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狼達の花宴 ~大軍師伝~  作者: 花和郁
巻の三 隣国の依頼
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(巻の三) 第五章 霧前原 上

 降臨暦三八一六年菊月(きくづき)二十五日の朝、豊津城に急報が入った。二日前、増富家の大軍が撫菜(なでな)城を発し、市射家の裾深(すそみ)城を目指しているという。

 これを予期していた桜舘直春は直ちに軍勢を招集、茅生国へ向かった。出陣したのは六千で、直春自身が率い、大軍師の菊次郎や忠賢・直冬など主だった武将が皆含まれていた。

 桜舘軍は二日後の夕刻には土長城に到着した。開飯城の増富軍は一千五百に増えており、半時橋を越えて攻めてくる可能性を考慮して忠賢の騎馬隊九百はここに残し、直春たち五千一百は泉代勢八百と共に翌朝裾深街道を東へ向かった。

 多数の荷車を引く小荷駄隊を連れているため、二家連合軍の動きはゆっくりだった。途中一泊し、翌日の昼過ぎに泉代領と市射領の境の山へ入り、白鷺川(しらさぎがわ)の支流の石叩川(いしたたきがわ)に沿って進んで朝霧(あさぎり)渓谷と呼ばれる場所で野営した。

 川の水で煮炊きをして早い夕食を済ませたあと、諸将は直春と泉代成明を囲んで軍議を開いた。


「菊次郎君の予想通り、敵は裾深城を攻めたな」


 直春はいつでも着られるようにそばに白い鎧を置いて床几に腰かけていた。成明は赤い甲冑を身に付けたままだった。大柄な体によく似合っている。


「明日の我々の動きを確認しよう。軍師殿、頼む」

「はい」


 二人の封主に頭を下げて、菊次郎は地図を広げた。


「夏に隠密から、増富家が撫菜(なでな)城に兵糧をたくさん運び込んでいるという情報が入っていました」


 白鷺川の東側にあり、猪焼(ししやき)家のものだった城だ。


「川の西側の開飯(あくめし)城にも運び入れていましたが、こちらに意図を悟られないようにするためでしょう。その一部を夜にこっそりと撫菜城へ移送しているのを確認しました。出陣するのが撫菜城なら、ねらいは裾深城です」


 撫菜城から南下すれば市射領へ至る。


「また、市射家の家老に内通の誘いがありました。援軍は必ず敗北するから城攻めの時に内側から門を開けろと脅してきたそうです」


 増富家はかなり自信がある様子だったという。その家老には応じるふりをさせてある。


「以上のことから考えると、敵は裾深城を攻めて我々を誘い出し、合戦して打ち破ってから三つの城を落とすつもりです。となると、戦場はここです」


 菊次郎は朝霧渓谷を抜けた先の狭い平地を指差した。


「やはり敵は浮寝の横槍を再現しようと考えているようです」


 霧前原(きりまえはら)と呼ばれるこの石の多い草地は石叩川(いしたたきがわ)に沿って東西に長く、南側は森だ。そこから伏兵が現れるに違いない。裾深城へ行くにはこの川にかかる霧前橋(きりまえばし)を渡る必要があり、そこを封鎖されると止まらざるを得ない。奇襲と包囲にはうってつけの場所だった。


「皆、付近の地形は頭に入っているな」


 直春の問いに諸将は頷いた。

 菊次郎は夏、直冬と五人の護衛を連れてここを訪れ、戦場の下見をしている。成明も同行し、市射孝貫(たかつら)や錦木仲宣(なかのぶ)とも打ち合わせをした。

 その時に決めた通り、増富軍が出陣すると錦木軍五百が裾深城へ入った。これで市射軍九百と合わせて一千四百が籠もっているため、すぐに落ちることはない。増富軍も桜舘軍の撃破を優先するはずで、霧前原での合戦が終わるまで本格的な城攻めはしないだろうと思われた。

 墨浦にも増富軍の襲来を知らせたが、直春や菊次郎も三家も自分たちだけで戦うつもりだった。元尊の力を借りると商人の優遇や兵糧の提供などを要求される恐れがあるからだ。

「増富軍は一万五千、そのうち一万から一万二千が僕たちを待ち構えて合戦を挑んできます」

 裾深城の市射・錦木両軍から、分かる限りの敵の情報が先程届いた。敵の大将は世子の持康、実質的に指揮をとっているのは記吉存と思われる。砂鳥定恭の姿はなかったそうだ。


「では、明日の流れです」


 菊次郎は下見の際に作った戦場の地図を前に、敵と味方の予想配置に四角い木片を置いていった。皆真剣に聞き入り、細部を確認して頷き合った。

 翌三十日の朝、評判以上の濃い川霧に苦労しながら朝食をとった桜舘・泉代連合軍五千九百は、甲冑を身に付け、戦闘準備を整えると、小荷駄隊をそこに残して、緊張した面持ちで東へ向かって進み始めた。

 この渓谷を抜けると盆地に入る。川の対岸がかすむほどの濃い霧の中、武者たちは不安や恐怖と戦いながら、気を引き締めて戦場へ向かった。



「遅い! どうなっているのだ! もう朝が終わるぞ!」


 持康は床几(しょうぎ)から立ち上がり、手にした軍配で森の中の草を薙ぎ払い、具足の足で踏みにじった。


「桜舘家ののろまどもめ! 一体何をしている! 裾深城が落ちてもいいのか!」


 半ば紅葉した木々の向こうの草地には川からあふれる霧が立ち込めていて遠くの景色は見えないが、桜舘軍が現れる様子はまだなかった。


「若殿、落ち着いてください」


 記吉存は座ったままおだやかに言った。増富家のくすんだ黄色の鎧の上に、最近流行(はやり)の陣羽織という袖なしの着物を着ている。紫地の胸に金糸で「不損陥城(ふそんかんじょう)」「天下鬼才(きさい)」と縫い取ってあった。この異名(いみょう)は吉存が自分で考えて広めたものだ。脅しになると考えているらしい。


「敵は若殿を恐れているのです。それで到着が遅れているに違いありません」


 いかにも見下した口調だった。


「そうなのか? 何かたくらんでいるのではないか」


 持康は不安なのだ。戦の前は誰でもそうだし、一度負けている相手だからなおさらだ。


「ご心配はいりません。敵は必ず目の前の街道を通ります。そこを襲撃して分断・包囲すれば、こちらの勝ちは疑いございません。敵の命運は既につきているのです」


 吉存は自信ありげな笑みを浮かべた。桜舘軍が朝霧渓谷に入ったという知らせが昨晩届いた。だから、今朝まだ暗いうちに城のそばを離れて橋を渡り、この森の中に隠れたのだ。


「当方は大軍で、しかも総大将は若殿です。前回、泥鰌縄手で騎馬隊を率いて果敢に攻撃なさろうとしました。あれが行われていれば味方の勝ちでした。敵が恐れるのは当然です。きっと武者たちの意気が上がらず、進軍に手間取っているのでしょう」

「ならいいが、待たされるのは苦手だ」


 持康は持ち上げられて少し機嫌を直した。草を蹴ったり軍配で払ったりするのはやめ、再び腰を下ろした。

 長い槍を持った為続が近付いてきて小声で尋ねた。


「あいつの言ったことは本当か?」


 口ぶりからすると全く信じていないらしい。


「そんなわけがあるか」


 定恭は冷静に答えたつもりだったが、口調に呆れの響きが出てしまった。


「これも敵軍師の作戦のうちだろう」

「遅れるのがか? 霧のせいじゃないか?」


 吉存の言葉がなだめるための嘘なのは分かるが、敵の策というのは()に落ちないらしい。


「敵は夜が明けると同時に武者たちをたたき起こして食事をとらせたはずだ。行軍中だし、我が軍が近くにいることは分かっているのだからな。とっくに来ていてよいのに来ないのには必ず理由がある。浮寝の横槍はどういう状況で行われたか思い出してみろ」

「霧の中、敵を横から奇襲して……。そうか、霧が晴れるのを待っているのか!」


 為続は大声を出しそうになり、慌てて籠手(こて)をはめた手で口を覆った。


「ということは、やはりお前の言った通りか」

「敵軍師はこちらの作戦を読んでいる。浮寝の横槍と知っているのだ」


 定恭はささやいた。本当は若君に伝えたいが、発言を禁じられているので大人しくしていなければならない。


「記殿も気付いている。見ろ」


 持康には落ち着けと言ったのに、自分は霧で真っ白な空と渓谷の方角を交互に眺めて、いらだたしげに腕を組んで貧乏ゆすりをしている。先程のおだやかな口調や敵を見下した様子は演技だったと自分で示してしまっていた。


「早速作戦の成立条件の一つが崩れたわけか」


 この草地では川霧に渓谷から風に押されてあふれてくる霧が加わって濃くなるが、早朝に比べると随分薄れてきている。


「そうだ。これくらいの霧なら、戦場全体は無理でも隣の隊の動きくらいは分かる。敵の各部隊を孤立させて連携を()つことは失敗した。しかも、記殿は大きな戦は初めてだ。緊張するのも無理はない」


 経験が浅いから余計に、予定通りに物事が進まないと不安になるのだろう。


「焦って判断を誤れば敵の思う壺だ。それも計算しているのかも知れない」

「だが、まだ奇襲はできるはずだ」

「敵には間違いなく備えがあるから奇襲にならないぞ」

「この作戦は備えていても簡単には破れないだろう」


 定恭は眉を寄せた。


「そこが問題なんだ。普通に戦えば、兵数で大きく上回るこちらに分断されて包囲され、負けが確定する。敵はどうするつもりなのか」


 増富軍一万五千のうち、ここにいるのは一万二千だが、それでも桜舘・泉代連合軍の倍だ。残り三千は裾深城を包囲し、合戦を邪魔されないように市射家と錦木家の軍勢を閉じ込めている。


「泥鰌縄手のように援軍は来ないんだ。だが、敵には逆転する秘策があるらしい」


 夏の始めに、豊津の町に送り込んだ隠密が、敵軍師銀沢信家が吉存を警戒しているという噂を聞いてきた。

 泥鰌縄手では危なかった。敵の軍師が騎馬隊の側面攻撃を止めたそうだが、実行されていたら負けていた。次もあの軍師が相手なら勝てそうだ。一方、一兵も損ねずに南谷家を帰順させた新軍師は恐ろしい。驚嘆すべき智謀で、とても勝てる気がしない。そう直春に語ったというのだ。

 その後、五形城下で吉存の情報を収集している者たちがいることが分かった。敵は恐れているぞと持康は喜び、吉存もまんざらでもない様子でそやつらを捕らえよと命じたが逃げられたそうだ。

 これらは定恭には自分を軍師からはずすための策略だろうと思われた。吉存の方が相手にしやすいということだ。作戦が読めるからに違いない。敵軍師は吉存の作戦を破る自信があるのだ。そう考えると、市射家の家老が内応を約束したのも怪しい。

 このままでは味方が負けると思い、定恭は持康に作戦を変えるように進言した。


「敵の分断にこだわる必要はありません。霧前原を戦場にするなら、敵に前を通過させてから背後を襲い、川に押し付けて包囲することを提案します。敵の武者たちは逃げようと橋に殺到し、大混乱になって自滅するでしょう」


 持康が黙ったので、定恭はさらに言った。


「また、朝霧渓谷の出口は狭く、三千もいれば封鎖できます。敵の通過を阻み、その間に裾深城を落としてしまえばよいのです。援軍に来る錦木勢もたたけばそちらの城も落ちたも同然で、残るは土長城だけです。これなら、城の包囲に武者を残さずにすみ、全軍で合戦に臨むことができます」


 吉存は冷笑を浮かべた。


「そんなに私が手柄を立てるのが悔しいのですか。 自分なしで勝たれては困るのでしょうね。あなたが飯屋で酔っぱらって若殿と私の悪口を大声で叫んでいたという情報が隠密から入っております。若殿もご存知のことです」

「それは敵の陰謀です!」

「敵が恐れているのはあなたではなく私なのですよ。黙って見ていなさい」


 持康も怒鳴った。


「軍議で決まったことだ。いまさら蒸し返すな!」


 持康は開飯城で定恭の制止を無視して深追いし、成明の策にはまってこの軍師に救い出された。その時、父や執政たちに厳しく叱られ、定恭の助言をよく聞くように言われたので煙たく思っているのだ。定恭なしで勝って彼等を見返してやりたいのだろう。


「若殿は浮寝の横槍を再現して宝康公の再来と呼ばれるのです」

「お米役は兵糧のことだけ考えていろと言ったはずだ!」


 以後、軍議に入れてもらえなかった。合戦にも部署を与えられず、出陣する時も撫菜城に残って兵糧の管理をするように命じられた。

 だが、定恭は心配で引っ込んでいられず、兵糧を輸送する小荷駄隊の護衛として撫菜城の守兵五百のうち三百を率いて戦場へ来た。吉存は追い返そうとしたが、進言しないことを条件に同行を許され、一緒に森にひそんでいる。


「定恭、以前も聞いたが、お前が敵軍師ならどうする」


 為続は今回も一千五百貫四十五人を率いて持康の本陣を警護している。


「俺なら裾深街道を通らない。つまり、ここでは戦わない」


 それが定恭の結論だった。


「六千対一万二千だ。倍の敵に包囲される危険を冒さず、錦木領を通過する。山懐(やまふところ)城へ行って北上するのはやや遠回りだが、途中にここのような危険な場所はない」


 裾深街道は土長城から北東へ進み、市射家の城を経て北上、撫菜城へ通じる。増富軍はこれを南下して攻めてきた。一方、山懐(やまふところ)街道は土長城から真東へ伸び、山を越えて盆地に入り、錦木家の城へつながっている。そこから北へ向きを変え、霧前原のすぐそば、橋の向こう側で裾深街道に合流し、裾深城へ至る。


「敵の作戦に乗る必要はない。こちらに都合のよい場所で戦う方が確実だ」

「なるほど。敵は敢えて乗ってきたということか。勝てる自信があるのだろうな」


 為続は深刻な表情になった。


「こちらの動きはお見通しなわけだ。恐ろしい知謀だな」

「いや、むしろ勇気に驚く」


 定恭は言った。


「事前に戦場や敵の作戦が予想できる戦いは珍しくない。今回が特別なのは、こちらの作戦がかなり効果的で防ぎにくいものであることだ。対策が失敗したら非常に厳しい状況に置かれる。敵の作戦はこうだろうと読んでそれに合わせた布陣にするのは賭けなんだ。恐らく、広い場所で正面からぶつかるより、こちらの策を破る方が少ない損害で勝てると考えたのだろう。少しうらやましいな」

「どうしてだ」

「家中で信頼されているからそんな危険な作戦に賛成してもらえる。軍師の方も仲間を信じているから思い切った手が打てる」

「ますますこちらの勝ち目が薄く感じられてきたよ」


 為続は川の方を横目で見て小声になった。


「となると、あれが役に立つかも知れないな」


 森の前を通る街道は途中で川を越える。その霧前橋のそばに五艘の小舟を用意してある。漁師が使うもので屋根はないが足は速い。


「そうならないことを祈ろう」


 ささやき返した時、伝令が走ってきた。


「敵が現れました!」


 地元の民に偽装した武者は、持康の前に片膝をついて報告した。


「桜舘勢がもうじき渓谷を抜けます。敵は当主直春自身が率いる先鋒が三千五百、中軍に泉代勢八百、後軍(こうぐん)が一千六百、合わせて五千九百です」

「ようやく来たか!」


 持康が立ち上がり、家老たちがそばに集まった。吉存が口を開いた。


「敵の大将が先頭にいますので、計画案その一を実行致します」


 持康率いる本隊四千は敵の先鋒の前に飛び出して頭を抑え、橋を渡るのを阻止する。小薙(こなぎ)敏廉(としかど)は二千で先鋒の側面を襲い、持康隊を援護する。新家の家老矢之根(やのね)壮克(たかかつ)の三千は泉代勢八百を攻撃、追い払って先鋒の背後を襲う。旧家の家老面高(おもだか)求紀(もとのり)の隊も三千で、後軍一千六百の前に立ちふさがり、渓谷から出さず、先鋒を救援させない。

 つまり、総大将が最大の数を、新家と旧家の家老が同数、外様はやや少ない兵力になっている。

 ちなみに、直春が前半分にいなかった場合、先鋒の通過後に間に分け入り、橋を封鎖して戻って来られなくして、孤立した後軍を包囲する計画だった。 


「皆様、作戦は頭に入っておられますね」


 全員が頷いたのを確認して、吉存は持康に体を向けた。


「では、総大将様、ご命令を」

「うむ」


 持康はさすがに緊張した面持ちだった。


「森を出る合図は笛で行う。聞こえたら予定の行動をせよ。皆の奮闘を期待する」

「ははっ!」


 人々は頭を下げ、自分の部隊へ散らばっていった。定恭は為続と共に持康の本隊に付いていく。


「お前たちはここに隠れているように」


 連れてきた三百人は副将に預けて待機させる。合戦に参加する部隊ではないのだから当然だった。

 定恭が兜の()を締め直し、為続が槍の(さや)をはずした時、笛が鳴った。


「攻撃開始!」


 家老たちが叫び、武者たちが森を飛び出した。薄い(もや)の向こうに列を作って歩いて行く桜舘・泉代連合軍が見える。霧のためか行軍速度はゆっくりだ。多くの荷車を引いているようだった。


「さて、敵のお手並み拝見といくか」


 為続と定恭も、持康を守る馬廻りと共に敵に向かって駆けていった。


『狼達の花宴』 巻の三 霧前原の合戦図 その一

挿絵(By みてみん)


「やはり来たか」


 周辺の霧を切り裂いて数本の笛の甲高い音が鳴り響いた。森から多数の武者が鬨の声を上げて走り出て、素早く隊列を組んで向かってくる。馬上の直春は右手の森をわざと見ず、増富軍の存在に気付いていないふりをしていたが、かっと目を見開くと愛用の槍を高々と掲げた。


「敵が来るぞ! 防御の陣形を取れ!」


 隣を進む武者が激しく太鼓をたたき、全軍がすぐに停止した。


「槍を前へ向けて間隔をつめよ! 槍衾(やりぶすま)を作って敵を威嚇(いかく)せよ!」


 連合軍は槍の鞘を抜いてあり、穂先に墨を塗って黒く見せていた。また、先頭と右側の武者は木の盾を持った大柄な者たちで、すぐに守りを固められるようにしてあった。


「敵の数は予想通りだ! 大軍師の読みは的中した! 隊列を崩さなければ勝てるぞ!」


 霧が邪魔で全ては見えないが、正面の敵は四千、横手の敵は二千といったところだ。間違いなく敵の主力だった。大将もこの中にいるはずだ。味方よりずっと多いが、連合軍の武者たちはそれを予期していたので驚きはない。事前に練習した通りの陣形を素早く作って待ち構えた。


「全員、準備はよいか!」

「おう!」


 武者たちは一斉に答えた。この一千五百が直春の指揮する者たちだ。先鋒三千五百は三つに分かれていて、最も多数を相手にすると思われる最前部が一千五百、側面を守るのが秋芝景堅の一千、残り一千は直冬と菊次郎と豊梨実佐に任せている。

 秋芝隊でも武者たちの大きな返事が聞こえた。あちらも迎撃の準備ができたようだ。景堅は守備が得意だ。二倍の相手に攻められても持ちこたえてくれるだろう。

 敵はもう目の前だった。増富軍は次第に足を速め、遂には走るような速さで近付いてきた。


「槍を構えよ!」


 直春は自分の槍を両手で握り、後ろに引いてみせた。


「矢をつがえよ!」


 多数の荷車の上に立った武者たちが弓を引き絞った。荷車の多くは湿り原の戦いで手に入れたもので、桜舘軍の強さの証拠として武者たちの自慢の種だった。

 敵将の叫ぶ声が聞こえた。


「敵は慌てているぞ! ねらいは足止めだ! 決して通すな! 橋を渡らせるな! 味方が背後を攻めれば敵は崩れる。無理をせず、押し戻すことだけを考えろ!」


 別な声が絶叫した。


「初代様を信じろ! 必ずご加護があるぞ! 勝利はこちらのものだ! 我等の強さを思い知らせてやれ!」


 敵の武者たちはこちらの数倍の鬨の声で答えた。


「そうはさせん」


 直春は笑い、大きく息を吸って命じた。


「矢を放て!」


 槍隊の頭上を越えて無数の矢が飛んでいった。敵兵は次々に倒れていく。だが、勢いは止まらない。味方の(しかばね)を踏み越えて直春隊にぶつかってきた。


「今だ。槍先そろえて、前を突け!」


 大将直春の声が響くと、武者たちは一斉に足を大きく踏み出し、槍を前へ動かした。千本の槍が大人の背丈ほどの距離をぐいっと伸びてきて、敵の武者たちを貫いた。

 驚いた敵はやや下がったが、お返しとばかりに槍で突いてくる。激しい突き合いたたき合いが始まった。


「弓隊、手を休めるな! 矢はたくさんある。どんどん射よ! 槍隊、勢いで負けるな! 押し返し、決して下がるな!」


 荷車には大量の矢が積まれていた。しばらく敵の攻撃を持ちこたえ、逆転の瞬間を待たなければならない。武者たちもそれを分かっている。この若い当主と大軍師と味方の武者たちを信じて、直春隊と景堅隊は槍の壁と矢の雨で倍以上の敵を食い止め、激闘を繰り広げた。



「やはり手強いですな。奇襲にも崩れませぬ」


 犬冷(いぬびえ)扶応(すけまさ)(ひたい)に手をかざして戦いの様子を眺めていた。


「特に矢が厄介です。こちらの武者も弓や投石で応戦しておりますが、荷車はありませぬ。上から射られるとやや苦しくなりますな」

「矢の数には限りがあります。長引くようですと足りなくなるかも知れませんな」


 蛍居(ほたるい)汎満(ひろみつ)が案じる通り、持たせた矢はあまり多くない。森に隠れ、飛び出す時に機敏な動きが求められる作戦だったからだ。


「桜舘直春はまだ二十歳ですが、戦上手という噂は本当のようですな。武者たちに支持されているように見えますぞ。この敵を突き崩すのは手間がかかりそうですな」


 新家と旧家の両家老は今回も持康の補佐で、吉存と共に総大将のそばにいる。

 為続は少し違う見方だった。


「敵は近付けば突き刺し射殺すぞと脅して追い返そうとしておりますが、積極的に攻めてはきません。始めから防御の構えです。襲撃に対する備えがあったようですね」


 作戦が読まれていたのではないかと暗に指摘すると、吉存は不快げに眉を寄せ、隅に控えている定恭をちらりと見たが、平然と言った。


「問題ありません。小薙(こなぎ)殿の隊と共に敵の前に壁を作り、橋を渡るのを阻止することに成功しました。これで第一段階のねらいは達成です。数はこちらが倍、背後を襲って包囲が完成すれば勝負はつきます。矢がなくなる前に終わるでしょう」


 持康は頷き、吉存に尋ねた。


「後ろの方の二隊はどうなっている」

「そちらには物見の武者を多数配置しました。状況は逐一(ちくいち)伝えられることになっております。もうじき最初の報告が届くと思われます」


 霧に覆われて視界がない上、敵の隊列が長いので戦場が広い。戦況を把握するために吉存が打った手だった。


「全体が見えない状態で指揮をとるのは難しい。経験が浅いと一層苦労する。仲間を信じられない者には不可能だ」


 定恭はつぶやいた。聞こえたらしく吉存はまた横目で見たが、すぐに持康へ戻した。


「遠からず笛が鳴ります。ご心配はいりません」


 敵先鋒の背後に攻撃を始めたら、その方法で知らせることになっている。


「俺は待たされるのが嫌いだ。向こうはもっと敵が少ないはずだな。さっさと打ち破って、俺たちの出番を早めてくれ」


 持康は霧でかすむ西の方へ耳を澄ませた。



 長い隊列の先頭部分で激しい戦いが始まった頃、連合軍の中ほどに割り込んだ二隊は敵を圧倒していた。

 面高(おもだか)求紀(もとのり)隊三千は後軍一千六百の前に立ち塞がり、道を封鎖した。


「ここは通さんぞ。お前たちの相手は俺たちだ」


 霧前原の直前まで川と崖に挟まれた細い道が続いている。その出口に素早く侵入して広がり、敵の後続部隊を渓谷から出さないのが彼等の役割だ。


「敵はこちらの半分、この戦いに負けはない。若殿が敵の大将を討つまで、こいつらをここに閉じ込めるぞ!」


 求紀(もとのり)は旧家の家老で四十代半ば、戦場経験が豊富で常に冷静沈着、粘り強い戦い方をする。泥鰌縄手の時は土長城の包囲を続ける部隊を任された。


「敵は慌てているぞ! 前進して圧迫せよ!」


 後軍を指揮する蓮山本綱は素早く攻撃陣形を作らせたものの一気に接近されて攻めあぐね、後退を余儀なくされた。面高(おもだか)隊は勢いに乗り、どんどん敵を押し戻していった。

 新家の家老矢之根(やのね)壮克(たかかつ)の三千も、中軍の泉代勢八百を一方的に押していた。成明には開飯城で手痛い敗北を喫している。恨みを晴らしてくれようと息巻き、警戒してもいたが、部隊同士が接触すると、意外なほど泉代勢は弱かった。あっさりと街道を矢之根(やのね)隊に明け渡し、慌てたように草地を川の方へ後退していく。先程まで泉代勢がいた場所に、今は矢之根隊がいた。


「手応えがないな。これほど簡単に崩れるとは」


 矢之根壮克(たかかつ)は三十代後半の猛将だ。突撃の鋭さと突破力に定評があり、泥鰌縄手の時は国境の陣地で直春隊とにらみ合い、隙あらば攻め寄せて撃破しようとねらっていた。だからこそ、最も重要で難しい、先鋒の後方を攻める役目を任されたのだが、拍子抜けしていた。


「こちらは敵の約四倍。数の差はある。だが、泉代勢はこんなに弱くないはずだ。もしや、砂鳥殿が言っていた敵の策なのか?」


 壮克(たかかつ)は戦をよく知っているからこそ、吉存の作戦を信じていたが、定恭の能力も評価していた。新家と旧家で派閥は違うが、これまで定恭の作戦で勝ってきたのは事実だったからだ。その定恭から油断せず慎重に攻めるように忠告された。


「とはいえ、早くこの連中を追い払わないと敵主力の背後を攻められないな」


 少し迷って、決断した。


「ここは戦場だ。恐れるより勢いを重視しよう。間違いなく流れはこちらにある。敵が策を使う前に勝負をつけてしまえばいい」


 壮克は太い声で()えるように命じた。


「敵に立て直す余裕を与えるな! 一気に川へ押し付けろ!」


 三千の矢之根隊は一斉に鬨の声を上げ、ずんずん前に進んでいった。泉代勢はもうあとがない。踏ん張ろうとしたが、激しい槍の突き合いの末、圧力に負けてさらに後退して行く。


「よし、川までもう少しだ。敵を河原に追い落としたら、一千でそれを追い払え。二千は俺についてこい。敵先鋒の背後を攻める!」


 そう指示を出した時、異変が起こった。突然、男の子の甲高い声が聞こえたのだ。


「全員、投擲せよ!」


 続いてきんきんという激しい鐘の音が響き、何かが空からたくさん降ってきた。ぼたぼたと音を立てて次々に地面に落ちていく。ただし、矢之根隊の中ではなく、横の草地にだった。投げたのは敵先鋒の最後尾の武者たちだ。


「何を投げたのだ? 我々への攻撃ではないのか」


 壮克が怪訝に思った時、数人が叫んだ。


「あの光は何だ!」


 霧の中を赤く輝くものが()を描いて飛んでいった。それが落ちた瞬間、地面が激しく燃え上がった。


「油玉と火矢か!」


 火は(またた)く間に広がって大きくなり、投げた部隊と森の間に炎の壁ができた。つまり、先鋒の側面を攻める小薙(こなぎ)隊と矢之根隊の間が通行不能になったのだ。


「なぜ草地を燃やすのだ? ここで分断されても困らぬが」


 壮克は首を傾げたが、次の瞬間蒼白になった。


「第二弾、投擲せよ!」


 再び子供の声ときんきんが響き、今度は自分たちの上に油玉が降ってきた。多数の玉から白い煙が噴き出して足元を覆っていく。


「火矢が来るぞ!」


 誰かが叫んだ。


「ばか者! うろたえるな!」


 慌てて怒鳴ったが、武者たちは動揺した。そばにはごうごうと燃え盛る炎がある。怖がるなと言っても無理だ。

 武者たちが逃げ腰になった時、急に悲鳴が起こった。隊の前の方からだった。それも十や二十ではない。百人以上の悲鳴だった。


「どうした!」

「あ、足の下に何かがあります!」


 叫んだ武者がひっくり返った。その隣も尻餅をつき、武者たちが一斉によろけた。


「足の下に木の板が敷いてあります。それに縄が付いていて、急に引っ張られたのです!」

「足に太い縄が引っかかった! 左右から一気に引かれて……、倒れる!」

「こっちは足に巻き付いた。輪っかがすぼまって抜けない! すごい力で引っ張ってる……、うわあ!」


 壮克は唖然とした。武者の足を取って転ばせているのだ。他の武者にぶつかって一緒に倒してしまう者も続出している。


「霧と煙で足元が見えにくくて気付かなかったのか。だが、何のためだ?」


 その答えはすぐに分かった。泉代勢が槍を構えて前進してきたのだ。同時に、油玉を投げた部隊一千が一斉に矢を射込み、槍をそろえて側面に迫ってきた。


「敵は混乱している! 一気に突き崩せ!」


 子供の声が命じている。


「桜舘家馬廻りの恐ろしさ、思い知らせてやろうぞ!」


 三十代半ばの騎馬の武将が先頭に立ってつっこんでくる。


「泉代家の武者の本当の実力、見せてやれ!」


 赤い鎧の敵将がよく響く声で叫んでいる。

 壮克は慌てて指示した。


「転んだ者を助けて立ち上がらせろ! すぐに隊列を組み直せ!」

「無理です! そんな余裕はありません!」


 油玉で肝を冷やし、足をすくわれて隊列が崩れたところを挟撃されて、三千の矢之根隊は合計一千八百の敵に一方的に攻め立てられていた。武者たちは個別に応戦するのが精一杯で、武将の指示に一斉に従う状態には既になかった。壮克は自隊を見回し、ここに留まるのは危険と判断した。


「やむを得ん。足元の安全な場所まで下がって体勢を立て直す。南は森だ。西へ移動せよ!」


 壮克の命令が伝わると武者たちは救われた顔になり、敵の攻撃を防ぎつつ後退を始めた。だが、転がっている多数の油玉のせいで、後ろ歩きの武者は次々にすっ転んでいく。泉代勢と桜舘軍は猛烈な勢いで迫ってきて攻める手を休めず、立て直す余裕を与えるつもりはないようだった。



「泉代勢はわざと広がって歩いていたんだね」


 感心したように則理がつぶやいた。この独り言に安民が返事をした。


「敵が森から出てきた時、森側の六百がそれを迎撃し、二百は持っていた木の板や長い縄を地面に置いて川の方に下がり、縄のはしを握りました」


 光風がぼそっと言った。


「槍武者は提灯(ちょうちん)をつぶすように仲間のところまで下がった」

「そこで油玉を投げ、炎を上げて敵の肝を冷やしました。さらに縄を引いて敵武者を転ばせ、矢を射込んで慌てさせ、一気に槍隊が押し返したのです。隊列が崩れ、足元が悪くなって、敵は後退が止まらずどんどん下がっていきます」


 利静は感心しつつもぞっとした様子だった。自分がされた場合を想像したらしい。


「実際は、二度目に投げたのは煙玉でした。火をつけたらこちらも攻めにくいからですね」


 この策のねらいは敵を西へ後退させることだ。そのためには一度敵に明け渡した街道上へ再び踏み込んでいかなければならない。だから、火はつけなかった。火以外で敵が混乱してその場にいたくないと思うものが必要になったので、菊次郎は武者たちの足を取ることを考えたのだ。

 友茂が震える声で言った。


「重い鎧を着た武者にとって、足元をすくわれるのは最悪の攻撃です。下手をするとしばらく起き上がれなくなります」


 十五歳の少年は顔が真っ青だった。


「隊列は全員がそろって動けないと効果が薄れます。転ぶ人が続出すると邪魔になってまわりも戦いづらくなります。長い槍を持って転倒したら仲間に当たったりしますしね」

「大丈夫か」


 馬上の直冬が振り返った。戦場を眺めながら聞き耳を立てていたらしい。


「へ、平気です」


 友茂はなんとか答えたが膝ががくがくしている。戦場が怖いのだ。泥鰌縄手に続いて二度目の出陣だが慣れないようだ。会話に加わったのはやせ我慢だったらしい。


「しっかりしなさい」


 利静が叱った。


「私たちの仕事はとても大切なのですよ」


 五人は一台の荷車を囲んでいた。その上には大きな鐘を一つ縄でつってあり、隣の小さな台に深い緑色の胸当てをした菊次郎が(のぼ)って戦場を見渡している。友茂と利静が槍、則理と安民が盾、光風が弓を持って警護している。ここは武者たちの列の後ろだが、時々流れ矢が飛んでくるので油断はできない。


「大軍師様にもしものことがあれば、この戦いは負けるかも知れません。命をかけて守らなければならないのです」


 連合軍全体の指揮をとっているのは菊次郎だ。今回は戦場が長く、先頭にいる直春は後ろの様子が分からないため、菊次郎に一任されている。作戦を軍議で説明して了承を得ているので、実際は事前に決めた合図を出す役目にすぎないが、不測の事態が起こる可能性はあるので、菊次郎が指示を出せなくなったら連合軍は危機に陥るだろう。直春からも、この五人は戦闘には加わらず大軍師を守るようにと言われている。


「分かっています。分かっているのですが……」


 友茂は泣きそうな顔だった。自分でも情けないらしい。しかし、戦場の恐ろしさは理屈で納得できるものではない。大声で叫びながら逃げ出したいのを我慢するだけで必死のようだった。


「友茂、負けるな。僕も怖いけれど、負けない」


 直冬もひどく緊張した様子だった。先程叫んだ時無理に声を出したのか、のどを押さえて水を口に含んでいる。その間も目はじっと前方へ向け、戦う味方や敵の様子を見つめている。

 菊次郎は弟子に励ます言葉をかけようとしてやめた。これは直冬が越えなくてはならない試練なのだ。

 当主のたった一人の弟として、直冬には桜舘家を背負(しょ)って立つ柱石(ちゅうせき)になってもらわなければならない。直春も菊次郎も、直冬はきっとすぐれた武将になるだろうと思っていた。だから、戦場経験をたくさん積ませ、部隊の指揮のとり方を早く覚えさせたい。二人は忠賢や妙姫や家老たちと相談し、今回の戦で一千人を預けることにした。

 呼び出してそう告げると、直冬は作戦を聞いて役割の重要さに驚いたが、やりますと硬い顔で言った。よい覚悟だと直春も菊次郎たちも喜んだ。

 とはいえ、まだ十三歳だ。菊次郎と豊梨実佐が補佐するが、命令は直冬の口から言わせることにした。先程の二回の油玉投擲と攻撃開始は、菊次郎が合図して直冬が叫んだ。

 そして、もう一つ、最後の一斉攻撃の命令は直冬自身の判断で下すことになっている。菊次郎の承認を得てからだが、菊次郎の方から「命令してください」とはよほどのことがない限り言わないつもりだ。それは伝えてあるので、直冬は真剣に戦場を見渡し、敵と味方を観察しているのだ。

 十五歳と十三歳の二人の少年を見下ろして、自分は大丈夫だろうかと菊次郎は思った。大軍師と呼ばれているがようやく十七歳、まだまだ子供っぽい部分は多い。彼等の気持ちはよく分かった。


「友茂殿は前をしっかり見ていなさい。左は私が見ます」


 護衛隊最年長の利静は九歳下の友茂を兄のように厳しくそしてやさしく励ましている。主人である菊次郎より彼の方がその役目にふさわしい。目が合い、利静に小さく頷くと、菊次郎は黒い軍配を前に向けた。


「そろそろ僕たちも進みましょう」

「はい」


 五人は返事をし、どんどん敵を押し込んでいく武者たちを追って歩き出した。友茂と利静が荷車を引き、他の三人がまわりを守る。直冬と五十人の馬廻りも共に移動した。先程火矢を射た田鶴も小猿を抱き上げて肩に乗せて付いてきた。着火用の炭火入れを持った馬之助も一緒だ。

 菊次郎は二人の少年の鼓動が移ったようにどきどきしていたが、大軍師なので敢えて余裕に満ちた様子を作って、下がっていく敵を眺めていた。

 と、直冬が馬を進めながら首を後ろへ向けた。つられて菊次郎や五人の護衛も振り返り、耳を澄ました。

 戦場に歌が流れている。桜軍(さくらいくさ)の歌だ。直春の声だった。


  桜の花よ 城に満ち

  重くたわみし 枝垂らせ

  我等その下 酒酌み交わし

  固く誓わん 永遠(とわ)の絆を


  桜の花よ 国に満ち

  赤く染まりし 枝垂らせ

  我等その下 文武を鍛え

  共に築かん 平和な(とき)を 


  桜の花よ 春に満ち

  光あふれし 枝垂らせ

  我等その下 おのれを磨き

  常に咲かせん 誇りの花を


 節をつけてあるが、歌謡よりもかけ声に近いものだ。悠々とした歌が朗々と響き、合間に大きな太鼓のどん、どん、どんという規則的な腹に響く音が挟まっている。直春が一番を通して歌うと、武者たちが下二句を繰り返している。


「まだ聞こえますね」


 安民が顔を戻して再び歩き出した。友茂も震えながら感激した様子だ。


「実に堂々としています」

「いい声だ。さすがは国主様だ」


 則理が兜の上から耳に手を当て、光風がつぶやいた。


「あれは元気が出る」

「安心しますね」


 利静がしみじみと言った。

 豊津城での最後の軍議の終わりに、直春は急に言い出した。


「雪姫殿の料理会の時、俺の歌は好評だった。合戦の時も歌ったらどうだろう」


 田鶴は目を丸くした。


「戦場で歌うの?」

「今回は倍以上の敵と長時間戦い続けなければならない。どうやって武者たちを鼓舞したらよいか、いろいろ考えたのだ。頑張れ、戦えと叫ぶのもよいが、それだけでは限界があると思ってな」


 忠賢は菊次郎と目を見合わせ、おかしそうな顔をした。


「いいんじゃないか。面白い大将だな。俺は行けると思うぜ」


 菊次郎も少し思案して賛成した。


「いつでも効き目があるとは思いません。攻撃の時は歌うより叫んだ方がよいでしょう。でも、苦しい防御の時は、大将の余裕を見せる意味ではよいかも知れません」


 それで直春は菊次郎や和尚と相談して新しく歌を()み、妙姫に付き合わせて節をつけて歌う稽古をし、戦場に臨んだ。急に聞かせて驚かせては意味がないので、昨晩朝霧渓谷で野営した時、武者たちを集めて披露した。両側が切り立った崖の狭い渓谷に朗々とした大きな声が反響し、武者たちはじっと聞き入った。声をそろえて合の手を入れる練習もしたが、思ったよりも好評だった。

 今、直春隊は倍以上の敵と戦っている。武者たちは苦しいだろう。そんな中でこの歌が耳に入れば、恐らく頑張れるはずだ。

 直春の歌は胸に()みいる。上手いからではない。声は大きくよく響くし、節回しも独特で面白いが、それ以上に、歌から直春という武将の人柄が伝わってくるのだ。(ことば)は平凡でひねりや技巧はないが、だからこそ、直春の心の広さ、聞いている人々を大切に思い信頼する気持ちが心を打つ。勇気が湧いてくる歌だった。

 そう思って耳を傾けていると、合の手が大きくなった。秋芝隊の武者たちも歌い出したのだ。やがて両者はまじりあい、一つの大きな声になった。


「僕が歌ってもああはなりません。こっちは必至で戦っているのに、のん気に歌なんか歌いやがってと言われるのが落ちです。他の誰でも駄目でしょう。直春さんだから武者たちも受け入れて一緒に歌おうと思うのです」


 菊次郎がしみじみと漏らすと則理が言った。


「青峰様なら騎馬武者たちも歌うかも知れないよ」

「そうですね」


 直属の九百人は歌うだろう。それだけ忠賢は慕われ尊敬されている。だが、全軍には広がらない。それが直春と忠賢の武将としての型の違いだった。


「菊次郎様は歌えば僕たちも歌います!」


 友茂が言った。まだ怖いらしいが、強がって元気そうな声を出している。


「その時はあたしも歌うよ」

「僕も歌います」


 田鶴と直冬が言い、護衛の他の四人が続いた。


「ありがとう」


 菊次郎は微笑んだ。

 人を信じる直春の人柄を武者たちは知っている。これは去年の湿り原の合戦と大きく違っていることだ。大軍師菊次郎への信頼も高まっている。あの歌声を聞いていると、この戦いは勝てるという気持ちになってくる。


「直冬様、次の手を実行しましょう」


 桜色の甲冑の少年は大きく頷き、腰の刀を抜いて高く掲げ、命じた。


「第三弾の合図をせよ!」


 またもやきんきんが激しく打ち鳴らされた。霧の中でも連絡が取れるように菊次郎が用意した鐘だ。一瞬の間ののち、答えるように激しい鬨の声が西の方から聞こえてきた。後軍の武者たちだった。


「では、総攻撃の合図はお任せします」


 直冬は頷き、再び戦場へ目を凝らした。


『狼達の花宴』 巻の三 霧前原の合戦図 その二

挿絵(By みてみん)


「歌だと! ばかにしおって!」


 持康は手にした槍を振り回した。


「戦場は料理茶屋ではないぞ!」

「まったく、緊張感も何もありませんな。何が永遠(とわ)の絆ですか。呆れますな」


 吉存ははっきりとばかにする口ぶりだった。犬冷扶応は困惑していた。


「大将が歌うとは聞いたことがございませぬ。ですが、効果はあるようですな。敵の武者たちも一緒に歌っておりますぞ」


 蛍居汎満は感心した様子だった。


「歌のせいか、敵は気持ちを一つにして抵抗を続けております。これは手こずりそうですな」


 為続が提案した。


「では、こちらも対抗して歌いますか。若殿だけでなく、我々全員で」


 新旧両家の家老は非難がましい顔をした。吉存は不愉快さを隠そうともしなかった。


「無意味です。戦は遊びではありませんぞ。我々は初代様からお借りした神聖な作戦を実行中なのです。ふざけるなどもってのほかです」


 言いつつも、直春の歌を気にしていることは態度から分かった。宝康の武略の(すい)ともいえる巧妙な奇襲殲滅(せんめつ)戦をしかけられた者たちに、歌を歌う余裕があることに驚き、腹を立てているのだ。

 為続が定恭にささやいた。


「あいつをいらだたせるのも歌のねらいなんじゃないか」

「それはないと思うが……」


 否定したが笑えない気分だった。倍の軍勢に包囲されかかった状況で歌を歌えるとは信じがたい豪胆さだ。そんな相手を前にすれば、吉存でなくても苦虫を噛み潰したような表情になるだろう。また、そういう大将を敵の武者たちがとても信頼していることが嫌でも分かってしまう。


「やはり桜舘家は恐るべき敵だ」


 大将も軍師も非常にすぐれているし、武者も精強だ。六千で一万二千を相手に互角に戦っている。


「どうにかして目の前の敵を崩せないものですかな」


 犬冷(いぬびえ)扶応(すけまさ)がうなった。


「敵の抵抗は予想以上に頑強ですな。これでは包囲しても敵将を討ち取るまでに多大な損害が出ますぞ」

「確かにそうですな」


 蛍居(ほたるい)汎満(ひろみつ)も同感らしい。


「何かよい手は……、そうだ、三角菱を使ってはどうですかな」

「武者たちが持っているあれか」


 持康は考える顔になった。合戦の直前になって分かったのだが、今日の朝食用に配られた握り飯の包みの中に、三角菱が一つずつ入っていたのだ。


「確かにあれをまけば敵は乱れるな。だが……」


 持康はためらって定恭を横目で見た。お米役の職務で兵糧を用意した時、定恭が独断で入れさせたものなのだ。


「不要です。包囲が完成すれば敵は崩壊します。もはや時間の問題なのです!」


 吉存は強い口調で反対した。


「敵中に三角菱をまけば、包囲を狭めて一斉攻撃する時に足元が危うくなります。やめた方がよろしいでしょう」


 自分の予定にないことを他人に追加されるのが嫌なのだ。三角菱が決め手になったら、定恭のおかげで勝てたと言われてしまう。


「初代様の作戦にそんなものは含まれていません。必要ないのです。そもそも、総大将様の許可を得ずに全員に持たせたのは命令違反なのですぞ!」


 二人の家老は若君の表情をうかがい、諦めた。持康も定恭の手柄になることに気が付いて首を振ったからだ。


「残念だったな。記殿は臨機応変という言葉を知らないらしい」

「いや、あれでいい。ここで使う予定ではなかったからな」


 為続に定恭は答え、溜息を吐いた。吉存は自分の作戦にこだわっている。始めに立てたものからずれることを容認しない。状況に合わせて変更する柔軟さを否定しては、苦しくなった時に対応が遅れかねない。


「敵の軍師は自由にやれているようでうらやましいよ」

「銀沢信家の読み通りに戦いは進行しているのか」

「恐らくな」


 少し前、敵先鋒の後方できんきんという音が響き、地面が燃え上がった。続いて矢之根隊にも投げ込まれ、後退していることは連絡が入っている。


「敵先鋒の背後を襲って包囲することはまだできていない。目の前の敵を打ち破る目途も立たない。既に作戦は半分失敗している」

「まずい状況なのか」

「いや、まだ勝負はついていない。包囲を阻止されただけだ」


 包囲が完成してしまうと内側から破るのは困難だ。敵軍師もそう思い、防ぐ策を用意したのだろう。だが、それだけでは不利な状況は変わらない。

 敵の後軍は渓谷を出てこられない。数で劣る先鋒と泉代勢はやがて疲れて抵抗の限界に達する。


「敵軍師がそろそろ次の策を使う頃だろう。逆転して敵が攻勢に回るにはもう一手必要なはずだ」


 定恭は先程から渓谷の方を眺めていた。大分霧が薄くなってきている。燃え盛る炎と立ち上る黒煙が見えるようなっていた。


「何をするつもりなのか」


 つぶやいた時、三度目のきんきんが鳴り響いた。すると、大きな鬨の声が聞こえ、武者たちの驚愕の叫びが続いた。


「どうした!」


 駆けてきた物見兵に吉存が尋ねた。


「て、敵が面高隊に何かを投げ込んだようです!」

「何かとは何だ!」


 吉存が怒鳴った。


「きちんと報告しろ!」

「申し訳ありません!」


 兜の頭を慌てて下げた物見武者を無視して、吉存は西の空をにらんでいた。



 面高隊は桜舘家の後軍を押し込んだあと、距離を置いて停止していた。

 役目は彼等を渓谷から出さないことなので、無理に攻める必要はない。敵将直春が討たれて追撃戦が始まった時に手柄を立てればよい。敵も一息ついて乱れかけた隊列を整えている。


「逆襲の機会をうかがっているようだが、この場所では正面からしか攻撃できない。守り切れるだろう」


 面高求紀(もとのり)は敵を観察して考えていた。敵は一旦後退したが大きな損害を出していない。東では主力や主君が戦っているのだから、このままじっとしてはいないだろう。


「油断するなよ。すぐにまた攻めてくるぞ」


 そう部下に声をかけた時、遠くできんきんが響いた。

 途端に目の前の敵が大きな鬨の声を上げた。同時に、手に握れるくらいの葉に包まれた玉がたくさん飛んできた。地面にぶつかるとべしゃっと音がし、破裂して包まれていたものを飛び散らせた。


「今のは何だ。何を投げ込まれた! 報告せよ!」


 求紀(もとのり)が急いで周囲に問うと、拾い上げた武者たちは言葉を失っていた。


「こ、これは……」

「どうした!」

「さ、里芋です! 生の芋です! 皮をむいてあります!」

「こっちは厚く切った皮だ!」

「山芋もあります! 芋と皮、両方です!」

「緑や茶色の海藻もあるぞ! 濡らして刻んである! うええ、ぬめぬめする!」


 求紀(もとのり)は呆気にとられた。


「敵は何をするつもりなのだ。芋鍋でも作るつもりか?」


 思わずばかばかしいことを口走った時、桜舘軍が雄叫びを上げながら前進してきた。

 求紀(もとのり)ははっとして命じた。


「攻めてくるぞ! 守りを固めよ!」


 桜舘勢は槍を向けてぶつかってきた。


「勢いに負けるな! こちらは敵の倍だぞ!」


 求紀は叫んだが、返事は武者たちの悲鳴だった。


「芋を踏んでしまった! あ、足が滑る!」

「こっちには皮があった! 踏ん張りがきかない!」

「海藻のぬるぬるで、下の石がつるつるになっている! うわあ!」


 武者たちが次々に転び始めたのだ。

 しかも、そこへ、前の方から更なる悲鳴が起こった。


「め、目つぶしだ! 前が見えない!」

「何っ?」

「槍の穂の根元に小さな袋が付いていて、刺激の強い粉が入っています! 槍を振るたびにまき散らされて、目を開けていられません!」


 面高隊の最前部の数百人は、目つぶしをまともに食らって戦闘不能に陥っていた。風は渓谷の中から外へ向かって吹いているので、桜舘軍の方には飛んでいかない。


「下がるな! 後ろまで混乱する! 持ち場を守れ!」


 求紀は怒鳴ったが、目が見えず、足元が不確かな状態で敵の前に立つくらい恐ろしいことはない。武者たちは敵に背を向けて味方の中に逃げ込もうとした。桜舘軍はそれを追いかけて槍を突き入れ、さらに目つぶしの被害者を増やしていく。その上、足元には芋と海藻が落ちている。混乱は部隊全体に広がろうとしていた。


「敵軍師の策か。やってくれる!」


 面高求紀は悔しがった。警戒していたのに見事に崩された。だが、このままでは潰走(かいそう)しかねない。一千六百の桜舘軍は先程までの弱腰が嘘のように大きな鬨の声を上げながら前進してくる。


「敵は慌てているぞ! 今こそ好機! 先程のお返しだ! 一気に押し返せ!」


 後軍の将蓮山本綱が叫んでいる。


「目と足を攻められ、敵は勢いに乗っている。ここに踏みとどまるのは難しいか」


 求紀が迷った時間はわずかだった。


「やむを得ん。一旦下がる。混乱せぬようゆっくりと後退せよ。敵も足元が悪いから急追はできない。落ち着いて行動するのだぞ!」


 先程出てきた森の前まで戻って整列させよう。そこまでなら敵を渓谷から出すことにはならない。そう考えて、求紀は武者たちを励ましたが、桜舘軍の勢いは激しく、面高隊の後退速度は次第に上がっていった。


「まずいな。これでは下がりすぎてしまう」


 求紀は内心焦ったが、その心配は無用だった。いくらも行かないうちに後方で悲鳴と大きな騒ぎが起こったのだ。


「み、味方が後ろにいる! つっこんでくるぞ!」

「何っ?」


 追ってくる敵を気にしていた求紀が東を見ると、泉代勢と直冬隊に押された矢之根隊が自隊の後部になだれ込んできていた。


「まずい! 混乱するぞ! 押し出せ!」

「無理です! もう中まで入ってきています!」


 あっという間に面高隊と矢之根隊合わせて六千はぶつかり合ってまじり合い、隊列がぐちゃぐちゃになった。


「ここで総攻撃されたら……」


 西から蓮山本綱の後軍一千六百、東から八百と一千に包囲されていた。

 その時、きんきんがまた聞こえてきた。丸いものが大量に降ってきた。


「今度は何だ!」

「緑色の球です! 白い煙が出ています! 燃え上がったものもあります!」

「油玉と煙玉か!」

「海藻や芋もまじっています!」


 求紀が叫んだ時、男の子の高い声が戦場に響いた。


「三軍、総攻撃せよ! 敵は混乱している。今こそ勝利の時だ!」

「桜の御旗(みはた)に栄光あれ!」


 桜舘軍の武者たちは一斉に叫び、六千の増富軍に突進した。


「げ、迎撃せよ!」


 二人の家老は絶叫したが、もはや統制は失われていた。東と西から挟み撃ちにされ、足元に火をつけられ、煙もひどくなってきた。芋や海藻や多数の玉で、抵抗しようにも足場が悪い。桜舘軍はありったけの煙玉や油玉、さらには矢を大量に射込んでかき乱した。


「も、森に逃げろ!」


 誰かが叫ぶと、武者たちは一斉に最初にひそんでいた森を目指した。


「待て、逃げるな!」


 森に入れば隊列などなく、部隊の(てい)をなさなくなる。家老たちは必至で止めようとしたが、既に不可能と悟り、一緒に逃げ出すしかなかった。


『狼達の花宴』 巻の三 霧前原の合戦図 その三

挿絵(By みてみん)


「何だ! 何が起こっている!」


 吉存は怒鳴った。余裕を装うのを忘れている。


「面高隊と矢之根隊が包囲され、崩壊しつつあります。このままでは間もなく潰走(かいそう)します」


 物見兵も顔色が青い。


「なぜだ! なぜ初代様の作戦が失敗する!」


 吉存は叫んだが、持康と二家老の視線に気が付いて口をつぐんだ。

 犬冷扶応は深刻な表情だった。


「若殿、これはまずい状況ですぞ。あの二隊が負けたら包囲は不可能になり、勝利は難しくなります」


 蛍居汎満も事態を憂慮していた。


「それどころか、後方の敵がこちらに来ますぞ。包囲されるのはこちらになります。何か手を打つべきですな」


 二人の家老の助言を受けて、持康がお側役(そばやく)に尋ねた。


「吉存。どうやって立て直せばよい。教えてくれ」


 吉存は呆然としていたが、すぐに考え始めた。


「こんな状況は知りませんぞ。一体どうすれば……」


 ぶつぶつとつぶやいていたが、急に顔を上げて進言した。


小薙(こなぎ)殿の二千を救援に向かわせましょう」


 自分でよい案だと何度も頷いている。


「あの二千はまだあまり傷付いていません。元気な部隊が到着して敵を押し返し味方を励ませば、混乱も収まるでしょう」 

「ちょっと待て」


 為続は驚いた。


「敵の前進を阻んでいる壁を壊すのか。側面を守っている敵勢一千がこちらへ来るぞ」

「ここにいる敵は両隊合わせて二千五百、この本隊は四千、負けはせず、敵に橋を渡らせない状態を維持できるはずです。こちらより面高隊と矢之根隊の方が危険です。あの二隊は我が軍の半分です。潰走したら桜舘軍の撃破は困難になり、裾深城を落とすこともできなくなります」


 吉存は持康に許可を求めた。


「この作戦は初代様の最高傑作なのです。こちらが負けるはずはありません。もはや敵軍師の策もつきたことでしょう。あの二隊を立て直せばこちらの大勝利なのです」

「まだそこにこだわるのか! 現実を見ろ! 定恭、どうしたらよいと思う?」


 持康と両家老の目が注がれた。


「恐れながら、申し上げます」


 定恭は進み出て口を開いた。


「あの二隊を救うのは難しいと考えます。恐らくもう潰走が始まっているでしょう。こちらは今の位置を維持して敵の前進を阻みつつ、本隊のうち二千を()いて森側に配置し、逃げてくる味方の武者を誘導して橋を渡らせ、向こう岸で整列させましょう。幸い、火の壁があるため、二隊を攻めている敵もこちらに来るには森を抜けなければならず、陣形を組んだまま追撃はできません。それを食い止めつつ次第に下がり、全軍が渡ったあとで橋を破壊して敵を対岸に残し、城を包囲する部隊と合流しましょう。これなら少ない損害で後退できます。あとのことはそれから考えればよいと思います」

「つまり、もはや勝利は難しいというのだな」

「その通りです」


 定恭は持康の言葉を肯定した。


「よし、では、すぐに小薙隊を救援に向かわせろ。あの二隊を立て直せ。吉存の策を取る」

「若殿、お待ちください!」

「為続、うるさいぞ! 俺は逃げん。この戦いに勝って五形に凱旋(がいせん)するのだ。勝ち目は残っているのだろう?」

「はい、まだ負けてはおりません」

「記殿、引き時を間違えるな!」


 為続が声を(あら)らげた。


「間違えてなどおりません! 我等には宝康公のご加護があります。初代様の作戦を忠実に再現したのですから、必ず最後には勝利するはずです!」

「よし。伝令兵、小薙隊に指示を伝えよ!」

「ははっ!」


 持康の命令で武者が走っていった。


「お米役の意見など聞いたのが間違いだった。時間の無駄だったな」

「発言しないという約束でしたぞ」


 定恭は黙って頭を下げた。両家老は顔を見合わせたが黙っていた。

 定恭が隅に戻ると、為続が近付いてきて深い溜め息を吐いた。


「これは負けたかもな。記殿はなぜこの作戦にこだわるのだろうな」

「自分が宝康公に匹敵する英雄だと示したいようだな。そのために過去の成功例をまねたのだ」


 定恭は自分でも意外なほど冷静だった。予想していた事態だったこともあるが、吉存の失敗に対する腹立ちよりも、敵軍師の策に感心する気持ちの方が強かったのだ。


「俺たちは敵の間に分け入り、分断して大将を包囲し討ち取るつもりだった。だが、そのためにこちらも部隊を分けてしまったのだ。一万二千の大軍が、最大でも四千の四隊になって、別々に行動した。それを一つずつつぶされた。大軍より少数の部隊の方が混乱させやすいからな」


 浮寝の横槍では、敵の前を塞ぐ部隊、中央に分け入って前半を後ろから包囲する部隊、後半を抑え救援を阻止する部隊の三つが最低必要になる。敵軍師はそれを読んで、各個撃破をねらってきたのだ。


「この作戦は駄目だったのか。俺はよい作戦と思ったが」

「駄目ではないさ。現に初代様は勝っている。だが、今回は三百年前と条件が違った」

「どう違うのだ」


 為続は首をひねった。


「浮寝の横槍の時、反乱軍は寄り合い所帯で物事を合議で決めていた。旧国主家の一族の元家老を大将に担いでいたが、その下の順位は決まっていなかった。だから、分断されると大将のいない方は身動きが取れず、味方が壊滅するのを指をくわえて見ているだけだった。宝康公はそうなると見抜いていたから、強引に敵中に突入し、大将を包囲して討ち取ろうとしたのだ。

 一方、桜舘軍は直春公以外に大軍師や有能な家老がいる。事前に予測していたから準備もあり、分断されても個別に判断して動くことができた。歌っている敵武者も、味方が後方で勝利して駆け付けてくると信じているから持ちこたえられる。基本的な条件が違ったのだ」


 定恭は語りながら次第に早口になった。軍学好きの血が騒ぐのだ。


「記殿は華々しい勝利にばかり目が行って、本質を見ていなかった。宝康公が成功したのは、敵が誰であっても勝てる強力な作戦だったからではない。敵の弱点を見抜いてそこをついたからこそ名将なのだ」


 為続は驚きを浮かべて耳を傾けていた。


「二度と同じ戦いはない。歴史は同じことを決して繰り返さない。人は繰り返そうとするがな」


 定恭は数多くの戦いとその背景に詳しかった。


「勝利には必ず理由がある。その要点を見抜いて応用することには意味があるが、形だけまねをしてもうまくは行かない。物なら技術や道具や材料がそろえば同じものを作れるが、相手や状況が変化するものは、その時々に合った工夫をしなければならない。だから、過去の天才と同じことはできない。凡人にはなおさらだ」


 為続はその通りとも違うとも言わなかった。定恭は相手の意見を問うことはせず、言葉を続けた。


「記殿は作戦を絶対的なものと考えた。状況に合わせて策を立てるのではなく、策に状況を合わせようとした。それでは必ずどこかに無理が出て、失敗しやすくなる」

「初代様の作戦の再現にこだわりすぎたわけか」

「俺は思うのだが、頭のよい人とは、他人の意見や計画を批判したりうまくまねたりできる人ではない。よりよいものやその時々にふさわしいものを考え出せる人のことではないだろうか。記殿は作戦を自分で考えず、初代様に頼ろうとした。新しいものを思い付けない自分を認めたくないから権威あるものへ逃げたのだ。そもそも、自分のやり方を編み出すのではなく、誰かのやったことをまねして同じ利益を得ようという発想自体が凡人のものだ。うまく行かなかったらどうするつもりだったのだろうな」

「考えていなかったようだな」


 為続は苦々しげに言い捨てた。持康のそばで吉存は見るからに青い顔をしている。


「こんな状況は浮寝の横槍にはなかった。どうすればよいのだ。そう思っているな」


 口に出してはいないが心の声が聞こえてくる。


「他人から借りたものが失敗した時、その人の本来の実力が現れる。あれが本当の吉存殿だ。仕方ないさ。戦に出るのはまだ二回目だからな」


 定恭は少し呼吸を落ち着けて、口調を元に戻した。


「記殿は商工方で豪農や商人の仲立ちをしていて交渉には自信があり、南谷家もそれで落とした。しかし、軍学は学舎で修めただけで実戦経験はなかったから、何かに頼りたかったのだろう」


 定恭を批判し見下していたのは自信のなさの表れだったのだ。


「やはりお前が作戦を担当するべきだったな」

「俺にも問題はある。なにせ、味方が負けつつあるのに、敵軍師の作戦に感心して興奮気味だからな」


 定恭は趣味として軍学を楽しんでいる。吉存はこの学問に名誉や出世や成功を求め、楽そうな方法に飛び付いた。どちらが軍学の本来かと言えば実利の方だろうが、そうした者たちは欲に引っ張られて目が曇りやすい。純粋に学ぶことを楽しむ者は冷静に事実を見られるが、どこか人事(ひとごと)のようで切迫感が薄い。


「敵軍師は間違いなく俺の同類だ」


 定恭はつぶやいた。銀沢信家は浮寝の横槍の本質を見抜いたのだ。恐ろしい相手だが、吉存よりよほど理解できる。


「さて、敵は最後の仕上げをどうするのだろうな」


 為続はぎょっとした顔をした。


「まだ何かあるのか」

「さっき言っていたじゃないか。記殿をいらだたせて判断を狂わせるのがねらいではないかと。記殿は作戦が予定通りに運ばないことに焦ってその利点を自ら捨ててしまった。敵の分断は失敗し、今や孤立しているのはこの四千だ。俺ならここに大将がいると読む。負けた時一番撤退しやすい位置だからな。宝康公は自ら分け入る部隊の指揮をとられたが、持康様の評判を知っていれば敵中に突入させるとは思うまい」

「確かにな」


 為続は笑わなかった。


「敵は総大将をねらいに来るのか」

「そうだ。若殿の重要性は敵も分かっているはずだ。討てれば当家を当分動けなくできる」


 持康は正室のただ一人の男児だ。死んだら新旧両家がそれぞれ跡継ぎ候補を担いで争い始める。家中が分裂して内乱が起きかねない。


「味方は遠くにいて半分は潰走中だ。小薙隊から解放された敵一千は自由に動けるようになった。攻めるなら今だ。いよいよ敵軍師の奥の手が来るぞ」


 定恭は意味ありげに小声になった。


「俺はそれに備える。若殿を頼む」


 為続はしっかりと頷いた。


「分かっている」

「では、森へ行く」


 持康と吉存は接近してくる一千の敵に対処すべく次々に命令を出している。定恭は気付かれぬようにそっと本陣を去った。



「食べ物を無駄にしたから(ばち)が当たるかもね」


 田鶴が地面を見て顔をしかめている。踏まれてつぶれた白い芋がたくさんあった。

 安民と則理が菊次郎をかばった。


「おいしい部分は食べました。厚く向いた皮と、あくの強い親芋を切ってばらまいたんです」

「戦場であく抜きはしていられないからね」

「家でならできるじゃない」


 田鶴は食料事情のよくない村の出身なので、食べ物を粗末にするのが嫌いなのだ。雪姫が食事を残すともったいないと言って引き受けている。


「でも、効果は絶大だった」

「本当に。驚きました」


 光風と利静が言うと、人々は移動する荷車の上を見上げた。菊次郎は戦場を見渡していたが、畏怖(いふ)の視線に気付いて微笑んだ。


「うまく行ってよかったです。食べられる芋を使うことに抵抗があるのは分かりますが、怪我人や死人を多く出すよりはいいでしょう」

「それはそうだけど」


 田鶴も分かってはいるが腹が立つらしい。 

 ちなみに、海藻はあまり食べない種類のものなので文句は言わない。干して束にして持ってきて、川の水で戻して刻んだのだ。


「食料と武器を兼用とは驚きだね。敵が荷車の上を見たとしてもあの攻撃は読めなかったろうな」

「菊次郎様の作戦、おそばで拝見できて感激しました」

「すごかった」

「まさに大軍師様ですね。全て計画通りでした」


 四人は興奮気味だったが、友茂だけが黙っていた。理由は分かっているので誰も声をかけない。

 先程、直冬は見事に好機をつかんで総攻撃の命令を出した。攻撃は大成功し、六千の敵は潰走した。直冬と実佐たちは追撃して森に突入している。

 友茂は荷車を引きながら小さく溜め息を吐いた。利静が肩を軽くたたいてやっている。

 直冬は命令を下す直前まで不安そうだったが、その時が来ると迷わなかった。菊次郎に目を向け、頷くのを確認すると、きっぱりとした口調で堂々と命令を叫び、自ら護衛を連れて敵に向かっていった。

 友茂は二歳年下の直冬にかなわないと思ったのだ。まだ怖がっている自分が情けないのだろう。

 だが、それは自分で越えるしかない。誰かが助けてやれることではなかった。

 心の中で応援して、菊次郎は戦場に目を戻した。直春隊の歌がやんでいる。敵の本隊が攻めるのをやめて橋の方へ後退したので、彼等もやや下がったのだ。かわりに大きな太鼓の音がする。だだだだ、だだだだと四連打だ。攻撃の準備ができた合図だった。側面に立ち塞がっていた敵がいなくなったので、景堅の一千も直春隊と並ぶ位置へ進みつつあった。


「とうとう敵は焦りましたね。『これはまずい!』と」


 友茂が顔を上げ、精一杯明るい声で言った。則理と安民が反応した。


「作戦の立て方の話だね」

「敵の新軍師は予定が次々に狂って、こんなはずではなかったと思っているでしょうね」


 光風と利静も加わった。


「きっと慌てる」

「その結果、失策を犯して自ら不利を招いてしまうのでしたね」


 友茂は不安の中でも目を輝かせていた。


「横を攻めていた敵が移動し、秋芝様の隊も敵の本隊を攻撃できます。ここで勝負を決める策の発動ですね!」


 菊次郎は頷いた。


「では、最後の手を打つとしましょうか。皆さん、準備をしてください」


 五人は荷車を止め、積まれていた大きな丸太を下ろすと全員で持ち上げた。

 地面に下りた菊次郎は黒い軍配を高く掲げ、勢いよく振り下ろした。


「どうぞ!」

「せえの!」


 五人が息を合わせて丸太を動かし、つってある鐘をついた。

 ごうん、と耳がおかしくなりそうな大きな音がした。まだ戦場に響いたことがない音だった。これまでの攻撃命令は直冬隊の鐘持ち役が出していたのだ。


「もう一度。そうれ!」


 ごうん。ごうん。

 十回鳴らして、五人は丸太を下ろした。


「ふう、重かった」

「でも、絶対に聞こえましたね」


 光風が首の動きで肯定し、利静が言った。


「いよいよ仕上げですね」


 菊次郎は荷車に上がらず、そのまま歩き出した。


「さあ、直春さんのところへ行きましょう」

「うん。行くよ、真白」


 大きな音に驚いて足にしがみついていた小猿を肩に乗せると、田鶴が隣に並んだ。荷車を引く五人もすぐに付いてきて、東を目指した。



「今の音は何だ!」


 持康は床几から跳び上がるように腰を上げた。きょろきょろと辺りを見回している。二人の家老も不安を隠せなかった。今まで敵の鐘の音が聞こえるたびにうれしくないことが起こったからだ。


「敵軍の方から聞こえましたな」

「何の合図でしょうな」


 軍師の返事を期待したが吉存は無言だった。顔が白く表情がない。まだ何かあるのかと衝撃を受けている。状況がもはや手に負えなくなっているのだ。


「これか」


 為続がつぶやいた。


「定恭が言っていたやつだ。恐らく攻撃命令だろう。ねらいはこの本隊だな」

「誰への命令だ?」


 持康が反応した。


「目の前の敵か? 特に変わった動きはないぞ」


 二人の家老は顔を見合わせた。


「確かにそうですな」

「数は増えましたが停止していますな」


 一千が新たに加わったが、敵は距離を置いて一息入れている。持康の本隊もこちらからの攻撃はやめ、にらみ合っている。為続は腕組みをして考えた。


「いいえ、きっと攻撃の指示です。ですが、今までと鐘の音が違い、ずっと大きく感じました。かなり遠くまで届いたはずです」


 二家老は首を傾げている。


「遠くまで、ですと?」

「あのきんきんは充分ここまで聞こえましたぞ」


 為続は目を見開いた。


「そうか。ここにいない、もっと遠くにいる相手に届き、他の命令と間違えないように鐘を変えたのです」

「つまり、新手か!」


 持康が叫んだ時、遠くから鬨の声が聞こえてきた。


「後ろだ! 山懐(やまふところ)街道だ!」


 川と橋の向こうで錦木家の城へ向かう街道が裾深街道から南へ別れている。そこに薄い霧の中から多数の騎馬武者が現れた。

 先頭を走る青い鎧が叫んだ。


「青峰隊、見参!」


 忠賢は愛用の槍を掲げて高らかに笑った。


「待ちくたびれたぜ。敵の大将は俺たちが頂く!」


 土長城で別れたあと、開飯城の増富軍に動きがないのを確認すると、山懐街道を進んで錦木領から北上してきたのだ。食事と寝床を錦木家に依頼したので騎馬隊の移動は素早く、直春たちより先に戦場にたどり着いていた。


「敵は背を向けているぞ! 野郎ども、突撃だ!」


 九百人が一斉に鬨の声を上げた。裾深街道へ出ると橋を渡り、隊列を整えて持康の本隊の背後へ槍をねじ込んだ。

 前方では桜舘直春が、一千五百の先頭に立って向かってくる。


「忠賢殿に遅れるな! 総攻撃だ! 俺についてこい!」

「敵は動揺している! 今こそ好機! 突き崩せ!」


 家老の率いる一千も包囲するように持康隊の側面を攻撃した。


「やられた! これがねらいだったのか!」


 直春は歌を歌ってねばりながら、この瞬間を待っていたのだ。


「だが、なぜ背後に回られるまで気付かなかった。あの鐘が聞こえるなら、隠れていたのはかなり近い場所のはずだ!」


 為続が叫ぶと、吉存がうなった。


「霧のせいか」


 森にひそむ味方を隠しただけでなく、敵の別働隊も見えなくしていたのだ。

 持康が金切り声で命じた。


扶応(すけまさ)! 矢で追い払え!」

「もうほとんど残っておりません! 敵を包囲できず戦いが長引いたせいです!」

「ならば、汎満(ひろみつ)! 森に送った小薙隊を呼び戻せ!」

「とても間に合いませぬ! 挟み撃ちにされたらいくらも持ちませぬぞ!」


 持康は事態のまずさをようやく悟って愕然とした。


「まだ死にたくないぞ! 俺を助けろ!」


 慌ただしく走り回る騎馬武者やそばまで迫った激しい剣戟の音におどおどしながら持康はわめいた。


「まずい、まずいぞ。若殿を早くお逃がししなくては!」

「馬廻り、ここへ集まれ!」


 二家老は叫んだが、もはや周囲は大混乱だった。


「記殿、一時後退の命令を!」

「そ、そうですな。それしかありませぬ。さあ、どこへ移動させますか。早く指示を下され!」


 家老たちは迫った。


「ですが、それを命じれば総崩れになります!」


 吉存が決断できないでいる間に、為続は自家の一千五百貫四十五人を呼び寄せて持康の周囲を囲んだ。


「若殿、ご安心ください。こちらには定恭がいます」

「おお、何か策があるのか!」


 (わら)にもすがる様子の持康に頷いた時、新たな鬨の声が上がった。南の森からだった。


「敵の背後をつけ!」


 馬にまたがった甲冑姿の定恭が三百人の(かち)武者を率いて走り出て、忠賢隊に火と煙の出る玉を投げ込み、後ろから襲った。前回の戦いで菊次郎が使った油玉を見て、まねて作らせたものだ。


「うおっ、あんなところに敵がいたのか! ちいっ、一旦下がれ!」


 忠賢は驚いたがすぐに指示を出して景堅隊の方へ向かわせ、武者をまとめると攻撃を再開した。

 だが、為続にはそれで充分だった。


「若殿、こちらへ」


 忠賢隊が移動して包囲が崩れると、武者たちに命じて持康を担がせ、みこしのようにして河原へ下りた。五艘の小舟は定恭の指示を受けて、いつでも出発できるように準備していた。砂鳥家は漁業の家なので、その伝手(つて)で白鷺川の熟練の漁師を雇ったのだ。


「若殿、気を付けてお乗りください」


 言葉だけ丁寧に船に放り込むと、四十五人全員が乗り込んだのを確認し、船を出した。五艘は勢いよく川を下り始めた。


「ど、どこへ行くのだ」


 我に返った持康に、為続は片膝をついて頭を下げた。


「五形城までお送り致します。水の上は安全でございますが、念のため矢にはご注意ください」

「助かったのか……」


 気が抜けたように船端に座り込んで大の字に背を預けた持康は、ふと気が付いて尋ねた。


「この舟はお米役が準備したのか」

「左様にございます」

「そうか……」


 持康はそれ以上何も言わず、霧がすっかり晴れた秋の青空を見上げていた。



 一方、定恭は忠賢隊を追い払うと二家老に近付いた。


「非常事態の笛を鳴らしましょう」


 全員に即時撤退を命じる吹き方だ。


「し、しかし……」


 犬冷扶応はためらった。


「若殿は脱出されました。これ以上ここにとどまる理由はありません。一人でも多くの武者を逃がすのが指揮をとる者の役目です」

「やむを得ぬか」


 蛍居汎満は旧家で定恭に好意的なので、悔しげだったが受け入れた。既に部隊を立て直すのは困難で敗北は明らかだったが、決定的な一言を自分が言いたくなかったのだ。むしろ逃げようと進言してくれて内心では喜んでいるらしい。


「だが、どうやって撤退する。こちらが逃げ出せば敵は一斉に追ってくるぞ」

「もう追い払う矢はないのだぞ!」

「そのための笛です」


 二家老は首を傾げたが、そばの笛役五人に命じた。


「戦場全体に聞こえるように大きく響かせよ」


 五人は身を()らせて息を吸い、全力で耳を塞ぎたくなるような音を出した。

 すると、急に戦場が静かになった。増富軍の武者たちは意味を悟って憮然(ぶぜん)とし、桜舘軍は何事かと警戒したのだ。

 その一瞬をねらって、定恭は砂鳥家で一番声の大きな武者に叫ばせた。


「握り飯のおかずを敵に投げよ!」


 首を傾げた武者たちははっとして、兵糧の袋に手をつっこみ、それをつかむと近くの敵軍に放り込んだ。


「これは三角菱か!」


 直春の叫び声が聞こえ、桜舘軍が混乱した。踏み抜いたら具足といえども大怪我をする。

 敵の動きが止まった瞬間、定恭はもう一度撤退の笛を吹かせ、大声で叫ばせた。


「引け! 引けえ!」


 増富家の武者たちは一斉に敵に背を向けて橋に向かった。


「慌てるな! 川の向こうは安全だ!」


 定恭隊の二百七十人が橋を守って味方を誘導する。忠賢隊の背後をついたあと、そうするように指示しておいたのだ。


「記殿!」


 定恭は歩み寄って、呆然としている同僚に声をかけた。


「しっかりしろ。貴殿の役目はまだ終わっていないぞ!」


 吉存はうつろな目を向けた。


「もう終わりましたよ。我が軍は崩壊、総大将は逃亡、当家の歴史に残る大敗です。私はもう全てを失いました……」

「ばか者!」


 定恭は吉存の背中を強くたたいて叱り付けた。


「若殿がいない今、誰が軍勢をまとめるのだ。放っておいたら全滅するぞ!」


 定恭は吉存の肩に右手を置いて揺さぶった。


「この作戦を立てたのは貴殿だ。最後まで責任を持って役目を果たせ。武者たちを無事に国に帰すんだ。そこまでが軍師の仕事だ。そうしなければ、君も俺たちも生き延びることはできない!」


 吉存は目を見開いた。みるみる表情に生気が戻っていく。


「軍師の仕事……、私の役目……」

「できるな」

「できます」


 吉存は今までで一番真剣で覚悟に満ちた顔つきだった。


「では、俺は対岸で武者をまとめ、城を囲む味方の方へ向かわせる。そちらにはもう、包囲を解き、食料と武器だけ持って移動の準備をしろと言ってある。まずは彼等との合流を目指そう」

「では、私はここで敵を食い止め、できるだけ多くを逃がします」

「もう無理だと思ったら、まだ味方がこちら側にいても橋を落とせ。大丈夫、帯を差し出せば殺されない」


 湿り原の合戦のあと、城を攻めた宇野瀬家の武者たちは助命され、捕虜の待遇は悪くなかったそうだ。敵軍師銀沢信家は定恭と同じように、憎しみや欲のためではなく、純粋に自分の力を試し主君を助けるために戦っている。ゆえに無意味な残酷さとは無縁のはずだった。


「味方より敵の方が信頼できるとは」


 定恭は苦い気分だった。


「では、あとは頼む」


 吉存はしっかりと頷き、二家老のもとへ走っていって、武者たちに矢継ぎ早に指示を出し始めた。


「もう大丈夫だろう」


 定恭は一千貫三十人の家臣を連れて橋を渡り、対岸で武者たちに声をかけて、城を包囲していた味方が移動した場所を教えた。


『狼達の花宴』 巻の三 霧前原の合戦図 その四

挿絵(By みてみん)

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