(巻の四 知恵者と勇者) 第一章 菜摘原
『狼達の花宴』 巻の四 吼狼国図
『狼達の花宴』 巻の四 茅生国要図
「来た」
柏火光風がぼそっとつぶやいた。彼は弓の名手で目がよい。
「どこ?」
指さす方にじっと目を凝らし、楡本友茂が菊次郎を振り向いた。
「増富軍です!」
森のやぶの茂みに身を隠したまま、騎馬武者たちは一斉に西の方角を見た。
「かかったか。うまく誘い出せたな」
青峰忠賢がにやりとした。
「あいつらもなかなかやるじゃねえか。見事な慌てっぷりだったぜ」
先程目の前を急ぎ足で通過していった市射・錦木・泉代家の軍勢は、少し先で止まって迎撃態勢を作りつつある。逃げようとしたが追い付かれそうなのでやむなく戦うことにしたと敵には見えるだろう。
「三家は同盟を組んで長いですし、当主たちは戦の経験が豊富です。驚くことではありません」
言いながら、菊次郎は不安に襲われていた。
「少しうまく行きすぎですが」
盾を握りしめてほっとしていた蕨里安民が怪訝な顔をした。
「そうですか? 敵が策にかかってくれて、これで勝てるのではないですか」
笹町則理も何が問題か分からない様子だ。
「敵は西、三家は東。両軍が戦い始めたら、南と北の伏兵が側面を襲い、三方から挟み撃ち。それで勝ちだよね。完璧な作戦だと思うけど」
菊次郎たちは南側の森にいる。忠賢隊の残り半分は北側の森だ。光風は黙って西を眺め、友茂は指を折りながら、ここまでの敵の動きを順に確認した。
「増富軍が当家の城を包囲していたら三家が救援に現れました。迎撃しようとしたら逃げていきました。少数だったので追いかけてたたこうとしました。とても自然な流れに思えます。どこかおかしいですか」
視線を向けられて、槙辺利静が口を開いた。
「私にもどこがひっかかるのか分かりませんが、菊次郎様のお気持ちは少し理解できます」
利静は眉を寄せて慎重に考えを述べた。
「敵はあの砂鳥定恭です。安心はできません。何か裏があるかも知れません」
口ではそう言ったが声は落ち着いていた。菊次郎を信頼しているのだ。
「考えすぎだろ。この状況でどうやってこっちに勝つってんだ。もちろん油断はしないけどな」
忠賢は笑って立ち上がった。
「俺は仲間のところへ戻る。攻撃の合図は頼んだぜ」
腰をかがめて騎馬隊の将は去っていった。
「考えすぎだといいのですが」
菊次郎は護衛の五人に首を振った。指示があればすぐに走っていきますという顔だった彼等は肩の力を抜いた。
「とにかく予定通りに進めてみましょう。敵の出方を見ます」
四千の敵はもう近くまで来ていた。素早く攻撃用の隊列を組んでいる。三家の合計二千一百も準備が整ったようだ。すぐに戦いが始まるだろう。
「菊次郎様が不安に思う理由は何ですか」
友茂が近付いてきて小声で尋ねた。護衛の仲間五人以外には聞こえないようにしたのだ。
「今回の敵のねらいが分からないのです」
菊次郎は答えた。
「敵は何のために川を越えてこの土地に攻めてきたのでしょうか」
五人の護衛は呆気にとられた顔をした。
「撫菜城を落とすため、ですよね?」
蕨里安民が言い、笹町則理も首を傾げた。
「他に何があるのかな」
「それは分かりませんが、本気で城を取りにきたのではないことは確かです」
菊次郎は断言し、敵軍ののぼり旗を眺めた。
旗印は総大将のものではない。恐らくあの軍師も城の包囲陣に残り、ここへは来ていないだろう。そのことにほっとしつつも、同時にいぶかしくも思ったのだった。
降臨暦三八一七年藤月十六日、豊津城に急報が届いた。旧熊胆領の開飯城から増富軍が出陣し、境の白鷺川を越えて桜舘領へ侵攻したのだ。ねらいは撫菜城を落として旧猪焼領四万貫を奪うことだと思われた。
これは予期されたことで、桜舘家には備えがあった。同盟する三家の城と撫菜城と境の山の上にのろしの設備を設け、素早く豊津城に連絡できるようにしていた。葦の江のほとりに新しく牧場を作って騎馬隊の本拠とし、いつでも出撃できる体制を整え、厳しい訓練を行った。各城を結ぶ主要な街道を整備し、人も馬も荷車も通りやすいようにした。
この資金にはこれまでの戦いで得た捕虜の身代金を当てた。増富家から受け取った金は半分を一緒に戦った茅生国の三家と分け合い、残りを国境の橋の砦や街道の整備に使ったのだ。
こうした用意が役に立ち、増富軍の侵攻から半日もたたないうちに豊津城から援軍が出発した。道中の武者と馬の食料は三家が用意することになっていて荷物が少なかったため、忠賢と菊次郎が率いる騎馬隊は驚異的な速さで裾深街道を駆け抜け、わずか三日で撫菜城の近くまで到達した。直春と直冬の本隊もあとからやってくるが、徒武者が主体なので到着は少し遅れるだろう。
撫菜領内には既に三家の援軍が来ていた。彼等は騎馬隊ではないが、やはりのろしを見てすぐに出陣したので先に着いたのだ。
菊次郎と忠賢は騎馬武者を森の中に隠して休憩を取らせ、商人のふりをして三家の陣を訪れて、夕食をとりながら作戦を協議した。そこには増富領との境の橋を守っていた武将二人もいて、砦が落ちたことをわびた。
「多数の敵が背後から襲ってきて不意をつかれました。たちまち門を破られて中へ入り込まれてしまい、砦を放棄して逃げざるを得ませんでした。申し訳ございません」
西側の境、白鷺川にかかる綿香橋の守備隊の将は涙を流して悔しがった。
「橋を渡る者は武者たちが厳しく見張り、荷車は積荷をあらためています。夜は踏板をはずして渡れなくしております。敵はどうやって領内に入り込んだのでしょうか」
彼がこぶしを地面に打ち付けて歯ぎしりすると、北側の境、支流の火吸川にかかる鵜食橋の守将も悄然として謝罪した。
「綿香橋を占拠すると、渡った敵の一部がこちらへ向かってきました。五倍の兵力差で勝ち目は薄いと判断し、戦わずに撤退しました」
「それでよかったのです。判断が早かったので大勢が逃げられました。謝ることはありません」
菊次郎は二人をほめた。砦を守り切れない場合は城とは違う方向へ逃げるように指示していたので追撃されず、三百ずついた武者のうち五百が無傷だ。合戦で貴重な戦力となるだろう。
「撫菜城はまだ落ちていないのですね」
「はい。敵は包囲しただけで攻めてはいません」
城を預かる秋芝景堅は、砦から危機を知らせる使者が来ると援軍を送ろうとしたが、途中で間に合わないと知って呼び戻し、城に籠もった。撫菜城は小ぶりだが菊次郎が堀に水を引かせ城壁を高くする工事を行わせたので攻めにくくなっている。簡単には落ちないはずだ。
「敵の兵力は」
「約八千です。他に、奪った橋を二千ずつが守っています」
味方の兵力は、三家の軍勢二千一百、砦の守備隊五百、忠賢の騎馬隊一千二百だ。霧前原の合戦のあと、忠賢に加増はなかったが、配下の騎馬武者の数が増えたのだ。緊急時に駆け付けたり、合戦で突撃したりする場合、もっと数がいた方がよいだろうと菊次郎が進言したためだ。撫菜城内には一千六百が籠もっている。
「なるほど。状況は分かりました」
菊次郎が腕組みすると、忠賢が杯の酒を飲み干して顔を向けた。
「で、どうするんだ?」
「軍師殿の考えを聞きたい」
泉代成明も箸を置いて菊次郎を見つめた。市射孝貫と錦木仲宣も指示に従うと言った。
「一当てしてみましょう」
考えた末、菊次郎は言った。
「敵の反応を見ます」
「本隊を待つんじゃないのか。お前らしくないな」
忠賢は意外そうだったが喜んだ。
「合戦なら任せとけ。蹴散らしてやるぜ」
「本格的な合戦ではありません。軽くつついてみるだけです」
菊次郎は「軽く」を強調した。
「敵はこちらより多いです。まともにぶつかるのは不利です。直春さんたちが来てからの方がよいでしょう。しかし、このまま待つのもよくありません。敵は砦を落として橋を確保し、城を圧倒的な兵力で包囲したのに、攻めようとせず、三日も何もしませんでした。今回の出陣は城を落とすためではないのかも知れません。他にねらいがあるように思われるのです」
「他にって、何が目的なんだ」
「分かりません。それを確かめるために近付いて挑発してみます。敵が追いかけてくれば罠にかけて打撃を与えます。乗ってこなければ、距離を置いて牽制しつつ様子を探ります」
基本方針は二つ。本隊の到着まで負けず、城も落とされないこと。敵のねらいを探って妨害し、味方に有利な状況を作っておくこと。
「直春さんたちが来たら圧迫して敵に撤退を促し、逃げない時は最終手段として決戦し、打ち破ります。これはできれば避けたいですが」
「追撃して開飯城へ侵攻しないのか」
「可能なら検討しますが、無理はしません」
「やっぱりお前は慎重だな」
忠賢は不満そうだったが、菊次郎に譲る気はなかった。
「増富家は八十五万貫の大国です。多少武者を失っても崩れません。逆に僕たちが大きな損害を受ければ、好機と見て全面的な攻勢に出てくるでしょう。その場合、成安家に援軍を要請しても葦江国の防衛がやっとで、こちらの三家は守り切れないかも知れません。そんな危険は冒せません」
三家は桜舘家にとって頼みにできる同盟相手だし、葦江国の北の守りでもある。決して失ってはいけないのだ。
「増富家に戦を挑む時は、十分な準備をし、必勝の覚悟で臨むべきです。安易に始めると大やけどをします。慎重すぎるくらいで丁度よいのです」
「その方が我々もありがたい」
泉代成明が言い、三家の当主は少し安心した顔になった。桜舘家と同盟したのは自家を守るためだ。領地の拡大よりも負けないことを重視するのは当然だった。
「はいはい、分かったよ。まあ、確かに攻め込むには準備が足りねえかもな。俺も負け戦は嫌いだしな」
忠賢は過去に主家を三つも失っている。それを思い出したのだろう。
「敵はまだ僕たちの到着に気が付いていないはずです。伏兵して誘い込み、挟撃しましょう。三家の方々にはおとりをお願いします。決行は明朝です」
菊次郎の作戦は了承された。そうして、今日藤月十九日の朝、菜摘原の合戦が始まろうとしていた。
「敵は追ってきましたね」
楡本友茂が言った。柏火光風が無言で頷いた。笹町則理はやぶに身を隠しながら増富軍を観察している。
「敵は戦うつもりのようだね」
「当家の援軍が来る前に三家をたたこうというのでしょうか」
蕨里安民が推測を述べた。
「それは分かりません。ですが、勝てるならよいことです。そうですね、菊次郎様」
「もちろんです」
槙辺利静に頷きながら、菊次郎は違和感を覚えていた。攻め込んできた敵の総大将は増富持康だ。つまり、砂鳥定恭が補佐している。あの軍師がこんなに簡単に誘い出されるだろうか。不安が膨らむが、その間に戦は始まっていた。
「増富軍が前進を始めました! 槍と円い木の盾を手に前進していきます!」
友茂が報告した。
「三家の軍勢も向かっていきます。今、激突します!」
抑えた声が興奮している。菊次郎は息をのんで戦闘の様子を見つめていた。
「互角ですね」
利静がささやいた。両軍は激しく槍を突き合い、たたき合っている。増富軍は四千。城の包囲に半数の四千を残してきたのだ。三家の方は二千一百。陣形の厚みは増富軍が倍だが、槍が短めで、暑いからか鎧の一部をはずしている者が多いため、三家を圧倒できない。どちらも一歩も引かず、必死で相手を押し下げようとしていた。
「そろそろ行きましょうか」
菊次郎は言った。ここ菜摘原は撫菜城の東側で、裾深街道が通る開けた草地だ。北と南に森があり、忠賢の騎馬隊と砦の守備兵五百が隠れている。
菊次郎は周囲の武者たちを見回して立ち上がった。安民が大きく横笛を鳴らした。
「野郎ども、攻撃開始だ!」
忠賢の大声が聞こえて、六百の騎馬武者が馬を引いて一斉に森を飛び出した。素早く騎乗して少数の隊ごとにまとまり、敵の右側面へ向かって駆けていく。砦守備隊の徒武者もやや遅れてついていった。北側の森からは残り六百の騎馬武者が忠賢の副将の榊橋文尚を先頭に敵の左側面へ突進していた。
「勝った」
光風がつぶやいた。友茂・安民は声が上ずっている。
「敵は慌てています!」
「逃げ出し始めていますね。次々に円い盾を投げ捨てて、背を向けて走っていきます!」
則理・利静も森の中で立ち上がってこぶしを握って見入っていた。
「陣形は完全に崩壊したな」
「見事に不意をつきましたね。作戦は大成功です」
四千の増富軍は哀れなほど混乱し、武者頭たちは逃げろ逃げろと叫んでいる。
「やはりおかしいですね」
五人の護衛が喜ぶ中、菊次郎は一層不安を大きくしていた。
「どうしてですか」
友茂が不思議そうに尋ねた。
「簡単に崩れすぎです。おかげで包囲する前に逃げられてしまいました」
「本当に潰走しているように見えますけど」
「全員同じ方向を目指しています。森へ逃げ込む人がいません」
安民が自信なげに口を挟んだ。
「城のそばに味方がいるのですから、当たり前ではないですか」
「助かりたいなら敵が来ない方へ逃げるはずです。騎馬隊が追いかけやすい街道の上を走る必要はありません」
「さっき進んできた道を戻っているだけだと思いますが」
安民は仲間に同意を求める視線を向けた。
「俺もそっちへ逃げると思うな。みんなそうしているんだし」
則理と光風も首を傾げている。
「敵は槍が短く、多くが鎧の一部をはずしていました。走りやすくするためではないでしょうか。逃げる時、一斉に円い大きな盾を地面に投げ出しました。それが障害物になって騎馬隊の足が鈍り、やや距離を取られました。おかげで、攻撃された敵武者がほとんどいません。そろって同じ行動を取るなんておかしいです」
「走るのに邪魔だから捨てたんじゃないかな。城を包囲していたから、矢を防ぐ盾をそのまま持ってきただけだと思うよ」
則理の言葉に護衛たちは賛成のようだったが、利静は菊次郎に問いかけた。
「何がご指示を出されますか」
菊次郎はあごに手を当て、すぐに言った。
「引き返させましょう」
振り向いて、伝令用に残っていた騎馬武者三人に命じた。
「追撃を中止して戻ってくるように、全軍に伝えてください」
「はっ!」
三人は馬に飛び乗り、駆けていった。
「間に合うといいのですが」
菊次郎は言って、森を出た。
「追いかけましょう。心配です」
なぜ攻撃をやめるのだろうと疑問を顔中に浮かべていた五人の護衛は、慌てて菊次郎のまわりを囲み、槍や盾を構えて警戒しながら一緒に歩いていった。
「総大将様、味方が戻ってきます」
物見に出していた武者が走ってきて報告した。
「本当に伏兵がいたのか」
増富持康は驚き、気味悪げに自分の右軍師を見やった。砂鳥定恭は若君の表情に気付かないふりをして、淡々と進言した。
「全て予想通りです。三家を追いかけた部隊を指揮するのは面高求紀殿。混乱しているように見えてもすぐに立て直すでしょう。ついてきた敵の側面を我々が攻撃すれば、三方から挟み撃ちにできます」
「そうなれば大勝利か。それはよいが……」
持康の口調には喜びより悔しさがにじんでいた。小柄で猫背の家老の犬冷扶応が先を察して甲高い声で代弁した。
「我が軍をおびき出そうとした敵は、逆にこちらの罠にかかりましたな。伏兵がいなければそのまま攻撃を続けて打ち破ることになっておりましたが、挟撃の方が確実に勝てましょうな。だが、なぜ敵に伏兵がいると分かったですかな。物見から桜舘軍到着の知らせは届いていないのですぞ!」
言い方がついきつくなった扶応に対し、もう一人の副将の蛍居汎満は商人のような恰幅のよい体をゆらして、低く太い声で感心した。
「砂鳥殿は始めから言っていたではありませぬか。三家だけでしかけてくるなら罠ですぞと」
同じ旧家なので定恭をひいきしているのだ。
「さすがは大殿がじきじきに任じられた右軍師殿ですな。砂鳥殿を推挙したのは我等ですぞ。そなたら新家と違って人材が豊富ですからな」
「何ですと! 我等の仲間にもすぐれた人物はたくさんおりますぞ!」
犬冷扶応は言い返した。
「確かに砂鳥殿の読みが当たりましたが、お主がいばることではありますまい!」
「まあまあ、お二人とも落ち着いてください。作戦が順調なのはよいことではありませんか」
左軍師の箱部守篤が割って入り、にこやかな笑みを両家老に向けた。
「どうやら我が軍は勝てそうです。これで城も落ちるでしょう。喜ばしいことですな」
そううまくは行かないだろうと定恭は思ったが、口には出さなかった。箱部守篤は三十六歳、人格者と評判の男だ。対立しがちな新旧両家の武将たちをなだめるのと持康の機嫌を取るのはうまいが、軍略の才はとぼしい。守篤がすぐれているのは、それを自覚していることだった。
「三家の軍勢は二千程度、我々を攻撃しても勝ち目は薄い。しかけてくるとしたら、桜舘軍が来て武者が増えたからだろうということでしたな、砂鳥殿」
「箱部殿のおっしゃる通りです。わざと挑発に乗ってみせたことで、敵騎馬隊の到着を確認でき、戦の主導権を奪うことに成功しました」
守篤は軍勢の指揮では役に立たないが、作戦は定恭に任せてその提案を支持してくれる。だから、定恭も彼に恥をかかせないように心がけていた。
「城を落とせるかどうかは、敵にどれほどの損害を与えられるかによります。まずはこの機をのがさず、息を合わせて敵を包囲しましょう。数では確実にこちらが上回っています。殲滅はできずとも、大打撃を与えることは可能です」
今城を包囲しているのは二千だ。残り二千が南北の森の中をこっそり進んできた。敵が追撃してきたらその両側面を襲い、逃げていた四千も反転して攻撃する。菊次郎の計画とそっくりのことを定恭もしようとしていたのだ。
「だからこそ、銀沢信家はこちらの目論見に気付くはずだ。だが、他の武将たちはどうかな」
つぶやくと、聞こえたらしく、同い年の渋搗為続が近付いてきた。
「俺なら引っかかるよ」
笑って、ささやいた。
「城はやはり落とせないのか」
「ああ。敵を痛撃したら引こう。信家は混乱した味方に指示を出して体勢を立て直そうとするだろうが、すぐには難しい。かなりの損害を与えられるはずだ。敵が反撃に出る前に戦場を離脱し、素早く撤退する。敵は追ってこられないだろう」
「残念だ。苦労して橋を押さえ、川を越えたのにな。策を立てたお前は納得しているみたいだが」
定恭は鎧や武器を入れた俵を米俵の下に隠し、数日に分けて鵜食橋を越えさせた。夜、泳ぎのうまい武者が白鷺川を渡り、武装して砦を背後から襲ったのだ。砦が落ちると橋に放たれた火を消し、用意していた踏板をはめて軍勢を渡らせた。
商人に化けるのに必要な着物や俵や偽の身分札などの用意を、定恭は為続に頼んだ。守篤も手伝うと言ってくれたが、家で商売をしている旧家の方がこういうのは得意なのだ。
「もうあの手は使えないぞ。次はどうやって橋を確保するんだ」
未練そうな為続に定恭はきっぱりと言った。
「今回の出撃は撫菜城を落とすことが目的ではない。若殿も了承されたことだ」
「分かってはいるが」
この機をのがすのはもったいないと思っているのは為続だけではないので、定恭はやや声を大きくして説明した。
「ここにいるのは敵の半数程度にすぎないんだ。伏兵していたのは桜舘家の騎馬隊だ。知らせを受けて駆け付けてきたのだろうが、数はさほど多くない。霧前原より増えていたとしても一千程度だろう。桜舘家の貫高からすると、五千は送ってこられるはずだから、あれをたたいてもまだ四千があとからやってくる。この戦の生き残りが合流するともっと増える。勝てないとは言わないが、損害が多くなりすぎる」
「より大きな目的のためか」
「そうだ。兵力は温存したい。敵にある程度の打撃を与えられれば十分だ」
為続や諸将が渋々頷いた時、武者の一人が緊張した声で告げた。
「敵が来ました!」
面高求紀隊四千が必死の形相で逃げてきた。そのすぐ後ろを敵の騎馬隊が追ってくる。先頭は全身青い鎧の武将だった。
「蹴散らせ! なぎ倒せ!」
槍を掲げて叫んでいる。
「大将はどこだ! かかってこい!」
と、敵の後方から激しい笛の音が聞こえ出した。引き返せと指示しているようだ。
「やはり気付いたか。だが、もう遅い」
定恭は持康に言上した。
「ご命令をお願い致します」
総大将は不愉快そうな顔をしたが、頷いて森の中で立ち上がり、大声で叫んだ。
「作戦は成功した。頓馬な敵をぶち殺すぞ! 俺に続け!」
言うなり、森の外へ走り出た。一千の武者が鬨の声を上げて敵騎馬隊の側面に向かう。定恭や為続、家老たちも守られながらついていく。向かい側の森からは、新家の家老矢之根壮克に率いられた一千が飛び出してきた。
「ちっ、敵も同じ作戦かよ! 畜生、罠だ! 引け、引け!」
青い鎧の武将が慌てて叫んでいるが、勢いに乗っていた騎馬隊は急には止まれなかった。逃げるのをやめて引き返した四千と戦い始め、そこへ新手が左右から殺到した。
敵の騎馬隊は包囲されながら、すぐに円陣を組んで守りを固めた。青い鎧の武将は武者を励ましながら後方へ回られるのを阻止しようとしている。敵の徒武者はやや遅れていたが、騎馬武者の苦境を見て救出に向かってきた。市射・錦木勢が左翼、泉代勢と砦の守備隊が右翼に展開し、騎馬武者の両側面を守ってなんとか体勢を立て直そうとする。
増富軍六千、桜舘家とその同盟軍三千八百は激闘を繰り広げた。だが、数で劣り挟撃された桜舘軍は始めから守勢に立たされ、増富軍の優勢ははっきりしていた。
「これは勝ったか」
定恭すらそう思った。砂鳥家の武者たちも半数が当主と総大将の護衛を離れて戦いに参加している。
「よし、一気に押しつぶせ! これまでの恨みを晴らすのだ!」
持康が叫びながら戦いの中へ飛び込んでいこうとするのを二人の家老が必死で止めている。
「銀沢信家といえど、この状況はどうしようもないだろう。もしかすると本当に城を落とせるかも知れないな」
それは目的ではないと思いつつ、つい声に出してしまった時、騎馬武者が一人、城の方から走ってきた。
「総大将様はどこでございますか!」
定恭が手を大きく振って呼び寄せると、伝令は馬から飛び降りて報告した。
「西方から桜舘軍の新手、約三千が接近してきます。半刻ほどでこのあたりまで到達します」
両家老は驚愕して振り向き、叱り付けるように尋ねた。
「桜舘勢だと? しかも西から? まことだろうな!」
「旗印は確認したのか!」
伝令武者は激しく頷いた。
「確認したそうです。先頭に当主直春の姿があったとのことです」
「敵の本隊か」
持康は愕然としてつぶやいた。
「どうやって石叩川を渡ったのだ」
撫菜領四万貫の南西は泉代領と川で別れている。それを渡れば撫菜城の西に出られるが、現実には難しい。この川は深くて幅が広く、流れが急だ。渡れる浅瀬も存在しない。渡し船すらなく、地元の漁民が使う小舟を頼むしかない。その上、初夏のこの時期は大長峰山脈の雪解け水でいっそう水量が増えている。だから、忠賢の騎馬隊は遠回りな裾深街道を走って、東側から撫菜領に入ったのだ。しかし、直春たちはその川を何らかの方法で越えてきたらしい。
「少数ならともかく、三千もの軍勢を、しかも短時間でどうやって渡したのか」
定恭も信じがたかったが、その思いを振り払って進言した。
「引き鐘を打たせましょう。新手が到着する前に戦闘を終わらせて橋へ向かうべきです」
「勝っているのだぞ! この状況で諦めて逃げろと言うのか!」
持康は怒鳴ったが、定恭は沈痛な表情で頷いた。
「敵は西からやってきます。急がないと背後に回られて退路を断たれます」
「このままこの敵を倒し、それから迎え撃つことはできないのですか」
守篤が尋ねたが、定恭は首を振った。
「無理です。敵は援軍の到着を知って奮い立ち、必死に防戦するでしょう。恐らくこの敵が崩壊する前に新手が到着します。元気な敵主力と連戦することになれば苦戦は必至です。優勢な今なら混乱せずに下がることができ、敵も追撃はできないでしょう。諦めるしかありません」
定恭も悔しかった。あの軍師に勝ったと思ったのに、敵には奥の手があったのだ。四千足らずで戦を挑んできたのは、負けそうになっても援軍が来ると分かっていたからに違いない。定恭と菊次郎は互いに相手のもう一手を読み損ねたのだ。
「西に下がるのは危険です。開飯城に戻らず北へ向かいましょう」
「分かりました。総大将様、ご決断を」
守篤が言上した。持康は歯をむき出しにしてぎりぎりと噛みしめたが、吐き出すように命じた。
「全軍撤退せよ。鳥追城へ向かう」
「はっ!」
すぐに鐘が鳴らされ、武者たちは戦いをやめて大将のそばへ集まり始めた。それを見て、桜舘軍も笛で戦闘中止を命じ、武者たちを下がらせた。追撃する元気はないようだった。
「もう少し時間があれば打ち破れたものを!」
持康は馬上で何度も敵を振り返って、呪いの言葉を叫んでいた。
「悔しいか」
為続が馬を隣に並べて尋ねてきた。
「ああ。だが、ほっとしたのが半分だ」
それが定恭の本心だった。
「銀沢信家があれほど簡単に策にはまるわけはないと思っていた。何かあるのではないかと疑っていた。やはりそうだったと知って、おかしなことだが安心した」
「しかし、恐ろしい相手だな」
霧前原以来、五形の町では、桜舘直春と銀沢信家の名は畏怖を持って語られている。現世の悪鬼だという噂さえ流れ、泣く子を黙らせるのに使われているという。
「確かに恐ろしい敵だ。だが、だからこそ信頼もできる」
「信頼とはどういうことだ」
為続は驚いた。
「すぐれた軍師は目的をはっきりさせてそのために策を立てる。特に信家は無駄な損害を嫌い、余計な戦は避けようとする。今回、桜舘家のねらいは撫菜城を救援することだろう。こちらが速やかに撤退すれば、恐らく追ってこない」
「俺なら追撃の好機と思うだろうな。お前なら追わないのか」
「ああ」
定恭が頷くと、為続は一応は信じたらしい。
「なら、そうなんだろうな。だが、何で追ってこないんだ」
定恭は照れた顔になった。
「自分で言うのもなんだが、俺がいるからだ。俺があの軍師を恐れるように、向こうも俺を警戒しているはずだ。俺たちに備えがあることもお見通しだろう」
「なるほど。納得した」
為続は破顔した。
「天才は天才を知るってことだな」
「去年互いに苦戦したからだよ」
定恭は苦笑いした。
「それに、大変なのはこれからだぞ。お前の力も借りることになる」
「そうだったな」
為続が表情を引き締めたのを見て、定恭も戦の余韻と信家への感傷のような共感を心から追い出した。
「今回与えた打撃は大したことがないが、桜舘家は当分動けないはずだ。その間に真の目的を達成する」
「いよいよか。本当にうまく行くのか」
「既に本国では準備が進んでいる。いまさらあとには引けないさ」
当主常康や二人の執政に詳細な計画を説明して許可を得ていた。
「ここをのがすと、これほどの好機はしばらく来ないからな」
「そうだな。増富家は名軍師砂鳥定恭の力でいよいよ雄飛することになる。若殿もお喜びになるだろう。これが成功すれば、お前の名は天下に轟くな」
「そんなことに興味はないが、軍学好きとしては血が騒ぐよ。全ては箱部殿のおかげだ。若殿の扱いがうまいからやりやすくなった」
まだ腹を立てている総大将とそれをなだめる左軍師を定恭はちらりと見やった。
「渋搗家の情報網を使って、あの男と例の家に連絡を取ってもらいたい。決行の日は近い」
「任せてくれ。それも無事に国へ帰れたらだが」
「大丈夫さ。敵軍師を信じよう」
定恭は笑って請け合った。
「何で追撃しないんだよ!」
忠賢は菊次郎に食ってかかった。
「敵は背を向けてるんだ。好機だろうが。部下たちもさっきの戦いの恨みを晴らすって息巻いてる。ここでたたいておけばあとが楽だぜ」
「駄目です。追撃は許可できません」
「菊次郎、お前は本当に慎重すぎるぞ! ここは行くところだろうが!」
「絶対に駄目です」
言い合いをしていると直春が馬でやってきた。つい先程三千の主力が菊次郎たちの軍勢に合流したのだ。
「さすがだな。倍以上の敵を撤退に追い込んだか。菊次郎君の知恵と忠賢殿の武勇が合わさってこそだろう」
「お早いお着きだな。初夏の川遊びはどうだった、お殿様?」
今回の出陣では、桜舘軍は三つに分かれて進軍した。一つは忠賢の騎馬隊一千二百で、速さを重視して街道をつっ走った。次が直春たちの主力部隊だ。これは徒武者が中心で、騎馬武者にはついていけない。しかし、忠賢隊と三家の援軍だけでは数が足りず、増富家の大軍と戦うのは苦しい。
そこで菊次郎は石叩川に渡河できる場所を作らせた。川底に石を積んで浅くし、渡りやすくしたのだ。さらに、朝霧渓谷から渡河地点まで、三つの堰を川の中に作らせた。
のろしが上がると、泉代家や市射家はすぐに堰の水門を閉めた。流れをさえぎられた水は丁度代かきの時期だった田んぼや周辺の遊水地に誘導され、川の水位は大幅に下がった。三千の武者は裸になって武器や荷物を頭に乗せ、一気に川を渡ったのだ。
実に大がかりなしかけだが、それがよいのですと菊次郎は言った。こそこそせず、大きなものを堂々と造った方が何かあるなと思われない。田んぼに水を引くための堰だと宣伝し、そのためにも使えるように設計した。
今年中にきちんとした渡し場を整備し、いずれは橋を架ける計画だ。そのための堰でもある。石叩川の渡河は困難と敵が思っているからこそ意表をつき、奇襲になったのだ。渡れると分かった以上、渡河中をねらわれぬように、今後は砦を作って武者を置き、管理する必要がある。
「菊次郎君の準備のおかげで渡河はすぐに終わった。初夏で行軍は暑かったからな。武者たちはむしろ喜んでいたよ」
直春は軍師をほめ、二人を見比べた。
「それで、何をもめている」
「忠賢さんが増富軍を追撃したいと言うんです」
「こいつが頷かねえんだよ」
直春は二人を見比べて尋ねた。
「菊次郎君が許可しない理由は何だ。確かに好機だと思うぞ」
増富軍は固まって警戒しつつ、北へ移動していく。逃げる敵の背後を襲って損害を与えるのは戦の常道だ。武者にとっても追撃の時が一番手柄を立てやすいと言われるし、戦果を拡大する意味でも積極的に行われる。
「本隊も来て、こっちは六千以上だ。追撃に充分な数がいる。どうせ敵は橋の前で渡る順番を待つために止まるんだ。うまくすりゃ包囲殲滅できるぜ」
忠賢の主張はもっともだが、菊次郎は首を振った。
「敵は備えていると思うんです。嫌な予感がします」
「予感だと?」
忠賢は声を荒らげた。
「そんなもんでこの好機をみすみすのがすってのか。お前はそんな腰抜けだったのか!」
少々口汚いが怒っているわけではない。それは分かっているので、菊次郎は落ち着いて理由を説明した。
「具体的な証拠があるわけではありません。物見が何か見付けたという報告も受けていません。ですが、敵は城を落とす気がなかったようですので、僕たちに背を向けて撤退するのを想定していたはずです。その場合、僕なら追撃を振り切ったり、追ってきた敵を逆襲してたたいたりする策を事前に用意しておきます」
「追撃すれば痛い目にあうというのだな」
「はい。敵軍師砂鳥定恭の恐ろしさは今回の戦いでも証明されました。忠賢さんの騎馬隊が包囲されて危うく全滅させられるところでした。あれはこちらの作戦を読み切った上で張られた罠です。泥鰌縄手の時も、霧前原の時も、こちらのねらいを読んで対抗する手を打ってきました。そんな人物が、無防備に背中をさらして逃げていくなんておかしいです。むしろ追撃を誘っているのかも知れません」
「どういう策なんだ。それが分かってれば追いかけても安全だろ」
忠賢は諦めなかった。
「菊次郎、お前ならどうする」
「そうですね。僕なら……」
考えを話すと、直春はなるほどという顔になった。
「あり得る話だな」
「なら、気を付ければいいじゃねえか」
忠賢はやられっぱなしで終わるのが癪らしい。
「もう一暴れしたいんだよ。いいだろ、お殿様」
「先程の戦いで多くの武者が傷付きました。敵を追い返すという目的は達したのです。もう充分でしょう。ここは引くべきです」
菊次郎と忠賢を見比べて、直春は決断した。
「分かった。追撃はしない。武者を休ませよう」
「ちぇっ!」
不満そうな忠賢を直春はなだめた。
「忠賢殿の言うこともよく分かる。今、増富家に打撃を与えておくことには確かに意味があるのだ。危険がないなら許可するが、菊次郎君の言う通りならやめておこう。これ以上戦力に損失を出したくない。それに、忠賢殿には別な活躍の場がある」
「まさか!」
菊次郎は大声を上げそうになって、慌てて口を手で押さえた。またしても嫌な予感がした。直春は頷き、まわりへ視線を走らせて声をひそめた。
「実は行軍中に豊津城の妙から急な伝令が来てな」
「もしかして、成安家ですか」
「そうだ。墨浦から出陣命令が届いた。狢宿国で戦が始まる」
「元尊の野郎か」
忠賢も察したようで、舌打ちした。
「数万を動かすらしい。俺たちにも兵を出せと言ってきた。敵は宇野瀬家だ。大戦になるぞ」
恐れていた事態だった。成安家が踵の国で戦を始めるのだ。情勢から可能性は考えていたが、現実になってしまった。
「急ぎ豊津へ戻らねばならん。撫菜領の防備を再構築したら兵を引くぞ」
「分かりました」
「しょうがねえな。諦めるか」
「君たちの力が必要になるだろう。頼りにしている」
直春は信頼の笑みを浮かべると、二人を連れて茅生国三家の当主たちに挨拶に向かった。援軍を出してくれた礼を述べ、これからどうするかを相談するためだ。桜舘軍の主力はしばらく茅生国に来られないことも伝えなければならなかった。
夕刻、物見の兵が戻ってきて報告した。
「敵は鵜食橋を渡って火吸川を越え、増富領内へ戻っていきました。その際、街道脇の森から多数の武者が現れて合流しました」
やはり伏兵がいたのだ。二本の橋を守っていた増富軍二千ずつの半分が、密かに戦場の近くまで進出していた。もし追撃していたら、側面をつかれて包囲され、大打撃をこうむっていただろう。
「菊次郎君の読みが当たったな」
直春は感心したが、菊次郎は背筋が寒くなった。
「また同じ作戦でした。僕たちにその可能性を予想させて追撃を諦めさせたのです。向こうの思い通りに運んだわけです」
定恭は菊次郎の存在を自軍の安全確保に利用したのだ。
「敵の軍師はとてもすぐれていると、またしても証明されました。危険な相手ですね」
「大軍師様なら追ってこないと思ったってことか。どっちもどっちだぜ」
忠賢は皮肉っぽく言ったが、菊次郎の能力は認めているので意外そうではなかった。
「これで部下たちも納得したろうよ」
さばさばと言って、頭を切り替えた。
「じゃあ、俺たちは明日豊津に帰る。大戦に向けてあいつらを鍛え直しとくぜ」
「はい。僕もこちらの片付けがすんだらすぐにお城へ戻ります」
出陣は来月の末だ。それまでにしておかなければならないことは多かった。
「直冬さんが持ってきた物資は撫菜城に残しておきましょう。どのみち、出陣に必要な量には足りませんので、豊津商人から調達する必要があります」
三つに分けた部隊の最後、直冬の徒武者八百は先程撫菜城に到着した。彼等は石叩川を渡らず、小荷駄隊を護衛して裾深街道を進んできたのだ。
「戦いに間に合わず、申し訳ありません」
菜摘原の戦闘の様子を聞いて直冬は残念がった。
「問題ありません。予定通りに着いたのですから」
菊次郎はなぐさめて、倉に物資を搬入させ、橋の砦の修理を頼んだ。
「疲れているかも知れませんが、急ぎますので」
直冬は了承して、ただちに家臣に指示を出した。出陣するのはもう四回目なので、武者の動かし方が随分うまくなっている。
「菊次郎君。増富家はまた攻めてくるだろうか」
直春は踵の国へ出陣中に侵攻されることを危惧しているのだ。
「僕なら攻めません」
菊次郎は即答した。
「なぜだ」
「当家が成安家の戦に出たくないのは分かるはずです。勝っても領地は増えないでしょうから、資金や兵糧が減り武者が傷付くだけで得がないですし、この国が危うくなります。茅生国で戦が起こったら、当家は喜んで成安家に帰国を申し出て、救援に駆け付けてきます。多少時間はかかりますが、三家と景堅殿が持ちこたえてくれれば、撫菜城が落ちる前に到着できるでしょう。増富家としては、僕たちが狢宿国の戦で大きな損害を出した時、全力で攻め込むのが一番有利に戦えます。その場合、当家は相当苦しいことになります」
菊次郎は言って、はっとした。
「そうでしたか!」
「どうした、菊次郎君」
部下に指示を出していた忠賢や直冬も振り返った。
「分かりました。今回侵攻してきた敵のねらいが」
間違いないと思った。
「増富家は、いえ、砂鳥定恭は、采振家を攻めるつもりです」
「なぜそう分かるのですか、師匠!」
説明を求める直冬や仲間たちに菊次郎は断言した。
「僕たちが踵の国に釘付けになっていれば、増富家は南を警戒する必要がなくなり、全力で北を攻められます。ねらっているのは茅生国だと周辺国に思わせるために撫菜城を攻め、損害をあまり出さないうちに撤退したのです!」
それで全てがつながる。やはり、増富軍は城を落とすつもりはなかったのだ。
「なるほどな。茅生国じゃなくてそっちをねらうのか。ようやく敵の動きが腑に落ちたぜ」
忠賢が言い、直春も腕組みをして大きく頷いた。
「そうだな。得心した」
「僕だってそうします」
直冬まで納得の表情だった。
「残念ながら、当家には二方面で同時に戦う力はありません。同盟している采振家の要請があっても、増富家の背後をつくことはできません。踵の国の情勢を見て判断したのでしょうが、さすがは砂鳥定恭です」
菊次郎が言うと、直冬が目を丸くした。
「師匠、そういう意味ではありません」
忠賢がからかうような笑みを浮かべた。
「この大軍師様は、定恭が采振家をねらう最大の理由を分かってないらしいぜ」
「えっ、どういうことですか」
菊次郎が首を傾げると、そのおでこを忠賢は指でつっついた。
「采振家には銀沢菊次郎がいないからだろ」
「さらに言えば砂鳥定恭もいないな。采振家の当主氏鑑と弟の氏総はすぐれた武将だが、定恭の策略にかかると苦戦するだろう」
「もちろん、直春兄様や忠賢さんがいないからでもありますよ!」
直冬がうれしそうに付け加えた。
菊次郎は照れくさかったが、確かにそうかも知れないと思った。自分も定恭のいる増富家とはあまり戦いたくない。
「そういうことなら、しばらく茅生国は大丈夫でしょう。増富家は本気で采振家と戦うようです。そちらの戦に勝ったら当家に牙をむいてくるでしょう」
「そうなる前に踵の国の戦が終わればよいが」
直春の言葉に、全員が頷いた。




