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狼達の花宴 ~大軍師伝~  作者: 花和郁
巻の一 運命の出会い
2/66

(巻の一) 第一章 都の軍学塾

「これでも食らえ!」

「そんな玉には当たらないぜ! みんな、投げ返せ!」


 寒さが肌を刺す梅月(うめづき)初旬の昼下がり、一面真っ白な広い庭で、二組の少年が盛んに雪玉を投げ合っていた。皆体中雪だらけで手は真っ赤だが、白い息とともに叫ぶ声は勇ましく、表情は真剣だった。

 というのも、これは遊びではなく修練だからだ。少年たちは玉都(ぎょくと)若竹(わかたけ)適雲斎(てきうんさい)の軍学塾で学ぶ弟子だった。温暖な都には珍しい大雪の翌朝、適雲斎が雪を使っての合戦を命じたのだ。

 十人ずつ赤白青緑の四つの組が作られ、昼前から総当たり戦が行われている。既に五戦が終わり、今は赤組と青組が二勝同士で決勝戦の最中だった。


「畜生! 青組の奴ら、ずるい手を使いやがって!」


 赤組の一人が叫んだ。青組の攻撃役七人は、藁縄(わらなわ)で縛って持てるようにした雨戸を三枚縦にして並べてその陰に隠れながら、戦場と決められた範囲の右端をじりじりと前進している。雪合戦はそれぞれの陣地の奥に隠れている敵の大将に雪玉を先に当てた方が勝ちなので、このまま赤組の陣地に接近するつもりなのだ。

 赤組の者は悔しがっているが、適雲斎が合戦の前に作戦を考える時間を与え、この塾の中にあるものなら何でも利用してよいと言ったので、これは許された戦法だった。赤組の方も雪玉作りと運搬に木の椀と盆を使っているのだ。だが、その豊富な雪玉をもともと用意されている数個の大きな雪人形の陰からいくら投げ付けても、雨戸の大きな壁に阻まれて全く効果がなかった。


「あの壁が邪魔ね」


 赤組の大将若竹(わかたけ)天乃(あまの)は、手にした(わん)で雪をすくって固めながらつぶやいた。十四歳の彼女は適雲斎の孫娘で、軍学塾にいる唯一の女の子だ。

 この塾には二十歳を超えた青年も少なくないが、作戦を考えて指揮をとる大将に赤組の仲間は天乃(あまの)を選んだ。それは、少女が男にまじって雪を投げるのは危ないしねらい撃ちされそうだという理由もあるにせよ、半分以上は彼女の実力によるものだった。天乃は適雲斎の愛弟子で、その愛くるしい顔と華奢(きゃしゃ)な体つきに似合わずよく知恵が回るし、武芸の腕もなかなかのものなのだ。実際、これまでの二戦に勝つことができたのは彼女の作戦のおかげだった。

 だが、さすがの天乃も青組の壁には手を焼いていた。青組は身を守りながら敵陣に近付くと、雨戸を捨てて散開し、大将を四方から一斉にねらう方法で二勝しているのだ。雪玉に当たった者は死亡と見なされて退場だが、本陣に残した護衛二人以外の七人が敵の大将の目の前まで行って一気に襲いかかるのだから、敵が必死で迎え撃っても、全員が玉に当たる前に大将を倒すことができるのだった。


「あの戦法は実戦では相打ち覚悟でないと使えないわね。いくら敵の大将を倒せても、味方もほとんどがやられてしまうのだもの」  


 敵の作戦を批評しつつ、天乃は冷静ではいられなかった。このままでは青組の七人に目の前まで接近されてしまい、また同じ展開になるからだ。仲間もそれを心配しているらしく、対策を尋ねるように天乃をちらちらと見ている。合戦が始まる前に相談して、防御の弱い後ろへ回り込んで攻撃しようと決めたのだが、実行できなかった。青組はすぐに雨戸をそちらへ向けて守りを固めるだろうし、雨戸を支える役の三人以外の四人が隙間から雪玉を投げてくることは明白だったのだ。迎え撃つ味方は玉作り専門の天乃を除く九人だから、あの壁さえなければ互角以上に戦えるはずだが、青組の前進は止まらず、形勢はこちらが不利だった。


「なんとかあの壁の向こうの敵に玉を当てられないかしら」


 思案に詰まった天乃は何かないかと辺りを見回した。だが、講堂の縁側にあぐらをかいて、さてどうするかなと面白そうな顔をしている祖父や、その周囲で勝負の行方を見守っている他の二組の弟子たちを観察しても、この状況を好転させる手掛かりになりそうなものは見当たらなかった。


「そうだ。お兄ちゃんなら……」


 天乃は一番頼りになる相手を思い出して、菊次郎を探した。彼はこの塾の弟子ではないが、五年前に怪我をして倒れていたところを天乃が見付け、一緒に都へ連れてきて以来、適雲斎が始めた軍学塾に住み込んでいる。天乃は年が一つ上の菊次郎を兄のように慕っていたし、彼が時折見せる知恵の鋭さを適雲斎が高く評価していることを知っていたので、お兄ちゃんならどうするかしら、と思ったのだ。


「多分、庭のどこかにいるはずだわ。おじいちゃんの講義の時はいつもそうだもの」


 菊次郎は軍学に興味があるらしく、暇な時は庭を掃くふりをしながらこっそり講義を聞いていた。適雲斎もそれを知っているが好きにさせている。

 天乃は出された問題が分からない時に、よく菊次郎に相談した。すると、答えは教えてくれないが、寂しそうな顔をしながら考える糸口になることをほのめかしてくれる。それがいつも正解につながっているので、天乃は密かに、この塾で最もすぐれているのは菊次郎ではないかと思っていた。

 菊次郎は庭の隅にある物置小屋の前で雪かきをしていた。そちらをじっと見ていると、菊次郎がふと天乃の方へ顔を向けた。目が合うと、天乃は表情だけで「助けて」と伝えた。菊次郎は首を(かし)げ、青組の雨戸の壁を見ると、少し考えて、雪かきを再開した。天乃はがっかりして恨めしく思ったが、まだ一縷(いちる)の望みを持って菊次郎を見続けていた。


 菊次郎は木の板を斜めにして地面を滑らせ、雪を集めていた。そして、板の前にたまった雪を、物置小屋の横に既に腰の高さまで積み上がっている雪の上にのっけようとして、板を下から蹴り上げた。ところが、勢いよく蹴りすぎたのか、板が跳ね上がって雪が高く舞い、菊次郎の頭上に降りかかった。慌てて体の雪を払い、目に入ったらしく手でこすっている。

 天乃は何をしているのかと呆れたが、その時急に菊次郎が意味ありげな顔でこちらを見た。はっとして天乃が見つめ返すと、菊次郎はすぐに視線を逸らし、板を拾ってまた雪かきを始め、もうこちらを見なかった。

 目が合ったのは一瞬のことだったので、天乃は勘違いかとも思ったが、どうにもその表情が気になった。天乃は雪まみれの菊次郎の顔をよくよく眺め、先程の光景を思い出して気が付いた。


「そうだわ!」


 天乃が大きな声を上げると、仲間が一斉に振り返った。天乃は大きく頷き、護衛としてそばにいる一人に小声で作戦を伝えた。

 指示はすぐに伝わった。五人は青組の足を止めるべく攻撃と雪玉作りを続け、残りは全ての盆から雪玉を落とすと、それを砕いていった。一つの盆を小さな雪の欠片で満たすと、また次の盆に取りかかる。そうして五つの盆が山盛りになった時には、青組の壁はすぐそばまで来ていた。

 天乃と四人は盆を抱えて仲間に合流し、十人は頷き合うと、全員雪人形の陰を出て、姿をさらした。


「おい、敵が総攻撃をしかけてくるようだぜ。大将も参加するみたいだ」

「やけになって一か八かの賭に出るつもりなんだろうが、無駄なことを」


 青組の者たちは嘲笑ったが、警戒して足を止めた。側面を守るように二枚の雨戸をやや下げ、攻撃役の四人は両手に雪玉を握って襲ってきたら逆にこちらが当ててやろうと身構えた。

 天乃は敵の足が止まったのを見ると、仲間四人に合図し、大声を上げながら雨戸の壁に向かって走り出した。背後の仲間が雪玉で援護する。


「何をする気だ?」

「気を付けろ!」


 青組は大将自らの攻撃に驚きつつ、迎え撃とうとしたが、赤組の雪玉が次々に雨戸に命中して顔を出せない。

 と、赤組の攻撃が急に止んだ。


「玉が切れたらしい」

「今だ。大将をねらえ!」


 攻撃役の四人はすかさず二カ所の隙間と雨戸の左右から顔をのぞかせた。その瞬間だった。


「それっ!」


 かけ声とともに、間近まで迫っていた天乃たち五人は一斉に盆を思い切り振り上げ、雪の欠片を最も近い敵に浴びせかけた。


「くっ、なんだこれは!」

「雪が目に入った!」

「ぺっ、ぺっ、俺は口に入ったよ」


 大きな雪玉なら雨戸で止まるが、無数の小さな欠片では防ぎようがないし、雨戸を越えて上から降りかかってくる。青組の四人の攻撃役は、まともに雪を顔に受けてしまい、頭が真っ白になった。二人は目をこすっている。

 赤組の五人は繰り返し木の盆を雪に突き込んで雪を跳ね上げてくる。


「隙間を閉じろ!」


 一人が叫ぶと、三つの雨戸はぴったりとくっつき合って雪を防いだ。雨戸にひっきりなしに雪がぶつけられるが、虚しく跳ね返るだけだった。


「なんだ。雪をかけてくるだけじゃないか」


 青組の四人は拍子抜けしたが、急いで顔の雪を払い、まばたきして目が見えるようにすると、それぞれ雪玉を持って、赤組の様子をうかがった。すると、いつの間にか雪をかける音が止んでいる。そっと隙間を開けてみると、既にざるの五人は近くの雪人形の陰に逃げ込んでしまっていた。


「ただのこけおどしか」


 雪まみれにされたことに腹を立てた少年が言うと、他の一人が天乃たちに叫んだ。


「これでは玉に当たったことにはならないぞ! 無駄なことをするな!」


 七人は大声で笑った。が、その笑い声を切羽詰まった叫び声が破った。


「みんな、すぐに来てくれ! 大将が危ない!」


 七人が驚いて振り向くと、赤組の残り五人が青組の本陣に向かって走っていくところだった。天乃たちが雪を振りかけて雨戸の隙間を閉じさせ、視界を奪って注意を引き付けている間に、半数が敵の本陣を目差して走っていたのだ。


「しまった! 急いで戻れ!」


 自分たちが無事でも大将を討たれたら負けてしまう。大将と護衛二人の三人が五人の敵に襲われているのだから放ってはおけない。青組の攻撃役四人は慌てて本陣へ向かって走り出した。


「今よ!」


 天乃が叫び、雪人形の陰から飛び出した五人が駆けていく四人の背に雪玉を放った。たちまち一人が倒される。天乃以外の四人は雨戸目がけて突進し、重い雨戸を両手で支えながら本陣へ戻ろうとしていた三人にやすやすと雪玉を命中させた。一方、敵本陣へ向かっていた赤組の五人は既に敵の大将と護衛二人を隅の雪人形の陰に追い詰めていて、戻ってくる青組の攻撃役の残り三人を別な雪人形を盾に迎え撃ち、無防備な相手の一人を倒した。そこへ盆組の四人が駆け付けて挟み撃ちにすると、青組の攻撃役の残り二人は、大将たちとは別な雪人形の陰に逃げ込むしかなかった。

 たちまち青組の陣地の中で激しい投げ合いになったが、その時には既に勝負はついていた。天乃は分断して包囲した敵のうち、大将と護衛たちを三人に牽制させておいて、青組攻撃役の生き残り二人を六人がかりで討ち取った。そして、最後に自分以外の全員で敵の大将を左右から攻撃させ、敵を全滅させたのだった。

 周囲から大きな拍手が起こった。赤組の十人は歓声を上げて喜んだ。天乃は目つぶし作戦をその場で考え出したことを称賛する仲間に笑顔で応えながら物置小屋の方へ目を向けたが、菊次郎はいなくなっていた。

 そこへ、使用人の一人が適雲斎を呼びにきた。誰かが訪ねてきたらしい。どうやら客は二組いるらしく、適雲斎はそれぞれの名に驚いていたが、弟子たちに後片付けをして解散せよと告げて客間へ向かった。



 夕方、菊次郎が厨房(ちゅうぼう)の裏手で薪割(まきわ)りをしていると、天乃がやってきた。


「こんなところにいたのね。探したわ」


 背中にかけられた声に菊次郎は手を止め、振り向いた。


「お嬢様でしたか」


 (なた)を持ったまま腰を()らして大きく伸びをすると、菊次郎は凍える手を温めるために使っていた火鉢を(すす)めた。


「火に当たってください。もう大分冷え込んできました。こんな時間に外に出るとお風邪を召しますよ」

「平気よ。この綿入れは温かいもの」


 言いながら、天乃は新しい木を一つ手に取ると、割る台に使っている大きな切り株の上に置いた。


「一人ではやりにくいでしょう」

「ありがとうございます。でも大丈夫ですよ」


 菊次郎は微笑んだ。彼は左手の握力がひどく弱くて重いものは持てないので、割った木を拾って新しい木を切り株に立てる時は、いちいち鉈を置いて右手を使わなくてはならないのだ。原因は幼い頃にした怪我で、食事の時、陶器の飯茶碗のかわりに軽い木で作った小さな椀を使っているほどだった。


「本当はこんなことをしなくてもいいのに。下男の太助(たすけ)がいるじゃない」


 菊次郎が常に天乃たちから一歩引いた態度をとり、進んで雑用をこなしていることが、この少女は気に入らないのだ。


「養っていただいているのですから、これくらいは当然です。太助は体調がよくないようでしたから」


 老僕(ろうぼく)が真っ赤な目に涙を浮かべてくしゃみを繰り返すので、心配して薪割りをかわったのだ。太助は、毎年春先はこうなるが心配はない、庭の杉の木のせいじゃないかと思うと言って、申し訳なさそうにしていた。


「お兄ちゃんは私たちの家族なのよ。へりくだった口調で話すのはやめてって、いつも言っているでしょう」


 天乃はもどかしげに抗議したが、菊次郎は首を振った。


「やりたくてやっているのですよ。身寄りのない僕を拾って育ててくれたことに感謝しているからこそ、少しでも恩返しがしたいのです」


 天乃は深い溜め息を吐いた。適雲斎は好きにすればよいと言うが、天乃はやめさせたいらしい。だが、菊次郎のそういう姿勢の大本に幼少期の体験があることを分かっているので、あまり責めると古傷をえぐってしまうからとしつこくは言わないのだった。

 結局、天乃は薪割りを手伝ってくれた。


「それで、何かご用ですか」


 鉈を振るいながら、菊次郎は尋ねた。


「お礼を言いにきたの。さっきはありがとう」

「何のことですか」


 菊次郎は不思議そうに聞き返した。


「雪合戦のことよ。作戦を考える手がかりをくれたでしょう。雪で敵の視界を奪うことを教えてくれたのはお兄ちゃんじゃない」


 菊次郎は少し考えて、ああ、と理解した顔をした。


「お嬢様は僕の失敗を見てあの作戦を思い付かれたのですか。なるほど……」

「あれがなかったら負けていたわ。さすがはお兄ちゃんだわ」


 菊次郎は首を振った。


「僕は雪かきをしていただけですよ」

「でも、わざと雪をかぶってみせたでしょう」

「それは違います。たまたま板を強く蹴りすぎて雪が跳ね上がっただけです。それを見てとっさに作戦を思い付いたお嬢様がすぐれていらっしゃるのですよ」

「とぼけないで!」


 天乃は怒った声を出した。


「お兄ちゃんはいつもそうやって誤魔化すよね。そんな風に口先でほめられても私はうれしくないの。いい加減、自分の実力を認めたらどうなの。お兄ちゃんにはすごい才能があるって何度も言っているでしょう。こんな下働きよりも、軍学の講義をする方が絶対に合っているわよ」


 菊次郎は手を止めて苦い笑みを浮かべた。天乃が真実自分に感謝し尊敬してくれていることは分かっているが、それを受け入れる気にはなれないのだ。


「本当にお嬢様はすごいと思いますよ。それに、僕にはそんな才能はありません。軍学はよく分かりませんし」

「いつもおじいちゃんの講義を聴いているじゃない」

「先生は様々な経験をなさっていて、お話が面白いですからね。でも、僕はそういうことには向いていないのです。五年前に骨身に()みて分かりました。この手がその証拠です」

「またそれを言うんだから」


 天乃は痛ましそうに菊次郎の左手を見た。長い袖に隠れて、手首の少し上のところに大きな傷跡がある。その怪我はとっくに()えているのに、菊次郎の心に付いた傷は今でも血を流し続けているのだ。


「もういい加減忘れなよ。お兄ちゃんの才能はおじいちゃんも認めているよ」


 言ってから、一呼吸おいて、天乃は思い切った様子で続けた。


「以前から、私と結婚させてこの塾を継がせたいと思っていたみたい。さっき、おじいちゃんに仕官の誘いがあったそうだし……」


 天乃は菊次郎の表情をうかがったが、何の変化もなかったのでがっかりしたらしかった。


(つつし)んで辞退します」


 菊次郎はまじめな顔で答えた。


「私が嫌いなの?」


 天乃の声は震えていて冗談めかした言い方は成功していなかったが、菊次郎は気付かないふりをした。


「軍学を教えるなんて僕には無理です。知恵があると思い上がって大勢を殺してしまった愚か者ですから」


 淡々とした口調で菊次郎は言った。


「それに、軍学を(おさ)めれば、いずれどこかの封主家に仕えて戦場に出ることになります。僕はもう、殺す殺されるといった話には関わりたくないのです。どうせこの左手では武器は使えませんし、平和に生きたいと思います。この戦乱の時代にそんなことを言うのはわがままかも知れませんけど」

「この塾を継がないのなら、どうするつもりなの。ここを出ていくの?」


 天乃は泣きそうな顔で尋ねた。


「僧侶になろうと思います」

「僧侶って、大神(おおかみ)様の祭官(さいかん)のこと?」


 天乃はびっくりした様子だった。白牙大神(しらきばおおかみ)吼狼国(くろうこく)の守り神で、二本足で歩く巨大な白い狼の姿をしているとされる。誰もが信じ(うやま)っており、寺院は数多い。


「一生大神様にお仕えして暮らすつもりなの?」

「大神様も嫌いではありませんが、それよりも寺院の行う貧民救済事業に参加したいのです。貧しい人々や(いくさ)で家族や財産を失った人々を助ける仕事をして、罪を(つぐな)いたいと思います」

「そんなことを考えていたなんて……」

「僕にはそういう生き方が合っています。もうここでお世話になって五年以上がたちました。今度の春で十六になりますから、いい加減自立しないといけません。近々お暇を頂こうと思っていたところです」

「近々って……」


 うつむいて唇をぎゅっと結んだ天乃は、急に顔を上げた。目には涙が浮かんでいた。


「とにかく、お礼は言ったからね。出て行くなら行っちゃえばいいんだ。お兄ちゃんのばか!」


 叫ぶと、天乃は庭を走って去っていった。

 菊次郎は小さく溜め息を吐くと、薪割りを再開した。天乃の気持ちはうれしいが、(こた)えるわけにはいかない。菊次郎はあやまちを犯して大勢を死なせた自分を許していなかったし、大恩ある適雲斎の娘で妹のように思っている天乃には、もっとふさわしい相手がいるだろうと思っていたのだ。

 やがて、細く割られた薪の山ができあがった。今日急に訪ねてきて泊まることになった客に風呂を馳走(ちそう)せよと適雲斎が命じたので、煮炊きに使う薪が足りなくなったのだが、十分な量を薪置き場に用意できた。菊次郎は厨房(ちゅうぼう)に明朝必要な分の薪を運び込むと、鉈を木の鞘に収め、しまうために物置小屋に向かって歩き出した。

 庭の雪を踏みしめながら進み、昼に雪かきをしておいてよかったと思いながら、物置の扉に手をかけた時だった。


 突然、遠くから天乃の甲高い悲鳴が聞こえてきた。何か恐ろしいものを見たような絶叫だった。

 菊次郎はぎょっとして振り向き、鉈を持ったまま走り出した。声がしたのは普段は使わない別棟の方角だった。転ばないよう用心しながら可能な限り速く雪の積もった庭を突っ切って、寮の部屋から飛び出してきた弟子たちと合流する。講堂から伸びる渡り廊下を全力で走って別棟にたどり着くと、一番奥の部屋の外の板廊下で天乃と下男が腰を抜かしていた。


「お嬢様!」


 駆け寄ると、天乃は震える手で部屋を指さした。

 開いている襖の中をのぞくと、部屋の中央に敷かれた布団の上に、見たことのない中年の武家が仰向(あおむ)けに倒れていた。恐らく泊まることになった客だ。正面から一突きにされたらしく、行灯(あんどん)(あか)りに照らされて、胸元が真っ赤に染まっている。その横には炬燵(こたつ)がかけてあった布団ごとひっくり返って足が上を向いていて、そばに転がった小さな火壺の中で、黒い炭がまだところどころ赤く燃えていた。

 菊次郎が中に飛び込んで客の体を抱き上げると、ぐにゃりとくずおれた。既に死んでいる。一緒に部屋に入った弟子たちの問うような視線に黙って首を振ると廊下にざわめきが広がり、一人が叫んだ。


「ひ、人殺しだ!」


 いつの間にか、塾に寝泊まりしている十人の弟子が全員そろっていた。


「犯人を見ましたか」


 菊次郎が尋ねると、天乃はあえぎながら「見ていないわ」と言った。


「お客様のお世話役を任されたから、太助と一緒にお風呂の準備ができましたと伝えにきたら、部屋の中で言い争う声が聞こえたの。それで急いでここまで来て声をかけたけれど返事がなくて、少し待ってから(ふすま)を開けたらこの人が倒れていたのよ」

「犯人はいなかったのですね」

「誰もどの部屋からも出てこなかったわ」


 天乃が頷くと、周囲に緊張が走った。この建物は細長い四角形で、短い辺二つと長い辺の片方は壁、もう一方は庭に面した板廊下だ。どの部屋から出るにも、今菊次郎たちが走って来た板廊下を通るしかない。部屋から音がしたのに誰も出てこなかったのならば、下手人は残り三つの部屋のどれかにいるはずだ。

 弟子たちは皆手にしていた刀を抜いた。菊次郎も鞘を付けた鉈を手に立ち上がり、合図し合って隣室へつながる襖を素早く開いた。

 だが、誰もいなかった。その部屋を調べ終わると、さらに次の部屋へ、その奥へと調べていったが、どの部屋も無人だった。


「おかしいな……」


 一人がつぶやいた。半数の五人が講堂へ続く渡り廊下と庭を見張っているから、逃げられるはずがない。

 菊次郎は弟子たちと顔を見合わせた。どうも嫌な予感がする。天乃を先程の部屋の前においてきたことが気になって、太助にまだ現れない適雲斎を母屋へ呼びに行かせると、少女のところへ戻ろうとした。

 そこへ、再び悲鳴が起こった。

 菊次郎たちが廊下へ走り出ると、一番奥の部屋の前で天乃が黒ずくめの格好をした賊に片手をつかまれ、首元に刀を突き付けられていた。賊は嫌がる天乃を無理やり立たせると、手を引っ張って庭に下り、そのまま裏門の方へ向かった。


「お嬢様!」


 叫んで廊下を走った菊次郎は、死体のある部屋をちらりとのぞいて、自分の愚かさを呪いたくなった。布団がまくり上げられ、下に空洞が見えていた。賊は堀り炬燵に隠れて天板(てんばん)でふたをし、その上に布団を敷いていたのだ。滅多に使わない部屋だし、炬燵がひっくり返っていたから、掘り炬燵の可能性を思い付けず、中にひそむことはできないと思い込んでしまった。天乃と太助の話し声が近付いてくるのを聞いて一瞬でこの隠れ方を考えたのだから、賊はかなり頭が切れるらしいと、菊次郎は気を引き締めた。

 賊と天乃を追いかけた菊次郎と弟子たち合わせて十一人は、裏門の手前で二人に追い付いた。包囲して行く手をさえぎると、賊はそろそろと後退し、塀際の大きな杉の木の下に逃げ込んだ。背後を塀で、右側を木の幹で守ろうというのだろう。

 無数の花と積もった雪でたわんだ枝の下で、菊次郎たちと賊はにらみ合いになった。賊は裏門をちらちらと見ているがまだ少し距離がある。賊の左腕には天乃がいるので菊次郎たちは手が出せない。


「お嬢様を離せ。そうしたら逃がしてやる」


 菊次郎は賊に声をかけた。賊を捕らえたいのはやまやまだが、天乃を傷付けるわけにはいかない。弟子たちは驚いたが、すぐに理由を悟って裏門への道を開けた。

 だが、賊は天乃に刀を突き付けたまま、こちらの様子をうかがっている。人質を逃がしては切られてしまうと思っているのだろう。


「捕まえないと約束するから、お嬢様を返してくれ」


 菊次郎は再度言ったが、賊は動かない。そこへ、弟子の一人が客のいた部屋から灯火を持ってきた。

 ほのかな灯りが辺りを照らし、賊の顔がはっきり見えた。その瞬間、菊次郎は絶叫していた。


「お前はあの時の!」


 忘れもしない、五年前、菊次郎の家族を殺し、腕に傷を付けた男だった。もう少年ではなく、二十歳くらいになっている。あの時は思わなかったが、よく見るとなかなかの色男だった。笑みを浮かべれば多くの女がとろけそうな顔をするだろう。だが、実際には冷酷で残忍そうな表情が、その美貌を背筋が凍るような恐ろしいものに変えていた。


「生きていたのか、この殺人鬼め! この五年、お前を忘れたことはないぞ!」


 菊次郎は全身が燃え上がるほどの怒りに襲われた。菊次郎にとってこの男はあの事件の象徴であり、絶望を運んでくる悪鬼(あっき)だった。何度も夢に出て苦しめられたし、家族のことを思い出すたびに目の前に面影がちらついて、激しい憎しみと、それ以上の慙愧(ざんき)の念を呼び起こされ、やり切れない思いに胸をかきむしりたくなるのだ。


「お前は家族のかたきだ。あの時は僕も愚かだったが、お前のしたことも許さないぞ!」


 叫ぶと、男はいぶかしげに菊次郎をまじまじと眺め、面白そうな顔になった。


「お前、廻山(めぐりやま)の町にいた小僧か。確か菊次郎とか言ったな。切り付けてやったあといなくなったから、どこかで野垂れ死んだろうと思っていたんだが」


 天乃が驚いて男の顔を見た。


「あの時は俺に追い詰められて泣きそうな顔をしていたな。だが、とり逃がした。俺は仕事の邪魔をしたやつを許さない。生きていると分かった以上、お前を殺す」


 男は当たり前のことを言うように、平然と殺害予告をした。弟子たちは何が何やら分からぬ様子で、二人の顔を見比べている。


「俺は必ずお前を殺しにくる。だが、今は仕事中だ。もう片付けたが、首尾を報告せねばならない。今日のところは生かしておいてやる」

「なんだと! 逃がすものか! こっちこそお前を捕まえて殺してやる!」


 菊次郎は叫んだ。完全に頭に血が上っていた。鉈を強く握り締め、鞘をはずすのも忘れて思い切り振り上げると、天乃が顔に恐怖を浮かべた。

 そこへ、後方から厳しい声がかかった。


「お主たち、何をしておる!」


 振り返ると、適雲斎が太助と一緒に渡り廊下の入口に立っていた。


「賊などさっさと追い払わぬか!」


 適雲斎は耳がびりびりと震えるほどの大声で叱咤(しった)した。この老人はかつてとある封主家に武将として仕え、戦場での勇猛さと駆け引きの巧みさで知られていたのだ。

 菊次郎は適雲斎の怒声で我に返った。はっとして大きくまばたきすると、目の前で天乃がすがるような声を上げた。


「おじいちゃん! 助けて!」


 泣きそうになっている天乃を見て、菊次郎は完全に気持ちを取り戻した。

 怒りに我を忘れるなんて。お嬢様を守るのが第一じゃないか。冷静になれ!

 自分に言い聞かせて辺りを見回すと、弟子たちも表情を引き締めて刀を握り直していた。

 と、庭をこちらへ向かって走ってくる適雲斎が剣を抜きながら大声で叫んだ。


「お主たち、ぼやぼやするでない! そんな賊に(おく)するな。今日の修練を忘れたか!」


 弟子たちはきょとんとして顔を見合わせた。修練とは雪合戦のことだろうが、それが今一体何の役に立つのか分からないらしい。菊次郎もびっくりしたが、この状況で適雲斎が無駄なことを言うわけがない。

 考えろ。

 昼間のことを思い出しながら周囲に目を走らせた菊次郎は、適雲斎のねらいを悟った。

 なるほど、それならいける。

 菊次郎は微笑むと一歩下がり、弟子を五人呼んで指示をささやいた。弟子たちは驚いたが頷いて、腰から刀の鞘を引き抜き、左手に持った。

 男は警戒しながら怪訝(けげん)な顔をした。

 その瞬間、菊次郎は大声で叫びながら鉈を高く放り投げた。


「これでも、食らえ!」


 同時に五人の弟子も刀の鞘を思い切り投げ上げた。

 男は自分の方に飛んでくると思って身構えたが、六つの重く長い棒は、まっすぐに男と天乃の頭上に伸びている杉の太い枝に飛んで行った。当たった衝撃で枝が揺れる。と、どさっと音を立てて、大量の雪が鉈や鞘と一緒に落ちてきた。


「くっ! 小癪(こしゃく)なまねを!」


 男が雪に視界を奪われた瞬間、弟子たちが襲いかかった。同時に、菊次郎は天乃の腕をつかんで思い切り引き寄せた。

 男はさすがだった。一瞬呆気(あっけ)にとられたが、すぐに事態を悟り、人質を諦めて逃げ出したのだ。そのまま裏門へ向かって駆けていった。


「待てっ!」


 弟子たちがすかさずあとを追ったが、適雲斎は「駄目じゃ! 皆戻れ!」と叫んだ。


「賊が一人とは限らぬ。逃亡の準備もしておったはずじゃ。灯りなしに飛び出すのは危険じゃ」


 弟子たちは立ち止って不満そうに振り向いたが、数本の矢が門の奥から飛んできて足元に刺さると慌てて飛び下がり、追うのを諦めた。

 男は裏門をくぐる時、一瞬足を止めて菊次郎と適雲斎をにらむと、闇の中に消えていった。

 その後、灯りを用意した弟子たちが裏門周辺を調べると、既に賊の姿はなく、暗い道に多数の三角菱(さんかくびし)がまかれているのを発見した。その量から見て三人ほどが隠れていたらしい。もし踏んだら大怪我をしていたと、弟子たちは適雲斎の慧眼(けいがん)に改めて感服した。

 腕を引っ張られて胸に抱き寄せられた天乃は、菊次郎と駆け付けてきた祖父の顔を見るとほっとした様子になって、そのまま気を失った。適雲斎は孫娘を部屋に運ばせ、布団に寝かせた。



 翌日、適雲斎は都を支配する蟹坂(かにさか)家の御番所(ごばんしょ)に事件を届け出て遺体と現場を片付けさせると、午後になって菊次郎を自室に呼んだ。


「あの男はお主の家族のかたきと聞いたが、本当なのかね」


 頷いた菊次郎に、適雲斎はもう一度昨夜の事件の顛末(てんまつ)を尋ね、五年前のことを詳しく聞き出した。

 なるほどのう、と腕組みをして瞑目(めいもく)した適雲斎は、やがて顔を上げると言った。


「それで、お主はこれからどうするつもりじゃ」


 適雲斎は考える時間を与えるように、ゆっくりと言葉を口にした。


「お主には二つの道がある。一つはあの男を追いかけ見付け出して復讐する道。もう一つは過去を忘れてわしのあとを継ぐ道じゃ。もう孫のようなものじゃがの」


 適雲斎は深いまなざしで菊次郎を見つめた。


「気付いておるかも知れんが、わしはお主と天乃を結婚させて、この塾を譲ろうと考えておった」


 適雲斎は隣室へ続く襖へ目を向けた。天乃は昨夜のことがよほどの衝撃だったのか、まだ起きてこない。


「菊次郎、お主は賢い。雪合戦で、雨戸の壁を逆に利用して相手の視界を奪えと天乃に教えたのはお主じゃな。昨夜も、雪を使って賊の目をくらませというわしの指示を一瞬で理解した。十歳の時にはあの男の立てた作戦を見破っておる」


 適雲斎は五年前を思い出すような表情をした。


「わしがお主を拾って都へ連れてきたのは、その軍略の才を見込んだからじゃ。幼いお主が敵軍の策略を見破って撃退したという話を聞いて、わしはびっくりした。手元においてあれこれと教えれば、きっとすぐれた軍略家になるじゃろうと思ったのじゃ。その見込みは正しかった。今、この塾にお主を超える者はおらん。数年わしが後見を務めれば、塾の運営はお主に任せられるじゃろう。また、天乃も賢い子じゃ。雪合戦の時、すぐにお主の考えを悟ったようにな。わしは天乃が十五になったら、お主に結婚の話をするつもりじゃった。気付いておろうが、天乃はお主を好いておる。きっと息の合った夫婦になるに違いない。じゃが、お主にも考えがあろう。正直な気持ちを聞かせておくれ」


 菊次郎の答えは既に決まっていた。昨夜、寝床の中で一睡もせずに考えたのだ。


「そこまでおっしゃっていただき、本当にありがとうございます。身寄りのない僕を拾って育ててくださったご恩は決して忘れません。ですが、僕は僧侶になろうと思います」


 菊次郎はきっぱりと答えた。


「僕は(ごう)の深い人間です。昨夜の事件でよく分かりました。あの時、目の前でお嬢様の命が危険にさらされていたというのに、僕は謎解きを楽しんでいました。枝に積もった雪を落とせというご指示に真っ先に気が付いた時は、得意にさえ思いました。五年前、敵の作戦を読んで裏をかくことを遊びのように考えた報いとして家族を失い、この手が不自由になったというのに、まだ()りていなかったのです。ですから、軍学を学んでも、それが人の命に関わることと知りながら、面白がってしまうでしょう。そういう人間は兵法家(へいほうか)にふさわしくありません。それに、昨夜、僕はあの男を憎むあまり冷静さを失い、お嬢様がいるのに鉈を振るおうとしました。とても夫になる資格はありません。どこかの寺院に入って大神様に仕え、困っている人々の世話をして一生を終えたいと思います」


 適雲斎は深い溜め息を吐いた。


「天乃が悲しむのう。あの子を嫌いではないのじゃろう?」

「お嬢様のことは(いと)しく思います。ですが、それは妹を思うようなものです。僕には妹がいましたから、重ねているのかも知れません。お嬢様はお美しくていらっしゃいます。あの聡明さと明るさにふさわしい、すぐれた才の持ち主を婿にお迎えになるのがよろしいと存じます」

「決意は固いようじゃな。では、婿の件は諦めるしかあるまい」


 説得は無駄と悟ったらしく適雲斎は悲しげな目をしたが、すぐに顔を引き締めた。


「では、寺院はわしが紹介してやろう。そのかわり、そなたに頼みたいことがある」

「はい、なんなりとお申し付けください」


 天乃の婿を断る以上、どんなことでもするつもりだった。菊次郎の真剣な表情に、うむ、と頷いた適雲斎は、軍学の師範らしく(いか)めしい口調で告げた。


葦江国(あしえのくに)へ行ってもらいたい」


 菊次郎は意外な地名に驚きながら問い返した。


「葦江国と申しますと、以前住んでおいでだったと聞く(あし)(くに)地方のあの国でしょうか」

「そうじゃ」


 適雲斎は頷いた。


「昨日の客は葦江国の豊津(とよつ)城から来たのじゃ。わしは以前そこの桜舘(さくらだて)家という封主家に仕えておったのじゃが、家老の一人が謀反(むほん)を起こして主君が暗殺されてしまっての。天乃の両親もそれに巻き込まれて死んだのじゃ。わしはその家老と仲が悪かったので、孫娘まで殺されることを恐れて都へ逃げることにした。じゃが、追っ手がかかってはかなわぬと、陸路は避けて対岸の御使島(みつかいじま)へ渡り、揺帆国(ゆれほのくに)で都へ行く船をつかまえようと考えた。その途中でお主を拾ったのじゃ」


 これは菊次郎も初めて聞く話だった。


「実は、その桜舘家の(たえ)姫様から知恵を貸してほしいと依頼が来た。少々困った事態に陥っておるらしい。古巣のことじゃ、力になって差し上げたいが、もう年で長旅は身にこたえるし、わしがいなくてはこの塾は続けられぬ。そこで、かわりにお主に葦江国へ行ってもらいたい。あの国の寺院に知り合いがおるから、そこへ推薦してやろう。そのついでに、姫に知恵を貸して差し上げてほしい」


 菊次郎は少し考えて頷いた。


「先生のかわりが務まるか分かりませんが、お引き受け致します。どの寺院にするかは決めておりませんでしたので、紹介していただけるのでしたらそこにしようと思います」


 都の寺院に伝手(つて)があるわけではないのでありがたい話だった。


「僕がこの塾にいることをあの男に知られてしまいました。きっと僕を殺しにきます。みんなに迷惑をかけないためにも都を離れようと思います」


 あの男は人を殺すことを何とも思っていない。自分のせいで塾の人々を傷付けたくなかった。それに、あの男は仕事中だと言っていた。使者をねらったことからすると、その姫の依頼と関係があるのかも知れない。もし、どこかでまた大勢の人を殺し苦しめているのなら、捕まえて償いをさせてやろうと菊次郎は思った。


「では、すまないが、すぐに都を()ってくれぬか。姫様は随分と急いでおいでのようじゃからの」

「はい。長い間お世話になりました。本当にありがとうございました」


 菊次郎が手を付いて頭を下げると、襖の向こうからすすり泣きが聞こえてきた。天乃は起きていたのだ。菊次郎は適雲斎と顔を見合わせて目を伏せたが、考えを変えるつもりはなかった。


「では、頼んだぞ」


 そう言って、適雲斎は再び溜め息を吐いた。

 翌日の早朝、菊次郎は都を発った。

 出発する時には、弟子たちや下男の太助など大勢が塾の門の前で見送ってくれた。失恋の衝撃で結局丸一日部屋に閉じ籠もっていた天乃も起きてきて、適雲斎の横で泣きながら手を振ってくれた。

 この人たちと会うことはもう二度とないかも知れないと思うと菊次郎も涙が出た。何度も振り返って頭を下げ、いつか何かの形で彼等に恩返しをしようと決意した。

 その手始めは、葦江国にいる姫君の相談に乗ることだ。どんな困り事なのかは聞かされていないので、自分に解決できるのか少し不安だが、これは自立の第一歩でもある。

 今までは子供だったから養ってもらっていたが、これからは仕事を持って、人々の役に立つことをして生きていこう。そう決意して、菊次郎は南国(なんごく)街道を足早に進んでいった。



 その日の深夜、布団を抱き締めて寝ていた天乃は隣室の物音に目を覚ました。朝、菊次郎の背中が見えなくなるまで見送ったあと、自室に駆け込んで食事もとらずにずっと泣いていたのだが、いつの間にか寝てしまったらしい。


「おじいちゃん?」


 起き上がって綿入れを羽織った天乃が適雲斎の居室(きょしつ)をのぞくと、祖父の姿はなく、板廊下へ続く襖が開いていた。どこへ行ったのかしらと首を傾げた時、庭の方で苦しげな叫び声がした。

 急いで部屋を飛び出すと、月光に照らされた雪の庭の中央で、適雲斎が倒れていた。


「おじいちゃん!」


 悲鳴を上げて庭に飛び降り、駆け寄ろうとした天乃に、適雲斎があえぐような声で叫んだ。


「来てはいかん! 早く逃げなさい!」


 驚いて辺りを見回した天乃は、適雲斎のすぐそばに黒ずくめの格好をした人物が一人立っていることに気が付いた。昨夜忍び込んで客を殺した男だった。

 男は天乃を見て身構えたが、相手が少女と気付くと刀を下し、低い声で尋ねた。


「菊次郎はどこだ」


 天乃はあの事件を思い出して、警戒しながら答えた。


「ここにはいないわ」

「うそをつくな。この塾にいるはずだ。場所を言え」


 男のまなざしと口ぶりのあまりの冷ややかさに背筋が寒くなったが、なんとかこらえて言い返した。


「本当にいないの。旅に出たのよ」

「信じられんな」


 男は刀の先を天乃に向けて近付いてくる。


「お前を人質にしてここへ呼び出すとするか」


 逃げなくてはと思ったが、恐怖で足が言うことを聞かなかった。男の草鞋(わらじ)が雪を踏む音がすぐそばに迫った。


「待て!」


 その背中へ適雲斎が声をかけた。


「菊次郎は今朝旅立った。もう戻って来ないじゃろう」


 男は振り返った。


「本当に旅に出たのか」

 男は適雲斎と天乃を見比べて考える顔になった。


「ならば、どこへ行った」

「あなたには教えない」


 天乃は(おび)えながらも、お兄ちゃんを守らなければと首を振った。


「言わなければ殺す」

「殺されても言わないわ!」


 天乃が精一杯の勇気で力を込めて言い返すと、男はその顔をじっと眺めて、ちっ、と舌打ちした。聞き出すのは無理と悟ったのだろう。


「強情な女だ。では、目的は半分しか達せられなかったわけか」

「半分?」


 天乃が思わず聞き返すと、男は低く笑った。


「じじいは殺したからな」

 言われて、天乃は適雲斎の周辺の雪が赤く染まっていることに気が付いた。


「おじいちゃん!」


 天乃は駆け寄ろうとしたが、男が刀を向けたので近付けなかった。


「なぜおじいちゃんをねらうの?」


 天乃が震える声で問うと、男は素っ気ない口調で「このじじいは仕事の邪魔だからだ」と答えた。


「あの姫が都にいる元家臣に使者を送ったというから、そいつを始末して手紙を取り上げようとここまで来たが、昨日のことを見てもこのじじいは頭が切れる。余計な知恵を付けられては面倒だ。今後のために殺しておいた方がよいと思ったのさ」


 当たり前のことのように言い放つと、男は刀を構えて近付いてきた。


「では、お前も殺してずらかるとするか」


 天乃は慌てて背を向けて逃げようとしたが、恐怖で足がもつれて転んでしまった。


「死ね」


 振り上げられた刀に天乃は思わず目をつむった。だが、男が雪の上に倒れる音がして、祖父の声がかかった。


「天乃、逃げなさい!」


 振り向くと、男の足に適雲斎が必死の形相(ぎょうそう)でしがみついていた。


「お前は生きるのじゃ! さあ、早く行け!」

「この死ぬ損ないが!」


 男は体を起こすと、適雲斎の背へ刀を突き立てた。適雲斎がうめき声をあげ、雪の上に赤いものが飛び散った。


「おじいちゃん!」


 恐怖で足がすくみ、地面にくずおれた祖父から目を離せない天乃に、適雲斎の腕を振りほどいた男が立ち上がって近付いてきた。


「じじいのくせに、手こずらせやがって」


 吐き捨てるように言った男は天乃を見てにやりと笑い、刀を高く構えた。刀の先からしたたり落ちる血が月光を浴びて黒く輝くのを眺めながら、天乃は動けなかった。

 殺される!

 男はもう目の前だった。天乃は覚悟を決め、最後にもう一度お兄ちゃんに会いたかったと思った。

 だが、その時、複数の足音が聞こえて、建物の陰から弟子が五人現れた。


「先生! お嬢様!」


 叫びながら庭へ駆けこんできた弟子たちは男に気付いてぎょっとしたが、すぐに刀を抜いた。


「ちっ、運のいい女だ」


 男はつぶやくと、刀を引いた。さすがにこの人数相手では不利と判断したらしい。背を向けて走り出した男を弟子たちが追うと、彼等が来たのと反対側の角を回って数人の男が現れた。男と同じく黒ずくめの格好をしている。男は彼等と合流すると、三角菱をばらまいて、裏門の方へ消えていった。


「お嬢様、ご無事ですか」


 追跡を諦めて弟子たちが戻ってきた。

 我に返った天乃は頷いて、震える指で祖父を差した。弟子たちはすぐに適雲斎のもとへ走ったが、悔しげに首を振った。


「残念ながら先生はもう亡くなっています。お嬢様は早くお逃げください。火がそこまで来ています」

「火?」


 慌てて辺りを見回した天乃は、別棟の方の空が赤く染まり、黒い煙が立ち上っていることに気が付いた。


「やつら、あちこちに火をかけやがったんです」


 弟子に手を引いて立たせてもらった天乃は、適雲斎の遺体を抱えた者たちと一緒に泣きながら逃げることしかできなかった。

 その後、駆け付けてきた町の人々によって火は消し止められたが、建物は全て燃えてしまった。

 翌朝、焼け跡を眺めて天乃は途方に暮れた。かろうじて蔵書は運び出すことができたものの、適雲斎は死に建物もなくなってしまい、軍学塾はもうできない。仕官先を師に紹介してもらうつもりでいた弟子たちもこのままでは行き場を失う。何より家族や財産や家を失った天乃はこれからどうやって生きていけばよいのか。菊次郎を呼び戻して相談しようにも今どの辺りにいるのか分からないし、葦江国へ使者を送っていては時間がかかりすぎる。

 葬儀の準備と火事場の後片付けに動き回る弟子たちを眺めて天乃が呆然としていると、昼過ぎに一人の武家が訪ねてきた。適雲斎と面会の約束があり、自家へ招聘(しょうへい)しようとしていたという。


「一昨日お会いして、高名な若竹適雲斎様にぜひ当家で大殿の相談役を務めていただきたいとお願いしました。本日はそのお返事をうかがいに参ったのですが、まさかお亡くなりになってしまったとは」


 厚遇する用意があったのにと残念がる武家を前に天乃はしばらく考えていたが、顔を上げると真剣な表情で尋ねた。


「その仕官のお話、祖父でなくては駄目でしょうか。私ではどうですか」

「と、申されますと?」

「私は適雲斎の一番弟子です。塾の中でも特にすぐれていると祖父に言われていました」

 最も評価されていたのは菊次郎だったが、そのことは言わなかった。

「私と弟子たちをまとめて召し抱えていただけませんか。幸い蔵書は無事でしたし、皆、祖父に才能を認められた者たちです。一人一人は祖父に及びませんが、力を合わせればきっとお役に立てると思います」


 まだ少女の天乃が(おさ)となって彼等をまとめていくと聞いてその武家は驚いていたが、呼び集められた弟子たちや天乃に軍学についていくつか質問をして返答に感心すると、考えさせてくれと言って帰って行き、翌日承知の返事を持ってきた。天乃は弟子を全員集めて相談し、半数の二十名が天乃と共に仕官することになった。

 三日後、天乃は都を発った。もう戻ってこないつもりだった。

 お兄ちゃんは彼の道を選んだ。だから、私も自分の道を切り開いて進んでいこう。

 そう決意した天乃は、過去の自分と決別すべく、菊次郎への伝言を残さなかった。

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