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狼達の花宴 ~大軍師伝~  作者: 花和郁
巻の二 大軍師誕生
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(巻の二) 第五章 湿り原 中

 豊津城から撤退した宇野瀬勢は東へ戻り、葦狢街道と南国街道の合流点を封鎖している平汲勢の隣に陣を張って武者たちに休息を与えた。夕方には押中勢が到着し、三家は軍議を開いた。

 宇野瀬家の本陣に現れた押中建之(たけゆき)は、六十三歳の大柄な体を震わせて怒鳴った。


「どうして桜舘軍が駒繋の町にいたのだ! 平汲家は当家を桜舘家に売るつもりだったのか! 裏切っていたのだな! どうなのだ!」


 三十六歳の息子従之(つぐゆき)は平素おだやかな人物だが、やはりまなじりをつり上げて平汲可済に詰め寄った。


「あの少数の騎馬隊の存在をなぜ教えてくれなかった! 桜舘勢に前後から奇襲されて当家の軍勢は大混乱し、守備兵が百しかいない城に敵を行かせてしまったのだぞ! 素通りしたからよいが、桜舘家が豊津城を守るのを諦めたら落とされていたかも知れぬ!」


 押中親子の怒りはなかなか収まらなかった。


「あの部隊には我々も気付いていなかったのだ」


 平汲可近(よしちか)は釈明した。


「お怒りはごもっともだが、当家の城へ桜舘勢をおびき出すために持ちかけた話で本気ではなかった。宇野瀬家と相談して決めた作戦だったのだ。総大将様もご存知のことだ」


 長賀は黙って頷いた。息子の可済(よしなり)も言った。


「お教えしなかったのは悪かったが、当家も貴家の領内に宇野瀬勢がいることを知らなかったからお互い様だ。それに、貴家の軍勢が南国街道で桜舘軍主力を足止めしておれば豊津城は落ちていたはずだ。人の文句は言えまい」

「桜舘勢は千本槍街道を逃げる時、北境川の橋を落としていったから修理に時間がかかったのだ!」


 押中建之は言い返したが、語調はやや弱まっていた。先行させた物見の報告で橋が壊されているのを知って修理を急がせる一方、押中勢はそれを幸いと千本槍城に留まって一夜を過ごしたからだ。敵の通過で町や城に被害が出ていないか調べる必要があったし、家族を心配する武者たちを落ち着かせるために短時間の帰宅を認めざるを得なかったのだ。その結果、直春たちと行軍に丸一日の差ができ、乗船を許してしまった。三千八百人が乗り込むには随分時間がかかったから、追い付いていれば直春は大勢を置き去りにせざるを得ず、今豊津城にいる桜舘軍の武者数はかなり減っていたはずなのだ。


「まあまあ。双方ともそれくらいでやめておけ。過ぎたことを言っても仕方がない。それよりこれからのことだ」


 倫長が割って入った。両家の親子が黙ると、宇野瀬勢の副将は提案した。


「明日、豊津城へ向かって進軍する。敵は城を出て迎撃してくるに違いない。それを撃破して城と町を落とし、桜舘家を滅ぼす。反対の者はおるか」


 倫長は一応両家の意見を求めたが儀礼にすぎなかった。この状況で宇野瀬家が撤退を選ぶはずはない。倫長の受けた屈辱は噂になっていたし、先程から不機嫌さを隠さなかったので、協力を拒否したら滅ぼされかねない。


「平汲家は喜んで貴家と共に戦います。是非とも先陣をお申し付けください」


 可済が()びた様子で申し出た。押中領に宇野瀬勢が隠れていたのは自分たちの裏切りに気付いたからではないかと恐れているのだ。七万貫の小封主家など宇野瀬家には一ひねりなので、積極的に働いて忠義を示さなくてはならない。頼みの増富家の援軍は来る様子がなかった。


「押中家にも異存はございません。御屋形様に初陣の勝利を捧げましょう」


 建之も承知の返事をした。本音ではこれ以上の戦は気が進まなかったが、桜舘家には城下町を押し通られるという屈辱を受けたし、追尾に失敗した埋め合わせをしなくてはならない。敵は四千ほど、こちらは合わせてその三倍で、勝利は疑いないのだ。

 両家は倫長の性格からして手柄を立てても加増にあずかれるか疑問に思っていた。しかし、自分たちの命と領地を守るためには宇野瀬家の戦に従うしかなかった。


「では、明日朝食後に出発する。恐らく昼前に敵と遭遇するだろう。御屋形様、よろしいですな」


 倫長は総大将の長賀に確認した。これも形式的な手続きなのだとわざと示すような言い方だった。だが、無礼だと指摘する者はいなかった。旭山城の評定ではいつものことであり、いずれこの男が当主になることは誰の目にも明らかだったからだ。平汲・押中両家もそれは分かっていて、長賀ではなく倫長の意向を気にしている。長賀は一瞬迷う顔をしたが、結局黙って頷いた。

 倫長が軍議を終わらせようとすると、武虎が言った。


「夜、物見を出しておくべきだ」


 武虎は副将ではなく総大将に言上した。


「敵は明日、必ず何か策を用意してくる。敵陣を探らせよう」

「不要だ。この兵力差だぞ。少々の策など役に立たぬ。よそ者は黙っておれ!」


 長賀を立てようとする態度に倫長はいらだちを露わにした。骨山願空が付けた補佐役をこれまで意図的に無視してきたのだ。が、武虎は平然としていた。


「敵にはあの小僧がいるのだぞ。本郭御殿の三階にいただろう」

「菊次郎とかいう軍師か。商人のくせに敵に味方しおって」


 名前から誤解しているが、恨みは忘れていない。


「あいつは奇策を使う。用心した方がいい」


 駒繋城で桜舘家や平汲家を出し抜いた策は武虎が立てたと聞いていたので、倫長は少し考えて同意した。


「よかろう。間違いなく勝てる戦だが、油断は禁物だ」

「すぐに俺の手の者を向かわせよう」


 武虎は言ったが、倫長は拒絶した。


「いや、こちらでやる。武者を出す」


 願空の手下の力は借りたくないらしい。


「俺がやった方がよい。御屋形様、よろしいか」


 武虎は長賀に許可を求めたが、倫長はさえぎった。


「そんなことをいちいち総大将に言うものではない。副将の俺がやることだ」


 少しの手柄も甥にやりたくないのだ。この程度で倫長の家中での勢力が減りはしないが気になるらしい。


「では、合戦に備えて、皆よく休んでおくように」


 倫長は強引に軍議を打ち切り、諸将は陣幕を出ていった。武虎もやれやれといった様子で引き上げた。


「明日、本当に勝てるだろうか」


 一人残った長賀はつぶやいた。夕食を運んできた近習(きんじゅう)が木の椀を置きながら言った。


「倫長様はあのようなお方ですが戦の経験は豊富です。あの二家の当主も年齢が高く信頼が置けます。負けるとは思えませんが」

「だが、あの軍師だぞ。僕より一つ年下と聞いたが」


 長賀は城攻めの間本陣から一歩も動かなかった。倫長の指示だった。周囲も止めた。家臣が運んでくる勝利の知らせをただ待っていればよいのですよと。確かに、初陣で十七歳にすぎない総大将が前に出て指示を下しても、混乱や危険を生むだけだ。

 長賀が御屋形様と呼ばれるようになって六年になるが、ずっと全てを家臣に任せて飾り物として過ごしてきた。叔父の倫長と骨山願空は特に信頼していた。正直なところ叔父の方が当主に向いていると思うので、軽く扱われることもさほど気にはならなかった。

 だが、今回は違った。敵軍師の作戦を見て驚愕したのだ。籠もっている城を自ら焼くなど聞いたことがない。水に囲まれているとはいえ、一歩間違えば自分のいる場所が火事になる。突入した数倍の軍勢を二度も泳いで逃げ出させるなんて恐るべき知謀だ。

 自分は到底かなわないと思った。連敗した叔父に任せておいてよいのか不安になった。ここは戦場で自分や家臣たちの命がかかっている。武虎の方が頭が良さそうに見えるので、彼の提案に従って自分で指揮するべきではないか。


「そんなことは無理だな」


 長賀は首を振った。誰がこんな自分の言うことを聞くのか。若年で初陣の総大将に命を預けられるわけがない。


「僕は飾り物に徹するしかないんだ。願空はなぜ僕のそばに娘を上げようとするのだろう。叔父上に差し出せばよいのに」


 つぶやくと、近習が寝床の用意をしながら振り向いた。


「何かご用ですか」


 長賀は曖昧な笑みを返して箸を取った。ただ出される食事を残さずに胃に収めることだけが、自分の仕事のように感じながら。



 翌日、三家連合軍は陣を引き払い、南国街道を豊津城へ向かった。二千五百の平汲勢と一千四百の押中勢が前方を警戒し、その後ろに宇野瀬勢九千が続く。城攻めで死傷したり鎧を失ったりした武者は一千に上ったのだ。三家を合わせると一万二千九百の大軍だ。

 進むこと数刻、西にあった葦の江が北側になった辺りで、街道上に陣取る桜舘軍三千を発見した。

 そこは湿り原と呼ばれる場所だった。半年前に二家と桜舘家がここで和約を結んでいる。湖の周囲は葦がびっしりと生える湿原で、そのすれすれを街道が通っている。道の南側は少し離れた森まで東西に長い草地になっていた。

 桜舘軍がいたのは大きな飛び湿地が三つ「一二」の字のように並んでいる場所だった。連合軍の後方に刀の形の剣沼(つるぎぬま)があり、行く手には三日月型の弓沼(ゆみぬま)と、張った糸のような小ぶりの弦沼(つるぬま)が草地を分断している。


「昨夜の作業はあれを作っていたのか」


 倫長が冷笑した。弓沼と湖岸の湿地の間に木の柵があり、豊津城への道を塞いでいた。


「無駄なことを。あんなものは大した妨害にはならぬぞ」


 物見に出した武者から、敵が夜の間に湿り原で何かを作っていたと報告を受けている。見張りがたくさんいて近付けなかったそうだ。作業していたのは豊津から来た民のようだったので、農民の格好をすれば調べられたかも知れないが、鎧を着た武者たちには無理だったそうだ。


「つまり、合戦の間、我々に城の方へ行かれたくないのだな」


 倫長は武虎に言われて敵軍師の作戦を警戒していたので、ただの柵と知って拍子抜けした。この合戦にほとんどの武者を投入し、城にあまり残していないのだろう。


「成安家の援軍も来ないということだ」


 長賀はそんな単純なことだろうか、他に何かあるのではと思ったようだが口には出さなかった。敵に動きがあったのだ。

 三千の敵から五人が馬で近付いてきて、両軍の中間地点で止まった。


「宇野瀬家の副将殿、お元気ですか!」


 敵の軍師の少年だった。


「豊津城でお相手したのは僕たちです。またこてんぱんに打ち破る前にご挨拶に来ました!」

「今は真冬。堀の水はさぞ冷たかったでしょう!」


 もっと若い子供のような武将が叫んだ。精一杯心配そうな口ぶりがかえってわざとらしかった。


「二度も水につかっていたので、熱を出していないか心配していました!」

「風邪引きの敵に勝っても自慢にはならないからなあ」


 四十代半ばの家老らしい人物が言うと、三十代半ばの馬廻りらしい武将が応じた。


「いやいや、(かえる)のようなあの見事な泳ぎっぷりなら、よほど水には慣れていよう」


 最後は十代前半の少女だった。お腹の前に小さな猿を座らせている。


「そうね。火矢でたっぷり温めてあげたもの。それに、もう堀に入る必要はないよ。だって、そこに大きな湖があるじゃない。今度は武者全員で泳げるよ!」


 五人は顔を見合わせると大笑いし、一斉に馬上で腰を上げてお尻をたたいた。


「三度目は手加減しないぞ! もう鎧をなくしたくなかったら、踵の国へさっさと帰れ!」


 声をそろえて叫ぶと、彼等はさっと軍勢のところへ引き上げていった。小猿もわけが分からぬまま、まねをしてお尻をたたいて喜んでいる。五人を迎えると桜舘軍は街道をはずれ、草地を横切って森の方へ進み、弦沼(つるぬま)と弓沼の間の広場へ入ったところで止まった。


「おのれ! ばかにしおって!」


 倫長は顔を真っ赤にして桜舘勢をにらんでいたが、敵が停止すると前進命令を出そうとした。百万貫の当主になろうという人物にあのような無礼な物言い、実にいい度胸だ。今すぐに飛んでいって殺してやりたかったが、敵の目的が分かるまで自制していたのだ。


「全軍、進め!」


 腰の刀を抜いて高く掲げ、前へ振り降ろしたところへ、平汲可済が馬で走ってきた。


「倫長様、お待ちください!」


 平汲勢は最も前を進んでいたが、急いで駆け付けてきたらしい。


「あれは罠です! 挑発に乗って敵を追いかけてはなりません!」


 本陣に飛び込んでくると、可済は馬さえ降りずに叫んだ。


「なぜだ! 敵は停止したのだぞ。あそこで迎え撃とうというのだろう。あの場所ならこちらは森と弦沼の間の狭い場所に入り込むことになる。少数でも戦いやすいと思ったのだろうが、そううまくは行かないことを教えてやる!」


 憤怒(ふんぬ)形相(ぎょうそう)で倫長は言い、再び前進を命じようと腕を振り上げたが、可済は両手を広げて立ち塞がった。


「ですから罠なのです。それを証明致しますので、少しだけお待ちください!」

「よかろう。さっさとやれ!」


 倫長は怒鳴るように叫んだ。怒りに震えていても、自分がこの大軍の事実上の総大将であることは忘れていない。罠と言われては無視できなかった。

 可済は倫長に頭を下げると、刀を抜いて大きな円を描くように動かした。


「父上、お願いします!」


 すると、可近率いる平汲勢二千五百が前進を始めた。もともとの家臣二千と直春から離反した五百からなる部隊だ。

 平汲勢は街道を離れてまっすぐ森へ向かい、やや手前で停止した。


「放て!」


 可近の命令が響き渡ると、武者たちは前方へ槍と盾を向けて警戒しつつ、森の中へ矢を射込み始めた。


「何をしているのだ? ……まさか、伏兵か?」

「その通りでございます。敵は道に柵まで作って城を空にしております。たった三千とは少なすぎませんか」


 可済の言葉通り、森の中から桜の旗印の軍勢が飛び出してきた。先頭には大きな白馬にまたがり白地に金や赤をあしらった立派な鎧を着た武将がいる。敵の大将桜舘直春だった。


「なるほど。危なかったかも知れぬ。よく教えてくれた」


 倫長は可済に礼を述べた。三千の敵を追いかけていたら、背後を直春の部隊に襲われて挟撃されただろう。伏兵は八百ほどのようだが、桜舘勢の強さは豊津城で二度も泳がされてよく分かっている。負けないまでも苦境に陥ったに違いなかった。


「敵の策は破ったわけだな。では、これからどうすればよい」


 尋ねると、可済は得意そうな表情を引き締めて言上した。


「敵の主力を先に片付けましょう」

「というと、三千の方か」

「はい。敵は過ちを犯しました。殲滅の好機です」


 可済は説明した。


「三千の敵は弓沼と弦沼の間の広場にいます。森側と街道側の二つの出口を塞げば逃げ道がありません。今、森側の出口に近いところに当家の軍勢がおります。街道側は貴家の軍勢が近いです。両側から侵入して挟撃致しましょう」

「だが、敵の大将は捕まえられぬぞ。伏兵は剣沼(つるぎぬま)の方へ逃げた。そちらを追った方がよいのではないか」


 森を出た直春隊は、平汲勢と押中勢に迫られて、剣沼の柄尻(えじり)と森の隙間を抜けて連合軍の後方へ逃げていた。


「敵の大将を追いましても、剣沼の先は広い草地、捕まえられぬ可能性が高いでしょう。三千の方は袋の鼠、逃げ場がどこにもございません。主力を倒してしまえば勝ったも同然、八百程度の小勢は大した脅威になりません。捕虜を人質にすれば降伏するでしょう」

「敵の罠は失敗した。それに乗じて各個撃破しようというのか。なるほど」


 倫長は乗り気になった。が、武虎が割り込んだ。


「俺は反対だな」


 倫長はまたお前かという顔をしたが、武虎は言葉を続けた。


「弓沼と弦沼の広間に入った時、背後を襲われたらどうする。逃げ道を失うのはこちらだ。それよりも柵を壊して城へ向かうべきだ。そうすれば、逃げている敵は戻ってきてこちらを追いかけるしかない。敵が接近したところで反転し、数の優位を生かして包囲すれば、危険を(おか)さずに勝てる」

「それには賛成できませんな!」


 平汲可済は声を大きくした。


「用心しているとは言え、敵に後ろを見せるのです。突撃されたら隊列を崩されるかも知れません。また、敵を迎え撃つ場合、城に背を向けることになります。今、この戦場にいる敵は三千八百。負傷者を引いても三百程度は城に残っております。それが出てきたら背後を突かれます。それに!」


 可済は倫長に言った。


「敵主力の三千にはあの軍師がいます」

「そうか、そうだったな!」


 倫長は葦や低い木が生えた泥沼の向こうをにらんだ。臨戦態勢で待機する軍勢の先頭に先程の五人の姿が見えた。


「やつだけはこの手で殺す!」


 倫長は()えた。城攻めの時の屈辱は、全てあの小僧の立てた策のせいだと聞いていた。当主の座をねらう四十四の男が裸同然の格好で水泳とは一生の不覚、生涯消えぬ汚点。政敵の願空が聞いて大笑いするのが目に浮かぶ。決して許せなかった。それを分かっていて刺激する可済に乗せられるのは不快だが、恨みと怒りがまさった。


「よし、敵主力を追うぞ!」


 その口調は反対を許さぬものだった。


「やめておけ。感情的になるな。御屋形様はどう思う」


 武虎は呆れた様子で長賀に判断を求めた。十七歳の総大将は少し考えて言った。


「ここは叔父上に任せよう。無理に止めても納得しないだろう」

「ちっ、判断を逃げたな。全て人任せか」


 武虎が不快気につぶやいたが長賀はおだやかな表情だった。こんなことを自分のような若造に決めさせるなと言いたいらしい。


「だが、武虎殿の心配も一理ある。敵の大将の部隊への警戒は必要だろう。どうしたらよいか」

 長賀が武虎に意見を求めると、可済が提案した。



「そちらは押中勢に牽制させましょう。こちらに近付けぬようにするのです」


 倫長も賛成した。


「そうだな。それがよかろう。これで背後の(うれ)いなくあの小僧を討てるぞ!」


 すぐに伝令が走り、押中勢は剣沼に張り付いた。可済も自軍へ戻っていき、そちらが動き出したのを確認して、宇野瀬勢も前進を始めた。


『狼達の花宴』 巻の二 湿り原の合戦図 その一

挿絵(By みてみん)


「さすがは菊次郎君だ。想定通りだな」


 直春は槻岡良弘に言った。宇野瀬勢と平汲勢は西へ、弦沼の方へ向かっていく。剣沼の東側にいる直春勢を追いかけず、直冬隊三千を主力と見て先にたたくことにしたようだ。


「全て順調に進んでおります。敵はまんまと罠にはまりましたな」


 筆頭家老は感嘆していた。良弘は境池の合戦の時は成安家に使者としておもむいていた。湿り原の和約の時は包囲するだけだったから、菊次郎の作戦で戦うのは初めてだ。周囲の武者たちも作戦の流れを聞かされているので、これなら勝てると士気が高まっている。


「では、そろそろ動くか」

「国主様の演技を間近で拝見させていただきます」

「そんなに面白いものでもないさ」


 直春は笑って、前進の指示を出した。笛の吹き手三人が、音をそろえて移動の合図の曲を奏でた。


「よし、俺に付いて来い!」


 直春隊八百は弦沼の方へ向かうべく、先程逃げてきた剣沼の柄尻えじりと森の間の草地を再び通ろうとした。すぐに押中勢が前に立ち塞がった。

 平汲勢は弓沼と弦沼の広場へ入っていこうとしている。直春隊が森に沿ってまっすぐ進めば、その背後に出る。菊次郎たちの三千と挟撃されたら、数に劣る平汲勢はひとたまりもない。それが分かっているから道をさえぎったのだ。

 直春は一騎で部隊のやや前に出て、困った顔でうろうろし始めた。押中勢に隙がないかうかがっているらしい。だが、左手は森、右手は剣沼で間の草地は狭い。直春隊は(かち)武者が大部分のため、走って押中勢の横を抜けるのは不可能だ。相手は一千四百と直春隊より多く、正面から突破するのは難しい。

 やがて直春は諦めたように武者たちのところへ戻り、笛を吹かせた。


「剣先の方へ向かうぞ!」


 直春が先頭を行き、八百人全てがそれに従った。ここを通るのは不可能と見て、剣沼の反対側の(はし)へ出ることにしたらしい。南国街道を進んで宇野瀬勢の背後を襲うつもりだろう。こちらの敵は九千と多いが、三千の味方と挟撃すればそれなりの戦いができるはずだ。

 直春の意図を察した押中勢は、湿地に沿って街道の方へ移動を始めた。細長い湿地を挟んで、二つの部隊が平行に進んでいる。矢を放てばぎりぎり届くかも知れないが、馬が腹まで沈む泥沼が間にあるため、敵を攪乱(かくらん)してもあまり意味がない。どちらも攻撃はせずに黙々と歩いた。

 すぐに直春隊は剣沼の先端へ出た。同時に押中勢も到着した。湿地の幅と同じ距離を挟んでにらみ合う。

 直春は一騎で街道の方へ行った。しばらく周囲を見回して悩んでいたが、やがて戻ってきて笛を鳴らすように命じた。


「森の方へ戻るぞ!」


 こちら側でも目の前の敵を突破するのは難しいと思ったのだろう。もちろん押中勢も平行に付いていく。

 再び森と湿地の間に出ると、追い付いてきた良弘に直春は面白そうに言った。


「押中家の親子は俺を阿呆(あほう)と思っているだろうな」

「それがこちらのねらいでございます。うまく行きそうですな」

「当然だ。菊次郎君は俺たちにしかできないと言った。つまり、俺たちにはできるのだ」


 直春はうれしそうに笑って、表情を引き締めた。


「では、行くぞ。遅れずについてこい」

「お任せを。皆、国主様を追い越すつもりでおります」

「頼もしいな」


 直春は頷いて、一騎で押中勢の方へ向かった。

 押中家の武者たちは敵の大将の接近を見て弓や槍を構えたが、すぐにやれやれという顔になった。直春はまたもうろうろし始めたのだ。


「何がしたいんだ!」

「臆病者め! 来るなら来い!」


 押中勢から揶揄(やゆ)する声が飛ぶ。

 直春は迷うように幾度も右に行ったり左に行ったりし、馬を止めて首を傾げると、自軍へ戻って笛を吹かせた。


「全軍、回頭! 剣先へ向かう!」


 押中勢から失笑がもれた。ばかにしたように口笛を吹いた者もいた。直春隊は再び湖の方へ進み始めた。


「やれやれ、また移動かよ。まあ、これなら怪我人は出ないけどな」


 押中勢から武者たちのぼやく声が聞こえてくる。重い鎧を着ているので、歩いていると冬とはいえ次第に汗をかいてくる。それが冷えて背筋が寒くなり、身震いする者もいた。

 両軍の間にはすぐに剣沼が挟まり、押中勢はやや警戒をゆるめた。泥沼は越えられないため、矢にだけ気を付ければよい。攻撃するには湿地を回ってこなければならず、その間に迎撃の準備ができる。

 それにしても、このにらめっこはいつまで続くのだろう。押中勢の武者たちがうんざりした様子で敵を眺めていた時、異変は起こった。


「桜の御旗(みはた)に栄光あれ!」


 数百人の(とき)の声が響き渡ったのだ。


「どこからだ?」


 押中従之(つぐゆき)は慌てて辺りを見回した。大声を上げたのは湿地の陰に入っていこうとしている直春隊ではなかったからだ。


「森です! 森から敵が出てきました!」


 武者頭の焦った声に従之は振り向いて目を見張った。


「しまった! 背後からか!」


 約三百の騎馬武者が、全身青い鎧の武将を先頭に雄叫(おたけ)びを上げながら駆けてくる。ばらばらに森から出て素早く突撃の隊列を組み上げていく動きから、相当な精鋭だと分かる。


「森の中に伏兵がいたのです! まっすぐこちらへ向かってきます!」

「だが、森にはもう敵はいないはずだ。矢で追い出したではないか! ……まさか」


 武者頭は悲痛な声で叫んだ。


「敵八百が飛び出してきたので、そう思い込んでしまったのです!」

「森側は安全だと思わせ、敵の大将で注意を引いて、無警戒に背を向けるのを待っていたのか!」


 冷静に考えれば、矢を射込まれても森を出る必要はなかった。木を盾に射返してもよかったし、矢に耐えて反応せず、敵が森に入ってくるところを攻撃してもよかった。矢を射た平汲勢を三千の味方と挟撃することも、主力と速やかに合流することもできた。しかし、宇野瀬家側の武将や武者たちは、直春隊が慌てた風を装ったことと、平汲可済の推測が当たったことで、安心し油断してしまったのだ。


「まんまと敵軍師の罠にはまったわけか!」


 従之は悔しさにぎりぎりと歯噛みした。

 押中勢の動揺を見て、直春が叫んだ。


「全員、俺に続け!」


 言うなり、押中勢に向かって全力で馬を走らせた。うおおっ、と八百人が雄叫びを上げて自分たちの主君に付いていく。

 直春は途中で速度をゆるめ、武者たちを集めると再び加速した。押中勢は足を止めてうろたえている。その側面に左右に広がりながら槍先をそろえて迫っていく。


「突撃!」


 叫んだ瞬間、押中勢の背後でも同じ文句が聞こえた。忠賢だった。押中勢までの距離は森からと直春隊のいた位置からでは違い、片や騎馬隊、片や(かち)武者主体なのに、両隊の到達はほぼ同時だった。無言のうちに直春と忠賢は呼吸を合わせていたのだ。


「後ろを守れ! 右側もだ! 敵を防ぐのだ!」


 従之は叫んだが、その命令は既に遅かった。


「くっ、これは耐えられぬか!」


 従之は最初の一撃を受けた時点で敗北を悟った。二つの敵は驚くほど連携が取れている。理想的な挟撃で、まるで相手がそう動くと確信していたとしか思えなかった。


「またこの二将の奇襲と挟み撃ちか!」


 突撃の勢いは鋭く、どちらか一方に集中して守っても防ぎ切れたか怪しいのに、それを側面と背後から受けたのだから、隊列はあっと言う間に崩壊した。駒繋城でも同じ目にあっているので、武者たちはその時の恐怖が強く印象に残っていて動揺が激しかった。

 直春隊は押中勢を包囲しにかかった。忠賢隊も突入してかき乱したあと、包囲に移っている。押中家の武者たちは恐怖にかられて逃げ惑った。

 そこへ、退却の合図の鐘が響いた。


「引け、引け!」


 父建之の命じる声が聞こえた。従之は悔しかったが父と同じ言葉を叫んだ。これ以上この場にとどまっても死傷者が増えるだけで、最悪全滅する。宇野瀬家には怒られるかも知れないが、完全に包囲される前に役目を放棄して、家臣の命を守る選択をしたのだ。直春たちは街道側をわざと開けておいたので、武者たちはそちらへ向かって隊列など関係なく走り始めた。

 一千四百の押中勢は武器や盾を放り出して、南国街道を東の方へ逃げていった。


「さすがは忠賢殿だ。すさまじい突撃だった」


 押中勢を追い払うと、直春は声をかけた。忠賢はにやりとして言い返した。


「お殿様もなかなかだったぜ」


 二人は声を上げて笑った。


「お二方のお腕前、話には聞いておりましたが想像以上でした」


 良弘が武者をまとめ終えて報告に来た。直春も忠賢も二十人は突き伏せたろう。とどめを刺さなかったので多くは仲間に助けられて逃げたようだが、帯を奪えなかったことを残念とは思わなかった。その程度の手柄が目的ではないのだ。


「当方に損害はほとんどございません。皆まだまだ戦えますぞ」

「俺の隊も全員無事だ。槍が折れたやつが数人いるが、その辺のを拾えと言った」

「よし、では、次の段階へ移行しよう」


 直春は弦沼の方を見た。


「敵に逃げられる前に追い付かなくてはならないからな」

「先に行くぜ。まあ、菊次郎の策にかかって足止めされてるだろうがな」


 忠賢の騎馬隊は既に整列して自分たちの将を待っていた。直春は頷いて、槍を(かか)げると大声を張り上げた。


「押中勢は撃破した! だが、まだ二つも敵が残っている。両方とも打ち破って、我等の強さを天下に示すぞ!」

「おおう!」


 一千一百がそろって槍を振り上げた。

 直春と忠賢は自分の隊に戻り、先頭に立って馬を進めていった。


『狼達の花宴』 巻の二 湿り原の合戦図 その二

挿絵(By みてみん)


 平汲可済は愕然(がくぜん)としていた。背後を守っていた味方があっという間に崩壊し、潰走(かいそう)してしまったからだ。


「押中勢が破れました」


 家老が報告した。見ていたので分かっているが、はっきり言われるとぞっとする。


「どう致しますか。このままでは背後を襲われます」


 その言葉通り、押中勢を追い払った直春隊八百と三百の騎馬隊は、広場の森側の入口を目指していた。今、前には桜舘家の主力三千がいる。合わせて四千一百に包囲されれば、二千五百の平汲勢は壊滅するだろう。


「しっかりしろ。倫長殿に、二つの入口から入って敵主力を挟撃しろと勧めたのはお前だろう。次の策は何だ」


 父の可近が尋ねた。五十一歳でどこか疲れた感じのする人だが、さすがに経験の差でこの事態にも落ち着いていた。指揮をかわろうかと言っていることに気が付いて、可済は心を落ち着けようとした。


「申し訳ありません。大丈夫です」


 そう答えたところへ、木節(きぶし)往伴(ゆきとも)が足早に近付いてきた。


「我々はこの戦いで負けたら未来がないのですぞ! なんとかしていただきたい!」


 五十代半ばのこの男は桜舘家の家老で、駒繋城で離反した者たちのまとめ役だ。境池の合戦では大鬼家側に付き、以後不遇だった。

 他倉(たくら)将置(まさおき)釜辺(かまべ)助倍(すけます)も詰め寄った。


「勝てるとおっしゃったから貴家にお味方したのですぞ!」

「あの浪人どもを必ず倒すと約束くださったこと、よもやお忘れではございますまいな!」


 この二人は境村の合戦では武虎の誘いを受けて内応を誓ったものの、直春たちの勝利を期待して作戦は教えなかった。だが、結局は寝返り、家中で肩身が狭くなった。二人は作戦をもらさなかったし戦狼の世を生き延びるためには仕方がなかったと不満たらたらで、大鬼家側に付いた他の武将たちと一緒に直春の悪口を言って酒をあおっていたところへ、また武虎が声をかけたのだ。


「ふん、慌ておって。家の命運を賭けた大きな戦で二度も寝返ったのだ。もう許されないだろうからな」


 可済は聞こえぬようにつぶやいた。

 自業自得なのに必死で自分を正当化しようとする彼等を醜いと思ったものの、平汲勢はたった二千、大きな手柄を立てるために彼等五百は必要だ。裏切り者たちを軽蔑したことで可済は自信と余裕を取り戻したが、感謝する気にはなれなかった。


「皆様、ご安心くだされ。予想外の事態に少し焦りましたが、まだこちらの優位は揺らいでおりません」


 家老や武者たちが注目しているのでわざと笑って見せた。可済は二十八歳、戦場経験はそれなりにある。安心させるように父に頷いて、言葉を続けた。


「背後に敵が迫っておりますが、この広場から抜け出すのはもはや無理でしょう。敵の片方は騎馬隊で、脱出を阻止するつもりのようです。直春隊もまっすぐこちらへ向かってきます。森側の入口は狭く、前を塞がれたら三千の主力と挟み撃ちにされます。それこそ敵の思う壺です」


 状況を整理して、皆の心を落ち着けていく。


「この場合、安全なのは宇野瀬勢と合流することです。既に先頭がこの広場に入り込んでいますので、そちらへ向かい、合わせて一万一千五百で敵に立ち向かいます。もしくは、我々はそのまま広場を出て弦沼の向こう側を回り、直春隊のさらに後ろへ出ることも可能かも知れません。いずれにしても、数ではこちらがまだ三倍、勝機は十分あります」

「うむ。では、すぐに動こう」


 父の表情で同じ答えをとうに出していたと知り、可済は頼もしいような情けないような気分になった。

 だが、すぐに気力を(ふる)い立たせた。愛する妻が勝利の知らせを待っている。駒繋城下で討ち取れず、直春と主力に逃げられたと知って夏姫はがっかりしていたが、合戦でやっつけてくださいと励ましてくれた。ここでも勝てなかったら、きっと悲しげな顔をするだろう。

 桜舘家の当主の座や国主の称号は難しくなったが、働き次第で領地が増える可能性は消えていない。敵将を討つなど大きな功績を立てれば宇野瀬家も断れないだろう。逆に、家が取り潰されたら、妻に愛想を尽かされるかも知れない。


「必ずや(にっく)き直春めを討ち取り、我等が腰抜けの押中家とは違うことを教えてやろう!」


 可済が叫ぶと父が頷き、大声で命じた。


「防御重視の陣形をとれ! 三千の敵を警戒しつつ、広場をゆっくりと街道の方へ向かうぞ!」


 すぐに平汲勢は移動を開始した。街道側の入口から入ってきた宇野瀬勢もまっすぐこちらへ向かってくる。平汲勢の意図を察してくれたらしい。一方、敵の騎馬隊三百は森側の入口に到達し、直春隊を待っている。敵主力の三千に動きはなかった。


「三隊がそろうのを待って同時に攻撃するつもりか。だが、そううまくは行かぬ。こちらの合流の方が早い」


 宇野瀬勢との距離はどんどん縮まり、顔が見えるほどになってきた。


「よしよし。もう矢が届くくらいだな。あと少しだ……どうしたっ?」


 可済は驚いて声を上げた。軍勢が急に止まったのだ。馬上から眺めると、最前部の隊列が乱れていた。何事かと様子を見に駆け付けて叫んだ。


「落とし穴、いや堀か! 昨夜の作業はそれか!」


 広場の中央に細長い空堀が隠されていた。上に綿布(めんぷ)をかぶせて棒で支え、草を乗せてあったのだ。数十人が落ちて、必死ではい上がろうとしていた。


「我等の進路を塞ぐつもりだな。合流させない気か!」


 しまったと唇を噛んだ時、三千の敵の方から一本の火矢が飛んできた。その途端轟音がして、堀の中に大きな炎が上がった。


「炭を山盛りにして、上に油をまいてあったのか!」


 堀はさほど深くなく幅も狭い。走ればあっと言う間だ。しかし、この激しい炎と高温の炭の中に突っ込めば大火傷する。

 しかも、平汲勢が停止したのを見て、三千の敵が槍を向けて近付いてくる。一人の少女がその隊列に戻っていく。振り向くと、直春隊八百と三百の騎馬隊が背後に迫っていた。


「敵の軍師はこの展開を全て予想していたのか。俺はやつのねらい通りに動いていたのか!」


 怒りと屈辱で体が震えた。父可近が馬で駆けてきた。


「どうするつもりだ! どうやって合流する?」


 可済はうるさいと叫びたくなったが我慢し、深呼吸して周囲を見渡し、返事をした。


「こうなっては後方の二部隊を突破するしかありません。連中は合わせて一千一百、こちらは倍以上、突破は可能です。そのあと、隊列を組み直して桜舘勢の退路を塞ぎます。敵をここに閉じ込めて、宇野瀬勢と挟撃できるでしょう」


 火の堀は広場を完全に分断していない。弓沼の方に通れる場所がある。ただ、それは敵主力三千の向こうなのだ。宇野瀬勢はそこを通ってこちらへ来るはずだ。


「よし。それで行こう」


 可近は頷くと、大声で命じた。


「全軍反転! 広場の出口へ向かう! 前後の敵に警戒し、隊列を乱すな!」


 平汲勢は向きを変え、森側の入口へ向かった。後ろから三千の敵主力がひたひたと追ってくる。

 後方の敵に用心しながら進んでいくと、前方から青い鎧の武将が率いる騎馬隊が近付いてきた。


「たった三百など問題にならん、さっさと蹴散らすぞ! 速度を落とすな!」


 そう命じた時、敵の隊列から五十騎ほどが駆け出てきた。こちらへ来るかと思ったが、そばには来ず、前を悠々と横切っていった。騎馬武者たちは片手に抱えた大きな麻袋から何かをこぼしている。


「何をする気だ? まいているのは何だ?」

「黒い粉末のようです。恐らく炭でしょう」


 家老が答えた。そういえば、騎馬隊はこちらへ向かう前に、先程出てきた森の前で止まっていた。あの袋を武者たちに持たせていたのだろう。


「次は油のようです」


 続いて別な五十騎が樽から液体を垂らしながら通り過ぎた。


「やれ!」


 青い鎧の武将が槍を振り上げると、残りの二百騎が火のついた油玉を多数投じた。地面が激しく燃え上がり、横一文字(もんじ)に火の壁ができた。


「前を塞がれたか。我等を逃がさぬつもりだな!」


 可済は悔しがったが火の中へ進めとは言えない。


「やむを得ん。右側を通り抜けるぞ。向きを変えよ!」


 命じて動き出そうとすると、後方から右手に矢が飛んできた。敵の主力の牽制だ。一方、騎馬隊も右側に移動し、待ち構えている。


「右は無理か。では、左からだ」


 再び向きを変えさせると、騎馬隊が左へ移動していく。後方からの矢は、今度は左に集中する。


「くっ、どちらに行っても駄目か。ならば損害覚悟で突破するまで! このまま左へ向かえ!」


 可済は覚悟を決めて進み始めたが、飛んでくる矢と、右手から回り込んで後方をねらう騎馬隊を警戒しながらでは、ゆっくりにならざるを得なかった。

 そうして、火の壁を迂回している間に、直春隊八百が左前方に接近していた。


「これはまずい。三方から挟撃される」


 可済は焦った。


「脱出だけを考えれば、隊列をばらばらにして武者たちを走らせ、弦沼の向こうで呼び集める方法もある。だが、そんなことをしたら立て直すのに相当時間がかかる。そこへ騎馬隊に突っ込まれたら大きな損害が出る」


 可済が決断できないでいると、父が同じことを提案した。


「こうなっては一度軍勢を解散するほかあるまい」

「そ、そうですな……」


 なかなか決められないことを責められているようで不愉快だったが、ほっとしたのも事実だった。


「では、そう致しましょう」


 頷くと、父が大声を張り上げて武者たちに呼びかけた。


「皆、聞け。ここで一旦軍勢を……」


 だが、その声は後方の桜舘軍が一斉に上げた鬨の声でかき消された。その三千の指揮を馬上でとっているのは桜色の鎧のまだ幼い武将と少年軍師だった。


「いよいよ僕たちの出番です! 直春兄様や忠賢さんたちに負けない働きを期待します! 僕がしっかり見ています!」

「平汲勢は足が止まっています! ろくな抵抗はできません! 今が好機です! 他の二隊と息を合わせ、合図に従って攻撃を開始してください!」


 二人と少女は声をそろえて叫んだ。


「行きますよ! 十、九、八……、三、二、一! 全軍前進、攻撃開始!」


 わああ、と雄叫びを上げながら四千一百が三方から迫ってきた。既に包囲は完成していた。

 主力の三千と接触した瞬間、敵騎馬隊が側面から突っ込んできた。同時に、前方の直春隊八百も槍を平汲勢に突き刺していた。


「俺たちこそ吼狼国最強の騎馬隊だと証明するぞ! 立ち塞がる者は斬り払い、蹴散らし、蹂躙(じゅうりん)しろ! 一人も逃がすな!」

「駒繋城での恨みを晴らす時だ! 裏切り者に思い知らせてやろう! 平汲親子に木節(きぶし)往伴(ゆきとも)! 他倉(たくら)将置(まさおき)釜辺(かまべ)助倍(すけます)! おのれの所業の報いを受けよ!」


 数で上回る敵に前・横・背後から攻撃され、騎馬隊にかき乱されて、平汲勢はたちまち混乱した。


「くっ、遅かったか!」


 可済は悔やみつつ命じた。


「すぐそこに宇野瀬勢がいる! 到着を信じて必死で戦え! なんとしても持ちこたえるのだ!」


 胸に広がる絶望に抵抗するように大声で叫んだが、諦めずに守りを固めよと指示する以外にできることはなかった。


「三方から包囲して一斉攻撃だと? おのれ、桜舘直春! 敵軍師の小僧! やってくれたな!」


 敵ながらあっぱれと言いたくなるほど息の合った攻撃だった。ばらばらにではなく同時に襲いかかることで効果を最大にしたのだ。理屈では分かるが、そんな芸当ができる武将や軍勢がこの吼狼国にどれほどいるというのか。

 悔しいが敵軍師の作戦の見事さは認めざるを得ない。だがそれ以上に、敵の武将たちの能力と阿吽(あうん)の呼吸に、いやでも実力の差を感じさせられた。


「俺が当主の直春だ! 勇気のある者はかかってくるがよい! 身の程を教えてやろう!」

「青峰隊、見参! 大将はどこだ! 俺と戦え!」

「どけどけどけい! 直冬様の行く手を阻む者は、桜舘家馬廻衆があの世へ送ってやるぞ!」


 先頭に直春の白い鎧と騎馬隊の将の青い鎧が見える。三千の主力の方では三十代半ばの猛将が暴れ回っている。三人ともすさまじい働きで、次々に平汲家の武者を突き伏せていく。

 逃げ惑う味方の武者たちに押され、父の居場所は分からなくなってしまった。もはや隊列も指揮もなく、可済は自分が生き延びるために槍を振るわなくてはならなかった。


「ここで死ぬわけにはいかない。俺は封主家の跡取りだ。ただの武者とは違う。なんとしても駒繋城へ帰って伝統ある平汲家を守らねばならない。夏、待っていてくれ!」


 必死で脱出する道を探す可済の前に、青い鎧の若い敵将が現れた。次々に武者を槍で突き伏せながら迫ってくる。可済は逃げられぬと悟って覚悟を決め、向かって行った。

 だが、腕の差は歴然だった。


「大将と見たが、ふん、この程度か!」


 たちまち防戦一方に(おちい)り、次々に繰り出される突きに痛む箇所が増えていく。


「これで終わりだ!」


 槍をはね上げられて慌てて戻そうとしたが、その前に敵将の槍が腹を貫いていた。


「夏、すまぬ! ……誰かあの人を守ってくれ!」


 薄れ行く意識の中で叫んだ言葉に、敵将が返事をした。


「考えておくぜ」


 その言葉に頷いたのどを槍が貫き、可済の意識は永遠に途切れた。


『狼達の花宴』 巻の二 湿り原の合戦図 その三

挿絵(By みてみん)


「押中勢に続いて平汲勢まで破れるとは……」


 長賀は思わずつぶやいた。火の堀の向こうに二千五百の味方が崩れていくのが見えている。三千、八百、三百に三方から包囲されて、もはや軍勢の(てい)をなしていない。自分は今とても青い顔をしているだろう。


「あれが本当の罠か」


 武虎は不愉快そうだった。ほら見たことかと言いたいらしい。物見を武虎に任せなかったことと、城へまっすぐ向かう作戦を却下したことだ。


「ぬうっ! 敵軍師め、卑怯な手を使いおって!」


 倫長は歯ぎしりしていた。恨みがある相手の策が当たると、自分がはまったように感じるらしい。


「だがまだ助ける手はある。わしらが駆け付ければ敵の三倍、負けはせぬ」


 物見の報告では、火の堀は弦沼とつながっているが、弓沼には達しておらず、隙間があるのだ。


「今すぐ救いに行かねばらん。わしが向かうぞ!」

「叔父上ご自身がですか」


 長賀は驚いた。


「そうだ。急がぬと平汲勢が壊滅する。そうなれば敵は四千、こちらは九千だ。負けるとは言わぬが大勝はしにくくなる。平汲勢を立て直す必要がある」

「無駄だ。もう遅い。俺たちはこの広場を出るべきだ」


 武虎が言った。倫長は目をむいた。


「苦戦している味方を見捨てろと言うのか!」

「街道まで戻り、改めて合戦を挑めばよい。こちらが選んだ罠のない場所でな」

「勝てるのか」


 長賀は尋ねた。武虎は顔をしかめた。


(しゃく)だが断言はできん。敵は軍師も武将もすぐれているからな。だが、ここで戦うよりはましだ」


 対岸の戦場を眺めるまなざしは冷ややかだった。


「どうせ最初の計画では平汲家も滅ぼすつもりだった。桜舘軍が少しでも弱ってくれればもうけもの、全滅するまで抵抗してもらおう」

「降伏するのではありませんか」


 長賀は指摘した。


「武者たちはそれで助かるはずです」


 数百年前から、吼狼国の戦には降伏した者を殺してはならないという決まりがある。降伏の印は鎧の腰の帯を解いて差し出すことだ。帯を失った武者は捕虜になるか、自軍の小荷駄隊に配属されて戦闘からはずされる。

 この帯は錦織の豪華で丈夫なもので、武者の証だ。姓名と主家の印と当主の花押(かおう)に加え、寺院の僧侶の手で安全を祈る言葉と署名が書かれている。記録をとってあるため偽造は難しい。

 帯を奪われるのは不名誉で、再発行も戦後の交渉で取り返すのも大金がかかるが、命を失うよりはましだ。奪った方も金が手に入るし手柄を立てた証拠になる。非戦闘員を殺さないのは大神様の教えにもあり、この風習は戦狼の世でも多くの場合守られていた。

 だから、長賀は平汲家の武者たちはすぐに降伏するだろうと思ったのだ。だが、武虎は首を振った。


「そう簡単には帯を渡さないさ。ここに俺たちがいるからな」


 掘がなければ百歩もかからない場所に多数の味方がいる。救援を当てにして武者たちは必死で戦うというのだ。


「さっさと下がらないと死体が増えるぜ。俺は気にしないがな」


 武虎は薄笑いを浮かべていた。


「だからこそ助けるのだ。敵軍師の思うようにはさせぬ!」


 倫長は話を打ち切って馬に飛び乗った。


「やめておけ。死ぬ気か」

「黙れ! わしはこの戦に絶対に勝つのだ。味方を二部隊もつぶされるわけにはいかぬ!」


 倫長は桜舘家を滅ぼして長賀との実力の差を示し、当主になろうと考えていた。だから、甥には何もさせず、自分が全ての指揮をとってきた。大きな手柄を立てれば反対する声は小さくなる。逆に、三分の一の敵に苦戦すれば支持者が減る。桜舘家の当主はまだ十九歳の若造、軍師も十六歳にすぎない。勝って当然で、辛勝では意味がないのだ。二度も泳がされた恥を吹き飛ばす大勝利が必要だった。


「先に行くぞ!」


 倫長は返事も聞かずに馬を飛ばして軍勢の先頭へ行き、前進命令を出した。火の堀に沿って宇野瀬勢が移動を始めた。

 長賀は勝手な叔父に困った顔をしたが、自分もついていこうとした。


「我々も向かおう」

「駄目だ。行くな」


 武虎が制止した。


「なぜだ。叔父上が孤立するぞ」

「あの小僧がこの事態を予想していないと思うか。堀を弓沼につなげずに隙間を残したのは、そこに誘い込むためだ」

「では、叔父上が危ない! 呼び戻さなくては!」


 長賀は焦ったが、武虎はあっさりと言った。


「無駄だ。もう遅い」

「間に合うかも知れない!」

「あの男はお前から当主の座を奪おうとしていた。その場合、お前は殺される恐れもあった。死んでもらった方がよいのだ」

「しかし叔父だぞ! みすみす……」


 長賀はためらった。

 叔父上はこれまで当主の僕を無視してきた。その報いではないか。

 そう感じたのは否定できない。一方で、見殺しにすることには大きな抵抗があった。

 これまで僕は飾り物に徹してきた。だが、こういう時は総大将が動くべきではないか。武者たちに罪はない。救える者は救いたい。叔父上を好きではないが、死んでほしくはない。

 考えている時間はなかった。長賀は決断した。

 迷った時は正しいと感じる方を選びなさいとおじい様はおっしゃった。そして、その責任を背負えと。武者たちを死なせるよりも救う方が正しいはずだ。僕はそう感じるし、そう信じる!

 長賀は顔を上げ、強い口調で命じた。


「叔父上に伝令を。堀の隙間は敵の罠だ。全軍、すぐにこの広場を出て街道へ戻る。これは総大将、宇野瀬家当主の命令だ。拒否は許さない。そう伝えよ」

「はっ!」


 伝令の武者が馬を走らせようとした時、前方で大きな悲鳴とどよめきが起こった。


「ちっ、あの小僧、やはりやることがえげつない。平汲勢をこっちの先鋒になだれ込ませやがった」


 倫長についていったのは三分の二の六千だった。叔父と長賀の家中での勢力を表している。

 その六千と平汲勢の間にいた桜舘勢三千が、横によけて道を譲ったのだ。一見すると挟み撃ちにされるのを避けたようだが、ねらいは武虎の言う通りだろう。


「あっという間に混乱したな。隊列がぐちゃぐちゃだ」


 平汲勢二千五百は完全に包囲されて押しまくられていた。その時一方に道が開けたのだ。しかも、その先には味方がいる。一斉にそちらへ向かったのは当然だった。


「叔父上なら立て直せるはずだ」


 伝令が到着すれば、叔父上はきっと失敗を悟って引いてくれる。僕の指示に従うのは悔しいだろうが、死んでは元も子もない。さすがに、当主の命令にはっきりと逆らうことはしないはずだ。

 長賀は期待して見守っていたが、そううまくは行かなかった。


「あの少女は? また火矢か!」


 叫んだ時、一本の矢が赤い軌跡を残しながら倫長勢の背後へ落ちていった。

 途端に地面が燃え上がった。油や炭の粉をまいてあったのだ。しかも、煙の出る草がたくさんまじっていたらしく、倫長勢が白煙に覆われていく。

 同時に大きな鬨の声が起こった。桜舘軍全体からだった。油玉や煙玉を投げ込んで一斉に攻撃したのだ。倫長勢と平汲勢は桜舘家の三隊に包囲され、燃え盛る炎に退路を断たれ、白煙に覆われて視界もない。壊滅するのは時間の問題だった。


「やられたか。思った通りだ。しかし、あの小僧は底が知れんな」


 武虎は言って、提案した。


「撤退しよう。堀の向こうの味方はすぐに降伏するだろう。これ以上の抵抗が無意味なのは明らかだからな。桜舘家も殺す気はないはずだ。捕虜に取った方が戦後の交渉がしやすくなる」

「交渉?」

「そうだ。お前がするんだ。当主だからな。お前が生きて戻らないと捕虜の帰国が遅くなるぞ」

「降伏の使者を送らないのか」

「もう敵が呼びかけている。武者たちは勝手に帯を差し出すさ。ぐずぐずしていると俺たちもやばい。街道側の出口を塞がれたら逃げ道がなくなる」

「……分かった。撤退しよう」


 三千に街道へ向かうように命じて、長賀は騎乗し、馬の腹を軽く蹴った。


「叔父上?」


 叫び声を聞いたような気がして振り返ると、火の堀のそばに叔父がいた。こちらを憎々しげににらんでいる。何かを叫んでいるがよく分からなかった。


「後ろに敵が!」


 届かないと知りつつ、長賀は指さして叫んだ。全身青い鎧の敵将が倫長に迫っていた。叔父は馬を走らせて逃げようとしたが、相手の馬に追い付かれ、体当たりされて地面に落ちた。

 起き上がろうとしたその腹を目がけて、敵将は槍を突き出した。倫長はのたうち回り、力尽きて地面に伸びた。まだ若い敵将が槍をかかげ、そばにいた仲間数人と一緒に勝利を叫んだ。

「青峰忠賢が、宇野瀬家の副将を討ち取ったぞ!」

「叔父上……!」


 長賀は重い何かを振り切るように視線を前に戻し、涙をぬぐって命じた。


「急げ。敵が来る」


 副将の死に震え上がった武者たちは足を速めた。

 武虎が言った。


「弓隊に矢を持たせておけ。槍隊にも隊列を乱さぬように伝えろ」

「これ以上戦う意味があるのか?」

「追撃してくるかも知れん。用心のためだ」


 長賀は疑いつつもすぐに命じた。


「それでよい。俺に似たやつが敵にいるようだ。いくら戦っても足りないやつがな」


 武虎の口調からは、その相手を嫌っているのか共感しているのか分からなかった。



「直春さん!」


 菊次郎と田鶴と直冬が近付いていくと、馬から下りて良弘と話をしていた直春は笑顔で迎えてくれた。汗をかき、鎧のあちらこちらに返り血が飛んでいたが元気な様子だ。菊次郎はほっとした。


「すごい活躍でしたね」

「菊次郎君の作戦のおかげだ。常にこちらが有利になるようにしてくれたから安心して戦えた」


 直冬がなるほどと大きく頷いた。


「そう言えばそうでした」

「それが僕の仕事ですから」


 どんなに有能な武将や武者でも、不安があって目の前の戦いに集中できなければ実力を発揮できない。作戦を立てる時は、背後の(うれ)いをなくしたり、失敗や敗北や死傷の可能性を減らしたり、勇気が湧いてくる状況を作ることが求められる。いかに敵を不利な状態に置き、味方が数や位置や気持ちで有利になるようにするかが最も重要なのだ。


「伏兵や火罠が成功したのは、敵が積極的に攻めてきてくれたからです。慎重で用心深い相手を誘い込むのは大変ですので」

「指揮をとっていたのは倫長だろう。長賀は若い上にずっと飾り物だったと聞いている。通商の禁例も倫長が出していたようだ」

「自ら城内に乗り込んでくるような人が相手で助かりました。こちらは守り切ればよく、敵側が勝利を必要とする状況だったのですが、こんなにうまく行かないだろうと思っていました」


 菊次郎はこう言ったが、敵にこちらの意図を悟られたり策を破られたりした時の用意はもちろんしてあった。

 例えば、もし敵が菊次郎や直冬の部隊ではなく直春隊を追って行ったら、その敵部隊か、直冬隊を抑えにきた敵かの背後を忠賢隊が襲って挟撃する予定だった。どちらにしろ、敵は三つがばらばらに離れるはずなので、兵数の少ない平汲勢や押中勢から先にたたいていけばよい。そのために、全武者に煙玉や油玉を持たせていた。また、堀造りで出た土で弓沼に脱出路を用意し、万一の時はそこから城の方へ逃げるつもりだった。

 最悪の想定は敵が誘いを無視して豊津城を目指すことで、その場合は直春隊と忠賢隊が街道に出て背後を襲い、広場にいる直冬隊と挟撃するつもりだったが、奇襲はできないので苦戦するだろう。街道を塞ぐ木の柵の後ろにも火の堀を作ってあるため城に行かれる可能性は低かったが、互いに大きな損害を出して痛み分けに終わり、そのあとの行動が制限されたかも知れない。


「一つ、二つ……」


 直冬が指を折り始めた。


「何を数えているのですか」

「いくつ策があったか思い出していました。今後の参考にしようと思うんです。……ええと、挑発しておびき寄せようとしていると思わせた。実は森にいる直春兄様たちに気付かせるためだった。わざと森から出ていって、もう伏兵はいないと思わせた。それから……」


 ぶつぶつつぶやいている。直春が言った。


「結局、全部予想通りだったわけか。さすがだな」


 菊次郎は首を振った。


「宇野瀬勢の三分の一と大将を取り逃がしました。火の堀に通れる箇所があるのは罠だと気付いたようです。恐らくあの男でしょう」

「赤潟武虎ね」


 田鶴がいやそうな顔をした。武虎の率いる集団も一種の隠密だが、あれはあたしたちとは違うと、彼の話題が出るたびに言っていた。情報を集めるのと工作や暗殺を請け負うのは全く別種だと菊次郎も思う。

 合戦の目的は宇野瀬勢に大打撃を与えて撤退に追い込むことで、壊滅させる必要はなかった。だから結果には十分満足できるのだが、見破られたのはやはり気になった。武虎がいる限り、宇野瀬家に大きく勝利することは難しいかも知れない。


「だけど、あの副将は死んだよね。止めなかったのかな」


 田鶴は疑問に感じたらしい。


「きっと、武虎を信用していなかったのでしょう。長賀は動かなかったから助かったのです」


 菊次郎が答えると、直冬が感嘆の表情で言った。


「直春兄様や忠賢さんが菊次郎さんを信用していたから僕たちは勝てたんですね!」


 田鶴がうれしそうに頷いた。


「菊次郎さんも二人や直冬様を信じてたのよ」

「もちろん、田鶴のこともだよ」


 菊次郎が言うと少女は頬を染めた。暑そうに着物の胸元をぱたぱたしている。七分袖の着物に短い袴から膝を出しているが、下には特注の軽い鎖帷子(くさりかたびら)を身に付けている。

 そんな少女を直春はやさしい目で眺めていた。 


「田鶴殿の弓の腕前も見事だった。矢の軌跡がどことなく優雅なのですぐに分かる。火矢は普通の矢と少し感覚が違うのだがな」

「境池の時に随分練習したから。あたしは槍は使えないし」


 田鶴はけろりとしていた。戦場に出てもあまり緊張しないらしい。女の身で危険も多いと思うのだが、菊次郎よりよほど腹が据わっている。


「直冬殿もよくやった。見事な指揮ぶりだったぞ」


 良弘も頷いていた。


「具体的な指示は菊次郎君が出していたが、武者たちの気持ちをまとめ上げて奮い立たせたのは直冬殿だ」


 籠城戦前の演説に続いて、この戦いの前にも直春と共に武者たちに激励の言葉をかけたのだ。直冬が自分から合戦に出たいと言ったと知って、武者たちは感動していた。


「ずっと馬上で武者たちに声をかけていたな。末頼もしいと思ったぞ」

「見ていたのですか」

「その鎧は目立つからな」


 すると、直冬はうつむいた。


「桜色の鎧なんて女みたいです」

「いやなのか?」

「そんなことはないですけど……」


 直春の鎧は白地に金や赤の模様が入っている。忠賢は青、菊次郎の胸当ては深めの緑だ。それに比べて子供っぽいと感じているようだ。


「気持ちは分からなくもないが、恥ずかしがることはない。もう足の国にその鎧を笑う者は一人もおるまい」


 菊次郎と田鶴も言った。


「そうです。宇野瀬家の大軍を打ち破った合戦で、最多の武者を率いた武将の鎧ですよ」

「きっとみんなその鎧を見て、あれが有名な直冬様かって思うよ」

「僕は立派な武将になれるでしょうか」


 直冬は照れた。まだあまり自信がないらしい。


「大丈夫です。今回の戦で桜舘家の者は皆、直冬様の成長に一層期待するようになったはずです」

「うん、あたしも楽しみ」


 直冬は一層顔を赤くした。

 菊次郎たちが微笑んでいると、忠賢が馬を引いて歩いてきた。青い鎧の腰に赤い縦線が三つ入った帯を二本まいている。当主一族のものである印だ。


「敵将二人か。大したものだ」


 直春は水の入った瓢箪(ひょうたん)を差し出した。


「他は部下に譲った。これで充分な加増を受けられるよな、お殿様?」

「約束しよう」


 二人は笑った。忠賢は瓢箪をぐいっとあおり、口をぬぐって直春に返すと、愛馬にまたがった。桜舘家に仕官後すぐに墨浦に行って、自分で選んできた名馬だ。相当高価だったようだが、直春が貸したと聞いている。騎馬隊の将にふさわしい立派な毛並だった。


「さて、もう一働きするか」


 忠賢は槍を右手に握って手綱をとった。


「えっ、まだ戦うのですか」


 直冬が驚いた。


「まだたたいてない敵がいるだろうが」

「逃げていくみたいですよ」


 直冬はこれ以上戦いたくないという顔だった。十二歳だし初陣だ。大分疲れたようだ。


「敵の大将が生きてるからな」

「討ち取るつもりですか」

「ああ。俺の隊だけで充分だ。蹴散らしてくる」

「敵は三千はいますよ。勝てるのですか」

「追撃だからな」


 やめた方がいいと言いたげな直冬の兜をぽんとたたき、忠賢は槍を振り上げて合図した。部下の騎馬武者たちに合流し、列の先頭に立って速度を上げた。


「じゃあ、ちょっくら行ってくるぜ!」


 三百の騎馬隊は湿地の間の広場から出ていった。


「大丈夫なの?」


 心配そうな田鶴に菊次郎は言った。


「敵将の帯は取れないけど、死ぬこともないと思うよ」

「どうしてですか」


 首を傾げた直冬に説明した。


「敵には武虎がいます。撤退時に用心しないはずがありません。ですが、もう戦うつもりはないでしょう。追い払ってすぐに逃げるはずです」


 直冬は真剣に聞いている。


「ここで三百程度の敵をたたいてもこの大敗は誤魔化せません。それよりも当主を一刻も早く無事に帰国させる方が重要です」


 直春が確認した。


「行かせてもよいのだな」


 菊次郎は直春の顔をしっかりと見上げた。


「忠賢さんなら状況をちゃんと判断できるでしょう」

「信じているんだな」

「はい」

「俺もだ。忠賢殿と、君をな」


 直春は笑みを浮かべた。


「ならば放っておこう」


 直春は背を向けて良弘と話の続きを始めた。


「僕はもう少し見ています」

「あたしも。やっぱり気になるし」


 直冬隊の武者の点検や捕虜の扱いは本綱や実佐が指示を出しているのだ。


「怪我をしないとよいのですが」


 菊次郎は予想される敵の対応を説明した。

 一方、忠賢は草地を軽快に駆けていた。


「もう少しだけ頑張ってくれ」


 忠賢は愛馬の首を軽くたたいた。


「欲張りすぎかも知れないが、こんな機会は当分来ないからな」


 宇野瀬勢は(かち)武者が多い。ぐんぐん距離が縮まっていく。

「全員、突撃準備!」


 忠賢は叫んだ。


「ねらうのは敵の大将の首だ。それをとったあとは好きに稼げ!」

「おうっ!」


 疲れているだろうに武者たちの返事は気合が入っていた。勝ち戦に興奮し、自分たちの将に心酔しているのだ。


「よし、突撃……、待て! 散開!」


 南国街道を去っていく宇野瀬勢が急にくるりと向きを変え、手にしていた弓を一斉に引いた。


「ちっ、読まれていたか」


 騎馬隊がいなくなった場所に数千本の矢が降り注いだ。同時に大きな鬨の声が上がった。


「うおおお!」


 千人ほどが槍を構えて向かってきた。


「これは勝てねえか」


 この宇野瀬勢三千は今日まだ一度も戦っていない。体力も矢も温存されている。一方、忠賢の部下は、矢を避けて散らばった時、数騎が転びかけたり遅れて矢を浴びそうになったりした。武者も馬も疲れているのだ。


「やめだ。撤収!」


 忠賢はあっさり諦めた。獲物は大きいが、ここで無理をすれば多くの部下が死ぬ。それは望むところではなかった。

 指笛を吹いて呼び集め、速度を落として菊次郎たちのいる場所へ戻っていく。


「よろしいのですか」


 一人が馬を寄せてきた。


「ああ。もう手柄は充分立てた。あれを狩るのはまたの機会にしよう」

「いつになるでしょうか」


 悔しそうな部下に、忠賢はにやりと笑った。


「こっちには菊次郎とお殿様がいる。きっとそう遠くないだろうぜ」

「かも知れません」


 部下はうれしそうに頷いて、列に戻っていった。


『狼達の花宴』 巻の二 湿り原の合戦図 その四

挿絵(By みてみん)


「すごいです! 菊次郎さんの言った通りになりました!」


 直冬は目を見張っている。その表情は感嘆を超えて恐怖に近いものだった。

 忠賢隊を追い払った宇野瀬勢はすぐに反転して街道に戻り、速度を上げて去っていく。少し先に小荷駄隊がいるので、合流して踵の国へ帰るのだろう。

 それをじっと見送っていた直冬は、急に顔を上げて言った。


「菊次郎さん。僕を弟子にしてください!」

「弟子ですか?」


 菊次郎は驚いたが、少年は真剣だった。


「僕はもう元服して戦場に出るようになりました。武将として大勢を率いないといけません。でも、まだ菊次郎さんや家老たちがいないと何もできません。それではいけないと思うんです!」


 直冬は頭を下げた。


「僕もみんなの役に立ちたいです。飾り物ではなくて、直春兄様や妙姉様、菊次郎さんや田鶴たちと一緒に戦いたいんです!」

「直冬様……」


 菊次郎は言葉を失った。たった十二歳の少年が、まだあどけない面差(おもざ)しの奥に、本気で戦狼の世を戦っていく覚悟と勇気を秘めていたことに衝撃を受けたのだ。


「教えてあげればいいよ」


 田鶴が言った。


「直冬様も仲間だもん」

「そうですね。その通りです」


 田鶴の言葉は胸にすとんと落ちた。この少年は守られるだけの存在ではいたくないのだ。今回のように、封主家の若君は戦と無縁ではいられない。生き延びるためには力を付ける必要があった。


「直冬様は逃げないのですね。それはとてもすごいことだと思います。尊敬します」


 成安宗龍は大封主家の当主で天下をねらえると言われながら、(まつりごと)を家臣に任せて遊びほうけている。直冬はそうならないと宣言したのだ。一年前、軍学塾にいた頃の自分を思い出して、菊次郎はこの若君の資質と可能性に驚嘆した。


「尊敬ですか? ええっ、なぜですか?」


 直冬は理由が分からないらしく、顔を赤くして照れながら首を傾げていた。


「直冬様が負けずに生き抜いていける力を付けられるように、僕が手伝います」


 菊次郎は約束した。


「あたしも!」


 田鶴が言うと、直春が振り向いた。


「俺も手伝おう」

「もちろん我々もお支え致します」


 良弘は何度も大きく頷いていた。孫のような年の若君の決意に感動したようだ。

 忠賢が戻ってきた。愛馬から降り、背中をたたいてねぎらっている。


「お疲れ様でした」


 菊次郎が瓢箪を渡すと一口飲み、愛馬の鼻にかけてやった。馬は口のまわりを舌でなめている。


「ふう、さすがにくたびれたぜ」

「張りつめていた気持ちがゆるんで、ようやく疲れが出てきたか」


 直春が笑った。忠賢は周囲を眺めて言った。


「随分と捕虜が多いな。こりゃあ、かなり宇野瀬家からしぼり取れるな」


 既に敵の武者は全てが地面に座り込み、帯を抜いて上に掲げていた。勝利を知って豊津城から駆け付けた小荷駄隊が受け取って立たせ、一ヵ所に集めている。医師の姿もあり、怪我をした者たちの治療が始まっていた。


「こちらの被害はどうだ」

「大したことはない。菊次郎君のおかげだ。戦死は五十もいないようだ」

「そりゃすげえ」


 この規模の戦としては非常に少ない。正面からまともにぶつかった戦闘がなかったせいだろう。


「ただ、最後に怪我人が増えた。討ち取らなくてはならない者たちがいたのでな」


 直春は腹を立てているらしい。


「ああ、木節(きぶし)他倉(たくら)釜辺(かまべ)といった連中か」


 忠賢は察した顔をした。二度も裏切った者たちを助命はできなかった。降伏して自刃せよと呼びかけたが抵抗し逃げようとした。やむなく包囲して取り押さえたが、五百人を鎮圧するには随分手間取り、こちらも彼等の配下も大勢が怪我をした。


「武者たちは許すと言ったのだが、主が諦めないので逃げるわけにはいかなかったようだ。各家の当主は全て死んだ。他の者は武装を解かせて謹慎させることにした」

「どうせ取りつぶすんだろ」

「それはそうだが、雇えるかも知れないからな」

「役に立つのか?」

「俺たち次第だな」


 直春が答えた時、叫ぶ声が聞こえた。


「国主様! 菊次郎殿!」


 名を呼ばれて振り返ると頼算だった。息を切らせて走って来る。


「どうしてここに?」


 楠島に行ったはずだと疑問に思っていると、頼算は荒い息をしながらにっこりと笑った。


「勝ったようですな。さすがは皆様だ。こちらもよい知らせを持ってきました」


 頼算は直春に向き直り、丁寧にお辞儀をした。


「おめでとうございます。妙姫様がご出産なさいました。元気な男の子でございます!」

「おおっ!」


 聞き耳を立てていた武者たちがどよめいた。それがどんどん伝わって広がっていく。


「おめでとう!」

「おめでとうございます!」

「これは確かにめでたいな。よかったじゃねえか!」


 菊次郎たちは口々に祝いの言葉を述べた。武者たちも集まってきて「おめでとうございます」の合唱になった。

 いつの間にかその輪に楠島盛昌や水軍衆、豊津の商人たちも加わっている。彼等は近くの森に隠れて観戦していたのだ。商人たちは戦の結果が気になって楠島に行かずに見守っていた者たちだが、すっかり若い当主や軍師に対する認識を改めたらしかった。

 直春は珍しく驚いて絶句していたが、照れながらいかにも幸福そうな笑みを浮かべた。


「ありがとう。みんなのおかげだ。妙もそう思っているはずだ」


 直春は頭を下げた。


「本当はすぐにでも妙のもとに駆け付けたい。が、そうもいかん」


 視線を向けられて菊次郎は進言した。


「平汲家と押中家は弱っています。駒繋城と千本槍城を落とす好機です。妙姫様には怒られそうですが、この機会をのがすわけにはいきません」


 表情から忠賢や家老たちも全員同意見だと分かった。


「じゃあ、急いで落とさなきゃ。菊次郎さん、頼んだよ!」

「こういう時こそ軍師の出番だぜ!」


 田鶴と忠賢は期待するように菊次郎を見た。


「そうですね。でも、二つともすぐに落ちると思いますよ」

「我が軍師殿が言うなら間違いないな!」


 直春は頼もしそうに笑った。


「兄上、僕も連れて行ってください」


 直冬が言った。


「兄上や菊次郎さんの戦いをそばで見たいのです」

「弟子だもんね」


 田鶴が微笑んだ。忠賢が、ほほう、という顔をした。


「もしかして、菊次郎のか?」

「ええ、頼まれました」

「よろしくお願いします、師匠!」

「本当に僕でいいのでしょうか」

「いいんじゃないか」


 忠賢はやさしい表情だった。


「お前はすごい軍師なんだからさ」


 まともにほめられるなんて少し意外だった。それが顔に出たらしいが、忠賢は照れなかった。


「いい作戦だったぜ」


 忠賢はうれしそうに笑った。


「こんなに俺の能力を最大に生かしてくれたやつは初めてだ。全力を出して疲れたが、楽しかったぜ」

「そうだな。俺もくたびれたがずっと気分が高揚していた。限界まで力を出し切るのは心地よいものだな」


 直春もさわやかに笑っていた。


「俺がまた疫病神になりそうだったのをお前が防いでくれたってわけだ」

「直春さん、忠賢さん……」


 菊次郎は目が(うる)みそうになったが、うつむかなかった。


「約束します。桜舘家は誰にも滅ぼさせません。忠賢さんのせいで滅びそうになっても、僕が全力で止めます」

「随分頼もしいことを言うようになったじゃねえか」


 忠賢がにやりとした。


「では、出陣する!」


 直春は一同に命令を出した。


「これより、三千を率いて駒繋城の攻略に向かう。そのあと、千本槍城も落とす。菊次郎君と忠賢殿と直冬殿、隠密の頭である田鶴殿、本綱には来てもらう。残りの武者と怪我人は良弘に預ける。捕虜の収容も任せる。実佐は豊津の町と連絡を取って鏡橋の踏板をはめなおし、天額寺に避難している人々に、もう安全だと伝えよ」


 凛とした声で直春は宣言した。


「一気に他の二家を滅ぼし、葦江国全てを支配下に置くぞ!」


 武者たちが一斉に槍を高くかかげた。


「桜の御旗(みはた)に栄光あれ!」


 ようやく中天に昇った太陽が、まだ立ち上る白い煙にたくさんの光の筋を作っている。真冬の湖畔の街道の脇に、誰が植えたのか一株の椿が赤い花をいくつも広げていた。

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