(巻の二) 第四章 開戦 下
『狼達の花宴』 巻の二 豊津城図
昼過ぎ、宇野瀬勢が城へやってきた。
実佐の襲撃は成功した。森の陰に隠れて待ち伏せし、矢や槍で十数人を倒すと、さっと敵の隊列を突っ切って駆け抜け、城へ帰ってきた。激怒した敵の武将が一軍を率いて追ってきたが、城内から矢を射られて諦め、悔しがっていた。
やがて宇野瀬家の全軍一万が到着した。広い水堀や塀の上に林立した旗と木の盾を眺め、守りを固めていると知って物見の武者をあちらこちらへ走らせていたが、やや離れたところに本陣を築き、城の広場にも陣を張って攻城の準備を始めた。菊次郎の読み通り、武者のいる城を残したままでは危険だと考えたらしい。
橋に火をつけるだけなら五百でも可能だ。渡ったあとで壊されたら国へ帰れなくなるし、朧燈国や茅生国との連絡が難しくなる。黄葉谷方面へ迂回すれば橋があるがかなり遠回りで日数がかかり、戦利品を満載した荷車を多数引き連れて移動するのは苦労する。
また、退路を断たれれば武者たちの動揺は避けられない。広いとはいえ川だから、最悪泳いで渡れば生きて帰れるのだが、北へ逃げた桜舘軍の主力が戻ってきた時や成安家の援軍が現れた場合に素早く撤退できなくなる。こういう不安や恐怖は理屈ではなく、命がかかる戦場で目の前の敵を倒すことだけに集中できるかどうかは勝敗に大きく影響するのだ。それに、鏡橋の踏板は全てはずされているので、小荷駄隊が板を作って渡れるようにするまで時間がある。籠もった兵力は少数だから、その間に落とそうということだろう。
「完全に包囲されたね」
田鶴がぶるっと身を震わせた。物見櫓と指揮所を兼ねる本郭御殿の狭い三階は真冬の風が強く吹き付けていたが、田鶴が寒気を感じたのはそのせいだけではなかった。周囲を一望できるこの場所からは、宇野瀬勢が城をすっかり囲んでいるのが見えるのだ。
本綱が言った。
「小手調べという布陣ではないな。全力でこの城を攻めるようだ」
「ほぼ全軍が出てきている。この城でなかったら負けは確定だったな」
実佐は敵武者の数を数えていたらしい。菊次郎も同じことをしていたので同意した。
「そうですね。敵もこの城の構造を見て頭を悩ませているでしょう」
「住んでいると気付かないけど、確かに攻めにくい城ですね。守り切れるといいなあ」
直冬は恐怖が強すぎて、かえって腹が据わったらしい。初陣とは思えぬ堂々とした態度に見えるが、よく見ると歯を食いしばってかちかち鳴るのを防ごうとしている。だが、そういう直冬の姿には、菊次郎や田鶴や本綱や実佐、周囲の武者たちを落ち着かせる効果があった。恐がるのと耐えるのをかわりにやってくれるので、自分は大丈夫という気持ちになるのだ。十二歳の総大将が我慢しているのに、年上の自分たちが怯えているわけには行かない。
直冬を見て微笑んだ田鶴から、菊次郎は視線を城の外へ移した。
「この城を築いたのは随分昔の当主だと聞いていますが、よい場所に目を付けましたね」
豊津城は境川の東岸の湿地を埋め立てて造られた。ただし、湿地を全てなくしたわけではない。東側と南側は大きく残し、北側を整地したのだ。西側は境川だから、三方に移動が困難な場所がある。
つまり、守りを固めるべきは北側だけだ。実際、湿地の向こうの宇野瀬勢は攻め寄せる準備をしていない。矢を射たりはしてくるだろうが、大した脅威にはならないだろう。包囲することで城兵に恐怖を与えるのがねらいと思われた。
豊津城には郭が三つある。北側の下郭、東側の中郭、南側の本郭で、橋で結ばれている。下と中の二つの郭を通らないと本郭には行けない。
このうち本郭は四方を他の郭と湿地と川に囲まれているので、菊次郎は五十人しか置かなかった。北端が南国街道に面する中郭には百人、残り三百人が下郭にいる。
「この配置でも防ぐのは本当に無理なのか」
本綱が尋ねた。菊次郎の策を使わなくても守り切れるのではないかと言いたいらしい。
「無理ですね」
菊次郎は答えた。
「敵が多すぎます。確かに、深い水堀を鎧を着た武者が舟なしで渡るのは難しいですから、必死で戦えば今日一日だけなら大手門を守り切れる可能性もあります。ですが、下郭の守備は三百対四千や五千です。中郭も百対二千ほど。武者たちは疲れ切ってしまうでしょう。明日になったら敵は夜の間に準備をしてもっとすごい勢いで攻めてきます。恐らくすぐに城内に入り込まれて、策を使う時間もなく落城します。余裕のあるうちに本来の防衛体制に移行する必要があるのです」
「そうか。やむを得んな」
本綱はがっかりした顔をしたが、腹をくくったらしかった。
「よし。では、派手にやってやるか。こんな体験、二度とできないかも知れないからな」
「したくはなかったがな」
そう応じた実佐は割り切った様子だった。守るものの優先順位がはっきりしていて、必要なら自分の命すら投げ出す覚悟があるからかも知れない。それでも、九つ年上の本綱ほどではないにしろ、この城に多くの思い出があるはずだった。
菊次郎は謝りたい衝動にかられたが、ぐっと我慢した。立案者の自分がためらってどうする。自信を持ち、結果を受け入れなくてはいけない。
菊次郎は北へ目を向け、葦の江をぐるりと回る街道にあるはずのない直春の軍勢の姿を探し、やはり見えないことを確認すると、息を深く吸って言った。
「では、始めましょう。そろそろ攻めてくるはずです。実佐さん、下郭をお願いします。大手門を堅く守ってください。本綱さんは中郭を頼みます。万が一にも堀を越えて北側から入られると作戦が崩れます。本郭は直冬様と僕で引き受けます。田鶴は郭の間の連絡をお願い。隠密衆と小荷駄隊の指揮は任せるよ」
「おう!」
「心得た」
「頑張るね!」
三人は頷いて階段を下りていった。田鶴は肩に小猿を乗せたままだった。
「あと二日半、なんとしても守り切らなくては」
菊次郎はつぶやいて大手門前の敵陣へ視線を落とし、こちら見上げている一人の人物に気が付いた。
「赤潟武虎!」
隣に立派な鎧の人物が二人いる。恐らく総大将の宇野瀬長賀と叔父の倫長だろう。目が合い、宿敵がにやりと笑って口を動かした。言葉が聞こえる距離ではないが、内容は分かっている。
「お前をこれから殺しに行く」
これは封主家同士の争いであるだけでなく、菊次郎個人にとっても身を守り、復讐を遂げる戦いなのだ。あの男は家族と大恩ある若竹適雲斎を殺したのだから。
「絶対に負けない。この城と桜舘家を守って、お前のような存在が必要とされない時代を築く。それが直春さんと僕たちの夢だ!」
菊次郎が決然と言い返した時、敵陣から法螺貝の大きな音が鳴り響いた。
「いよいよ攻撃開始か」
菊次郎は振り向き、太鼓手に命じた。
「こちらも迎撃します。全軍に合図を!」
大太鼓の音が響き渡ると、一瞬の静寂のあと、大きな鬨の声が湧き起こった。すぐに多数の弓音がそれに続き、周囲は命のやり取りをする武者たちの叫び声で満たされた。
「戦況はどうなっておる。報告せよ」
日が大分傾いた頃、宇野瀬倫長は中郭まで制圧が終わったと聞いて城内に入った。水堀を越える橋は踏板がはずされていたので、近くの森の木で作ったいかだで渡ったのだ。
「下郭と中郭は制圧が終わりました」
大手門で出迎えた案内役の武者頭は、二百人の武者に守られた宇野瀬勢の副将に丁寧に頭を下げて説明した。
「この城は水堀に囲まれているため、全ての郭の入口には橋と大きな門があります。しかも、各門が橋からやや引っ込んでいて、塀に囲まれた狭い広場の奥にあるため、三方から攻撃を受けて苦戦しました。ですが、門に火矢を射込み、先端を尖らせた丸太を盾隊に守らせて突っ込ませ、門扉を破ることに成功しました。大手門の攻略に予想外に手間取りましたが、城内に入ってからは数の差で一方的な戦いになり、敵はどんどん奥へ下がっております」
「中郭はまだ敵がいるのか」
「敵は全て本郭へ逃げ込み、中郭には残っていません。現在は本郭の門を攻撃しております。抵抗は頑強ですが、突破は時間の問題です。日没までに落城するでしょう」
太陽は城の高い塀に隠れつつあった。冬は日が暮れるのが早いので、あと一刻ほどで暗くなるだろう。
「ならば中郭へ行こう。本郭攻略の指揮はわしがとる」
武者頭は困惑した表情をした。
「倫長様がじきじきにご指示を出されるのですか」
「そうだ。最後くらいはわしも働こう。ここまで家臣に任せきりだったからな」
現在、宇野瀬家の当主は十七歳の長賀だが実権は倫長にある。道果が孫を支持しているので家臣たちは文句を言わないが、内心頼りなく思っているのは分かっていた。
「軟弱な長賀に宇野瀬家は守れぬ。わしが当主になった方が家臣や領民のためなのだ」
倫長は本気でそう信じていた。道果の命はもう長くない。父が死んだら長賀を廃して自分が当主になるつもりだった。この戦いで長賀が役に立たないことを証明し、倫長が大きな手柄を立てれば、家臣たちは甥を見限るだろう。
「骨山願空め、何かとこちらの邪魔をしてくるが、この堅城を落として葦江国を制圧すれば、誰もがわしの実力を認めざるを得まい」
願空がこの遠征に反対だったのは知っている。道果に忠実な筆頭家老は長賀を守るつもりらしい。その手下の武虎は、豊津の町を占領して麦や軍資金を得る方を重視し、豊津城には抑えの兵を置いて先に進もうと提案した。しかし、倫長は城を落として後顧の憂いを断つべきだと主張した。退路を塞がれては困るし、物資を多く持てば軍勢が動きにくくなると言うと、長賀は叔父に逆らえず、城攻めを命じた。
「長賀は総大将、敵城に乗り込むような無茶はできぬ。副将のわしの方が手柄を立てやすいのだ」
倫長は戦を好まぬ長賀を軽蔑していた。
「長賀は安全な場所で守られて震えておればよい。わしは本郭に宇野瀬家の旗を立てて敵将を降し、誰が本当の総大将なのかを示してやる」
倫長は意気込んで下郭をどんどん先へ進んでいった。といっても、護衛が先行して建物の中をのぞき、安全を確認してから進むのだ。隠れていた武者に襲われて怪我でもしたら、倫長も宇野瀬家も笑い者になる。五百と一万では勝って当たり前で、一矢報いた桜舘家を世の人々はほめるだろう。
「しかし入り組んだ城だな。住まう者どもの臆病さが表れておる」
豊津城の中は一本道で、右折左折を繰り返し、ぐるぐる回ってようやく次の郭への橋にたどり着く。道幅を細くし迷路のように先を見えなくして、敵がいっぺんに大勢押し寄せてこられないようにしてあるのだ。これに比べて、宇野瀬家の旭山城は五百年前に築かれた古い城なので構造が単純だ。
「本郭の建物がすぐそこに見えるのにどれだけ歩かされるのだ」
下郭と本郭は南北に隣り合っているが、間の広い水堀に橋がないため直接行くことはできない。本郭御殿の三階の指揮所が前に見えたり右や左見えたりして、全く近付いている感じがしないのだ。
「しかも、何だこの荷車や木箱は。わざと道を塞いでおるのか」
「恐らく、逃げる時に防御用の物資をばらまいたのでございましょう」
ただでさえ狭い道のあちらこちらに木の箱が散らばっている。先行した者たちが大分どけたようだが、まだかなりの数が落ちていた。
「中身は何だ」
「炭や薪や綿のようでございますな」
「あとで回収させろ。煮炊きや暖を取るのに使えるだろう」
今は椿月上旬、これからの一ヶ月ほどが一年で最も寒いのだ。国元を出てから野宿が続いていた。城を落とせば屋根の下で寝られるだろう。
そんなことを考えていると、武者頭が前を指差した。
「あの橋の向こうが中郭でございます」
角を曲がると壊れた門が見え、その先に木の橋があった。
「敵は橋を落とさなかったのか」
「はい。よほど慌てていたのでしょう。大手門と外をつなぐ橋は落としたのに、ここはそのままです。本郭と中郭を結ぶ橋も残っております」
「では、攻略は思ったより早く終わりそうだな」
少し機嫌を直して細長い橋を渡ると、目の前に瓦屋根の大きな建物があった。
「これは何だ」
「中郭御殿でございます。宴会などをする場所のようでございます」
十ヶ月前、直秋を名乗った直春が披露されて大鬼家と対決した場所だ。今は雨戸が全て閉め切られていた。
「中は無人なのか」
「はい。籠城用の物資置き場にしたらしく、炭の入った箱や木材が積み上げられているだけでございました。雨戸が隙間なく頑丈に閉じられておりましたが人はおりませんでした」
細い道は御殿をぐるりと一周していた。直春が槍を振るった中庭の横を通り過ぎると、中郭の半分を通過したことになる。南の方角から、多数の武者が叫び、弓がうなり、矢が空を切り盾に突き刺さる音が聞こえてきた。
「そろそろ本郭に渡る橋でございます」
倫長は頷き、流れ矢を警戒しながら遠くが赤くなり始めた空を見上げると、本郭御殿の三階でこちらを見つめる少年と目が合った。
「あいつが敵の軍師か。菊次郎とか言ったな」
先程から三階で城内を見回し、時々後ろを向いて指示を出していた。今、当主の直春はこの城にいないので、敵の大将は妙姫か直冬だ。だが、子どもや女に戦の指揮はとれまい。となると、実質的な大将は軍師の少年だと武虎は言った。何をするか読めないので油断するなと警告されたが、相手はまだ十六の小僧だ。倫長はもう四十四歳で戦場経験も多く、年が三分の一の相手に不覚を取るとは思えなかった。
「もうすぐそこから引きずり下ろしてやる。待っておれ!」
高いところから見下ろされていることが不快でにらみ返した時だった。真剣な顔で中郭の様子を見つめていた少年軍師が後ろを向いて大きな声で叫んだ。
「田鶴に合図を!」
途端に櫓の中で大太鼓が激しく鳴り出した。
「何だ? 何をするつもりだ?」
武虎の忠告を思い出してまわりを見回すと、中郭をぐるりと囲う高い土塀の上に一人の少女が現れた。冬だというのに、手首から先を出した七分袖の着物で、下には短い袴をはいて膝を出している。防具は一切身に付けていなかった。
その少女の足元に一匹の小猿が登ってきた。口にくわえているものを見て倫長は叫んだ。
「火矢だと?」
夕日を浴びながら、少女は小猿から先端が赤く燃える矢を受け取った。ぎりぎりと弓を引き絞り、慎重にねらいをつけてぱっと放つ。夕空に輝く軌跡を描いて矢が飛んでいった。ねらったのは中郭御殿の瓦屋根だった。
「屋根を射てどうなる」
首を傾げたが、次の瞬間蒼白になった。屋根の側面に小さな窓があり、そこへ火矢が飛び込んだ途端、その窓から激しい炎と煙が吹き出したのだ。中に燃えるものを置いて油をまいてあったに違いない。
火は見る間に建物全体を覆った。すると、耳が壊れそうな轟音がして全ての雨戸が吹き飛び、御殿の中にあった大量の炭や木材が辺りにばらまかれた。その上に火の粉が落ち、次々に燃え上がっていく。中郭の北半分が燃え盛る炎と高熱を発する炭に覆われた。
「退路を断たれました!」
武者頭の言葉で倫長は事態を理解した。中郭に攻め込んだ宇野瀬勢約二千が孤立したのだ。周囲は深い水堀で前方には敵がいる。桜舘勢は本郭からも火矢を次々に射込んできていて、道に置かれていた障害物や建物が燃え始めていた。そうしたものは、皆燃えやすい綿がかぶせられていたり油がまかれていたりし、中には炭が詰められていた。
一方、少女は猿が下から運んでくる新しい火矢を受け取って、次々に下郭に射込んでいた。聞こえてくる驚愕の悲鳴からすると、あちらも同じ状況になっているようだ。最後に、下郭と中郭を結ぶ橋の方角に矢を射ると、少女は周囲を見回し、本郭御殿の少年軍師に笑って頷いて、ひらりと屋根から飛び降りた。小猿も主人に続いた。恐らく、下の水路に仲間の舟がいるのだ。そこからはしごで塀に登ったのだろう。
「小癪な。あの女、笑っておったぞ!」
悔しさに歯ぎしりしていると、武者頭が言った。
「ここは危険です。すぐにお逃げください!」
その言葉で倫長は現実に引き戻された。敵の城のただ中で燃え盛る炎に囲まれている。火は次第に広がっていて、間もなく郭全体を覆うと思われた。しかも、あちらこちらで白い煙が激しく上がっている。恐らく、駒繋城で桜舘軍が使った煙を出す玉だ。視界が悪くなったことで混乱は一層ひどくなっていた。
「やむを得ん。脱出するか。しかし、どうすればよい」
尋ねると、武者頭は言いにくそうに進言した。
「刀を捨てて鎧を脱ぎ、塀を越えて堀を泳いで本陣へ戻りましょう」
「裸になれというのか! 今は真冬だぞ!」
武者頭は遠慮を見せつつも真顔で頷いた。
「生き延びるためには仕方ございません」
「俺は一万の軍勢の副将なのだぞ!」
叫んだが、他に方法がないことは明らかだった。矢を防げる頑丈な鎧と兜は鉄製で、合わせると子供一人分くらいの重さがある。着たまま水に飛び込めば溺れてしまう。重い刀も泳ぐには邪魔だ。
「昨年作ったばかりの特注品だというのに!」
黒漆塗りの鎧と金色の朝日の前立てを持つ兜は、当主になろうと決意した時、百万貫の主にふさわしい装いをと注文したもので大金がかかっている。刀も朧燈国の名工に打たせた逸品だった。どちらも気に入っていたので非常に惜しかったが、ためらったのは一瞬だけだった。倫長も戦狼の世の武将だ。命こそが最も大切だということをよく分かっていた。
「甲冑などまた作り直せばよい。敵の手に落ちぬように燃やしてしまえ!」
護衛の武者たちに手伝わせて思い切りよく甲冑を脱ぎ捨てると火の中に放り込み、同じく裸になった男たちに助けられて高い塀によじ登った。
倫長は薄い綿の肌着と下帯だけの姿で土塀の屋根の上に立って、本郭御殿を振り返った。
「おのれ、敵軍師め! この屈辱は忘れぬ。すぐにこの城を落とし、必ずやわしを辱めた報いをくれてやる!」
言うなり、倫長は冷たい水に頭から飛び込んだ。大宇野瀬家の連署を務める中年の武将は、落ちてくる火の粉を避けながら、数百人の裸の男たちを引き連れて、夕日の中を南国街道の方角へ平泳ぎで去っていった。
椿月八日の夕方、菊次郎は本郭御殿の三階で城内の戦闘の様子を眺めていた。
城を焼いて宇野瀬勢を撃退したあと、敵が城攻めを諦め、抑えの部隊を置いて町へ向かうのではないかと危惧した。が、城内にいるのは容易ならぬ相手と見たのか城の攻略を優先するらしい。町へ向かわせぬように敵を引き付ける役目は果たせているわけだ。
「今日で三日目か。さすがに苦しくなってきたな」
つぶやくと、そばで休んでいた直冬が反応した。
「やはり押されていますか」
分かっていることを確認する口調だった。直冬は今日五度目の城内巡回から戻ってきたところなので、戦況が厳しさを増していることをよく分かっていたらしい。
「僕に何かできることがありますか」
疲れているだろうに、直冬は立ち上がって、脱いでいた兜をかぶり直した。
「一人だけ役に立っていないようで申し訳ないんです。やれることがあればやります」
「直冬様は充分に働いてるよ。すごく頑張ってると思う」
真白にご褒美の芋をやっていた田鶴が振り向いた。可愛い弟を励ますような視線だ。
直冬はまだ十二歳なので、一人の武者としては大した戦力にならない。もし総大将が傷付いたら士気にかかわるのでさせられないと言われて、直冬は応援役を買って出た。戦っている武者たちの様子を見て回って声をかけ、水や食料を配っている。必要なものがないか尋ね、あれば同行している小荷駄隊にすぐに持ってこさせる。また、負傷した武者たちをたびたび見舞っている。
本人は戦っている実感がないようだが、まだ子供の総大将が何度も回ってきて精一杯明るい顔で一生懸命励ましてくれることは、疲れがたまっている武者たちの気力を維持するのに大いに効果があった。直冬は嘘が吐けない性格なので、本気で心配していることが伝わり、武者たちも頑張ろうという気持ちになるのだ。昼時に戻ってきた本綱と実佐はうれしそうに「きっと名将になられるでしょう」と語っていた。
「あたしも随分火矢を射たから疲れたよ」
田鶴は塀の内側に組んだ足場の上を小猿と一緒に走り回り、近付いてくるいかだに火矢を射ち込んで多数を炎上させた。馬之助と数人の隠密衆も身軽な少女にぴったりとついて行き、矢の先端の炭に火をつけて真白に渡していた。どちらも称賛されるべき働きだった。
「敵が引いていく。今日はもう終わりのようだ」
言いながら、本綱が階段を上ってきた。
「やっとですか」
菊次郎は思わず安堵の溜め息を吐いた。葦の江の向こうから天額寺の鐘の音が聞こえてくる。豊津の人々に日没が近いことを知らせて帰宅を促すものだが、町には今ほとんど人がいない。
「なんとか守り切りましたね」
「菊次郎殿のおかげだ」
言われて、首を振った。
「みんなとても頑張ってくれています。この兵力差で籠城するのは無茶だと分かっているでしょうに」
菊次郎は全体を見て、敵が引いたところの武者を休ませたり危ういところに援軍を送ったりしていた。だからこそ本綱と実佐が配下の武者を率いて休む暇なく戦っていたことを分かっていた。
「そうだな。本当によく持っている。脱走する者もいない。直冬様のお力は大きい。だが、そろそろ限界かも知れん」
「不吉なことを言うな」
そこへ、実佐が現れた。重い足取りで階段を上ってくると、抱えていた兜を放り投げるように置いた。
「わしはまだ戦える。武者たちもだ。本郭には一歩も入れていないのだ。諦めるのは早すぎる」
「まだ生きているのが奇跡のようだ。この城の構造もあるが、菊次郎殿の作戦がよかったのだ」
本綱の言葉に直冬たち三人が頷いた。
この戦いの目的は、直春たちが戻ってくるまでの数日間、敵に境川を渡らせないことだった。主力が帰還すれば、敵は城と町の制圧を一旦諦めて、決戦しようとするはずだ。
この目的を達成するため、菊次郎は妙姫たちに時間稼ぎになることは何でもするべきだと言い、二つの郭を焼くことを提案した。火が燃え盛り煙が充満していては戦いなどできない。鎮火するまで敵は城に入れなくなる。火から逃げるには水に飛び込めばよいので死傷者はさほど出ないだろうが、敵の武者たちは武器や鎧を失うはずで、補充ができずに戦列をはずれる者が出ることも期待できた。小荷駄隊が予備の鎧を持ってきているだろうが、数千となるともらえない者が出るに違いない。
実際、郭を燃やしたことで、敵は一日目の攻撃を中断して逃げ出す羽目になった。二日目は大手門前と中郭の入口の橋を修理し、郭内に散乱したがれきを撤去して通路を確保する作業でつぶれた。菊次郎たちは舟を出して、下郭や中郭に油玉や煙玉を投げ込んだり、橋の修理を妨害したりしたが、大きな戦いにはならなかった。
そうして、三日目に、本郭をめぐる戦いが始まった。敵はいかだを水路に浮かべて塀に接近し、はしごをかけてよじ登ろうとした。中郭や下郭にも大勢を配置して矢の雨を降らせた。しかも、土の俵をたくさん作って湿地に沈め、上に近くの村の家や納屋から奪ってきた戸を置いて道を作り、水際に盾を並べて矢を射かけてきた。境川のある西側以外の三方から圧倒的な数で攻撃されて、籠城軍は苦戦を強いられた。負傷者が多数出て、救護所にした本郭御殿の大広間は足の踏み場もないほどだった。
それでも守り切れたのは、本郭に全軍を集めたからだった。二つの郭を焼いたのは、たった五百では守り切れないと判断したためだ。武者の分散を避け、最も攻めにくい本郭に籠もるしかないと菊次郎は考えたのだ。
結果を見れば、その判断は正しかったと言える。たった一日とはいえ、大軍の猛攻をしのぎ切ったのだから。
いくつかの幸運はあった。まず、城にいたのが馬廻りの精鋭と蓮山本綱の直臣たちだったこと。二人は有能な武将だし、菊次郎を信頼して城を守り抜く覚悟を決めている。各守備場所には片方の集団の武者だけを当てたので、一緒に戦うのは気心が知れた仲間ばかりだった。
次に、小荷駄隊が城に集まっていたので、すぐに籠城の準備に動けたこと。天額寺の人々に障害物やしかけの設置を手伝ってもらうこともできた。
また、商人たちが炭や綿を提供してくれたこと。敵に奪われるくらいなら町を守ってくれる方々に使ってもらいたい、代金はあとでかまわないと言い、小荷駄隊だけでなく店の者まで使って城に運び込んでくれた。
武者の数が少なく籠城の予想期間が短かったので、矢を全員にたっぷり渡してけちけちせずに使えたこと。本気で戦うのは一日目の最初の方と三日目だけと決め、二日目は多くの武者を休ませたので、武者たちの疲労をある程度抑えることもできた。
「僕の力ではありません。みんなの力です。豊津の町の多くの人々にこの城は支えられているのです」
「町を守ってよかったよね?」
田鶴に菊次郎は頷いた。直冬も涙ぐんでいる。
「この経験はきっと直冬様によい影響を及ぼすだろう」
本綱の言う通りだと菊次郎も思った。
「ただし、生き延びられたらだがな」
実佐が話を戻した。
「明日も守り切れると思うか」
真剣な目で見つめられて、嘘は吐けなかった。
「無理だと思います。昼まで持つかどうか……」
「そんな!」
直冬が愕然とした顔をした。敵をようやく退けてほっとしたところに申し訳なかったが、それが現実だった。
「恐らく、戸板を並べて湿地を渡ったのは武虎の策だと思います。昼過ぎから、敵の小荷駄隊は近くの森で木を切っていました。今夜のうちに、いかだや浮き橋をたくさん作るでしょう。今日より確実に数が増えます。湿地側からもいかだが出てきたら防ぐ手が足りません。今日、負傷者は百五十を超えました。実質三百弱です。勝負にならないでしょう」
「直春さんたちが今夜中に来るかも知れないよ!」
田鶴は希望を述べたつもりのようだが、その言葉は皆の表情を暗くした。菊次郎たちが敢えて口にしなかった事実を指摘してしまったからだ。
「それはないでしょう。直春さんたちはまだ遠くにいるようです」
淡々と告げようとしたが、残念さが口ぶりに出てしまった。
「城外にいる隠密は、今日も到着の合図ののろしを上げませんでした。葦の江にすらまだ達していないのです」
「そんなはずない!」
田鶴は叫んだ。
「率いてるのは直春さんだよ! 忠賢さんもいる! あの二人が約束を破るなんてありえない。絶対すぐそこまで来てるはずだよ!」
「僕もそう思いたい。でも、のろしは上がらなかったんだ」
言うのはつらかったが、事実から目を背けてもよいことはない。敵に城を囲まれている時に根拠のない楽観的な予測にしがみ付くのは自殺行為だ。
「それに、宇野瀬家しかこの城には来なかった。やっぱり南国街道を平汲勢が封鎖しているんだ。二千五百に守りを固められたら突破するのは簡単ではないし、後ろには追ってきた押中勢一千四百がいる。合わせればこちらの主力とほぼ同数、直春さんたちでも相当苦戦するだろう。それを打ち破って到着するまでこの城が持つとは思えない」
「成安家の援軍もまだ来ないしな」
本綱が悔しげに言った。昨夜、成安家は援軍を出さないから降伏しろと書かれた矢文が多数打ち込まれた。菊次郎は武虎の策略だろうと考えている。
「じゃあ、どうするの! 逃げるの?」
菊次郎は唇を噛んだ。
「そうするしかない。もう負けは決まったんだから」
「菊次郎殿……」
本綱は首を大きく振った。その言葉は聞きたくなかったという顔だった。一方、実佐は怒っていた。
「どうやって逃げるというのだ! あれだけの負傷者をどうすればよい! 小荷駄隊も大勢いるのだぞ!」
菊次郎にもそれは分かっていたが、うまい考えなどあるはずがなかった。
「彼等は逃げるのが難しいので降伏するしかありません。開城すれば敵も殺しはしないでしょう」
「本当に?」
田鶴は疑っているようだった。
「ええ、小荷駄隊は武者ではありませんから、抵抗しなければ殺されることはありません。葦江国を支配しようと思っているなら家臣になる者たちの家族ですので保護するでしょう。負傷者も帰宅を許されたり、町へ運ばれたりするでしょう」
「僕たちはどうなるの?」
若君の問いに二人の武将は沈黙していたので、仕方なく菊次郎が答えた。
「殺されるでしょうね。もしくは、直春さんたちや妙姫様を降伏させるための人質にされます」
若君は実佐たちの顔を見て事実と知り、悲痛な表情になった。菊次郎は急いで安心させようとした。
「ですから、直冬様には夜の間に脱出してもらいます。町へ行って楠島へ逃げれば助かるでしょう。本綱さんと実佐さんは桜舘家の重臣で配下が多いですから宇野瀬家に仕官がかなうと思います。多少領地を削られるかも知れませんが殺されはしません」
「菊次郎殿も逃げた方がいい」
本綱が言った。
「君はこの戦いで敵の恨みを買っている。武虎という男もいるのだろう。ここに留まるのは危険だ」
「そうだな。直冬様と一緒に直春様のもとへ行き、助言して差し上げてほしい」
直冬が絶望的な声をもらした。
「本当に逃げるしかないのですか」
菊次郎が、はい、と答えようとした時、小猿を肩に乗せて周囲を眺めていた田鶴が急に声を上げた。
「天額寺が変だよ」
「えっ?」
菊次郎は驚いて北へ目を向けた。湖に浮かぶ小島のように見える丘の上で、寺院の広い屋根が西の海へ沈みつつある大きな太陽の光を浴びて金色に輝いていた。金色のさざ波が揺れる水面をつり鐘の深く重い音が滑っていく。
「どこが変なの?」
菊次郎には普段と変わらぬ美しい光景に思われた。あそこには今、町人や周辺の農民数千人が逃げ込んでいるはずだが、この御殿からは見えない。
「旗だよ」
田鶴は指さした。
「山門の旗」
「どうおかしいのだ」
本綱には分からないらしい。菊次郎も目を凝らしたが、四つの旗は夕日に照らされていつも通り風にたなびいている。だが、目が抜群によい田鶴にははっきり見えているらしかった。
「絵が違う。鴉がないの」
「でも四つありますよ?」
「三つ目が漁師の旗になってる。山花獣鳥だから、神雲山、桜、狼、鴉の順に並んでたよね。なのに、山、狼、漁師の旗、最後が桜なの」
「漁師の旗とは大漁旗か?」
実佐が尋ねた。
「うん、そうだと思う。魚の絵が大きく書いてある派手なやつ。他のよりちょっと大きいよ」
「確かにそうですね。僕にもそんな風に見えます」
首を前に突き出して眉を寄せながら直冬が言った。菊次郎は不思議に思った。
「どういうことだろう。和尚様が四尊の旗の順番を変えるとは思えないけど」
「寺に籠もった者たちのいたずらではないか」
今はそれどころではないという調子で本綱は言ったが、その言葉に菊次郎ははっとした。
「そうか!」
菊次郎は思わず叫んだ。
「今、あのお寺には雪姫様がいます!」
田鶴が振り向いて、直冬と顔を見合わせた。
「それがどうしたの?」
「姉上のしそうないたずらですけど、今は戦いの最中ですよ?」
二人は関係ないと思ったようだが、菊次郎は言葉に力を込めた。
「絶対に雪姫様です! あの意味は……」
こみ上げてくるうれしさにどもりそうになり、深く息を吸って説明した。
「以前、雪姫様は僕たち四人を四尊の旗にたとえていました。直春さんは神雲山、忠賢さんは狼だそうです。その時、こうも言っていました。菊次郎さんは桜で、私に似ていると。つまり、山と獣の旗が並んでいるのは、直春さんと忠賢さんが戻ってきたことを知らせてくれているのです! 桜は雪姫様からの合図という意味でしょう!」
菊次郎は耳に手を当てた。
「その証拠に、今日は鐘の音が長いです。まだ鳴りやみません。お寺の方を見てほしいからです。きっと和尚様も協力しているのです」
田鶴はうれしそうに顔を明るくしたが、首を傾げた。
「でも、漁師の旗の意味が分からないよ?」
「いるでしょう、この国には漁師以外に船に乗っている人たちが」
「楠島水軍か!」
本綱が叫んだ。
「そうです。楠島水軍が直春さんたちを発見したのです」
「まさか、姉上が?」
「きっとそうだよ! 妙姫様が水軍に探すように頼んだんだよ!」
「間違いないでしょう。南国街道は海岸沿いを走っています。そこを桜の旗を立てた軍勢が進んでいれば目立ちます。恐らく船に乗せてこちらへ向かっているのです。だから、葦の江の方に姿がないのです」
「とすると、船が目指す先は……」
「多数の船を着けて大勢を降ろすのに適しているのは、豊津の町以外にはありません。恐らく、豊津港へ向かう船団が丘の上の天額寺から見えたのです。もう到着しているかも知れません!」
「やったあ!」
直冬は両手を大きく挙げて笑った。
「さすがは雪姉様! 僕の姉上は二人共最高です!」
「ほらね。直春さんたちが約束を破るわけないじゃない」
直冬と田鶴は手を取り合って涙ぐんでいる。小猿もわけが分からぬまま喜んでいた。
「雪姫様、ご立派になられて」
本綱が目をごしごしこすった。実佐はさっきから涙を拭きもせずに、天額寺へ一心に祈りを捧げている。大鬼家の圧迫の中で妙姫に忠義を尽くしていたこの男には、感じることが多いのだろう。
「よし、そうと分かればこちらからも動きましょう」
菊次郎も目をぬぐって言った。
「手紙を書きますから、泳ぎのうまい者に川を渡らせてすぐに豊津へ届けさせてください。今夜のうちに明日の戦いの準備をしましょう」
直冬・田鶴・本綱・実佐を見回して軍師は命じた。
「さあ、反撃の始まりです! 直春さんたちと力を合わせて敵を撃退しましょう!」
「おう!」
菊次郎たち五人は満面の笑みで腕を振り上げた。
翌日、宇野瀬勢は総力を挙げて城を落としにきた。桜舘家の主力の姿が見えないため背後を襲われる心配はないと考えて、本陣に残す武者を少しにし、大部分を城攻めに投入したのだ。
菊次郎の予想通り、宇野瀬勢は湿地になっている東側と南側から、組み立てたいかだを水に浮かべて本郭に迫ってきた。また、また境川から下郭と本郭の間の堀に入り、その奥にある本郭の舟の出入り口へ攻撃をしかけてきた。下郭と中郭では塀の内側に足場を築き、上郭の中へ矢を浴びせてくる。桜舘軍の戦闘可能な武者の減少もあって、飛び交う矢は十対一という有様で、本郭はすぐに陥落すると思われた。
倫長は一日目の雪辱を果たすべく、再び中郭へ乗り込んでいた。長賀は三日前のことがあるので危険だと止めたが、倫長は臆病者めと内心で嘲笑い、戦場に出てきた。一方、武虎は止めなかった。願空の腹心なので、流れ矢にでも当たって死んでくれれば都合がよいと考えているのだろう。
もちろん倫長に死ぬつもりはなかった。十分な勝算があったのだ。実は、昨夜倫長の陣に敵の武者が駆け込み、城内の蓮山本綱という家老の密書を差し出した。その手紙には、もう勝つのは無理そうだから投降したい、明日攻めてきた時に内側から門を開けると書かれていた。
罠ではないかと言う者もいたが、倫長はこれを信じた。明日の落城は確実なので内応はありそうな話だったし、少数の敵が多少策略をめぐらせたところで大したことはできない。倫長は長賀には知らせず、自ら部隊を率いて突入の指揮をとることにした。
勇気を示して武者たちの支持を得ておくことは、当主になるために必要だ。裸で逃げ帰ってみっともない姿をさらしてしまったので、自分の手で勝利を決定付けてその印象を消したいのもあった。
倫長は敢えて先頭の部隊のそばへ行き、飛んでくる矢を気にせずに本郭との間の橋に近付いた。武者たちは奮い立ち、激しく門周辺へ矢を射込み、石を投げ込んだ。倫長の前で手柄を立てれば加増は間違いないので、皆自分の勇戦ぶりを誇示したがった。
手紙には笛や鈴で大きな音を立てるのが開門の合図だと書いてあった。まだかまだかと待っていると、やがてそれらしい大きな音が城の内側から聞こえてきた。
「よし、門が開いたら一気に橋を渡って中へ突っ込め! かまわん、皆殺しにしろ!」
家老を助けたら内通していたことが分かってしまう。自分の働きで落城させた方が大きな手柄になる。
やがて門の内側で騒ぎが起こり、閂が抜かれる音がした。弓担当の武者は突撃を援護しようと矢を一層増やした。一方、門の内側から飛んでくる矢の数は目に見えて減ってきた。盾隊が前進し、武者たちが次々に橋を渡って門の前の狭い広場へ進出していく。
「これで終わったな。俺をこけにしてくれた敵軍師の小僧を捕まえて、この手で首をねじ切ってやる!」
体格の似ている家老から借り受けた鎧は古びていてあちらこちらに修繕した跡があった。とても一万の副将の着るものではないと不満だったが、それだけ使い続けているなら身を守る道具として信頼できるし神の加護があるのかも知れないと自分を納得させた。
「家宝らしいから、あまり傷付けずに返さねばならぬな」
倫長はすらりと刀を抜いた。矢の飛んでくる中、堂々と橋を渡っていく。
「お前たち、のろのろしていると、俺が一番乗りしてやるぞ!」
武者たちを笑わせて、自分もにやりとした時、後方で大きな鬨の声と悲鳴が上がった。
「て、敵の新手だ! 南国街道を下ってくるぞ!」
「何だと!」
立ち止まって振り返ったところへ、走ってきた伝令の武者が橋のたもとで叫んだ。
「御屋形様のご本陣が襲われております! 敵の数は約三千。旗印は桜です。敵の本隊が戻ってきたものと思われます!」
「そんなばかな! いつの間に裏へ回ったのだ? まさか、平汲家め、敵を素通りさせたのか?」
わけが分からず頭が混乱した倫長を、武者をかき分けて現れた次の伝令が打ちのめした。
「本陣を突破した敵の騎馬隊がこの城へ突入しました。現在下郭をものすごい勢いで進んでここへ向かっております! このままでは我々は退路を失い全滅致します!」
騎馬隊を率いる二十台前半の武将は、見事な槍さばきで立ち塞がる者たちを突き崩しているらしい。配下の武者たちも息が合って助け合い、たった三百なのに途中の部隊を蹴散らしつつ突っ込んでくるそうだ。その後ろには徒武者一千ほどが続き、大手門から次々に城に入っているという。
「倫長様、撤退致しましょう」
三日前城内を案内した武者頭が言った。彼も借りた鎧だ。
「ここにいては命がありません」
その視線は前方の門を見ていた。三日間破ることができなかった分厚い木の扉がゆっくりと開こうとしている。中から聞こえる馬や武者の声は、五百を大きく上回ると思われた。
「増援が来ていたのか! やむを得ん、逃げるぞ。で、その方法は?」
倫長が尋ねると、武者頭は情けない顔で告げた。
「もうご存知でございましょう」
「脱げと言うのか!」
武者頭は頷いた。
「泳ぐことになりますゆえ」
怒りと恥ずかしさで顔を真っ赤にした倫長は、天を仰いで呪いの声を上げた。
「おのれ、敵軍師め! 二度もこのわしに恥をかかせるとは! 決して許さぬぞ! 必ずこの手で殺してやる!」
叫ぶと、大声で命じた。
「全員、裸になれ!」
言うなり勢いよく鎧を脱ぎ捨てた。
「すまぬ。新しいのを買って返すから許してくれ!」
鎧と兜を水堀に投げ込むと、肌着と下帯姿の一万人の副将は、頭から水に飛び込んだ。二千余りの水音がそれに続いた。




