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狼達の花宴 ~大軍師伝~  作者: 花和郁
巻の四 知恵者と勇者
35/66

(巻の四) 第五章 追撃

「左の手の森で激しく煙が上がりました! 敵がぎょっとして動きを止めています!」


 友茂が報告した。


「弓隊、斉射!」


 安民が横笛を吹くと、五百本の矢が飛んでいった。

 菊次郎は黒い軍配を大きく振って右手の森の騎馬隊に合図した。


「今です! 忠賢さん、お願いします!」


 森から飛び出した忠賢は馬上で槍を掲げた。


「行くぞ、お前ら!」


 騎馬隊三百が敵の側面へ突っ込んでいく。急な矢の一斉射にひるんでいた敵武者たちは慌てふためいている。


「よし、俺たちも突撃だ!」


 直春が駆け出し、徒武者五百が続いた。


「ちいっ、また罠か! 全員引け! ここは引くのだ!」


 俵子(たわらこ)充日(みつてる)が叫ぶと、宇野瀬家の追撃隊三千は一斉に狸塚城の方へ逃げていった。

 敵を追い散らして数人を突き伏せた忠賢は、部隊をまとめて戻ってきた。


「これでしばらく時間が稼げるだろ」

「ありがとうございます。怪我はありませんか」

「こんな戦で怪我なんかするかよ」


 口ぶりは変わらず元気そうだが、表情にはさすがに疲れが見えていた。


「すまない。騎馬武者にばかり働かせてしまう」


 槍隊に行軍再開を命じた直春がやってきた。


「おかげで俺たちはあまり戦わずにすんでいる。馬にも負担が大きいだろう」

「いいってことよ。あいつらを追っぱらわなけりゃ、俺たちも逃げられねえからな」


 忠賢は笑った。


「それに俺たちには大軍師様がいる。いなけりゃもっとひどいことになってたろうさ。余った煙玉を燃やして伏兵と思わせて仰天させるってのは楽でよかった。やっぱりお前は知恵者だな」


 菊次郎に片目をつむると、忠賢はぞろぞろと歩いて行く徒武者の横を抜けて、前の方へ駆けていった。負傷したり馬が疲れたりした騎馬武者は先頭を進んでいるのだ。


「これで三度目ですね。一旦引いたようですが、油断はできません」


 狢河原から北へ向かい、葦貉街道に入ろうとした桜舘軍は、俵子充日隊三千の追撃を受けた。合戦で菊次郎の策に潰走し、武者を集めて態勢を立て直していた彼等は、桜舘軍が撤退していくのを見て復讐とばかりに追いかけてきたのだ。

 狸塚城の付近、葦狢街道の入口、少し進んだ辺りと三度襲撃された。菊次郎は負傷者を小荷駄隊や騎馬隊に運んでもらい、無事な武者たちは弓と槍の二隊に分けた。

 敵が接近してきたら引き寄せておいて急に反転し、矢を浴びせてひるませ、側面を騎馬隊に突かせる。この方法は有効で、全て撃退に成功した。追撃戦となると敵も陣形をしっかり組んで追ってくることは難しく、騎馬隊の突撃を防ぐすべを持たなかったのだ。先頭が崩れて敗走すると、勇んで駆けてくる後続の武者たちとまじり合って混乱し、そこへ直春率いる槍隊が突っ込むと一斉に逃げていく。

 しかし、背後から矢を射込まれ、徒武者同士の乱戦や騎馬武者の反転攻撃を繰り返すたびに、桜舘軍の死傷者は増えていった。直春は逃げられないと思ったら帯を差し出すように武者たちに伝えていたが、その場合、身代金を要求され、大きな金銭的負担が発生する。そのあとの生活を思えば捕まるのは避けたいのは皆同じで、重傷を負っても無理して逃げようとする者が多く、それが桜舘軍の行軍速度を遅くしていた。


「本当に追ってこないな。引き上げたようだ」


 直春が顔を明るくした。さすがの彼も、この状況では表情が陰りがちだったのだ。


「なぜでしょう。理由が分かりません」


 菊次郎は安心できなかった。自分ならここで桜舘軍を見逃すことはない。成安家より警戒すべき相手だと武虎や願空は思っているかも知れない。しばらく動けないようにたたいておき、できれば名君・名将・大軍師の誰か一人でも討ち取ってしまいたいだろう。


「きっとまた追ってきます。もしかすると他の部隊と追撃を交代したのかも知れません」


 俵子隊は戻って一休みし、別な元気な部隊が追ってくる可能性がある。

 そう話すと、直春も分かっている様子だった。


「それは十分あり得るな。今のうちにできるだけ先へ進もう。村に帰れば味方がいる。飯も食える。とにかくそこまでたどりつくことだ」


 それを聞いて、友茂がつぶやいた。


「そういえば、お腹空きましたね」


 友茂は顔を上げて仲間たちの視線に気が付き真っ赤になった。


「す、すみません。疲れているのはみんな同じなのに」

「いいんですよ」


 利静が言い、他の三人も微笑んだ。菊次郎もつられて顔をほろこばせると、友茂は照れたように笑った。

 昼前に合戦が始まって以降、桜舘軍は腰を落ち着けて休息をとれる状態になかった。撤退中は半刻ごとに小休止し、その時に腰にくくり付けていた握り飯を口に押し込んだが、激しい戦いに続いて長距離の移動で、菊次郎も腹が減り始めていた。


「さあ、進もうか」


 直春はそばを歩く傷付いた武者に声をかけ、恐縮するのを無理に馬に乗らせて手綱を引いた。菊次郎の馬には安民が乗っている。流れ矢が左腕に当たったのだ。

 葦狢街道は通商用の道で多数の荷車が通るだけに、幅も広く石畳で舗装されている。両側は田園風景が広がっているが、先の方はそれが次第に狭まっていく。森の中の一本道になったら騎馬隊での側面攻撃は難しいので、ここで襲われなくてよかったと菊次郎は思った。


「この先に橋があります。それを焼きましょう」


 菊次郎は直春に提案した。


「浅瀬なので歩いて渡れますが、少しは時間が稼げるでしょう」


 承認を得ると、友茂を先に走らせた。忠賢と直冬に伝えるためだ。

 そうして、歩くこと数刻、そろそろ日が傾き始めた頃、浅瀬新橋に到着した。


「やっと来た。直春さん、菊次郎さん!」


 手を振っているのは田鶴だ。小猿を肩に乗せている。隣に椋助(むくすけ)もいた。


「心配になって迎えにきたの。この子もどうしてもついてくるって言うから」


 短刀で刺される危機を教えてくれた少年は、利静に駆け寄ってうれしそうに笹の葉の包みを渡した。


「おにぎり作って来た。直春さんの分もあるよ」

「丁度腹が減っていたのだ。だが、武者たちの前だ。村に着いてから頂こう」


 菊次郎たちも一個ずつもらって腰に付けた。


「椋助君も包むのを手伝ったのよ」

「おいしそうですね。元気が出ます」


 利静にほめられて少年は喜んでいた。菊次郎を助けられたのはこの子のおかげだと利静は感謝し、小屋に泊めてやっていた。田鶴も戦災で家族と離れ離れになったと聞いて哀れんで可愛がった。椋助も右手の使えない利静をよく助けていた。


「怪我をしたの?」


 安民の左上腕に包帯が巻かれているのを見て、田鶴が悲しげな顔をした。


「平気です。これくらい」


 安民は無事な右腕をぐるぐる回して見せたが、空元気なのは丸分かりだった。


「無理をしちゃ駄目。怪我人は大人しくするのも仕事だよ」


 安民にやさしく注意して、田鶴が言った。


「火の準備はできてるよ。橋のあちこちに油をまいておいた」

「ありがとう。直春さん、すぐに焼きましょう」


 もともとこの橋には万一の時に焼き落とすため、油の樽を置いてあった。直春は分かっているという顔で声を張り上げた。


「橋を焼くぞ! 早く渡れ!」


 武者たちが足を速めて橋に入っていく。菊次郎たちも対岸へ向かった。


「そう言えば、一つ心配なことがありました」


 橋の上を歩きながら、菊次郎は下流を眺めた。


「一息街道にもつり橋があります。あれも落とさないといけません」


 一息街道は一息村の少し手前で葦貉街道に合流している。つまり、あちらの道を通れば菊次郎たちの前に出ることが可能なのだ。もし先行されて道を塞がれたら万事休すだ。背後からくる敵部隊と街道上で挟撃されて逃げ場を失う。桜舘軍は壊滅し、直春や菊次郎、直冬や田鶴たちも命を失うかも知れない。


「だが、あちらにも油は置いてあるはずだ。見張りの兵も配置してある。もう指示が伝わって落としてあるのではないか」


 直春が言うと、椋助が首を振った。


「まだあります」

「どうして分かるのですか」


 友茂の疑問に田鶴が答えた。


「この子はさっき、橋のそばの高い木に登ったのよ。そろそろ帰ってくるかなって」


 田鶴と椋助は敗北を知らせる伝令が来ると、居ても立ってもいられず、橋まで来たらしい。それで、木に登って遠くを見たという。


「もし焼かれていないとしたら、かなりまずいです」


 菊次郎は青ざめた。


「確かめないといけません。また木に登ってもらえますか」


 椋助は頷いて対岸まで走り、橋のそばの一番高い木にするすると登っていった。小猿がうれしそうに追いかけ、木に飛び付いてどんどん上がっていく。

 菊次郎たちが根元で見上げていると、少年は真白と一緒に木から降りてきて報告した。


「やっぱりまだあります。煙も見えません」


 友茂は不思議そうな顔をした。


「人影がありませんでしたか」

「橋の上には誰もいないようでした」

「それはおかしいですね」


 菊次郎は嫌な予感がした。


「敵の軍勢は見えましたか」

「はい。街道をこっちへ進んできています」


 護衛たちが顔を見合わせた。


「馬に乗っていましたか。歩いていましたか」


 分からないかなと思いながら菊次郎が尋ねると、椋助ははっきりと答えた。


「みんな馬に乗っています」

「騎馬隊です!」


 友茂が震える声を出した。利静も深刻な顔になった。


「それはまずいですね。先回りされるかも知れません」


 菊次郎は少し考えて、直春に提案した。


「僕が行って燃やします」

「菊次郎君がか?」


 直春は驚いた。


「彼等を連れて行きます」


 五人の護衛たちは顔を見合わせたが頷いた。この任務の重要さが分かったのだ。


「君は俺のそばに必要だ。また敵が来るかも知れないのだぞ」

「ですが、あの橋を渡られてしまったら僕たちはお終いです。絶対に焼かなくてはなりません」

「だが、どうやって行く。馬で駆け付けるなら騎馬武者に行かせた方が早い」

「舟を使います」


 菊次郎が指差したのは、橋のそばの河原に引き上げてある一艘の釣り舟だった。菊次郎を襲撃した暗殺者たちが逃げる時に使ったものだろう。浅瀬の橋で乗り捨てて葦狢街道を逃げたのだ。


「あれで川を下ればすぐです。敵の騎馬隊より早く着くことができます。橋にいる武者たちと協力して焼き落とし、一息街道から戻ってきます」

「ならば馬廻りを向かわせよう。君が行く必要はない」


 直春はなおも反対したが、菊次郎は説得した。


「いいえ、僕が適任です。あの橋にしかけをしたのは僕ですから、どこに何が置いてあり、どこに火を放てば燃えやすいかよく分かっています。勝手の分からない武者を行かせるより早いです。それに、あの小舟にあまり大勢は乗れません。軽装の僕たち四人で行くのが丁度よいのです」


 則理と友茂と光風を指さすと、抗議の声が上がった。


「駄目です。私も行きます」

「俺もです」


 利静と安民だった。


「私の仕事は菊次郎様の護衛です。同行してお守りします。盾くらいは持てます」

「俺だけ仲間はずれですか。お邪魔にはなりませんから、連れて行ってください」


 二人は傷付いた顔をしていた。菊次郎は困ったが、直春は少し考えて許可を出した。


「分かった。菊次郎君に行ってもらおう。君たちが一緒なら安心だな」

「はい!」


 二人は元気よく答えた。これはもう断れない。


「二人は船で留守番です。作業は僕たちがやります」


 そう釘を刺したが、その約束が守れるかは菊次郎にも分からなかった。人手が必要になって怪我人にも働いてもらうことになるかも知れない。


「じゃあ、あたしも行く」

「僕も行っていいですか」


 田鶴と椋助まで言い出した。


「いいよね。直春さん」


 直春は一瞬迷う顔をしたが受け入れた。


「分かった。彼等を守ってくれ。最悪、橋は落とせなくても、菊次郎君たちを無事に連れ帰ってほしい」

「うん。任せて。妙姫様や雪姫様を泣かせたくないもの」


 直春は妹を見るようなやさしい目をしていた。


「もちろん田鶴殿も無事に戻ってきてほしい。家族だからな」

「分かってる。絶対一緒に帰るから」


 利静が誓った。


「国主様、心得ております。必ず当家の大軍師様をお守り致します」

「頼んだぞ」


 直春は利静の肩をたたくと、そばにいた武者に命じた。


「橋はまだ焼くなと伝えてくれ。大軍師たちが川を下ってからだ」


 菊次郎も言った。


「焦げた木の棒が流れればこの橋が焼かれたと分かります。もしつり橋に敵がいた場合、こっちも落としにくるだろうと警戒を強められて、僕たちがやりにくくなります。誰かを木に登らせて、下流で煙が上がったら火をつけてください」

「はっ!」


 武者は走っていった。


「十分に気を付けてくれ。俺たちは村で待っている」


 直春は馬廻りと共に一息村の方へ去っていった。


「では、行きましょう」


 菊次郎たちは河原に下りて船に近付いた。


「十分使えそうですね」


 数日前の雨が舟底にわずかに残っていたが、特に問題はなさそうだ。操るための(さお)も中に放り込んであった。


「随分行儀のよい暗殺者だね」


 則理が笑って棹を取り上げた。


「こういうのは得意だよ」


 子供の頃、親に連れられてよく川に釣りに行ったらしい。

 みんなで小舟を川の方へ動かして水に浮かべた。菊次郎たちが中に座ると、友茂と光風が最後の一押しをして飛び込んできた。


「さあ、出発だ」


 則理は棹を操って小舟を流れに乗せた。


「岸に近いところをゆっくり進んでください。もし橋に敵がいた場合、見付かりたくありません」

「了解」


 菊次郎の指示通り、則理は舟底をすらないぎりぎりの浅さを通って下流へ向かった。


「おにぎりを食べておきましょう」


 菊次郎が笹の葉の包みを取り出すと、他の人たちもそれにならった。

 川は大きく蛇行していて先が見通せない。両側は大人の背の五倍ほどの断崖だ。下に狭い河原があるが、上へ登るのは大変だろう。


「かなり深そうですね」

「そうだね。鎧武者は頭まで沈むだろうね」


 友茂に則理が答えている。


「崖を上れそうな場所を探してください」


 他の人たちに頼んで、菊次郎は川下をじっと見つめていた。


「この辺りで一度止まりましょう」


 やや広い河原に船を寄せてもらい、菊次郎は友茂を降ろした。そろそろつり橋が近いので、崖の陰から先の様子をうかがわせるのだ。


「いました。敵兵です!」


 友茂が走って戻ってきた。


「橋の上に宇野瀬軍と思われる鎧武者が三人いました。橋の下の河原に武者の遺体が複数あります。多分、橋にいた見張りです」


 つまり、橋は敵に占拠されているのだ。嫌な予感が当たってしまった。


「敵武者の数は」

「こちら側の岸辺へ話しかけていました。多分、橋の入口に仲間がいるんだと思います」 

「村から橋を落としにくる者に備えているってこと?」


 則理が驚いた。


「そこまで読んでいるんだ。まずいね。誰がそんな命令を出したんだろう」


 菊次郎は武虎ではないかと思ったが、口には出さなかった。彼の手下は村に出入りしていたから、二つの橋の存在を知っているはずだ。桜舘軍を追撃する場合を想定して落とされる前に橋を確保せよと指示を出すなんて、普通の武将は思い付かないだろう。菊次郎を生かして帰さないという武虎の強い意思が感じられた。


「どうしますか」


 尋ねた友茂の様子で、菊次郎は自分が深刻な顔をしていたことを知った。


「とにかく船を下りましょう」


 全員を岸に上がらせ、目がよい光風に崖を登らせて物見に出した。その間に敵武者に見付からないように注意しながら船を河原に引き上げさせた。

 しばらくして光風が戻ってきた。その報告を聞いて菊次郎は考え込んだ。


「十五人……」


 武虎はそれだけの数の武者を先行させたのだ。橋の前に十人、橋の上に五人いるという。菊次郎たちは八人だが、そのうち二人は怪我人で、菊次郎と椋助は戦力にならない。

 菊次郎の頬を汗が流れた。最も暑い時間は過ぎたが、吹く風はまだ秋よりも夏の気配を色濃く残している。

 護衛たちが菊次郎に注目している。田鶴と椋助も黙って見つめていた。

 どうするべきか、答えは分かっていた。だが、決心が付かなかった。


「迷っておいでですか」


 利静が静かな声で尋ねた。何も言えないでいると、それで答えを知って、護衛五人の頭は進言した。


「私が行きます」

「えっ?」


 菊次郎は勢いよく顔を上げた。


「敵の騎馬隊に橋を渡らせてはなりません。味方を葦江国へ帰すには、先回りされるのを防がなくてはなりません」


 利静の目は全てを分かっていることを告げていた。


「橋を落としましょう。私が橋まで行って火をつけます。他に方法はありません」


 橋をつるしている太い綱は刀では切れない。油をかけて燃やすのが手っ取り早い。菊次郎もそう考えて、橋の両岸に油を用意させてある。しかし、実行は困難だった。


「駄目です。橋には敵がいます」


 太い綱はとても高い柱に支えられている。綱の先端は崖のさらに上にある大岩に結ばれているが、崖をよじ登るのは相当難しいし必ず見付かる。岩のところへ先回りされたら終わりだ。菊次郎たちがいることも気付かれて襲われるかも知れない。だから、綱に火をつけるにはどうにかして橋に近付く必要がある。


「絶対に邪魔されます。敵の武者が黙って見ているはずがありません」

「他の人がおとりになって引き付ければよいのです。まず二人が橋に接近し、矢を射込みます。武者たちは追ってくるでしょう。さらに二人で襲撃し、残りと橋の上の者たちをこちらの岸に引き寄せて逃げます」

「でも、それだと橋の入口にまだ武者が残っている可能性がありますよ」


 友茂が指摘した。


「そうです。ですから、火をつける役は対岸から橋へ入るのです」

「えっ、火をつけたあと、どうやって逃げるんですか」


 友茂は驚いた。橋のこちら側には武者がいるから対岸で孤立する。


「河原に下り、船で迎えに来てもらえばよいのです」


 利静はこともなげに言った。


「担当はこうなります。最初に襲撃するのは光風殿と安民殿。二度目は申し訳ありませんが、弓のお上手な田鶴様と友茂殿。則理殿と椋助君はこの船に残って菊次郎様の護衛と船の番。となると、橋に火をつけるのは私になります……」

「待ってください!」


 菊次郎は思わず割り込んだ。


「その役目は一番危険です。右手に怪我をしている利静さんは武器が使えません。武者に襲われたらどうするのですか」

「戦わずに逃げます」


 利静は即答した。


「どのみち一人では多数の敵に囲まれたらお終いです。敵の武者を殺すことが目的ではないですから、火をつけたらさっさと逃げ出します。これでどうですか」


 落ち着いたむしろ明るいくらいの口調で言われて、菊次郎は絶句した。利静は死を覚悟しているのだ。その上でやると言っている。


「駄目です。あなたは怪我人です。片手しか使えません。火は僕がつけます」


 菊次郎が言うと、利静は怖い顔をした。


「何をおっしゃるのですか。あなたは大軍師様です。桜舘家の全員を守るのが仕事ですよ!」


 利静は菊次郎より七つも年上だが、主君を叱りつけたのはこれが初めてだった。


「国主様に言われました。菊次郎様を絶対に生かして帰してほしいと。私は必ずそうすると誓いました。あなたは桜舘家と国主様に必要なお方です。生きなくてはいけません。そのためにも、あの橋を落とさなければなりません」


 平素おだやかな利静の厳しい口調に、護衛たちは呆気にとられている。


「菊次郎様は船に残ってください。危険なことは私たちがします。一番危ないことは最年長の私のつとめです」

「もしかして、生きて戻らないつもりなのか」


 則理があえぐように言った。他の四人も顔色を変えた。


「死ぬと決まっているわけではありません。無事に逃げられる可能性もあります。危険が一番大きいというだけです」


 利静は淡々と言った。


「私が最も適任なのです。他の人の配置は変えられません。矢を射ることも武器を使うこともできない私にも、火をつけることはできます」


 四人は反論しようとして言葉が出なかった。


「それに、私はもう武者として終わりです。豊津に帰ったらお暇を頂こうと思っていました。死んでもかまわない人間なのです」

「嶋子さんはどうするんですか! 小太郎君も!」


 菊次郎は思わず叫んだ。


「利静さんは僕を暗殺者から救ってくれました。命の恩人です。あなたに死の危険を冒せなんて……!」

「声を抑えてください。敵に聞こえますよ」


 利静はあくまで冷静そうに振る舞った。


「菊次郎様の使命はあの橋を落とし、生き延びることです。私の使命はあなたを守ることです。それにはこれしかありません」

「ですが……」

「私が救った命を大切にしてください。絶対に生き延びてください」


 沈黙が流れた。七人は恐ろしい顔をし、利静だけがかすかに微笑んでいた。

 安民が一歩前に出た。


「俺にやらせてください。怪我をしていて足手まといになっています。橋に置いていってください」

「いいえ、僕が行きます。最年少で一番役に立たないですから!」


 友茂は泣きそうな顔だった。


「利静殿には僕が一番お世話になっています。恩返しさせてください」


 則理と光風も申し出た。


「俺が行くよ。船の番は利静殿がすればいい」

「俺がやる。それがいい」

「みんなありがとう。でも、私が最も適任です」


 利静はにこやかに断った。


「安民殿は怪我をしたばかりで動きが鈍っています」

「そんなことは!」

「負傷したのは腕でも、痛みで走るのさえつらいはずです。敵を引き付けて逃げるだけで精一杯でしょう。私の方がまだ動けます」


 利静は安民の反論をまなざしで封じた。


「則理殿、菊次郎様をお願いします。他にも敵武者がいる可能性があります。しっかりした人に守ってもらいたいのです」

「利静殿……」


 則理はうなだれた。


「矢を射る役は光風殿と田鶴様しかできません。可能なら二、三人倒してくれるとみんなが助かります。他の人では駄目なのです」

「火矢を作ったらどう? あたしなら舟からでも当てられると思う」


 田鶴が提案した。矢筒は背負っているが、火矢は入っていないという。


「即席の火矢は確実ではありません。消されてしまう可能性もあります。油を使う方が失敗しません。でも、ありがとうございます」


 田鶴は涙を浮かべていた。小猿も何かを感じたらしく、少女に強く抱き締められてもじっとしていた。


「そして、友茂殿。あなたは私たちの中で一番賢く勇気があります。きっと菊次郎様のお役に立つ立派な武者になります。あなたにも生きてもらいたいのです」

「菊次郎様に必要なのは利静殿です! 僕よりずっと有能です!」

「友茂殿はまだこれから伸びます」

「でも、利静殿は僕たち五人の頭なんですよ! 僕はまだ半人前です。利静殿がいないと駄目なんです!」


 友茂は歯を食いしばって必死に涙をこらえていた。


「じゃ、じゃあ、僕が……」


 椋助が手を上げると、全員が首を振った。


「あなたはまだ子供です。ここに連れてくるべきではありませんでした」


 この意見に反対する者はいなかった。


「菊次郎様、よろしいですね。私が行きます」

「ですが……」


 菊次郎はなおも止めようとしたが、それを利静はさえぎった。


「犠牲を恐れては何もできません」


 最年長二十五歳の青年は、年下の主君に言い聞かせた。


「あなたは強くならなくてはいけません。国主様のために。ここにいる人たちのために」


 利静の言葉は遺言のように聞こえた。


「以前も申し上げましたが、私は国主様の理想と目標に心から賛同しています。菊次郎様と国主様と桜舘家なら可能だと信じていますし、お役に立ちたいと思っていました。お二人は私が命をかけて守るに値する方々です。必ず天下を統一して平和な世を築いてください。私の妻と息子のために」


 重い沈黙が流れた。


「時間がありません。敵の騎馬隊が来てしまいます。ご許可をください」


 菊次郎はうつむいた。拒否の言葉がのど元まで出かかったが無理に腹の中へのみ込んだ。


「分かりました。利静さんが橋を燃やしてください」


 驚くほど冷静な声が出る自分が心底厭(いと)わしかった。


「天下はきっと統一します。約束します。利静さんの勇気を無駄にはしません」

「菊次郎さん!」


 田鶴は非難する口ぶりだった。


「こんなの駄目だよ。止めてよ!」

「他にもっといい考えがあるはずです。菊次郎様なら思い付きますよね」


 友茂の懇願するような言葉に菊次郎は(かぶり)を振った。


「これが最善です。僕も同じことを考えていました」

「それは大軍師様としての判断なんですか」


 安民は明らかに否定することを望んでいた。


「そうです。桜舘家のため、国主様のためです」

「そうなんだ。じゃあ、従うしかないね」


 則理の声は冷え切っていた。光風もとても不満そうだった。


「みんな、菊次郎様を頼みます。必ずお守りし、国主様のもとへお連れしてください」


 利静は他の六人に頭を下げた。


「もし私が戻らなくても菊次郎様を恨まないでください。これまで通りお仕えしてください」


 護衛四人は顔を見合わせたが、渋々という様子で誓った。


「分かった」


 則理の声には激しい怒りがにじんでいた。


「約束します」


 安民は必死で悲しみを抑え込もうとしていた。


「それが利静殿の願いなら」


 光風も硬い顔で頷いた。


「それはもちろん誓いますけど、本当に行くんですか。やめませんか。戻って無理でしたと報告して、騎馬隊に勝つ方法を考えましょうよ。ねっ、そうしましょう」


 言い募る友茂に、則理が言った。


「俺たちは菊次郎様の家臣だ。主君の命令には逆らえない」

「でも……!」


 友茂は仲間たちの顔を見て絶句し、唇をかみしめて泣き出すのをこらえた。田鶴は涙を浮かべて菊次郎をじっと見つめていた。


「利静様」


 椋助が両手で腕をつかんですがるようにすると、利静はその頭を撫でて、菊次郎に言った。


「この子のことを頼んでもよろしいでしょうか」

「安心してください。椋助君も命の恩人です。必ず守り、最後まで面倒を見ます」


 言いながら、菊次郎は自分の口を殴りたくなった。


「さあ、取りかかりましょう。あまり時間はありません」


 利静の言葉で八人は戦闘に頭を切り替えた。実質五人で十五人を相手にするのだ。利静以外の者も安全というわけではない。


「みんな、作戦は頭に入りましたね」


 菊次郎は無理に気持ちを押し殺して淡々と手順を指示した。利静の案に変更すべき点はなく、付け加えたのは敵を襲撃する位置や引き付けて逃げる方向と集合場所の確認だけだった。


「では、行ってきます」


 三人の護衛は一人ずつ利静の手を握り締め、菊次郎に頭を下げて去っていった。田鶴は何か言いたげだったが、結局無言で小猿を肩に乗せ、弓を手に背を向けた。


「私たちは舟です。則理殿、頼みます」


 菊次郎たち四人は小舟を川に戻して乗り込んだ。

 対岸に着くと利静は飛び降りた。


「無理だと思ったら逃げな。絶対に拾ってやるから。逃げられなかったら帯を差し出せ。買い戻してやる」


 則理は利静に手を差し出した。それをぎゅっと握り返して利静は微笑んだ。


「菊次郎様を頼む。椋助君と田鶴様と他の三人も」

「分かっている。命を大切にしろ」


 利静は菊次郎に体を向けた。


「行ってきます」


 菊次郎は何も言えなかった。ただ深く頷いた。

 利静は崖を見回し、慎重によじ登っていった。

 利静の姿が森の中に消えると、菊次郎は則理に言った。


「僕たちも橋に近付きましょう。舟が必要になるかも知れません」


 則理は頷き、棹を操って小舟を少しずつ下流へ進ませた。



「準備はよし」


 利静はつぶやいた。

 手の中には火種がある。細い縄の先に火をつけてゆっくり燃えるようにしたものだ。軽装鎧の腰には五つの油玉があった。仲間たちからも借り受けたのだ。


「あとは油か。菊次郎様のお話ではあの辺りに……」


 周囲を警戒しながら慎重に森の中を進んでいく。左右をよく見て敵の武者がいないことを確認し、森の端へ近付いた。一息街道へ出るぎりぎりの茂みに身を隠して道の反対側へ目を凝らす。


「あの(たる)だな」


 向かいの森の中に米俵ほどの大きさの樽が二つ、葉のついた木の枝で覆って隠してある。菊次郎の話では、盗まれないように材木の柵で囲ってあるそうだ。相当重そうなので、持ち上げて柵の外に出すのは無理だろう。しかも、藁縄で厳重に縛ってふたを開けられないようにしてあるという。通りすがりの人に中身を持っていかれたら困るからだ。


「思ったほど太い縄ではないようだな」


 利静は腰の長刀を手で撫でた。縄を切るには向いていないが仕方がない。菊次郎に短刀を貸そうと言われたが断った。主君から唯一の護身用の武器を奪うわけにはいかない。


「油を入れるものは」


 目を凝らすと、樽の上に木のひしゃくが五本あった。


「あれでは大した量は運べないな。でも、ほかに手段はないか」


 つり橋まで二十歩ほどの距離だ。走って往復しても十分な量の油をかけるには時間がかかりそうだ。

 不安が膨らんでいく。利静は両腕を大きく広げて深呼吸した。


「心を落ち着けよう。焦っては駄目だ」


 利静は懐から妻が持たせてくれた薬の飴を取り出し、口に一つ放り込んだ。


「嶋子は許してくれるかな」


 口に広がる甘さが胸に突き刺さった。


「いけない。気持ちを引き締めないと。そろそろだろうか」


 対岸へ目を向けた時、橋の向こうで大きな悲鳴が聞こえた。さらにもう二つ断末魔のような苦しげな声が上がった。光風の矢が三人に当たったのだ。

 男の叫ぶ声がいくつも起こり、橋から村の方角へ遠ざかっていった。


「まずは成功のようだね」


 つぶやいて光風と安民の身を案じた時、新たな悲鳴が聞こえてきた。今度は二つだ。二度目なので敵武者の反応が早かったようだ。今度は下流の森の中へ怒りに満ちた複数の叫び声が消えていった。


「どうか無事に逃げ延びてくれ」


 少女と少年の無事を祈っていると、騒ぎを聞きつけて橋の上にいた五人の武者が対岸へ走っていった。


「よし、行こう」


 自分に声をかけて利静は森を飛び出した。すぐに向かいの森に駆け込んで橋の方を見たが、こちらへ向かってくる様子はない。見られなかったようだ。


「今のうちに」


 樽に近付き、火種を土に置いた。刀を抜いて藁縄を切る。のこぎりのようにこすり、細くなったら力を入れて引きちぎった。


「えいっ!」


 抑えたかけ声をかけて、刀の(つか)の先端で樽のふたを割った。


「よかった。油はちゃんとある」


 もし油がなくなっていたら作戦は実行不可能だった。少しほっとして刀を鞘に戻し、左手でひしゃくを取って油をすくった。


「小さすぎる」


 水瓶で使うようなひしゃくだった。利静は右手でも握ってみて、痛みに顔をしかめた。怪我のせいで握力が弱く、ひしゃくをうまくつかめない。片手では一本しか持てない。


「往復していたら見付かる可能性が高いな。どうしようか」


 考え込んだ時、東の方角で馬のいななきが聞こえた。


「誰か来たのか」


 急いで森の端まで行って木の陰から道の先を見ると、騎馬武者の列が進んでくる。敵の騎馬隊の先頭が現れたのだ。


「まずい」


 利静は樽のそばへ走って戻り、少し考えると、口に残っていた飴の欠片を吐き捨てた。火種を拾って腰に挟む。

 樽に口を付け、油を吸い込んだ。口がいっぱいになると、両手で皿を作ってすくった。そのまま森を駆け出て橋に向かった。


「おい、あいつは何だ。こら、止まれ!」


 敵の武者が叫んでいるが、無視して走り続けた。馬の足音が早くなった。

 口を塞がれていて息が苦しい。橋にたどり着いて振り向くと、敵はすぐそばにいた。

 ここでは駄目だ。

 利静は再び走り出した。橋に入ってどんどん奥へ進んでいく。敵の武者はつり橋の前で馬を下りて追いかけてきた。対岸からも、騒ぎに気付いた武者が向かってきていた。

 挟み撃ちにされる、その数秒前に、利静は橋の中央にたどり着いた。

 ここだ。

 ぶうっと思い切り油を吹き出し、橋をつっている太い綱にかける。両手の油もその上にまき、濡れた手をこすりつけた。


「何をしている! 手を上げろ!」


 追い付いた敵兵が刀を抜いた。両側からそれぞれ三人ずつ、もう逃げられない。


「お前たちは渡らせない!」


 利静は叫んだ。


「吼狼国の平和な未来を守る! 妻と息子のために!」


 利静は武者たちがひるむほどの大声を張り上げると、火種を腰からはずして両手で握った。

 すぐに両手は炎に包まれた。激しい痛みを感じながら、五つの油玉を取り出し、火を移して敵武者に投げ付けた。油がはねた鎧が燃えだし、どんどん広がっていく。

 利静は笑った。


「この橋は、私が落とす!」


 言うなり、橋を支える太い綱を両手でぎゅっと握り締めた。橋の欄干がわりの縄に胸を押し付けて体の火を移す。


「油? お、おい、やめろ!」

「早く殺せ!」


 背中に刃が突き刺さる。さらに一撃。


「ぐおっ!」


 鋭い痛みとともに、大量の血が流れ出していくのが分かった。


「捕まるものか!」


 怒鳴りながら、利静は橋の欄干の縄に足をかけて太い綱によじ登った。


「とりゃあ!」


 利静は思い切り綱を蹴り、空中に飛んだ。そして、川へ頭から落ちていった。


「菊次郎様、役目は果たしました」


 落下しながら、利静はつぶやいた。

 大軍師に仕えたことは自分にとってよかったのか悪かったのか。そんな疑問が頭に浮かんだが、すぐに首を振った。あの人は英雄だ。仲間も皆素敵な人たちだ。それが間違っていたなんて考えたくなかった。


「嶋子、小太郎、すまない……」


 水に触れた瞬間激しい衝撃に襲われて、利静は気を失った。



 菊次郎は利静を下ろしたあと、橋から見えないぎりぎりのところで小舟を止め、則理を残して椋助と二人で河原に上がっていた。

 うまく行くだろうか。

 崖の陰から様子をうかがいながら、菊次郎は熱を出した時のようにじっとりと汗をかいていた。胸がずっとどきどき鳴り続けている。緊張もあるが、半分以上は罪悪感と恐怖だった。

 命令した僕が動揺してどうする。さっきの二組の襲撃はうまく行ったようだったじゃないか。

 そう自分に言い聞かせたが、呼吸が苦しい。空気が足りないようにあえぎたくなるのを、椋助がいるので必死に我慢していた。


「友茂さんは立派だ」


 霧前原の合戦のあとの追撃戦が思い出された。二つ年下の少年が瀕死の増富家の武者を楽にしてやるの見て、菊次郎は直春と人を殺す覚悟について話をした。


「僕には全然そんな覚悟はなかったんだ。安全なところから、これは戦だから仕方がないと目を塞いで、自分の責任からずっと逃げてきたんだ」


 今日の昼の合戦でも味方と敵の多くの武者が傷付き命を失った。菊次郎の作戦の結果だ。それは仕方がないと諦められたのに、利静がもし死んでしまったらと思うと心臓が止まりそうになる。随分勝手だと自分に呆れる。

 菊次郎が震え出しそうな寒気と汗の不快感に耐えていると、椋助が振り向いた。


「菊次郎様、橋のこちら側で敵が騒いでいます」


 はっとして顔を上げると、対岸から橋の中へ利静が走り込んできた。


「追われています。敵は三人? あっ、こっちからも。挟まれます!」


 少年の言ったことを菊次郎も確認し、状況を察した。

 敵の武者が対岸にもいたんだ。

 その可能性は考えていた。利静の策を聞いた時、口に出かかった。しかし、彼の覚悟を聞いて、胸のうちにしまいこんでしまった。

 やっぱり僕のせいだ。

 泣き出したくなるのをこらえ、椋助を促して小舟に走った。


「舟を出して!」


 叫ぶと、則理はすぐに小舟を水の方へ押し始めた。動き出す直前に菊次郎たちはぎりぎりで飛び乗った。


「橋に近付いてください。利静さんを助けます。慌てないで。通り過ぎてしまわないように」


 菊次郎の口調から緊急事態と察して則理がすぐに棹を操った。小舟は岸を離れ、流れに乗って下流へ向かった。


「あっ、囲まれています!」


 椋助が指さした。橋の中央で利静は逃げ場を失っていた。と、橋をつるす綱と欄干が燃え上がった。


「早く殺せ!」


 敵武者の怒鳴り声を聞いて則理は速度を上げた。利静が逃げる方法は一つしかないのは明白だった。

 利静の悲鳴が聞こえた。菊次郎は自分が斬られたような痛みを体に覚えた。


「あっ、飛び込みます!」


 利静が跳び上がり、すぐに落下してきた。体が燃えている。


「畜生! 今助けるぞ!」


 則理が棹を激しく突いて速度を上げた。利静は大きな水しぶきを上げて水面にたたきつけられ、一度沈んで、しばらくして浮かび上がってきた。


「追い付け! 急げ!」


 則理は唸るように言いながら必死で棹を操った。橋はたちまちくぐり抜け、どんどん遠ざかっていく。振り返ると、橋全体に炎が広がり、宇野瀬家の武者たちが慌てて対岸へ逃げていくのが見えたが、すぐに崖の陰に隠れてしまった。


「もう少しで届くんだが」


 この川は急流だ。利静も小舟も高速で流されているのでうまく接近できない。


「まずいですね。気を失っています」


 菊次郎も手を伸ばしているが、大人の背丈一人分くらいの距離がなかなか縮まらない。

 と、椋助が立ち上がった。


「僕が行きます」

「待て!」


 則理は止めようとしたが、少年は素早く着物を抜いで下帯一つになり、水に飛び込んだ。慣れた様子で泳いで利静に近付き、腕をつかんだ。


「よくやった。もう少しだ」


 則理が棹を伸ばした。椋助の手は数度空を切ったが、なんとか握り締めた。


「よし、こっちへ来い!」


 則理が渾身の力で棹を船の前の方へ持っていく。菊次郎も棹の途中をつかんで手伝い、船の前に行って、椋助の手を握った。


「岸へ!」


 則理は素早い棹さばきで船の速度を落とし、河原へ近付けた。足がつくようになると、椋助は起き上がって利静を引き上げようとした。菊次郎も川に飛び込んで一緒に利静の腕を引っ張った。則理も船を捨てて加わり、なんとか利静を引き上げることに成功した。


「ひどい……」


 河原に横たわった利静を見下ろして椋助がつぶやいた。顔が怒りと恐怖に歪んでいる。利静の両手は焼けただれ、鎧は焦げてぼろぼろで、腕や胸にも火傷がある。背中からあふれた血が河原の石を濡らしていく。口のまわりはてかてかと光り、どうやって油を運んだかを物語っていた。


「畜生! なんてことだ!」


 則理は何かを殴りたそうにこぶしを握り、菊次郎と目が合うとそっぽを向いた。

 憎まれて当然だ。これは僕のせいだ。僕の命令の結果なんだ。

 死ぬだろうと予想はしていたが、この状況は想像を超えていた。利静が必死で任務を果たそうとして相当な無理をしたことは明らかだった。


「利静さん! 菊次郎さん!」


 田鶴が崖を下りてきた。友茂と小猿が一緒だ。その後ろに光風と安民の姿もあった。


「よかった。助かったのね……」


 駆け寄ってきた田鶴は利静の状態を見て言葉を失った。他の三人も愕然としている。


「まさか、こんなことになるなんて!」


 安民が悔しげに叫んだ。もう敵の武者は追ってこないだろうが、もしその危険があってもわめくのを抑えられなかったに違いない。


「そんな……、利静殿」


 友茂はがっくりと膝を折り、手を河原についた。

 全員の目が菊次郎に注がれた。菊次郎が目を伏せる前に、彼等の方が視線を逸らした。田鶴までつらそうに河原に目を落とし、椋助に近付いて抱き締めた。


「うっ……」


 利静がうめき声を上げた。


「気が付いたんですか!」


 友茂が急いでそばにはい寄った。

 利静はかすれた声であえぐように尋ねた。


「橋は……橋は燃えましたか」


 安民が泣きそうな顔で答えた。


「ええ、燃えましたよ。敵は対岸で困っています。騎馬隊がこの崖を下りて川を越えるのは無理でしょう」


 利静は明らかにほっとした様子になった。


「では、任務に成功したんですね」

「はい。大成功です」


 友茂が涙を流して利静の火傷した手を両手で握り締めた。


「よくやってくれました。ありがとう。これで大勢が救われます」


 菊次郎は利静をほめた。護衛たちと田鶴がびっくりし、はっきりと非難する視線を向けた。菊次郎にも分かっている。そんな言葉を仲間たちは聞きたくなかったのだ。それでも、主君として言っておくべきことだった。


「利静さんの功績は直春さんに伝えます。莫大な褒美が出るでしょう。嶋子さんと小太郎君のことは、僕と桜舘家が責任を持って保護します。約束します」

「ありがとうございます。これで……思い残すことは……ありません」

「利静殿!」


 友茂が叫び、田鶴たちが息をのんだ。状態を見て分かってはいたが、わずかな望みを抱いていたのだ。


「もう、私は……」


 七人は次の言葉を待ったが、なかなか出てこなかった。利静は目をつむり、死んでしまったのかと思うほど静かに横たわっていたが、再び目を開いた。


「飴を……」

「薬の飴ですね」


 友茂が急いで利静の腰から取り出した。飴は濡れていたがまだ食べられそうだった。一つ口に入れてやると、利静の舌がのろのろと動き、わずかに表情がやわらいだ。


「友茂殿、だね」

「はい」


 もう顔をのぞき込んでいるのが誰なのか分からないらしかった。

 友茂が涙をぬぐって手をぎゅっと握ると、利静は回らない舌でゆっくりと言った。


「私の、あとは、君が、(かしら)に……」

「えっ、無理です! 僕は最年少なんですよ。他の人の方が……」


 死にゆく人の最後の言葉を否定することになると気が付いて言い淀んだ少年に、利静は言った。


「君が、適任です。菊次郎様と、みんなを、頼みます……」


 友茂は一瞬ためらったが叫んだ。


「分かりました! 安心してください。利静さんのかわりにみんなを守ります!」


 利静はわずかに表情を動かし、頷こうとして、急に動きを止めた。と、首が横に倒れ、口から飴玉が転がり落ちた。


「利静さん!」


 友茂が慌てて呼びかけたが反応はなかった。


「どいて」


 則理が利静の鎧の帯を解いて胸に手を当て、しばらくして首を振った。


「死んだよ」


 その言葉が全員の胸に染み込むと、複数のすすり泣きが起こった。

 菊次郎以外の全員が泣いていた。田鶴や友茂や椋助はもちろん、無口な光風まで声を上げて泣いていた。その光景を、菊次郎は激しい胸の痛みを感じながら黙って眺めていた。

 やがて、みんなが泣き止むと、則理が言った。


「その辺に埋めよう」

「そうですね」


 安民が頷き、遺品の長刀をはずそうとした。


「待ってください」


 止めたのは菊次郎だった。


「利静さんの遺体は一息村へ運びます」

「どうしてですか」


 友茂は驚いた。


「必要だからです」


 菊次郎は敢えて理由を告げなかった。

 護衛たちは顔を見合わせたが頷いた。


「では、簡単な担架を作りましょう」


 友茂と光風は水際に向かった。葦貉街道の浅瀬の橋も焼かれたらしく、焦げた木の棒がいくつも打ち上げられている。まっすぐな長い棒を二本探し、護衛たちが破いて提供した着物の裾などで結んで横棒を三つ渡し、遺体をのせて四人で運べるようにした。則理が鎧を脱いで自分の上衣を利静にかぶせた。田鶴は椋助の体を拭いて着物を着せてやった。


「では、行きましょう」


 菊次郎が棒の端を持とうとすると、則理が先に手を伸ばした。


「俺が持つ」


 護衛四人が担架を囲んだ。


「僕も持ちます」


 椋助が担架の途中をつかんだ。


「助かるよ」


 則理は背を向けたまま菊次郎に尋ねた。


「対岸に敵がいる可能性に気付かなかったのか」


 菊次郎は胸に短刀を突き込まれたような衝撃を覚えたが、正直に答えた。


「いるかも知れないと思いました。ですが、利静さんの提案を受け入れる以外に橋を落とす方法はありませんでした」

「では、こうなる予想はあったわけだ」

「橋を飛び下りてくるかも知れないとは思っていました」

「なるほど」


 則理は頷いて、押し殺した声で仲間たちに呼びかけた。


「崖を上がろう。少し先に登りやすそうな場所があった」


 菊次郎を無視するような言い方だった。友茂が何か言いたそうに振り向いたが、仲間に従った。

 その後ろを菊次郎は田鶴と並んでついていった。うつむいて歩く菊次郎の顔を、小猿を肩に乗せた田鶴は時々心配そうにのぞき込んでいた。



「菊次郎君、無事だったか」


 直春は一息村の入口で待っていて、はっきりと安堵の表情を浮かべた。既に全軍が村に入っているという。


「どうした? 田鶴殿も元気がないな。まさかうまく行かなかったのか? その運んでいる彼は……」


 担架に気付いた直春は顔色を変えたが、菊次郎は淡々と言った。


「敵の騎馬隊は橋の向こうにいます。渡るのを諦めて引き返すでしょう」

「待て。何があった」


 菊次郎の暗い表情から直春はよほどのことが起こったと察したらしい。護衛たちが皆うつむいたので田鶴に目を向けると、少女は涙をあふれさせた。


「僕が説明します」


 友茂が顔を上げた。


「無理するな。俺が話す」


 則理は止めようとしたが、友茂はきっぱりと言った。


「利静殿に頭を任されましたから」


 そうして、時々言葉を詰まらせながら、どうやって橋を落としたかを語った。


「そうか。そんなことがあったか」


 全てを理解すると、直春は深い息を吐いた。


「みんな、よくやってくれた。君たちは桜舘家の恩人だ。ありがとう」


 国主に頭を下げられて、護衛たちは慌てた。


「お顔をお上げください。もったいない」

「他の人たちが見ていますよ!」

「全て利静殿がやったことで、俺たちは大したことは……」


 直春はしばらくして姿勢を戻した。


「武者たちを代表して心から礼を述べる。謙遜するな。感謝されるに値することを君たちはしたのだ。つり橋に向かった八人全員に帰ったら恩賞を出そう」

「はい。みんなには褒美を上げてください。もらう資格があります。僕はいりませんが」


 直春は痛ましげに大軍師の少年を見つめた。


「菊次郎君もよくやってくれた。本当に助かった。これで追いかけてくるのは葦狢街道の連中だけになった。君のおかげだな……」

「どこまで来ていますか」


 菊次郎はさえぎって尋ねた。直春は何か言いたそうな顔をしたが問いに答えた。


「もう、すぐそこだ。四半時もすれば見えてくるだろう」


 菊次郎は味方の軍勢を眺めて様子を確かめ、直春に言った。


「では、その前に武者たちに話をしましょう」


 内容を聞いて直春は驚いたが承知した。


「分かった。すぐにやろう」


 直春はそばにいた槻岡良弘に、武者たちを集めて並ばせるように指示を出した。


「さあ、僕たちも行きましょう。担架を持ったままついてきてください」


 菊次郎は護衛たちに声をかけて、武者たちの前へ直春と一緒に出ていった。


「ここに利静さんを下ろして」


 言われるまま護衛たちは担架を地面に置いてかぶせていた着物を取り、四千人の前で居心地悪そうに立っていた。


「当家の武者の諸君! 桜舘家の仲間たちよ! 聞いてほしい話がある!」


 直春が呼びかけると、武者たちは一斉に注目した。


「今日、俺たちは苦しい戦いをいくつも経験した。狢河原では諸君の奮闘で勝利したのに、成安軍が負けて逃げ出すことになった。ここへ戻ってくる途中も、激しい追撃を幾度も退けた。そして、この村で、これから最後の戦いがある。追って来る敵を撃退し、安心して葦江国へ戻れるようにするための戦闘だ」


 武者たちは皆真剣に耳を傾けている。


「物見の報告では敵の数は約三千。最初に追ってきた部隊とは違う新手らしい。一方、俺たちは疲れている。朝から幾度も戦い、長い行軍をしたからだ。正直、苦しい戦いになるだろう。しかも、もう一本の道、一息街道を敵の騎馬隊が進んできた。その連中が先回りすれば、この村に入ることすらできなかったかも知れない」


 武者たちがざわめいた。知らない者も多かったのだ。


「だが、安心してほしい。一息街道の騎馬隊はあのつり橋を渡れなくなった。それはここにいる大軍師銀沢信家とその護衛たちが、命をかけて橋を落としてくれたからだ」


 武者たちは一斉に視線を菊次郎たちに向けた。そして、担架の上に横たわっている利静を見付けて目を見開いた。


「どうやって橋を落としたのか、話してもらおう。楡本(にれもと)友茂君、頼む」


 友茂は驚いたが、胸を()らし声を張り上げて顛末(てんまつ)を語った。直春に話した時よりは冷静だったが、それでも仲間を失った彼等の悲しみは武者たち全員に伝わった。


「聞いたか、諸君。ここまでして、彼等は俺たちを守ろうとしてくれた。ここに横たわっている槙辺(まきべ)利静殿には、妻と三歳の息子がいるそうだ。それでも、この厳しい役目を自ら買って出た。君たちを家族の待つ故郷へ帰すためだ。しかも、利静殿の妻は君たちに無縁ではない。霧前原でも、この村でも何度も食べた、芋の煮っ転がしの考案者なのだ!」


 どよめきが起きた。あの料理の味を知らない者はいない。たった今も村に帰ってきた彼等に振る舞われたばかりだったのだ。


「桜舘家の当主として約束する。俺たちを救ってくれたこの勇者の妻に、一万両の報奨金を与える!」


 どよめきが大きくなった。武者たちは驚きに目を見張っている。一般の武者の給金が年額三十両ほどなのだ。


「それだけではない! 今後毎年一千両を与え、利静殿の息子の小太郎殿が成人した時、一万貫以上の領地を与えて封主とする!」


 今度の声はほとんど悲鳴だった。当主の直臣(じきしん)ですらなかった者を封主にするというのだ。


「彼の働きにはそれだけの価値がある。利静殿は命を投げ出して君たちを救ってくれた。桜舘家に未来を残してくれた。その恩には必ず報いる」


 その言葉が武者たちの頭に染み込むのを待って、直春は語りかけた。


「あの煮っ転がしには、戦に勝って無事に帰ってきてほしいという利静殿の妻嶋子殿の願いが詰まっている。その願いに応え、利静殿の献身を生かすために、俺たちにできることは何か!」


 直春は深く息を吸い込んで吼えるように訴えた。


「それは、もうすぐ現れる敵を撃退し、俺たち全員で葦江国へ帰ることだ! それが利静殿の、俺の、ここにいる全員の願いだ! 作戦は大軍師が考え、もう準備は完了している。あとはそれを実行して敵を追い払い、故郷への道を歩くだけだ!」


 直春は腰の刀を抜いて先を天に向けた。名刀の花斬丸(はなきりまる)だ。菊次郎も黒漆塗りの軍配を高く掲げた。二人は頷き合い、声を合わせて宣言した。


「これより、故郷に帰るための最後の戦いを始める。全員奮起せよ! 桜舘家の意地を見せてやろう! 桜の御旗(みはた)に栄光あれ!」

「おう! 桜の御旗(みはた)に栄光あれ!」


 四千一百の武者が腕を振り上げて同じ文句を叫んだ。いくども繰り返された魂の底からの絶叫は、大長峰(おおながね)山脈へ轟き、その向こうにある豊津まで響いていくように感じられた。

 涙がにじむ目で空を見上げていると、青い鎧が馬で駆けてきた。


「おい、大軍師」


 忠賢は飛び降りると菊次郎に近付いて、背中を思い切り張り飛ばした。


「痛っ! いきなり何をするんですか!」


 忠賢は菊次郎の顔をじっと見た。


「話は聞いた。よく橋を落としてくれた。だがな、お前がうつむいてると武者たちが不安がる。自信満々な顔をしてろ。いいな!」


 叱るような口調で言い放つとまた背中を強くたたき、馬に乗って駆け去っていった。


「忠賢さん……」


 それを呆然と見送った菊次郎は目をごしごしとこすった。


「利静さん。僕たちは勝ちます。みんなを必ず国に帰します」


 菊次郎は遺体に誓い、護衛たちに頭を下げた。


「手伝ってください。あなたたちの力が必要です」

「うん。もちろんだよ。ねっ?」


 田鶴が言うと、友茂が叫んだ。


「当たり前です! ここで負けるわけにはいきません!」

「その通りだ!」

「やりましょう!」


 光風と椋助も頷いた。


「では、みんなには僕と田鶴の補佐をしてもらいます」

「はい!」


 利静の死を無駄にしないために。口に出さなくても、全員がそう思っていた。


『狼達の花宴』 第四話 一息村周辺図

挿絵(By みてみん)


「ここが一息村か」


 韮木主延は馬を止めて坂の上を見上げた。昨年の長賀と倫長の遠征には加わっていないので、葦貉街道は初めてだ。周囲を囲む武者たちもほとんどがそうだった。


「敵が来たぞ!」


 村の入口の見張り塔の上で鎧を着ていない若者が叫び、数人がはしごを滑るように下りて駆け去っていった。桜舘家の小荷駄隊は怪我人を連れて村を離れたと思っていたが、彼等は残って手伝っているらしい。


「桜舘軍は村の中にいるようです」


 筆頭武者頭が物見の結果を報告した。韮木家の全軍三千の副将の地位にある男だ。


「村の入口を封鎖して守るのではないのか」

「どうやら中の広場で合戦を挑むつもりのようです」

「それは好都合だ」


 主延はにやりとした。


「願空に面倒な役目を押し付けられたと思ったが、意外とうまみのある仕事のようだな」


 武者を捕虜にすれば家族に身代金を要求できる。捕まえた者が半分、残りを直接の主君である主延と宇野瀬家が折半するのが慣例だった。桜舘家は裕福と聞くので韮木家は大いに潤うだろう。


「金だけではない。俺が氷茨元尊と本当に内通していたと疑う者がいるかも知れぬ。大きな武功を上げて黙らせる」


 主延は数刻前の合戦を思い出して苦い顔になった。狢河原で宗速の騎馬隊が網や投げ槍や山鍬隊の矢を浴びて潰走した時、主延は仰天したのだ。


「あの合戦は離れたところで静観するつもりだったのだが」


 成安軍が勝ったら、敗北の責任を追及して願空を失脚させ、自分が連署になる。元尊には約束を守ったと恩を売って、刀剣や鉄器の交易を再開させる。願空が勝っても、昨夜指示された通り離脱するふりをしただけだから文句を言われる筋合いはない。取って返して追撃に加わり、武功を上げて帯を集めればよかった。


「結果は願空の策が成功したわけだ」


 主延はすぐに目の前の糸瓜(いとうり)当仍(まさより)隊を攻撃し、逃げ出した成安軍を川に追い詰めた。だが、そこへ願空から使者が来た。桜舘軍を追いかけて撃滅してほしいという。これから稼ごうという時に不満だったが、逆らうのは危険だ。やむなく、俵子隊と交代して葦狢街道を進んできた。


「敵は疲れているはずだ。こちらの武者はまだ元気で死傷者もあまり出ていない。数は向こうが上だが余裕で勝てるだろう」

「楽な戦ですな」


 武者頭も同意見だった。韮木家は家業が製鉄で、軍勢はすぐれた武装で名高い。宇野瀬軍最強と自他ともに認めていた。


「さっさと打ち破ってできるだけ多く捕まえるぞ。連署にはなれなかったが、金くらいは手に入れたい」

「たくさん稼ぎたいものですな」


 主延は欲深そうな笑みで応じ、命令を下した。


「先頭の隊から順次前進せよ! 村に入ったところを襲われるかも知れぬ。慎重に進め」


 韮木軍は槍や弓を構えて用心しながら、坂を上って村の中へ侵入していった。


「見張り塔の上にまだ人がいるな」

「はい。六人ほどでしょうか。武者ではないようですので、無視してよろしいかと」


 塔は丸太の骨組みとはしごだけの構造で周辺に小屋などはないため、伏兵の心配はない。一応は矢での狙撃に注意しつつ、主延は街道を進んでいった。


「あの布は何だ。洗濯物か」


 道の右側にある見張り塔から左側に立つ三本の高い柱に向かって長い綱がそれぞれ伸びている。そこに多数の白い布がつり下げられていた。丁度韮木軍の上を覆っている。


「船の帆に使うような厚手の布に見えます。祭りの準備の旗でしょうか。戦の邪魔にはならないと思われます」

「そうだな。むしろ下に入れば飛んでくる矢を防げるかも知れぬ」


 塔は五階建ての建物ほどもあり、三本の柱も太く長い丸太で三階分はあるだろう。刀を持って背伸びしても布に届かない。


「敵がいたぞ。約三千か。やや少ないが、これが無事な者全てかも知れぬ」


 村の中心、旅籠や家屋が並んでいるところを背にして、街道上に桜舘軍は戦闘用の隊列を組んでいた。


「右手は川か。草地が狭いな」

「森を切り開いて作った村ですので。左手は畑と牧場です。柵がありますし、側面を襲われる心配はなさそうです」


 左の奥に桜舘軍の宿営地があり、空堀と木の柵で囲われているが、中には誰も居ないようだった。


「やはり目の前にいるのが敵の全軍か」


 味方が全て村に入るのを待ちながら、主延は敵軍を観察した。 


「士気は低くないようだが、そう長くは持たないだろう」


 主延は五十一歳、戦の経験は豊富だ。決して愚将ではない。


「当家の武者の突進を防げる敵などおりませぬ。疲れているならなおさらです。勝利は間違いないでしょう」


 韮木隊は重装備なので、機敏に動けるように皆競って体を鍛えていた。


「敵がしかけてくるのを待つ必要はない。攻めていくぞ」

「準備はできております」

「では、攻撃開始だ」


 主延は腰の名刀を抜いた。


「者ども、用意はいいか!」


 おう、と三千が吼えた。


「敵は弱っている! 一気に押しつぶし、帯を刈り取るぞ!」


 武者たちも稼ぐのは今だと心得ているので、目が血走っていた。


「前進せよ!」


 主延は叫びながら無双丸(むそうまる)を前へ振り下ろそうとして、急に手を止めた。甲高い笛の音が鳴り響き、輝く何かが目の前を飛んでいったのだ。


「……待て、今の音と光は何だ? 何かの合図か?」

「火矢でございます!」

「どこからだ!」

「敵軍の後ろでございます。あっ、あそこです。旅籠の屋根の上に娘が一人と猿が一匹!」

「娘と猿だと?」


 驚いて目を凝らすと、確かに袖の短い着物を着た娘が一人、猿を従えて弓を構えている。他に軽装鎧の武者が四人、次の火矢や笛を持っていた。武装していない少年も二人いる。


「まさか、ねらいは……」


 ひょうと放たれた矢は、意外なほどの鋭さで街道の上を飛び、垂れ下がっている布の一つに突き刺さった。


「も、燃えております。どんどん燃え広がって、綱につるされた十枚以上の大きな布が全部! ああ、二番目の綱も! 三番目も! 三つの綱、全てが燃え上がりました!」


 三本の火矢を射終えると、娘は大きく片手を振った。軍勢への合図らしい。


「う、うろたえるな。たかが布が燃えただけではないか! 火の粉は降ってくるが、地面は燃えておらぬ!」


 火計かと思ったが、油や燃えるものは街道周辺にない。あれば村へ入ってきた時に気付いて用心しただろう。


「では、敵の目的は何でしょうか」


 首を傾げた武者頭はふと耳をそばだてた。


「この音は? 木に斧を入れているようですが……」


 音の発生源を探して後ろを振り返った武者頭は顔色を変えた。


「見張り塔が傾いております! 上にいた敵の小荷駄隊六人がいつの間にか降りてきて、足を切っております!」

「そうなれば……」


 主延も気が付いて上を見上げた。


「火のついた布がわしたちの上に落ちてくるではないか!」

「それだけではございません! 恐らく……」


 その言葉をさえぎるように、武者たちから大きなどよめきが起こった。五階建ての高さのある見張り塔が、山が崩れるような轟音を立てて地面に激突し、激しく炎上した。油が塗ってあったようだ。


「ご当主様、退路を失いました!」

「それがねらいか!」


 大きな塔が横倒しになって坂の下へ落ち、村の入口が塞がれていた。

 と、左手の武者たちが金切り声を上げた。


「今度は何だ!」


 振り返って、主延は仰天した。


「おお、倒れる! 三本の柱が、引っ張られて倒れてくる!」


 武者たちは悲鳴を上げて逃げ散った。三階分の高さの太い丸太が韮木軍の左側面を襲ったのだ。燃える太い綱がのたうち回り、火のついた大きな布が多数かぶさり、隊列は切り裂かれて滅茶苦茶になっていた。


「これは罠だ! はめられた……」


 主延は敵のねらいを悟った。三千の軍勢は大混乱、退路はなくなった。ここを攻撃されたら。

 その時、敵軍から凛とした大きな声が響いた。


「敵はまんまと大軍師の策にかかったぞ! 今こそ好機! 一気に打ち破れ! 俺に続け!」

「桜の御旗(みはた)に栄光あれ!」


 一斉に叫んだ桜舘軍の全員が、わあああ、と声を限りにわめきながら向かってきた。率いるのは名馬にまたがった白い鎧の直春だ。

 しかも、別な方角からも鬨の声が上がった。


「み、右手の川の方から騎馬隊が向かってきます!」


 青い鎧の武将を先頭に、騎馬隊七百が主延たちの側面に殺到した。どうやら旅籠や家屋の向こう側に隠れていたらしい。


「散々追いかけられた恨みを思い切りぶつけてやれ! 一人も生かして帰すな!」

「直春兄様や忠賢さんには負けません! 僕たちだって強いんですよ!」


 桜色の鎧の若い武将も(かち)の一隊を連れて馬で突っ込んでくる。


「ひるむな! 迎え撃て!」


 主延は叫んだが、もはや武者たちの耳には入らなかった。

 敗北は決まった。うまみのある狩りのはずが、狩られているのは自分たちの方だ。ここでねばっても得られるものは何もない。命を守る方が優先だ。韮木家の武者たちは我先に逃げ出そうとしたが、村の入口は塞がれている。


「川だ! 川から逃げられるぞ! さっきの燃えた橋の浅瀬に出られるはずだ!」


 一人の叫び声をきっかけに、三千人が右手の川に向かって駆け出した。青い鎧の武将は騎馬隊を横によけさせ、通過した背後を攻め立てた。

 急流に殺到した武者たちは、あとから来る者たちに押されて深みにはまり、多くは頑丈な鎧の重さで二度と浮き上がれなかった。


「なんということだ……」


 呆然とする主延を武者頭が急かした。


「早くお逃げください」

「ええい、してやられたか! だが、逃げるしかなさそうだ」


 悔し気に馬を歩かせ始めた主延は、背中に激痛を覚えて落馬した。


「後ろから矢だと?」


 体を起こして振り向くと、十人の武者に囲まれていた。彼等の鎧は韮木家のものと似ていたが、よく見ると違っていた。


「貴様ら、何者だ!」


 叫んだ主延を二本の槍が貫いた。


「ご当主様!」


 救おうとした武者頭も三人に襲われて地面に倒れた。


「その刀を寄越せ」


 男の一人が主延の腰に手を伸ばした。


「それは当家の宝だ……!」


 主延は力を振り絞って抵抗しようとしたが、首に一撃を受けて絶命した。


「無双丸、確かに頂いた。目利(めき)きの者に渡るのだ。刀にとっても悪いことではあるまい」


 十人は頷き合い、川の反対の方角へ向かった。燃える柱の間を通り、野菜畑と牧場を走り抜けると、暗殺者たちは追ってくる者がいないのを確かめて、森の奥へ消えていった。



「索庵先生、いらっしゃいますか」


 廊下から声がかかった。


郷末(さとすえ)殿か。入りなさい」


 元尊の兵法の師範は文机(ふづくえ)に向かって何かをしたためていた。


「元尊様からの伝言だな?」

「はい」


 宜無(むべない)郷末は室内に入って襖を閉め、平伏して告げた。


「連署様は索庵先生に自裁(じさい)をお命じになりました」

「うむ。そろそろ来る頃だと思っていた。丁度遺書を書き終えたところだ」


 索庵は筆を(すずり)の脇に置いた。


「合戦の作戦を聞いたあと、身辺の整理はしておいた。宗員様と元尊様は無事にこの城に入られたし、敗残の武者たちも多くを収容した。もはや私の役目は終わった。あとは医者と僧侶の仕事だ」


 薬藻国(くすものくに)連橋(つらねはし)城には負傷した武者が一万以上集まっている。宇野瀬軍は国境(くにざかい)を越えてこなかったが、この城は違う意味で戦場になっていた。今夜のうちにこの世を去る者も少なくないだろう。その喧騒が、本郭の奥にまでかすかに聞こえてくる。


「覚悟がおありだったのですね」


 郷末の声には意外そうな響きがあった。索庵が命令に(あらが)わないことにも驚いたらしい。


「私は元尊様の師だ。弟子の人柄は分かる。教えられる側は気付かないだろうが、教える立場からは、一般に想像するよりもはるかに弟子たちのことがよく見えるものだ」


 索庵は湯のみを取って冷めた茶を飲んだ。


「今朝早くの軍議の前、元尊様は作戦は私が立てたことにするとおっしゃった。御使島(みつかいじま)津鐘(つかね)家や鮮見家と戦った時は私の助言があったことを誰にも言わなかったのに、こたびは百合月の軍議から自分の発案とはしなかった。自信家の元尊様には珍しい。負けた時は私のせいにするつもりだろうと察したが、それでよいと思った」

「責任を押し付けられると分かっていて拒否なさらなかったのはなぜですか」

「元尊様が思い切った手を打てるならかまわないと考えたのだ。だが、それが裏目に出た。慎重さや綿密さを欠いた博打(ばくち)のような作戦になってしまった。歯止めをかける役目を負っていたのは私だろう。だから、敗戦は私の責任でもある。あそこまで大敗するとは思わなかったがな」


 索庵は笑って茶を含み、向かいの壁に飾られた掛け軸へ目を向けた。是正の城らしく兵法書の高名な一文が見事な筆跡で書かれている。


「智なき勇は暴、勇なき智は柔」


 索庵はそれを読み上げた。


「郷末殿、元尊様がなぜ負けたか分かるかな」

「いいえ、分かりません」


 郷末はいつもの無関心そうな口調だったが、索庵はかまわなかった。


「それはな、敵がばかではなかったからだ。いや、むしろ賢かった」


 索庵はまじめな顔で言った。


「元尊様はな、様々なものをばかにして生きてこられた方なのだ。周囲をばかだと思っていた。もちろん私もだ。君も含まれている。父の元右(もとすけ)様までも。そうなった原因は私だ」


 郷末は沈黙していた。


「元尊様の師範役を君の父君と争った時、私は学問では勝負がつかないと思った。君の父君はすぐれた学者だったし、私も自信があった。だが、私はどうしてもこの地位につきたかった。待遇がよかったし、いずれ成安家の筆頭家老になる人物と深い関係を築ければ、この大封主家が天下に覇を唱えるのをおのれの兵法で補佐することができるかも知れないのだからな。そこで、嫌がる妻を説得して数回元右(もとすけ)様の相手をさせた。これが大失敗だった」


 口調は淡々としていたが、唇には自嘲の寂しい笑みが浮かんでいた。


「妻にはすっかり嫌われてしまった。夫婦仲は冷え切り、もう何年も口をきいていない。これは自業自得だが、不幸は私の上だけにとどまらなかった」


 索庵は痛みが走ったように胸に手を当てた。


「君の父君は結果の決まっている公開討論会に全力で挑み、敗北に納得できずに酒に溺れ、身を持ち崩した。彼の妻が出ていって君が困窮していると聞き、元尊様に願い出て学友にしてもらったが、私は二つの夫婦を壊してしまったわけだ。君には申し訳なく思っている。そして、それ以上に悪かったのが、元尊様へ与えた影響だった」


 郷末は身じろぎもしなかった。聞いているかどうかも分からない。


「元尊様はどうやってか、私が妻を使って取り入ったことを知った。それをほのめかすと私を黙らせられることも悟った。その結果、師をばかにし始めた。私が叱っても恐れず、薄笑いを浮かべるようになった。私は師としての威厳を失ってしまったのだ」


 索庵は恥じ入るように片手で顔を覆ったが、すぐに手を下ろした。


「これがあの方の性格を歪ませた。偉そうな顔をして講義をし、先生と呼ばれている者が実は卑怯であると分かって人を尊敬しなくなった。他人を見下す快感と、弱みを握って操って自分のわがままを通すという楽な道を覚えてしまった」


 索庵は遺書の墨が乾くまで雑談を続けるつもりのようだった。それとも、これは紙には残せない遺書の続きなのかも知れない。


「そうして、元尊様は他人の諫言(かんげん)を聞かなくなった。特に、自分の誤りや考えの足りなさを指摘されることを嫌がるようになった。さらに、私が教える学問までばかにし始めた。決して筋は悪くなかったのに、私の話をまじめに聞かず、楽をすることばかり考え、学ぶことをおろそかにするようになった」


 索庵は深い溜め息を吐いた。


「私はまずいと思った。成安家を左右する地位につく人物がこれではいけない。吼狼国全体に悪いことになりかねない。学問は私が作ったものではなく、過去の多くの偉人が築いてきたものであることを語って聞かせ、真剣に学んでもらおうとした。だが、無駄だった。当然だ。ばかにしている人物や嫌っている相手の話を集中して聞き続けてしっかり理解し記憶することを強要されるのは、大変な苦痛なのだから。自分の目標のためにその学問が必要なら真剣に学ぶだろう。この師についていけば夢を実現できるに違いないと思えば一言も聞きもらすまいと耳を傾けるだろう。だが、元尊様と私はその反対だったのだ。元尊様は『尊敬されている過去の偉人たちもみんな、きっと先生のようなことを陰でしていたに違いないですよ』とにやにやしながら言ったのだよ。師と学問をばかにし始めた時点で、元尊様の才能は伸びないことが決まってしまったのだ」


 もったいないことだと索庵は今でも思っているようだった。


「元尊様は他人の意見も学問も、自分に都合のよいところだけをつまみ食いするようになった。自分の聞きたいところしか聞かず、分からないところや答えられない問いは無視する。それが当たり前になった。不十分で片寄った学問で自己正当化することが上手なだけの中身のない人物に育ってしまった。全て私のせいだ。元右(もとすけ)様にも君の父上にも本当に申し訳ない」


 索庵は掛け軸に向かって深々と(こうべ)を垂れた。


「郷末殿、こんなことを話したのは、君の家族への罪悪感からだ。忠告する。元尊様から早いうちにお(いとま)を頂きなさい。この敗戦で連署の権威はがた落ちだ。負けた責任を私に押し付けても、あの方への批判が高まるのは避けられない。元尊様はいらだち、次こそはおのれの実力を示そうと躍起になる。だが、きっと失敗する」


 それはなぜかと郷末は尋ねなかったが、索庵はその問いに答えた。


「戦いは負けた側にも必ず原因がある。全く弱点がなく間違いを犯さなかったのに相手が強すぎて負けるということは滅多にない。相手のせいにはできぬものなのだ。こたびの敗因は冷静妥当な判断より自分の都合を優先して無理を通そうとしたことだが、元尊様はお認めにならないだろう。あの方は結局、自分の利益しか考えておられないのだ」


 主君にそれを指摘して誤りを犯すのを防ぐのが索庵の役割だが、それは始めから不可能だった。


「骨山願空はとても狡猾(こうかつ)で、腹心の赤潟武虎も恐ろしい男だ。味方にも沖里公や銀沢信家殿のような賢者がいる。だが、元尊様は彼等全てを見下している。助言に耳を塞ぎ、反省せぬものに成長はない。元尊様が連署に留まるなら、成安家はあまり長く持たないだろう」


 索庵は断言した。


「だから、郷末殿、死にたくなければ、成安家を離れることをお勧めする。これが君の父君へのせめてものつぐないだ」


 この大敗は成安家滅亡への第一歩だ。大胆な予測にも郷末は眉一つ動かさなかった。自分の家族を壊した索庵を師と仰ぎ共に元尊に仕えてきたことをこの男がどう思っているのか、表情からうかがい知ることはできなかった。


「君はいつもそうだな」


 索庵は微笑んだ。郷末は何も言わずにただ従う。それが元尊を甘やかしている。元尊にもたらす結果を分かった上でそう振る舞っているのだとしたら、強烈な復讐なのかも知れない。


「そろそろ乾いたようだ」


 索庵は机上の紙を手に取った。丁寧に畳んで別の紙で包み、封をした。


「これを息子に渡してくれ」


 郷末は受け取って懐にしまった。


系庵(けいあん)殿の処遇の件、約束は守るとおっしゃっていました」

「ありがとうございますとお伝えしてくれ。くれぐれもご無理をなさらず、長生きなさってくださいと。それが師としての遺言だ」


 頷いて、郷末は少しためらった。


「先生が妻を差し出したことを元尊様に告げたのは私です」


 索庵は驚かなかった。


「そうだろうと思っていた。怒ってはいない。ただ、君がなぜ元尊様に仕え続けるのか不思議だった」


 郷末は答えなかった。師が感付いていたことに驚いたかどうかも顔に表わさなかった。ただ、一瞬、口元にひどく冷酷で絶望的な笑みを浮かべ、すぐに無表情に戻った。


「では、介錯を頼む。たった二人の弟子の手にかかって死ぬのも運命だろう」


 索庵は文机の横に置いてあった短刀を握って立ち上がった。


「部屋を汚しては沖里公に申し訳ない。あの方の諫言に従っていればこの大敗はなかった。成安家が今後も揺るがないとすれば、それはあの方のお力によってだろう」


 索庵は障子を開けて庭に下り、土の上にあぐらをかいて帯を解いた。胸を開いて短刀を抜き、鞘を前に置いた。


「月がきれいだな。吼狼国を見守っているようだ」


 郷末は無言だった。


「恥の多い人生だった。だが、後悔はない」


 まなじりに浮かんだ涙をぬぐうと、索庵は短刀の先端を左胸に当て、力を入れた。

 血がにじんで腹へ流れ落ちた瞬間、郷末の刀が索庵の背を貫いた。

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