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狼達の花宴 ~大軍師伝~  作者: 花和郁
巻の四 知恵者と勇者
31/66

(巻の四) 第三章 陰謀 上

「いい芝居だったな」


 忠賢は歩きながら扇子で胸元をあおいでいた。よい香りのする草を口にくわえている。


「そうね。面白かった。あれは使えるかも」


 田鶴は短い袖の着物の左肩に真白を乗せている。芝居も一緒に見ていた。猿回しの稽古は今でも日課なので、参考にするのかも知れない。

 直春と直冬も満足したようだった。


「戦狼の世の始まりの物語か。もちろん知っていたが、芝居で見ると一味違うな」

「こういうのは初めて見ました。楽しかったです」


 百五十年ほど前、高桐(たかぎり)家が二つに分裂して争った時のことをかなり面白おかしく脚色した物語だった。

 菊次郎は空を見上げた。


「ちょっと暑かったですけどね。日陰に入りたかったです」


 もう萩月(はぎづき)に入って六日、そろそろ虫の声などに秋の気配が感じられるが、晴天の真昼の太陽はまだ肌を焼くような厳しさだ。


「これくらいの日差し、どうってことないだろ。もっと体を鍛えた方がいいんじゃないか」


 忠賢のからかうような口ぶりには返事をせず、菊次郎は歩きながら道の両脇を見回した。


「この村もにぎやかになりましたね」


 付近の農村から来たと思われる人々が、野菜やきのこ、桃や西瓜(すいか)を地面に並べている。


「まるで港前の市場みたい」


 田鶴の肩の上で真白が果物を食べたそうにしていた。

 一息村は豊津との交易のための宿場だから、村の中央を貫く葦狢街道の両脇に旅籠(はたご)が十軒ほど立ち並んでいる。多くの荷を運ぶ商人が安心して泊まれるように、土蔵と馬屋を備えた立派な建物だ。

 その周辺の草地や道の脇に、即席の店が二十以上も出ていた。武者と小荷駄隊合わせて七千人が二ヶ月に渡って滞在しているので、売りたい者たちが集まってきたのだ。


「とうとう芝居小屋までできちまったな。観るなとは言えないよな。暇を持てあましてるからな」

「武者たちには息抜きが必要だろう。俺たちにもな。当直でない時にちょっと甘いものを買うくらいは大目に見るさ」


 忠賢に言って直春は足を止め、桃を売っている老婆に声をかけた。五個買って全員に一つずつ渡した。菊次郎も熟した桃にかじりつき、甘い汁をすすりながら言った。


「緊張をゆるめるわけにはいきませんが、いつまでこの遠征が続くか分からないので武者たちはつらいでしょう」


 戦がないのに気を張り続けるのは難しい。連日の暑さもあって武者たちには疲れが見える。規則正しい生活を送らせ、油断を(いまし)めつつ、時には気分を変えることも必要だと直春と相談して芝居の上演を許可したのだった。


「戦はしばらく起きそうにありません。僕たちが芝居を見ていられるくらいですから」


 元尊は百合月初頭の軍議で蹴浜城へ進軍する作戦が否定されたあともいくつか提案をしたが、諸将の同意を得られなかった。かといって撤退もできず、成安軍と宇野瀬軍は大兵力を(よう)したままにらみ合いを続けていた。


「元尊の野郎は焦ってるだろうな。御使島(みつかいじま)はひどいことになってんだろ」

「鮮見家が鯨聞国(いさぎきのくに)へ攻め込みました。元尊は城に籠もって守りを固めよと命じましたので、秀清(ひできよ)は傍若無人に国中を暴れ回っています。田畑を焼いたり、勝手に収穫して兵糧にしたり、成安家と取引がある商家から略奪したりしているそうです」

「願空はわざとこの戦を引き延ばしてるんだな」

「早く決着をつけたい元尊は、宇野瀬軍を合戦に引きずり出そうと悪口を流しました。願空や長賀は戦を恐れる臆病者だと。願空は対抗して、元尊は女を操って主君を落とすが軍勢を操って城は落とせないと嘲笑い、聞いた元尊は真っ赤になって悔しがったと言われています」

「あの眼鏡野郎の怒り狂う顔が目に浮かぶぜ。いい気味だな」


 先月の軍議で初めて姿を見て以来、忠賢は元尊を一層嫌うようになった。ああいう男は我慢ならないそうだ。


「しかも、願空はわざと合戦の支度を見せておいて出陣しないことを繰り返しました。成安軍は備えては肩透かしの繰り返しに疲れ果て、また敵に出陣の動きがありますと報告した者に、元尊はうそだったら首をはねると叫んで周囲に止められたそうです」

「とても効果的な嫌がらせですね。参考になります」


 直冬が感心すると、田鶴が心配そうな顔をした。


「絶対にまねしないでね。直冬様はあんな意地悪じいさんや陰険男みたいになっちゃ駄目。みんな悲しむよ」

「分かっています」


 直冬は明るく笑って菊次郎に尋ねた。


「師匠、今、両軍は何をやっているんですか。どうして戦わないんでしょうか」

「決め手がないからですね。勝つか負けるか五分五分では勝負に出られません。勝てる可能性を少しでも高めようとしているところです」


 どちらの勢力にとってもこの戦の結果は影響が大きく、負けるわけにはいかない。


「現在は調略合戦をしています。相手方の武将を味方に引き入れようと元尊も願空も必死ですよ」


 両陣営の武将たちの間を使者らしき人物が盛んに行きかっていると隠密から報告があった。


「はかばかしい成果は出ていないようですが」


 最近、桜舘家は宇野瀬家と通商関係にあるから不戦の密約があるのではないかと元尊から詰問(きつもん)の使者が来た。ばかげた話だと否定したが、銀沢殿の小屋から宇野瀬家の間者が出てきたという情報もあるのだぞと釘を刺された。


「そういえば、願空が長賀公に、元尊は恐ろしくないが沖里是正は警戒するべきだと言ったと聞いたぞ」


 直春が耳にした噂を話すと、忠賢がふんと鼻を鳴らした。


「名将を戦場に出さないために、元尊の対抗心をあおってるんだろうな」

「そんなあからさまな手に引っかかりますか」


 直冬は疑わしげな表情だったので菊次郎は説明した。


「効果があると思うからやっているのでしょう。少なくとも元尊は不愉快でしょうね」

「そんな手にかかると思われること自体腹が立つよ、あたしなら」

「なるほど、そういう効果はありますね」


 田鶴の意見に直冬は感心している。


「嫌がらせをし合っている間は戦は起きないでしょう。工作に一定の成果が出たら、もっときな臭い噂が立ちますよ」

「では、まだ豊津に帰れないんですね」


 直冬はがっかりした顔をした。桃を食べ終わった直春が竹筒から水を飲んで口をぬぐった。


「早く終わってほしいものだ。商人たちも迷惑している。このまま冬が来たら一昨年と同じことになってしまう」


 元尊は宇野瀬領との交易を禁じた。宇野瀬家を財政的に追い詰めるためとしているが、半分以上は敵国と通商している桜舘家への嫌がらせだ。豊津商人や炭と麦と木綿を作っている民のためにも、直春は対立状態の解消を願っていた。


「墨浦商人は戦の影響を受けないんですか」

「いい着眼点ですね」


 菊次郎は直冬をほめた。


「実は、元尊が磯触国を取り返したいのも交易のためなのです」


 大都市墨浦は海の向こうの大恵寧(けいねい)帝国との交易で栄えてきた。(けい)国への主要輸出品の一つに漆器(しっき)がある。磯触国は上質の(うるし)が採れるため、昔からその製作が盛んなのだ。


「成安家を支えてきたのは巨利を生む恵国貿易です。それを続けるためには磯触国を押さえておく必要があります」


 飛鼠家が何度も反乱を起こしながら許されてきたのはこれが理由だった。戦で漆器の生産が(とどこお)るよりはいくらか譲歩する方がましなのだ。


「なるほど、勉強になります」


 直冬はあごに手を当ててうんうんと頷いていた。


「では、宇野瀬家はどうなんですか。急がなくていいんですか」

「豊津との交易は当家同様早く再開したいでしょう。それ以外は特に不安要素はないようです」

福値(ふくあたい)家は動かないのか。攻める好機だろ」


 忠賢に答える前に、猿に桃の半分を渡している少女を菊次郎はちらりと見た。


声返国(こえがえりのくに)鎮定(ちんてい)に手間取っているようです」


 田鶴の故郷の国は九万貫を三つの小封主家が分け合っていたが、隣の速汐国(はやしおのくに)が制圧された時に肘木(ひじき)家と同盟して戦ったため、福値家の侵攻を招いた。七十万貫の福値家の敵ではなく、抵抗空しく三家とも滅んだが、その旧臣に願空が資金を与え、反乱を起こさせた。山奥の国で山賊のような抵抗をされ、戦上手の連署福値隆親(たかちか)も手こずっているらしい。


「つまり、鯨聞国と同じ状況ってことか」

「そういうことですね。これは推測ですが、両方とも願空の指示で赤潟(あかがた)武虎(たけとら)が関わっているのではないかと思います。武虎は鮮見家とつながりがありますので」


 こういう策動は正規の武家より武虎のような隠密の方が向いている。山賊たちに作戦を授けて準備を手伝った可能性がある。


「田鶴の村を襲った封主家も滅んだんですか」


 直冬は少女に遠慮して声を落とした。


「ええ。福値家は反抗した者たちに厳しい姿勢で臨んでいます。少なくない村が焼き払われたそうです」


 隠密衆は皆声返国(こえがえりのくに)の出身で田鶴はその頭領だから当然報告は受けているはずだ。それでも彼女の前でこの話をするのは少し心配だった。


「そんな顔しないでよ。あたしは大丈夫だから」


 田鶴は微笑んだ。


「父さんや母さんを殺した領主は憎いよ。死んだって聞いて、当然の報いだって思った。ふるさとの人たちのことは心配だし、福値家のやり方にはとっても腹が立つ。でも、もう昔のことだもの。村のみんなで集まって和尚様にお墓を作ってもらったら、なんだかふっ切れたの」


 隠密衆を結成した時、田鶴は漢曜(かんよう)和尚に事情を話し、亡くなった人たちの光園(こうえん)での幸福を祈る儀式を頼んだ。費用は桜舘家が出し、直春たちも参列した。


「菊次郎さんと同じで、豊津城が今のあたしの家。ここにいるみんなと隠密の仲間があたしの家族。だから、寂しくなんかない」

「そうだね。僕にもよく分かるよ」


 菊次郎が言うと、少女はにっこり笑ったのでほっとした。


「だから、みんなを無事に連れ帰ってよね。菊次郎さんも他の人も、死ぬなんて絶対に許さないから。妙姫様や雪姫様を泣かせたら怒るからね」

「うん、約束する」


 田鶴が一息村にやってきたのは二人の姫君の代理だった。滞陣が長くなり、様子を見に行きたいができないので侍女に頼んだのだ。


「師匠、この戦はいつになったら終わるんですか。僕はもう帰りたいです。修練も嫌ではないですけど」


 直冬はすっかり日に焼けている。忠賢が毎日騎馬武者たちと行っている厳しい訓練に参加しているからだ。忠賢によれば筋はよいらしい。十四歳になり、大分背が伸びて筋肉も付いてきた。学問は菊次郎が手ほどきをしているが、理解が早く教えがいがある。


「僕たちがこの村にいなくてもあまり変わらない気がします。宇野瀬軍は狸塚(まみづか)城から動く様子がないですし」


 直冬が言うと忠賢がにやにやした。


「姉ちゃんたちが恋しくなったのか。甘えん坊だな」

「お姉さん子だもんね」

「そんなことありません! 僕は戦を終わらせる方法を真剣に知りたいんです!」


 田鶴にまで言われて直冬はむくれた。忠賢はわざとだろうが、田鶴はまだ成長に気付いていないのだ。

 そういう顔をするから子供扱いされるのだと思ったが口にはせず、直冬の疑問に答えた。


「元尊は戦いたがっています。一気に決着をつけたいようです。華々しい戦果を上げたいのでしょう。反氷茨派の人たちがそれに反対しています」

「ったく、成安家の連中は戦の恐ろしさが分かってないんじゃねえか」


 初回以後、忠賢は軍議に参加していないが、直春と菊次郎が様子を詳しく話している。


「戦は遊びじゃねえんだ。負けたら大勢が死ぬ。下手したら家が滅ぶ。焦る元尊も、その足を引っ張る連中も、自分の都合しか考えていやがらねえ」


 忠賢は主家を三つも失っているからいらだつのだろう。直春も同感らしい。


杭名(くいな)種縄(たねつな)や同調する者たちは元尊に手柄を立てさせたくないようだが、自分たちの案はないらしい。それでは問題は解決せず、事態は悪化するだけだ。当家にとっても損ばかりだ」


 菊次郎も危険な兆候だと思っていた。この戦は長引くほど成安家側が不利になる。直春と沖里(おきざと)是正(これまさ)は一度兵を引き、飛鼠家と交渉するか準備を整えて改めて戦を挑むべきだと進言したが、これには両者が結託して反対した。反氷茨派も飛鼠家を放置できないと考えている点は同じで、元尊主導で解決することに不満なだけなのだ。


「総大将はお飾りだしな」


 忠賢の指摘通り、成安宗員(むねかず)には場を仕切る才覚もその意欲もなかった。どちらにも加担せず、退屈そうな顔であくびをかみ殺しているだけだ。


「両者の対立は結果的に鮮見家を助けています。増富家も安心して槍峰国(やりみねのくに)を攻めることができました。砂鳥定恭はこれを見越していたのでしょうか」

「いや、さすがにそれはないだろうぜ」

「菊次郎さんにも分からなかったんだから、予想できなかったと思う」


 忠賢と田鶴は否定したが、直冬があの軍師の恐ろしさを思い出させた。


「師匠の方が上だと僕も思います。けれど、采振(ざいふり)家を滅ぼしてしまった人ですから可能性はあります」


 菊次郎は頷いて、田鶴が豊津から預かってきた隠密の報告を思い出した。

 北の大戦は蓮月(はすづき)の初頭に始まった。煙野国(けぶりののくに)毒蜂(どくばち)と呼ばれる蜂ヶ(はちがね)儀久(のりひさ)が突如采振家からの独立を宣言し、本拠の麻緑(あさみどり)城に立て籠もったのだ。

 蜂ヶ音家は娘の()()姫が嫁いだ鎌柄(かまつか)家を併合し、十万貫の実力があった。五十八万貫の采振家の六分の一を占め、武者は三千人だ。

 采振氏鑑(うじあき)は驚き、弟の氏総(うじふさ)を大将に四千五百を派遣した。増富家を警戒して武者数が少なかったため、氏総(うじふさ)は城を包囲したものの攻撃はせず、兵糧攻めの長期戦になった。


 その三日後、恐れていた通り、増富家が動き出した。当主常康(つねやす)を大将とする一万二千の軍勢が両家領の境にある砦を囲んだのだ。

 氏鑑(うじあき)は自ら七千を率いて救援に向かった。采振軍が到着すると増富軍は囲みを解き、少し離れてにらみ合いになった。

 ところがその夜、武者たちが騒ぎ出した。東の方に北へ進む火の列が見えるという。増富軍に別働隊がいたのだ。この砦を守っても本拠野司(のづかさ)城を落とされたら大打撃だ。氏鑑は引き返す決断をした。

 密かに陣を引き払い、先に到着しなければと南国街道を戻り始めたが、一刻ほど進んだところで持康率いる四千に奇襲された。たいまつの行列は武者ではなく民で、本物の別働隊は接近して待ち伏せていたのだ。夜だったこともあり混乱したところへ、常康の本隊が駆け付けてきた。前後から挟撃されて采振軍は壊滅し、氏鑑は討ち死にした。

 氏総は主力の敗北を聞いて慌てて本城へ戻ろうとしたが、その背後を蜂ヶ音軍が急襲し、氏総も討ち取られた。


「増富家は儀久(のりひさ)と手を結んでいたのです。野司(のづかさ)城は陥落し、槍峰国は全て制圧されました。現在残党狩りが行われていますが、さほどかからずに終わるでしょう」


 菊次郎が語ると、直冬が首を傾げた。


「持康軍はどこから現れたんですか。境を越えて入り込めば砦から見えるはずです。それに、槍峰国の民をどうやって動かしたんですか」

「それが定恭の策略だったんです。随分前から準備していたようですね」


 采振家の家臣に屈谷(かがみや)晴全(はるたけ)という武将がいた。五千貫で家老の一人だったが息子がおらず、十七歳の娘を家臣で遠縁の若者と結婚させてあとを継がせるつもりだった。

 ところが、領地が隣接する二万貫の家老六震(むぐら)深兵(ふかたか)が自分の息子著兵(あきたか)を婿に迎えろと強引に迫ってきた。蜂ヶ音儀久がやったように、のっとって併合するつもりなのだ。著兵(あきたか)は武芸の腕はまあまあだが酒と女にだらしない乱暴者だ。晴全(はるたけ)が困っていると、一人の商人が訪ねてきた。


「その問題、解決して差し上げましょう、お金は頂きませんが、成功したら一つだけお願いしたいことがございます」


 お願いの中身が気になったが、晴全(はるたけ)はやらせてみることにした。

 一ヶ月後、近くの宿場町に田植え踊りを見せる一団がやってきた。きらびやかな衣装でにぎやかな踊りを披露し、特に踊り子の美女ぶりが評判だった。

 その噂を聞き付けて、六震(むぐら)著兵(あきたか)も見に行った。踊り子を気に入って酒の席に呼ぶと向こうもまんざらでもないようで、散々飲んで騒いだ挙句、一緒に部屋に引き上げた。

 翌朝、家臣が著兵(あきたか)を起こしに行くと姿がない。外が騒がしいので出てみると、二階の屋根の上に全裸で縛られてぐったりしていた。しびれ薬を盛られて身ぐるみはがされたのだ。田植え踊りの一団は既に姿を消しており、六震(むぐら)家は大恥をかいた。

 晴全(はるたけ)は驚いたが、そんな評判の立った人物に当家を継がせられないと、婿の話を断った。

 数日後、あの商人が一人の男を連れてきた。その人物は渋搗(しぶつき)為続(ためつぐ)と名乗り、報酬として領内に武者を隠すこと、民にたいまつを持たせて行列を作らせることを依頼した。断ったら六震(むぐら)家に事情を伝えると言われて晴全(はるたけ)は腹をくくった。娘の(あおい)許婚(いいなずけ)の若者も賛成し、積極的に増富家に協力した。


「持康の軍勢は商人などに(ふん)して少しずつ屈谷(かがみや)領にやってきて隠れたようです」

「準備を整えてから砦を包囲して采振軍をおびき出したのですか。氏鑑は罠にはまってしまったのですね」


 直冬は感心している。


「師匠、氏鑑はどうすればよかったのですか。勝つ方法はあったのですか」


 菊次郎は講義のつもりで解説した。


「どうしようもなかったでしょうね。蜂ヶ音家討伐と国境の砦に兵を振り分けた時点で策にかかっています。その場合野司(のづかさ)城は手薄にせざるを得ず、落とされれば兵糧や軍資金を失い、家の維持が困難になります。結果、夜間に急いで引き返すという最悪の決断をしました。行軍に疲れた武者たちは昼に来た道を再び歩かされ、本城が危ういと知って戦意が低下し、たやすく崩壊しました。名将と呼ばれた氏鑑でさえ、その状況になれば判断を誤るのです」


 定恭は氏鑑の行動も武者たちの疲労や気持ちの揺れも全て見通していたのだろう。


「最善手は国境の砦を捨て、蜂ヶ音家討伐に向かわせた氏総も呼び戻して本城に兵力を集中し、決戦するか籠城して増富家の撤退を待つことです。ですが、狢宿国の戦が終わって僕たちが増富家の背後をつけるのはいつになるか分かりません。和議を結ぶにしても相当な譲歩が必要です。そもそも蜂ヶ音家が離反して四十八万貫となった時点で兵力は増富家の半分程度、勝ち目は薄かったでしょう」


「恐ろしい話ですね」


 直冬は身震いした。


「一つの封主家があっさりと滅びました。五十万貫を超える大封主家がですよ」

「戦狼の世の非情さを思い知らされますね」


 汗ばむほど暑いのに、菊次郎も寒気を感じた。桜舘家は三十三万貫にすぎない。


「砂鳥定恭の恐ろしさもだな」

「ちっ、昔のことを思い出しちまった」


 直春と忠賢も黙り込んだ時、田鶴が言った。


「でも、定恭って人はいいこともしたよね」


 直冬がびっくりした顔をした。


「いいことが何かありますか」

「采振家は気の毒だけど、屈谷家にはよかったんじゃない? 葵姫は許婚と結婚できたんだから」


 屈谷(かがみや)家は別働隊の道案内を務め、采振軍との合戦で果敢に働いた。六震(むぐら)親子は激怒して攻撃したが、増富軍の挟撃に武者たちが動揺して突き崩され、葵姫の許婚に討ち取られた。戦後、晴全(はるたけ)は隠居し、屈谷晴若(はるわか)と名乗った二十四歳の娘婿が当主となった。


「お前の発想は結局それかよ」


 忠賢が噴き出した。


「好き合ってた武将と姫君が結ばれてめでたしめでたし。さっきの芝居みたいじゃねえか」

「いいお話じゃない。ああいうのあたしは好き」


 思い出してうっとりしている田鶴に直冬は言葉を失い、直春は笑った。


「田鶴殿らしいな」


 忠賢は呆れ顔だった。


「夢はお嫁さんと温かい家庭だからな。純情だねえ」

「別にいいでしょ。何が夢でも」


 田鶴は頬を膨らませた。もう十六になったのに、まだ時々そういう子供っぽい表情を見せるのは変わらない。直冬のことは言えないなと菊次郎は思った。


「運命の出会いってあこがれるよね。一目で恋に落ちて結ばれるの」


 少女に横目で見られ、忠賢がにやけたので、菊次郎が表情に困っていると、意外なところから反応があった。


「そうですね。その気持ち、分かります」


 直冬がまじめな口調で少女に同意したのだ。ほのかに頬が赤い。


「身分が違っていても、どうしようもなく引かれてしまうんですよね」

「そうそう!」


 田鶴は勢い付いた。


「みんな、幸せな終わり方が好きなのよ。だから芝居もそうなんじゃない? 菊次郎さんもそう思うよね?」

「全ての幸福な話は婚儀で終わり、全ての悲しい話は葬儀で終わるという言葉がありますから、定番だと思いますよ」


 菊次郎が無難に一般論で返すと、忠賢は唇の(はし)を皮肉っぽく引き上げた。


「なら、人生は悲劇だな。死なないやつはいないからな」


 田鶴が不満そうに反論した。


「死んだら光園(こうえん)に昇って幸せに暮らすんだから悲劇じゃないでしょ」

「そんなの信じてるのか。人は死んだら終わりだぜ。生きてるうちにやりたいことはやっといた方がいいと思うぜ。なあ?」


 菊次郎は寂しい笑みを浮かべた。


「そういう生き方も分かりますけど、僕は光園が実在してほしいですね」


 直春が首を傾げた。


「それはどうしてだ」

「死んでいった人たちがそこで幸せに暮らしていると思うと少しだけほっとします。自分の悲しみや罪悪感を誤魔化したいだけかも知れませんが」


 故郷で亡くした親や兄妹(きょうだい)適雲斎(てきうんさい)を思い浮かべていた。田鶴も失った家族を思い出したのかうつむいて、肩の上の小猿を片手で撫でている。


「こいつは坊主を目指してたからな」


 忠賢は口にくわえた香りのよい草を上下に動かした。直冬は三人を見比べたが何も言わなかった。直春が腕組みをした。


「菊次郎君の気持ちは俺にも分かる。死んだ人がそれきり消えてしまうと思うと、刀を振るう手に迷いが生じる」


 そんなことはないと菊次郎は知っていた。直春は自分の目標に向かって迷わずまっすぐに進んでいく人なのだ。


「せめて生きている人たちがよりよい世の中を作っていくしかありません」


 直春は深く頷いた。


「そうだな。菊次郎君の言う通りだ。そのためにもこの戦には勝たねばならん。頼むぞ」


 直春は笑い、護衛の武者を連れて離れていった。このあと村長(むらおさ)と話し合いがあるのだ。直春の方から持ちかけたもので、武者たちと揉め事が起きていないか七日置きに情報を交換して解決を図っている。そういう姿勢は村人たちから好意的に受け止められ、今のところ大きな問題は発生していない。


「じゃあ、俺はあいつらのところに行くぜ」


 忠賢の言う「あいつら」とは騎馬武者たちのことだ。また訓練だろう。


「僕もそうします」


 直冬も参加するようだ。


「夕ご飯にはちゃんと戻ってきてね」


 忠賢は騎馬武者たちと同じ小屋で寝ていて、女郎屋でも時々一緒に遊んでいる。田鶴は直冬が悪い遊びを覚えないか心配らしい。


「お前はどうするんだ」


 菊次郎は東の方へ目を向けた。


「僕は見張り塔の様子を見に行きます。もうすぐ完成しますので」


 桜舘軍は村の出口の脇に五階建て分の高さの塔を作っていた。太い丸太の柱がむき出しで、長いはしごが一本付いているだけのものだ。村の周囲は森なので、宇野瀬軍の接近を早く発見するために菊次郎が建設を提案し、豊津から大工の棟梁を招いて設計してもらった。


「できあがる前に撤退することになるかと思いましたが間に合いましたね。細部のこしらえの指示を出さないといけません」

「あたしも行く」


 明日豊津に帰る予定なので、それまで少しでも長く一緒にいたいらしい。


「おうおう、けなげだねえ」


 忠賢はにやにやして、田鶴に背中をはたかれた。


「じゃ、またあとでな」


 忠賢に直冬がついていき、菊次郎は田鶴と五人の護衛を連れて葦狢街道を歩いていった。

 旅籠が途切れたところで田鶴が足を止めた。


「ねえ。これ素敵だね」


 木製のかんざしを売る露店だった。家臣たちが国元に残している妻や娘のためによく買っている。兵糧や手紙を運ぶ小荷駄隊に頼むのだ。


「一つ欲しいな。宴とかで正装する時、髪に飾りがあった方がいいし」


 田鶴は侍女になってから髪を伸ばし、首の辺りでくくっている。毎晩丁寧に櫛を入れているそうだ。菊次郎はしゃがんだ少女の(つや)やかな黒い髪をしげしげと眺めて言った。


「田鶴もそういうのに興味があるんだね。あっち方が好きなのかと思っていたよ」


 一つ手前では黄色く熟した梨を売っていた。十二、三歳くらいのぼろを着た男の子が物欲しそうに眺めている。

「そんなに食い意地張ってないよ! いいでしょ、別に!」


 期待する様子だった少女はむっとした顔をした。真白が驚いて主人を見上げている。


「菊次郎様、そういう言い方はいけません」


 利静がたしなめた。他の四人も笑みを浮かべている。


「そうだよ。女の子なんだから」

「買ってあげてはどうですか」


 則理と安民が言い、光風まで頷いている。


「これなんかいいと思います。って、菊次郎様が選ばないと意味がないですね」


 友茂が一本を手に取ろうとしてやめた。


「随分世話を焼かれてるね」


 田鶴が笑い、やや頬を染めて見上げてきた。


「分かった。一つ買ってあげるよ」


 菊次郎は降参して、十本ほどあるかんざしをじっくりと眺めた。


「あれもいいな。でも、これもなかなかだ。似合うのはどれだろう。宴ではどんな柄の着物だったっけ……?」


 迷っていると、田鶴が呆れた声で言った。


「あっちでもいいよ」


 一つ先の露店は短刀を三本並べていた。


「いや、こっちにするよ。よし、これに決めた」


 ようやく一本に手を伸ばした時、光風が叫んだ。


「危ない! 弓でねらわれている!」


 同時に、風を切る鋭い音がした。


「えっ?」


 顔を上げたところを思い切り突き飛ばされた。よろめいて地面に手をついた瞬間、今まで立っていた場所に一本の矢がずぶりと突き刺さった。

 田鶴が悲鳴を上げ、真白が慌てて主人の後ろに隠れた。


「伏せてください!」


 利静が緊迫した声で叫んで前に立ち、護衛たちが警戒する。


刺客(しかく)だ!」

「菊次郎様を守れ!」

「敵はどこだ!」


 と、また光風が硬質の声を上げた。


「もう一本来る!」


 さらに矢が音を立てて飛んできた。ねらいはやはり菊次郎だったが、安民が盾で防いだ。


「賊はあっちです!」

「村はずれの方か!」


 則理が駆け出した。安民も盾を友茂に預けてあとを追った。やや離れた木の後ろから農民風の男が飛び出し、走って森の方へ逃げていく。


「逃がすか!」

「曲者! 曲者だ!」


 二人は周囲の武者を呼び集めながら追っていった。


「大丈夫? 怪我はない?」


 田鶴は青い顔をしていた。菊次郎はぎこちなく微笑んだ。


「ないよ。心配いらない」

「おつかまりください」


 利静の差し出した手を握って起き上がりながら、菊次郎はほっとする一方で違和感を覚えていた。

 これは武虎の仕業に違いない。

 菊次郎には確信があった。敵の武将、それも軍師を暗殺するなど、正規の武家の発想ではない。蜂ヶ音儀久が家中で嫌われていたことからも明らかだ。

 となれば、おかしい。

 賊のねらいは菊次郎のようだった。だが、まわりには人が多い。護衛五人や田鶴、露店の(あるじ)に囲まれていた菊次郎に矢を命中させるのは、よほどの腕でも困難だ。突き飛ばされなくても先程の矢は当たらなかったかも知れない。


 このやり方は武虎らしくない。

 あの男なら確実に菊次郎を殺せる手を打つはずだ。遠くからねらってはずし、慌てて逃げ出すような間抜けは彼の配下にはいない。

 もし失敗したら以後は確実に警戒が強まる。もう機会はないかも知れないのに諦めるのが早すぎる。矢が当たらなくてもかまわなかったようにすら感じる。その上、木の陰から飛び出して走っていったので、大勢に見付かって追いかけられた。

 まるで追っ手を引き付けるみたいに。

 菊次郎は気が付いた。

 あれは陽動ではないか。目標を殺すには、接近して胸に刀をずぶりとやるのが確実だ。菊次郎は武芸ができないから、手練れの暗殺者にはたやすいはずだ。

 そう考えて、思い出した。

 隣の露店は確か……。

 そちらを振り向くと、短刀を売っていた男が立ち上がって手にした二本を抜いていた。


「おじさん、何してるの?」


 ぼろを着た男の子が驚いて問いかけた。男はそれを無視し、感情を消し去った顔つきで素早く近付いて一本をかまえ、菊次郎を刺そうとした。

 しまった! こっちが本当の刺客か!

 慌てて逃げようとしたが、足を滑らせて仰向けに転倒した。その上に男の手が落ちてきた。


「くっ!」


 顔をかばった手に血しぶきが飛んだ。目を開くと、胸の前に突き出された他人の手の甲に短刀が突き刺さっていた。


「利静さん!」

「こいつめ!」


 利静は苦痛をものともせず、短刀を握る賊の手首をつかもうとした。賊は短刀から手を離し、反対の手のもう一本を菊次郎の腹を目がけて突き出した。


「させない!」


 きん、と金属音がして、田鶴が短刀で受け止めた。腰にいつも差している愛刀を抜いたのだ。

 暗殺者は無言でさらに切りつけようとしたが、呆気に取られていた友茂が我に返り、盾を構えて割って入った。


「ちっ!」


 暗殺者は舌打ちすると、短刀を菊次郎に投げ付けた。


「こんなもの!」


 それを田鶴がはじき返す間に、賊は身をひるがえして走り出していた。


「逃がすか!」


 友茂は追いかけようとしたが、菊次郎は止めた。


「無理はしないで! 危険です!」


 その瞬間、矢が飛んできた。友茂は飛び下がって盾で防いだ。


「もう一人います!」

「どこだ!」


 光風は射返そうと矢をつがえて、さらに続いた数本を避けながら敵を探した。

 その間に賊は街道を()れて草地を走り、一息川に浮かんでいる小舟に乗り込んだ。矢を射た三人目が素早く船を出し、流れに乗ってすぐに見えなくなった。


「逃がしましたか!」


 友茂が悔しがった。


「菊次郎さん、大丈夫?」


 田鶴が心配そうに尋ねた。真白も主人の後ろからのぞき込んでいる。


「僕は無傷です。それより早く利静さんを!」


 菊次郎の足元には利静の手からあふれた血で池ができていた。短刀は手を貫き、手の平から先端が飛び出していた。


「利静殿!」


 友茂は盾を放り出し、帯に引っかけていた布をはずして差し出したが、刀を抜き取る勇気がなく、走って医者を呼びに行った。


「平気です。これくらいの傷」


 言いながら、利静は歯を食いしばって苦痛に耐えていた。

 事件を聞いて駆け付けてきた直春は、菊次郎に謝った。


「すまなかった。まさか君をねらってくるとは。俺の責任だ」


 直春は珍しく怒りを露わにしていた。忠賢も厳しい顔だった。


「お前が襲われたって聞いた時は肝が冷えたぜ。お殿様だけのせいじゃない。俺も油断してた」


 直冬は涙ぐんでいた。


「無事でほっとしました。僕ももっと気を付けなくてはいけませんでした」

「そうね。本当に危なかった。今でも震えが止まらないもの」


 田鶴は小猿を胸にぎゅっと抱いていた。

 菊次郎は唇をかみしめた。


「いいえ、僕が甘かったんです。敵には武虎がいます。警戒するべきでした。滞陣して二ヶ月、気がゆるんだ頃をねらったのでしょう。利静さんに重い怪我を負わせてしまいました。僕のせいです」


 護衛たちが勢いよく頭を下げた。


「責められるべきは俺たちです。本当に申し訳ありません」

「菊次郎様を危険にさらしてしまった。護衛失格だ」


 安民と則理が固い顔でもう数十回目の謝罪の言葉を言った。


「そばにいたのに、とっさに動けませんでした。僕がもっとしっかりしていれば」


 友茂は兄のように慕っている利静が負傷したことに衝撃を受けていた。


「俺も油断していた」


 光風も悄然(しょうぜん)としている。


「いや、よくぞ守ってくれた」


 直春は彼等をほめた。


「君たちの機敏な働きがなければ最悪の事態もあり得た。田鶴殿もとっさに見事な対応だった」

「そうだな。菊次郎を守ったのはお手柄だ」


 目をぬぐっている少女の頭を、忠賢がやさしくぽんぽんとたたいた。 


「特にこいつは身を張って守った。大したもんだぜ」


 利静は厚手の布の上に横たわっていた。菊次郎が自分の寝泊まりしている小屋に運ばせたのだ。


「国主様の前で申し訳ありません」


 利静は体を起こそうとしたが、直春は手で制した。


「無理をするな。動かない方がいい」


 直春は真摯(しんし)な口調で礼を述べた。


槙辺(まきべ)殿には心から感謝している。君は桜舘家を救ってくれたのだ」


 忠賢もまじめな顔で言った。


「その通りだな。本当に助かった。こいつが死んだら俺たちは負けちまうかも知れねえもんな」


 直冬は夏だというのに寒気を感じたらしかった。


「この戦だけではありません。菊次郎さんなしで、当家は今後どう戦っていくというんですか。想像するだけで僕は怖いです」


 田鶴は涙が止まらないようだ。


「桜舘家はあたしの家。なくしたくないし、誰にも死んでほしくない。妙姫様と雪姫様も悲しむと思う。もし菊次郎さんに何かあったら、あたしは……」


 言葉を途切れさせた少女に、直春も同感だという顔だった。


「今の直冬殿や田鶴殿の言葉は、当家の全武者の思いでもある。怪我を恐れずに守り抜いた君の献身には厚く報いるつもりだ」


 菊次郎も言った。


「僕からも特別に礼金を出します。利静さんは命の恩人です。治療費も心配しなくていいです。でも、その手はもう……」


 布をぐるぐる巻きにした利静の右手を見つめて菊次郎はうなだれた。医者の見立てでは人差し指と中指の(けん)が切れているそうだ。動くようになるかは分からない。動いたとしても握力は戻らないだろうと言われた。つまり、武家としてはもう働けない。


「賊のねらいは明らかに僕でした。矢は確実ではない、なぜ接近して斬り付けないのだろうと不思議に思いました。すぐに逃げていれば他の人を巻き込むことはありませんでした。ぼんやりしていたせいで……」


 利静はそんな主人をおだやかな声でなぐさめた。 


「お気になさらないでください。これが私の務めです。命が助かっただけもうけものでした。こうしてすぐに治療を受けられましたし」


 その言葉に頷くことはできなかった。菊次郎自身も左手の握力が弱く、陶器の茶碗すら持てない。そのつらさを利静にも味わわせることになるなんて、自分が許せなかった。

 直春は菊次郎を痛ましげに見つめ、利静に視線を戻した。


「君は勇者だ。勇者にはふさわしい褒美と待遇を与える。怪我が治るまでこの小屋を使うといい。武者を続けられなくなっても、他の働き口を世話しよう。君がしてくれたことに比べれば、そんなことでは到底足りないかも知れないが」

「お心遣いありがとうございます」


 利静は無理に頭を下げて苦しげな咳をした。


「私は菊次郎様をお救いできたことを誇りに思っております。国主様と共に天下を統一して平和な世を築こうとなさっているとうかがいました。その夢に心から賛同致します」


 利静は無事な左手で薬の飴の袋を握り締めた。


「私の祖父と父は戦で死にました。その知らせが届いた日のことはよく覚えています。祖母や母は戦があると毎日大神様に夫の無事を祈っていました。今、私にも妻と子がおります。二人が安心して眠れる世になってほしいのです」


 直春は深いまなざしになった。


「菊次郎君なしではかなわぬ夢だ。君は大切な友人を助けてくれた。いくら感謝してもし切れない。その恩に必ず報いよう」

「過分なお言葉です。真に感謝されるべきはあの子です」


 利静は部屋の隅で縮こまっている少年に声をかけた。


椋助(むくすけ)君。君が叫んで知らせてくれなかったら、賊の短刀を止められなかった。ありがとう」


 少年はよく分かっていない様子で激しく(かぶり)を振った。


「お腹を空かせていたようですから、何か食べさせてやってください」

「よかろう。着物も与えよう。大変なお手柄だからな」


 直春は約束した。


槙辺(まきべ)殿は欲しいものはないか。腹は減っていないか。遠慮なく言ってくれ」

「皆様にとてもよくしていただいています。妻からもらった薬入りの飴玉がありますので」


 風邪の薬と聞いているから傷には効かないが気持ちが落ち着くのだろう。


「早い回復を祈っている。ゆっくり休め」


 怪我人に負担をかけないように、菊次郎たちは看病を友茂と安民に任せて小屋を出た。


「一緒に来て。ご飯をあげるから」


 田鶴が少年にやさしく声をかけた。椋助(むくすけ)は真白に怯えつつもついていった。

 それを見送り、菊次郎たちは直春と直冬が使っている小屋へ向かった。一息村に着いてすぐに普請(ふしん)を行い、空堀と柵で囲まれた陣地の中に多数の小屋と長屋が作られている。

 畳のかわりに寝床にしているすのこに上がって腰を下ろすと、直春は口を開いた。


「気落ちしているところ悪いが、君の意見を聞きたいことがある」


 そう問われることを菊次郎は予想していた。


「武虎が僕を襲わせた理由ですね」


 忠賢が不愉快そうに言った。


「前から殺そうと思ってたからだけじゃないよな」

「僕もそう思います。確かに戦場では町やお城にいる時よりねらいやすいですが、他にも理由があるはずです。武虎や雇い主の願空にとって、僕が邪魔だったのです」


 直冬は驚いた顔をしたが、黙って耳を傾けていた。


「つまり、やつらは何かをたくらんでいる。この戦の結果を左右するようなことを」

「きっとろくでもないことだな。元尊は気付かないだろうが、大軍師様なら見破るかも知れねえって思ったんだろうな。ついでに俺たちの力を削ぐこともできるしな」


 直春と忠賢は同じ結論に達していたようだった。


「敵は僕たちを罠にはめようとしているのですね。どんなものですか」


 直冬が身を乗り出したが、菊次郎は首を振った。


「分かりません。事前にしかけておいて戦場で発動したり、元尊の行動を望ましい方向へ誘導したりするものでしょう。今暗殺を試みたのですから、これからしかけるつもりだと思います」


 直春が腕組みした。


「いずれにしても、成安軍は危うい状況に陥る可能性があるわけだ」

「そして、それを見破れるのはお前だけだ」


 忠賢は言ったが、菊次郎は否定した。


「いいえ、もう一人います。沖里殿は気付くかも知れません」

「問題は両方とも元尊に嫌われてるってことか」


 菊次郎は真顔で首肯(しゅこう)した。


「そこが敵の付け入る隙です。元尊が乗り気になり、僕たちの反対を押し切ってでも実行したくなることに違いありません」

「この戦、負けるかも知れないな」


 全員の心にあった思いを直春が口にした。


「その時の備えをしておくべきだろう」

「はい。損害をあまり出さずに逃げる方法を考えておきましょう」


 菊次郎は応じたが、付け加えることを忘れなかった。


「ですが、最善はこの戦が味方の勝利で終わることです。そのために成安軍を支援しましょう。気付いたことを知らせて助言もするべきです」

「そりゃあその方がいいに決まってるが」


 忠賢は皮肉っぽい笑みを浮かべた。


「断言するが、元尊は喜ばないぜ」


 直冬が悔しそうな顔をした。


「結局、連署の人柄が一番の不安要素なんですね」

「そういうこった」


 まだ十四歳の直冬にそんな指摘をされたと知ったら元尊はどう思うだろうか。眼鏡男のしかめっ面が想像されて、菊次郎は深い溜め息を吐いた。

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