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狼達の花宴 ~大軍師伝~  作者: 花和郁
巻の四 知恵者と勇者
32/66

(巻の四) 第三章 陰謀 下

御屋形様(おやかたさま)、お呼びでございますか」


 夕刻、韮木(にらぎ)主延(ぬしのぶ)山鍬(やまぐわ)詮徳(あきのり)が狸塚城本郭(ほんくるわ)の一室に入っていくと、宇野瀬長賀(ながよし)は既に上座に座っていた。主君の右前方に骨山願空とその息子義意(よしおき)を見付けて、主延(ぬしのぶ)はわずかに眉をひそめた。


「二人に頼みたいことがある。内密の用件ゆえ、この五人だけで話したいのだ」


 十九歳の青年当主の言葉を聞いて、五十一歳と四十六歳の家老はますます表情を険しくした。この呼び出しは願空の差し金と分かったからだ。


「戦に勝つために策を立てた。成安軍を引きずり出して一杯食わせてやるつもりだ。願空から説明する」


 主延(ぬしのぶ)は連署兼筆頭家老の老人をじろりと横目で見た。

 長賀は湿り原の敗戦を教訓に、重要なことは自分で決め、当主として立派に振る舞っているが、家臣たちが気にしているのは願空の意向だった。そんな中、強固な地盤を背景にはっきりものを言える二人は願空にとって目の上の(こぶ)だった。


「どのようなご命令でございましょうか」


 口ぶりに警戒と牽制をにじませた主延に対し、願空はにこやかな笑みを浮かべて告げた。


「成安家に内通していただきたい」


 驚いた主延たちが反問しようとすると、願空はそれを手で押しとどめた。


「もちろん、ふりをするだけでございます。お二人が御屋形様を裏切ったと敵に思わせたいのです」


 主延は詮徳(あきのり)と素早く視線をかわした。


「詳しくお聞きしましょう」


 願空は頷いてやや声を落とした。


「今朝、隠密が知らせて参りました。福値家は声返国(こえがえりのくに)の反乱をほぼ鎮圧したようです。次は当家領へ手を伸ばして参りましょう。その前にこの戦を終わらせたいと御屋形様はお考えになり、敵に合戦を挑むご決断をなさいました」


 反乱を扇動(せんどう)したのは願空なのだが、まるで遠い国の出来事のような口ぶりだった。


「時間がないのは成安家も同じでございまず。鮮見家はよくやっておりますので、氷茨元尊は焦っておるはず。勝てそうだと思えばこちらの策に乗って参りましょう。それを打ち破って狢宿国から追い払うのでございます」


「うまく罠にはめればこちらが主導権を握れる。思うままに戦の展開を操れるのだ」


 長賀が言ったが、これは願空に吹き込まれた意見だろう。


「元尊をその気にさせて向こうから攻めてこさせる必要がある。それにはお前たちに(えさ)になってもらうのがよい。そうだな、願空」


 長賀は妻琴絵(ことえ)の養父に信頼のまなざしを向けた。願空の人のよい枯れた老人のような顔つきが見せかけだけと知らないのだ。


「お二人は倫長(のりなが)様と昵懇(じっこん)でいらした。また、成安家との戦や桜舘家との和約で商売がしにくくなっておいでなのも事実。不満が溜まっているという言葉に説得力がありましょう」


 主延は不愉快そうな顔をした。


「よくも平然と言えるものですな。我等はそんなことは思っておりませぬぞ。御屋形様にお誓い致します」

「分かっている。そなたたちの忠義を疑ってはいない。だからこそ、こんなことを頼めるのだ」


 長賀の言葉を願空は即座に肯定した。


「その通りにございます。わたくしもこの二人を信じております。ただ、そのように見る者がおりますのは事実でございます」


 次席家老韮木(にらぎ)主延(ぬしのぶ)は家中最大の十万貫を領し、骨山家の九万貫より多い。代々の家業は砂鉄を使ったたたら製鉄と武器や農具といった鉄器の生産だ。一度は追放された宇野瀬道果(どうか)朧燈国(おぼろひのくに)へ戻ってきて再起できたのは主延の父が支援したためだと言われるほどの勢力を持っている。第三席の山鍬(やまぐわ)詮徳(あきのり)養蚕(ようさん)生糸(きいと)取引の元締めで六万貫を有する。

 先代の連署倫長(のりなが)は豊津との交易を禁じたが、墨浦商人との取引は奨励した。成安家は恵国貿易の輸出品として吼狼国風の刀剣を欲していたし、生糸を墨浦経由で都へ送ることで、朧燈国の経済はかろうじて回っていたのだ。

 しかし、倫長(のりなが)が死ぬと願空は成安家と敵対してその販路を閉ざし、桜舘家に豊津商人の保護と鉄器や生糸の売値を下げることを約束した。


「氷茨元尊は自家が商売をしているわけでもないのに商人と結び付きの深い強欲な男でございます。願空のせいで利益が減って困っているという言葉にはなるほどと思いましょう」

「そんなにうまく行きますかな」


 主延は首をひねった。詮徳も迷っている。


「筋は通っておりますが、罠ではないかと警戒されましょう」

「そうだろうな」


 長賀は頷いた。


「俺でも疑うだろう。よって、裏切っているという証拠を示し、信用させる」


 主延たちの視線を受けて、願空が言った。


焼石(やきいし)積城(あつなり)人身御供(ひとみごくう)に致します」

「何ですと!」


 主延は目をむいた。焼石(やきいし)積城(あつなり)は狢宿国で四万貫を領する家老で、先月狢橋のそばに築いた川前(かわまえ)出城(でじろ)を主延や詮徳と一緒に守っている。


「味方を敵に売るのでございますか」

「味方ではございません。裏切り者です」


 願空は懐から紙の束を取り出した。


「これは積城(あつなり)が蹴浜城へ送った手紙の写しでございます。あの者は飛鼠家と内通していたのですよ」

「そんな、まさか」


 そう言いつつも、両家老は納得の表情だった。焼石家は磯触国との境の来伏山(くるぶしやま)に銅山を持っているため飛鼠家と関係が深い。


積城(あつなり)殿には蹴浜城との連絡役を任せておりましたが、どうやら飛鼠家に反乱をそそのかしたのは焼石家だったようなのですよ。戦になる前に調停役を買って出て成安家に恩を売り、恵国貿易用の銅の値上げを承知させたかったようですな。ところが、元尊の怒りと大軍に驚いて飛鼠家は御屋形様に助けを求めました。戦が予想外に長びき銅の売り先に困ると、今度は飛鼠家に元尊へ降伏するように説得を始めたのでございます。そのために当家の様々な情報をもらしたようですな」

「ううむ」


 主延と詮徳はうなりながらもありそうなことだと思っているらしかった。


「この戦を起こした張本人を許すわけには参りませぬ。いっそあの者を利用してやりましょうと御屋形様とご相談致しました」

「彼が裏切っていたとは信じがたいが仕方がない」


 長賀は残念そうに言い、願空はやや声を落とした。


「主延殿には氷茨元尊へ、こう持ちかけていただきます。『宇野瀬家の本当の敵は福値家でございます。戦が長引いてこちらも苦しく、早く終わらせて北へ向かいたいと考えております。飛鼠家から手を引きますので、交易を再開していただきたい。敗戦の責任を追及して願空を失脚させたら、自分が連署になって貴家と同盟を結ぶつもりでございます』」

「なんと!」


 詮徳が驚いて声を上げると、願空はにんまりと笑った。 


「『我々が本気の証拠として、戦の原因を作った焼石積城(あつなり)を差し出します。示し合わせた日に焼石殿と喧嘩をして川前出城を出ますゆえ、手薄になった出城を取り、御屋形様に合戦を挑んでいただきたい。我々は戦場で動かず、こちらの負けの形で撤退致します。ほどほどのところで互いに戦をやめ、和約の交渉に入りましょう。』もちろん、ねらいは成安軍を罠にはめることでございますよ」

「その罠の詳細は?」


 主延が尋ねた。


「元尊に伝えていただきます。『攻めるふりをして接近し、突然寝返ってそちらの陣に加わるつもりだ』と。しかし、実際はそのまま油断している相手に攻めかかり、敵が動揺したところで我が軍が総攻撃、一気に打ち破ります」

「危険な役目ですな」

「はい。これを任せられるのは当家随一の精強さを誇る韮木隊だけでございます。山鍬殿には矢で支援していただきます」


 韮木家は自家で生産した特別製の鎧と武器を武者たちに与えている。同数で勝てる部隊は宇野瀬家中にないと言われていた。山鍬家は生糸など繊維を扱っているため弓にすぐれている。


「成功の暁には、焼石殿の領地と銅山を主延に与えよう。戦に勝てば鉄器や生糸の取引価格を桜舘家と再交渉できるだろう」

「なるほどのう……」


 主延と詮徳は少し考え、頷き合って平伏した。


「御屋形様のご命令とあらば、わしは従います。ただし、はかりごとが失敗した場合、わしらは敵に寝返ろうとしたと責められるかも知れませぬ。それが気がかりですな」


 主延は腰に帯びた伝家の名刀無双丸(むそうまる)にさりげなく手をかけた。もしわしを排除しようとすれば、刀剣や武具の作り手で大きな影響力を持つ韮木家を敵に回すことになると暗に示したのだ。


「安心せい。この策略はきっと成功する。失敗した場合も、主延と詮徳は俺の指示に従っただけだと皆に伝えよう」


 長賀が力強く言い、願空も約束した。


「出城の陥落に驚く者もおりましょうし、合戦の作戦は貴殿らの動きが前提でございます。わたくしからも皆に説明致しましょう」

「そういうことでしたら、喜んでお受け致します」


 主延が答え、詮徳も続いた。


「元尊めに一杯食わせてやりましょう。楽しみですな」

「重要な役目だ。この戦の勝利は二人の働きにかかっている。頼んだぞ」


 長賀に再度平伏して、二人は退出した。

 願空と義意(よしおき)も長賀にお辞儀をして部屋を下がり、自分たちが使っている建物へ向かった。

 願空の自室では赤潟武虎が待っていた。宵闇(よいやみ)の中、(あか)りもつけていない。義意(よしおき)手燭(てしょく)の火を行燈(あんどん)に移すと、連署の老人は低く尋ねた。


「首尾は?」

「しくじった。あと少しだったが、あの小僧はまだ生きている」


 武虎は無表情で答えた。


「役に立たぬな。暗殺はお手のものではなかったのか」


 座布団に腰を下ろした願空は、陶製の茶器にどぶろくを注いで口に含んだ。


「まあよい。もともと大して期待はしておらぬ。この戦の相手は氷茨元尊だ。大軍師とやらがどれほど知恵が回ろうと、大将があれではな」

「父上、敵の大将は成安宗員ですぞ」


 義意が指摘したが、願空は無視した。


「あやつの人となりをよく調べ、好みそうな罠を張ったが、さて、引っかかるか」

「かかるな。元尊はそういうやつだ」


 武虎は断言した。


「ばかなやつほど、他のやつの隙をついたり裏をかいたりするのを好む。そして自分は頭がよいと(えつ)()る」


 武虎は冷笑を浮かべた。


「他人をだませるのが頭がいい人間ではない。他のやつにできないことを思い付いたりやり遂げたりできるやつが頭がいいのだ。隙をつくとは他人の油断や失敗を利用することだ。自分でうまい策を考え出したわけではない。その意味ではあの小僧は本物だ。不愉快だがな」

「隙を見せる方が愚かなのだ。見せた隙が本物かどうか見抜けない者もだ」

「韮木主延のことか」


 武虎は明らかにばかにした口ぶりだった。


「あの男、本当に成安家に寝返るかも知れんぞ。よいのか」


 義意が憂慮する顔をした。


「韮木家は十万貫、裕福で恩のある家もたくさんございます。もし寝返ったら影響は小さくありますまい。戦場で足並みが乱れるのは恐ろしゅうございます」

叛心(はんしん)がある方が内通の申し出に真実味が増す。あんな男にはどうせ大したことはできぬ」


 願空は取り合わなかった。


「倫長の死後は大人しく従ったくせに、今頃になって陰で悪口を言うだけでは満足できなくなったらしい。わしを蹴落とそうとこそこそ動いておるようだ。保身に徹するならまだ見どころがあったが、足場を固めたわしに歯向かおうとは、やることに熟慮も一貫性もない」


 願空は最大の政敵を容赦なくこき下ろした。


「道果様は父親に恩があるゆえやつを家老にすえおいたが、たまたま生まれた家が勢家(せいか)で次席家老になっただけで、大した能力も実績もない男だ。金目当てにすり寄る者どもに取り巻かれて人望があると錯覚しておるような者に、戦狼の世は生き抜けぬ」


 願空は三十七歳の息子に厳しい口調で言い聞かせた。


「よく覚えておけ。隙をつくのにも、うまいつき方とそうでないやり方がある。敵をだましたと思った時が最もだまされやすいのだ。だましたつもりで敵に乗せられていないか冷静に自問自答できない者は必ず失敗する。お前は正直すぎる。純朴なのは民ならば美点だが、支配する立場の者には欠点だ。もっと頭を回して裏の裏を読め」

「心致します」

「素直なことだ」


 願空は溜め息を吐いた。武虎はおかしそうな顔で眺めていた。


「こたびの戦は壮大なだまし合いだ。よく見てよく学べ。わしの死後も生き残りたければな」

「あの小僧に足りないのはその覚悟だ。そこにつけ入る隙がある」


 武虎が言った。


「あいつが主君や仲間に守られて甘えている間はまだやりやすい。本気で現実に向き合い始めたら手強くなるだろう。殺すなら今のうちだ」

「そちらはお前に任せる。邪魔をさせるな」


 願空は頷き、声をやや下げた。


「あの男との協議はどうなっておる」

「うまく行っている。指示に従って動くだろう」

「よしよし。全ては計画通りだな」


 願空は猛禽(もうきん)のような表情でどぶろくをくいっと流し込んだ。


「元尊が相手ではちと不足だが我慢しよう。都へ向かう最初の戦を始める。お前たちにも働いてもらうぞ」

「かしこまりました」


 義意は生真面目に頭を下げ、武虎は二十代前半の美貌に冷酷そうな薄笑いを浮かべていた。



「川前出城が落ちた?」


 飛鼠寿方(としかた)は愛刀の刀身を布で磨く手を止めた。


「焼石勢は壊滅、積城(あつなり)殿が討ち死にしたというのか」


 薄暗い土蔵の中で、明り取りの窓に向かってためつすがめつ白い(やいば)の輝きを確かめている。


「予定と違うのではないか。まさか、宇野瀬家は負けそうなのか」


 報告を聞いても二十五歳の当主は背を向けたままだった。いつものことなので、五つ年上の側近は落ち着いていた。


「ご安心ください。そのご心配はございませんでしょう」


 掛狩(かかり)承操(よしもち)はのっぺりした顔に似つかわしい抑揚(よくよう)(とぼ)しい声で答えた。


「落ちたのは出城にすぎません。それも二ヶ月前に急造したものです。大軍に包囲されればひとたまりもありません。驚くことではございません」


 雅号を進楽(しんらく)というこの男は、以前は商人で戦場に出たことはないにもかかわらず、面識ある人物が討ち取られたと聞いても平然としていた。


「宇野瀬軍は約二万。そのうち一千二百を失っただけでございます。大勢に影響はないと存じます」


 寿方(としかた)の叔父の裕方(ひろかた)が、ううむ、と唸った。


「それはそうだが、あっさり落ちたのは気にかかる」


 裕方(ひろかた)は後見役として、政務に興味の薄い甥にかわって実質的に飛鼠家を切り盛りしているが、重大な案件があるとこの土蔵までわざわざ出向いてくる。


「あの出城には六千がいた。ところが、襲撃の直前に四千八百が狸塚城へ引き上げていったそうだ。そこに一万余りの成安軍が現れ、包囲して一気に攻め落とした。どうもきな臭い」

「確かに妙だな。一体何が起きているのだ」


 首を傾げた寿方に、裕方(ひろかた)は低い声で告げた。


「願空が焼石家を売ったのかも知れぬ」

「どういうことだ」


 叔父の深刻そうな口ぶりに、寿方はわずかに眉を寄せた。


「宇野瀬家はこの戦を諦めて撤退するつもりかも知れぬということだ」


 裕方は口にしてぞっとしたらしい。


「宇野瀬家に援軍を頼む時、当家は焼石家に仲立ちを頼んだ。願空は成安家と和睦するため、戦のきっかけを作った積城(あつなり)殿の首を差し出した可能性がある。宇野瀬家が引けば成安軍が攻め寄せてくるぞ」


 寿方はようやく事の重大さが分かったらしい。腕を下ろして体を二人に向けた。


「宇野瀬家を引き込んで両大国を対峙(たいじ)させ、頃合いを見て和平を持ちかけるという話だったはずだ。それで漆器の売値をつり上げることができると。成安家と本気の戦になるとは聞いていないぞ」


 二年前に家督を継いだばかりの寿方はまだ戦場に出たことがない。父の急死で当主になったが、多くを叔父に頼っていた。幸い裕方は善良で甥にとってかわろうといった野望はなく、刀剣趣味にもうるさいことは言わなかったので、飛鼠家はそれなりにうまく回っていた。そこに焼石家が反乱の話を持ち込んできたのだ。


「もしや、当家との密約がもれたのか」


 宇野瀬家に鞍替えする条件として、漆器を墨浦商人より高く買ってほしいと飛鼠家は要求し、願空は承知した。成安家と和睦する場合も、この条件を話せば宇野瀬家と同程度に買値を引き上げてくれる可能性がある。どちらの結果になっても、焼石家は増えた利益の一部を分け前として受け取ることになっていた。二家で共同して両大国を手玉に取ろうと目論んだのだ。


「あの両家の怒りを買ったら当家は終わりだな。どうするのだ」


 不安げな顔になった主君を進楽(しんらく)がなだめた。


「まだそうと決まったわけでございません」


 言って、視線を刀に落とした。


呼蝶丸(こちょうまる)をおしまいください」


 寿方は頷き、ひざ元に置いてあった鞘を取り、刀を差し込みかけて手を止めた。


「美しい。これを眺めていると心が静まってくる」


 寿方は刀剣が好きだった。槍や脇差も面白いが長刀が最もよい。もう一度抜いて、薄暗い室内で光を放つ刀身をじっくりと眺めた。


「いつ見ても素晴らしい刀でございますね」


 進楽が目を細めた。


「絶妙な()り具合といい、冴え冴えとした刃紋(はもん)と言い、目を吸い寄せられるようです」

「お主には多くの刀を紹介されたが、これを超えるものはまだないな」

「よいものを見付けましたら、また持って参ります」


 この刀は進楽の家の家宝だった。商売に失敗して金に困った進楽は高く買ってくれそうな人を探し、刀剣好きと評判の若君のところへやってきた。同じ趣味の者同士すぐに意気投合し、しばしば蹴浜城を訪れるようになり、寿方が当主になると側近に取り立てられた。しかし、進楽は()をわきまえて(まつりごと)には口を出さず、刀剣収集の手伝いや話し相手に徹していたので、裕方も反対はしなかった。

 寿方はやがて刀を鞘に納めると、進楽に目を向けた。


「宇野瀬家が敵に回ったのなら、韮木家の生み出す名刀を手に入れるのは難しくなるのだろうな」


 裕方はこの状況で刀の話かと呆れる顔をしたが、進楽は表情を変えずに主君に言った。


「いえ、まだ望みはございます」

「そうなのか?」

「川前出城が落ちたのは偶然かも知れません。多くの武者が城を離れることを成安家がたまたま察知して襲撃した可能性もございます。あの願空と氷茨公が簡単に和睦するとお思いですか」

「そう言われるとしそうにないな。では、当家はどうすればよい」


 進楽は少し考え、裕方をちらりと見て、差し出口を恐れるような慎重な口調で言上した。


「あの出城が落ちたとなりますと、恐らく成安軍は狢川を越えて宇野瀬領へ攻め込みます。それを防ぐための出城でございましたし、少しとはいえ宇野瀬軍の兵力が減りました。初戦の勝利で武者たちの意気が上がっていると思われますので、氷茨公は一気に勝負に出る可能性があります。願空も黙っていないでしょう。村々を荒らされたり焼石家の銅山を占拠されたりしたら困りますので、迎え撃つと思われます」


 裕方は腕を組んで考え込んだ。


「つまり、合戦になると言うのか。あり得ることだな」

「結果はどうなると思う。叔父上、進楽」


 二人は顔を見合わせ、進楽が答えた。


「こればかりは分かりません。ただ、当家がするべきことははっきりしております」

「何をすればよい」


 進楽は一度口をつぐみ、頭の中で考えを整理する顔をした。


「まず、宇野瀬家に当家の忠誠は変わらぬことを伝えて勝利を信じましょう。氷茨公は当家に腹を立てております。頼るべきはやはり宇野瀬家です。勝ってもらわないと困ります。その上で」


 と言葉を切り、叔父と甥を見比べて、さも重大そうな声音(こわね)で告げた。


水門橋(みとばし)砦の武者を増やし、狢川の河口の警備をさらに厳重に致しましょう。宇野瀬家が当家に攻め込んでくることは現状あり得ませんので、成安家が勝利した場合に備えるべきです。ご安心ください。願空と戦えば成安家は必ず小さくない損害を受けます。当家の守りが固いとなれば、和平に応じる可能性はございます」

「なるほど」


 寿方は刀を抱きかかえて耳を傾けた。


「もし宇野瀬家が勝った場合は、河口の部隊は橋を渡って寝入城へ向かい、城攻めに協力します。できましたら撤退する成安家の部隊を一つ二つたたいて武功を立てましょう。それで宇野瀬家の覚えもめでたくなります」

「当家も多少は働いた方が印象はよいな。だが、渡河までしなくてもよいのではないか」


 裕方は言ったが、進楽はそれには答えず進言を続けた。


水門橋(みとばし)砦の部隊の指揮は国主様御自(おんみずか)らおとりになるのがよろしいでしょう。補佐として、裕方様にもご出陣をお願いすることになります。もちろん、わたくしも参ります」

「俺も出ないと駄目か」


 寿方は家臣の報告を聞き叔父の提案を承認する時以外は、刀剣を保管するためにわざわざ造らせたこの大きな土蔵で磨いたり眺めたりして過ごしている。出陣には気乗りしない様子だったが、進楽は申し訳なさそうな顔をしつつも言葉に力を入れた。


「国主様がお出ましになった方が武者たちの士気が上がりますし、当家が本気だと示すことができます。守りを固めて国境は越えさせないという意志を明確にし、合戦で痛手を受けたあとで当家とも戦うつもりかと脅しをかけてこそ、交渉は成功するものでございます」


 商人として諸国をめぐった経験からそう思うのだとほのめかし、効果的な一言を付け加えた。


「うまく行けば、成安軍を追撃する時に討ち取った武将の佩刀(はいとう)が手に入るかも知れませぬ」

「そうか。それなら俺も出るしかないな」


 寿方が成安家に反乱を起こしたのは、元尊の兵糧供出命令で刀剣を購入する費用を削らなくてはならなくなったためだ。買いたい長刀を泣く泣く諦めて不満をもらしていたところに焼石家から誘いがかかったのだ。うまくすれば漆器の売値をつり上げられ、刀剣をもっとたくさん買えるようになりますと進楽に言われて、この道楽者は決断したのだった。

 裕方は呆れたように溜め息を吐いた。


「刀剣などどうでもよいが、漆器の売値は維持したいものだ。両大国に挟まれた当家が攻めつぶされずにすんでいるのはこの産業のおかげだ。遠い昔にこの国で漆器作りを始めた方々と、保護して諸国に名が知れるまでに育てたおじい様や父上への感謝を忘れてはならぬぞ」


 飛鼠家は磯触国の旧国主家の奉行だった家で、傑物だった先々代茲方(これかた)が主家を追放して独立し、先代程方(のりかた)が二十年かけて国内を統一した。成安家に属してからも当主を国主様と呼んできたのは自主独立の気風の表れだ。父や兄の苦労を見てきた裕方は、何よりも飛鼠家の存続にこだわり、その(かなめ)である漆器を重視していた。元尊は墨浦商人と結んで漆器の値下げを要求してきたので、甥の言い出した反乱に危ぶみつつも賛成したのだった。


「合戦は恐らく明日にでも始まります」


 進楽は興奮を抑えた口調で言った。


「今日のうちに出陣し、水門橋に参りましょう。今夜は砦でゆっくり休み、当家の命運がかかった戦に備えるのがよろしいと存じます」

「磨かねばならぬ刀があったが帰ってからだな」


 寿方は膝の上の愛刀を撫でた。


「蔵には厳重に施錠するが、これだけは持って行く。呼蝶丸(こちょうまる)、お前はかつて高名な武人の差料(さしりょう)だったそうだな。久しぶりの戦場だ。楽しむとよい」


 刀を握って十七万貫の国主は立ち上がった。


「では、出陣しよう。気は乗らぬが、俺たちが生き残るため、刀を買う金のためだ。大神様と先祖に武運を祈ろう」

「ははっ」


 裕方と進楽は深く頭を下げて、当主の命令に従った。



「川前出城は落ちたか。では、罠ではなかったのだな」


 元尊は狢橋砦の見張り台で酒を飲んでいた。


「そのようでございます」


 陰平(かげひら)索庵(さくあん)も攻略に向かわせた軍勢の報告を待っていた。この時刻でもまだ暑いので、どぶろくは川の水でよく冷やしてあるが、索庵は手を付けていなかった。


「先生の予想ははずれたな」

「出城付近か向かう途中に伏兵がいて襲撃されるだろうと思いましたが、考えすぎだったようでございます」


 夕日に染まった空の下でも、炎上する出城の炎と煙はよく見えた。


「しかし、まだ油断はできません。韮木(にらぎ)主延(ぬしのぶ)山鍬(やまぐわ)詮徳(あきのり)の寝返りは……」

「分かっておる。信じられぬと申すのであろう。そんなことは言われるまでもない」


 元尊は酒をくいっとあおると唇の端を皮肉げに引き上げた。


「あれは罠だ。わしを誘い出して戦を挑むつもりだろう。白旗を掲げて接近して我が軍を油断させ、急に突撃して混乱させて打ち破るつもりに違いない。そんな見え透いた手に乗るものか。(あなど)られたものだ」


 氷茨家の家臣宜無(むべない)郷末(さとすえ)が無言で主君の赤い木杯に酒を注いだ。郷末(さとすえ)は三つ年下の元尊に常に影のように付き従っている。


「お分かりでしたら、ここは兵をお引きになるべきでございます」


 索庵は献策した。


「落とした出城を徹底的に破壊して無力化したのちに、軍勢を狢川のこちら側へ戻らせましょう。策略が失敗し、一千二百の武者を失っただけで得るものがなかったとなれば、宇野瀬家の諸将は動揺します。願空の支配力は低下し、本当に離反する者が出るかも知れません。そこへ和平を申し込めば、不利を悟った願空は乗って参りましょう。両家が和睦すれば飛鼠家は降伏致します」

「それが先生の策か。なるほど、理想的な展開だ。その通りに行けばだがな」


 元尊の口ぶりは全くほめていなかった。


「先生も沖里是正や銀沢信家と同じく、交渉で下すのがよいと思うのだな。だが、わしの考えは違う。この機に乗じて願空を討つ。狢宿国全てと銅山を支配下に置く」


 元尊は舌で唇をなめまわした。


「願空は危うい策を打った。本当に裏切りかねない者を敵に内通させれば疑わずにはいられない。諸将の足並みも乱れよう。そこをついて一気に勝負をつける。可能ならばあやつを殺す」

「お待ちください」


 索庵は慌てた。


「危険でございます。もっと確実な策をお採りください」


 兵法(へいほう)の師範は弟子に講義をする口調になった。


「この戦の目的は飛鼠家を当家の従属下にとどめることでございます。宇野瀬軍の撃破ではございません。ましてや願空を討つことは、当初の計画から完全に逸脱致します。戦とは明確な目的を持って行い、それを達成したら終えるもの。これは兵法の基本でございます。あれもできる、これもしたいと欲張るのは愚将のすること。必ず最後に敗北が待っております」


 元尊の返しは冷ややかだった。


「戦とは流動的なものだ。計画通りには行かぬ。その場の状況に応じて策を変えていく必要がある。今なら願空を破ることができる。この機をのがすのは臆病者だ」

「しかし、戦の目標を途中で変更するのは大変危険でございます」


 索庵は表情を改め、畳に手をついて言上した。


「この戦は連署様にとって負けてはならぬものでございます。結果の不確かな賭けはお避けになるべきです。ここで大勝しても得られるのはせいぜい狢宿国の北半分が限度、朧燈国(おぼろひのくに)へ攻め上れるわけではございません。無理をして勝つ必要はないのでございます」

「それは書物でしか戦を知らず、机上(きじょう)で兵法を語る者の意見だ。考えすぎて臆病になっておる。案じすぎて戻るより信じて行くが吉とことわざにもある。多少の危険を冒しても前に踏み出し、今いる戦場の状況にあった策をとるべきなのだ」


 元尊はきっぱりと言い切った。


「先代の宗周(むねちか)様が十分な国力を持ちながら天下を取れなかった理由が分かるか。あの方は負けを嫌って慎重にすぎた。冒険を避け、あと少しの勇気があれば勝利できた機会を幾度も失った。わしはその(てつ)は踏まぬ。勇気なき者に大業(たいぎょう)は成し遂げられぬ」


 主君が本気と悟って、索庵は一層眉を曇らせた。助けを求めるように郷末(さとすえ)を見やったが、元尊の学友で最も信頼する側近は無表情で黙ったままだった。


「わしには大勝利が必要なのだ」


 元尊はこぶしを強く握り締めた。


「家中にはまだわしの実力を疑う者がおる。宗周(むねちか)様が何度も敗北した津鐘(つかね)家をあっさりと滅ぼして三十万貫を手に入れた知謀を認めず、残党の反乱に手こずっておると非難する。その者たちを黙らせる絶好の機会なのだ。戦上手な願空に圧勝すれば、わしの実力を認めざるを得ぬだろう。家中に歯向かう者がいてはならぬのだ」

「焦っておられるのですか」


 御使島の戦況は思わしくない。一方、桜舘家は次々に大国を打ち破って勢力を広げている。索庵がそれを思い浮かべたと察して、元尊は大きな声で否定した。


「そうではない。せっかくここまで出てきたのだ。二ヶ月も滞陣して一戦もせずに引き返したのでは兵糧の無駄ではないか。わざわざ諸国から集めたものだぞ」


 索庵は控えめな溜め息を吐いた。


「そのような小さなことをお気になさいますな」

「戦いを避ければ、杭名(くいな)種縄(たねつな)などは願空に(おく)したと言い立てるであろう。大した実力はなく何かを成し遂げようという意欲も持たぬくせに、他人のすることを偉そうに批判ばかりしおる。ああいう者どもをそろそろ黙らせたいのだ」

「大人物は小人(しょうじん)の言うことになど惑わされぬものでございます。どうか……」


 索庵の言葉を元尊はさえぎった。


「宇野瀬家を弱らせることができれば御使島へ大軍を派遣でき、鮮見家など簡単に滅ぼせる。それで都へ向かって兵を動かせる。この戦を天下統一の第一歩にしたいのだ。その戦に参加できることを先生には喜んでもらいたい」

「大変光栄に存じますが、わたくしは心配でございます」

「索庵先生には都へ上る戦で大いに働いてもらうつもりだ。頼りにしている。だから、ここはわしに従え」

「しかし……」


 元尊は(あるじ)として命じた。


「明日、合戦して決着をつける。必ず願空を打ち破り、天下に我が軍才を示す」


 索庵はぐっと言いたいことをのみ込み、平伏した。


「そこまでおっしゃるのでしたらもはや反対は致しません。ですが、韮木と山鍬の寝返りを前提に作戦を立てるのはおやめください。こちらは敵より一万近く多うございます。それを生かした正攻法をご提案致します。一万を予備兵力とし、残り二万で敵とぶつかり、敵武者が疲れ始めた頃に無傷の一万を側面や弱いところへたたき付けるのでございます。これなら劣勢になっても挽回可能でございますし、願空も動かない一万を警戒して思い切った手を打てませぬ」

「その策は慎重すぎる。敗北を恐れて攻撃を手加減してどうする」


 元尊は即座に却下した。


「圧力をかけて敵の陣形を崩し、その傷に新手を突入させて広げ、分断するのが常道。それは先生の言う通りだ。だが、戦は勢いが重要だ。今回は敵が自ら隙を作ってくれる」


 元尊には勝利の瞬間が目に見えているらしかった。


「韮木と山鍬は当方の陣に近付いてくると言ってきたが、それは拒否する。かわりに、本当に寝返っているなら戦場から去って行けと指示する。戦に参加せず遠くで見ていろ。それだけで褒美をやるとな。もちろん、寝返りがうそなら何もやる必要はない。本当に裏切っていたとしても、敵に内通するような者たちを配下に迎えるわけにはいかぬ」


 索庵は愕然として、郷末(さとすえ)は静かに、元尊の作戦を聞いていた。


「韮木と山鍬の配置予定は左翼だという。こちらにしかけた策が本当だと示すには、その二隊は去っていくしかない。数が減った左翼に、宗速(むねはや)様の四千の騎馬武者をぶつけて突き崩す」


 この騎馬隊は普段は当主を守る精鋭だが、側室のお(ゆい)の方を使って宗龍(むねたつ)にねだらせ、この戦に借り受けたのだ。


宗速(むねはや)様は歴戦の猛者(もさ)。必ずや敵陣を粉々に砕いてくださるだろう」


 成安宗速(むねはや)は宗龍の叔父で三十九歳。当主の一族でありながら、望んで騎馬隊の将となって戦場を駆け回っている。自ら先頭に立った突撃のすさまじさは有名だった。


「敵がわざと開けた穴に突入させるおつもりでございますか。二隊への指示を知れば、願空は対策を講じるに違いございませんぞ」

「わざとだとしても数は減り陣形は乱れる。そこへ精鋭騎馬隊をつっこませ、他の部隊も攻撃すれば、傷口は修復不可能になり、左翼は崩壊するだろう。敵の最も弱い部分に大兵力をたたき付けるのは当然ではないか。敵に策があろうと、それを使う余裕を与えなければよいのだ。左翼を崩したら総攻撃し、数の差で一気に圧力を加え、押しつぶす。あとはただの狩りだ」

「しかし、敵の策を逆手に取ることなど果たして可能でしょうか。宗速様を危険にさらすことになります。数の優位を生かした堅実な戦いをなさるべきと存じます」

「まるで是正のようなことを言うのだな。戦は勝てばよいのだ。目的達成に集中せよと言ったのは先生ではないか。そのためなら何でも使うべきだ。たとえ女房でもな」


 元尊は冷笑を浮かべた。元尊の父元右(もとすけ)が息子に兵法の師を付けようとした時、候補が二人いた。索庵は自分の美人の妻を元右(もとすけ)に差し出し、その地位を得たのだ。


「勝ってしまえばこちらのものだ。そうではないか」


 索庵は筆頭家老の御曹司(おんぞうし)の師範の地位を得て収入が安定し、兵法の研究に集中することができたが、夫婦仲は冷え切った。それを知って以来、元尊は師の反論を封じたい時はこの件を持ち出すようになった。元尊自身も宗龍に対して同じことをしたのだが、意図的に忘れているらしかった。


「この戦に勝てばわしの師である先生の名も上がる。給金も増やすし系庵(けいあん)にも相応の地位を約束しよう」


 学問の成績が振るわず氷茨家に仕えることができなかった息子の仕官まで持ち出されて、索庵は何も言えなくなった。


「納得したな。では、すぐにわしの言った線で作戦を立てよ。決戦は明日だ。今すぐ伝令を寝入城へ走らせ、早朝に残りの軍勢を出立させてここへ集め、昼前には川を越える。使える武者は全て投入する。この城には五百だけを残す」

「沖里様と桜舘公はどう致しましょうか」

「是正には四千を与えて飛鼠家の抑えをさせる。あの慎重な男のことだ。この策に反対するに決まっておる。邪魔されたくないからな」


 元尊は恐ろしくないが是正は警戒なさるべきですと願空が長賀に言ったという噂が流れている。見え透いた挑発だが、是正の助けがあったから勝てたと杭名(くいな)種縄(たねつな)あたりがあとで言いそうなので、遠ざけておく方がよい。この戦に補佐などいらぬ。鯨聞国(いさぎきのくに)は元尊だけで落としたのだ。


「桜舘家は使おう。武者を率いてここまで出てこさせろ」

「狸塚城に向かわせて牽制させるのではないのですか」

「わしが敵の左翼を砕くまで、右翼を抑えさせておく。守りの戦に強いそうではないか。多少すり減ってもかまわぬ」

「承知致しました」


 索庵は頷き、もう一つ尋ねた。


「韮木と山鍬から、藻付(もずく)殿が宇野瀬家に内通していると知らせて参りましたが、どう致しますか」

故途(もとみち)か。ありそうなことだが、願空の策かも知れぬな」

「はい。殺させてこちらの戦力を減らす離間(りかん)の計の可能性もございます」


 藻付(もずく)故途(もとみち)は五万貫の家老で寝入城の守将の一人だ。狢宿国で海藻の商いをしている一族で、薬の製造販売もしていた。成安家が進出してくると配下に入ったが、墨浦商人に商売を圧迫され、元尊が政権を取って以後それがさらに強まって不満を募らせている。


「不安材料をなくすには殺してしまうのがよろしいと存じます。無能ではございませんが、敢えて生かす価値のあるお方とも思えませぬ」

「敵の手に乗るのは(しゃく)だ。合戦前に裏切り者の存在を明らかにすれば士気に影響する。どこかに遠ざけておけ」


 索庵はさらに説得しようとして諦め、提案した。


「では、現在川前出城におりますので、そのまま出城を守らせてはいかがでしょうか」

「それでよい。たった一千五百だ。もし寝返ってこちらの背後を襲ってきても、警戒しておれば撃退できよう」


 元尊は満足した顔になった。


「すぐに準備に取りかかれ」

「かしこまりました」


 索庵と郷末(さとすえ)は平伏した。


「宇野瀬家は焦っているようだな。恐らく福値家だ。資金を援助して早く背後をつけとせっついたかいがあったか。同盟はできなかったが、金の分は働いてもらわねばな」


 元尊は(ひと)()ちて星が現れ始めた空を見上げた。


「願空め。俺を手玉に取るつもりだろうがそうは行かぬ。このだまし合い、勝つのはわしだ」


 残りの酒をくいっと飲み干すと、元尊は(から)になった赤い木杯を眼下の暗い大河に思い切り放り投げた。

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