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狼達の花宴 ~大軍師伝~  作者: 花和郁
巻の四 知恵者と勇者
33/66

(巻の四) 第四章 狢河原 上

 萩月十三日の夜明け前、菊次郎の小屋の戸が激しくたたかれた。元尊から出陣命令が届いたのだ。

 使者は昨夜川前出城を落としたことを告げ、合戦を行うので急いで狢橋まで全軍を率いてきてもらいたいと告げた。直春や忠賢は驚き、様々な質問をして状況をつかもうとしたが、使者も詳しいことを知らず、指示通りにするようにと言って帰っていった。


「いつの間に合戦することになったんだ?」


 忠賢は明らかに不機嫌だった。まだ暗いうちに起こされたからだけではなさそうだ。


「そもそも俺たちは別働隊のはずだろ?」


 直冬は眠そうに目をこすった。


「いきなり軍勢を連れてこいなんて、随分乱暴な話ですね」


 菊次郎も首を傾げた。


「合戦に至った経緯がはっきりしません。川前出城をどうやって落としたのでしょうか。あそこには六千ほどの敵がいたはずですが」


 忠賢が嫌そうな口ぶりで言った。


「自力で落としたってのが信じられねえな。あの連署のことだ。城攻めなんて損害が出そうなことは俺たちに振るんじゃねえか」

「ありそうですね」


 直冬は頷きながら大きなあくびをした。


「俺も奇妙だと思う」


 直春はさすがに使者を迎えるのにふさわしい格好をしていた。忠賢が着崩れているのはいつものことで、眠いからではなかったが。


「使者は本当に何も知らなかったようだ。わざと教えられなかったのかも知れん」

「あたしたちに情報を与えないようにしたってこと? 疑われてるの?」


 田鶴は菊次郎が襲撃されたあと、豊津に帰るのをやめて村に残った。護衛のつもりらしい。女の子を男たちと一緒に泊められず旅籠の一室を借りていたが、使者が来たと聞いて飛んできた。


「作戦に口を出されたくなかったのだろう。恐らく元尊の指示だ」


 直春の推測に、菊次郎は寒気を覚えた。


「嫌な感じがしますね」

「配下は指示された通りに動けばよいという考えだろうな。戦場に着いたら文句を言う暇もなく合戦が始まるに違いない」

「敵は願空だよね。勝てるの?」


 心配そうな田鶴に、菊次郎は腕を組んで考えながら答えた。


「川前出城の攻略で大きな損害が出たのなら、翌日すぐに合戦はしないでしょう。つまり、さほど苦労せずに落とせたのです。調略が成功して内通者がいたか、もしくは、あまり考えたくないですが、願空がわざと落とさせたかですね」

「わざとですか」


 直冬はびっくりしたらしい。


「二ヶ月前にわざわざ作ったのに、敵に与えるのですか」

「恐らく元尊を釣り出す餌にしたのでしょう。落とさせることで、合戦を決意させたのです」

「つまり、願空におびき出されたわけだ」


 忠賢が露骨に顔をしかめた。


「ますます嫌な感じだな」

「だが、出陣を拒否はできん。戦いに参加するしかない」


 直春が言うと、直冬は悔しげな表情をした。


「残念ですけど、成安家には逆らえませんね」

「勝てればよいが、問題は負けた時だ。備えが必要だな。菊次郎君、考えはあるか」

「葦江国へ帰る用意をさせておきましょう。既に計画はできています」


 菊次郎は言った。


「ですが、できるなら敗北は避けたいです。負けたあとの撤退は非常な困難をともないます。勝つのが最善です」

「そうだな。元尊が敗退すれば成安家の力が弱まる。当家領の防衛にも大きな影響が出るだろう。最悪、俺たちの手でこの戦を勝たせるしかない」

「おいおい、二人とも本気かよ。敵は大軍だぜ」


 忠賢は驚いてみせたが、やる気は充分のようだ。戦いが好きな男なのだ。


「出城の陥落が敵の思惑通りなら、願空や武虎には十分な準備があるだろう。苦戦は必至だが、勝利を目指したい」

「こりゃあ大仕事になりそうだな」


 口では大変だと言いながら、直春と忠賢は笑みを浮かべていた。自信にあふれた二人を菊次郎は頼もしく思いつつ、あまり信用できない味方の顔を思い浮かべた。


「問題は当家が何をやらされるかですね。楽な役割ではなさそうです」


 直冬が溜め息を吐いた。


「やっぱり、あの連署が最大の懸念材料なんですね」

「だが、負けるわけにはいかん。この戦は勝っても当家にはあまり得るものがないが、敗北すれば多くのものを失うかも知れん。何より、武者たちを無事に連れ帰るのが俺たちの役目だ」


 直春の決意を聞いて、菊次郎たちも覚悟を決めた。厳しい戦いになりそうだった。



 直春は武者たちに出陣を伝え、小荷駄隊に炊き出しを急がせた。昼時までに狢橋に行かなければならない。武者たちは慌ただしく朝食をすませ、昼食と夕食用の握り飯を鎧の腰に結んで整列した。

 直春は菊次郎と相談して、五百を村に残すことに決めた。恐らく宇野瀬軍もほぼ全軍を合戦に投入するので襲われる危険は少ないが、この村を失うと葦江国への退路が塞がれてしまう。撤退の準備のためにもその程度の数は必要だった。

 田鶴も村に残した。今回は移動が長いし、敗北して逃げることになった場合は苦難が予想され、守り切れるか分からない。少女は自分も戦うと言ったが、直冬と菊次郎と忠賢の三人がかりで説得した。

 四千五百人の武者は、留守を託した槻岡良道たちに見送られて村を出発した。坂を下り、つり橋を渡り、右に一息川を見ながら南東へ進んでいく。武者の体力を温存するため時々休憩を取りながら、なんとか指定された刻限までに狢橋に到着した。


 既に成安軍は橋を渡り終えていた。待ち構えていた武者の指示に従って旭国(きょくこく)街道を北上すると、川からさほど離れていない場所で二万三千が昼食休憩をとっていた。さらに北には宇野瀬軍一万九千が布陣しているのがかすかに見えた。案内役の説明では、この小石の多い野原は狢河原(むじながわら)と呼ばれているそうだ。大洪水の時は水に浸かることもあるらしい。

 菊次郎と直春は成安軍の街道を挟んだ左隣に武者を並べると、その場に座って握り飯を食べるように命じ、元尊の本陣を訪ねた。しかし、元尊は会おうとせず、応対した陰平索庵は作戦をざっと説明すると、質問を早々に打ち切って追い返した。

 やむなく戻ってきた二人を、忠賢と直冬と槻岡良弘、騎馬隊の副将の榊橋(さかきばし)文尚(ふみひさ)が待ち構えていた。


「予想通りだったか」


 忠賢は菊次郎たちの顔を見るなり言った。


「はい。元尊には会えませんでした。戦の前で忙しいそうです」


 菊次郎と直春は用意された床几(しょうぎ)に腰を下ろした。


「ちっ、やっぱり俺たちには詳しいことを教えない気か。仲間を信じないやつのために戦えってのかよ!」


 忠賢は舌打ちした。


「沖里殿に聞いてはどうですか」


 言った直冬に、菊次郎は首を振った。


「狢川の河口で飛鼠軍を抑えているそうです」

「遠ざけたんだな。頼りになるやつをどんどん追い払ってどうすんだ!」


 忠賢は呪いの言葉を叫びかけたがやめた。


「あの眼鏡野郎がしくじるとまずいんだったな。畜生!」


 直春も厳しい表情だった。


「相手は願空だ。当主長賀の姿も確認したそうだ。宇野瀬軍は全力で向かってくる。強敵と分かっているはずなのだが」

「そういう時は、名将や大軍師を呼んで意見をよく聞くもんだろうが。負けたいのかよ」


 忠賢の言葉に菊次郎も全く同感だった。


「僕も厳しい戦いの時は、ぜひとも皆さんに相談したいですね」

「菊次郎さんでさえそう言うのに、あの連署は」


 直冬は呆れ果てたという口調だった。

 遠く離れた敵軍を眺めて直春が問いかけた。


「君が元尊にしかけるとしたらどのように罠を張る?」

「ここに来るまでの道中、僕もそれを考えていました」


 菊次郎は願空の姿を敵陣に探したが、遠すぎて見えるはずもなかった。

「罠の基本は相手の欲に訴えることです。望むものが手に入ると思わせて正常な判断力を失わせ、餌に飛び付いたりしかけに踏み込んだりするように仕向けます。疑いつつも話だけは聞こうと言ってきたら、もう半分は策にはまっています」


 続いて索庵から聞いた作戦を話した。

「見事に引っかかってるじゃねえか!」


 忠賢は叫んだ。


「敵がわざと開ける穴に突っ込むって、阿呆か!」

「危険すぎますね。すごい勇気です。尊敬はしませんけど」


 直冬の中で元尊は低評価で固定されたらしい。


「こちらが勝てる可能性はあるか」


 直春の真剣な顔を見て、菊次郎は苦笑を収めた。


「あります。僕たちは左翼です。元尊は右翼で、敵もその向かい側、つまり東隊に主力を集中しています。僕たちの正面の敵は思ったより少ないようです。そこに勝機があります」


 成安軍は、左翼に桜舘軍四千五百、中軍に杭名(くいな)種縄(たねつな)の七千、右翼に元尊自身の主力一万二千、そのさらに右に宗速の騎馬隊四千を置いている。宇野瀬軍は、桜舘家の向かいに西隊四千、本隊が五千、元尊の正面の東隊が八千八百、その向こうに騎馬隊一千二百がいる。両軍はそれぞれ横一列に並んで対峙(たいじ)していた。


「僕たちは忠賢さんの騎馬武者一千二百と(かち)武者三千三百です。敵の西隊は一千の騎馬隊と三千の徒武者隊です。つまり、わずかですが、数でまさっています。旗印からすると、相手は願空の腹心の勇将のようですが、勝てない相手ではありません」


 菊次郎は砂に石と線で部隊の動きを示した。


「この四千を突破できれば、敵本隊五千の側面へ出られます。そこには願空と当主長賀がいるはずで、この部隊が崩れれば全軍が潰走します。そうなれば、願空の策がどのようなものであれ、こちらの勝ちです」

「なるほど」


 直冬は顔を明るくしたが、直春は短く尋ねた。


「こんなことが本当に可能なのか」

「できると思います」


 大軍師としての責任と自信を込めて断言した。


「そうか。では、この作戦で行こう」


 直春はようやく表情をゆるめ、自信に満ちた笑み浮かべた。


「菊次郎君を信じよう」


 忠賢が立ち上がって腰を伸ばした。


「元尊のためにそこまでしてやるのは気が乗らねえが、やるしかねえな」


 こちらも不敵な笑みだった。


「元尊のためではありません。桜舘家のため、武者たちのため、天下統一の夢のためです」

「そうだな。それを忘れてはならないな」


 直春は仲間たちを見回した。


「苦しい戦いになるが、力を貸してくれ」

「この二ヶ月毎日鍛えたあいつらの力を見せてやるぜ」


 忠賢がにやりとした。直冬は両手のこぶしを胸の前で握った。


「僕も頑張ります!」

「わしも全力で国主様をお支えする」

「騎馬隊の半分はお任せください」


 槻岡良弘と榊橋(さかきばし)文尚(ふみひさ)も全力で任された役目を果たすと誓った。


「両大国の決戦の鍵を握っているのは僕たちです。願空と元尊をびっくりさせてやりましょう」


 菊次郎が言うと、直春は大きく頷いて笑い、腰の包みをはずした。


「では、その前に腹ごしらえだ。しばらく食えなくなる。しっかり腹に入れておこう」

「そうですね。空腹だと太鼓の音ががんがんお腹に響きますから」


 菊次郎も大きな握り飯からはられた葉っぱをはずして頬張り始めた。



 半刻ほどのち、両軍は食事を終えて動き出し、五百歩ほどの距離で向かい合った。

 元尊は八人で担ぐ屋根のない輿(こし)に乗って戦場を見渡していた。黒漆塗りの鎧はぴかぴかに磨かれていて遠くからもよく見えた。本人もそれを分かっており、ことさら(いか)めしげに胸を反らしていた。


「そろそろ始めましょう。宗員様、ご命令を」


 全軍の準備が整ったと報告を受けて、元尊は総大将に言上した。立派な(くら)を置いた馬にまたがった宗員は、自分より高い位置にいる元尊に向かって物憂(ものう)げに命じた。


「始めよ。指揮は氷茨殿にお任せする」


 これで形式が整った。元尊は輿の上で立ち上がった。重い鎧と不安定な足場のせいでよろけそうになったがなんとか転ばずに背を伸ばし、手にした真っ赤な軍配を前に振った。


「全軍、前進!」


 大太鼓が鳴らされ、各部隊でそれぞれの音色と声が響いて軍勢が動き出した。

 それを見て宇野瀬軍も行動を開始する。二万七千五百対一万九千、合わせて五万近い武者が隊列を維持して進んでいく。自分や仲間を鼓舞するための腹の底からの雄叫(おたけ)びは、遠い大長峰(おおながね)山脈まで(とどろ)いていった。


「ゆっくり進め。慌てるな。まずは敵の様子を見る」


 元尊は自分が率いる右翼一万二千に指示して、左の友軍を眺めた。


「桜舘軍は戦に乗り気でないと思ったが、腹をくくったようだな」


 直春や菊次郎は軍議で交渉を主張していたので手を抜く可能性も元尊は考えていた。しかし、桜舘軍は真っ先に敵軍に向かっていき、早くも宇野瀬軍西隊と戦いを始めている。杭名隊も元尊隊をはるかに追い越して前へ出て、敵の中軍と矢戦をしたあと、槍隊同士で激しくぶつかって力比べを始めた。


「桜舘と杭名は勝たなくてよい。むしろ勝たれては困る。内通者が裏切り、その隙をついて俺が敵を崩すまで、持ちこたえるだけでよいのだ」


 桜舘軍に敵西隊を、杭名隊に敵本隊を抑えさせておいて、元尊自身が率いる右翼で敵東隊を撃破し、全面的な攻勢に出る作戦だった。


「大軍師とやらの采配を見せてもらおう。わしが勝負を決めるまで負けるなよ」


 元尊は自分の戦に集中することにした。


「さて、韮木と山鍬の動きを待つとするか。願空はどうするつもりなのか。もう少し速度をゆるめさせるべきか……おお、もう表れたか」


 元尊はうれしげに大声で笑った。


「はっはっは、あれを見ろ! 敵軍は戦う前から崩壊しておるぞ!」


 宇野瀬軍で異変が起きていた。長賀の命令が下ると西隊は桜舘軍に、本隊は杭名隊に向かって進み始めたが、東隊は八千八百のうち四千しか前進しなかったのだ。

 動かなかったのは韮木(にらぎ)家の三千と山鍬(やまぐわ)家の一千八百だった。主延(ぬしのぶ)詮徳(あきのり)は元尊との約束を守ったのだ。それどころか、その場で反転し、北の方へ去っていこうとした。

 しかも、これに最も東にいた騎馬隊一千二百が同調した。二家が去るのを見て前進を止めていたが、自分たちも東の方へ移動し始めたのだ。戦場を離脱するつもりらしかった。

 宇野瀬軍一万九千のうち、なんと六千が戦いを拒否したのだ。元尊隊へ向かって進み始めていた東隊の残り四千は戸惑ったように途中で停止し、前進を続けた長賀の本隊に置いていかれてしまった。


「あの騎馬隊の将は誰か」


 宗員が元尊に訪ねた。


霧林(きりばやし)在枝(ありしげ)でございます。この戦は勝てぬと見て裏切ったようでございますな」


 霧林(きりばやし)家は狢宿国の家老で四万貫。騎馬隊で名高い。


「霧林家とは密約がございませぬ。にもかかわらず逃げ出しました。恐らく、韮木と山鍬の離脱を知らなかったのでございましょう。願空が教えなかったのか、寝返りが本当だったのかは分かりませぬが、いずれにしましても、この合戦、当家の勝ちが決まりましたぞ!」


 元尊は輿の上に立ち上がると、伝令武者を呼んだ。


「宗速様の騎馬隊に前進を命じる。敵東隊の残り四千を東側から襲っていただきたい。我が隊はこのまま進み、南側から攻撃する。途中で停止しておろおろしている間抜けな連中を、息を合わせて挟撃致しましょうとお伝えするのだ」


 続いて、もう一人の伝令に指示した。


糸瓜(いとうり)当仍(まさより)の三千に予定の行動を取れと伝えよ。韮木と山鍬を警戒せよとな」


 すぐに元尊の右翼一万二千から三千が分かれて北上していった。元尊は二人の裏切りを信じておらず、あらかじめ彼等を追跡する部隊を用意していたのだ。


「これであの二隊は戻って来られぬ。戦場でおかしな動きをしたら当仍(まさより)が足止めする。霧林の騎馬隊まで逃げ出したのは予想外だったが、たった一千二百だ。危険は少ないだろう」


 離脱した三部隊はどんどん戦場から遠ざかっていく。


「宗員様。我が隊の残り九千は宗速様の騎馬隊が動き出したら速度を上げます。そのまま駆けるように敵にぶつかり、一気に押しつぶすのでございます」


 隣を馬でついてくる総大将に報告すると、元尊は眼鏡を人差し指でずり上げてにんまりした。


「予想外に呆気なかったが、大勝利は疑いない。先生の心配は当たらなかったな」

「あまりにうまく行きすぎている気が致します。ご用心ください」


 そばを歩いている陰平索庵は忠告したが、元尊は笑い飛ばした。


「先生は本当に気が小さいな。この状況でもまだ不安なのか」


 戦場を眺めて愉快そうに言った。


「敵東隊の残りは四千、こちらは宗速様と合わせて一万三千で挟撃だ。防ぎようがない。東隊を倒せば残りの敵は九千、しかも本隊の脇ががら空きになる。願空にどんな策があろうと、もはやここから立て直すことは不可能だ。わざと陣形を崩してこのざまとは、愚かな賭けだったな」


 元尊は欲深そうな表情になった。


「しかも、霧林(きりばやし)家まで手に入った。密約はないゆえ、敵前逃亡の裏切り者は処刑して領地を取り上げてしまおう。ただ、あの騎馬隊は惜しい。できるだけ傷付けず、配下に加えよう」


 霧林(きりばやし)家は山や牧場を多く所有し、漆器に使う木材を磯触国へ提供している。飛鼠家を滅ぼしたあと、漆器の製作や流通は昵懇(じっこん)の墨浦商人に任せることになっているので都合がよかった。


「加えて、焼石家の銅山を直営にする。それで恵国へ船を送れば資金は充分だ。いよいよ邪魔な鮮見家をつぶして都を目指せる」


 満面の笑みの元尊に対し、索庵はますます眉を曇らせたが何も言わなかった。

 右手で大きな笛の音がした。宗速隊が行動を開始したのだ。四千の精鋭騎馬隊は宗速を中心に固まって速度を上げ、左へゆるやかに曲がりながら敵東隊へ向かっていく。


「よし、我が隊も足を早めよ!」


 九千の徒武者の足音が激しくなった。槍を構え、地面を踏みしめて進んでいく。距離が縮まり、敵の武者たちの顔がはっきりと見えてきた。


「うむ。宗速様とほぼ同時に接敵できそうだな」


 元尊は総大将を振り返った。


「宗員様、敵には投石機があります。そろそろ石が届きますのでお気を付けください」


 宇野瀬軍本隊の背後に四十台の投石機がある。車輪付きの可動型で、設置型ほどの威力はないが、こぶし大の石なら一度に十個以上を飛ばすことができる。その程度の大きさの石でも当たり所によっては致命傷になる。


「盾を構えよ。石から身を守れ!」


 元尊は命じて、(ひと)()ちた。


「数が多いゆえそれなりの脅威にはなる。だが、前進を阻むことはできぬ。我が隊は九千。多少やられても敵東隊をたたくのに問題はない」


 敵まであと二百歩ほどになった。元尊は軍配を振り上げて叫んだ。


「矢を浴びせよ!」


 九千のうち三千が弓を引き絞った。矢が降り注ぐと敵は面白いほど動揺し、よろけたり悲鳴を上げて騒いだりしている。


「同じ場所で停止したままうろたえておる。既に戦意を失っているようだな。一撃で崩壊するだろう」


 そろそろ百歩の距離だ。武者たちは光る穂先をそろえて敵に向けた。


「前進、前進、前進だ! 我が方は数ではるかにまさっている。勢いに乗って攻め寄せよ!」


 元尊が叫ぶと、武者たちは大きな鬨の声で答えた。右手から宗速の騎馬隊が駆けてきて、敵東隊の側面に突っ込んでいく。


「よし、こちらも敵に突進だ。体当たりするつもりでぶち当たり、衝撃を与えて陣形を崩せ! この戦、勝ったぞ!」


 そう叫んだ時、前方で何かが壊れる音がして武者たちが騒ぎ出した。悲鳴はたちまち右翼の九千人全体に広がり、元尊は愕然として、赤い軍配を手から取り落とした。


『狼達の花宴』 巻の四 狢河原の合戦図 その一

挿絵(By みてみん)


 一方、狢河原(むじながわら)の西側、旭国(きょくこく)街道の反対側では、桜舘軍と宇野瀬軍西隊が激しい戦いを繰り広げていた。

 こちらの両軍はそれぞれ二隊ずつに分かれている。桜舘軍は直春率いる徒武者三千三百と忠賢の騎馬武者一千二百、対するは俵子(たわらこ)充日(みつてる)の徒武者三千と空澄(からすみ)唯月(ただあき)の騎馬武者一千だ。宇野瀬方の両将はともに三十代で願空の信任厚く、桜舘軍の抑えを命じられた勇将たちだった。二年前長賀率いる大軍を打ち破った強敵との戦いに高揚し、大軍師の策に惑わされまいとみずからに油断を(いまし)めていた。

 戦闘開始の命令が下ると、直春は槍を(かか)げて叫んだ。


「この戦に勝つか負けるかは当家の働き次第だ。他家の者たちに俺たちの強さを見せ付けてやろう!」

「おう!」


 武者たちも大声で応じ、桜舘軍四千五百は威勢よくかけ声をかけながら前進を始めた。直春隊と忠賢隊は速度を合わせて並んで進んでいく。

 西隊の主将の俵子(たわらこ)充日(みつてる)はすぐさま桜舘軍のねらいを見抜いた。武者たちに呼びかける。


「敵は我が隊を突破する気だ。恐らく本隊の側面を襲うつもりだろう。我々は(あなど)られているぞ! その思い違いを正し、我が隊に戦を挑んだことを後悔させてやろうぞ!」

「やろうぞ! やろうぞ!」


 武者たちは一斉に槍を振り上げて怒鳴った。


「前進! 早足!」


 俵子(たわらこ)隊と空澄(からすみ)隊も応戦すべく、桜舘軍に向かっていった。じっと待ち構えているよりも、前に進んで攻撃した方が受け身にならず、勢いで負けずにすむ。こちらも騎馬隊と徒武者隊が並進していく。

 しかし、激突したのは双方の徒武者だけだった。


「野郎ども、その場で止まれ!」


 忠賢の声が響き、騎馬隊が途中で停止した。直春隊は前進を続け、すぐに俵子(たわらこ)隊と衝突、槍を振るって激しい戦いを始めた。三千三百対三千、数はほぼ同じ。互いに一歩も引かず、先に後退した方が負けとばかりに相手を押し下げようとする。

 一方、双方の騎馬隊は離れてにらみ合っていた。忠賢隊は直春隊の斜め後方で、空澄(からすみ)隊は俵子(たわらこ)隊の真横で、相手をにらんだまま待機している。


「おかしい。敵はなぜ動かんのだ」


 空澄(からすみ)唯月(ただあき)は馬上で戸惑っていた。


「一千対一千二百。わずかだが敵の方が多い。しかも敵将青峰忠賢はかなりの猛将らしい。去年の戦ではすさまじい突撃で増富軍の本隊を打ち破り、大将持康を逃走させたと聞いている。ここで戦いを避ける理由が分からん」

「こちらからしかけますか」


 副将が近寄ってきた。


「敵は止まっています。高速で接近して、一気に撃破する好機です」


 唯月(ただあき)は興味を引かれた顔をしたが、すぐに却下した。


「いや、駄目だ。敵には大軍師銀沢信家がいる。これはやつの策かも知れん」

「戦わずにじっとしているのが策ですか」


 副将はよく分からないというように眉を寄せた。


「あれこれ考えるよりも突っ込んで暴れ回る方が早い気がしますが」

「俺もそっちの方が好みだが、この戦、負けるわけにはいかん。ここで俺たちが敗退すれば、御屋形様や願空様が危うくなる。危険は冒せん」

「分かりました。もう少し様子を見ましょう」


 副将はしぶしぶ引き下がった。

 だが、忠賢隊は動こうとしなかった。桜舘軍の騎馬武者たちは、馬上で竹筒から水を飲んだりしている。


「ううむ。ねらいが分からん。これでは徒武者が疲れるだけだ。ほぼ同数でたたき合い突き合いを続けて何の得がある。銀沢信家は無駄なことはせぬと願空様はおっしゃっていたが」


 じりじりしていると、再び副将がやってきた。


「攻撃しましょう。武者たちはもう限界です」


 騎馬武者は勢いと思い切りのよさが重視される。敵陣に全速力で突っ込む命知らずな連中が多く、うじうじ悩むような者は向いていない。副将もそれは同じで、じれったく思っているらしい。


「敵の騎馬隊が動かないのなら、敵の徒武者隊を攻撃しましょう。横っ腹に突っ込めば、あっという間に味方の勝ちですよ。あそこで怠けている連中が慌てて動き出す頃には勝負は付いています」


 空澄(からすみ)唯月(ただあき)は迷う顔をしたが、目をつむって歯を食いしばり、誘惑に耐えた。


「駄目だ。俺たちの任務は敵を抑えておくことだ。願空様はおっしゃった。無理に勝とうとするな。時間を稼ぎ、敵を疲れさせ、味方の損害をできるだけ少なくせよ。敵が逃げ出した時に追撃する余力を残しておけ、と。非常に残念だが、攻撃は許可できん」

「しかし、武者たちのいらだちが募っています。動かないなら、他に何か指示を出してください」

「待機だ。それが命令だ。いつでも突撃できるようにしておけ。気を抜くな」

「それはもちろんですが、正直、戦の高揚感が失われ始めています」

「まずいな。何か気持ちを高ぶらせるようなことはないか。鬨の声でも上げてみるか」


 唯月が腕組みして対策を考え始めた時、騎馬武者の一人が叫んだ。


「敵がこちらへ何かを投げています。すごい煙です!」


 慌てて前方へ目をやると、忠賢隊の武者たちが馬上で次々に何かを放り投げている。ただし、空澄隊には届かない。両騎馬隊の中間くらいに落ちていく。


「あれは噂に聞く煙玉か?」


 二年前の葦江国の戦いで、大量の煙を発生させる丸い球を桜舘軍は使った。煙の出やすい草に油を染み込ませたものらしい。


「しかし、いくつ投げるのだ」


 忠賢隊の武者たちはどんどん新しい玉に火をつけて飛ばしてくる。一人五個は投げていそうだ。


「向こうが全く見えんな」


 大量の煙で壁ができ、遂には忠賢隊の姿が隠れてしまった。


「まさか、この煙をつっ切ってきて突撃し、奇襲するつもりでしょうか」


 副将は緊張した顔になった。


「いや、足元に丸い球が多数転がっている。馬が踏んだら脚を折りかねん。それはないだろう。だが、油断はできんな」


 否定したものの、煙に紛れての接近はあり得ると思い、警戒せよと指示しようとした時、副将が叫んだ。


「あっ、敵が動き出しました! 東へ、敵徒武者隊の後ろを駆けていきます!」


 青い鎧の武将を先頭に、騎馬武者の群れが直春隊に隠れるように東へ進んでいく。


「そうか! 旭国(きょくこく)街道を走って、こちらの徒武者隊の東側に出るつもりだ。つまり、側面攻撃がねらいだ!」


 両騎馬隊は戦っている徒武者隊の西側にいた。願空たちの本隊は街道の向こうなので、俵子(たわらこ)隊の東側を守るものはない。


「追いかけましょう。蹴散らしてやります」


 敵が背中を見せたのだ。攻撃の好機だった。


「いや、それは駄目だ。煙の壁がある」


 副将は意気込んだが、唯月は冷静だった。


「煙と丸い球は俺たちの追撃を邪魔するためだったのだな。あれを大きく迂回している間に敵騎馬隊は俵子(たわらこ)隊に到達する。味方が突撃されて崩されてから敵騎馬隊の背後を襲っても遅い。敵の徒武者隊を攻撃する手もあるが、俵子(たわらこ)隊が破れれば俺たちも引かざるを得なくなり、敵を抑えておくという目的は果たせない」

「では、どう致しますか」


 悔しそうな副将に唯月はにやりとした。


「だがら、反転する。こちらも味方の後ろを通って東へ出て、敵騎馬隊を正面から迎撃する!」

「はっ!」


 副将が明るい顔になった。


「よし。充日(みつてる)殿を救いにいくぞ。俵子(たわらこ)隊の反対側へ移動する!」


 唯月の声ははずんでいた。ようやく動くことができる。武者たちも喜ぶだろう。


「お前たち、戦いだ! 相手は敵の騎馬隊だ! 俺についてこい!」


 唯月は叫ぶと馬の腹を蹴った。一旦煙の方へ進んで壁をかすめるように右回りに半回転し、向きを先程までと反対にする。


「全員、戦闘準備!」


 騎馬武者一千はそろって煙の壁に背を向け、東の方へ駆けていった。


『狼達の花宴』 巻の四 狢河原の合戦図 その二

挿絵(By みてみん)


「徒武者同士の戦いは決着がつきそうにないですね。予想はしていましたけど、敵はなかなか強いです」


 直冬が菊次郎に話しかけた。


「当然ですね。数はほぼ同じです。しかも騎馬隊がいるので一部を側面へ回らせるといったことがしにくいです。真正面からぶつかれば、一方がよほど弱くない限り、この程度の時間ではそんなものです」


 答えながら、菊次郎は敵騎馬隊を観察していた。二人は直春率いる徒武者隊の後ろにいる。


「そろそろでしょうか。直冬さんはどう見ますか」


 十四歳の武将は額に手をかざして同じ方を眺めた。


「敵騎馬隊は相当いらいらしているみたいです。すぐそこに敵がいるのに攻撃できないなんて、緊張しっ放しですし、不安ですし、ひどく疲れます。それがねらいなんですよね」

「そういう状態で動く理由ができたらどうしますか」


 菊次郎が振り向くと、直冬はにっこりした。


「僕ならすぐに飛び付きます。喜んで走っていきますね」


 槻岡良弘がまじめな顔で頷いた。


「騎馬武者とはそういう者たちです。ただじっと待たされるよりも、敵と斬り合う方がましと考えるでしょうな」


 菊次郎は微笑んだ。


「恐らく率いる武将もそうでしょう。相手のねらいは何だろう。本当に背を向けて救援に行ってもいいのだろうか、なんて考えませんよね」

「そうでしょうな」

「もう考えるのは飽きていますよ、きっと」


 直冬が請け合うと、大軍師は蕨里安民に命じた。


「合図を」


 竹製の横笛が数回吹かれた。忠賢が顔を向けてこちらに手を振り、配下に命令を出した。やがて、騎馬武者たちが次々に煙玉に点火して前方に放り投げ始めた。


「すごい数ですね。四千五百人分ですから」


 直冬は流れてくる煙のにおいに顔をしかめている。菊次郎は武者全員に油玉と煙玉を持たせていた。それを騎馬武者に集めたのだ。


「煙で忠賢さんたちが隠れます。何をしているのかと敵が不安に思った時、動き出したのが見えるのです」


 忠賢が馬上で槍を掲げ、先をこちらへ倒した。煙玉を投げ終えた騎馬武者たちは、隊列を組んで進み始めた。次第に足を速めながら近付いてくる。


「敵は驚いていますよ」


 忠賢隊の動きを見て、敵の騎馬武者たちが騒ぎ出した。指さして何やら叫んでいる。やがて、敵騎馬隊は前進を始め、煙をかすめて向きを変え、遠ざかっていこうとした。


「大軍師様、任せたぜ!」


 忠賢が駆けてきて、片目をつむって叫んで通り過ぎた。八百人の騎馬武者がそれについていく。


「では、こちらも動きましょう」


 忠賢隊が直春隊の東へ出て、旭国街道を北上し始めると、菊次郎は安民に再び命じた。


「次の合図を」


 笛の音が響くと、煙の陰に残っていた四百の騎馬武者が動き出した。西側から壁を迂回して向こう側へ出る。彼等を率いるのは騎馬隊の副将の榊橋(さかきばし)文尚(ふみひさ)だ。空澄唯月隊の背後をねらうのだ。


「では、僕たちも行きます」


 直冬が菊次郎に声をかけて騎乗した。合図の笛が高らかに響き、徒武者隊三千三百のうち、後方に並んでいた一千三百が直冬と槻岡良弘に率いられて進み始めた。煙と直春隊の間を抜けて、俵子隊の西側面を襲うのだ。東からは忠賢隊、南からは直春隊、息を合わせての攻撃だ。ちなみに、敵騎馬隊が煙の壁を回って直春隊の背後をねらってきたら、直冬隊が守ることになっていた。


「直冬様、頼もしいですね」


 友茂が言った。


「ええ、もう立派な武将です」


 これは本心だった。菊次郎は直冬の指揮に不安を抱いていない。良弘を補佐に付けはしたが、直冬の指示だけで戦えるだろう。


「この姿を妙姫様が見たら喜ぶでしょうね」


 つい兄のような気分になってしまう菊次郎だった。


「さあ、僕たちも行きましょう」


 菊次郎は護衛五人を連れて歩き始めた。敵の徒武者隊は総数でまさる相手に三方から攻められたら長くは持たない。そのあとの動きを直春と相談しなくてはならない。

 菊次郎は次第に前進する徒武者たちを追いかけながら、東の戦場を眺めて戦況をつかもうとしていた。



「敵です。敵騎馬隊が追ってきます!」


 副将の叫び声で後方を振り向いて、唯月は愕然とした。


「なぜだ! 敵騎馬隊は東へ向かったはずだ!」


 そちらを見ると、青い鎧の武将を先頭に騎馬武者が俵子隊に迫っていた。


「数が少ない?」


 唯月はその瞬間理解した。敵騎馬隊は煙の陰で二つに別れたのだと。


「俵子隊に向かったのが八百、追って来るのが四百といったところか」

「どうなさいますか。反転して迎撃しますか。このまま多い方の騎馬隊へ向かいますか」

「むむむ……」


 唯月は迷った。引き返せばこちらは一千、四百程度、敵ではない。だが、それでは俵子隊が負けてしまう。敵の徒武者隊は二つに分かれて俵子隊を挟撃しようとしている。せめて騎馬隊は止めないと、味方の崩壊は防げない。


「こちらも部隊を分けるか。迎撃に七百、後方に三百……。しかし、それで勝てるのか」


 つい、馬の足をゆるめた。周囲の騎馬武者も速度を落とした。判断に注目している。


「よし、分割だ。それしかあるまい!」


 副将に迎撃を任せると決め、そばに呼び寄せて率いる隊を指示しようとしたが、その言葉は武者たちの大きなわめき声にさえぎられた。


「敵に追い付かれました!」


 悲鳴のような声が響くと同時に敵四百が背後に食いついた。たちまち乱戦になったが、迎撃の命令を受けていなかった空澄隊は対応が遅れている。


「落ち着け! 立て直せ!」


 副将を励ましたが、一層慌てた声が返ってきた。


「て、敵が前からも来ます!」


 忠賢隊は八百のうち三百を分けて差し向けてきたのだ。


「敵は少ないぞ! うろたえるな!」


 唯月は叫んだが、もはや指示は通らなかった。挟撃されて騎馬隊は混乱し、どの隊がどちらに対応するのかもはっきりせぬまま、多くの武者はおろおろするばかりだった。


「迷ったろう! 当然だ。俺でも迷う。それが軍師殿のねらいだ!」


 敵の武将が叫んでいる。


「お前はまんまと策にかかったのだ!」

「くっ、ここまでか」


 俵子隊も三方から同時に攻撃されて隊列が崩れている。既に多くの武者が逃げ出し始めていた。


「このままでは損害が増えるだけだ。やむを得ん。引け! 引けい!」


 唯月は叫びながら西の方へ駆け出した。周囲の騎馬武者がそれを見て、一斉に同じ方向へ馬を走らせた。それはすぐに俵子隊にも伝染し、徒武者たちも全面的に潰走(かいそう)を始めた。

 一千の騎馬隊と三千の徒武者隊は、持ち場を放棄して西の山の方へ逃げていった。



「直春さん、忠賢さん!」


 武者たちを呼び集めている二人に菊次郎は近付いていった。


「さすがだな。菊次郎君」

「大軍師様の作戦通りだったな」


 二人は笑って迎えてくれた。まだ暑い季節だ。どちらも額に汗が光っているが、竹筒から水を飲む様子は元気そうだった。

 菊次郎は短く尋ねた。


「まだ行けますか」

「もちろんだ」

「あたぼうよ!」

「菊次郎さんのおかげで戦いが短くてすみました。まだみんな元気です」


 直冬もやってきた。


「負傷者はさほど多くありません」

「俺の隊は三百人ほどだ」

「騎馬隊は百人ってとこだな」

「予想より少ないですね。よかったです」


 損害を聞く時はいつも胸が苦しい。仕方ないこととはいえ、その責任は菊次郎にもあるのだ。罪の意識と死傷者に謝りたい気持ちを押し隠して、菊次郎は直春に献策した。


「では、いよいよ本番です。敵本隊の西側面を攻撃しましょう」

「任せとけ」

「ご命令に従います」


 これは忠賢と文尚(ふみひさ)だ。


「行きましょう!」

「予定通りですな」


 直冬と良弘も頷いた。


「みな、聞け!」


 直春が叫ぶと、武者たちは静まり返った。


「これより宇野瀬軍本隊の攻撃に向かう。強敵だが、こちら側は警戒していないはずだ。落ち着いて陣形を乱さなければ絶対に勝てる」


 花斬丸を抜いて、天に向かって高々と掲げた。


「この戦が終われば葦江国へ帰れるぞ! 力を振り絞れ! 桜舘家の名を天下に轟かせるぞ!」

「おおう!」


 武者たちも槍を突き上げて叫んだ。

 直春は刀を振って答え、鞘に納めると菊次郎に尋ねた。


「作戦はどうする」

「直春さんはまっすぐ、忠賢さんは敵の背後に回り込むように進んでください。直冬さんは予備として、直春さんの後ろを進みます。状況に応じて投入します」

「任せとけ!」

「分かりました」


 忠賢は不敵に、直冬は元気に答え、直春は深く頷いた。


「あの眼鏡野郎はどうしてる?」


 忠賢が尋ねた。馬上から見えているはずだが、菊次郎の意見を聞きたいらしい。


「元尊は敵に迫っていますね。まだ負けていません。勝てそうな形勢に見えますよ」


 そう答えて自分で呆れた。直冬が笑って指摘した。


「すごく意外そうですよ」

「それが本心ですので。喜ばしいことですが」


 苦笑したが、すぐに顔を引き締めた。


「では、敵本隊へ向かいましょう」

「ああ、行こう」

「おうよ。行くぞ、お前ら!」

「もうひと踏ん張りですね」


 三人の武将とその副将二人は自分の隊の先頭に立つべく別れていった。

 菊次郎は大神様へ祈った。


「僕たちが駆け付けるまで、元尊が頑張ってくれますように」


 桜舘軍は十分に役割を果たした。その上、求められた以上のことまでしようとしている。しかし、成安軍が負けたらただの骨折り損になる。不要な戦闘で出た死傷者は、戦の結果を読めなかった菊次郎の責任だろう。


「勝てなくてもいいから、負けないでほしい。無茶をしないで、慎重にことを進めてほしい。数でまさっているのだから、奇策に走らないでほしい」


 びっくりするような勝ち方を続けてきた自分たちがどれほど異常なのか、菊次郎はよく分かっていた。


「菊次郎様は奇策があまりお好きではないのですね」


 利静が言った。右手が使えないが、盾は持てるからと無理についてきた。護衛たちを束ねられる者は他にいないので、やむなく同行を許可したのだ。


「奇策は通常のやり方では勝ち目がない時に用いるものです。僕も直春さんも本当は避けたいのです。敵を手玉に取り危機を逆転しての勝利は華々しいですが、一歩間違えれば崖下に転落するような危うさがあります。運に大きく左右され、厳しい賭けに勝たなければなりません。直春さんや忠賢さん、他の仲間たちの力があるから可能なことなんです」


 桜舘家の勝利は、自分たちが出会ったという奇跡があってこそなのだ。それはとてもうれしいことだが、それゆえに他の封主家にはまねができないと思うのだ。


「僕は大軍師などと持ち上げられていますが、沖里公のような数を生かした負けにくい戦い方が正道です。それを可能にする状況を毎回作り、勝てる準備を整えられる人物こそ、本当の名将であり知恵者なのです」

「氷茨公はそれを分っておいででしょうか」


 友茂の問いに利静は無言で菊次郎を見た。聞かなくても答えは分かっているらしい。


「だとよいのですか」


 菊次郎は曖昧に誤魔化して、東の空を見上げた。

 元尊は本当の知恵者か賢く見られたいだけの愚か者か。

 本当にそれだけが心配だった。



 その頃、元尊率いる成安軍右翼は宇野瀬軍東隊に迫っていた。

 目の前の敵は半分以上が持ち場を放棄して逃亡、東隊の大将海居(うみい)昇年(のぶとし)の指揮下に残った四千は、遠目にも動揺が見て取れる。矢を射込ませると面白いように慌てふためいていた。

 これに対して味方は九千。しかも宗速の騎馬隊四千が敵の側面に迫っている。南と東の二方向から同時攻撃が実現しつつあり、圧倒的に有利な状況だった。

 約束通り戦場を去った韮木・山鍬の徒武者隊と、密約がないのに離脱した霧林の騎馬隊は、糸瓜(いとうり)当仍(まさより)に三千を与えてあとを追わせ警戒させている。もし寝返りがうそでも戻って来られないだろう。


「このまま宗速様と息を合わせてこの敵を撃破する。そのあと、宇野瀬軍本隊の側面へ殺到すれば、合戦は我が軍の大勝利だ!」


 既に勝った気分で、元尊は部隊の前進速度を上げさせ、勢いに乗って敵にぶつかっていこうとした。

 その時、緊迫した声が叫んだ。


「敵が何かを飛ばしてきます! 投石機からです!」


 前方の空を見ると、四角い物が二十個ほど飛んでくる。


「あれは何だ。願空の奇策か」


 元尊は乗っている輿(こし)を停止させ、宗員を守る馬廻りも足を止めた。武者たちも警戒する様子になったが、前進は続けた。


「火でも出るのか。恵国にあると聞く武器のように爆発するのか」


 大人がようやく抱えられるくらいの木の箱は、成安軍右翼の前部に次々に落ちた。箱が壊れるがしゃんという大きな音がいくつも響いた。

 が、緊張した元尊はすぐに拍子抜けした声を出した。


「何も起きないではないか」


 火や煙は見えない。爆発もなかった。静まり返っている。


「何をしたかったのだ? 失敗したのか」


 元尊は首を傾げたが命じた。

「まあよい、害がなかったのなら、再び速度を上げよ!」

「お待ちください。空の箱を投げるはずがありません。願空のねらいが分かるまで停止しましょう」


 索庵が進言したが、元尊は頷かなかった。


「敵までもう少しではないか。こんなところで止まっていてどうする。ぶつかって戦いを始めてしまえば、敵はもうあの箱を投げられない。武者たちも必死になって不安どころではなくなる」


 元尊は輿の上に立ち上がり、軍配を前に振るった。


「全員、早足……、あわっ!」


 元尊は悲鳴を上げそうになって慌てて口を閉じた。輿が突然大きく揺れたのだ。


「気を付けよ! 危ないではないか!」


 担ぐ家臣たちを元尊は声を荒げて叱りつけた。全軍の指揮をとる連署が輿の上から転がり落ちたら末代までの恥だ。


「申し訳ございません! 武者の列が下がって参りまして」


 確かに軍勢があとずさりしている。前の方を眺めると、武者たちは次々に隊列を離れて後ろの列に割り込んでこようとしていた。箱から離れようとしているようだった。


「一体何が起こったのだ?」

「すぐに見てこさせましょう……」


 索庵はそばにいた武者に命じようとして急に言葉を切り、上を見上げて口をあんぐりと開けた。


「あれは……蜂?」


 疑問の声はすぐに悲鳴に変わった。


「連署様、は、蜂でございます! 悪鬼蜂(あっきばち)の群れでございますぞ!」

「なにっ?」


 慌てて同じ方を見て元尊は愕然とした。刺されたら牛でも死ぬことがある吼狼国で最も危険な蜂で空が覆われつつあった。


「箱の中身は蜂の巣か!」


 元尊は落ち着いているふりをしようとして失敗した。刺されたら命が危ない。その巣が二十個だ。この戦場の武者の数より多い蜂が怒り狂っている。


「さ、下がれ! 後退だ! 蜂の巣と距離を取れ!」


 命令を出すまでもなく、武者たちはなだれを打って今来た方角へ戻り始めていた。


「逃げろ! 死にたくないやつは走れ!」


 口々に叫んで必死の形相で駆けていく。

 決して彼等が意気地がないのではない。飛んでくる矢なら盾で防げるし、自分は当たって死傷するほど運が悪くないはずだと考えて恐怖に耐えることができる。槍や刀の戦いも、武芸の腕を信じて全力で戦えば生き残れる可能性は低くない。しかし、殺人蜂の大群に襲われたら、自分だけは刺さないでくれるはずと信じることができようか。確実な死と苦痛を前にすれば、どれほどの勇者であっても逃げたくなるものなのだ。


「とにかく安全なところまで戻るぞ」


 元尊の輿と騎馬の宗員は先頭に立って逃げた。軽装鎧の索庵も泡を食って走っている。蜂に刺されて死ぬなんて、大軍の大将にあるまじき死に様だ。

 そこへ、敵が追い討ちをかけた。


「気を付けろ! 矢だ! 矢が飛んでくるぞ!」


 背を向けた元尊の九千に、四千の海居(うみい)隊の半数が矢の雨を降らせた。武者たちは無様なほど大混乱し、泣きながら走っている者や意味の分からぬ叫び声を上げ続けている者もいる。元尊も後ろを振り返りながら、輿を担ぐ家臣たちを怒鳴り付けて急がせた。

 やっと蜂が追いかけるのをやめて戻っていくと、九千の武者たちの多くがその場に座り込み、肩で息をしてぐったりしていた。鎧を着ての全力疾走だ。逃げ延びられてほっとしたこともあって気が抜けて、しばらく動けそうになかった。


「なんとか無事だったな」


 宗員が馬から降り、額の汗をぬぐって従者から受け取った竹筒の水を飲んでいる。元尊は走ったわけではないが、恐怖と焦りで全身汗だくだった。


「肝を冷やしたぞ。それで、これからどうするのだ」


 宗員に問われて、元尊は輿の上で背筋を伸ばした。


「もちろん、陣形を組み直し、再び敵に向かっていきます」


 少し考えて、付け加えた。


「蜂の巣には火矢を射ち込ませましょう。巣が焼けてしまえば蜂は逃げていくでしょう。すぐに準備させます」


 その指示を伝え、笛役に集合の合図を出させて、元尊は唇をかんだ。


「まんまと願空にしてやられた。だが、損害はほとんど出ていない。武者たちはまだ戦える。蜂の巣をたくさん用意できるはずもないゆえ、あれで全部だろう。つまり、願空の策は尽きた。蜂のせいで敵も近付けず、矢を浴びせただけで勝負を決定付けることはできなかった。蜂を排除すれば数の多いこちらの勝ちだ」


 その時、西の方で大きな鬨の声が起こった。桜舘軍が俵子隊と空澄隊を挟撃して優勢に立っている。両隊を打ち破ったら宇野瀬軍本隊の側面をねらうだろう。


「早くしないと桜舘家に先を越されてしまう。この戦で名を上げるのはわしでなくてはならぬのだ」


 悔しげに独り言ちると、元尊は輿の上で立ち上がって自分の健在を示し、武者頭たちに次々に指示を飛ばし始めた。

 しかし、蜂の巣の向こうでは、もっと深刻な事態が起きていたのだった。



 宗速の騎馬隊四千は足並みをそろえて敵東隊の側面に接近しつつあった。

 ところが、同時に攻撃をかけるはずだった元尊の九千が大慌てで引き返していく。


「あれは蜂か。元尊め、してやられたか」


 馬を走らせながら、宗速は味方の醜態に舌打ちした。


「どうなさいますか。一旦離れ、氷茨公が陣形を立て直すのを待ちますか」


 副将が馬を寄せて尋ねた。宗速は少し考え、首を振った。


「いや、このまま敵に突撃する。ここで引き返せば背を見せることになり、我等も矢の雨を浴びるかも知れぬ。それに、敵は四千、こちらも四千。同数なら我等の勝ちだ。違うか」

「違いませぬ。勝利は確実でございます」


 当主宗龍の叔父が大将をつとめるこの騎馬隊は成安家きっての精鋭だ。武者たちもそれを誇りにしていて、勇敢で武芸にすぐれた者がそろっている。


「この敵を駆逐(くちく)する間に元尊が軍勢を立て直して戻ってくるだろう」

「ですが、敵はこちらに向きを変えました。用心は必要でございます」


 海居(うみい)昇年(のぶとし)率いる宇野瀬家東隊の残り四千は、半数が逃げていく元尊隊へ矢を浴びせ、もう二千が東へ太い槍を向けて宗速隊を迎え撃つ構えを見せている。


槍衾(やりぶすま)か。まともに突っ込むと損害が大きいな」

「はい。負けはしないでしょうが、あまりうまいやり方ではありません」


 副将も同意見だった。宗速は敵をじっとにらんだ。


「では、まっすぐ突っ込むと見せかけて北へ回り込み、敵の横っ腹を襲うか」

「それがよろしゅうございますな。敵はとっさに対応できず、奇襲になりましょう」

「よし、陣形を密集させよ」


 副将が笛を鳴らすと、武者たちが宗速を中心に集まり始めた。一つの火の玉のように西へ進み、敵を目指す。

 海居(うみい)隊の二千は太い槍の穂先をそろえ、()の最下部の石突(いしづ)きを地面に突き刺して、騎馬隊の突進の衝撃に備えている。

 海居隊まであと少しだ。宗速は副将に頷き、合図の笛を吹かせた。甲高い音が鳴り響くと、武者たちは一糸乱れぬ美しい動きで北へ急に向きを変え、槍衾の前を通り過ぎようとした。


「すぐに左へ曲がるぞ。気を抜くな!」


 宗速が叫んだ時だった。


「何かが飛んできます! ぎゃあ!」


 多数の人馬の悲鳴が起こり、隊列が乱れた。


「網だと? 投石機か!」


 四十台の投石機のうち、蜂の巣を投じなかった半数が、宗速隊に大きな網を放り込んできたのだ。


「空中で開くように石を結んであるのか!」


 二十枚の大きな投網が騎馬武者の上に次々に覆いかぶさった。数十騎が転倒し、後続を巻き込んで騎馬隊の動きが鈍った。


「止まるな! 北へ向かえ!」


 敵に横を見せた状態で停止してはまずい。宗速が叫んだ時、海居(うみい)隊二千が天に轟くような雄叫びを上げた。


「これでも、食らえ!」


 そう言って投げ付けたのは槍だった。


「投げ槍? そうか、二本持っていたのか!」


 太い槍に見えていたのは、長い一本に短いもう一本をくっ付けてあったからだった。太い槍を一度地面に落とし、短い方を思い切り投擲したのだ。

 二千本の槍の雨が速度を落とした騎馬隊に降り注いだ。


「くっ、始めからこれをねらっていたのか。我が隊が北側へ回り込むことは計算のうちだったのだな!」


 宗速が悔しがった時、更なる雨が騎馬隊を襲った。


「矢だと! どこからだ?」


 宗速は仰天して周囲を見回して、呪いの言葉を叫んだ。


「山鍬隊だと! おのれ、寝返りはやはりうそだったのか!」


 戦場を離脱したと思われていた山鍬詮徳の一千八百が急に反転し、一斉に矢を放ったのだ。山鍬家は生糸など繊維を扱う家で、弓隊が強力だ。かなりの距離があるのに強弓で次々に矢を降らせてくる。火矢もまじっていて、油を吸わせてある網に引火し、あちらこちらで炎と煙が上がっていた。


「これはまずい。ここを襲われたら! うおっ、今度は後ろか!」


 しかもそこへ、また新たな攻撃が宗速隊に加えられた。東へ逃げていったはずの霧林在枝(ありしげ)の騎馬隊一千二百がいつの間にか戻ってきて、宗速隊の後部に食い付いたのだ。槍の投擲を終えた海居(うみい)隊二千も、地面に落とした長槍を拾って槍衾を組み直し、宗速隊に向かってくる。


「やられた! まんまとわなにはまった! これは立て直せぬ。やむを得ぬか」


 宗速は悔しがったが、時間を無駄にはしなかった。


「引け! 引けい! ばらばらになって逃げるのだ! 命を大事にせよ!」


 とどまって抵抗すれば包囲され殲滅されると悟ると、宗速は撤退の合図の笛を吹かせた。


「ついてこい! 川の方へ戻るぞ!」


 宗速は叫びながら、一目散に狢川へ向けて駆けていった。大将で成安一族の自分がぐずぐずしていては武者たちが逃げられないからだ。

 無事だった者たちはすぐにそれを追いかけ、精鋭騎馬隊は戦場から潰走していった。


『狼達の花宴』 巻の四 狢河原の合戦図 その三

挿絵(By みてみん)


 宗速隊の撤退を見て、元尊は歯噛みした。海居(うみい)隊を同時攻撃する作戦が崩れてしまったからだ。しかも、山鍬詮徳の弓隊と霧林(きりばやし)在枝(ありしげ)の騎馬隊が戦闘に復帰してしまった。


糸瓜(いとうり)当仍(まさより)は何をやっておる!」


 元尊はいらだって軍配で膝をばしばしたたいた。


「役目に失敗しておるではないか!」


 口ぶりには不満が露わだったが、武者たちに聞こえないように声量を抑えることは忘れていなかった。


「糸瓜様は妥当な判断をされたのだと思います」


 こわばった表情で索庵が答えた。


「連署様のお腹立ちは分かりますが、他に方法はございませんでした。恐らくは願空の策でございましょう」


 悔しそうにしながら、師範は主君をなだめた。

 糸瓜(いとうり)隊の命令は、宇野瀬軍東隊から分離して戦場を去っていく韮木隊と山鍬隊の監視だった。ところが、霧林(きりばやし)在枝(ありしげ)の騎馬隊まで離脱した。しかも、この三隊はそれぞれ別の方角へ向かったのだ。

 韮木隊は予定通り北へ戻っていった。山鍬隊は北西へ進んだ。霧林の騎馬隊は東だ。

 それで、当仍(まさより)は韮木隊を追いかけた。徒武者で騎馬隊についていくのは難しいし、一千八百の山鍬隊より武装がすぐれた韮木隊三千の方が危険と判断したのだろう。三千にすぎない糸瓜隊を分割するのは得策ではない。少なくなりすぎて足止めの役目を果たせないかも知れないからだ。

 索庵がそう言うと、元尊はますます不機嫌になった。


「そんなことは分かっておる。だが、現状、足止めされているのは糸瓜隊ではないか!」


 山鍬隊と霧林隊が反転して宗速隊を攻撃すると、韮木隊も追跡する糸瓜隊に接近して攻撃を始めた。結果、糸瓜隊は防戦に追われ、山鍬隊や霧林隊の背後をつくどころか、多数の敵の向こう側で孤立してしまった。


「まずい。まずいぞ。どうするのだ」


 元尊は爪を噛み始めた。普段はしないが、焦ると出る癖だ。


「宗速様を打ち破った敵が我が隊に向かってくる。こちらは九千、敵は合計七千。勝てなくもないが時間がかかる。その間に……」


 元尊は西の方を見やった。俵子隊と空澄隊を打ち破った桜舘軍が隊列を組み直している。宇野瀬軍本隊の側面をねらうのだろう。


「あの小僧一人に名をなさしめるのか」


 この状況でも、元尊は自分の武名を上げることにこだわっていた。


「いや、まだ戦は終わっておらぬ。とにかくわしが敵東隊を撃破して、願空の本隊の脇をつけばよいのだ。杭名隊も負けておらぬ。全体を見れば我が方が優勢なのだ」


 左翼と中軍が頑張っているのに元尊が指揮する右翼の二隊が無様なことになっている。それが元尊を焦らせていた。


「蜂の巣はどうなった」

「全て焼き払いました。蜂はあらかたいなくなりました」


 索庵が報告した。


「陣形の組み直しも終了致しました。士気はやや低下しましたが、武者たちはまだ戦えます。ですが……」


 さらに続けようとした索庵をさえぎって、元尊は命じた。


「よし。再び前進し、こちらへ近付いてくる敵に攻撃をかける。隊を二つに分け、海居隊は同数の四千で抑えさせ、山鍬隊一千八百に我々五千が向かう」


 霧林家の騎馬隊は宗速隊が潰走すると糸瓜隊へ向かった。韮木隊と挟撃するつもりなのだ。今なら相手にするのは山鍬家の弓隊だけですむ。


「韮木・霧林両隊を糸瓜隊が引き付けている間に山鍬隊をねらう。数はこちらがまさる。一気に打ち破り、そのまま海居隊の側面、さらに敵本隊をねらう」


 願空の策を破ることには失敗したが、これならまだ自分の指揮する部隊で合戦を勝利に導ける。そういう表情の元尊に、索庵は首を振った。


「その作戦、わたくしは反対でございます」

「何だと?」


 元尊は耳を疑った。


「わしの命令が聞けぬのか」

「はい」


 索庵は答えて、理由を述べた。


「糸瓜隊は長くは持たないと思われます。韮木隊との戦いは三千同士ですが、相手は装備にすぐれ、苦戦していたはずでございます。その背後を一千二百の騎馬隊に襲われたら間違いなく崩れます。まもなく、霧林隊と韮木隊は我が隊に向かってくるでしょう。その時、部隊を分割していれば当方は不利になります。この場で防御の陣形をとり、敵を待ち受けて食い止めるのが得策でございます」

「それでは勝てぬではないか!」


 元尊は叫んだが、師範は落ち着いていた。


「いいえ、勝てましょう。桜舘軍が敵本隊を崩してくれます。そうなればこちらの敵も撤退を始めます。そこを追撃すれば、我が隊も大きな武功を上げることができましょう」

「それでは勝負を決するのは桜舘軍ではないか! わしの手で決めねば意味がないのだ! 分からぬか!」


 宗員が驚いて目を向けたので、元尊は慌てて声を抑えた。


「防御陣を()けば負けは防げる。確かにそうかも知れぬ。だが、それではこの戦の目的が達せられぬのだ。採用できぬ」

「ですが、願空にはまだ策があるかも知れません。用心し、失敗しない策をとるべきと存じます」


 索庵は弟子を(さと)す口調になった。


「この戦をお始めになったのは連署様でございます。勝利すれば、最大の功績は連署様のものでございます。桜舘公や銀沢信家がもてはやされることを腹立たしくお感じなのでございましょうが、それを認めてほめる言葉をかけてやることで、連署様の(ふところ)の深さを示すことができます。戦に勝てば、霧林家の山林と牧場や銅山、磯触国の漆器が手に入るのでございます。それくらいは我慢なさいませ。そのあとに続く天下統一の大業(たいぎょう)に比べれば、一つの合戦の手柄くらいくれてやってもよいではございませんか」


 元尊は組んだ腕を指でいらだたしげにたたきながら聞いていたが、輿の上で立ち上がると大声で命じた。


「これより、再度敵に接近し、攻撃する。武者たちよ、奮起せよ!」

「お待ちください」


 元尊は無視して叫んだ。


「前進せよ!」


 軍配を振るうと、九千の軍勢は北へ向けて進み始めた。

 黒い鎧の連署は晩夏の昼光に輝きながら、総大将に言上した。


「では、宗員様。我等も進みましょう」


 元尊が輿の上の座布団に座り、宗員も騎乗した。索庵は肩を落としたが、黙って一緒に歩き出した。

 九千の武者はくすぶっている蜂の巣を避けるように左右に大きく迂回して移動した。敵もこちらへ向かってくるので、距離はどんどん縮まり、もう矢が届く距離まで来ていた。


「攻撃準備。槍を構えよ。弓隊も用意せよ」


 元尊が軍配を振り上げ、前に倒した。


「矢を放て……」


 その時、後ろで叫び声がした。


「あっ、あれはどういうことだ!」


 数人の武者が大声でわめている。


「何をする! やめてくれ!」


 震え上がったような声に元尊はぎょっとし、輿の上で苦労して鎧を着た体の向きを変え、後方を眺めて目を疑った。


「狢橋砦が襲われているだと!」


 宇野瀬領との境の大河には長い橋が架かっている。その成安領側に堅固な砦がある。橋を守り、渡ってくる者たちを監視するためだ。常時五百人が詰めていて、今も同じはずだった。


「いつの間に敵が背後に回ったのだ!」


 砦を攻めている部隊の旗印に目を()らして元尊は愕然とした。


藻付(もずく)故途(もとみち)! 川前出城を守らせていたはずだ! 本当に寝返っていたのか!」


 宇野瀬家に内通していると韮木と山鍬が知らせてきたので、後方の出城で留守番をさせていた。それが勝手に出城を出て橋に向かい、砦を攻撃しているのだ。


「連署様、これはまずいですぞ。藻付(もずく)家は狢宿国の家老でございます。あの砦の構造を熟知しております!」


 平素冷静な師範らしくない声で叫んだ時、砦の内部で火の手が上がった。内通者がいたらしい。一千五百の藻付(もずく)隊は橋を渡って砦に殺到し、ほどなくして砦の上に宇野瀬家の家紋の旗が掲げられた。


「連署様、どうなさいますか」


 氷茨家の家臣宜無(むべない)郷末(さとすえ)が小声で尋ねた。


「あの橋を失ったら退路がなくなります」


 腹心の郷末(さとすえ)はずっとそばに控えていたが、索庵と元尊の会話には加わらず、武者頭や伝令との連絡を担当していた。主君を守るために口を挟んだのだ。


「急いで逃げませんと、お命が危のうございます」


 その言葉が頭に染み込むと、元尊の顔が蒼白になった。


「い、いや、大丈夫だ。まだ勝てる。目の前の敵を破ればよい。もしくは桜舘軍が敵の本隊を破るまで持ちこたえれば……」

「それまで我が隊は持たないと思われます」


 既に周囲の武者たちが後ろを振り向いて騒ぎ始めている。砦を占領した藻付(もずく)隊は橋を占拠し、通れなくしようとしていた。


「もはや武者たちに戦意はありません」


 郷末(さとすえ)は淡々と恐ろしい事実を述べた。


「何より、宗員様をお守りせねばなりません」


 飾り物の総大将は不安げに元尊を見ている。その目はどうするつもりかと問いかけていた。


「だが、どうやって川を渡るのだ。橋は使えないのだぞ」


 小声で問い返すと、郷末(さとすえ)は橋からやや離れた河原を指さした。


「あの辺りに小舟がいくつかございました。漁民が使うものでございましょう。それを他の者にとられましたら、泳いで渡るほかございませぬ。急いで駆け付けて確保すれば、総大将様と連署様は乗ることができます」

「お待ちください。それではこの戦は負けてしまいますぞ」


 索庵が慌てて割り込んだ。


「桜舘軍がもうすぐ敵本隊に襲いかかります。そうなれば我が方の勝利でございます。生き延びたければ必死で戦えと鼓舞すれば武者たちは奮起致しましょう。まだ立て直せます。大将が諦めたら戦はおしまいですぞ!」


 師範に言われて元尊は迷った顔で周囲を見回した。武者たちは不安そうに燃え続える砦を眺めている。一方、前方の武者たちはこの騒ぎに気付かず、蜂の巣の向こう側で海居隊や山鍬隊と戦い始めていた。


「どうするか……」


 つぶやいた元尊に、緊迫した声が告げた。


「敵の騎馬隊が我が隊に接近してきます。いえ、これは……横を通過して後方に回ろうとしております!」


 霧林隊一千二百は糸瓜隊の背後をついて潰走させると、元尊の五千へ向かってきたのだ。韮木隊も糸瓜隊を追撃しながら元尊たちの側面を目指していた。


「このままでは敵に包囲される。本当に退路がなくなってしまう。もはやこれまでか……」


 元尊の顔は恐怖に歪んでいた。索庵が励ました。


「連署様、お早く迎撃の指示をお出しください。前進した武者たちを呼び戻して防御陣を布きましょう!」

「それでは敵に包囲されるかも知れぬ!」

「円陣を組んで必死で防戦すれば簡単には負けません。崩される前に桜舘軍が敵本隊をたたき、総大将長賀公が撤退すれば、こちらの敵も引いていきましょう。苦しい戦いになりますが、勝ち目はございます」

「それはほとんど負けているではないか!」


 弟子が恐怖にのみ込まれようとしていることを索庵は察した。


「ここが踏ん張りどころでございます。武者たちを励まし指揮して耐え切れば、必ずや連署様の奮闘と苦境に立たされても諦めない強さを多くの者が称讃致しましょう」

「そんなほめられ方はいらぬ!」


 元尊は目を怒りと恥辱につり上げて師範を怒鳴りつけると、宗員に言上した。


「総大将様。お逃げください。御一門の大切な御身(おんみ)にわずかでも傷をお付けすることになっては一大事でございます。ご安心ください。わたくし自身がお守り致します」


 深く頭を下げると、郷末に小声で命じた。


「馬廻りと当家の家臣にだけついて来いと伝えよ」


 そして、輿から降りた。


「馬を寄越せ」


 そばにいた護衛の武者から手綱を奪うと馬の背によじ登った。


「連署様、お待ちください! ここで逃げては天下の笑い者となりますぞ!」

「うるさい! 最も重要なことは総大将様をお守りすることだ! それを邪魔するつもりか!」


 元尊は追い詰められて泣きわめく子供のような顔で、索庵に赤い軍配を投げ付けた。


「お前がその輿に乗って指揮をとれ!」


 言い捨てると宗員に声をかけた。


「さあ、参りましょう。まだ敵は気付いておりませぬ。退路を塞がれる前に川へ向かいますぞ」


 二人の武将と郷末ら少数の護衛は馬の腹を蹴って走り去った。


「どうなさいますか」


 武者たちのすがるような目を受けて、呆然と見送っていた索庵は投げ槍に言った。


「大将がいなくなったのだぞ。もはやこれまでだ。皆、逃げよ。わしも逃げる」


 そばで震えている笛役に頷くと、高らかに全軍撤退の調べが辺りに鳴り響いた。


「まだ早い、わしらが川を渡ってからにしろ、などと思っておいでなのだろうな」


 兵法の師範は不出来な弟子の今しがたの怖気づいた顔を思い出して深い溜め息を吐くと、輿を担ぐ者たちに言った。


「そんなものはここに置いていけ。命を大切にしろ」


 そうして、敵へ背を向けて、川の方へ歩き出した。


「負けだ! 負けたぞ! 大将がとんずらした!」

「逃げろ! 命が惜しいやつは走れ!」

「敵が追撃してくるぞ! 急げ!」


 わめきながら、武者たちが次々に追い抜いて必死で走っていく。


「わしにはまだ役目がある。不愉快な仕事だが、息子と妻のためだ。やむを得まい。さて、どうやって生き延びようか」


 早足で歩きながら、索庵は自嘲の暗い笑みを浮かべていた。



「遅かったか!」


 直春が悔しげに叫んだ。


「そのようですね」


 菊次郎は落ち着いた声で答え、軍勢に停止の合図を出すように進言したが、内心では血の気が引く思いだった。よく声が震えなかったと自分に感心したくらいだ。


「負けたんですか! 本当に!」


 直冬は信じられない様子で何度も聞き返した。


「負けました。大敗です。成安軍は全面的に潰走しています」


 菊次郎は突き放すように事実を述べたが、半分は自分が状況を確認するためだった。現実に頭がまだ追い付かない。


「宇野瀬軍は蜂の巣を使いました。作戦に武虎が関わっています。願空と共同で計画を立てたのかも知れませんね」


 菊次郎は故郷を失うことになった戦を思い出し、懐かしさと多くの人々への罪悪感に心がざわめいたが、我慢して顔には出さなかった。その様子が直冬には豪胆で苦境にあっても動じないように映ったらしい。


「どうして平気でいられるんですか! これからどうするんですか! 願空を攻撃しないんですか!」


 その問いに答えようとした時、青い鎧が馬で駆けてきた。騎馬隊も止まっている。


「おい、どうすんだよこれ!」


 忠賢は叫んでそばに馬を止め、菊次郎と直春の表情を見て舌打ちした。


「逃げるんだな?」

「はい」


 菊次郎は頷いた。


「それしかありません。元尊の右翼は既に軍勢の(てい)をなしていません。杭名公の中軍も敵の一部に側面をつかれて崩壊しました。敵は全面的な追撃を始めています。僕たちも急いで撤退しないと、勝利の勢いに乗った敵に攻撃され、退路を失います」

「宇野瀬家の敵は成安家ですよね。無理矢理引っ張り出された僕たちは見逃してくれませんか」


 直冬がすがろうとしたわずかな希望を、菊次郎は打ち砕いた。


「当家は二年前に長賀公の軍勢を打ち破っています。たった今も宇野瀬軍を撃破したばかりです。仕返ししようと積極的に追いかけてくるでしょう。それに」


 続きは直春が言葉にした。


「武者を捕まえれば身代金を要求できる。その上、今度は向こうがこっちに不利な交易の条件を押し付けられる」

「そういうことだな。絶対に追ってくるぜ」


 忠賢にも言われて直冬はしょげ返った。


「その通りですね。そこまで考えませんでした」

「だが、それは無事に帰り付けてからの話だ」


 直春は時間を無駄にする気はないようだった。


「戦はここまでだ。今から撤退に移る。無事に豊津城へ帰り付くことが第一だ」

「まずは一息村に向かいましょう。あそこから逃げるしかありません」

「そりゃあそうだが、どっちの道を行く?」


 狢河原からは、狢橋の方へ戻って一息街道を登っていくか、狸塚城をかすめて葦狢街道を西に向かうか、二つの方法がある。


「葦狢街道を使いましょう。川の周辺は危険です」


 現在そちらでは、深く広い川を渡る方法を探して右往左往する成安家の家臣たちを、猛り狂った宇野瀬家の武者たちが追いかけている。必死で逃げる獲物としとめようとする狩人の死闘の間を横切れば、巻き込まれて被害を受ける可能性がある。


「狸塚城にはほとんど武者がいないはずです。道を阻まれる心配はないと思います」


 戦場にいた宇野瀬軍の数からすると、城にいるのは三百程度にすぎない。


「ここからならどちらの街道へ向かっても、村に着くまでの時間はほぼ同じです。ならば危険が少ない方を選ぶべきです」


 この二ヶ月の間に周辺の地理は調べてあった。


「よし、それで行こう。騎馬隊は先に進んでくれ。次が直冬殿と良弘。俺は殿(しんがり)をつとめる」

「それは大将の役目じゃないぜ」


 忠賢が買って出ようとしたが、菊次郎は直春に賛成した。


「騎馬隊には道中の安全を確認しながら先に村へ戻り、敗北を伝えて撤退の準備をさせてほしいんです。それと、合戦の負傷者を馬に乗せていただけますか」


 つまり、露払いと戦えない者たちの運搬をしろということだ。


「分かった。任せろ」


 忠賢はすぐにのみ込んで馬に飛び乗った。


「遅れずについてこいよ。のろのろしてると置いてくぞ」


 冗談と分かる憎まれ口をたたいて、自分の隊へ戻っていった。青い鎧が半数の六百ほどを率いて敵へ向かっていく。

 それを見送ると、菊次郎は首を戻した。


「さあ、ここからが大変です。直春さん、直冬さん、覚悟をしてください」

「分かっている。この先が本当の戦いだ。生き延びるためのな」

「はい」


 真剣な顔の直春、ごくりとつばを飲み込んだ直冬と、追い付かれた場合の迎撃方法を確認しながら、一番覚悟が必要なのは自分ではないかと菊次郎は思っていた。


『狼達の花宴』 巻の四 狢河原の合戦図 その四

挿絵(By みてみん)

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