「お前はわしの命令に反対のようだな」
「いえ、そのようなことは」
否定したが、持康は聞いていなかった。
「ならば、お前はここに残れ。五百と共に本陣の留守をせよ。他の者はついて参れ」
「ご命令、かしこまりました」
礼をとる定恭に見向きもせず、持康は愛馬の手綱を受け取った。林の中なので、馬に乗るのは丘を下って平地へ出てからだ。
「砂鳥殿、すみませんでした。大殿と執政お二人のご意向でしたので」
守篤は小さく頭を下げて持康を追いかけた。
「定恭、気にするな。大殿の作戦でも勝てるだろう」
為続が慰めるように言って、自分の部下を連れて歩いていった。
四千五百の武者が去ると、定恭は近くの切り株に腰を下ろして溜め息を吐いた。
「何かご指示がございますか」
声をかけてきたのは砂鳥家の武者沖網広太郎だった。二十三歳で、定恭の護衛と身のまわりの世話をしている。
「することは特にないよ。待機命令だからね」
定恭は疲れた口調で答えた。
「竹筒の水でもお飲みになりますか」
「もらおうか」
定恭は顔を上げて若者に微笑みかけた。
「心配してくれてありがとう」
「いえ、私の仕事ですから」
広太郎は定恭を尊敬しているらしい。初めて銀沢信家と対戦した泥鰌縄手の合戦の時から定恭に従っている。
竹筒を受け取って口を付けようとして、定恭は思い出した。
「ああそうだ。旗役に頼んで小薙殿に連絡を。敵本隊の側面へ向かうようにと。大殿には怒られるかも知れないが、勝利の可能性はやはり上げておきたい」
「すぐに伝えます」
広太郎は駆けていった。
「やれやれ、当家がそういうところだったと忘れていた」
権力闘争や派閥の対立に全く興味がないので、そうしたことへの配慮がおろそかになりやすいという自覚はあった。単純に武者数や騎馬と徒ということだけで部隊の配置を決めたのが失敗だったようだ。
「霧前原では新旧両将の兵数は同じだった。他の戦いでも手柄が同程度になるように調整されている。今回も、新家の矢之根隊を減らして旧家の面高隊を増やす提案をしたが反対された。兵数を減らすのはわざとらしく誘っている感じがすると言われてそうかも知れないと思ったが、その時に気付くべきだった」
反省すると同時に、定恭は不安になった。
「確かに武者数は倍だ。単純に考えれば大殿は直春公を打ち破れる。だが、敵にはあの大軍師がいるのだぞ。みんな、それを忘れているのではないか」
今回の作戦は長い時間をかけ、慎重に検討を重ねて作り上げた。勝てる理由を積み上げ、負ける要因を排除して、ようやく納得できるものができた。それでもなお、銀沢信家に必ず勝てると確信は持てなかった。それほどの相手と自分たちは戦っているのだ。
「わざわざ勝利の確率を下げるような変更をするとはな。敵を利することにならねばよいが」
持康にそれでも軍師かと怒鳴られたが、家中の対立への配慮よりも、目の前の重要な合戦に勝つ方が大切ではないのか。全体のことを考えるというのは、将来や大局を見通して判断することであって、新旧両家の上に乗って均衡をとる先祖代々のやり方に、無批判にしがみ付くことではない。
「そんなことを大殿に言えるわけはないか」
つぶやくと、定恭は少し考えて立ち上がった。
「とにかく、いつでも動けるようにしておこう」
敵の最奥部、白い鎧の総大将の隣に、十歳年下の大軍師の青年が立っている。それをじっと見下ろして、定恭は小さな溜め息を一つ吐いた。
『狼達の花宴』 巻の五 崩丘の合戦図 その三
「忠賢殿は負けたか」
直春は残念そうに言った。忠賢隊は包囲をかろうじてのがれたが、敵の騎馬隊に追いかけられて、西の方へ駆け去っていった。
「やはり砂鳥定恭は恐ろしいな」
「はい、こちらの作戦を読まれていました。不要になればよいと思った助言ですが、当たってしまいました」
予感はあったが、菊次郎も驚いていた。
「敵の騎馬隊を振り切れるだろうか」
直春はあまり心配そうではなかった。忠賢を信頼しているのだ。菊次郎も同じだった。
「主戦場は崩丘周辺です。増富軍にとってここは敵の領内、本隊とあまり離れたくないでしょう。ほどほどで引き返すはずです。逆に忠賢さんにとってはよく知った土地です。うまく逃げて部下をまとめ、やがて戻ってくると思います」
「俺もそう思う」
直春はうれしそうに頷いた。意見が一致したことも、忠賢隊が無事なこともだろう。
「負けはしたが損害はほとんどなかったようだ。菊次郎君の助言のおかげだな」
「敵の策にかかったことは間違いありません。貴重な騎馬隊を使えなくなってしまいました。定恭の策はねらいを達したのです」
ここまで見事にしてやられたのは初めてだ。強敵だが、恐れるよりも感嘆の気持ちが強かった。
「だが、君は読んでいたではないか。こちらにとっても予定通りなのだろう」
直春は全く不安がっていない。誰の目にも、作戦は全て順調だと思っているように見えるだろう。
「菊次郎君はこれを織り込んで作戦を立てていたはずだ」
「敵は明らかに騎馬隊を攻めてこいと誘っていました。ですから、何か策があるのだろうと思いました。伏兵とは分かりませんでしたが」
いくつか可能性は考えたが、菊次郎の予想とは違っていた。
「伏兵だったのはまずかったか」
「半々ですね」
それが正直な気持ちだった。
「せっかく忠賢さんが騎馬隊を引っ張っていってくれたのに、西側に別な部隊が出てきてしまいました。あれに対処しないといけません。一方で、いいこともあります。もう隠れている武者は恐らくいないだろうと分かったことです」
「敵は一万三千か。予想の最大数だったわけだな」
直春は納得したらしい。
「これから敵はどう動く。君ならどうする」
菊次郎は即答した。
「僕なら忠賢隊を騎馬隊で警戒させて近付けないようにしておいて、伏兵していた部隊に蓮山隊の側面を攻撃させます。そして、追撃しながら僕たちの方へ向かって来て、丘を下った敵本隊と挟撃します」
「それはまずいな」
直春は笑っていた。
「はい。蓮山隊をこの本隊七百で救援に行かなくてはならなくなるかも知れません。その場合、厳しい状況になる可能性があります」
「対策はあるのだろう」
「ありますが、定恭はまだ何かを隠していると思いますので、その策次第ですね」
菊次郎は丘の上を見上げた。恐らく定恭もあそこでこちらを見下ろしているだろう。
「先に布陣した増富軍は圧倒的に有利な態勢にありました。戦場の中央の丘の上に大兵力を置いて左右を守り、数でもこちらを大きく上回ります。小細工を弄さず、まともに攻めても勝てたはずです。それなのに、騎馬隊同士をぶつからせようと誘いをかけ、精鋭の忠賢隊から順につぶしていこうとしました。実に慎重で、まさに必勝の構えといったところです」
菊次郎は戦場を見渡した。
「今のところ、蓮山隊と直冬隊は東西の敵をしっかりと抑えています。どうやら、この二隊が戦っている敵は、こちらの武者を分散させて引き付けておくことが主任務のようですね。その分兵数が減るこちらの本隊をねらうつもりでしょう」
「それで、どうする」
「もう少し敵の出方を見ましょう。敵がこちらの本隊を攻めてくるなら、僕たちも敵の本隊をねらいます。戦を始める前に話した通りの動きを、……あっ!」
菊次郎は急に言葉を切って叫び声を上げた。
「敵の本隊が動きます!」
「そのようだな。こちらへ来るぞ」
直春も眼前の低い丘を見つめている。頂上にいた敵五千の大部分が坂を下り始めた。
「おかしいです。早すぎます!」
菊次郎は敵の動きを眺めながら思わず口走っていた。
「蓮山隊を先につぶすと思っていました。そうしない場合でも、先程の伏兵の部隊と息を合わせて僕たちを挟撃した方が勝てる可能性が高いはずです。なぜ今丘を下りるのでしょうか」
素早く様々な可能性を検討したが、どれも違うように思われた。
「まさか、僕たちは定恭の罠にはまったのでしょうか」
予想もつかないほど奇抜な作戦なのか。それとも、何かを見落としていたのか。この戦、負けるかも知れない。僕の立てた作戦のせいで大勢が死ぬかも知れない。
「どうした。顔が青いぞ」
直春がささやいた。菊次郎は武者たちに聞こえない声で正直に答えた。
「敵のねらいが分かりません。どうしてこんな動きをするのか説明できません」
口に出すと一層不安が募ってきた。
「定恭は何か必勝の策を用意しているのかも知れません。どんなものか想像もつきません。こんな場面は想定していなかったんです!」
「落ち着くんだ、菊次郎君」
低く太くおだやかな声だった。
「どうすればいい。君には対策があるはずだ。用意した作戦では駄目なのか」
「大丈夫なように思えます」
声が震えそうだった。
「ただ、敵のねらいが分からないので、本当にその対処が正しいのか自信が持てません」
真夏だというのに寒風に吹かれたように菊次郎は身を縮めた。
「砂鳥定恭に読み負けたのかも知れません。すみません。負けたら僕のせいです」
「謝るな!」
直春は小声で叱った。
「俺は菊次郎君を信じる。頼りになる大軍師で、大切な友人である君を」
直春は天下に宣言するように言い切った。
「敵の考えが読めなくても対処は必要だ。最善と信じる手を打つしかない。それを教えてくれ」
「では、予定通りの指示を泉代公に出してください」
菊次郎はがちがち言いそうな歯を必死でこらえた。
「それで通じます」
直春が顔を向けると、楡本友茂が頭を下げた。
「かしこまりました。鐘を鳴らします」
友茂は走っていって、鐘役に指示を伝えた。すぐに大きな鐘が危機を知らせるように響き出した。
泉代成明が馬上でこちらを振り向いた。蓮山本綱と直冬も菊次郎たちを見て、すぐに目の前の敵に視線を戻した。
「伝わったようだな」
「はい。きっとみんなうまくやります」
菊次郎は口の中がからからだった。
「これで勝てるといいのですが」
「不安か」
直春のまなざしは温かかった。
「はい」
「そうか」
直春は菊次郎の肩に腕を回して引き寄せた。鎧は固かったが直春のやさしさが体中に伝わってきた。
「これは俺の勘だが、君は心配しすぎだと思うぞ」
直春は手首を動かして、なだめるように肩をとんとんとたたいた。
「多くの者は君ほど慎重ではない。じっくり考えて最善の手ばかり打つわけではないのだ。恐らく敵は勝ち急いだのだと思う。圧倒的に有利な状況だ。ここで一気に攻めれば勝てるだろうとな。根拠はないがな」
「敵は砂鳥定恭です。彼に限ってそんなことは……」
菊次郎は反論しようとしたが、直春は首を振った。
「敵は彼ではない。増富持康だ」
菊次郎は目を見開いた。その可能性は考えたが、あり得ないと否定したのだ。定恭に任せるのが最善と誰でも思うはずだから。
「敵の動きは理屈に合わないのだろう」
「はい。ですが……」
菊次郎はそこで口をつぐんだ。直春が言うならそうかも知れないという気がしたのだ。定恭は持康に嫌われている。
「もっと自信を持て」
直春は勇気付けるように言った。
「菊次郎君は賢い。その君が考えて分からないのなら、可能性は二つだ。もっとすごい作戦があるか、敵将が愚かな判断をしたかだ。あの大将と軍師なら、二つ目の方がずっと可能性が高い」
直春は断言した。
「俺はそう考えるぞ」
「そうですね。そうかも知れません」
菊次郎は足をしっかりと踏みしめた。顔を上げ、胸を張った。
「分かりました。その考えで行きましょう。それなら僕たちの勝ちです」
直春の腕から離れ、菊次郎は前に数歩踏み出した。
旗振り役と鐘役に頷いて声をかけた。
「蓮山隊に合図を!」
大きく旗が振られ、鐘が打ち鳴らされた。すると、蓮山隊の後部の武者たちが左の方向へ一斉に油玉を投げた。三つずつ持たせていたので、たちまち大きな煙が上がり、炎の壁ができた。
「これで蓮山隊の左側面は安全です。伏兵していた敵が攻撃するつもりなら背後に回り込む必要がありますが、それには時間がかかります。蓮山隊はしばらく敗れることはありません」
忠賢隊が倒されたら、定恭は蓮山隊をねらってくると思っていた。その場合、炎の壁で敵を大きく迂回させ、その側面を直春隊で攻撃するつもりだったのだ。今は夏、風は南から吹くため、蓮山隊が炎や煙に巻かれる心配はない。
「これで条件は整いました」
菊次郎は直春を振り返った。
「そろそろ僕たちの出番です。部隊の指揮をお願いします」
「任せておけ」
直春は頼もしげに笑い、愛馬の方へ歩いていった。
それを見送って、菊次郎は胸に黒い軍配を握った手を当てた。心臓はまだどきどきしていて、体中を熱いものがめぐっていた。不安と、緊張と、それ以上の喜びのために。
菊次郎が桜舘家に軍師として仕えてもう五年目だ。年齢も二十歳になった。それでも、自分はまだまだ愚かだと感じ、立てる策にしばしば確信が持てなくなる。とりわけ、とっさの判断が苦手だ。重い決断には足がすくむ。
直春さん、あなたはどうしてそれほど自信に満ちあふれているのですか。どうしてそれほどたやすく僕の迷いを断ち切り、気持ちに余裕を与えてくれるのですか。あなたのおかげで僕は軍師でいられるのです。
「直春さんが主君でよかった……」
つぶやくと、返答があった。
「桜舘家のご当主様は、ご器量が大変大きくていらっしゃる」
笹町則理だった。珍しく敬意に満ちた口調だ。
「まこと、天下の名将ですね」
蕨里安民が続き、柏火光風も無言で大きく頷いた。
「菊次郎様と利静さんが選んだ主君ですから」
楡本友茂は誇らしげだった。
「菊次郎様がお立てになった作戦を直春様が指揮なさるのです。絶対に勝てます!」
菊次郎は微笑んだ。
「そうですね。忠賢さんも、直冬さんも、本綱さんも、泉代公も、みんな頼りになる人たちばかりです。勝てないはずがありませんね」
蓮月の初めは一年で最も暑い。もう朝は終わって昼に入っている。厳しい日差しの下、菊次郎はすっくと立って、戦場の熱気にゆらぎながら近付いてくる敵主力の軍勢をじっと見つめていた。
「敵が草地に炎の壁を作りましたぞ!」
犬冷扶応が報告した。
「左側面を守ったのですな」
蛍居汎満が解説を加えた。持康はそばを進む守篤と為続に尋ねた。
「つまり、どういうことだ。まずいのか」
二人は顔を見合わせ、総大将に答えた。
「特に問題はございません」
「小薙隊が側面をつけなくなりましたが、あの敵は矢之根隊が抑えております。この本隊の動きに影響はございません」
「ならばよい」
持康は馬の足をゆるめなかった。
既に丘は後方だ。ふもとの草地を敵本隊七百へ向かってまっすぐ進んでいる。その道を塞ぐように泉代勢一千二百がこちらへ槍を向けていた。
「そろそろでございます」
「分かっておる」
扶応に答えて持康は一旦軍勢を停止させ、腰の刀を抜いた。
「敵は近いぞ! 全員気を引き締めろ!」
持康は大声を張り上げた。
「まずは目の前の泉代勢を蹴散らす! 開飯城と霧前原での恨みをここで晴らそうぞ!」
どちらも恥をかいたのは持康で武者たちはむしろ被害者だが、総大将の戦意の高さは伝わった。気温の上昇とともに武者たちの興奮も膨れ上がっていく。
「敵はたった一千二百。我が隊の四分の一だ。こんな小勢は一気に突破し、敵の本隊へ向かう。近くに救援に来られる敵部隊はおらぬ。前だけを見てひたすら進め! その先に勝利と栄光が待っておる!」
持康はにやりと笑った。
「敵将直春を討ち取った者には大金を与える。誰がそれを受け取るか、楽しみにしておる!」
武者たちが歓喜の雄叫びで答えた。
「攻撃を開始せよ!」
持康は刀を前へ向けた。
「突撃! 突撃だ!」
言うなり馬を走らせた。
わあああと叫びながら、四千五百の武者が駆け出した。たちまち持康を追い抜いて泉代勢へ突進していく。
「て、敵だ! 主力だ! 総大将率いる精鋭だ!」
泉代勢から悲鳴のような声が上がった。
「すごい勢いで突っ込んでくるぞ! 持ちこたえるのは無理だ!」
「数が多すぎる! 到底勝ち目はない!」
持康はほくそ笑んだ。
「敵は怖気付いておる! これは勝ったぞ!」
持康隊と接触した瞬間、泉代勢は壊乱した。押し流されるように下がっていく。
「ちいっ、後退だ! 南へ向かえ!」
泉代成明が慌てて命じている。
「押せ! 押せ! 押しつぶせ!」
持康の本隊は勢いに乗ってどんどん進んだ。泉代勢はあっという間に先程まで布陣していた場所から追い出されてしまった。
「なんと他愛のない。戦いがいがないな」
持康はやや拍子抜けした。敵軍師銀沢信家のことだ。泉代勢と交戦中に直春隊が側面をつくくらいのことはするだろうと予想していたのに、敵本隊七百に動きがないのだ。
「大殿、敵は二つございます。部隊を分けましょうぞ」
扶応が馬を寄せてきて提案した。汎満も同意見だった。
「泉代勢を追う者と直春公を攻める者に二分するのがよろしいと存じます」
持康は少し考えて命じた。
「では、汎満はこのまま泉代勢を攻めよ。扶応は俺について来い。後続を率いて直春を殺しに行く」
「ははっ!」
両執政が頭を下げ、命令を出そうとした時だった。
前方で複数の悲鳴が上がった。
「何事だ!」
馬を止め、背伸びして様子をうかがうと、持康の周囲でも驚きうろたえる声が起こり始めた。
「地面の各所から煙が上がっております!」
「これは煙玉ですな。桜舘軍が使うものです」
扶応と汎満が報告した。
「火か!」
持康は慌てた。火計にはまり込んだかと思ったのだ。
「いえ、煙だけのようです」
「そうですな。どこも燃え上がってはおりませぬ」
二人は首を傾げている。武者たちも状況がよく分からず、その場で立ち止まっていた。
「何がねらいなのだ?」
持康は考えようとしたが、すぐにやめた。火がないのなら実害はない。
「武者を落ち着かせよ。先程の命令通り、部隊を分割して攻撃を再開する」
ところが騒ぎは収まらなかった。それどころか混乱がひどくなっていく。
「何が起こっている。報告せよ」
「ははっ、すぐに! ……うわっ!」
後方を眺めるため馬を動かそうとした扶応がいきなり落馬した。馬がひっくり返ったのだ。
「どうなさった。……うおっ!」
扶応に呼びかけた汎満も馬に振り落とされた。
「一体どういうことだ!」
叫んだ持康も馬から落ちそうになって慌ててたてがみにしがみ付いた。
「何だこれは!」
「大きな石がたくさん転がっているのでございます! 小さな穴も多数掘られているようですぞ!」
扶応が起き上がって報告した。汎満も言った。
「あちこちで草を結んであります。これでは危なくて動けませんぞ」
「足元を悪くして動きを封じるつもりか!」
持康は叫んだ。
「煙はしかけを見えなくするためか!」
このやり方は憶えがある。泥鰌縄手と霧前原で経験ずみだ。
「ということは、これは敵軍師の策か!」
叫んだ時、今度は後方で大きな騒ぎが起こった。先頭の武者たちが煙としかけに驚いて急停止し、転んだりつんのめったりしたところへ、後続の武者たちが突っ込み、押し合いへし合いになったのだ。
「まずいですぞ。これは」
扶応が慌てた様子で言った。汎満も焦っている。
「うっかり身動きできませぬ。これでは戦えませぬぞ。隊列も組めませぬ」
「まさか……」
持康が青ざめた時、弓弦の鳴る音が多数起こり、矢の雨が降ってきた。
「敵は大軍師の策で混乱している!」
前方で敵将直春の凛とした声が響いた。
「攻めるは今だ。全員、俺について来い!」
「桜の御旗に栄光あれ!」
大きな雄叫びが上がって、七百が総大将を先頭に西側から突っ込んできた。
「直春公に後れを取るな! 泉代家の武勇を見せよ!」
南に逃げたと思っていた成明の一千二百も矢を放つと攻勢に転じた。
「防戦せよ! 敵は少ない! こちらは倍だぞ!」
持康は命じたが、その時後方の北側で鬨の声が起こった。
「蓮山隊の分隊五百、敵の尻から参る!」
さらには東の方角からも攻撃を受けた。
「直冬様の命を受け、我等五百、国主様をお助け致す!」
蓮山隊二千のうち五百は隊列の後方で待機して戦闘に加わっていなかった。菊次郎の合図で油玉を投じ、火の壁を作って左側面を守ったのち、分離して持康隊に向かってきたのだ。直冬隊も同様に二千のうち五百が別れ、事前の作戦通り包囲に加わった。
「東西南北四方から囲まれております!」
「敵は総勢二千九百、これはまずうございますぞ!」
両執政も狼狽していた。
「逃げるぞ! 急げ!」
敵将直春を目前にして撤退するのは悔しいが、命の方が大事だ。持康は馬首を返し、先程下ってきた丘の方へ向かおうとしたが、その前に渋搗為続が馬で立ち塞がった。
「お待ちください。慌てて逃げ出してはなりません。敵を突破できるとは限りません」
為続は両手を広げて主君を制止した。
「我等はまだ負けたわけではございません。もう少し様子を見ましょう」
「何を言っておる! 早く逃げないと死ぬかも知れんのだぞ!」
「いえ、恐らく大丈夫でございます」
「なぜだ! 邪魔をするな!」
「まあまあ。大殿、お気をお静めください」
いらだつ持康を守篤がなだめて、護衛役に顔を向けた。
「為続殿、何か策がおありですかな」
左軍師は期待する口調だった。
「確かに、足元が悪いため無闇に移動するのは危険です。しかし、急いでここを離れるべきではありませんか」
為続は奇妙な表情に顔を歪めた。
「じきに脱出の機会が来ます。その時に動きましょう」
「どういうことですか。なぜそう分かるのですかな」
守篤は首を傾げた。
「あいつがいるからです」
為続の答えに、持康ははっとしてこの上なく不愉快そうに舌打ちした。
「そういうことか」
両執政も納得した様子だった。少し遅れて守篤もその人物の名を察した。
「もしかして、砂鳥殿のことですかな」
うれしそうな口調だったが、持康の表情を見て守篤は慌てて付け加えた。
「こういう時のための右軍師です。彼の作戦で負けたのですからな」
「そういうことです。いつでも脱出できるよう、準備しておきましょう。もうすぐ……」
為続は言いかけて丘のふもとを凝視した。頂上の陣地に残してきた武者のうち三百ほどが坂を下って林から草地へ走り出てきたのだ。先頭には騎乗した定恭の姿がある。東側を封鎖する直冬隊の分隊に襲いかかろうとしていた。
同時に、西でも大勢の叫び声が上がった。
「小薙隊が来てくれたようです! 敵の本隊が反転して迎撃に向かっていきます!」
守篤はできるだけ冷静に報告したが喜びは隠せなかった。戦に出た経験が一番少ないので仕方がない。
「これも、もしかして……」
守篤はそれ以上言わなかったが、全員がその先を察して苦い顔になった。間違いなく定恭が敏廉に指示したのだ。
為続が言上した。
「大殿、今です。定恭と息を合わせて東側の敵を打ち破り、丘へ戻りましょう」
持康は怒りに身を震わせていたが、大きな溜め息を吐いて、やけになったように言った。
「そうしよう。為続、お前に任せる」
「ははっ! では、脱出の指揮をとらせていただきます」
為続は総大将に頭を下げると、渋搗家三千貫の槍武者九十名を持康の前に整列させた。
「太鼓乱打! ……やめよ!」
激しい音が消えると、五人に大声で叫ばせた。
「味方が来てくれたぞ! 総員、転進準備!」
一瞬静まり返った戦場に、東西から鬨の声と、それに驚愕する敵の叫びが湧き起こった。
「今だ! 丘へ向かえ!」
その言葉を合図に、持康隊の武者たちは一斉に向きを変えて動き出した。
「では、我等も行きましょう。馬は目立ちます。安全なところに出るまで降りていた方がよろしいですな」
守篤の助言に当主と両執政は従った。慎重に足元を確かめながら、彼等は馬廻りに守られて丘の方へ歩き始めた。
『狼達の花宴』 巻の五 崩丘の合戦図 その四
「包囲が破られましたか」
菊次郎はつぶやいた。
「さすがは砂鳥定恭、対応が早いです」
敵の総大将を罠にはめたのに救出されてしまった。
「あまり悔しそうではありませんね」
友茂に言われて、菊次郎は確かにそうだなと思った。
「なぜでしょうね。破り方が鮮やかだからでしょうか」
答えてから、気が付いた。
「ああ、分かりました。今回の罠が予想以上にうまく行ったのは、敵将の愚かな選択が理由だったからだと思います」
菊次郎の計画では、まず、最も西側の敵が炎の壁を迂回して蓮山隊の背後をねらうところを、分離した五百と直春隊で挟撃して撃破するつもりだった。その後、蓮山隊と戦っている敵の側面を襲い、敵本隊の背後へ出て撤退に追い込みたかった。泉代勢に向かってくる敵を草の中の罠で停止させて包囲する方は予備の作戦だったのだ。
ところが、敵本隊が単独で直春隊へ向かってきた。おかげで、蓮山隊の分隊を含めた四隊で四方から包囲できた。うまく行きすぎた気がして、自分の成功という感じがしないのだ。
むしろ、それを即座に破ってみせた定恭に感心した。恐らく、炎の壁を作った時点でその先の展開を予想し、丘を下ってきたのだ。でなければ間に合わなかった。しかも、単独では突っ込まず、西側の敵一千と同時に攻撃をかけた。桜舘軍は驚き、まんまと敵の総大将に逃げられてしまった。
「さて、そろそろ呼び戻しましょう。これ以上の追撃は危険です」
逃げる敵本隊を泉代勢や分隊二つが追いかけて林に近付いている。下がらせた方がよい。
「どうしてですか」
首を傾げた安民に、菊次郎は問いかけた。
「敵本隊は丘の上にいました。なぜだか分かりますか」
友茂がやや自信がなさそうに言った。
「有利に防戦できるからだと思っていました。違いますか」
光風も同じ考えのようだった。菊次郎は頷いた。
「その通りです。忠賢さんや本綱さんの隊を打ち破った敵が直春さんの本隊に迫ってきたら、あの狭い道へ戻って浅瀬へ向かうか、丘を登って撫菜城へ逃げるしかありません。それを迎え撃つつもりだったのでしょう。また、敵が戦に負けた場合はどうなりますか」
則理が分かった顔をした。
「その時も俺たちは丘を登って本陣を攻めようとする。つまり、あの丘は危険なのか」
「多分、何か備えがあるでしょうね」
「では、このあとどうするのですか」
安民は考え込み、友茂が明るい顔をした。
「分かりました。西側の敵をたたくんですね」
菊次郎は微笑んだ。
「そうです。あれを捕まえます」
伏兵していた敵一千は直春隊を軽く攻撃したあと、本隊の離脱を確認して撤退していく。菊次郎は離れたところで戦場を眺めていたので新手の接近に気が付き、すぐに鐘で警告した。直春隊はそちらへ反転して迎撃し、追撃を始めている。
「泉代公と分隊二つにもあれを追うように伝えてください」
友茂は頷いて鐘役の方へ走っていった。すぐに大きな鐘の音が戦場に響き始めた。
成明が馬上でこちらを振り向き、菊次郎と目が合うと、部下を呼び戻し始めた。分隊二つも戸惑ったように追撃速度が落ちた。
「あっ、あれは何でしょうか!」
安民が叫んだ。
丘の上に赤いものが見えたのだ。同時に黒い煙がもくもくと上がった。続いて、何か大きなものがごつん、ごつんと木にぶつかる激しい音が響いてきた。丸い炎の塊が、次第に速度を上げながら、ものすごい勢いで丘を駆け下りていく。
「火の玉だ!」
則理がびっくりしている。一つではない。数十の燃える何かが煙の尾を引きながら丘を転げ落ちていった。通ったあとが燃え上がって火災が広がっていく。
「あれは丸い岩か短く切った丸太に燃えやすい木の枝や草を巻き付けて油をかけたものでしょう。大きな油玉ですね。火が燃え移るのがとても早いので、あの周辺の木や草には油をまいてあったのだと思います」
「坂を登る途中にあれが落ちてきたら……」
安民が言いかけてつばをのんだ。追撃していた武者たちもどよめいて、恐れるように丘を見上げている。
「あれは定恭の策ですか」
戻ってきた友茂が尋ねた。
「間違いないでしょう」
菊次郎には確信があった。
「あの火の玉は急に作れるものではありません。五形城を出陣する時に道具や油を持ってくる必要があります。この戦場で敵味方がどう動くかを予想してこそ用意できるものです」
「恐ろしい敵ですね」
友茂はしみじみと言った。他の三人も無言で炎を見つめている。菊次郎も体が震える思いだったが、すぐれた敵への感嘆と共感も少なからずまじっていた。
泉代勢と分隊二つは菊次郎の指示通り、伏兵していた敵の方へ向かった。直春隊が足止めの攻撃をしているので、すぐに追い付いて包囲できるだろう。
則理が言った。
「蓮山様も追撃を始めたね」
持康の脱出を知って、街道上の敵二千五百が後退していく。本綱がここぞとばかりに武者を鼓舞している。敵は逃げるのに苦労するだろう。
「東の敵はどうしますか」
右手でも、丘のふもとで二千五百が直冬隊一千五百と戦っていた。
「東の敵は直冬さんに任せましょう。本隊の敗退を見てもう撤退を始めています。うまく追撃してくれるでしょう。……あっ!」
言いかけて、菊次郎はしまったという顔をした。
「定恭の部隊が直冬さんの方へ向かっています。あれは横撃されますね」
友茂が急いで提案した。
「敵の接近を知らせますか」
「もう遅いです。直冬さんの命令が武者たちに行き渡る前に攻撃されます」
その通りになった。直冬隊は逃げる敵に気を取られて横に備えていなかったので、急な攻撃に大きく混乱した。
「たった三百人なのに……」
安民は目を見張った。則理も驚いている。
「定恭隊はもう離れていくよ。丘を登って本隊に合流するつもりだね」
「一撃離脱。目的は混乱させることで、それを達したらすぐに撤退する。すごいですね」
友茂は最近軍学の書物を読んでいる。護衛四人の中で最年少なのに利静から頭を任されたので、しっかりしなければと思っているようだ。こうした見事な軍勢の動きを目の当たりにするのはよい刺激になるだろう。
直冬は必死で混乱を収拾しようとしている。武者たちが落ち着いたら追撃を再開するだろうが、やや距離が開いてしまった。大きな戦果は期待できないかも知れない。
「さて、友茂さん。また鐘役に連絡を」
菊次郎は街道の先の方を眺めながら言った。
「忠賢さんが戻ってくる頃です。指示を出しましょう」
やがて違う鐘が激しく鳴り出し、それに応える騎馬隊の大きな鬨の声が遠くから聞こえてきた。
『狼達の花宴』 巻の五 崩丘の合戦図 その五




