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狼達の花宴 ~大軍師伝~  作者: 花和郁
巻の四 知恵者と勇者
34/66

(巻の四) 第四章 狢河原 下

「大勝利、大勝利です!」


 伝令武者が走ってきて叫んだ。飛鼠軍の本陣に大きなどよめきが()き起こり、狢川の河口の広い水面に反射して、水門橋(みとばし)の対岸まで響いていった。


「まことか。本当に勝ったのか」


 意外そうな面持ちの飛鼠寿方(としかた)に、武者はうれしそうに報告した。


「はい。来伏山(くるぶしやま)に出していた物見から、のろしで連絡がございました」


 敗北・引き分け・辛勝などたくさんの場合を想定してのろしの色と数を決めてあったが、願空が圧勝したと伝えてきたのだ。


「これはめでたい。やれやれ、ほっとしたわい」


 裕方(ひろかた)はあからさまに胸を撫で下ろした。成安家に反乱を起こすことを最後まで不安がっていたのだ。そんな叔父を見て、二十五歳の当主もようやく笑みを浮かべた。


「そうだな。これで漆器の売値も高くなる。刀がたくさん買えるな」


 またそんなことをと言いたげな裕方が口を開く前に、掛狩(かかり)承操(よしもち)が割り込んだ。


「それには成安家と一戦交える必要がございます」


 雅号を進楽(しんらく)という三十歳の側近は、のっぺりした顔を珍しく興奮に紅潮させていた。


「今こそ成安軍を攻撃する好機でございます!」


 裕方は気が乗らない様子だった。


「それは本当に必要なことなのか。宇野瀬軍が勝利し、当家はその傘下に入って本領を安堵される。それで十分ではないか」

「いいえ、不十分でございます」


 進楽は言葉に力を入れた。


「宇野瀬軍は大勝、当家は武功なしでは交渉で不利になります。長賀公の覚えをよくするためにも、当家が成安家ときっぱり縁を切ったことを示すためにも、戦うべきでございます」

「だが、勝てるだろうか。対岸にいるのは沖里是正だ。無理をして負けでもしたら大恥をかくぞ」


 なおも渋る裕方を無視して、進楽は寿方を説得した。


「是正も今頃合戦の敗北を知って撤退を始めておりましょう。逃げる敵を追いかけてたたくのは正面からぶつかり合うよりたやすうございます。損害もあまり出ますまい。それだけで漆器の収入を確実に多くでき、当家の武名を上げられるのでございます」


 そうして、にんまりと笑いながら、やや声を落としてささやくように付け加えた。


「うまくすれば是正の佩刀(はいとう)が手に入るかも知れません。きっとよい刀を帯びておりましょう」


 寿方は表情を明るくして頷き、叔父に言った。


「よし、橋を渡って進撃する。撤退する敵を追いかけて撃破するぞ」

「承知致しました」


 裕方は余計なことをという顔をしたが、頭を下げて命令を受け、軍勢に前進命令を出した。当主の判断が下ったのだ。それに従うのが家臣のつとめだった。


「必ずや素晴らしい刀を手に入れることができましょう!」


 進楽はいそいそと自分の馬にまたがり、当主とその叔父の後ろをついていった。

 飛鼠軍は四千一百のうち六百を橋と砦の守備に残し、三千五百で橋を渡って狢宿国へ入った。すぐに磯触街道の先に退却していく沖里軍が見えてきた。両軍の距離はぐんぐん近付いていく。


「是正は橋を焼かなかったのだな」


 裕方は安堵したような残念なような顔つきだった。


「時間がなかったのでございましょう。動き出したのはこちらが先でございましたので。無事に渡れてようございました」


 進楽は答え、橙色の鎧と兜の寿方に声をかけた。


「もうすぐ追い付きます。この辺りで襲撃致しましょう」


 川の周辺にあった家々や田畑がそろそろ終わり、両側から森が迫ってきている。街道はその森の中へ伸びていた。


「敵は迎撃するつもりか」


 寿方は眉をひそめた。沖里軍は逃げ切れないと思ったのか、停止して飛鼠軍に向けて槍衾を作りつつある。森の入口を背に街道に陣取るつもりらしい。


「勝てるだろうか」


 戦に不慣れな寿方が不安げな顔をすると、裕方は笑って見せた。


「恐らくな。是正は名将だが、背を向けて逃げている。打ち破ることはさほど難しくなかろう」


 経験の浅い甥に教えるつもりなのか、理由を説明する。


「向こうの武者たちはもう心が国元の家族にある。手柄よりもなんとか生き延びて帰りたいだけだ。こういう敵は、どこかが少し崩れただけで全体が逃げ始めるものだ」


 さすがに戦いを前に嫌がる素振りは消し去り、軍勢を指揮する熟練の武将の顔になっていた。


「敵は一刻も早く狢宿国を出たいはず。でないと宇野瀬軍に先行されて退路を塞がれてしまうからな。にらみ合いが長引けば敵の武者たちは焦る。どっしり構えて隙を見せず、相手が動揺したら襲いかかろう」


 裕方は言ったが、進楽は反対した。


「それでは寝入城に到着するのが遅くなります。できるだけ早く長賀公と願空殿にお会いして勝利の祝いを述べ、城を攻める手伝いをして歓心を買うべきです」


 進楽は即時攻撃を提案した。


「敵が防御を固めてしまうと攻めにくくなります。向こうは反転した直後でまだ陣形を組み終えていません。急襲して蹴散らしましょう。今こそ好機でございます。のろのろしていると是正が刀を持って逃げてしまいますぞ」

「そうだな」


 寿方は頷き、裕方に命じた。


「すぐに攻撃しよう。叔父上、指揮はお任せする」


 裕方は進楽を横目でにらむと、主君に馬上でかしこまって頭を下げ、大声で叫んだ。


「突撃準備! 敵は弱気になっているぞ! 全力で当たって一気に撃破する! そのあとは好きに稼げ!」


 おうっと武者たちが叫び返した。敵の武者を捕らえて帯を奪えば身代金を要求できる。封主家は捕虜と帯を家臣から買い取る形で金の一部を払うのだ。名のある武将を捕らえれば出世や加増もある。


「では、始めまする」


 裕方は当主に確認して、抜いた刀を上に向けると、前へ振り降ろした。


「突撃! 逃げ腰の敵を、一撃で押しつぶせ!」


 わあああ、と鬨の声を上げて飛鼠軍の武者たちは駆け出した。槍を構えて体ごとぶつかっていくような勢いだ。

 見ろ、敵は驚き慌てている。味方の勝利は確定している。一本でも多くの帯を奪ってやろう。敵の武者が生きた金塊に見えているかのような突進ぶりだった。

 だが、その時。


「攻撃開始! 敵は油断しているぞ!」


 予想もしなかった方角から多数の武者の雄叫びが聞こえてきた。左手の森から出てきたのは約一千の成安軍の武者だった。半数が騎馬、残りは徒武者で、飛鼠軍の側面へ駆けてくる。


「今だ! 前進! まぬけな敵を押しつぶせ!」


 前方で沖里是正と思われる雷のような大声が響き、正面の軍勢が向かってきた。沖里軍の武者たちは勝利を確信し、怒りに燃えている。


「は、挟み撃ちだと! 伏兵がいたのか!」


 裕方は叫び、迷った。


「はかられた。敵には備えがあったのだ! まんまと罠に引き寄せられた!」

「叔父上、どうすればよい。前の敵に備えるのか、横から来る敵か! 早く指示を出せ!」


 寿方に問われて、裕方は慌てて命じた。


「前半分は前方の敵に備えよ。後ろ半分は槍を左に向けよ!」

「遅い!」


 凛々しい声とともに、二十歳過ぎの若い武将が、騎馬隊五百を率いてすさまじい勢いで飛鼠軍に突っ込んできた。


「かき乱せ! 敵陣を粉々にせよ!」


 彼の叫び声を待つまでもなく、飛鼠軍は大混乱に陥っていた。駆け出した時に敵が現れて中途半端な体勢で停止してしまい、攻撃も防御もできなかったのだ。


「なんということだ」


 裕方は呆然としたが、すぐに我に返った。


「さすがは沖里是正。成安家の宿将と言われるだけはある!」


 裕方は悔しそうに敵将をほめると、甥に声をかけた。


「逃げよう。もはや立て直せない。このままでは討ち死にするぞ。今は生き延びることが最も重要だ」

「わ、分かった」


 おろおろしていた寿方は頷いた。裕方は周囲の武者に指示した。


「引き鐘を打て! 馬廻り、国主様をお守りせよ!」


 進楽が大声で提案した。


「橙色の兜と鎧は目立ちます! 国主様、お脱ぎになってはどうでございますか!」

「ばか者! この状況で当主の特徴を敵に知らせてどうする!」


 裕方は進楽を叱り付けると甥を呼んだ。


「国主様、こちらへ。お守りします」

「叔父上、すまない」


 寿方は馬首を返そうとした。

 ところが。


「ぐうっ!」


 寿方は急に苦しげなうめき声を上げて落馬した。


「どうした!」


 振り向いた裕方も胸に二本の矢を受け、驚いて暴れ出した馬の背から放り出された。


「何やつ!」


 裕方がうつぶせに落ちた体を無理に仰向かせると、不思議な格好をした男たちが森を走り出て近付いてきた。十名ほどが、真っ黒な衣装に軽い胸当てを付けて弓と短めの刀を持っている。


「まさか、願空の……」


 つぶやいた目の前で、男の一人が寿方の腰の帯から呼蝶丸(こちょうまる)を抜き取った。


「これだな」

「返せ! それは、俺のだ……」


 寿方は苦しい息で必死に腕を伸ばして刀をつかもうとしたが、首を貫かれて絶命した。


「なぜ刀をねらう!」


 男たちは答えず、一人が裕方に近付いて長刀を振りかぶった。


「誰の差し金だ? ……まさか!」


 男たちの背後で笑う人影に裕方は目を見張った。


「無念……!」


 裕方の首に無言の一撃を加えると、男たちは混乱する戦場を素早く去っていった。



「よし、勝ったな」


 沖里是正は戦場を見回してつぶやいた。

 三千五百の飛鼠軍はすでに崩壊し、追ってきたはずの彼等が沖里家の武者たちに追いかけ回されている。


「これほどうまく行くとは思わなかった。敵は油断しておったようだ」


 飛鼠軍を事実上指揮している裕方は経験豊富な武将のはずだが、追撃で勝利を確信して慎重さを欠いたのだろうか。


「とにかく、これで逃げ切れるだろう。銀沢信家殿の助言が役に立った」


 今朝、水門橋(みとばし)へ向かっていた是正の下へ、桜舘家の使者を名乗る武者が現れ、手紙を渡したのだ。


「『宇野瀬軍が勝った場合、追撃される可能性があります。途中に伏兵を置くとよろしいでしょう』か。その通りになったが……」


 是正は虎のような(こわ)いあごひげを撫でた。


「それにしても敵の崩れ方が急だった。内部で何かあったのかも知れぬ。あの手紙は本当にあの少年からのものだったのか……」


 是正は首をひねったが、飛鼠家の武者たちがばらばらになって橋の方へ走っていくのを見て、引き鐘を打たせた。


「父上、勝ちましたな」


 二十二歳の正維(まさつな)が逃げ始めた敵武者の間を縫って馬で駆けてきた。


「もう少しで壊滅させられますが……」

「追撃は無用だ。敵が追ってこないならそれでよい」

「かしこまりました」


 正維(まさつな)も分かっていたらしい。息子に預けた武者たちが戦闘をやめて集まってくる。


「このあと、どの道を逃げますか」


 その問いの答えはもう考えてあった。


「寝入城にはほとんど武者がいない。敵は一万九千だ。とても守り切れないだろう。救援に向かっても間に合わない。よって、我々は海岸沿いを進んで最短距離で薬藻国(くすものくに)へ向かう。その道のりなら敵に見付からず追撃もされないだろう」

「はい」

「伝令を送り、国元の城に残していた二千で国境(くにざかい)に陣を張って守りを固めさせる。逃げてくる武者を救い、敵の進撃を食い止めるためだ。お前は騎馬の者たちを連れて先行し、留守を任せた家老たちと合流してわしを待て。安心せい。恐らく願空は国境を越えぬ。狢宿国は取られるが、わしらの領国までは侵されぬだろう」

「承知しました。すぐに五百を率いて向かいます。ですが、なぜそう分かるのですか」


 信頼と尊敬のまなざしを向ける息子に、是正はやや眉を曇らせて言った。


「願空は何やら企んでおるようだからな。飛鼠家は利用されたのだ」


 正維は頭を下げ、騎馬武者を率いて南へ向かった。是正は東へ敗走する飛鼠軍を眺め、北へ視線を移した。


「さて、この敗北は高くつきそうだ。当家が立ち直るにはしばらくかかるだろう。願空に時間を与えてしまうな」


 宿将の顔には深い憂慮と強い決意が表れていた。


「この危機にこそ当家の力が試される。立て直しに失敗すれば、元尊の小僧の愚かさのために探題の名家が滅ぶかも知れぬ」


 成安家の宿将は素早く三千五百人をまとめると、行軍を再開した。



「父上」


 願空が狢橋を渡って砦の前で武者をまとめていると、息子が近付いてきた。


「どうした」


 義意(よしおき)は一人の男を連れていた。


掛狩(かかり)承操(よしもち)殿がおいでになりました」


 武虎の仲間十名も一緒で、頭領に小声で報告を始めている。


「よう来られた。うまく行きましたかな」


 願空は人のよさそうな笑みを作った。


「はい。願空様のおかげで大切なものを取り戻すことができました」


 進楽は深々と頭を下げた。


「それが呼蝶丸(こちょうまる)ですかな。大変な名刀とうかがっておりますが」


 進楽は紫の絹の袋に包まれた長刀を抱いていた。願空が興味深そうに見やると、進楽は誇らしげに語った。


「この刀は五百年前に当家の先祖が、高桐(たかぎり)基龍(もとたつ)公から頂いたものでございます。我が家の家宝でございました」


 言って、急に悔しげに顔を歪めた。


「しかし、父の代で身代が傾き、借金を返すためにやむなく飛鼠寿方に売ることになりました。わたくしは再びこの刀を我がもとに取り戻すため、得た金で新たな商売を始め、ようやく軌道に乗せることができました。ですが、寿方はこの刀を大変気に入り、買い戻したいと言っても応じようとしませんでした」


 進楽の言葉は段々と呪詛(じゅそ)のような響きを帯びてきた。


「あの男は封主家の世継ぎのくせに自分の役目を果たさず、刀剣集めの趣味に没頭しておりました。当主になってからは、漆器で当た金を湯水のごとく使って刀を買いあさりました。わたくしも随分もうけさせてもらいました。ですがね、あの男には刀の()()しなど全く分かっていなかったのでございますよ」


 進楽は憎悪と侮蔑の笑みを浮かべた。


「寿方は刀が好きだと口癖にように言っていましたが、目の肥えた収集家ではございませんでした。結局は作者の名や値段で買うものを選び、自分の目で見ていなかったのでございます。金を惜しむべきでない名物をいくつも前にしながら、商人の口車に乗って鞘を飾り立てたものや変わったこしらえにしただけの安っぽい作ばかり買い集めておりました。数本はましな刀がありましたが、ほとんどは価値のないものでした。わたくしはそれが我慢ならなかったのでございます。そんな男に所有されていることが、呼蝶丸(こちょうまる)にとって幸せなはずはございません」


 だから、進楽は願空の誘いに乗って飛鼠家を売ったのだ。少しずつ寿方が焼石家や願空を信じるように持っていき、反乱を起こす気にさせた。さらに、家臣の一人をそそのかして元尊の降伏勧告の使者を殺させ、宇野瀬家を頼らざるを得なくした。


「あの男が万が一にでもこの刀を売り払ったり傷付けたり鋳つぶしたりしないように、わたくしは側近になって見張ることに致しました。商売と刀剣の話や全国の情勢を語って寿方と裕方の信用を得て、取り戻す機会をうかがっていたのでございます。わたくしはこの名刀のためなら命を捨てられます。この刀の真価を理解し、帯びる資格があるのは吼狼国でわたくし一人だけでございます!」


 叫ぶように断言した進楽は、呼吸を整えて商人らしい物腰に戻った。


「こうして取り戻したからにはもう決して手放しません。今回の報酬として頂く五万両を元手に商売をさらに拡大し、二度と家をつぶすことなく、この名刀を子孫に代々受け継がせていくつもりでございます」

「その金は狸塚城にあります」


 義意が告げた。


「千両入りの箱を五十個荷車に積みました。話は伝えてあるので持っていってください。当家の家臣を一人同行させます」

「ありがとうございます」

「こちらこそ、進楽殿には大変お世話になりました。お礼申し上げます。約束通り、寿方の集めた刀は蹴浜(けりはま)城を落としたら全てお届けします。もう一本の刀も必ずお渡ししましょう」

「俺の仲間の半数が取りにいっている」


 十人をねぎらっていた武虎が話に加わった。何度か連絡役をしたので進楽と面識があるのだ。


「あの男は今日死ぬ。明日にはお前のものになる」

「桜舘家の花斬丸(はなきりまる)も高値で引き取らせていただきます。お手にお入れになりましたら、ぜひお譲りください」

「その時は真っ先にお声をおかけしましょう」


 義意は進楽に約束した。


「今後は、商売でもごひいきをお願い致します。よい刀をお求めの際はぜひお呼びください。真に目の()くわたくしが厳選した名刀をお持ち致します」


 進楽は深々と頭を下げて去っていった。その背中を見送って、義意が言った。


「刀のためにあそこまでするとは、私には理解できません。しかし、呼蝶丸(こちょうまる)がどんな刀なのか一目見たかったですな」


 武虎が願空に低い声で尋ねた。


「あの男、殺すのか。あれはかなりの名刀だ。手に入れたかったのではないか」


 願空は何を下らぬことをという顔をした。


「そんなことはせぬ。十分役に立ってくれたからな。仕事には相応の対価を支払う。報酬をけちって下手な噂が立つとやりにくくなる。朧燈国(おぼろひのくに)にはすぐれた刀匠がたくさんおる。欲しければもっとよい刀を作らせればよい」

「それはそうだな」


 武虎は同意して、皮肉っぽい笑みを浮かべた。


「ところで、本当に寿方には見る目がなかったのか」

「どういうことですか」


 驚く息子を願空は困ったものだというように見た。


「さあな。にせものやつまらぬものにたくさんだまされることで、本当によいものが分かってくるものだ。真に価値のある刀が数本まじっていたのなら、案外目があったのかも知れぬ。呼蝶丸(こちょうまる)を最も大切にしていたそうではないか」

「そういう考え方もありますな」


 義意が感心すると、願空は大きな溜め息を吐いた。


「お前も少しはあの男のような野望を持て。見習えとは言わぬが、もう少しずるさと勇気が必要だ」


 願空は息子に教訓を垂れる口調になった。


「あれも一種の勇者だ。思い付いても多くの者は実行できぬ。欲深い者、目的のある者はよく動く。ゆえに使いやすい」

「はい」


 義意は神妙に答えたが、その素直さが願空は気に入らないようだった。


「欲は勇気を生む。だが、欲に目がくらむと都合のよい部分ばかり目に(うつ)って本当の困難さが分からなくなり、元尊のような失敗をする。自分の欲を知り、制御できる者こそ知恵がある」

「銀沢信家は欲が薄いと聞いております」


 義意が言うと、願空は真顔で頷いた。


「そういう男は手強(てごわ)い。調略もできぬし、物事を冷静に見て裏に隠されたものを見抜くことができる。殺し損なったことが(のち)(のち)災いになるやも知れぬ」


 菊次郎の暗殺を武虎に命じたのは願空だった。しくじらなければ合戦で桜舘家をたたけたものをと苦々しく思ったようだったが、すぐに首を振った。


「だが、それはまだ先のことだ。まずは目の前にあるものを確実に手に入れる。五万両などやすいものだ。十七万貫の国と漆器が手に入るのだからな」


 武虎は確認する口調で尋ねた。


「やはり飛鼠家は滅ぼすのか」

「わしでさえ九万貫だ。貫高が大きすぎる。しかも独立心が強く何度も反乱を起こしておる。配下に入れても信用できぬ。また成安家に寝返らぬとも限らぬからな」

「直轄地にするのか」

「いや、蹴浜城には空澄唯月を入れる。半島の先端部は霧林在枝(ありしげ)に与え、漆器を増産させる。木材と漆器工房は同じ者に管理させた方がよかろう」


 願空はにんまりと欲深そうな笑みを浮かべた。


「山鍬には漆器の流通を任せ、生糸と一緒に都方面へ売らせる。藻付には狢宿国の薬の製造販売を統括させる」


 その密約で彼等を寝返らせたのだ。二年前、桜舘家との和平で鉄器や生糸の値下げを受け入れたのは、有力な家老である韮木家や山鍬家の力を弱めるためだった。それに苦しんだ詮徳は、願空の誘いに乗り、一緒になって主延をだましたのだった。


「焼石の銅山は直轄にして増産させる。元尊はわしの目論見通りに動いてくれた」


 焼石積城(あつなり)が飛鼠家に反乱をそそのかしたのは願空の命令だった。その焼石家をおとりにして滅ぼさせ、銅山を手に入れたのだ。


「銅と漆器、韮木の刀剣があれば、恵国へ貿易船を送れる。その資金で都へ上る軍備を整える。この勝利でわしに逆らう者はいなくなるだろう」


 天下人になるという目標を願空は変えていなかった。


「元尊の小僧もしばらく大人しくなるはずだ。お前にも大分働いてもらった。報酬は約束通りだ」


 合戦で蜂の巣を使うことを提案したのは武虎だった。二十個用意したのも彼等だ。

 その方法はこうだ。まず、見付けた巣を煙でいぶして蜂を追い払い、枝から降ろして木の箱に入れる。煙がなくなって蜂が巣に戻ったら、遠くからひもを引いてふたを閉じ、(のり)を塗った紙を張り付けて封をする。虫が嫌う草の汁を吸わせた衣服で全身を覆い金網を頭に被った者たちがそれを運び出すのだ。武虎の一族に代々伝わっているやり方だという。


「報酬は心配していない。もし裏切ったら殺しに行くがな」


 武虎は平然と物騒なことを言った。


「このあとはどうする」

「寝入城を落とし、成安家の武者を狢宿国から追い払う。できる限り帯を奪って身代金を手に入れる。狸塚城は俵子充日、寝入城は海居昇年に守らせる」

「薬藻国を攻めないのですか。成安軍は壊滅状態にあります。墨浦に攻め上る好機です」


 進言した義意に、願空は呆れた顔をした。


「そううまくは行かぬよ。確かに主力は破れたが、飛鼠家を抑えていた沖里隊はほぼ無傷だ。国元に残していた軍勢と逃げ延びてきた者たちを合わせれば一万を超えよう。あの頑固者を打ち破るのは容易なことではない。それよりも当主と補佐役を失った飛鼠家が混乱しておるうちに下すのだ。その軍勢はお前に任せる。見事降伏させてみせよ」

「かしこまりました」

「俺がついていく。心配は無用だ」


 武虎と義意には合戦の前に具体的な指示を出してある。隠密への報酬はこれも込みで支払う。二人はうまくやるだろう。


「わしは狢宿国の事後処理をする。今回はここまでだ。あれもできるこれもしたいと欲をかきすぎると損をするものだ」

「では、今後はどうするのですか。弱った成安家とは戦わないのですか」


 義意は師に教えを乞うような口ぶりだった。


「成安家はしばらく放っておく。亀裂は入れた。彼等自身がそれを拡大させ、力を落とすだろう。遠からず攻め入る好機が来る。その前に福値家を討ち、天下への道を邪魔できぬようにする」

「桜舘家はどうする」


 武虎は菊次郎が気になるようだった。大軍師との戦いには自分の力が必要だと思っているのだ。


「戦が終わり次第、豊津との商売を再開したいと交渉を持ちかける。生糸と鉄器の売値は元に戻させる。和約を結びたいと言えば、向こうはのまざるを得まい。増富家が気になっておるだろうからな」

「この機に値をつり上げるのではないのですか」

「今豊津では新しい帆の開発が進んでおる。あの港はこれから大いに発展するだろう。無理にふっかけて恨みを残すより、今後の交易を盛んにする方が得が多い。おのれだけ得をして相手には損ばかり押し付けるのは商売としては下手なやり方よ」


 願空は道果に仕える前は諸国をめぐる行商をしていたと言われている。その中で得た知恵だろう。


「だが、それも直春とやらが生き延びたらの話だ」


 願空は意地の悪い笑みを浮かべた。


「葦狢街道から韮木主延を、一息街道には空澄唯月の騎馬隊を進ませた。追撃をのがれられるか見ものだな」


 連署の老人は武虎に目を向けた。


「あの助言は唯月に伝えた。お前の配下の働きにも期待しよう」

「案ずるな。成功すればあの小僧は今日までの命だ。失敗しても損はない。あの男が喜ぶだろう」


 武虎は冷酷そうに唇の端を引き上げた。


「では、わしは御屋形様と一緒に寝入城へ進軍するとしよう」


 長賀が馬廻りに守られて狢橋を渡ってくる。願空は猛禽の本性を隠して人のよさそうな笑みを浮かべると、息子と武虎に背を向けて主君を迎えにいった。

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