(巻の四) 終章 覚悟の夜
韮木軍を打ち破ったあと、桜舘軍は一息村を離れ、葦貉街道を西へ向かった。
既に夕暮れで、辺りは暗くなり始めていた。武者たちは疲れ切っていて、夜間の行軍はやめた方がよいという者もいたが、菊次郎と直春はこの村にもう一泊するのは危険すぎると判断した。
「韮木軍の敗北は深夜には願空に伝わります。夜明けに新しい追撃隊が出発すれば、昼頃には追い付かれます。こちらは負傷者が多く行軍速度が遅いです。武器や防具を捨てている人もいて、攻撃されたらひとたまりもありません。無茶は承知ですが、今夜のうちに出発しましょう」
菊次郎は夜食用の握り飯を武者たちに配らせ、行軍を開始した。夜間の撤退を想定してたいまつを用意させていたので、それを各隊に渡し、互いに助け合い、馬があるなら交代で乗るように呼びかけた。そうして、頻繁に休憩を取りながら次第にきつくなる上り坂を一晩中歩き続けた。
祈峠が見えたのは、翌日の夜明け頃だった。まだ少し距離があるが、明るくなり始めた空の下、長い尾根道の先に多数の桜舘家ののぼり旗がひるがえっているのが分かった。
「やっと着いたか」
直春がほっとした声を出した。
「あたしたち、生き延びたのね」
田鶴は涙ぐんでいる。
あの峠の先は葦江国、桜舘領だ。峠を目にした途端くずおれて、その場で眠りこける武者も多かった。護衛四人と椋助も倒れるように座り込んだ。武者たちが安堵して止まってしまったので、直春と菊次郎もやむなく腰を下ろした。
座ってみると、とても疲れていたことが分かった。もう立ち上がれる気がしない。膝ががくがくし、全身が地面に引っ張られるように重かった。
「見て。日が昇るよ」
田鶴がまぶしそうに指さした。東に広がる後の海から丸い太陽が姿を現し、新鮮な光で大長峰山脈のてっぺんを白く輝かせた。ふもとの真っ黒な森が次第に明るい緑に変わっていく。
「雄大な景色だな」
直春が感嘆の声をもらした。菊次郎も黙って見入っていた。
「また朝日が見られましたね。もう無理かと思いました」
友茂が涙ぐんだ。護衛たちがつられて鼻をすすり、田鶴は目をぬぐっている。菊次郎も涙が浮かびそうになった。前後を歩いていた武者たちも、多くが目を赤らめていた。
これは当分動かないかもと思っていると、上から叫ぶ声が聞こえてきた。
「大丈夫か! あと少しだぞ!」
坂を駆け下りてくる武者たちがいる。
「動けない者は肩を貸すぞ! 重い荷物も持ってやる! 遠慮なく言え!」
昨日の朝、合戦をすると分かった時点で敗北した場合を考え、国境に軍勢を出して守りを固めるように指示していたのだ。伝令を先に走らせたので、迎えにきてくれたらしい。倒れている武者に声をかけたり知り合い同士が再会を喜んだりしている。それにまじって打掛姿の美女が二人いた。
「直春様!」
「妙、どうしてここに」
声を聞きつけて直春が立ち上がった。
「狢河原で大敗したと聞きました。じっとしていられなくて峠まで迎えに参りました」
妙姫は疲れが隠せない顔の夫を見上げ、みるみる涙を浮かべて抱き付いた。
「よくぞご無事で」
「死ぬわけにはいかないからな。家のためにも、妻子のためにも」
「天下のためにも、ですわね」
「そうだな。さすがは俺の妻だ」
直春は笑って、妙姫の頬に口づけをした。
「ひげが伸びていてすまんが」
「よいのです」
自分も夫の頬に口づけし、武者たちがどよめくのを気にせず、妙姫は菊次郎に近付いた。
「ありがとうございました」
深々と頭を下げられて菊次郎は困った。
「僕は何も……。負けて逃げ戻ることになりましたし、大勢が傷付き亡くなりました。申し訳ありません」
「いいえ。とても感謝しています。皆同じ気持ちでしょう。あなたがいなければ、当家の損害はずっと大きかったはずです。一息村で敵を撃退したからこそ、こうして多くの者が生きて戻れたのです」
「僕は何の役にも立ちませんでした。他の人たちが命を投げ出してみんなを救ってくれたのです。僕はそれに甘えただけです」
「それは謙遜しすぎです」
菊次郎の表情に妙姫は怪訝な顔をしたが、直春が促した。
「その話はあとだ。とにかく峠まで行こう。ここはまだ宇野瀬領だ」
「もっと武者を呼んで手伝わせましょう。炊き出しの準備はできています」
峠まで行けば温かい食事にありつけると聞いて武者たちは顔を明るくし、よろよろと立ち上がって歩き出した。直春はそばを離れない妙姫と一緒に坂を上っていく。
「菊次郎さん、大丈夫?」
雪姫がなぜか照れた様子で顔をのぞき込んだ。
「随分疲れた顔ね。何か持つものある?」
さっきまで田鶴や真白、下から上がってきた直冬と感激の再会をしていたが、ようやく菊次郎に声をかけてきたのだ。
「ありがとう。持ってもらいたいものは特にありません。山に登ったりして大丈夫なのですか」
雪姫は体が弱いのだ。
「平気よ。今年の夏は体調がよかったの」
「いっぱい食べていると聞きましたが」
「うん。ご飯がおいしくて。ちょっと太ったかも」
茶碗蒸しのだし取り以来、出し殻のおかかのふりかけが大好きになり、何杯も食べてしまうそうだ。
「この峠、歩いて登ったのよ。森も山も初めてで大変だったけど、来てよかったと思う。全部、菊次郎さんのおかげね。無事に帰ってきますようにってずっとお祈りしていたの。もちろん、田鶴や直冬のこともだけど」
顔を赤らめた雪姫に、菊次郎は力なく笑った。
「心配をおかけしました。でも、僕はまだ生きていますから」
「えっ?」
雪姫がびっくりした顔をした。投げやりな言い方が予想外だったらしい。
「何かあったの?」
「雪姫様には関係ないことです」
口にしてから、突き放すような言葉を自分でもよくないと思い、菊次郎はぎこちない笑みを浮かべた。
「本当に大したことではないんです」
「どういうこと?」
尋ねられた四人の護衛は顔を見合わせ、則理が言った。
「大したことではないそうですから、お気になさる必要はありません」
嫌味たっぷりの口調に雪姫はさらに驚き、田鶴に視線で問いかけた。
「あとで話すね」
田鶴はそれだけ言って話を打ち切った。
「雪姫様は朝ご飯を食べたの?」
「えっ、まだよ」
「じゃあ、食べに行こうよ。菊次郎さんたちも」
「うん。峠まであとひと踏ん張りですね」
菊次郎と護衛たちも立ち上がり、歩き始めた。
全員が峠に到達して食事をとり、必要な者たちは治療を受けると、昼食まで休息となった。ほとんどの者がその場に横たわって眠った。峠には商人たちが泊まる旅籠があり、重傷の者はそこへ運ばれた。雪姫たちが作っていた食事には嶋子考案の芋の煮っ転がしが含まれていて、菊次郎たちは食べながら涙した。
陣を引き払って出発する前、直春は踵の国を見下ろせる場所に全員を集めた。
「黙祷!」
槻岡良弘の声で武者たちは一斉に目をつむった。小荷駄隊や妙姫たちも頭を垂れている。負傷して担架に乗せられた者も目を閉じていた。
「直れ!」
人々が目を開くと、直春は臨時の墓石に花と線香を手向け、手を合わせた。
一息村を出る前、死者を葬る時間はなかった。直春は村長に村を戦場にしたことを詫びて丁寧な埋葬を頼み、運べない食料などを残していくので費用にあててほしいと告げた。村長は直春たちに好意的だったので引き受けてくれた。
利静は村はずれに埋めた。菊次郎と四人で穴を掘り、野の花と薬飴の袋を一緒に収め、簡単な墓石を置いた。国元まで運ぶことはできないのでやむを得なかった。
直春は祈りを終えると、生き延びた三千七百の武者に向き直った。一息村を出た時より三百人も減っていた。傷が悪化して息絶えたり、暗闇の中で崖から落ちたり、もう歩けないと介錯を頼んだりした者がそれだけいたのだ。
「こたびの戦では大勢が死んだ。俺はこの日を忘れない。この場所を忘れない。この悲しみと悔しさを忘れない。この祈りを決して忘れない」
武者たちや小荷駄隊の間からすすり泣きがもれた。
「戦いはまだ終わりではない。戦狼の世は続いている。だが、今は生き延びたことを大神様に感謝し、仲間と喜び合おう」
直春は声をやわらげた。
「敵は追ってくる気配がない。急ぐ必要はもうない。休憩をはさみつつゆっくりと坂を下る。今夜は駒繋城に泊まり、明日、豊津へ帰る」
武者たちは安堵した様子になったが、直春はすぐに彼等の気持ちを引き締めた。
「もう戦いはないが、気を抜くな。ほっとするのは家族の顔を見た時だ。それまで止まらず歩き続けよ!」
武者たちの顔が戦士に戻ると、大声で命じた。
「では、出発する。行軍開始!」
そうして、桜舘軍は大勢の負傷者と小荷駄隊を引き連れて、再び街道を進んでいった。
駒繋城の大手門前の広場には多くの人々がいた。敗戦を知って武者の家族が大勢迎えにきていたのだ。小荷駄隊は武者の息子や兄弟なので、彼等のこともたくさんの妻や母親が案じていた。
無事な帰還を喜ぶ者と死を知らされてその場にくずおれる者、どちらも涙と無縁ではいられなかった。それを離れて眺める菊次郎のそばでは、四人の護衛が家族と再会して泣いている。その中で嶋子だけは、三歳の小太郎の手を引いて呆然と立ち尽くしていた。先程則理が事情を説明したのだ。
と、菊次郎と目が合い、嶋子が近付いてきた。菊次郎はどんな顔をしたらよいか分からず逃げ出したかったが、それは許されないことだった。とにかく謝ろう。ふさわしい言葉を思い浮かべて言おうとした時、先に嶋子が口を開いた。
「ありがとうございました」
嶋子は深々と頭を下げた。
「夫は菊次郎様にお仕えできて本当に喜んでいました。大軍師様をお守りしていることを誇りに思っていました。大変よくしていただいて、夫も私もこの子もとても感謝しています。亡き夫にかわってお礼申し上げます」
責められると思っていた菊次郎は逆にぞっとした。
「お、お礼だなんて。僕は利静さんを守れませんでした。それどころか、死ねと言ったも同然の命令を……」
「それは菊次郎様の責任ではありません。夫が自分で言い出したそうですから」
嶋子は悲しげに首を振った。
「あの人は死ぬ覚悟だったと思います。生き延びたいならそんなことを言わなければよかったのです。菊次郎様はおやさしいですから、お命じにならなかったでしょう」
「そんなことはありません」
反射的に答えたが、そうかも知れないという気持ちはあった。利静が申し出なければ、親しい人物に命をかけさせる決断はできず、結局敵の騎馬隊に橋を渡らせてしまった可能性は低くない。利静はそれを分かっていたので自分から言ったのだ。本当に武者たちを救ったのは利静だった。
「夫はきっと菊次郎様や国主様をお守りしたかったのです。ですから菊次郎様がお気になさる必要はありません」
「ですが、これは僕のせいで……」
「しかも過分な恩賞を頂きました。一万両なんてどうやって使ったらよいのでしょうか。その上この子は封主だなんて。私はただの貧しい武者の娘ですのに」
嶋子は喜ぶより戸惑っているようだった。
「利静さんはそれだけのことをしたのです。当然の報酬です。あのつり橋が落ちなければ死者は倍以上になったでしょう。僕も国主様も生きては帰れなかったかも知れず、桜舘家は滅んでいた可能性があります。一万両でも多すぎはしません」
「そうなのでしょうね。ありがたいことです」
嶋子はむしろ迷惑そうだった。
「私は夫を誇りに思うべきなのでしょう。先程から多くの方が私に感謝なさいます。身分がずっと上の方に頭を下げられ、手を握って慰めてくださる方もいました。大変ありがたく、恐れ多いことです。けれど……」
嶋子は急に涙をあふれさせた。
「そんな感謝やお金よりも、あの人に無事に帰ってきてほしかった。この子をまた父親に会わせてやりたかった。あの人は昔から勝手に大事なことを決めてしまう人で、言い出したら聞かなくて……いえ、すみません」
嶋子は慌てて涙をぬぐった。
「こんなことを菊次郎様に申し上げても仕方ありません。ただ、私は困っているのです。これからどうしたらよいのでしょうか。義士の妻として、夫の残してくれたお金と名声を頼りに生きていけばよいのでしょうか。それを夫は望んでいたのでしょうか」
「僕にできることは何でもします」
菊次郎は強い口調で約束した。
「利静さんの死は僕の責任です。嶋子さんと小太郎君を守ると約束もしました。たとえ僕が死んで桜舘家が滅んでも、お二人には傷一つつけさせません」
「それは、ありがとうございます……」
嶋子はますます困った顔になって黙り込んだ。菊次郎はようやく用意の言葉を言う機会を得た。
「大変申し訳ありませんでした。全て僕が悪いんです。僕を責めてください。利静さんは僕たちを救ってくれました。どんなことをしてもこのご恩はお返しします。ですから、どんな要求でもしてください。何でもやります」
そこまで一息で言って深く息を吸い込み、勢いよく頭を下げた。
「まことに申し訳ありませんでした!」
嶋子は疲れた顔になった。
「謝らなくていいのです。本当に恨んではいないのですから」
年下に対する大人の口ぶりだった。
「謝りたい気持ちは分かります。でも、お顔をお上げください。菊次郎様のせいではありません。どう申し上げれば分かっていただけるのでしょうか」
嶋子は少し考えて、弱々しく微笑んだ。
「私は菊次郎様を許します。きっと夫も許していることでしょう。苦しまなくてよろしいのです。夫の分まで長生きしてください」
「ありがとうございます」
菊次郎はもう一度頭を下げた。
「お母様、お腹空いた」
小太郎が母の手を引くと、嶋子はほっとした様子になった。
「では、私はこの子に何か食べさせてきます」
「はい、ありがとうございました」
菊次郎がもう一度頭を下げると、嶋子はお辞儀をして離れていった。
その姿を見送って、菊次郎は深い溜め息を吐いた。夕暮れの空を見上げてもう一回溜め息を吐き、歯を食いしばって涙をこらえると、城門をくぐって中に入っていった。
「菊次郎君」
本郭に与えられた座敷の縁側でぼうっと月を見上げていると、室内から声がかかった。
「泣いているのか」
直春は返事を待たずに縁側に出てきて、隣にあぐらをかいた。もう夜遅いが月明かりで影ができるほどで、大長峰山脈が巨大な壁のようにうっすらと浮かび上がっていた。
「いい月だな。明日は満月だったな」
菊次郎は目をぬぐって顔を向けた。
「妙姫様のそばにいなくていいんですか。二月半ぶりの再会でしょう」
「その妙にここへ行けと言われた。言われなくても来るつもりだったが」
直春は笑って、持っていた丸い盆を脇に置いた。
「酒だ。飲もう」
木杯にどぶろくを入れて差し出した。
「僕はお酒は飲まないんですが」
「今日は飲みたい気分だろう。いいから飲んでみろ」
やむなく受け取って口を付けた。甘い酒だった。
「何で泣いていた。後悔しているのか」
何を、と聞き返す必要はなかった。利静を死なせたことだ。
「自分を許せないんです」
直春は黙って菊次郎の器に酒を足した。
「さっき嶋子さんに会いました。これまで世話になった礼を言われました。でも、僕は謝りたかったんです。だから無理矢理謝って頭を下げました」
菊次郎は自嘲の笑みを浮かべた。
「楽になりたかったんです。謝罪という義務を果たしてすっきりしたかったんです。そうして、許します、あなたのせいではありません、夫もそう思っていたはずですと言ってほしかったんです。それで罪の意識からのがれられ、この事件を忘れてしまえます」
「嶋子さんは何と言った」
「望んでいる言葉を言ってくれました。苦しまなくてよいと言われました。すべて見抜かれていました。相手が許したからといって、自分の犯したあやまちや責任が消えてなくなるわけではないのに」
「だが、君には必要なことだった。自分に責められる点があったと思うなら、謝らないよりはいいさ」
「僕は卑怯です。利静さんに危険な命令を出して殺しておきながら、自分は安全な場所で守られて生き延びました。その上、責任の重さと良心の呵責から逃げ出そうとしています。利静さんは僕が桜舘家に必要だと言いました。だから守るのだと。でも、僕に守られる価値なんてないんです」
「それは違うぞ」
直春は酒器を持って広い庭を眺めていた。
「俺は利静殿にとても感謝している。同じくらい菊次郎君にも感謝している」
すみっこに咲く白い花が円い月に照らされて輝いていた。
「彼は橋を落とし、多くの武者と桜舘家を生き延びさせてくれた。俺の天下統一の夢を支持し、実現の可能性をつないでくれた。妙にもまた会えた。花千代丸は豊津城で元気だそうだ。全部利静殿のおかげだ」
直春は死者を悼むように目をつむった。
「祈峠で利静殿の形見の槍の前に野の花がたくさんあったろう。あの芋料理の考案者の夫ということもあって、多くの武者が花を手向けたようだ。利静殿は感謝されることをしたのだ。そして、それを命令した菊次郎君も感謝されている。そもそも、つり橋を落とす必要に気付いたのは君だ。菊次郎君のおかげで俺たちはまだ生きているのだ」
「僕は命令しただけで実行していません。あの作戦は利静さんが言い出したんです」
「だとしても、実行を決断したのは君だ。つらい決断だったとみんな分かっている。だが、それがなければもっと多くの人が死んでいた。もっと多くのものが失われていた。君は苦しみながら正しい判断をしたのだ。そんな君だから命をかけて守るに値すると利静殿は思ったのだろう」
「正しい判断ですか」
菊次郎は歯を食いしばった。
「あれは正しかったのでしょうか」
「俺はそう思う。君は思わないのか」
ためらったが、正直に答えた。
「正しかったと思います。僕の頭脳はああするしかなかったと結論付けています。時間がない中で、あれは思い付けて実行可能な最善の方法でした」
菊次郎は両手で顔を覆った。
「でも、正しかったのに、なぜこんなに苦しいのでしょうか。どうしてこれほど悲しいのでしょうか。正しいことをしたはずなのに、なぜ大切な人を死なせ、罪のない人を泣かせてしまうのでしょうか!」
菊次郎は声を殺して叫んだ。
「他に方法はなく、その結果多くの武者の命が助かりました。それは事実です。でも、軍師としては正解でも、人としては最低です! 利静さんがいなければ僕は武虎に殺されていました。命の恩人を殺すのが本当に正しかったんですか。僕は武者の命を大切にする人だと利静さんは嶋子さんに言ったそうですよ」
利静も嶋子も菊次郎を信じていた。それを裏切ったのだ。
「もっといい方法はないか、誰も死なずにすむやり方があるはずだと必死で考えましたが、思い付けませんでした。どこが大軍師でしょうか。どこが知恵者でしょうか。損害を出さずに勝ってこそそう言えるのではないですか。その点、利静さんは勇者でした。本当の勇気を持っていました。命を投げ出して誰かを救うなんて臆病な僕にはできません。利静さんの勇気に僕は甘えたんです」
涙が指の間からこぼれ、腕をつたって落ちていった。
「しかも、僕は遺体を運ばせてさらしました。利静さんの死を無駄にしないためとはいえ、あの無残な死に様を戦に勝つために利用したのです。とんでもない恩知らずです。人の道にはずれた極悪人です! その上、その罪を忘れて楽になりたいと思っているんです!」
直春はしばらく黙っていた。菊次郎の激情が収まると、酒器を横に置いて口を開いた。
「利静殿はまことの勇者だな。するべきことをするべき時にする勇気、大切なものを守るために大切なものを犠牲にする勇気を持っていた。俺も見習わなくてはならない」
「直春さんは誰よりも勇敢です。本当にそう思います」
菊次郎の言葉を直春は真摯な表情で受け止めた。
「そうありたいとは思ってきた。故郷を失った時からな。そして、菊次郎君も勇者であり、知恵者だ」
「どこがですか、僕は……!」
「今言ったろう。するべきことを知り、実行した。まさに賢者だ。より大切なもののためにとても大切なものを犠牲にした。これは勇気だ」
「他に方法がなかったんです。仕方がなかっただけです」
直春さんはこの言葉を言わない人だ。自分はとても及ばない。
「それに犠牲にしたのは他人です。自分の大切なものを失ったわけではありません」
「だが、あとで苦しむことになると分かっていて重い決断をした。忘れたいと言ったが、不可能と分かっているはずだ。君は都合の悪いことはけろっと忘れて平気な顔のできる男ではないからな」
「そうでしょうか」
過去の重い罪を菊次郎は最近あまり思い出さなくなっていた。だが、あの経験があったから直春の理想に共鳴したのも事実だ。
「それに君が責められるなら、君たちを行かせた俺にも責任がある。君一人が苦しむことはない」
「そんな! 直春さんは悪くありません」
「直接の家臣でないとはいえ、桜舘家の武者を一人死なせた。君を絶対に守ってくれと頼みもした。無関係のはずがない。俺も君の罪を一緒に背負う。正しいことをして多くの者を救ってくれた君を支えたい。少しは楽になるだろうか」
「ありがとうございます」
この人はいつもやさしい。それはうれしいが、胸に突き刺さりもするのだった。
「だから、君に褒美を出す。田鶴殿や他の四人にも、あの少年にも与えよう。受け取ってくれ。正しい行いは正しく報われるべきだからな」
「正しい行い、ですか」
菊次郎はつぶやくように言った。
「僕には分かりません。僕は、利静さんは、本当に正しかったのでしょうか」
答えを待たずに先を続けた。
「僕には知恵と勇気があると直春さんは言いますが、賢さ、正しさって何なのでしょうか。重い代償を支払うに値するものなのでしょうか」
「難しい問いだな。どう思う、忠賢殿」
直春が後ろに向かって呼びかけると、騎馬隊の将は廊下から姿を現し、部屋を通って縁側に出てきた。田鶴もいる。菊次郎は慌てて目をぬぐったが全部聞かれていたに違いない。
「正しいことが必ず気持ちいいことってわけじゃねえんだよ」
忠賢はあぐらをかいて直春から杯を受け取った。
「俺はお前らに会うまで三つの封主家に仕えた。その二つ目でのことだ」
直春は黙って酒を注いでやった。
「当主の息子が守る城が敵の大軍に包囲された。後詰に向かった家老は少ない兵力では救出は困難と判断し、敵がその城を攻め落として疲れ油断したところを急襲して撃退した。だが、当主の奥方が息子を見殺しにしたと家老を恨み、暗殺した。家老の息子は激怒して敵に寝返り、封主家は滅んだ。正しい判断がいつも支持されてよい結果をもたらすとは限らないのさ」
忠賢は酒を一口なめて一気に飲み干し、二杯目を要求した。
「俺自身も、仕えた一つ目の封主家が滅んだ時、自分が逃げるので精一杯で、とても世話になったじいさんを見捨てたことがある」
遠い国の噂話のような素っ気ない言い方だった。
「恩人が困ってたら救いたいよな。だがな、戦場では珍しくないことだぜ。生きるってのは、時々そういう汚いもんなんだよ」
菊次郎は言葉がなかった。田鶴が膝の上の小猿を抱き締めた。
「あたしも村が襲われた時、両親を残して真白と逃げたよ。他にどうしようもなかった。父さんと母さんが生き延びてと言ったから、一緒に死ぬより逃げようと思ったの」
「ごめんなさい。僕は大ばか者ですね」
菊次郎はうなだれた。
「自分ばかり被害者のようなことを言いました。みんなつらいを思いをして生きてきたのに」
今は戦狼の世なのだ。直春が言った。
「謝ることはないさ。俺も故郷の城を一人で逃げ出した時、卑怯者だと罪悪感にとらわれた。だが、俺は死にたくなかったのだ」
直春は夜空を見上げた。昔を思い出したのかも知れない。
「利静殿を死なせず、俺たちも死なないのが最上だ。だが、その道は始めからなかった。人生には最悪の選択肢しかないこともある。それでもどれかを選ばなくてはいけない。それが生きるということなのだ」
「幸せな選択肢ばかりなら人生は楽だよな」
忠賢の口調にはいつもの皮肉が戻っていた。直春は菊次郎をまっすぐに見つめた。
「正しいことをしてもほめられるとは限らない。非難され恨まれることもある。だから、強くなるんだ、菊次郎君。誰に何を言われても、自分はこれを正しいと思ってしたのだ、これが最善なのだと胸を張れるようになれ。もちろん、勝手な思い込みではなく、多くの人が賛同するような根拠があることが前提だがな。その判断が冷静にできて、目の前の都合に合わせて自分の誇りを捨てたり忘れたりしないのが立派な人物だ。知恵は勇気があってこそ生かせるのだ」
つらいことや苦しいことがあると、人はくじけていじけてしまう。しかし、直春さんは決して希望を捨てず、明るさを失わない。親と弟を殺され故郷を失う経験をしても、人を信じ続けようとした。現実に負けず、現実主義・実利主義に走ることが大人で理想を語るのは子供だなどと自己正当化をしない。そういうところが直春さんの器量の大きさなのだ。
「利静さんにも強くならなければいけないと言われました」
「自分のしたことを自覚し、責任を感じるなら、その教訓をあとの人生に生かせばいい。それも勇気であり知恵だ。利静殿のことを忘れず、彼との約束を守り、彼の願いを果たすのだ」
直春の理想の実現を利静は願い、そのために命を失った。
「人生は醜く苦しいものですね」
「そうだな。芝居で見た戦狼の世の始まりの物語も、よく考えれば兄弟が殺し合うつらい話だった」
「でも、あれは面白かったよ。ねっ、真白」
「美しくない人生を美しく描くのが物語なのかも知れませんね」
「今は戦狼の世だ。なおさらだぜ」
忠賢が酒をくいっと流し込むと、直春が言った。
「天下を統一しよう。俺たちの手で」
田鶴は小猿の頭を撫でた。
「それができれば不幸な人が減るかな」
「戦で死ぬ人は少なくなるだろう。もっと豊かで安心して暮らせる世の中になるはずだ。達成できなければ、俺たちは戦を始めた迷惑でわがままな存在で終わってしまう。利静殿の献身を無駄にしないためにも、成し遂げなくてはならない」
直春は菊次郎に体を向けて頭を下げた。
「俺たちがこの国に来てから豊津は随分活気が出てきたと商人たちに礼を言われた。菊次郎君が軍師にならなければ、大鬼家の横暴やあれ以後の戦でもっとたくさんの者が死んでいただろう。君は多くの人を救ってきたのだ。そのことを忘れてはいけない。家臣や領民にかわって礼を言う」
「やめてください。僕は大したことはしていません。戦ったのはみんなですから」
「いや、大したことなのだ。俺は心の底から感謝している」
直春は真剣な顔で言った。
「だから、君は俺が守る」
「直春さん……」
「菊次郎君は俺たちを守ってくれた。だから俺は必ず菊次郎君を守る。何があってもだ」
直春は力強く約束した。
「俺は桜舘家の当主だ。当主は家臣や領民がよりよく生き、よりよく働けるようにするためにいる。菊次郎君も桜舘家の一員だ。かけがえのない友人でもある。だから守る。守って軍師の役目を果たす君を支え、才能を存分に発揮させる。それが俺の役目だ」
菊次郎はまた涙をこぼした。この人には本当に泣かされてしまう。それもこんなうれしい感情で。どんな理屈よりも、この人に信じていると言われる方がずっと自信になった。
「あたしも菊次郎さんを助けるよ。忠賢さんもだよね」
田鶴に同意を促されて忠賢はにやりとした。
「そうだな。こいつに死なれたら桜舘家はやばい。それは困る。だから助けるしかないな」
「何でそういう言い方しかできないの! ひねくれてるんだから」
「猿しか友達がいないやつに言われたくないぜ」
「なにそれ。忠賢さん、時々失礼すぎるよ!」
「おうおう、侍女様は厳しいねえ」
「直春さん、なんとかしてよ!」
直春は笑って聞いていたが、忠賢に言った。
「そろそろ本題を切り出そうか」
「そうだな。お子様をからかうのはこのくらいにしておくか」
「もう十六なんだけど」
田鶴は頬を膨らませたが矛を収めた。
「で、菊次郎、今後のことだが」
忠賢の雰囲気が変わった。まじめな話のようだ。
「俺たちは多くの武者を失った。今すぐに動けるのは留守の連中を入れても三千ちょっとだ。増富家がこの機をのがすはずはねえ。撫菜城へ攻めてくるぜ」
「そうですね。その可能性は高いです」
菊次郎も頭を切り替えた。これは軍議だ。
「采振家を滅ぼして兵力が増えました。新たな領地の平定も一区切りついた頃でしょう。大軍で一気に攻めて寄せて撫菜城を押しつぶし、三家を下し、葦江国にも手を伸ばしてくるかも知れません」
直春が姿勢を正して大将の顔になった。
「菊次郎君。策を立ててくれ。あの城と守っている者たちを救うには君の知恵が必要だ」
「菊次郎さんならできるね」
「頼むぜ、大軍師」
田鶴と忠賢も期待している。
菊次郎は笑った。泣きながら笑った。そして必死で考えた。仲間のために。責任を果たすべき人々のために。
頭の中で状況を整理しながら提案した。
「まず、宇野瀬家に和平の使者を送りましょう。捕虜返還と交易再開の交渉をします」
今、成安家は援軍を送る余裕がない。大敗の影響から立ち直るまで少なくとも半年、もしかすると数年かかるかも知れない。宇野瀬家と増富家、両方と戦うことはできない。
「応じるだろうか」
直春も考えていたようだ。
「はい。追撃は一息村で終わりだったようです。つまり、願空はあの村で負けた時点で、僕たちを壊滅させるのを諦めたのです。かといって、成安家と戦い続けて墨浦に攻め上るのも現実的ではありません。大敗したとはいえ成安家は巨大です。そうやすやすとは滅ぼせません。となると、願空のねらいは北でしょう」
「福値家か」
「僕なら成長著しいあの家がこれ以上大きくなる前に打撃を与えておきたいと考えます。攻め滅ぼすのは無理でも、弱らせないと、成安家と戦になった時に邪魔になります」
「なるほど」
直春は考え込んだ。
「ならば、宇野瀬家は交渉に応じるな」
「生糸や鉄器の値段を元に戻すかより高くすることを要求してくるでしょう。ですが、豊津港が発展しつつあることは知っているでしょうから、交易の拡大の方が利が大きいと説得することは可能だと思います。頼算さんにお任せしましょう」
「萩矢殿か。適任だな」
「で、肝心の撫菜城はどうする」
忠賢も杯を置いている。
「僕が行きます」
「えっ、菊次郎さんが? どういうこと?」
田鶴は怪訝な顔をした。
「僕が撫菜城に急行して城内に入り、防戦の指揮をとります」
「ちょっと待て。守り切れるのか」
忠賢も驚いたらしい。
「守り切ります!」
菊次郎は宣言した。
「利静さんが命を投げ出して守ってくれた桜舘家を、今度は僕が守ります。わずかな土地も奪わせません」
助けられたこの命だ。利静に恩を返すため、自分の可能な限りの力を振り絞ろうと決めた。
「直春さんは決して僕を見捨てません。ですから、僕が入れば城兵は必ず援軍が来ると元気付きます。大敗を知って動揺が広がる前に城兵の覚悟を決めさせ、籠城の準備をして敵を迎え撃ちます。もちろん、作戦の案もあります」
「君が行ってくれれば心強い。しかし、勝ち目はあるのか」
決意は伝わったらしいが、直春は心配なようだ。
「大丈夫です。まだ増富家は狢河原の結果を知らないはずです。敵が動き出すまで数日あります。僕の方が先に入れるでしょう。明日の早朝にここを発って国境の山を越えれば、三日で着きます」
「だが、武者を連れて行くのは無理だぞ。あの山越えの道は馬が通れない。護衛くらいは付けられるが、それ以上は難しい」
「僕一人で行きます。道案内だけ用意してもらえば十分です」
「いや、それは危険すぎる。一度豊津へ行き、忠賢殿と一緒に騎馬隊を率いていってもらおう」
「それでは時間がかかりすぎます。山越えが最短なんです!」
直春は困った顔をした。そこへ庭から声がかかった。
「俺たちがお守りします」
四人の護衛と椋助だった。
「みんな……」
護衛たちは建物の陰から出てきて菊次郎の前の地面に膝をついた。
「冷たい態度をとってしまい、まことに申し訳ありませんでした!」
友茂たちに平伏されて菊次郎は驚いた。
「やめてください。怒ってはいません。僕はみんなに嫌われて当然のことをしたのですから」
安民は大きく首を振った。
「あれは菊次郎様のせいではありません。利静殿が自分で言い出したことです。菊次郎様を恨むのは筋違いです」
則理も地面に這いつくばっていた。
「危険なことは分かっていたのに、俺は利静殿を止めなかった。菊次郎様だけを責めることはできない。それは分かっていたが、怒りのやり場がなかったんだ。本当に申し訳ない」
「俺も同罪だ」
光風も頭を下げたまま言った。友茂が顔を上げて直春に言上した。
「僕たちが菊次郎様を絶対に守ります。利静殿とそう約束しました。利静殿が守ろうとした大軍師様と桜舘家を守りたいんです。国主様の天下統一の目標も全力でお手伝いします。四人の頭も引き受けます。それが利静殿の望みだと思いますから」
「みんな、ありがとう……」
菊次郎は涙をこぼした。今日は泣いてばかりだ。
「では、頼もうか。君たちがいれば安心だ。菊次郎君と共に撫菜城へ向かってくれ」
「はい! 絶対にあのお城を守ってみせます。僕たちがじゃなくて菊次郎様がですが……」
友茂が笑った時、新たな声が庭から聞こえた。
「僕も行きます! 師匠、一緒に連れていってください!」
走ってきたのは直冬だった。
「僕も撫菜城を守ります。狢河原でも一息村でも大きな責任を負ったのは師匠で、僕はあまり役に立てませんでした。今度こそ師匠を手伝います!」
護衛たちと一緒に盗み聞きをしていたらしい。なんと妙姫もいた。
「菊次郎さんは桜舘家を救ってくれました。また夫に会えたのはあなたのおかげです。私からもお礼を申し上げます」
妙姫は深々と頭を下げた。
「出発前、私はあなたに直春様と家臣たちを守ってくれるようにお願いしました。過大な責任を負わせてしまい、申し訳なく思っています。私もできることは何でもしますので指示してください」
菊次郎は姉弟にお辞儀を返して言った。
「ありがとうございます。でも、お二人は豊津城へ戻ってください。撫菜城には景堅さんがいますので、武将が二人になっても混乱するだけです」
「足手まといですか」
少年はがっかりした様子になった。
「いいえ、直冬様はもう立派な武将です。とても頼りにしています。ねっ、直春さん?」
「ああ、狢河原では大した指揮ぶりだった。感心したぞ」
「悪くなかったぜ」
忠賢にまで言われて直冬は顔をほころばせたが、なおも尋ねた。
「では、なぜ駄目なんですか」
「作戦だからです」
菊次郎は答えて、腰の黒い軍配を抜いた。
「では、軍師として献策します」
まず、軍配を総大将に向けた。
「直春さん。茅生国三家にのろしで連絡して、撫菜城へ援軍を要請してください。また、今夜中に伝令を走らせ、明日には豊津城を守らせていた武者のうち一千を撫菜城へ向かわせ、直春さんもすぐに追いかけてください。槻岡親子はこの城の守りを固めさせ、宇野瀬家に備えてもらいます」
「承知した」
「忠賢さん。豊津城に戻って馬と武者を一日休ませたら、明後日の朝、できるだけ多くを連れて撫菜城へ急行してください。直春さんを追い抜いてかまいません。土長城へ入ったらのろしで合図をください」
「心得たぜ」
「田鶴は隠密を使って万羽国と槍峰国の情報を集めて、どんどん撫菜城に届けてください。増富軍の動きと弱点を知りたいのです」
「任せて」
少女は猿を抱いたままにっこりと笑った。
「そして、直冬さん。妙姫様や留守役の蓮山本綱さんと協力して、負傷者の治療と小荷駄隊から武者に昇格した者たちの訓練、失った武器や防具の生産の指揮をとってください。それを五日で終わらせたら、戦える者を全員連れてきてください。それまで撫菜城は落とさせません。また、町衆から兵糧を買い付けて、小荷駄隊を使って土長城へ送ってください」
「はい! 任せてください。姉上と一緒に頑張ります!」
妙姫も微笑んで頷いた。
「この戦いは兵数より早さが重要です。こちらが増富家の侵攻を予測して全力で撫菜城を救援するつもりだと示すのです。それが敵の出鼻をくじきます。一気に攻略するという目論見が失敗すれば、大敗を聞いて急いで出陣してきた敵には大した策はないでしょうから次の手に迷うでしょう。その間に三家と協力して防衛体勢を整えます。長い対陣になるかも知れませんが、城内の武者と協力すれば、敵を追い返すことはきっと可能です」
菊次郎は断言した。これはこうなってほしいという希望ではない。実現させることだ。
「この戦いは総力戦です。使える戦力は全て使います。苦しい戦いになるでしょうが、戦い抜きましょう。僕はこの戦いに勝って桜舘家を守ることを、ここにいるみんなと利静さんに誓います!」
おう、と全員がこぶしを握った。真白もまねをしたので笑いが起きた。
「利静殿がみんなの心を一つにしたんですね」
友茂が笑顔で涙をぬぐった時、大きな泣き声が聞こえてきた。
「誰?」
女の声に田鶴が部屋を通って廊下へ向かい、手を引いて縁側へ戻ってきた。
「雪姫様……」
茶碗蒸しの器が四つのった盆を持っている。厨房を借りて作ったらしい。菊次郎たちに食べさせようとしたのだろう。
「私、全く何にも分かっていなかった。ごめんなさい……」
ぼろぼろ涙をこぼす姫君に、みんなが驚いていた。雪姫は体が弱いのにいつも明るく、滅多に泣いたりしない。侍女の田鶴も目を丸くしている。
「利静さんのために泣いてくれたんですか。ありがとうございます」
菊次郎は立ち上がって近付いた。
「きっと光園で感謝していると思います」
「違うの!」
雪姫は泣きじゃくりながら首を振った。
「私、ずっと自分だけが不幸だと思っていた。全然違っていた。なんて思い上がっていたんだろう……」
「雪姫様……」
田鶴が息をのんだ。
菊次郎は昨年のこの姫君のための料理会を思い出した。雪姫も抗いがたいものと戦ってきた。幼い頃から言い訳したいことや周囲への申し訳なさを抱え、それでもこういう自分であり続けるしかない悲しみを生きてきたのだ。
「菊次郎さん、みんな、本当にごめんなさい」
繰り返される悔恨の言葉に胸が締め付けられた。菊次郎も過去の事件で家族を殺し、左手が使えず、多くの人に助けられながら自分を責め続けて生きてきた。この姫君と似ているのだ。そのことに田鶴も気付いたらしく、二人を見比べて青ざめている。
「謝らなくていいんです。みんな許し合って生きているんです」
「でも、私、姉様や直冬にも謝らないと。きっとひどくわがままだったと思う」
妙姫と直冬は無言で首を振った。菊次郎はどうなぐさめようか考え、茶碗に手を伸ばした。
「これ、食べていいんですね」
「うん……」
雪姫は頷き、しゃくりあげるのをやめて、田鶴に盆を渡した。田鶴は茶碗蒸しを直春と忠賢に渡そうとしたが、直春は盆ごと受け取った。
「みんなで分けよう。よいか」
雪姫が頷くと、直春はさじで木杯に茶碗蒸しを分けていった。妙姫も手伝った。
全員が茶碗蒸しを受け取ると、直春が手を合わせて言った。
「いただきます」
全員が同じ言葉を唱えて茶碗蒸しを口に運んだ。椋助は護衛たちに分けてもらっている。
「とってもおいしいです」
「よかった」
雪姫は人々を見回してようやく笑った。そのまなざしに菊次郎はどきりとした。十五歳の少女の表情には、無垢な子供から大切な何かを理解して大人へ脱皮したような変化があった。
「雪姫様は食べたの?」
田鶴が尋ねた。
「ううん」
「じゃあ、あげる」
侍女は茶碗を渡した。
「まあまあかしら」
自己採点する雪姫に小猿が近寄った。
「真白は駄目」
主人に言われて小猿は残念そうだった。
友茂は相変わらず感激している。
「三回目もやっぱりすごくおいしいです。もう食べられないかと思いました」
他の三人も喜んで味わっている。四人は口にしないが、利静がここにいないことを残念がっていた。
「ごちそうさま」
茶碗が空になると、菊次郎は立ち上がった。
「では、明日、日の出とともに出発します。四人はよく寝ておくように。千本槍城までは馬で、そのあとは山越えです。それからまた馬です。強行軍になるので十分な準備をしてください」
「はい!」
護衛たちが答えた。
「朝ご飯とお弁当を用意しておくね」
田鶴は自分で作るつもりのようだ。
「ありがとう。椋助君を頼むね」
田鶴は首を縦に振って微笑んだ。菊次郎が元気になったことがうれしいらしい。その笑みを見て雪姫がはっとし、菊次郎と田鶴を見比べて言い出した。
「私も料理を手伝う!」
「じゃあ、お願い。朝早いからね」
田鶴は菊次郎をちらりと見たが、姫君の申し出を受け入れた。
「さあ、次の戦です。今度は負けません。いいえ、負けられません。絶対に勝ってみせます!」
自分に託されたものは大きいが、それを拒むことも投げ出すこともしない。菊次郎は負けたくないとこれほど強く思ったことはなかった。
砂鳥定恭は強敵だ。でも、僕は負けない。この素晴らしい仲間がいるのだから。命を投げ出してまで守ってくれる人がいるのだから。もうそんなことをさせずにすむように、知恵と勇気を振り絞ろう。定恭や願空や元尊にはこういう仲間がいるのだろうか。
空になった茶碗に直春が酒を注いでくれた。直冬や姫君たちまでどぶろくをすすり、護衛たちも分けてもらって恐縮していた。忠賢が小猿にやろうとして田鶴に叱られている。
にぎやかな酒盛りを楽しみながら、菊次郎はこの上なく幸福で、この上なく悲しかった。




