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狼達の花宴 ~大軍師伝~  作者: 花和郁
巻の三 隣国の依頼
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(巻の三) 第五章 霧前原 下

 結局、橋を渡れたのは半数程度だった。三角菱のおかげで本隊の武者は多くが逃げられた。渓谷の入口辺りにいた二隊の武者は、包囲されて森を逃げたが激しく追撃され、しかも橋のそばに直春隊などがいたので降参せざるを得なかった。彼等を立て直しに向かった小薙隊の二千は、逃げてくる味方になだれ込まれ、救うのはもう無理だと判断して素早く下がったため、あまり損害を出さずに撤退できた。

 川を越えた小薙敏廉は定恭を見付けると近付いてきて、撤退の決断と三角菱の指示、持康を逃がしたことをほめ、小声で付け加えた。


「桜舘家は恐ろしい家だな。当主の直春は相当な名将だ。本隊の背後を襲った騎馬隊は青峰とかいう武将だろう。作戦を立てた敵軍師の知謀は貴殿に引けを取らぬ。小封主家と(あなど)り、数が倍と油断していなかったとしても勝てなかったかも知れぬ」


 約七千は城を囲んでいた三千と合流したが、定恭が用意させていた食事をとると撤退することになった。総大将がいなくなり、逃げ延びたとはいえ多くの者が武器や防具を失っていた。仕えている武将が捕虜になったり討ち死にしたりしている武者もいて、戦力としてはずたずただった。

 桜舘軍は捕虜を小荷駄隊と泉代勢と景堅隊に任せ、全面的な追撃に移った。先頭に立ったのは九百の騎馬隊で、忠賢は一人も生きては帰すなと武者たちを鼓舞した。市射勢四百と錦木勢五百も城を出て追撃に加わった。猪焼領との間の山道には討たれたり傷付いて動けなくなったりした増富家の武者が点々と転がっていた。

 そうした一人の前で、友茂が足を止めた。


「どうした」


 則理が少年に近付いて眉をひそめた。


「これはもう無理だね。助からない」


 具足の腹が真っ赤だった。矢を受け、逃げる途中で力尽きたらしい。出血がひどく息はかすかだ。


「とどめを刺してあげましょう」

「苦しみを長引かせない方がいい」


 安民と光風が言った。


「私がやります。見ない方がいいですよ」


 利静が進み出て苦し気な顔つきの友茂を下がらせようとすると、十五歳の少年は低い声で言った。


「僕がやります」


 友茂は武者のそばにしゃがんだ。


「今、楽にしてあげます。言い残すことはありますか」

「腰の物入れに家族への手紙がある。あと水を……」


 頷いて、友茂は自分の竹筒を帯からはずし、口元に流してやった。武者は舌でなめてごくりと飲み込むと、かすれた声で言った。


「ありがとう。早くしてくれ」


 友茂は立ち上がり、槍を武者の首に向けた。


「待ちなさい。私がやります。無理をしなくていいのです」


 利静は止めようとしたが、友茂は強張った顔で(かぶり)を振った。


「僕は覚悟を決めなければならないんです。戦場を怖がっていては駄目なんです。直冬様は立派に仕事を果たされました。僕も変わらなくてはいけないんです!」


 利静は驚き、他の三人と顔を見合わせて一歩下がった。

 友茂は数度深呼吸をし、槍を構えると、気合の声を叫びながら先端を武者ののどに突き込んだ。


「やあっ!」


 武者はぴくぴくと震え、すぐに動かなくなった。

 友茂はあえぐような荒い息をしながら武者の死に顔をしばらく眺めていた。


「大丈夫ですか」


 利静が声をかけると、友茂は急に涙をあふれさせて頷き、ゆっくりと槍を抜いた。口をぎゅっとつぐんでいるのは必死に吐き気をこらえているらしい。


「その辺で出してくれば楽になるよ」


 則理が言ったが、少年は首を振り、つばを数度飲み込んで耐えると、武者のそばにしゃがんで血に染まった帯を解いた。抜き取ってそこに書かれた名前をじっと見て口の中でつぶやき、鎧を丁寧に直してやると、手紙と帯を握りしめて立ち上がった。


「あなたの名前は決して忘れません。ありがとうございました」


 深々と一礼して、菊次郎のところへ戻ってきた。その肩に利静が無言で手を置き、他の三人も声をかけたり竹筒の水を勧めたりしている。

 馬上で全てを見ていた大軍師は何も言わず、同じく馬を止めていた直春や直冬と共に前へ進み始めた。


「人を殺す覚悟、ですか……」


 菊次郎はつぶやいた。


「どうした」


 直春が尋ねた。


「僕にはあるのかなと思いまして」

「あってもなくても避けられないことだ。残念ながらな。天下統一は遠いな」


 今日直春は何人の敵武者を倒したのだろう。忠賢も相当な数を討ち取ったようだ。指示を出すだけで守られている自分より、友茂の方がよほど勇気があるように菊次郎には思えるのだった。

 そうして一昼夜、桜舘軍は食事以外に休憩をほとんどとらずに増富軍を追っていき、翌日の昼過ぎに撫菜城の近くまでやってきた。

 物見を出すと、城門が開いていて、その奥に米俵が積み上げてあった。山のような物資のそばには三百人ほどの武者がいた。

 物見が近付くと、武将らしき人物が交渉を持ちかけてきた。敵の提案はこうだった。


「私は記吉存と申します。この城には我々しかおりません。他の者は撤退しました。撫菜城は明け渡し、ここにあるお金や兵糧を全て差し上げますので、これ以上の追撃は中止していただきたい。断ればこの物資と城を燃やし、全員が討ち死にするまで抵抗致します」


 記家の八百貫二十四人と志願した者たちだという。

 菊次郎は直春と相談して返事を保留し、全軍を停止させて北と西へ物見を出した。その報告によると、どちらも境の川の橋に軍勢がいて守りを固めているということだった。持康軍の武者は両方へばらばらになって向かっている。


「どうやら船で逃げた者たちが指示を出したようです。橋を落とされるとやっかいですね」


 菊次郎は推測を述べた。


「敵は軍勢の半数が捕虜になりました。ここでこの城に籠もって包囲されれば、増富家全軍の六割が行動不能になります。そこを采振家に襲われたら勝ち目は薄いでしょう。ならば、撫菜城と物資を渡すかわりに戦いを終わらせ、まだこの近くを逃げている武者たちを無事に帰国させようと考えたようです。捕虜返還の交渉をすぐに始めて体勢を早く立て直したいのでしょう。四万貫は諦めるようですね」


 直春は考える顔になった。忠賢が尋ねた。


「進軍するのとここで引いて物資を得るのとどっちが得なんだ? そういう計算は得意だろ」


 菊次郎は苦笑して答えた。


「あの三百を全滅させるのに、こちらは一千は死傷するでしょう。また、この先、道は二方向に分かれます。この城にも守りを残さなければならず、派遣できるのは四千程度で、攻め込んでも苦しい戦いになるかも知れません。ならば、ここで手を引き、四万貫とこの物資と捕虜の返還金で満足するのは堅実だと思います」


 橋を渡れても持康軍に一年も持ちこたえた開飯城を一気に落とすのは難しく、今頃五形城から救援の軍勢が出発しているはずだ。


「それに、こちらが城をいくつか落とす間に采振家が万羽国を制圧して巨大化する可能性があります。百万貫以上の勢力に囲まれるよりは、増富家を残す方がまだましです」

「ほら見ろ。やっぱりけちくさいぜ」


 忠賢はからかったが納得したようだった。ほとんど休みなしで追撃してここまで来た。死を覚悟している三百人を相手にするのはしんどいし、城を落としている間に橋の守りは固くなる。

 蓮山本綱も和平に賛成した。


「戦が長引くと成安家が援軍を送ってきてこの城も取り上げられるかも知れません。ここで止まれば、増富家を破った褒賞として四万貫を我等が分け合うことは認めるでしょうな。進むのは賭け、無理をすることはありますまい」


 泉代成明も同意見だった。


「あまり勝ちすぎると氷茨元尊の不興を買います。ほどほどがよいでしょう」


 成明は捕虜の処置を家臣に任せ、半数の四百を率いて駆け付けてきた。


「増富家が開飯城に兵力を集めると当家の城が危うくなります。和平の方がありがたいですね」


 戦の前、足を取る作戦を聞いて成明は目を丸くし、大笑いして「その役目、当家で引き受けよう」と言った。最初の一手が失敗すると全体が崩れる恐れがあったが、直春は「成明殿なら間違いない」と保証し、事実見事に敵を罠に引き込んみせた。


「そうだな。皆の言う通りだ。和平に応じよう」


 直春もこの辺りが限界と思っていたようだ。国力が三倍の増富家と全面的な争いになればやがて苦しくなる。三家を守り味方に付けるという目的は達したのだ。

 すぐに使者が出され、誓約書が交わされた。


「桜舘公は信義を重んじる方と聞いております」


 そう言って吉存は城の鍵を渡し、三百人を連れて去っていった。

 それを見送って、直春が言った。


「では、入ろうか。戦はここまでだ」

「中に罠かなんかあるんじゃないか」

「もう調べさせました。大丈夫です」

「久しぶりに屋根の下で寝られるね。よかったね、真白」

「直春殿とは今後の話をしたいですが、その前に風呂と睡眠ですな」


 四人と成明は笑い合って、二家の当主や家老たちと共に、獲得した新しい城へ入っていった。



 旧熊胆領で橋の守りを固めていた定恭は、吉存が無事に戻ってくると念のため数日警戒したあと、武者たちを連れて引き上げた。

 五形城に帰ると定恭は自主的に謹慎し、門を閉ざした。作戦を立てたのは吉存だが、定恭も当主から息子を頼むと言われているし、撤退の指示を出させて敗北を決定的にしたのは自分だ。重い罰もあり得る。それを話しても妻のさよりは無表情だったが、さすがに不安そうにしていた。

 帰郷した翌日、為続が訪ねてきて、持康を無事に城へ送り届けたこと、桜舘家は橋の対岸に砦を築くと本国へ引き上げたことを教えてくれた。もう捕虜返還交渉の使者が送られたそうだ。北の国境へも援軍が派遣されたが、采振家は茅生国での戦が長引くと読んでいて動くのが遅れ、防衛用の砦を軽く攻めただけで撤退したという。


 定恭は一安心し、あとは砂鳥家が存続できることを願って、犬冷・蛍居の二家老に口添えを依頼する手紙を書き、()執政の数多田(あまただ)馬酔(ばすい)に戦の顛末(てんまつ)を詳しく書き送って寛恕(かんじょ)()うた。

 だが、何の沙汰もなく、十日が過ぎた。さすがに不気味だったが、腹をくくって軍学の書物を読み、今回の戦の敵味方の作戦を分析するなどしていると、急に城に呼び出された。

 妻や岳父(がくふ)や使用人、聞き付けて集まった家臣たちに今生(こんじょう)の別れのように見送られて、正装した定恭が指定通り本郭御殿へ出頭すると、用人に奥の間へ案内された。

 ここは当主や執政たちが人と会う場所だ。いよいよ取りつぶしの申し渡しかと思っていると、誰かが入ってきたので平伏した。


(おもて)を上げよ」


 常康の声だった。そろそろと顔を持ち上げると、当主と持康、左右の両執政が座っていた。

 常康はじろりと定恭を見下ろしたが、急に深々と頭を下げた。


「息子を救ってくださって、感謝申し上げる」

「とんでもないことでございます」


 慌てて平伏すると、常康は姿勢を戻し、嫡男へ目を向けた。


「息子はそなたに随分と失礼を働いたそうだな。以前開飯城で負けた時にそなたの言うことをよく聞くようにと言い聞かせたのだが、まだ分かっていなかったようだ。だが、さすがに今回はこりたろう。討たれそうになって救われたのだ。そなたに大変感謝しておる。そうだな」

「はい。父上のおっしゃる通りです」


 持康は礼儀正しく返事をし、定恭にわびた。


「生きて戻れたのはお前のおかげだ。深く感謝している。助言に耳を貸さず、すまなかった」

「もったいないお言葉でございます」


 やけに神妙な態度がかえって信じがたかったが、もちろん顔には出さなかった。


「砂鳥殿、よく若君を助けてくれた。我々からも礼を言う」


 長身の数多田(あまただ)馬酔(ばすい)(いか)めしい顔に珍しくやさしげな笑みを浮かべて腰を折り、 肥満体の脇盾(わきだて)能全(のうぜん)までにこやかな顔で頭を下げた。


「武者たちを救ってくれたこと、ありがたく思うぞ」


 恐縮する定恭に、持康は師範に対する弟子のような態度で頼んだ。


「これからも俺を助けてくれ。お米役から俺付きの()軍師に格上げし、何事もお前の意見を聞くと誓う」


 では、取り潰しは(まぬが)れたのだ。定恭はほっとした。右軍師ということは、吉存が()軍師なのだろう。新家と旧家の双方から任ずるのは納得だった。


「こちらこそ、若殿のご不興(ふきょう)を買うようなことをたびたび申し上げました。お怒りは当然と存じます。また、こたびの戦では危険な目にあわせてしまい、大変申し訳なく思っております。ですが、若殿がお望みくださるのでしたら、今後も記殿と力を合わせて全力でお助け申し上げます」


 吉存は敗戦後随分と素直になり、定恭の助言に耳を傾けるようになった。撫菜城を明け渡して追撃をやめさせたのは定恭の提案だが、吉存は賛成して渋る家老たちを説得し、城に残る危険な役目を買って出た。交渉事は彼の方が得意なので、今後もそういった分野は任せ、作戦は定恭が中心になって立てるようにすれば、互いの力を生かしてうまくやれるだろうと定恭は感じていた。


「いや、左軍師は記殿ではない」


 ()執政の脇盾(わきだて)能全(のうぜん)は残念そうに言った。


「彼は自裁(じさい)した。自ら敗戦の責任を取ったのだ」


 定恭は驚きの声をかろうじてのみ込んだ。


「霧前原では味方の半数が捕虜になり、死者は五百を超えた。初代様のまねをしようとして大敗を招き、かえってあのお方の名声に傷を付けそうになったことを恥じたのだろう」


 そんなばかな、と定恭は胸の中でうめいた。吉存は定恭と力を合わせて持康を盛り立て、汚名を返上したいと言っていた。自分から死にたいと言い出すはずがない。


「記殿は学舎で主席だった優秀な男だ。殺すのは惜しかったが、全て自分が悪い、他の者の罪は問わないでほしいと言い張ってな」


 嘘だ。定恭は悟った。能全が胸を刺すように命じたのだ。いや、恐らく馬酔や常康や持康も、この四人全員が合意して責任を押し付けたのだ。

 背中を冷たい汗が流れた。そんな定恭を、能全はにこやかな笑みを浮かべたまま、寺院にある悪鬼(あっき)の像のような目で見下ろしていた。


「撫菜城四万貫を引き渡したのもあやつの発案だそうだな。いくら逃亡する味方を救うためとはいえ、また、その判断が結局は正しかったとはいえ、ご当主様直轄(ちょっかつ)のご領地を勝手に敵に譲り渡すなど越権行為もはなはだしい。到底許せることではない」


 当主や執政たちの視線は全てを見抜いていることを物語っていた。霧前原の作戦は持康の承認を得ている。よって彼も敗戦の責任を問われる。しかし、撫菜城の明け渡しは定恭の判断だった。あの城を落としたのは自分だし、これまでの功績があるから死一等(しいっとう)(げん)じてもらえるだろうと踏んでのことだったが、吉存はその罪をかぶってくれたのだ。


不損陥城(ふそんかんじょう)鬼才(きさい)か。まさか、その名の通り、戦いもせずに敵に城を差し出すとは」


 信じがたいことだという風に馬酔は首を振った。 


「こたびの戦では多くの者が死に、また捕虜となった。多額の出費を()いられた家が多くてな。随分と不満が広がっておる。我々は助命したかったのだが、誰かが責任を取らねばならぬ。そのかわり、記家は四百貫で存続させると約束したのだ」


 新家と旧家、特に財政的に苦しい新家の者たちから吉存は憎まれたのだろう。生き延びても今後出世は望めず苦しい立場に置かれる。名家である記家を守るためにも、自裁を迫られたら断れなかったのだ。

 脇盾能全は悲しむふりをしていたが、口元は嘲笑うように(ゆが)んでいた。


「彼がどうしてもと言うので、我々としても泣く泣く自裁を認めざるを得なかったのだ。貴殿も同輩を失って悲しいだろうが耐えてくれ」


 泣いて記殿を切っただって? 旧家との争いでしくじった責任を彼に押し付けただけではないか。

 吉存を持康に付けた張本人は能全だ。持康の責任を問わないために、常康と馬酔は彼も不問に付したのだろう。


「左軍師となるのは箱部(はこべ)守篤(もりあつ)殿だ。荒事は不得手(ふえて)ゆえ、作戦は貴殿に任せて輔佐に徹するように申し伝えてある。三十五歳で人格者と評判の男だ。武将たちや武者をうまくまとめて動かしてくれるだろう」


 馬酔の言葉が締めの合図だったようだ。常康は当主として命じた。


「砂鳥定恭殿を我が世継ぎ持康の右軍師に任ずる。引き続き茅生国の攻略に当たれ」

「ははっ! かしこまりました!」


 定恭はそう答えるしかなかった。

 廊下を下がりながら定恭は複雑な気分だった。

 取りつぶしや処刑を(まぬが)れたことは喜ばしい。恐る恐る御前に出たら、意外にも感謝されてほっとしたのは事実だ。しかし、あれだけの危険を冒し、命令に背いてまで戦場に行って総大将と武者を助けたのに、感謝の言葉だけで何の褒美もない。恩賞が欲しくて行動したわけではないが、結局はただ働きだったことになる。

 常康はまず恐れさせ、それを取り除いてやることで、実益を全く与えずに定恭に恩を売り、もっと重い役目を命じて一層励むと約束させることに成功した。実に家臣を操るのがうまいと感心するが、同時にばかばかしくも思われるのだった。

 一方、当主親子と二人の執政は部屋に残った。定恭が退出すると、常康は息子に問うた。


「なぜあの者を生かしたか分かるか」

「俺を助けたからだろ。その褒美だ」


 持康はがらりと態度を変えていた。背中をぼりぼりかいている。


「俺は次期当主だぞ。当然だ」

「ばか者! それだけではないわ!」


 常康は息子を叱り付けた。


「あの者が戦場にいなかったらお前の軍勢はどうなっていたと思う。本隊の背後をつかれた時に三角菱を投げたからこそ、お前は助かり、多くの武者が戻って来られたのだぞ!」

「でも半分は捕まっただろ。それに、あいつ、吉存を真剣に止めなかったぜ。本陣にいたのに最後の最後まで黙っていやがった。ああなると分かっていたらあんな作戦やめさせた。負けたのはあいつのせいなんだよ」


 持康は不満そうだった。


「いいや、あの男のおかげで半数ですんだのだ。お前と記吉存だけでは全滅したかも知れぬ。その場合、失うのは撫菜城だけではなかったろう。采振家や成安家が喜んで攻め込んできたに違いない。そうなればこの城すら危うかった。あやつが撫菜城を引き渡したから敵は引き上げたのだ」

「せっかく奪った城を捨てるなんて、俺がいたら絶対に止めたぜ。俺が落としたのによ」


 本当は定恭だが、持康はそう思っていた。


「だから、あの者は若殿を船で去らせたのですよ」


 馬酔が言った。能全も同じ考えだった。


「さよう。若殿がいては撤退の邪魔になると考えたのですな」

「じゃあ、あの野郎は俺を追い払ったってのか!」


 持康は叫んだが、常康ににらまれて黙り込んだ。


「その判断が正しかったことはそのあとの状況が証明しておる。お前はいない方がよい大将だったのだ。少しは反省し、自分の力が足りぬことを自覚せい!」


 常康は声を荒らげたが、すぐに冷静に戻った。


「あの男は確かに切れる。あやつが作戦を立てておれば勝っておったかも知れぬ。だが、独断しすぎる。それが問題だ。大将は持康なのだ」

「ですが、定恭には悪意がありません。最善だと思ったからその手を打ったのです。自分の利益を考えたわけではないのですよ。信じがたいことですがね」

「全く不可解だが、為続も、吉存も、犬冷や蛍居も、皆同じ見解だった。変な男だ」


 馬酔や能全にとって、自分の能力を発揮したい、自分の考えを実行して確かめたいというだけで行動する学究肌の人物の思考は理解の外にあった。


「今回はそれで助かった。だが、あの男は危険だ。三角菱や撫菜城の件で多くの武者があやつに感謝しておる。あれがなければ生きては戻れなかったとな。このままではお前よりもあやつの言うこと聞くようになりかねん。あれだけの頭脳を持つ男だ。反乱を起こせば大変なことになる」

「あいつにそんな度胸はないぜ。いつも弱腰だ」

「何を言うか。たった三百を率いて敵の騎馬隊に突撃したではないか。しかも、その三百は全員無事に帰還したそうだ。恐ろしい男だ」


 すぐれた人物を家臣に持つことは喜ぶべきことだが、同時に喜べないことでもあるのだ。


「持康、大評定のあとわしが言ったことを覚えておるか」

「あの者たちをうまく利用せよというあれか」

「そうだ。当家はすぐれた家臣を引き立て、その力を利用することで発展してきた。こやつらがよい例だ」


 両執政は黙って頭を下げた。


「増富家の当主に独裁的な命令権はない。当主の座を守るには新旧両家の上にうまく乗り、両者の均衡を保たねばならぬ。お前もそろそろそういう経験を積むべきだと思って大将を任せたが、その結果があれだ。片方のみを重用するから失敗したのだ」

「親父たちは()してたが吉存は思ったよりばかだったぜ。絶対勝てるって言うから任せたのに、あの嘘つき野郎め!」


 持康は吐き捨てるように(ののし)った。


「ばかも使いようだと言ったはずだ」


 常康は表情を変えなかった。まるで命のない道具について語るような口ぶりだった。


「砂鳥定恭は知恵が回る。うまく使え。だが、全てを任せるな。計画は砂鳥に立てさせ、実行は他の者にさせて手柄が集中しないようにせよ。家老たちの意見も時々は取り上げてやれ。その助言役として箱部(はこべ)守篤(もりあつ)を付けた。あの男は記吉存に似ているが、あやつほどの野心も才覚もない。交渉や武将たちの機嫌を取るのは得意だから、誰に仕事を担当させるか相談するとよい。そういう風に気を配ってうまく部下を働かせるのが大将の役割だ。お前が手柄を立てる必要はない。わしが隠居すれば当主になれるのだから、武勲は他の者に譲ってやれ」


 持康は不満そうだったが頷いた。


「お前は案を出さなくてよいのだ。定恭に問い、皆に(はか)り、家老たちがよいと言ったものを採用せよ。それで万事うまく行く」


 持康は分かったような分からないような顔つきだったので、馬酔と能全がやさしい言葉に言い換えた。


「定恭はまだ役に立ちます。罰を下すより使えるだけ使ってすりつぶす方がよいということです」

「ただし、大きな功績を立てさせてはなりませぬ。名声のある家臣は扱いにくいですからな。恩賞は最小限で懸命に働かせ、不要になったら切り捨てればよいのですよ」

「なるほど、そういうことか! なんとなく分かったぞ!」


 常康は溜め息を吐いた。


「こたびの失敗は大目に見る。廃嫡(はいちゃく)もせぬ。だが、次はないぞ。二人の軍師をうまく使いこなして見せよ」


 左右の執政に目を向けた。


「できの悪い息子が世話をかけるが、今後も頼む」

「もちろんでございます」


 二人は平伏し、持康も渋々頭を下げた。


「さて、今後の当家の方針について意見が聞きたい。茅生国進出は挫折したが、この先どうしたものか」

「それにつきまして、面白い意見を耳にしました」


 馬酔が言上した。


「実は、砂鳥定恭がこのようなことを話していたと渋搗(しぶつき)為続が申しておりました」

「またあの男か」


 常康はうんざりした顔をしたが、すぐに頷いた。


「聞こう」


 そのあと、四人は長いこと話し合っていた。

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