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狼達の花宴 ~大軍師伝~  作者: 花和郁
巻の三 隣国の依頼
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(巻の三) 第四章 料理会

 菊次郎が襖を開けると、待っていた人々は天額寺(てんがくじ)の客間で退屈そうにしていた。


「やっぱり攻めてきそうですか」


 楡本(にれもと)友茂(ともしげ)は二歳の男の子をあやしていたが、立ち上がって急須を手に取った。


「間違いないですね。大評定で今年の増富家の目標が茅生国の完全制圧に決まったそうです」

「事実上の攻め込むぞ宣言だねえ。よっぽど勝てる自信があるのかねえ」


 笹町(ささまち)則理(のりまさ)は縁側の日陰で柱に寄り掛かっていた。戦場では警戒心が強いが、普段はのんびり屋なのだ。紫陽花月(あじさいづき)に入って暑くなってきたので団扇(うちわ)であおいでいる。主君に対する態度ではないが、年も近いし、菊次郎もうるさいことを言わないので、皆自由に振る舞っていた。


「また一万四千かなあ。もっと多いのかなあ。米がたくさんいりそうだなあ」


 則理は数字に強く、泥鰌縄手の時は各船に割り振る人数や必要な兵糧などの計算で大いに菊次郎を助けた。小荷駄隊を率いるのは別な武将だが、指示や各種の手配など軍師の仕事は多いのだ。


「前回以上の兵力差ですか。それはきつい戦いになりそうです」


 蕨里(わらびさと)安民(やすたみ)も友茂と一緒に子供と遊んでいた。柏火(かしわび)光風(みつかぜ)が弓の手入れをしながら無言で首を縦に動かした。


「騒がしくてすみません」


 きゃっきゃと笑い声をあげている小太郎の父親は槙辺(まきべ)利静(としきよ)だ。妻が用事で出かけるので子守を頼まれたのだ。女中も丁度留守でして、と恐縮する利静に、護衛される菊次郎はかまわないと言い、寺院まで連れてきた。


「元気なよい子ですね」


 菊次郎の笑みに利静は表情をやわらげたが、すぐに心配そうな様子になった。


「宇野瀬家はどうしていますか。出陣した隙を襲われないでしょうか」

「それは大丈夫みたいです」


 一緒に話を聞いてきた直冬が答えた。


「反乱が何度も起こっているらしいです。ね、師匠?」

「新しく連署になった骨山(ほねやま)願空(がんくう)が政敵を追い詰めて挙兵させ、滅ぼしているんです」

「それは和尚の情報か?」


 忠賢は畳に片手で頭を支えて寝転がっていた。


「そうです。道果(どうか)亡きあとも宇野瀬家が分裂せぬようにするためだと、願空は言い放ったそうですよ」


 菊次郎は友茂が入れてくれたぬるい茶を受け取って、和尚から聞いたことと隠密の集めた情報を話した。


「湿り原の合戦後、宇野瀬家は鮮見家と同盟し、成安家を東西から挟むことで動きにくくしました。攻められる心配をなくしておいて、邪魔者の排除を始めたのです」


 願空はどの乱も数日で片付けた。前連署の倫長(のりなが)に味方していた大物が数人討たれたことで、反抗する者はかなり減っている。


「それでも家中がまとまるにはしばらくかかるでしょう」

「つまり、こちらを攻める余裕はないってことか」

「今はそうでしょう。一年後は分かりません」


 聞こえてくる噂では、十八歳の当主長賀(ながよし)と願空の関係は良好だ。願空の養女琴絵(ことえ)との夫婦仲もうまく行っている。一時危篤と伝えられた宇野瀬道果は生き延びたが、もはや床を離れることはできず、会話もほとんどできない状態だという。願空は倫長の息子から財産の八割を没収し、その金で領民に麦や炭を配り、捕虜の身代金の半分を支払ったので、民にも家臣にも長賀は人気がある。豊津との交易も再開し、城下の商人たちと関係を修復して財政を立て直しつつあるようだ。


「主だった政敵を排除したあと、願空と宇野瀬家がどう動くのか、注視する必要がありそうです」


 子供のそばに戻った友茂が尋ねた。


「成安家は福値(ふくあたい)家に同盟を持ちかけたと聞きました。宇野瀬家は苦しいのではないですか」

「福値家は北へ目を移したようです」


 (かかと)の国の北部に勢力を張る福値家は、増富家と協力して宇野瀬家を攻めていたが、湿り原の合戦の結果を聞くと、反転してそのまま北の速汐国(はやしおのくに)へ侵攻した。連署で事実上の当主の福値隆親(たかちか)は、宇野瀬家が体勢を立て直すまでしばらくかかり、背後を襲われる危険はないと踏んだのだ。戦上手な隆親は、福値家は南で戦っていると思っていた肘木(ひじき)家を急襲し、一気に撃破、滅ぼして八万貫を手に入れた。現在は田鶴の故郷の声返国(こえがえりのくに)を攻めているらしい。


「福値家は成安家と同盟する条件として、自家を探題(たんだい)家と認めるように求めました。これに氷茨元尊や家老たちが難色を示し、話がまとまらなかったという噂です」


 旧探題家の当主の養子になって福値の姓に変わったとはいえ、元は副探題家だ。五百年探題の職を受け継いできた成安家としては、六十万貫ほどの家と対等の立場になるのは誇りが許さなかったらしい。


「名家だからって戦に勝てるわけじゃないんだがねえ。宇野瀬家が大人しくなれば眼鏡野郎は随分助かるだろうに」


 忠賢は辛辣(しんらつ)な口ぶりだった。則理がこれにのんびりと調子を合わせた。


「元尊は当主の養女を嫁がせると言ってだましたんだよねえ。全然名家らしくないよねえ」


 安民や光風も続いた。


大鬼(おおき)家もそうでした。桜舘家の分家なのにひどかったです」

「誇りがあったらできない」


 菊次郎は元尊の立場や考えも分かると思った。


「戦狼の世でも、伝統や血筋、家柄や格式にはそれなりに価値がありますよ。直春さんもそれで当主になれましたし」


 菊次郎は先程漢曜(かんよう)和尚に聞いた話を披露した。


「背の国の報徳院(ほうとくいん)家が都から高桐(たかぎり)家の一族を招き、御所を築いて安鎮総武大狼将(あんちんそうぶだいろうしょう)を名乗らせました。翼輔(よくほ)副狼将(ふくろうしょう)に任じられ、周辺の封主家に命令に従えと要求しているそうです」


 利静は驚き、考える顔になった。


「思い切ったことをしましたね。天下様が二人になったわけですから」


 玉都(ぎょくと)にも総狼将(そうろうしょう)がいて、周辺を支配する蟹坂(かにさか)立政(たつまさ)翼輔(よくほ)正狼将(せいろうしょう)に任じている。


「高桐家の権威も随分落ちました。報徳院国胤(くにたね)は総狼将様を助けて天下を安定させるのではなく、自分が次にその地位に就くつもりなのでしょう」


 菊次郎が言うと、忠賢は、ふん、と鼻を鳴らした。


「だから、眼鏡野郎は焦ってるんだな。先に都を取られちまうかも知れねえってさ」


 報徳院家は同盟している雲雀屋(ひばりや)家と協力して 遠見国(とおみのくに)を攻略し、着々と勢力を拡大している。水田の広がる豊かな国原国(くにはらのくに)を本拠とし、近くに拮抗(きっこう)する大勢力がいないので、今後も成長を続けるだろう。貫高は百四十万貫ほどだが、現在天下第二位であり、元尊は心中おだやかでないはずだ。


「鮮見家も揺帆国(ゆれほのくに)を落としたあと、探題を自称しました。雲雀屋(ひばりや)家も探題を、報徳院家は副探題を称しています。国主ですらなかった家が探題を名乗るなんて、数十年前なら考えられませんでした」


 朽無(くちなし)兄弟は秀清を御屋形様(おやかたさま)と呼んでいたそうだ。これは探題にのみ許されることだった。


「実利を取るか、名誉を守るかの判断は難しいですね。名家意識や血筋への信仰は理屈ではないので簡単には否定できません。元尊は天下統一を目指していますし、家中で批判されるとやりにくくなります。なおさら正式な探題家という格式を守りたかったのだと思います」

「だとしても同盟の方が大事だと思うぜ。成安家は面目を気にしすぎだ」


 忠賢は冷ややかに批判した。


「茅生国では熊胆家が盟主だったよな。泉代成明は旧国主家なのに文句を言わなかったんだろ?」

「熊胆家は八万貫で、泉代家は六万貫だったからでしょう。元家臣とはいえ、独立して何十年もたちます。泉代公はそんなことにこだわる人ではありません。自家を守るには五家が団結する必要があると思ったのでしょうね」

「随分ほめるじゃねえか」

「一年前、開飯城で増富軍を破って一度撤退に追い込んだ合戦は、泉代公が作戦を立てたそうですよ。墨浦で直春さんと随分仲良くなったようですし」


 墨浦から帰った夜、直春は留守中の報告を聞き、自分の旅の様子を語った。その時の口ぶりからすると、成明も「信じられる」人物と見たらしい。


「お前もあいつを信じるのか」


 忠賢は少し不満そうだった。年で四つ、貫高で四万貫の上の成明に張り合う気持ちがあるらしい。


「まっ、すぐに超えて見せるけどな」


 こういう忠賢は珍しいと思っていると、小太郎の相手をしながら聞いていた友茂が話を戻した。


「つまり、宇野瀬家は攻めてこないので、全力で増富家と戦えるんですね」

「そうです。茅生国の三家と協力して立ち向かうことになります」


 同盟締結後、直春は成安家にかけ合って三家に対する命令権を得ていた。元尊は気が進まなかったようだが、御使島で忙しく、茅生国まで手が回らない。確実視される増富家の侵攻への対処は桜舘家に任せるのが現実的だった。三家も異存はないと成安家に申し出た。二十九万貫と十二万貫を合わせると四十万貫、増富家とも戦える戦力になる。采振家との同盟も事後承諾だが認めてもらった。


「恐らく、秋になったら攻めてくるでしょう」


 菊次郎が推測を述べると、友茂は期待する風に尋ねた。


「作戦は立てたんですか」

「まだです。実は、昨日隠密から重要な情報が入りました」


 菊次郎は珍しく困惑した顔をした。


「どうやら敵の軍師が変わったようです」

「えっ、泥鰌縄手と違う人になったのですか」


 他の四人も意外そうな声を上げた。


不損陥城(ふそんかんじょう)鬼才(きさい)と呼ばれている知恵者(ちえもの)だそうです。深奥国(みおくのくに) の南谷家を説得して無血で従えた人物のようですね」

「何であんな頭のいい人を変えたんですか。もっとすごい人なのですか」


 友茂は不安そうだ。


「どうやら家中の派閥争いのようです」


 新旧両家の対立を聞いて、五人と直冬はなるほどという顔になった。


「では、あの敵と戦わなくていいんですね。これは朗報ではないですか!」


 友茂少年が喜ぶと、安民が眉根を寄せた。


「いや、もっと強敵かも知れません。あの軍師に勝ったのですから」

「勝ったって言ったって、若君に取り入っただけだよねえ」


 則理が間延びした口調で指摘した。


「ですが、試験では上だったのですよ」


 利静は深刻な表情だった。光風がぼそっと言った。


(あなど)れないと思う」


 直冬と五人の視線を受けて、菊次郎は首を振った。


「問題はそこではありません。新しい軍師の立てる作戦は予想が付きます。どう対処するかが難しいのです」

「分かっているんですか!」


 友茂が大声を上げた。小太郎が驚いたので慌てて笑いかけている。

 一方、直冬はほっとしたらしかった。


「すごいです、師匠! どんな作戦ですか!」

「きっと浮寝の横槍を模倣(もほう)するつもりです」

「それは何ですか」


 不思議そうな直冬と五人に、新軍師は宝康の信奉者だと教えてあの合戦の経過を話すと、明るかった表情がだんだん暗くなった。


「そんな恐ろしい作戦をどうやって破るのですか」


 利静は青ざめている。最年長の二十四歳で、戦場で包囲されかかったことがあるので、宝康の作戦のすさまじさが分かったようだ。


「方法はあるんですよね」


 直冬は師匠を信じているらしい。


「菊次郎様なら大丈夫です!」


 友茂少年は根拠なく断言した。

 と、のんびりした声が割って入った。


「一つお聞きしたいのですが」


 則理が柱から背を離して姿勢を正した。


「菊次郎様は作戦をどうやってお考えになるのですか」


 直冬と他の四人が一斉に注目した。


「こつのようなものがおありでしたら、教えてくださいませんか」


 忠賢はあくびをしたが聞き耳を立てている。菊次郎は少し考えた。


「作戦で最も大切なことは一つです」


 指を立てると、六人がその先端を真剣に見つめた。


「それは敵を(あせ)らせることです」

「焦らせるのですか」


 則理はよく分からないという様子で繰り返した。


「そうです。僕は最初に、どうやって敵を焦らせるかを考えます。『これはまずい!』と敵が思う状況を作るのです。それができたら勢いはこちらにあります」

「なるほど……。敵の目論見をくじき、戦いの主導権を握るのですね」


 友茂がつぶやくと、安民が叫んだ。


「そこで一気に攻めます! 敵は守勢に回り、立て直そうとしますが、とっさに最善手は打てません!」


 光風も珍しく興奮気味だった。


「むしろ慌てて失策を犯す」


 利静が最後を締めた。


「そうなれば敵は崩れ、味方が勝つのですね!」


 五人は顔を見合わせて笑った。口には出さないが、よい主人に仕えたと全員が思ったらしい。


「戦とは敵の動きを予測したり、ねらった行動をさせたり、意表を突いたりするだまし合いなんです。それがうまい人が名将と呼ばれます」


 泥鰌縄手(どじょうなわて)では砂鳥という敵軍師が菊次郎達の動きを読んでいた。


「この時重要になるのが地形です。敵がどこに布陣し、どう行動するか、どういう道筋で進軍するかを知っておく必要があります。こちらの目的にふさわしい場所に敵を誘導するのが理想です」

「増富宝康はそれをしたってことか」


 忠賢が割り込んだ。


「そうです。湖畔の寺院で戦勝祈願をするように内通者を使ってそそのかしたのです。寺院から五形城へ行くには湖の岸辺を進みます。他の道は遠回りになりますので」

「なるほど……」


 則理は何度も頷いている。


「ですが、今回戦場を決めるのは敵です。こちらは奇襲を受けて守勢から始まります。数で大きくまさる敵の攻撃を撃退し、逆転して攻める側に回らなくてはなりません」

「敵に『あれ、うまく行かないぞ、困ったぞ』と思わせるのですね、師匠!」


 直冬が腕組みをした。


「でも、それは普通の方法では難しいです」

「そこで奇策ですね!」


 友茂がわくわくした声を出した。


「どんな手を使うんですか!」

「それはこれから考えます」


 利静がたしなめた。


「簡単に思い付かないから奇策なのですよ」

「すみません」


 しょげた友茂に菊次郎は言った。


「みんなも考えるのを手伝ってください」

「はい! 喜んで!」


 友茂は顔を輝かせた。


「僕も頑張ります!」


 一番弟子は自分だと直冬は言いたげだった。


「頼みますね」


 他の四人も「はい」と返事をした。菊次郎は微笑んで解説を続けた。


「一方、敵がこの作戦を使う場合、こちらにも有利な点があります。戦場がどこなのかある程度予想がつくことです。川や池、谷や山などで片側が侵入不能の場所に沿って道が続いていて、伏兵できる森や奇襲できる脇道があるところです。恐らく朝、霧が湧く場所でしょう」

「だから秋なのか」


 忠賢が納得した顔をした。


「朝霧と言えば秋だからな」


 利静が進言した。


「誰かあのあたりの地形に詳しい人に聞いてみるとよいかも知れません」

「泉代公はどうですか、師匠」

「そうですね。今度相談に行きましょうか」

「ぜひ僕も連れて行ってください」


 友茂以外の四人も異口同音にご一緒しますと言った。直冬も付いてくるつもりらしい。


「直春さんに許可をもらわないといけませんね」

「いつにしましょうか」


 利静まで身を乗り出すと、忠賢が言った。


「おいおい、まだ本当にその作戦と決まったわけじゃないぜ。気が早すぎないか」

「もちろん、他の作戦かも知れません。ですが、新軍師は深奥国で伏兵と奇襲で勝っています。それが初陣だったそうです。その成功に味をしめて、次も似た作戦を使う可能性は高いです。備えておいた方がよいと思います」

「私も今強敵と戦うことになったら、少しでも経験がある方法を選びます」

「そうですねえ。経験は大事ですよねえ」

「やってみて初めて分かることもありますもんね」


 利静・則理・安民が言い、光風が同意を首の動きで示したが、そんなやり取りをよそに、友茂はもう計画を考えている。


「戦場の下見ですか。これは勉強になりますね。楽しみです」

「戦う前に見られると少しは安心します」


 直冬は一軍を率いることになる可能性が高い。戦が迫っていることを実感し、緊張してきたようだ。

 菊次郎たちが今後の日程の相談を始めたところへ、部屋の襖が開いた。


「ここにいたのね」


 田鶴だった。小猿を肩に乗せている。漢曜(かんよう)和尚も一緒だ。利静の妻の嶋子(しまこ)が後ろにいた。一礼して部屋に入り、小太郎に声をかけている。


「雪姫様は?」


 今日は和尚の講義の日だ。菊次郎たちは先に来て各国の情勢を聞いていたのだ。


「具合が悪くて来られないって」


 侍女の田鶴はそれを伝えに来たらしい。


「和尚様、申し訳ありません」


 姉にかわって直冬が謝った。


「なに、構いませぬよ。じゃが、心配じゃのう」


 和尚は利発な雪姫を可愛がっている。孫のような気がしますなと以前言っていた。


「姫様はご病気なのですか」


 友茂が尋ねた。田鶴は首を振った。


「ううん、だるいんだって。起き上がりたくないみたい。布団から出たくないって」

「それははっきりした病気よりも、ある意味よろしくないですね」


 利静が言った。


「そうなの。体力がないし、体調がすぐ悪くなるの。食べなさすぎなんだと思う」

「あまりお召し上がりにならないのですか」

「あまりっていうか、全然食べないの。食欲がないってほとんど手を付けなかったりする。腕なんか本当に細いのよ」


 田鶴もお手上げらしい。山歩きも平気な田鶴と並ぶと、一つ下の十四歳の雪姫は色が随分白くほっそりしている。


「御馳走に飽きちゃったのですか」

「病人食で味気ないのかも知れません」


 友茂と安民の疑問に直冬が答えた。


「料理番が毎日工夫して、滋養が付くものをいろいろ入れておいしくしてあるんです。でも、姉様は興味を引かれないみたいです」


 もったいない、と五人は思ったらしかった。


「失礼ですが、姫様の好物をお出ししてはどうでしょうか」


 子供を抱き上げた嶋子(しまこ)が口を挟んだ。


「お好きなものなら食べられると思うのですが」

「嶋子さんは料理上手なんですよ」


 これまで何度か差し入れをもらっているが、とてもおいしかった。田鶴も食べたことがあるので腕前は知っている。


「雪姫様はお菓子みたいなものが好きみたい。桜かけ餅や麦焦がしなら食べてくれるかも知れないけど……」

「それでは体が持たないですね。おそばなどはどうですか」

「あんまり喜ばないの。寝てばかりだからお腹が空かないのかも」

「これから暑くなります。もっと召し上がらないとお体がおつらいでしょうに」

「姉は毎年、夏は元気がないんです」


 直冬の言葉に部屋が静まり返った。

 と、黙っていた和尚が言った。


「雪姫様は料理をなさるのですかな」

「えっ、しませんよ。させられません!」


 直冬が否定した。


「台所に入ったこともないと思う」


 田鶴が言うと、菊次郎ははっとした。


「では、してもらったらどうでしょうか。食べ物に興味を持ってくれるかも知れません」

「姉様にですか? 無理です。やったことがないんですよ!」

「雪姫様に包丁を持たせるなんて怖くてできないよ」


 二人は反対したが嶋子は賛成した。


「よいお考えかも知れませんね。皆様でなさったらどうですか。私もお手伝いします」


 則理・安民・利静は顔を見合わせた。


「料理はしたことがないけど面白そうだね」

「何事も挑戦です。いい経験になりそうですね」

「自信はありませんが、皆様がなさるのでしたらやってみます」


 光風も無言で首を縦に振った。

 友茂はやめた方がよいのではという顔だったが、何も言わなかった。


「俺もやらせて損はないと思うぜ」


 忠賢まで勧めたので、不安そうな田鶴と直冬も同意した。


「僕の家を提供します。みんなで一緒に料理をしましょう」


 菊次郎たちは和尚に丁寧に礼を言って、天額寺をあとにした。



 菊次郎たちはすぐに豊津城へ戻り、妙姫に相談して許可をもらうと雪姫の部屋へ行った。


「えっ、私も一緒に料理をするの?」


 雪姫は気が進まない様子だったが、好きなものを作っていいと説得すると、遂に頷いた。


「なら、冷たい寒天が食べたい」


 田鶴によると、そればかり希望するらしく、あまり食べさせないように妙姫に言われているそうだ。


「それは私たちがお作りしますから、姫様には温かいものを作っていただきましょう」


 お(とし)は張り切っている。妙姫が四十過ぎの侍女に妹たちを頼みますと言ったのだ。


「だったら茶碗蒸しがいい」


 雪姫は少し考えて言った。


「どんな料理ですか」


 護衛の五人は知らなかった。雪姫は意外そうな顔をした。


「卵を使ったぷるんとしたものよ。ちょっと甘いの」


 友茂が首を傾げた。


「卵って、何のですか」

「もしかして、にわとりの卵でございますか」


 利静は見たことがあるらしい。


「そうよ。知らないの?」

「食べたことはありません。市場でも滅多に見かけないものです」


 五人とも味を知らなかった。


「とても高いのです。庶民は手が出ません」


 菊次郎が一個でお米が三十膳分は買えると言うと、雪姫はびっくりしたようだった。


「毎朝出てくるのよ。飽きちゃったけれど、あれなら作れそうだから」

「毎日ですか」


 驚く五人に田鶴が説明した。


「朝を告げるために城内でおんどりを飼ってるから、ついでにめんどりも世話してもらってるんだって。十羽くらいいるって聞いた」

「めんどりを十羽ですか。それで毎朝卵を?」


 嶋子はそれ以上言わなかったが、さすがは封主家のお姫様だと思ったのは明らかだった。

 雪姫が担当する料理は決まったので、他の人たちが作るものを相談した。


「私は天ぷらを揚げます」


 利静が申し出た。


「好物で、おめでたいことがあると母によく作ってもらいましたから、手順は分かっています」

「大丈夫かしら」


 妻は心配したが、護衛五人が協力して取り組むことになった。食材も自分たちで調達してくるという。


「では、僕は炊き込みご飯を作ります」


 菊次郎は玉都にいた時に軍学塾で雑用を手伝っていたので、飯くらいは炊ける。


「師匠、僕も手伝います!」

「じゃあ、味噌汁はあたしに任せて」


 田鶴によると、家族そろっての楽しい食事の象徴らしい。


「私も参加しましょう」


 騒ぎを聞き付けて萩矢(はぎや)頼算(よりかず)が部屋に入ってきた。


「実は今、料理を考案中でして」


 新しい帆布の開発は順調で、今年中には使用に耐えるものができそうだという。豊津港がにぎわうのは確実なので、来た人々に振る舞う名物料理を作ろうと町人たちと相談していたらしい。


(あし)(うみ)の名産はしじみです。海水が少しまじっているのでよく育つそうです。豊津港の湾ではあさりが取れます」


 それを生かした料理を探していると言うと、嶋子が提案した。


「うどんはどうですか」


 つゆであさりやしじみを煮込み、ねぎや三つ葉や山菜と、甘辛く煮た小魚などをのせるのだ。


「ほうほう、それはおいしそうですね」


 頼算はよだれをこぼしそうな顔で喜んだ。

 嶋子やお俶や呼ばれてやってきた料理番に、参加者たちはそれぞれの料理の作り方や材料を教わった。


「みんな役割は決まりましたね。では、明日の昼、決行します!」


 軍師のかけ声に全員が腕を振り上げて大きく返事をした。


「いざ、出陣です!」

「さて、どんなものができるか楽しみだな」


 自分は味見役だと言った忠賢は、部屋の隅で寝転んでおかしそうな顔をしていた。

 菊次郎は家に帰ると、身のまわりの世話をしてくれる老僕と老婆に手伝ってもらって大掃除をした。二百貫は中級家臣だが、大軍師様のお屋敷なのでそれなりに大きく、庭も広い。台所の土間もきれいにし、臨時のかまどを庭に増設した。

 最後に、それが見える畳の部屋に低く四角い机を三つくっつけて並べた。これは若竹(わかたけ)適雲斎(てきうんさい)の軍学塾のやり方で、各人が自分の膳で食べるのが一般的な吼狼国では珍しい。塾生たちの仲間意識を育てるためだと適雲斎は言っていた。

 翌朝、家に来た直冬と一緒に豊津港の市場へ出かけ、炊き込みご飯の具にするものを買ってきた。妙姫と直春の協力を取り付けたので、立てかえたお金はあとでもらえることになっている。今日は豪華な食材が集まるはずだった。

 朝が終わる頃、参加者たちが続々と菊次郎の家にやってきた。真っ先に門を開いて入ってきたのは護衛の五人で、昨日一緒に買いに行き分担して持ってきた野菜を置くと、近くの井戸に水をくみにいった。嶋子は五十代の料理番と火をおこし、調理器具の用意をした。

 やがて雪姫とお(とし)と田鶴が到着し、頼算も現れた。


「さあ、取りかかりましょう!」


 全員たすきをかけて前かけをし、鬨の声を上げて戦いは始まった。

 菊次郎は台所へ行って砂出ししておいたしじみをざるに上げ、買ってきたひじきとごぼう、人参としいたけを細かく刻んだ。直冬は米をとぐのも初めてで、時間をかけて丁寧にすすぎ、慎重に水加減をしたあと、具材を切るのを手伝った。米にまぜて醤油・みりん・塩で味付けをすると、いよいよ火にかける。

 炊き方のこつを教え、直冬が真剣な顔で火加減を調節し出すと、菊次郎は他の人たちの様子を見にいった。

 五人の護衛は庭のかまどで炭を燃やし、油を張った鍋を前に奮闘していた。


「熱っ!」

「はねた! こっちにも飛んだぞ!」

「やけどしました!」

「それくらい、問題ない」

「水で冷やすのです。早く!」


 騒がしいが、皿の上を見ると野菜や山菜やきのこがおいしそうに揚がっている。指揮をとっている利静によると、嶋子が心配だからと昨晩手本で作ってくれたという。


「これは海老ですか!」


 なんと殻をむいた立派な海老が十本以上も並んでいた。


「こっちは白身の魚の開きですね。市場で買ってきたのですか」

「それは俺が提供した」


 楠島(くすじま)昌隆(まさたか)は真っ黒に日焼けした腕を組んで五人の様子を眺めていた。昨日仲のよい萩矢頼算に小魚がたくさん手に入らないかと相談されてこの会を知り、持ってきたのだという。さばき方やおいしい揚げ方も指南したそうだ。


「にぎやかだな。俺たちの砦でもやってみるか」


 昌隆はこういう雰囲気が好きらしかった。


「たっぷり食べていってください」

「もちろんだ。たくさん寄付したから元は取る」


 冗談と分かる口調で海賊の副頭領は笑った。

 菊次郎も微笑んだが、皿を見回して首を傾げ、油や火を見ながら指示を出している利静に小声で尋ねた。


「食べ方は天つゆですか。塩ですか」

「あっ、忘れていました!」


 利静は慌てて妻につゆの作り方を聞きに行った。


「昌隆さんもいますし、ここは大丈夫そうですね」


 隣では、田鶴がてきぱきと味噌汁を作っていた。小猿はそばで大人しくしている。


「家で母さんの食事作りを毎日手伝ってたの」


 懐かしそうな口調で言って遠い目をしたが、すぐに笑った。


「家族は死んじゃったけど、みんながいるし」


 田鶴は庭の人々を見回して気合を入れた。


「さあ、自分のが終わったら雪姫様を手伝わないと!」


 頼算も慣れた手つきでうどんを打っていた。


「浪人する前、売れそうな品物を考えた時にうどんも検討したのです。うまくはありませんが、打ち方は心得ています」


 麺棒など道具も作ってきたらしい。

 こちらも安心だろうと判断し、菊次郎は建物の中に戻って最も心配なところへ行った。


「雪姫様、火が強すぎます! 乾いて焦げてしまいます!」


 かまどのそばでお(とし)と中年の料理番がはらはらしている。


「火を弱めるのはどうするの? 水をかけるの? えっ、違うの? 燃えている木を減らすの? つまんで外に出せばよいかしら」


 このお姫様は料理どころか、火すらまともに扱ったことがないのだ。

 そばの皿を見ると、卵の殻の細かな破片がたくさんあった。できる限り取り除いたようだが、じゃりじゃりする茶碗蒸しができそうだ。

 なんとか火を弱めることに成功した雪姫は、額の汗を肩にかけた布でぬぐっている。夏の厨房は暑いが、特に今日は大勢が集まっていくつも火を焚いているので熱気がこもっていた。菊次郎は水瓶から茶碗に水をくみ、渡しながら声をかけた。


「初めての料理はどうですか」


 雪姫は一気に飲み干して、ほっと息を付いた。


「予想よりずっと難しかった。卵の殻は固いと思っていたけれど簡単に砕けるんだもの。でも、弱い力だと割れないの。おかげで随分床を汚しちゃった」


 きれいにしたはずの土間に卵がたれた跡が残り、殻の破片が散らばっていた。


「だしをとるのも苦労したわ。かつお節を削るのって大変なのね。もう充分かしらと思ったら、全然足りないって言うんだもの。でも、お俶に手伝ってもらわないで自分でやったのよ。疲れちゃった。そうしたら、ざるでこして出しちゃうの。もったいないけれど、そういうものなのね」


 出し殻は料理番がふりかけにしてくれるそうだ。


「味も塩を入れすぎちゃったみたい。ほんのちょっとでよかったのね。具に入れたきのこもうまく切れなくて厚くなっちゃった」


 雪姫は悔しそうだった。


「でも、お(とし)が市場で小海老を買ってきてくれて、殻をむいて塩でゆでて上に乗せたの。それはおいしそう。決め手は火加減って言われたから、ここは間違えないつもりよ」


 それが一番難しいと思いつつ、応援した。


「おいしくできるといいですね」

「うん、頑張る!」


 雪姫はにっこりと笑った。


「なんとか料理になっているようですね」


 振り返ると妙姫がいた。直春もいる。


「気になって見にきた。楽しそうだな。俺もやりたくなってきた」

「料理ができるんですか」

「流れ者の用心棒だったのだぞ。簡単なものなら作れるさ」


 もとは封主家の若君だ。苦労があったのだろう。


「私は料理ができませんのでこれを作らせました」


 妙姫に付いてきた侍女が皿を差し出した。


「里芋とごぼう・大根・豌豆(えんどう)の煮物です」

「良弘が芋を送ってきてな。駒繋(こまつなぎ)周辺でたくさん作っているらしい。千本槍(せんぼんやり)では山芋がとれる。どちらも豊作で余っているので、売り先を探しているそうだ」


 あの辺りは周囲が山なので、田んぼより畑が多い。


「都に運べば売れるでしょうが、この辺りではどうでしょうね。頼算さんに聞いてみます」


 もう一人の侍女は円い盆を持っていた。


「こちらは酢の物とぬか漬けです」

「わかめときゅうりを使っているんですね。この赤いものは何ですか」

「たこというらしい。ゆでてある。先程つまんだが、歯ごたえが面白いな」

「初めて見ました。これがたこですか。もしかして昌隆さんですか」

「ああ、釣ってきてくれた。細い桶を使うそうだ」


 水軍は食べる魚を自分たちで釣る。菊次郎も采振家を訪問した時に生の魚を食べさせてもらった。刺身というそうだが、滅多に食べられない珍味だ。


「では、俺たちは邪魔にならないように、先に席に着いている」


 直春夫妻は家に上がって平机のそばに腰を下ろした。先に座っていた忠賢が、「これは俺の担当だ」と言って持ち込んだ酒を勧めている。妙姫は妹と弟が気になるらしく、土間の方を眺めていた。


「さあ、そろそろ食べましょうか」


 でき上がった料理が次々に運ばれて、座敷の三つの机に並べられた。菊次郎はご飯が炊き上がると、直冬や田鶴と一緒に城から持ってきた座布団を並べ、皿や箸を置いて回った。


「国主様と同じ机など恐れ多いです」


 五人の護衛は遠慮して庭で食べると言ったが、今日は特別だからと菊次郎は説得した。みんなで料理を囲むためにわざわざ机を借りてきたのだ。


「菊次郎さん、はい、おみおつけ」


 座布団に座ると、田鶴が渡してくれた。


「ありがとう。おいしそうだね」

「うん。ちょっと自信あるよ」


 田鶴は空になった盆を胸に抱いてうれしそうに微笑んだ。


「おうおう、かいがいしいね」


 向かいの席から忠賢が酒器を手にからかった。


「うるさい。あげないよ!」


 田鶴は庭へ戻っていった。そちらをにやにやしながら眺めていた忠賢は、菊次郎に顔を向けた。


「そろそろはっきりしてやったらどうなんだ。もう一年半になるぜ」

「はっきりしているつもりなんですけど」


 田鶴の気持ちは嫌ではない。ただ、妹のように感じる部分が多く、受け入れるのは抵抗があった。


「いい女になってきたじゃないか」


 菊次郎は頷かなかったが、内心では同意した。もともと顔立ちに可愛げのある少女だったが、十五になって色気が加わってきた。侍女になって行儀作法を学び、着る物も品がよくなり、健康的できびきびしたところと相まって、妙姫や雪姫のような生粋(きっすい)の姫君や他の侍女たちとはまた違う独特の魅力が生まれていた。そんな田鶴に()かれる気持ちがないと言えば嘘になるが、思いを受け入れる踏ん切りは付かないのだった。


「男女の仲は思い切りのよさが大事だぜ」


 忠賢は言って銚子を取り、直春に注いでやっている。菊次郎は周囲の視線を感じて恥ずかしかった。


「雪姫様、始めようよ」


 全員が座ると田鶴が促した。


「では、皆様、よろしいですか」


 雪姫は人々の顔を見回して、大きな声で言った。


「いただきます!」


 全員が同じ文句を口にして手を合わせ、箸を取った。

 雪姫は真っ先に茶碗蒸しに手を伸ばした。


「うまく行かなかった」


 一口食べ、自分の器を眺めて溜息を吐いている。


「えっ、そうなんですか」


 友茂が意外そうに菊次郎に小声で尋ねた。


「すが入っています。表面に小さな穴がたくさん開いているでしょう。こうなると舌ざわりが悪くなると聞きました」

「そうなの。いつもはこんな穴はないのよ。味も塩辛いし、じゃりじゃりするし、だしが薄くて物足りない感じ。汁が少なくなって固くなっちゃった。卵とだしが分離しているし。火が強すぎたのね」


 雪姫は悲しそうだ。


「ごめんなさい。失敗しちゃって」


 友茂は驚いて首を振った。


「全然そんなことないと思います。すっごく美味しいです。ねっ、みんな」


 他の四人は一斉に同意した。


「うん、とってもおいしい」

「おいしいですね。こんなおいしいものがあったとは知りませんでした」


 光風も無言で頷いた。


「食べるのは初めてですが、とてもおいしいと思います。失敗ではありませんよ」

 

利静の言う通り、五人はぱくぱくとさじを口に運んでいる。直春や直冬もおいしそうに食べていた。妙姫は妹がこれを作ったのかと感激して涙ぐみ、夫に冷めないうちに食べなさいと言われている。


「そう、ありがとう」


 雪姫はようやく微笑んだ。もう一口食べてみて、ちょっと考えて、さらにさじを運んだ。


「雪姫様、しじみの炊き込みご飯はどうですか」


 菊次郎の言葉で、弟がどきどきしているのに気が付いたらしい。ご飯茶碗に手を伸ばし、箸を口に持っていって微笑んだ。


「おいしい。これならたくさん食べられそう」

「よかったです」


 直冬は泣きそうな顔をしている。


「姫様、おみおつけも飲んで」


 田鶴が言い、菊次郎は天ぷらを勧めた。


「どれもおいしいですよ」

「うん、食べたい」


 田鶴と護衛たちは、雪姫がどんどん食べ出したのを見てほっと顔を見合わせた。

 菊次郎や直冬も食事にとりかかった。天ぷらはたくさんあり、海老を初めて食べた護衛たちは感激していた。味噌汁も漬物もおいしく、ご飯もおかわり自由で、うどんと酢の物と芋の煮物まであったので、全員たらふく食べた。真白には高価な甘い芋と山の木の実が与えられた。雪姫は全部の料理を食べてみて、頷いたり目を輝かせたりしていた。


「師匠、もう食べられません」

「こんなおいしいものをお腹いっぱい食べられるなんて、菊次郎様にお仕えして本当によかったです。ありがとうございます!」


 直冬は膨らんだ腹を撫で、友茂は真顔で頭を下げた。小猿も機嫌がよさそうだ。

 他の人たちも満足していることは表情を見れば分かった。忠賢は直春や頼算と酒を()み交わしている。


「みんなで食べるとおいしいでしょう」


 菊次郎がお茶を渡すと、雪姫は大きく頷いた。直冬や妙姫がうれしそうな顔をした。嶋子はほっとし、護衛たちもにこにこしている。それを見回して雪姫は考え込み、急に座布団から降りて畳に手をついた。


「みんな、ありがとう」


 雪姫は深々と頭を下げた。


「直冬も、菊次郎さんも、田鶴も、妙姉様も、直春兄様も、他の人たちも、本当にありがとう。私のためにこの会を開いてくれたんでしょう。私が食欲がないから」


 誰も何も言わなかったが、その沈黙が雪姫の問いを肯定していた。


「私は何も分かっていなかった。料理がこんなに難しいことも、厨房がすごく暑くて大変なことも、料理番がいろいろ工夫してくれていたことも、卵がとっても高価なことも、全く知らなかった。みんなに心配と迷惑と苦労をかけていたのに、食欲がないと言って手もつけなかった。私、とってもわがままだったのね。それがよく分かったわ。ごめんなさい」


 妙姫が何か言いかけたが、直春に目配せされて口をつぐんだ。


「私なんかのためにここまでしてくれて、本当にありがとう。みんなで集まってくれて、ごちそうをいっぱい作ってくれて、私に食べ物の大切さを教えてくれた。私はこんな役立たずなのに」


 直冬と田鶴が息をのんだ。


「私は体が弱くて、すぐに熱を出してしまって何もできない。直冬は戦に出ているし、妙姉様は当主としてずっと頑張っていた。直春兄様も、菊次郎さんも、忠賢さんや田鶴もみんな活躍していたのに、その間、私は具合が悪いと言って寝ていただけだった。そんな余計者の私のためにここまでしてくれて、心から感謝します。いつも迷惑をかけて申し訳ありません」


 雪姫の声は震えていた。人々は顔を見合わせて、妙姫や田鶴が口を開こうとした。が、その前に菊次郎は叫んでいた。


「迷惑などではありません! 雪姫様は大切なお方です!」


 姫君は涙に濡れた顔を上げた。


「雪姫様がいることで元気をもらい、勇気付けられている人はたくさんいます。僕もその一人ですし、ここにいる人はみんなそうです。だから心配もするし、元気になってほしいと思うんです!」


 菊次郎は軍学塾で居候(いそうろう)だった間、肩身が狭く感じていた。天乃(あまの)に家族だと言われてもお嬢様と呼び続けた。今なら、適雲斎や天乃が自分を本当に家族のように思っていてくれたことがよく分かる。遠慮なんて必要なかったのだ。直春たちがそれを教えてくれた。


「雪姫様がいるからみんな頑張れるんです。雪姫様がみんなにあげているものはたくさんあります。働けるとか戦えることだけが価値ではないんです」

「そうですよ。あなたを邪魔と思ったことなどありません」


 妙姫が涙をぬぐって言った。


「あなたは大切な妹です。あなたや直冬がいるから、くじけそうになっても私は当主としてやってこられたのです」

「そうです! 雪姉様は大事です! 本当です!」


 直冬が叫び、田鶴も続いた。


「あたしはいやいや雪姫様のそばにいるんじゃない。この人になら仕えてもいいと思ったからこの国に残ったのよ」


 頼算が居住まいを正した。


「籠城した時、雪姫様が天額寺で国主様や豊津城の方々のことをたくさん話してくださったおかげで、民は随分安心しました。それが今、この国の安定に大いに役立っています。町に行くと、雪姫様の具合はどうですかとよく聞かれます。あなたを慕う民は大勢いるのです」

「わ、私も姫様を大切に思っております。姫様のためになるならと、進んでこの会に参加しました」


 利静が勇気を出して発言すると、他の四人も口を開いた。


「誰も迷惑だなんて思っていません」

「そうです。おいしいものが食べられて、とても楽しかったです」

「腹いっぱいになりました。姫様のおかげです」

「またやりたいです。いえ、ぜひやってください、菊次郎様!」

「友茂殿は御馳走が食べたいだけだよね。一人で何人前も食べたもんね」


 則理が言うと、友茂がおどけた。


「だって、本当においしかったんです。手が止まりません」

「十五歳の食べ盛りですからねえ」


 安民が言うと、人々から笑い声がもれた。つられて雪姫も笑った。

 妙姫が頭を下げた。


「妹のためにこんなに大勢集まってくださり、心よりお礼申し上げます」

「俺も義兄(あに)として礼を述べる」


 当主夫妻に人々は慌てて返礼した。


「とんでもないことでございます。こちらこそお礼申し上げます」


 利静の横で嶋子も平伏した。

 妙姫は顔を上げて妹を見やった。


「これほど多くの人に大事に思っていただいて、妹は幸せ者でございます」

「私、幸せなの?」


 雪姫は驚いた顔をした。菊次郎はやさしく尋ねた。


「今どう感じていますか。幸せではありませんか」


 雪姫は机を囲む人々を見回して微笑んだ。


「そうかも知れない。私は幸せなのかも。体が弱くて役に立たないから幸せにはなれないと思っていたけれど、間違いだったみたい。みんなに甘えて頼り切りで、自分で楽しく生きよう、幸せになろうとしていなかっただけなのね。こんなにそばに幸せはあったのに。みんな、本当にありがとう」


 目が真っ赤な田鶴が隣の姫君を抱き締めた。菊次郎はその背中に語りかけた。


「雪姫様は役立たずではありません。きっとできることがありますよ」


 雪姫は侍女をなだめて体を離し、振り返った。


「私に何ができるの?」

「それは分かりません。でも、雪姫様だからできること、雪姫様にしかできないことが必ずあります」


 菊次郎は姫君の目をじっと見つめた。


「ご自分で見付けてください。他人が教えたり与えたりできるものではありません。雪姫様がどう生きるかという問題だからです。それは必ず幸せにつながっています」


 雪姫は真剣な顔で考え、頷いた。


「分かった。探してみる」


 人々が表情をゆるめた時、大人しくしていた忠賢が銚子を持ち上げた。


「めでたく話もまとまったな。では、飲み直そうぜ」


 揺すって中身を確かめ、直春に向けた。


「さあ、お殿様」

「おお、頂こう。今日はうまい酒が飲めそうだ」

「当然だぜ。奮発した上物だぞ」


 人々は再び箸を握り、食事を再開した。


「うむ、いい酒だ。妙も飲むか」

「そうですね。今日はおめでたい日ですから。雪と直冬も飲みますか」

「えっ、いいの? 飲んでみたい!」

「僕はいりません。お酒はあんまり好きではありませんので」

「お子様にはまだ酒は早いな。だが、そんなんじゃ軍勢の大将はつとまらないぜ」

「全く関係ないです!」

「二人の姉さんは飲むのにねえ」


 忠賢は妙姫に注ぎ、立って雪姫に近付いて、杯を渡した。


「体が弱いのは仕方ねえ。できないことが多いのは本当だ。でもよ、自分を役立たずなんて言うもんじゃないぜ」

「忠賢さん……」


 雪姫は目を見開いた。


「もっと自信を持てってことだ。姫さんは恵まれてる。自分にやれることを探せる余裕があるんだからな」

「はい」


 雪姫はしっかりと頷いた。忠賢は片目をつぶって頼算のところへ行った。

 雪姫は料理に目を戻し、少し迷って食べかけだった茶碗蒸しを手に取った。さじを運びながら考えている。


「やっぱりそれが気になりますか」


 菊次郎が声をかけると、雪姫は頷いた。


「うん。もう少しおいしくできると思ったのに」

「でも、まずいとは思わないでしょう。味がいまいちでも食べたくなります。それは当然なんです」


 菊次郎はご飯茶碗を手に持っていた。


「自分で作った料理が一番おいしいですから。上手下手の問題ではなく、作った苦労や喜びが詰まっているのでおいしいのです。他人(ひと)の料理もそれを作る苦労を想像すると、無駄にはできなくなります」

「うん。料理番にいつもありがとうって言わないと。この茶碗蒸しより、ずっと手の込んだものを作ってくれているんだから」


 底に残ったものを丁寧にすくって口に入れた。


「やってみて初めて分かることってたくさんあるのね。茶碗蒸しは何百回も食べたけれど、作り方や難しさは全く知らなかった。包丁は予想より重かったし、やり方を聞いてその通りに作ったのに失敗しちゃったもの」

「おいしく作るには経験がいるのです。どんなものにもちょっとしたこつがあります。何回もやって慣れてくると、自分に合った作り方や作りやすいものが分かってきます」


 炊き込みご飯も軍学塾で祝い事のたびに炊いていたからできるようになったのだ。


「茶碗蒸しは私には難しすぎたのね。もっと簡単なものにすればよかった。これならできそうって思ったけれど、思い上がりだった」

「知識や人の話だけでは肝心なことが分からなくてうまく行かないことも多いですね。一番おいしく作れるのは自分で考えた料理です。他の料理も自分流に手を加えると作りやすくなりますよ。……そうか!」


 菊次郎は急にまじめな顔になった。


「なるほど。それが敵の弱点か」

「えっ?」


 怪訝な様子の雪姫に、菊次郎は礼を述べた。


「ありがとうございます。おかげで戦に勝てそうです」

「どういうこと?」

「敵の軍師は戦の経験が少ないです。その上、他人の立てた作戦をまねするつもりです。そういう相手に勝つ方法を思い付いたのです」

「私、役に立ったの?」


 雪姫は首を傾げた。


「はい、とても参考になりました」


 そこへ、嶋子とお(とし)が冷えた寒天を運んできた。井戸水につけておいたものだ。


「しまった。これがあったのでした。もう入りませんよ」


 友茂が嘆いた。


「無理にでも入れる」

「そうですね。俺は食べます」

「残したらもったいない」

「これも滅多に食べられない御馳走ですね」


 五人はわいわい言いながらさじを手に取った。友茂も結局食べている。

 菊次郎は雪姫と顔を見合わせて笑った。


「またこういう会をやりたいですね」

「うん。やりたい。楽しみ」

「今度は(かに)を釣ってきてやろう」


 昌隆が言った。


「蟹ですか! 川にいるのよりずっと大きいと聞いたことはありますが、見たことはありません。おいしいんですか」


 友茂が目を輝かせた。


「蟹はうまいぞ。一度食べたら癖になる。お薦めは蟹鍋だ」

「では、いつやりましょうか。三日後はどうですか」

「おいおい気が早いな」


 笑い声が起こった。


「盛り上がってるな」


 忠賢が酔った口調で言った。


「おい、菊次郎。何か余興をやれよ。歌でも歌え」

「僕がですか?」


 困っていると、赤い顔の昌隆が言った。


「俺が歌おう。砦の宴会ではみんなで歌うのだ」


 言うなり、海の男の舟歌を歌い出した。


「いい声だな」

「はい」


 忠賢と菊次郎は感心し、他の人々も黙って耳を傾けた。

 一曲終わると拍手が起きた。


「次は俺が歌おうか」


 直春だった。葦江国に来る旅の間に何度か聞いたが、直春は歌が上手い。


「じゃあ、真白が踊るよ」


 田鶴が立ち上がった。途中の町で猿回しをした時、数回そういうことがあった。

 朗々とした歌と猿の滑稽な舞に大きな歓声が起こった。雪姫や直冬や五人の護衛は大喜びして激しく手をたたいている。妙姫は夫の歌にほれぼれした様子で聞き入っていた。

 にぎやかな食卓を見渡して、菊次郎は軍学塾の日々を思い出した。老僕が植えた庭の紫陽花(あじさい)が、初夏の日差しを浴びて青く輝いていた。

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