(巻の三 隣国の依頼) 第一章 救援要請
『狼達の花宴』 巻の三 吼狼国図
『狼達の花宴』 巻の三 茅生国要図
春の昼前の日差しの下、菊次郎が船端で茅生国の平野を眺めていると、楠島昌隆が近付いてきた。
「軍師殿、そろそろ到着する。上陸の準備をしてくれ」
二十六歳の水軍の副頭領に頷いて、菊次郎はこの軍勢の大将へ目を向けた。下着姿で甲板にあぐらをかき、配下の武者たちと紙札遊びに興じていた青峰忠賢は、視線に気が付くと、最後の一枚を放り出して両手を上げた。
「負けた負けた!」
笑って立ち上がり、身を反らせて伸びをしてこちらへ向き直った。頭の後ろでくくった髪が海風に揺れている。
「いよいよだな」
この男は紙札遊び以上に戦が好きなのだ。
「武者たちに甲冑を着せてください。他の船にも指示を出しましょう」
菊次郎が言うと、忠賢は後ろを振り返って叫んだ。
「おい、お前ら! 目的地はもうすぐだ! 気を引き締めろ!」
「おう!」
武者たちが声をそろえて叫んだ。
「こっちの勝負は負けられねえな」
「もちろんです」
菊次郎が応じると、忠賢はにやりと笑った。昌隆が面白そうな顔で二人を見比べていた。
三日前の桜月三日、つまり天額寺での花見の翌日、菊次郎が豊津城下の自分の屋敷で書見をしていると、城から使者が来た。
「軍師殿、国主様がお呼びです」
銀沢菊次郎信家の桜舘家中での呼び方は、いつの間にか軍師殿で定着していた。まだ十七歳で身分は二百貫にすぎないが、当主直春の助言役で大軍師の称号を与えられている。直春の妻の妙姫やその妹弟の雪姫や直冬とも対等に話せる関係なので、特別な立場ということで、この呼称に落ち着いたようだ。菊次郎からすると少々こそばゆいが、敬意を払われることは軍師の役目を果たす上で必要なので受け入れていた。
「菊次郎君、待っていたぞ」
案内されたのは豊津城の評定の間だった。城はまだ修理中だが、本郭はほぼ戦いの前の状態に戻っている。負傷者でいっぱいだったこの広間も、他家の使者を迎えても恥ずかしくないくらいにはきれいになっていた。
「何事ですか」
広間には直春の他に、妙姫・忠賢・田鶴・雪姫・直冬と、馬廻頭の豊梨実佐、この城の筆頭家老の蓮山本綱がいた。つまり、菊次郎を「軍師殿」ではなく名前で呼ぶ人々がそろっている。何か重大な事態が発生したのだ。
「茅生国から使者が来た」
その言葉だけで菊次郎は状況を理解した。予想していたことだったからだ。
「南部三家ですね」
「そうだ」
直春は頷いた。
「泉代家の城が増富家の大軍に攻められているらしい。俺たちに助けてくれと言っている。同盟している他の二家と共に成安家の庇護下に入りたいので仲介してほしいそうだ。援軍を出すかどうか、皆の意見を聞きたい」
全員真剣な顔をしていた。要請に応じれば大きな戦が始まることになる。
「使者を待たせている。今この場で当家の対応を決定する」
直春が宣言すると、皆互いの顔を眺め、菊次郎に視線を集中した。
軍師として意見を求められている。菊次郎はやや緊張した。既に進言内容は決めていたが、それをすぐには言わなかった。
「僕の意見を話す前に、茅生国の状況を確認したいと思います」
誰が用意したのか直春の前に広げられた地図を見ながら、菊次郎は語り始めた。
「茅生国は葦江国の北隣で、足の国の一国です。総貫高は三十六万貫、それが現在は十二万貫ずつ三つの部分に分かれています」
菊次郎は地図に書かれた家紋を指差した。
「北部は万羽国と接していて、そこを本拠地にする増富家の勢力圏です。中部と南部は五つの封主家が割拠し、全て宇野瀬家に従っていました。しかし、宇野瀬家が当家に敗北して撤退したあと、増富家の攻撃を受けて中部の二家が滅んでいます」
地図の中ほど、茅生国を東西に分ける大河白鷺川の両岸にあった熊胆家八万貫と猪焼家四万貫の家紋の上に、墨でばってんが書かれている。この土地と城は既に増富家の手に落ちていた。
「残る南部は、西の海側を泉代家六万貫、東は大長峰山脈の麓の二つの盆地を市射家と錦木家が三万貫ずつ領しています。南部五家は同盟を結んで増富家に対抗していましたが、二家が滅び、宇野瀬家の援軍も去って孤立しています」
「それで俺たちに助けを求めてきたわけか」
忠賢が言った。
「まっ、他に頼れる相手はいないからな」
「そうですね。五家は増富家の北の槍峰国の采振家五十八万貫と同盟を結んでいましたが、救援は期待できないでしょう。増富家は八十九万貫です。恐らくそちらへも十分な備えをした上で茅生国へ攻め込んだと思われます」
隠密の副頭の馬之助へ視線を向けると、頷いて肯定した。
「現在泉代家の土長城を攻めている兵力は一万四千、万羽国に七千ほどを残しております」
「一万四千……!」
直冬が息をのんだ。
「こちらが派遣可能な数の倍以上ですね」
「正確には最大で六千でござろう」
豊梨実佐が言った。桜舘家は葦江国一国二十九万貫だが、一万貫は水軍の分だ。また、駒繋城周辺の七万貫の武者は踵の国の宇野瀬家への備えで動かせないので、豊津城守備の兵を引くと六千が上限だった。
「さて、当家はどう対応するかだ。援軍を派遣するか、しないか、もしくは……」
直春が先を言う前に、忠賢が察して口にした。
「増富家と組んで南部三家を滅ぼすか」
「それって可能なの?」
田鶴は救援したいようだ。かつて自分の村を滅ぼされた経験があるので、攻められた弱い方に同情的なのだ。三歳になった小猿の真白は膝の上で大人しくしている。
「増富家にお城を攻めるのを手伝うよって言ったら喜ぶのかな?」
菊次郎は首を振った。
「歓迎はされないでしょう。追い払われるかも知れません。南部三家の武者はそれぞれ一千程度、増富家には単独で攻略できるだけの兵力があります。また、一緒に城を落としたとしても、そのあとが問題です」
「三家の領地をどう分けるかという話ですな。当然、増富家は全てを手に入れたいでしょうな」
蓮山本綱は眉の間にしわを寄せている。豊津城に属する家老の首座になって、最近貫禄が出てきたようだ。
「つまり、出ていけばどのみち戦になるんですね」
十三歳の直冬も一生懸命考えていた。
「そうです。しかも、三家が滅んでいる場合、当家単独で一万四千と戦うことになります。救援すれば三家の兵力も当てにできます」
「救援しない場合はどうなりますか」
妙姫の問いに、菊次郎は答えた。
「増富家は三家を滅ぼして一百一万貫になるでしょう」
「当家は北・東・南の全てを百万貫を超える大封主家に囲まれることになるのですね」
妙姫は分かっていて確認したらしかった。
「そうなれば身動きが取れなくなります。増富家が葦江国に攻めてくる可能性も高いです。天下統一は遠のきます。成安家が御使島の鮮見家を滅ぼして北上を始めるのを待つしかありません」
「その場合、最初に攻めるのは土長城なんだろ?」
忠賢は地図を見ていた。
「そうです。南国街道上の要地にありますから無視はできません」
「今援軍を出せば、その城を持つ泉代家を味方につけることが可能なんですね、師匠?」
直冬は菊次郎に軍学を師事している。答えが見えてきたという様子だった。
「泉代家だけじゃないぜ。三家十二万貫だ。兵力にすると三千六百だな」
忠賢も乗り気になっている。戦が好きなのだ。
「宇野瀬家や成安家に喧嘩を売っても勝ち目は薄い。進出するなら北しかないんだ。向こうから呼んでるんなら、いい機会じゃねえか」
妙姫も賛成のようだった。
「商人たちのためにも南部の三家は味方にしておきたいですね」
豊津商人にとって北隣の茅生国は商圏だ。増富家の本拠地五形の町の商人と常に勢力を争ってきた。大鬼厚臣がたびたび北へ出兵したのはそれも理由だったのだ。
「ただ、成安家の反応が気になりますな」
本綱は言うことは分かるが決めかねるという顔だった。桜舘家が戦えば盟主である成安家も承認したと見なされる。
「御使島が不安定な今、増富家と敵対したくはないはず。勝手に救援して怒られないですかな」
評定の間には菊次郎たちが贈った大きな布製の吼狼国の地図がある。それを眺めて実佐は腕組みをした。
「無断で兵を動かすことになるが、成安家も増富家の勢力拡大は望むまい。三家は傘下に入りたいと言っておるのだから、それが滅ぶのを黙って見ている方がよくないだろう」
「僕もそう思います」
直冬が緊張気味に発言した。
「土長城は都へ上る途中です。どうせいつかは落とすんです。むしろほめられると思います。ですよね、師匠?」
頑張って意見を述べた弟子に菊次郎は微笑んだ。
「ほめられるかは分かりませんが、味方を増やしたことを非難はしづらいはずです」
成安家の実権を握る連署の氷茨元尊は直春や菊次郎を嫌っている。勝手なことをするなと不愉快に思うに違いないが、桜舘家との関係を悪化させるようなことはしないだろう。
「三家の使者は墨浦に向かってもらいましょう。成安家に直接従属を申し入れさせるのです。当家も人を派遣してそれを取り次ぎ、救援の指示が出るものと判断して動いたことにします」
「許可を待ってたら城が落ちちゃうもんね」
田鶴は早く助けに行きたいらしい。
「墨浦に使者が着く頃にはもう戦いは始まってるぜ。追認するしかないな」
忠賢がにやりとした。
「その通りです。それに」
菊次郎はやや声を落とした。
「成安家の命令で救援しても三家はあまり感謝してくれません。指示を待たずに単独で向かってこそ、三家との絆を強くできます」
「恩を売るのですね」
妙姫がなるほどという顔をした。
「三家それぞれは大した戦力ではありませんが、味方に付ければ当家の領内に北から敵が侵入するのを防ぐことができます。いわば盾にできるわけです」
菊次郎が言うと、直冬はそういう考え方もあるのかという顔をした。桜舘領を攻める前に、敵はまずその三家を滅ぼすか下す必要がある。葦江国が安全なら、直春は多くの武者を遠くに送り出せる。逆に、土長城に増富家が多数の兵力を配置すれば、桜舘家は常に侵攻に怯えることになる。
「成安家は当家の思う通りには動きません。湿り原の時も援軍をわざと遅らせました。南部三家と対等かこちらが上の同盟を結べると、今後いろいろとやりやすくなります」
「さすがは師匠、先のことまで考えていますね」
直冬は感心しきりだ。雪姫が言った。
「足の国を切り取る許可はもらっているから文句は言えないと思う。私たちが負けて豊津城が落ちたら成安家は困るもんね」
「増富家が攻めてきた場合、同じ成安家配下の南部三家と協力して戦うのは当然です。最も貫高の大きな当家が大将をつとめるのも自然なことです」
「菊次郎さん、ずるい!」
雪姫が明るい声で言うと、皆顔をほころばせた。
「どうやら結論は出たようだな」
議論を見守っていた直春がまとめた。
「では、援軍を派遣するとして、具体的な作戦を検討しよう」
直春の目は菊次郎を見ていた。
「案があるのだろう」
「はい」
菊次郎は座の人々を見回し、当主に進言した。
「勝ち目を増やすため、最大の六千を動かします。これを二手に分けて向かわせましょう」
「劣勢な兵力をさらに分けるのか」
忠賢が首を傾げた。
「はい。半数は直春さんが率いて南国街道を進みます。残り三千は楠島水軍に依頼して船で運んでもらい、土長城の北側に上陸します」
「分けるのはなぜですか」
直冬も分からないらしい。
「敵は一万四千です。六千でまとまって向かった場合は同数程度で迎撃すれば足りますので、城の包囲は解けず、陥落は防げないでしょう。しかし、こちらが北からも現れれば、敵は兵力を両方へ向けざるを得ません」
「なるほど、橋ですか!」
本綱が地図を眺めて膝をたたいた。
「封鎖して退路を断つのですな」
旧熊胆領と泉代領の間には広い白鷺川が流れている。そこにかかる橋はとても長く、渡るのに時間がかかるため半時橋と呼ばれている。橋を封鎖すれば増富軍は敵領内で孤立する。
「恐らく、敵はこちらが二手に分かれたことを知って、各個撃破をねらってきます。南国街道を封鎖して直春さんたちの進路を防ぎつつ、橋の方に主力を向けてくるでしょう。南と北に五千程度を派遣すると包囲に残るのは五千、城のそばに市射家と錦木家の援軍がいるはずで、六万貫一千八百人が籠もる城を力攻めはできなくなります」
山脈側の二家はともに三万貫九百人にすぎず、留守の武者を引くと合わせて千人程度の軍勢だろうが、包囲する増富軍が少なくなれば無視できない脅威になる。
「北へ上陸する部隊は敵を迎え撃って足止めし、城へ行って包囲を解いて、直春さんや三家の軍勢と合流します」
「そこで決戦か」
忠賢は期待する顔だ。
「その準備もしておきますが、こちらは合計八千ほど、敵も簡単には攻められなくなります。対峙したまま長期戦に持ち込んで撤退を促す方がよいでしょう」
「勝負しないのか」
「倍近い敵と正面から合戦すれば多大な損害が出ます。勝っても増富家の城を奪う余力が残るか疑問で、当家が得るものは恐らくありません。三家を救うだけなら決戦は避けるべきです」
「ちぇっ、お前は相変わらずけち臭い計算をするな」
忠賢は言ったが、納得したらしい。
「で、その別働隊の指揮は誰がとるんだ?」
直春は視線を向けられて、信頼の笑みを浮かべた。
「全軍の半数を任せられるのは忠賢殿しかいない」
「よし、任されたぜ! 必ず勝つぜ!」
忠賢はうれしそうに約束した。
「では、戦だ。出陣する!」
直春は凛とした声で命じた。
「昼前には城を発つ。すぐに準備を整えよ! 楠島の頭領に伝令を送り、船の用意を依頼せよ!」
「はっ!」
菊次郎たちはそろって頭を下げた。
「なにっ、北に軍勢が現れただと? 本当か? 間違いないのだな?」
増富持康は素っ頓狂な声を上げ、物見の兵に何度も確認した。武者たちが一斉に総大将を振り返り、土長城を囲む軍勢の本陣にざわめきが広がった。
「はい。この目で見た事実でございます。多数の船団が海を北上し、漁村に上陸させました。旗印は桜、数は約三千、多数の軍馬がおりました」
「桜舘家の武者でございましょう。泉代家の救援に来たに違いございません」
副将の家老犬冷扶応が甲高い声で言った。もう一人の副将、やはり家老の蛍居汎満の太く低い声がすぐに続いた。
「楠島水軍に運ばせたのですな。日数からして他にあり得ませぬ」
「つまり敵の援軍か。だが、なぜ北に出る?」
持康は首を傾げた。
「背後を襲うつもりでございましょうか」
犬冷扶応は小柄な猫背の体を縮めてうやうやしい口調で答えたが、若君のお気には召さなかったらしい。
「密かに上陸し、我が軍を奇襲するつもりだったのかも知れませぬ」
蛍居汎満の返事も商人のような恰幅のよい体つきの割に自信がなさそうだった。増富家の二十歳の嫡子はやむを得ないという顔で本陣の末席にいる七つ年上の助言役に目を向けた。
「お米役、お前はどう思う?」
砂鳥定恭は全員の注目を浴びて口を開いた。
「桜舘軍は最大の六千で援軍に来たに違いありません。その半分が北に回ったと思われます。南から残りの三千が南国街道を進んできているでしょう」
即答したのは確信があったからだ。
「南の敵は問題ありません。既に手を打ってあります。北の敵は我々をおびき寄せるつもりです。倍の六千を派遣しましょう。罠を張ります。それが最善です」
持康は不快そうな表情で黙り込んだ。家老たちも分かったような分からないような顔をしている。
しまった。またやってしまった。
定恭が急いで説明しようとした時、同い年の渋搗為続が発言した。
「北の敵は三千、その程度の数は無視してもよいのではないか。城が落ちれば敵は孤立するだけだ。違うか、砂鳥殿」
分かっていることをわざと尋ねてくれた友人に、定恭は感謝の視線を送った。
「この城のそばには市射家と錦木家の軍勢一千二百がいます。合流されるとやっかいです。また、敵が半時橋に向かう可能性があります」
定恭が北を指差すと、持康はそちらを眺め、はっとした顔をした。
「つまり、退路を塞ごうというのか!」
「それよりも、糧道を断たれることが恐ろしいでしょう」
お米役の定恭は言って、慌てて付け加えた。
「当方は一万四千。当面の兵糧はありますが、長期戦になると足りなくなるかも知れません」
持康は非難がましい顔つきになった。
「長期戦だと? 昨日お前は、この城はすぐに落ちると断言したではないか」
それを言ったのは自分ではないと定恭は思ったが、口には出さなかった。
「援軍が来る可能性は指摘したはずです。包囲したら強引にでも力攻めすべきだと申し上げました」
ですが、家老の皆様は自分の武者が傷付くのを嫌がり、降伏してくるのを待つことになったのです。これものどまで出かかったがのみ込んだ。砂鳥家はたった一千貫。家老たちより地位は下だった。
「だが、こんなに早く来るとはおかしいではないか。成安家は動きが鈍いと聞くぞ」
持康は納得できない様子だった。
「恐らく桜舘家の独断でしょう」
定恭が答えると、犬冷扶応と蛍居汎満は信じがたいという顔をした。
「まさか、墨浦に指示を仰がなかったというのですか」
「当家と勝手に戦を始めたら成安家の機嫌を損ねるのではありませぬか」
「あの当主と軍師なら驚くことではありません」
定恭は昨年平汲家をそそのかして葦江国に乱を起こし、宇野瀬家や成安家が茅生国に手を出せない状況を作ろうとした。ところが、戦の開始に合わせて攻勢に出ようとしたら、なんと桜舘家が短期に圧勝した。定恭は予定が狂い、宇野瀬軍が撤退するのを待って侵攻する計画に変更したのだ。
「墨浦に許可を求めていたら城が落ちてしまいます。桜舘家はそれは困るのです」
包囲する前に説明したのだが、家老たちは理屈は分かるがあり得ないと思っていたらしい。普段余計な責任を負わないように振る舞っているので、大封主家の庇護下にある小さな家が自分たちの判断で動くなど考えられないようだ。
「砂鳥殿、長期戦になると思うのはなぜだ」
俺も説明を手伝おうかと案じる様子の為続に、大丈夫だと小さく頷いて言葉を続けた。
「桜舘勢が市射・錦木勢と合流すれば約七千、後ろを向けて城を包囲してはいられません。双方とも兵をまとめ、距離を置いてにらみ合うことになるでしょう。決戦を挑んでも敵には戦う必要がなく、成安家の援軍が到着すれば形勢は逆転します」
この城をさっさと落としていれば桜舘軍は引き返しただろう。葦江国と茅生国は山で区切られ、軍勢が通れそうな道は海岸沿いの南国街道だけだ。土長城はその上にあり、かつ市射家や錦木家の城へ向かう街道の出発点でもあるので、ここを押さえてしまえばその二家を救うことは難しい。葦江国へ進出する際には足がかりにもなるはずだったのだ。
「兵糧の補給と士気の維持の面で、退路のない状態は著しく不利です。万が一の時に若殿をお守りするためにも、破壊される前に橋を確保する必要があります」
「壊される可能性もあるのか!」
持康は青ざめた。敵の領内で孤立したら生きて戻れないかも知れない。三百の兵に橋を守らせているが、三千には簡単に蹴散らされる。
「敵が北に現れたらこちらは対処せざるを得ません。それが敵のねらいです」
持康は家老たちの表情をうかがって、自信無さげに命じた。
「分かった。では、軍勢の一部を割いて向かわせよう。六千と言ったか」
定恭は頷いた。
「それが妥当な数です。敵の二倍の兵力で急行して撃破し、橋の守備に一千を残して戻ってきましょう」
小薙敏廉という武将が尋ねた。
「その間、南方の敵にはどう対処する」
敏廉は四十歳、家老ではなく、茅生国の北東部にある鳥追城の城主だ。増富領最南部の城を守って宇野瀬家や大鬼家と戦い続けてきた人物で、持康の軍勢の案内役を務めている。
「そちらには既に三千がいます。それに任せましょう。城が落ちれば敵は撤退します」
定恭は力攻めでなく包囲と決まった時、桜舘家や成安家の援軍が来る可能性があると主張して一部を南下させ、葦江国との境付近に守備陣地を築かせていた。そこは山が海のそばまで迫っていて、街道を封鎖しやすい場所だった。
「桜舘家はそれを読んでいたのだな」
敏廉は唸った。
「はい。援軍が来てもあの軍勢で時間を稼げるはずでした。ですから、敵は北側へ船で回ったのです。こちらの武者を分散させ、城の包囲を薄くして破りやすくするつもりです。国境に軍勢を集められると勝ち目が薄いと判断したに違いありません」
「陣地を築いて守りを固められたら突破は容易ではない。一方、我等をおびき寄せれば、敵に有利な地点で戦えるというわけか」
「恐らく、敵軍師銀沢信家の策でしょう。裏をかかれました。以前から注目していましたが、やはり強敵です」
「それほどの相手なのか」
敏廉が驚くと、持康はいらだたしげな声を出した。
「そんなことはどうでもよい。この城の包囲はどうする」
自分を無視して話を進めるなということだ。持康は他の誰かがほめられるのを聞くのが好きではない。敵軍師の恐ろしさに先に気付いていたことも不愉快なのだ。
定恭は若い総大将に顔を向け、進言した。
「一旦解いたら再び包囲陣を作り直すのは手間がかかります。泉代勢を閉じ込めておくためにも、ぎりぎりまで包囲は維持したいところです。五千をここに残します。市射勢と錦木勢を監視させましょう」
土長城は宿場町のはずれにある。定恭は三つの門の前に多数の障害物を設け、泉代勢が出てこられなくしていた。町の中もあちらこちらで通行を邪魔してあるので、二家の軍勢に包囲部隊の背後を攻められても、定恭たちの帰還まで持つだろう。
「よし、では、敏廉は残れ。北へは俺が行く」
「若殿自ら向かわれるのですか」
家老たちは驚いた。
「こちらは敵の二倍だ。たやすく勝てる。俺は父上に勝利の報告がしたい」
意気込む持康に、家老たちは仕方がないという顔になった。
増富家当主の常康は息子に甘い。今回の戦の総大将を任せたのもそうだった。二十歳になる跡取りに戦場を経験させるというのが建前だが、もう一つ理由があった。
一年前、持康は家臣の娘を街で見かけて惚れ込み、呼び出して側室になるように迫った。娘には許婚がいたので拒絶すると、激怒して殴り付け、顔に大きな傷を負わせてしまった。許婚は持康を恐れて破談にし、絶望した娘は自殺した。娘の母親がそれを涙ながらに話して回ったため、常康は父親を呼んで金を与えてなだめる一方、息子にほとぼりが冷めるまで国を出ていろと言って、茅生国攻略軍の総大将を命じたのだ。
主君にそれを提案した右執政の数多田馬酔は持康に言ったという。
「南部五家は孤立しております。こちらは一万四千、まず負けはございません。罪とは弱い者が問われるもの。大きな武功を上げれば悪い噂は消え、功績のみが語られるようになりましょう」
そんな理由で大将になった若君に、定恭は助言役として付けられた。役職はお米役、つまり兵糧の管理担当で、末席だが大将のそばに付き従う仕事だ。気は進まなかったが、馬酔に「若殿を頼む」と言われては断れなかった。恩もあるし、逆らえば家中にいられなくなる。やむなく、他の側近たちと共に攻略を成功させようと動いてきたが、持康は自分より頭が切れる人物を嫌うので苦労していた。ばかを装うこともできるが、そういうのは好きではないし、戦に勝たせるのが仕事なのだ。
「この城は絶対に落とす。包囲を邪魔されてなるものか。今度こそ俺の手で敵を打ち破る! 馬を連れて参れ!」
持康はそばの武者に命じた。持康が勝利にこだわるのは、昨年の大きな負けを帳消しにしたいからだ。
境村の合戦後、桜舘家が離反し、宇野瀬家の軍勢が茅生国へ来られなくなった。増富家は好機と見て、持康に一万四千を与え、中南部五家の攻略を命じた。
攻め込まれた熊胆家は他の四家に同盟を呼びかけた。貫高が八万貫と最大の熊胆家は以前から宇野瀬家派諸侯の領袖で、ここが滅べば自家も危ない。すぐに援軍が到着したが、合計三千九百はばらばらな場所に布陣し、開飯城を囲う増富軍を遠くから眺めるだけだった。しきりに連絡を取り合っているが攻撃してこず、足並みが乱れているように見えた。
数日後、業を煮やしたのか、泉代家六万貫の一千七百が増富軍を攻撃してきた。持康が七千を率いて迎撃すると、三倍以上の相手に泉代勢はあっと言う間に崩れて逃げ出した。持康は敵を嘲笑い、定恭の制止を無視して総攻撃を命じた。自分も馬を飛ばして追撃し、泉代勢が近くの森に逃げ込むと、続いて森に飛び込んだ。
ところが、森の中には落とし穴や獣網が多数仕掛けられていた。増富軍は混乱し、隊列がばらばらになってしまった。
そこへ、背後から鬨の声が上がった。市射・錦木・猪焼三家の二千二百が森の外から攻め込んできたのだ。泉代勢も攻勢に転じた。ねらいは総大将の命だった。
持康はわずかな馬廻りの武者と共に森の中を必死で逃げ回ることになった。定恭が城を包囲中の軍勢を割いて敵のさらに背後を攻めなかったら死んでいただろう。しかも、城内から熊胆勢二千が打って出て浮足立つ包囲軍を突破、手薄になっていた本陣を襲って兵糧の集積場所に火を放った。結果、増富軍は包囲継続を諦め、一旦自領内に引き上げて態勢の立て直しを図った。
その間に、宇野瀬家が平汲・押中両家に桜舘家を牽制させて援軍五千を送ってきた。増富家は合わせて一万一千を超えた敵を攻めあぐね、再び桜舘家が勝利して宇野瀬家が撤退したこの冬まで開飯城を落とせなかったのだ。
「雪辱にこだわりすぎると思考が硬直するのだが」
定恭は溜息を吐いた。熊胆・猪焼両家が滅んだあと、定恭は残りは調略を勧め、三家も降伏と恭順を申し出たが、持康は拒絶し、滅ぼせと命じて出陣した。それで三家は桜舘家に救援を求めたのだ。
「悔しさは分かるが、そういう感情を制御できることが大将の最低限の資質ではないかな。これは避けられた戦だ」
聞こえないようにつぶやいて横を見ると、渋搗為続がこちらを見ていた。友人は片目をつむって声を大きくした。
「定恭、敵はどう出てくると思う? 勝てそうか」
「油断しない方がいい。きっと何かしかけてくる」
持康が振り返った。定恭は気に入らないが、知謀は認めざるを得ない。命を救われたことはまだ記憶に新しかった。
「北側の敵の目的は橋ではない。こちらが速やかに一隊を派遣すれば封鎖や破壊は難しいからだ。恐らく我が軍の多くを城から引き離し、その隙に包囲を解いて南の味方と合流するつもりだ。となれば、我々をしばらく橋の辺りに足止めするために、罠を用意しているだろう」
「何か考えがあるのか」
若君は渋々という様子で尋ねた。定恭はできるだけ丁寧な口調で言上した。
「敵の出方は予想が付きます。こちらはその裏をかきましょう」
敵の作戦とこちらの対応を述べると、持康は家老たちの顔を見回し、承認した。
「よし、それで行こう。お前も来い」
「ははっ」
定恭は頭を下げ、自分の家臣に出発の準備を命じた。定恭自身が本陣にいるため、配下の三十人もその周辺の警備に当たっている。
定恭は為続に近付いて礼を言った。
「助かったよ。恩に着る」
「負けたくはないからな。お前のおかげでどうやら勝てそうだ。城も落ちるだろう」
「だといいが、心配だ」
「おいおい、こちらは敵の倍だぞ。あの作戦に自信がないのか」
「そんなことはないが、敵の軍師はかなりの切れ者だ」
「お前も相当だと思うけどな」
為続は笑って、自分の配下一千五百貫四十五人のところへ向かった。
「軍師殿、来ました。増富軍です」
隠密が林の中の菊次郎へ報告に来た。水軍の船に彼等を十人ほど乗せてきて、周辺の様子を探らせていた。ここは道が木々の方へ曲がっていて先を見通せない。
「数はどのくらいですか」
「約四千です。多くが徒武者です」
「そうですか……」
菊次郎が座り込んだまま考え込むと、蓮山本綱が尋ねた。
「どうした。何かおかしいのか」
「敵が予想より少ないのです」
副将の秋芝景堅が推測を述べた。
「国主様の方か、包囲に多くを振り向けたのではないですかな」
景堅は三十二歳、五千貫の家老だ。守備に強く、境村の合戦では直春の部隊に属して大鬼勢相手に奮戦した。直春や本綱が期待して目をかけている。
「国主様が負けるとは思えませんし、こちらは楽になります。悪いことではないと思いますが」
「そうですね。それならば問題ありません。ですが、そうでない可能性もあります。徒武者ばかりというのも気になります。急行するなら騎馬武者の方がよいはずです」
菊次郎は少し考えて言った。
「考えすぎとも思いますが、念のため、忠賢さんに注意するように伝えた方がよいでしょう」
「だが、もう間に合わないぞ」
本綱は言った。
「敵はすぐそこだ」
林の陰から増富軍の長い行列が現れて近付いてくる。
「戦闘用の陣形ではないな。こちらの作戦に気付いていないようだ。急に襲われたら驚くだろう」
「そうですね。敵は僕たちが橋へ向かったと思っているでしょうから」
菊次郎は辺りを見回した。海岸沿いを進む南国街道の脇には、ところどころにこうした林が残っている。菊次郎は船の上から海岸を眺めて、伏兵に適当な場所を探していたのだ。
船での移動は速さが利点だが問題もある。船酔いだ。武者も馬もある程度の数はしばらく使い物にならなくなる。その回復の時間も必要なので、菊次郎は半時橋へ進軍せず、上陸場所からやや南下したこの林にひそんでいたのだ。弱った者には竹筒に入れて運んできた粥を食べさせて体力を回復させた。それ以外の者は握り飯だった。
「なるほど。敵の油断をつくわけですね。さすがは菊次郎様です」
感心した声を出したのは十五歳の少年だ。軽い鎧を着て手に短めの槍を持っている。名は楡本友茂という。
「ここは橋から随分南だ。あの大きな川が全く見えない」
これは笹町則理。二十歳の青年だ。手に盾を持っている。菊次郎と仲間たちを守るのが役目だ。
「増富軍は橋の手前までは行軍用の長い隊列です。そこを横から攻撃するのですね」
蕨里安民は十七歳。やはり盾担当だ。
「敵はとっさに対応できない」
柏火光風がぼそっと言った。十八歳で、得意の弓を持っている。
「急いで隊列を組もうにも、道の向こうは田んぼです。田起こしの前なので土が固いですが、武者は動きにくいですね」
最年長二十四歳の槙辺利静が指摘した。口調は落ち着いていたが、手は槍をぎゅっと握っている。五人は話しながら顔をひどく強張らせていた。
「お前たち、随分緊張しているな。全員初陣か」
本綱が尋ねた。利静は首を振った。
「私は違います。湿り原の合戦に出ました」
利静は押中家の旧臣なのだ。
「菊次郎様の作戦であっという間に負けましたので、逃げるばかりでほとんど戦っていませんが」
「他の四人は初めてです。だから、利静殿を頭にしました」
菊次郎が説明した。この五人は菊次郎の家臣だ。二百貫をもらったので、武者五人と従僕一人を雇ったのだ。従僕は軍師の秘密の書類などを荷車で運ぶのと身のまわりの世話や食事などが担当で、今はそばにいない。
「菊次郎殿は自分で身を守れない。君たち、頼んだよ」
本綱の言葉に五人はそろって首を縦に振った。菊次郎も腰に短めの軽い刀を帯びているが、左手の握力が弱いのであまり役には立たない。右手には大軍師の証の黒い軍配を握っている。
「そろそろだな。合図は菊次郎君が出してくれ」
周囲の武者は既に戦闘準備が整っている。菊次郎は蕨里安民の持つ竹の横笛を指差した。
「今だ、と言ったら、それを思い切り吹いてください」
「分かっています」
同い年の少年がしっかりと頷いたのを確認して、菊次郎は敵に視線を戻した。
増富軍が近付いてきた。徒武者たちの足音と甲冑が立てる音が大きく響いている。
「よしよし。そのままこっちまで来なさい、おばかさんたち」
楡本友茂少年がつぶやいた。味方は林の中に広がって隠れている。敵の先頭が通りすぎたら一斉に攻撃して混乱させ、敵の後部に打撃を与えて蹴散らし、すぐに撤収して土長城に向かう予定だ。
「もうすぐですね。菊次郎様を守るだけで僕たちは戦わないとはいえ、さすがに手が震えます。敵はまだ気付いていません。これは勝てますね」
「友茂殿。静かに。敵はすぐそこですよ」
槙辺利静が小声でたしなめると、友茂はばつの悪い顔をした。よく見ると槍を持つ手が震えている。初陣の恐怖で饒舌になっていたらしい。菊次郎が微笑み、勇気付けるように最年少の護衛に頷いた時、弓と矢を握っていた柏火光風がぼそっと言った。
「敵が止まった」
菊次郎が急いで林の外を見ると、増富軍は確かに停止していた。武者が五人近付いてきて、しきりの林の様子をうかがっている。
「読まれたか」
本綱が舌打ちした。菊次郎は驚きを隠せなかった。
「そのようですね」
「菊次郎様の作戦が見破られるなんて」
笹町則理が盾を持ったまま真っ青な顔で振り向いた。恐ろしさで声が上ずっている。周囲の武者の表情が急に険しくなった。
「どうする」
本綱に尋ねられて菊次郎は少し考えたが、すぐに顔を上げた。
「林を出て攻撃しましょう。見付かった以上、隠れていても意味がありません。この近さでは逃げてもすぐに追い付かれますし、敵が南側にいるので突破しないと城の方へ行けません。敵のねらいは僕たちですから、ぐずぐずしていると向こうから攻めてきます。敵の態勢が整う前に攻め立てて崩すしかありません」
「そうだな。では、景堅殿、南半分の一千を率いて森を出て、隊列を組んだら一気に前進して攻撃しろ。俺は北半分を連れて田んぼ側から敵の右側面を襲う」
武者たちに指示が伝わると、本綱は立ち上がって大声で叫んだ。
「皆の者、攻撃開始だ! 気合を入れろ!」
菊次郎は蕨里安民に命じた。
「今です。笛を鳴らしてください!」
ぴいい、ぴいい、と最大の息で横笛が吹かれた。
「桜の御旗に栄光あれ!」
副将の景堅と周囲の武者が飛び出し、素早く隊列を組んで敵に向かっていった。続いて出てきた武者たちも本綱の指示で並んで前進していく。
菊次郎も道のはしまで出て馬にまたがり、両隊の後ろから全体の動きを眺めていた。
「敵も向かってくるよ。秋芝様の部隊を迎え撃つつもりのようだ」
林の木に登った笹町則理が下にいる仲間に状況を説明した。
「しかし、動いたのは半分程度だね。残りはその場にとどまっている」
「蓮山様の部隊に備えるつもりでしょうか」
安民が首を傾げると、利静が考えを述べた。
「機を見て投入し、勝負をつけるつもりかも知れません」
「ですが、無駄ですね」
確認するように言った友茂に頷いて、菊次郎は再び安民に指示した。
「合図の笛を!」
今度は、ぴい、ぴい、ぴい、と三回一組で強く鳴らした。それを数回繰り返すと、海岸の方で大きな鬨の声が湧き起こった。
「お前ら、行くぞ! 遅れるなよ!」
忠賢の大声が聞こえて、青い鎧を先頭に、騎馬武者九百が林の切れ目から街道へ出てきた。増富軍の背後へ殺到する。
「よし。挟み撃ちにできました!」
友茂が両こぶしを握り締めて叫んだ。
「うまく行ったな」
則理は盾を構えて菊次郎の馬を守りながら声を弾ませた。安民も喜びに声が上ずっている。
「蓮山様の部隊が田んぼ側から接近し、包囲しようとしています」
「これは勝った」
柏火光風までやや興奮した様子だった。
「敵は抵抗していますが、すぐに崩れるでしょう」
利静はほっとした様子だった。だが、菊次郎は違和感を覚えていた。
「敵は林の手前で止まって物見を出しました。こちらが橋へ向かわず、途中に伏兵していることを読んでいたのです。なのに、やすやすと包囲を許しましたね」
菊次郎は敵の動きをじっと眺めた。
「景堅殿の攻撃に動かなかった半分が、すぐに田んぼ側と背後を守り、包囲されようとしているのに混乱が起きていません。何かがおかしいです」
五人はそんなことをはないだろうという顔をしたが、菊次郎にならって周囲を見回した。
と、光風が木の上で南を指差した。
「あれは何だ!」
いつもとは違う大声だった。そちらへ目を凝らして友茂が叫んだ。
「敵が来ます! 騎馬武者です! 一千、いや、二千はいますよ!」
「味方の騎馬武者のさらに後ろを襲う気でしょう。こちらが挟み撃ちにされます!」
利静の指摘通り、林の陰から現れた敵の新手はまっすぐ忠賢隊を目指していた。
「敵のねらいはこれだったのですか」
菊次郎は唇を噛んだ。
「奇襲されたにもかかわらず、敵の徒武者は統制の取れた動きでこちらを押し返していました。味方の来援が分かっていたのです。僕たちの行動は敵の予想通りだったのですね」
この作戦を考えた人物は、林にひそんでいる部隊の他に、背後を襲う伏兵がいることを読んでいた。だから、それを先にたたくことにしたのだ。
「罠にはまったのはこちらだったのですね」
菊次郎は大きな衝撃を受けたが、動転して頭が働かなくなることはなかった。
落ち着くんだ。冷静に考えろ。まだ負けてはいない。
これまで危機に陥るたびに直春や忠賢が助けてくれた。その経験で菊次郎は強くなっていたのだ。
ここに直春さんはいない。忠賢さんは戦っている。味方を救うのは僕の役目だ。
自分に言い聞かせ、深呼吸して、仲間たちに顔を向けた。
「安民さん、忠賢さんに後退の合図を」
「はい」
安民は頷いたが、首を傾げた。
「新手襲来の警告はしないのですか」
「それでは武者たちが動揺します。忠賢さんなら意味に気付きます。今は敵との戦いに夢中でしょうが、周囲を見回して適切な行動を取るでしょう」
菊次郎は忠賢の判断力を信頼していた。
続いて、笹町則理に命じた。
「忠賢隊が脱出したら、蓮山隊も後退させます。それを本綱さんに伝えてください。利静さんは景堅殿に伝言を」
二人は内容を聞いて復唱すると、部隊の方へ走って行った。
「大丈夫でしょうか」
友茂は不安そうだが、菊次郎の顔には微笑みが浮かんでいた。
「忠賢さん、本綱さん、景堅殿は、皆有能な武将です。大丈夫、うまく行きます」
仲間を信頼していると、これほど気持ちに余裕を持てるのか。
直春や忠賢に俺たちを信じろと言われた意味を、菊次郎は実感していた。
自分のことも信じないと。まだ勝負はついていないのだから。
菊次郎は林に残った十人の武者たちに、次の手の用意を指示した。
「敵の騎馬隊が田んぼ側へ逃げるぞ」
渋搗為続が言った。
「そうだな。挟撃は失敗した。敵将は相当配下に信頼されているようだ。混乱を起こさず、うまくまとめて引いていく。青い鎧からすると青峰忠賢だろう」
砂鳥定恭は冷静だった。
「だが、こちらの騎馬隊が追っていく。そのまま数の差で押し切って背後に回れば勝ちだ」
六千の増富軍の中央で総大将を守りながら、定恭は戦況を分析していた。
敵は予想通り林の中に隠れていた。土長城へ進軍する時退却する場合のことを考えていたので、城の方から来る軍勢を奇襲できる場所には見当が付いた。そういうところに近付くと、部隊を止めて物見を出し、いないと分かると進むのを繰り返したのだ。
桜舘軍はこちらに痛撃を与えてあとを追えなくし、土長城を救援するつもりに違いない。だが、いくら奇襲するとはいえ、半分の兵力で六千全部を一気に混乱させるのは難しい。総大将を討てれば別だが、それは運なので、もっと確実に増富軍を浮足立たせる手を打つだろうと思われた。その方法として最も簡単にできるのは、奇襲部隊を二つに分け、こちらが前に気を取られた隙に後ろを襲うことだ。
そういうわけで、定恭は敵の奇襲部隊の登場に備え、背後の守りを固めていた。敵の兵数から考えれば、後ろを襲う敵はせいぜい一千。来ると分かっていれば動揺しないし、援軍の到着まで持ちこたえられる。敵は勝ったつもりでいるだろうから、その後ろを二千で急襲すれば間違いなく混乱する。敵がひそんでいるのを発見した時点で味方の騎馬武者隊に伝令を送って駆け付けさせた。
「全てお前の作戦通りだったな」
同い年の友人は感心しきりだ。
「形勢は逆転した。この戦はもう勝ったも同然だ。味方が押している」
定恭は首を振った。
「いや、包囲する前に騎馬隊に逃げられた。馬が多いと聞いたから背後を襲うのは騎馬隊だろうと見当をつけ、味方に急いで駆け付けてもらったが、敵将の判断の早さと統率力は予想以上だった。こちらの騎馬隊と接触する前に逃げ出されるとは思わなかった。計画が狂ったよ」
「だが、こちらは倍だぞ。軍勢の一部を田んぼ側から敵の背後に回せば勝負がつく。既にその準備はできている」
騎馬隊五百と持康を守っている馬廻り一百がその役割を担う。総大将に花を持たせるためだ。
「そのはずだが、何かが引っかかる」
「心配しすぎだろう。この状況で敵に何ができる。もう伏兵もいないだろう」
為続は笑った。
「お前とは長い付き合いだが、こんな才能があったとは知らなかった。優秀だとは思っていたがな」
子供の頃から知り合いで、学舎で机を並べて学問にはげんだ為続は、定恭の軍学の成績を知っている。
「自分でも驚いているよ」
卒業後、定恭は小荷駄方に所属していた。食料や物資を用意して送る仕事で、戦場に出たことはなかった。だが、なぜか右執政の数多田馬酔に評価され、持康に付けられた結果、思わぬ才能を発見することになった。合戦の話を聞くたびに自分ならどうするかを考えるのは好きだったが、実際にそれがうまく行くとは思っていなかったのだ。
「お前に任せれば勝てそうな気がするから不思議だ。妙な感じだな」
為続に言われて定恭は苦笑した。
「学舎では随分と世話になったものな」
世の中をうまく渡っていく能力では為続の方がずっと上だ。孤立しがちな定恭をしばしば寮の部屋から引っ張り出して、周囲との関係を取り持ってくれた。
「お前はどこか特別なんだよな。もう家老たちも一目置く軍師様だ」
「そんな大層なものではないよ」
自分は周囲と考え方が違うとずっと感じていたが、それはあまりほめられることではないだろう。かつてこの友人に言われたことがある。
「お前は変わっているんじゃない。ずれているんだ」
全くその通りだと思う。何かが決定的にずれていて、世間一般の人々と重ならないのだ。
だから五形城の政所での出世は諦めていて、裏方の小荷駄方でそこそこの働きをし、四十を過ぎたら隠居すればよいと考えていた。家は裕福なので食うには困らない。
それがこうして戦場で大軍の作戦に関与している。責任の重さを感じるが、計画が当たってねらった通りに戦況が進んでいくのは正直言って楽しかった。
だが、今回の戦は違った。どうも敵の考えが読めた気がしない。ここまで敵の動きは予想通りだが、何かが間違っている気がするのだ。
「勝っているはずだ。そう見えるんだが……」
敵の騎馬隊九百は田んぼへ逃げ、それを味方の騎馬武者一千五百が攻めている。側面を襲おうとしていた敵の部隊一千、街道上の敵一千は、それぞれこちらの徒武者二千弱が攻撃している。つまり、敵と味方は二列になって向かい合い、倍の増富軍が桜舘軍を攻め立てている。
このまま行けば数の多いこちらが勝つ。頃合いを見て馬廻りと騎馬武者五百を差し向ければ、敵は隊列を乱して逃げ出し、追撃戦が始まるだろう。そう思うのだが、何かがおかしいと感じるのだ。
なぜこれほど不安なのだろうと考えて、定恭は気が付いた。この不利な状況に敵の軍師が何も手を打たないはずがないのに動きがない。こちらの騎馬隊が現れた時、敵の騎馬隊はあっさりと逃げ出して味方の横に並んだ。正面から向かい合えば負けるのは数に劣る桜舘軍だ。騎馬隊をただ並べるなどあの軍師らしくない。何かねらいがあるのではないか。
だが、それが分からない。敵はこの状況をどうするつもりなのか。銀沢信家という軍師は葦江国での戦を見ても打つ手が予想できない。
定恭は敵の中に軍師らしき姿を探した。船で北へ回るのも、林に兵を伏せるのも、あの軍師の作戦だろう。必ず同行してこの戦場にいると確信していた。
どこだ。どこにいる。
敵軍を必死で見回していると、総大将持康の声が聞こえた。
「よし、こちらが押しているな。ここで一気に攻勢に出る! 敵の後ろに回るぞ!」
持康は馬廻りをまとめる家老に命じた。馬上で興奮している。持康自身は危険なため攻撃には参加しない。開飯城の戦いで立場はよく分かったはずだが、総大将として格好を付けているのだ。
「さあ、行くぞ。俺ももう少し前に出る」
持康は槍を掲げ、攻撃命令を出そうとしている。定恭は焦った。それはまずい。
「馬廻り、前進……」
持康が叫びかけた時、定恭は大声を出した。
「お待ちください!」
周囲の武者が驚いて振り向いた。
「何だ。文句があるのか」
持康が不満そうな顔を向けた。敵の背後を馬廻りに襲わせようと進言したのは定恭自身なのだ。
「敵のねらいが読めません。もう少し様子を見ましょう」
一斉に注目されてひるみかけたが、勇気を出して説得を試みた。
「何かをたくらんでいる気がするのです。危険です」
「敵は何をねらっているのだ」
持康は尋ねた。
「分かりません」
定恭は正直に答えた。
「ですが、何かを待っているように感じるのです」
「だから、何をだ」
「分かりません」
持康は怒りに顔を歪めた。
「分からないのに止めるのか」
「はい」
仕方なく頷くと、持康は怒鳴った。
「総大将は俺だ。俺が攻撃するべきだと思うのだ。お前はそれを理由もなく止めるのか!」
「申し訳ございません。ですが、どうにも気になるのです」
「もういい! 下がれ!」
持康はわがままをとがめられた子供のような表情だった。
「この状況で攻めないでどうする。ここは一気に決めるところだろう。違うか、お前たち」
犬冷扶応と蛍居汎満は顔を見合わせて答えた。
「違いませぬ」
「若殿のおっしゃる通りでございます」
定恭の能力は分かっているが、この命令を止めるのは不可解だと思っているようだ。
「為続はどう思う」
問われて、友人は困った表情になった。
「私の見るところ、攻撃の好機と存じます。ですが、砂鳥殿が……」
「ほら見ろ」
持康は為続の言葉をさえぎった。
「皆、俺の意見の方が正しいと言う。これでも反対するか!」
定恭の返事を待たず、叫んだ。
「戦は勢いだ。臆病者は黙っていろ!」
言うなり、武者たちの方を向いて命じた。
「前方の敵の背後へ向かえ! 包囲して敵の大将を討つ! 全軍前進!」
おおう、と騎馬武者たちが雄叫びを上げて駆け出した。戦闘中の部隊も一斉に槍を突き出して敵へ圧力をかけていく。
桜舘軍は必至で押し返そうとするが、勢いは増富軍にあった。
「これでよかったのか」
まだ首を傾げつつも、この攻撃がうまく行けばそれが最もよいと思った時、悲鳴のような声が後ろから聞こえてきた。
「敵の新手だ!」
「何っ?」
定恭は持康と同じ言葉を口にして後方を見た。
「敵の半数はまだ国境のはず。援軍が、しかも南から来るはずは……。そうか、これを待っていたのか!」
定恭は思わず叫んだ。林を回って現れた軍勢の旗印は二種類、どちらも木の家紋だった。市射家と錦木家の一千二百だ。攻撃の陣形でぐんぐん近付いてくる。
「敵は上陸後、使者をあの軍勢に送り、我々のあとを離れて追わせたのか」
悔しかったがすっきりした。敵軍師にはやはり数で不利でも戦い続けるねらいがあったのだ。
「これはまずいぞ」
為続が言った。
「挟撃される。逃げ道がない」
前に三千、後ろに一千二百。背後の新手は森の陰から現れたので気付くのが遅れた。持康隊の一部を反転させて迎撃態勢を取る前に攻撃されるだろう。
「こうなったら、前方の敵に全軍で突撃だ!」
持康は真っ青な顔でやけになったように言った。開飯城で後ろから攻められて包囲されかけた経験があるので、状況のまずさが分かったらしい。
「いえ、田んぼの方へ逃げましょう」
定恭は提案した。
「あちらだけ開いております」
「林の中は駄目か」
為続が尋ねた。
「林に逃げ込むと隊列を維持できない。しかも、その向こうは海だ」
海岸に追い詰められたらお終いだ。持康だけはなんとしても逃がさなければならない。当主常康の正室が生んだ唯一の男児なのだ。側室の子は多数いるが、その場合はひどいお家騒動が起こるだろう。
「よし。若殿をお守りしつつ、田んぼへ……!」
「お待ちください。ゆっくり後退して街道を離れ、隊列を崩さずに移動するのです。警戒を怠ってはなりません……」
命令しようとした家老に進言しかけたところへ、大きな笛の音が鳴り響いた。はっとしてそちらを見ると、馬にまたがった少年が黒い軍配を振り上げていた。
「あれが敵の軍師……」
つぶやいた瞬間、林で激しい物音がして、大きな炎が上がった。
「木に油をまいてあったのか!」
林の中に増富軍の武者はいないし、そちらへ逃げるつもりはなかったから実害はない。だが、武者たちの闘志をくじくには効果的だった。
そこへ再び笛が鳴った。
「投擲!」
桜舘軍から油玉と煙玉が多数投げ込まれた。もくもくと白煙が上がり、地面が各所で燃え上がった。
「一斉攻撃開始!」
「桜の御旗に栄光あれ!」
五人ほどの声をそろえた命令が聞こえ、三千人の雄叫びが轟いた。答えるように市射勢と錦木勢から鬨の声が上がった時、誰かが絶叫した。
「包囲されるぞ! 田んぼの方へ走れ!」
その声と同時に、増富軍の隊列は崩壊した。人のなだれが一斉に田んぼへ移動した。
「為続、若殿を連れて南東へ逃げろ。真東は嫌な予感がする」
定恭は馬に飛び乗ると近付いて叫んだ。逃げられる方向は一つしかなかった。定恭ならそこに罠をしかける。桜舘軍の奇襲が成功した場合も、増富軍はそちらへ逃げたはずなのだ。
「ぎゃああ!」
先頭を走っていた武者たちが悲鳴を上げた。田んぼの中に釘のつき出た木材が多数並べてあったのだ。土をかけて隠されていたので多くの者が踏み抜いて苦しんでいる。増富軍が足をゆるめてためらったところへ、青い鎧の武将を先頭に、騎馬武者たちが槍を構えて殺到した。
「逃げろ! 抵抗するな! とにかく東へ走れ!」
定恭は家臣たちに叫ばせた。持康を探すと、為続の家臣に守られて逃げていくのが見えた。
六千の増富軍は多数の怪我人を出しながら田んぼの中をひた走り、敵軍が完全に見えなくなったところでようやく止まった。
定恭は味方を集めると小荷駄隊を呼びに行かせ、家老たちと協力して点呼と負傷者の治療をさせた。
「損害はどれほどだ」
為続がやってきた。汗と泥で顔が真っ黒になっている。
「死傷合わせて五百といったところだ。敵が途中で引き鐘を打たなかったらもっと多かったはずだ。日が暮れる前に城へ着きたかったのだろう」
そろそろ日が傾き始めている。暗くなるにはまだ少しあるが、早く城のそばで宿営したかったに違いない。
「若殿のご様子はどうだ」
無事なのは確認したが、こちらが忙しくて会いに行っていなかった。
「お怪我はないが、かなりがっくり来ているようだ」
「それは仕方がない。俺だってそうだ」
昨年の開飯城の戦い以来の大敗だった。武者たちも皆疲れた顔をしている。
「さて、これからどうする」
問われて、定恭は言った。
「田んぼの中で宿営はしにくい。城から逃げてくる味方と合流して移動しよう。明日、撤退する。もう家臣を迎えに行かせた」
また結論を先に述べてしまったことに気が付いたが、為続は慣れているのか続きを待っている。
「今から行っても包囲が解かれるのは防げない。城に残してきたのは五千。四千二百が近付いたら武者を分散しているわけにはいかない。きっと安全な場所まで下がるだろう。この分だと国境の部隊も負けているかも知れない。全軍を集めて体勢を立て直す必要がある」
「撤退するしかないのか」
「若殿は嫌がるだろうが、そうせざるを得なくなる」
定恭は言った。
「包囲が解けたら泉代勢が城を出てくる。半分として一千。六千・一千二百と足すと八千だ。合戦しても勝てるかどうか分からない。敵にはあの軍師がいるのだぞ。そもそも、敵は戦いを避けて長期戦に持ち込み、成安家の援軍を待とうとするだろう」
「なるほど」
「また、こちらには早く帰りたい事情がある」
「大評定か」
「そうだ。去年は出席していない。今年は若殿も俺も呼ばれている」
五形城へ戻って、茅生国攻略の状況を報告しなければならない。
「大評定まで一月だ。それまでにあの敵を打ち破って城を落とすのは厳しい。一度引いて入念な準備をし、再び挑むべきだろう」
「確かにそれがよいかも知れないな」
「それに、戦ってもし負けたら大評定で敗北を報告することになる。今ならまだ、城は落とせなかったが死傷者は少ない、無理をせずに引き上げてきたと言い訳できる。今日の戦いは双方の一部しか参加していないし、援軍が来た時点で城を落とすのは難しくなっていたからな。熊胆家と猪焼家を滅ぼして十二万貫は手に入れたのだ。若殿の面目は立つ」
実は、中部の二家を滅ぼした時点で定恭は撤退を進言していた。泉代家を攻めれば成安家に援軍を求めるだろう。強敵と見なしていた桜舘家も出てくる可能性がある。だから調略を勧めたのだが、持康は茅生国の完全制圧にこだわり、勢いに乗って土長城に攻め寄せた。定恭は苦戦するなら引くべきだと始めから思っていたのだ。
「敵は数が増え、守っているばかりではなくなる。こちらには城もなく、地形を知りつくしている泉代家の案内で夜襲でもされたら若殿を守り切れないかも知れない。橋を落とされて退路を断たれる可能性もある。危険を避けて撤退するのも勇気だと思う」
定恭は安心させるように言った。
「恐らく敵は追撃してこない。警戒は必要だが、あの軍師ならそう進言するだろう」
「分かった。家老の方々には俺から話しておこう。国境の味方にも伝令を出してこちらへ向かわせよう」
「それだが、一つ助言がある」
策を聞いて為続が去っていくと、定恭はその場で立ったまま考え込んだ。
「どうなさいました」
砂鳥家の武者沖網広太郎が干し飯を持ってきた。お米役の定恭が家老に提案し、小荷駄隊に命じて体力回復用に配らせたのだ。
「今日の合戦のことを考えていた」
定恭はかちかちの米をがりがりと噛み砕きながら、独り言のように言った。
「俺の作戦で負けたのは初めてだな」
「定恭様のせいではありません」
広太郎は小声で慰めてくれた。定恭は竹筒の水を飲み、微笑みを浮かべて首を振った。
「完敗だった。読み負けた。俺より十歳下だと聞くが、恐ろしい少年がいたものだ」
「向こうもそう感じていると思いますよ」
「かも知れないな」
並の武将が相手なら、林の伏兵と騎馬隊の奇襲だけで勝っていた。敵の軍師も驚いているだろう。
「どんな人物か、会ってみたいものだ」
定恭は独り言ちて、干し飯の残りを口に放り込むと、宿営に適した場所を提案しようと若君のところへ向かった。
「敵は撤退していきます」
物見の武者が本陣に報告に来た。
「分かった。ご苦労だった」
直春は床几に座ったまま頷いて、菊次郎に言った。
「予言通りだったな。さすがだ」
「さすがなのは敵の方です。改めて恐るべき相手だと思いました」
菊次郎は首を振った。
昨日、菊次郎たちは泥鰌縄手という場所で六千の増富軍と戦い、打ち破った。二家の軍勢と合流し、わざと存在を知らせるように土長城へ近付いていくと、増富軍は包囲を解いて北へ向かった。
菊次郎は隠密を海岸へ向かわせ、船で勝利を直春に伝えさせた。直春隊は交戦を避けて城の包囲が解けるのを待っていたが、撤退する敵を攻撃する準備を整えた。忠賢の騎馬隊は敵の背後を襲うべく早朝に城を発った。
ところが、国境を封鎖していた増富軍は夜の間にいなくなっていた。陣内のかがり火を燃やしたままにして裏口から密かに引き上げたのだ。追撃を避けるため敵の軍師が指示したのだろう。忠賢は残念がったが直春隊と一緒に昼前に城に戻ってきた。
そこへ、合流した敵が宿営地から南下してきた。桜舘家と三家の連合軍八千三百と増富軍一万三千強は城の近くで対峙したが、昼をやや過ぎた頃になって、敵が撤退を始めたのだ。
「合戦は敵にとって賭けでした。引き上げるのは正しい判断です」
あの作戦を立てた軍師ならそうするだろうと思っていたが、無理をしなかったことに感心した。
「敵は勝てないと分かったんだと思う」
田鶴の肩には真白が乗っている。小猿は成獣になって一回り大きくなったが、小柄な田鶴も十五歳になって少し背が伸びたので、さほど重くは感じないようだ。
「菊次郎さんの作戦がよかったのよ」
敵がこちらに向かっていると聞くと、菊次郎はすぐに軍議を開き、陣形を指示して配置した。
直冬も田鶴に賛成のようだった。
「正面中央に直春隊三千。左翼に泉代勢一千三百、右翼に市射・錦木勢一千二百。後ろに予備の直冬隊二千。ここまでは普通ですけど、忠賢さんの騎馬武者隊を離れたところに置きました。あれが効いたのだと思います」
敵が北から来るので主力は南に布陣したが、騎馬武者八百だけは東に置いた。増富軍が攻撃してきたら直春隊と三家の部隊で受け止め、背後や側面を忠賢の騎馬隊が襲い、混乱したところで直冬隊を投入、全軍で総攻撃するという作戦だ。
「湿り原で忠賢殿の武名は周辺国に轟きました。敵が警戒したのは当然ですな」
本綱が言った。八百の精鋭騎馬隊に横や後ろをつかれる可能性があると戦いにくい。敵の騎馬隊三千弱はその対応に振り向けなければならない。また、敵の大将は跡継ぎの持康らしいので、万一のことがあっては大変だ。仮に二千を本陣の守備に使うと、動かせる兵力は八千ほどだ。
つまり、敵は菊次郎の作戦を見抜いたのだ。その上で、連合軍を崩すのは難しく、勝てても大損害をこうむる可能性があると判断したのだろう。
「泥鰌縄手でも、僕たちが橋に行かずに途中で兵を伏せていることを前提に作戦を立てていました。こちらの意図を正確に読んでいたのです」
「菊次郎君が感心するくらいだ。相当な切れ者のようだな」
直春が言うと、菊次郎は首を傾げた。
「ですが、なぜそこまで読める人が城の方へ来たのでしょうか。それが不思議です」
「どういう意味ですか、師匠。城を落とすためでしょう?」
直冬が分からないという顔をした。
「こちらが戦いを避けて成安家の援軍を待つことは分かっていたはずです。僕たちが三家と合流した時点で土長城を落とすことは不可能になりました。まっすぐ国へ帰ればよかったのに、なぜ近くまで来たのでしょうか。追撃される恐れもあったのに」
「落とせると思ったから、ではないのですか」
直冬が自信なさそうに言うと、本綱が笑みを浮かべた。
「私には分かります。敵の大将が直春様ではないからですな」
秋芝景堅も頷いた。
「増富持康は評判のよくない人物です。その軍師は苦労しているのでしょうな」
田鶴が、ああ、そういうことね、という表情になり、一言でまとめた。
「きっとその人は嫌われているのよ」
菊次郎はびっくりしたが、納得した。
「なるほど。その発想はありませんでした。確かにそうかも知れません。きっと、ここまで来てこちらの備えを見せることで、撤退を納得させたのでしょう」
「どういうことですか?」
まだ分からないらしい直冬に、田鶴はやさしく微笑んだ。
「頭のよい人が嫌いな人もいるのよ」
「と言いますか、菊次郎殿に好きにやらせている直春様のようなお方が珍しいのですよ」
本綱が言い、景堅もその通りという顔をしている。
「そこが国主様の器量の大きさです」
「僕たちは恵まれているのですね」
菊次郎が見つめると、直春は笑った。
「菊次郎君や忠賢殿に自由にやらせた方がうまく行くのだから、そうするのは当然だ。俺がやった方がよいと思ったら自分でやるさ」
菊次郎はうれしかった。一方、存分に腕を振るえないその軍師を可哀想に思った。
「となると、そこが敵の弱点かも知れません」
「悪だくみを思い付いた顔をしてる」
田鶴がからかった。
「否定はできませんね。敵の軍師が戦場に出てこられなくするという攻め方もありますから。でも、それには情報が足りません。隠密衆の出番ですね」
「分かった。馬之助に言っとく」
田鶴の副頭はこの戦場に来ていないが、隠密衆は増富領内にも配置してある。遠からず情報が集まるだろう。
そこへ、青い鎧が馬で駆けてきた。
「おい、追撃しないのか。敵が撤退していくぞ」
忠賢だった。
「しない」
直春がきっぱりと言った。菊次郎が説明した。
「豊津城で言った通り、今回の出陣の目的は三家の救援です。追撃して打ち破っても当家にはあまり得がありません」
「国境では追撃する予定だったじゃねえか」
「あれは敵の兵力を減らして合戦を諦めさせるためです。ねらい通り撤退を始めたのですから、これ以上戦う理由はありません」
「打撃を与えればしばらく大人しくなるだろ」
「敵は味方よりずっと数が多く、備えもあります。下手に攻撃すれば死傷者を増やすのはこちらです。もし大きな損害を受ければ、敵は引き返してきて城を攻めようとするかも知れません」
増富軍は城側の最後尾に盾兵を配置して守りを固め、進んできた陣形のまま後ろへ下がっていく。接近すれば反転して攻めてくるだろう。騎馬隊もいつでも駆け戻って追撃軍の側面を突ける隊列になっていた。
「ちぇっ、やっぱりけち臭い計算をしてやがるな。まあ、仕方ない。諦めるか」
泥鰌縄手では敵に背後を襲われて逃げる羽目になり、追撃も途中で止められた。戦い足りないのだ。
「もう少し手柄を立てたかったがな」
さほど未練そうではなく言って、忠賢は馬から飛び降りた。
「で、何の相談だ」
「直春兄様はとても立派ということです!」
ようやく意味が分かったらしい直冬が得意そうに言った。忠賢は怪訝な顔をし、話を聞いて大笑いした。
「確かにこのお殿様は大物だな。こいつを基準にしちゃいけないぜ。大抵の封主は家臣の提案に簡単には頷かない。戦場で好きにやらせてくれる大将も滅多にいない。こいつは懐が深くて、そういう手綱の引き方ゆるめ方がとっても上手いよな」
「珍しくほめるのね」
田鶴が意外そうな顔をすると、忠賢はにやりとした。
「本当のことを言っただけさ。俺は自分の意志で桜舘家に仕官したんだからな」
「忠賢さんが言うと説得力がありますね」
狼のようなこの男でさえ、直春は使いこなしてしまう。忠賢に気に入られていることだけでも大将として非凡なのだ。
「で、これからどうする」
忠賢が尋ねた。
「戦は終わりなんだろ」
「敵が橋の向こうに渡り、万羽国に戻っていくことが確認されたら葦江国に帰ります。でも、その前に、直春さんにやってほしいことがあります」
「何をすればよいのだ?」
菊次郎は右と左を見た。三家の軍勢から当主たちがこちらへやってくる。
「彼等は当家を警戒しているでしょう。援軍を出してくれたことには感謝していても、増富軍が引き上げたら城を攻めるつもりではないかと疑っているかも知れません」
菊次郎は言葉にたっぷりと期待を込めた。
「その誤解を解いてください。信頼を得て仲間に引き込みましょう!」
「直春さんならできるね」
「確かにそれはお殿様が適任だな」
田鶴と忠賢が言うと、直春は笑った。
「任せておけ」
来訪を告げる三家の家老の声が聞こえてきた。




